Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第二章 長い夜 (3)




 その夜、しんと静まりかえった部屋の中、ステラと僕はクリスの手を片方ずつ握り、じっと我が子の様子を見守っていた。いくぶん呼吸が楽になったようで、深く長い息遣いになっている。ベッドにかかったオレンジ色の毛布と掛け布団が、呼吸のリズムに合わせて、かすかに動いている。静かに夜が更けていき、時計は午前四時になった。
 僕は息子の微妙な変化に気が付いた。熱かった手から、すうっと熱が引いていく。呼吸の間隔が次第に長くなり、やがてゆっくりと長い息を吸い込み、吐き出した。次の息は、もう聞こえなかった。寝具が動かなくなり、僕の手を軽く握っていたクリスの手から、力が抜けていくのが感じられた。
 その一瞬、僕は自分の全身の血も止まったような気がした。何も考えられない。頭の中が真っ白になっていく。
「クリスーー!!」
 僕は思わず絶叫していた。毛布をはねのけ、我が子を抱きしめる。その胸に手を当ててみた。もはや鼓動は伝わってこない。耳をつけても、何も聞こえない、底知れない深淵のような、絶対的な静寂。僕の心も、その深い暗闇に吸い込まれそうな気がした。
 ステラがものすごい力で僕をはねのけ、クリスを奪いとった。動かなくなった我が子を揺すぶり、夢中で叫んでいる。
「いやよ、いやよ! 坊や、もう一度目をあけて! ママに何か言って! お願いよー!」
 妻の絶叫は、号泣に崩れていった。
 まもなく父がやってきた。騒ぎに目をさました部屋の誰かが、呼びにいってくれたらしい。父はステラを宥めながら静かにクリスを抱き取り、再びベッドに寝かせた。簡単な診察のあと、頭を垂れて時計を見ている。
「かわいそうなことだったな……」父は静かな口調で僕らに告げた。
「私も残念だ。いい子だったのに……でも、クリスは楽になったよ。きっと天国で幸せにしているだろう」
「嘘だ!」僕は再び息子を抱きしめ、思わずそう叫んでいた。
「まだこんなに暖かいのに! クリスは本当にいい子だったよ。こんないい子を僕らから奪い去るほど、神さまが残酷なことをするもんか!」
 父は何も言わなかった。ただ黙って、僕の背をぽんぽんと叩いただけだ。その中に無言の同情を感じ、僕は反逆していた感情をやっと落ち着かせた。憤りとショックが納まると、洪水のように悲しみが押し寄せてきた。僕はただひたすら泣いた。涙がベッドの上に大きなしみを作るまで。出来ることなら何もかも打ち捨てて、大声で泣き続けたかった。だが取り乱している妻のために、僕まで我を忘れることは出来ない。
 やがて僕は辛くも気持ちを支え、涙が流れるにまかせながら、我が子の姿を見た。ベッドの上のクリスは、楽しそうな笑みを浮かべている。この上なく穏やかで安らかな顔をして、まるで楽しい夢を見ながら眠っているかのようだ。その姿に、悲しいながらも慰めを感じた。クリスは今、幸せなのだ。苦しみからも飢餓からも寒さからも解放されて、暖かな日の光があふれる彼方の国で、先に逝った遊び友達と一緒に、楽しく過ごしているのだろう。
 僕は息子の亡くなった日を記録するため、時計のカレンダーを見た。二〇二二年三月十三日――僕の二九回目の誕生日は同時に、最愛の息子を失った嘆きの日になった。発病してから六日目――僕は深くため息をついた。再び涙があふれてきた。

 その日の午後、息子の亡骸は別室へ移された。そこはアイスキャッスルの広大な地下倉庫のひとつで、かつて食料や備品が詰められていたところだ。避難生活が長くなるにつれ、徐々に消耗品は減っていき、倉庫にはかなり空きスペースが出来ていた。その空になった倉庫の一室が、仮の霊安室として使われることになった。二月と三月あわせて千人以上の犠牲者が出ていたが、今の状況では埋葬してやることが出来ない。この外気温では、外へ出ることは不可能だからだ。それにこのあたりは一面ツンドラなので、仮に埋葬を試みても、掘るのも難しいだろう。それゆえ犠牲者たちは、ここに寝かされていた。暖房設備のないこの部屋の気温は、常にマイナス十度かそれ以下なので、冷凍庫の中に入ったようなものだ。床の上ではあまりに忍びないので、空いたベッドやソファ、時にはいすや机が運び込まれ、彼らはその上で、毛布に覆われて眠っている。枕元には、その人の名前と生年月日、出身地と没日、享年が記された厚紙を、立てかけておいた。
 僕らのグループのもある。子供たちは小さいので、一つのベッドに、二、三人が並んで寝かされている。毛布の膨らみの小ささが、哀れで悲しい。涙があふれてきて止まらない。
 僕は息子の上に毛布をかける前に、長い間その無邪気で安らかな顔を見つめていた。そして、低い声で祈りを唱えた。何度も何度も――幼い魂の安息を願って。さらにこう付け足した。たった八年と半年の生命しか与えてやれなかったわが子に、今一度幸福な人生を与えたまえ。未来の平和な国で幸せな子供として生まれ、人生の深い喜びやちょっぴり苦悩を知り、充実した一生を送れますようにと。輪廻転生とは、キリスト教徒には異端的な考えだ。でも、切にそう願わずにはいられなかった。天国での永遠の幸せ――それを願うより、現実的な救いがあるように思えた。僕は傍らにひざまずき、祈っていた。肌を刺すような冷たい空気も忘れ、時間も忘れてひたすら祈った。
 長い、長い時間のあと、僕はついに立ち上がり、まだベッドにすがって泣いている妻の肩に触れた。その肩は痛々しく痩せて激しく震え、切ないほどだ。
「ステラ……そろそろ行こう」
「いやよ!」激しく首を振りながら、彼女は手を払いのけた。
「わたしは、ここにいるわ! 可愛い坊やを、こんなところに一人ぼっちにするなんて出来ない!」
「クリスは一人ぼっちじゃないよ。ここには友達もたくさんいるし、魂の方はもっと多くの人に会っているはずだよ。あの子は天国で幸せなんだ」
「でもあの子はまだ、たったの八つなのよ。まだ母親が恋しい年なのよ!」
「ステラ、気持ちはわかるけれど、ここは寒すぎるよ。あまり長くいたら、君まで病気になってしまう」
「わたしなんて……わたしなんて、病気になったってかまわないわ! そうすれば、わたしもクリスのところへ行けるもの!」
「馬鹿なことを言うんじゃない!」
 僕は妻の両肩をつかみ、激しくその身体を揺さぶった。
「自棄を起こしちゃいけないよ、ステラ。そんなことをしたって、クリスが喜ぶはずがないじゃないか!」
「だって、ジャスティン……」
 ステラは目を潤ませて、僕を見上げた。その瞳の中には、激しい苦悶と嘆きだけが宿っている。たった一人の、最愛のわが子を奪われた母の嘆きが。僕も父親として、わが子の死は最大級のショックであり、悲しみだ。でも女性の心には、その痛みがより生々しくつらいのかもしれない。彼女たちは身をもってわが子の生命を贖い、より近くでその成長を見守ってきている。子供を奪い去られるということは、我が身から血肉を引き離されるより、もっとつらいことなのだと。
 僕は黙って妻を強く抱きしめた。もともとは決して華奢ではなかったその身体が、今や折れそうなほど痩せてしまって、腕の中で震えている。切なさの感情が襲ってきた。ステラを守ってやらなければ。クリスは僕らの手から奪い去られてしまったけれど、それでも妻が生きていかれるように、希望を持って生活していかれるように、僕が守らなければ。内側から、力が湧き起こるのを感じた。
「ステラ……つらいだろうけれど……君は生きてくれ。僕のためにも」
 抱きしめる手に一層力をこめながら、僕は言葉を絞りだした。
「君までいなくなったら、僕も生きていられないよ。好きなだけ泣いていいから……ほかには何もしなくていいから……生きることをあきらめないでくれ、お願いだ。僕はそのためなら、何だってするよ」
「ジャスティン……」
 ステラは僕の胸にすがり激しく泣いた。僕は無言で彼女を抱きしめ、髪を撫でていた。
 ひとしきり時が流れ、彼女の嘆きが納まった頃合いを見て、僕はもう一度促した。
「行こう、ステラ……」
 妻は黙って頷き、僕にひっぱられるようにして、のろのろと部屋を出ていった。背後でドアを閉めた時、再び彼女は泣き崩れた。自分たちの部屋に帰りつくまで、ずっと歩きながら泣いている。
 部屋へ帰り、ステラをベッドに休ませてから、僕は息子の荷物を整理した。悲しみを新たにするから、妻にはさせられない仕事だ。青いスポーツバッグの中に、亡き子が着ていた服を入れていく。セーター、下着、シャツ、ジャンパー、ズボン。寸法の小ささが、僕の胸を突き刺す。これを着ていた時の息子の姿が、脳裏に蘇ってくる。涙がセーターを濡らし、シャツを濡らした。玩具、本――お気にいりだった品物。まるでクリスの思いがまだ残っているようで、つめ込む手が震える。すべての荷物をしまい、ファスナーを閉めると、僕はもう一度立ち上がった。
 再び地下へおり、わが子の眠るベッドの下に、そのバッグを置いた。毛布を取り除けてもう一度顔を見たいという思いが、こらえきれなくなった。僕は冷たくなった息子の頬に、最後のキスをした。
「さようなら、クリス……おまえは立派だったよ。パパはおまえを、いつまでも誇りに思うよ。天国で幸せに暮らしておくれ。そしてもう一度、幸せな子供に生まれておいで。今度は長生きするんだぞ……」
 涙が息子の髪を濡らした。身を引き裂かれるような思いで毛布をもう一度かぶせ、部屋を出た。心にあいた大きな空洞は、喪失の悲しみは、これからも埋められることはないだろう。でも僕は妻のために、強くならなければ。
 暗い廊下に反響する自分の足音を聞きながら、強く唇を噛んだ。悲しみも涙も止められない。でも僕は生きなければ。

 空虚な日々がすぎていった。三月も半ばを過ぎ、長い夜が明けるはずの時期になっても、空はまだ暗い。寒さのピークは二月に過ぎたようで、いくぶん気温だけは上がってきていた。室内でも氷点下ということは、もうない。だが五人の元気な子供たちがいなくなった今では、部屋はますます寒々しく思えた。十日ほど前に八才の誕生日を迎えたロザモンドも、クリスが死んでたった一人の子供になってしまってから、ひどく淋しそうにしている。冬の間よりは部屋の照明もいくぶん明るくなったので、彼女は本を読んだり、絵を描いたり、人形と遊んだりしていたが、ある日ついに乱暴な動作で絵本を放り出すと、声を上げて叫んだ。
「つまんない! あたし、このお話、もう覚えちゃたわ。他の絵本もみんな!」
「癇癪を起こしちゃだめよ、ロージィ。ご本を拾いなさい」
 アデレードが困惑した微笑を浮かべて、娘を宥めている。
「やだ!」ロザモンドは金髪の巻き毛を振りながら、強い口調でそう答えた。
「つまんないんだもん、みんな死んじゃって、あたしだけなんて。淋しいの。もうみんなと一緒に遊べないんだもん。一人じゃ、何をやってもおもしろくないわ」
「気持ちは良くわかるわよ。でも、あなたは生きていられるんだから……」
「あたしも死んじゃいたい!」
「ロザモンド!」エアリィがいつになく厳しい声で、娘を諌めた。
「そういうことを言っちゃだめだ! みんなが死んでどんなに悲しかったか、おまえだって知ってるじゃないか」
「わかってるもん! でも、あたしやっぱり淋しいの!」
「無理もないわ。妹もお友達も、みんな目の前で次々といなくなるんですものね……」
 アデレードが半分涙声になって娘を弁護している。
「それはわかってる。だけどね、それでみんなが帰ってくるわけじゃないんだから」
「過ぎたことはあきらめて、前を向いて進めって? そうね、あなたはそういう考え方の出来る人よ、エアリィ。でもあなたに出来たことが、自分の子供にも出来るはずだと思うのは無理よ。みんなが強いわけじゃないわ」
「それは僕だって、わかってる。ただロザモンドに、生きることを怨ませたくないんだ。それにかわいそうだからって、それだけじゃ、なんにも解決にはならないし」
「あなたの言うことは、たしかに正論よ。でも少し冷静すぎやしないこと? それはあくまで普通の状態でいてこそだわ。こんな異常な環境では無理よ」
「正常も異常も関係ないよ。どこにいたって、僕たちは生きてる。とりあえずは、小さな共同体になってる。こんな状態だからこそ、前向きな力が必要なんだと思う。異常な状態だから、悲劇の中にいるからって、流されていいわけじゃない。自分は強くなれないなんて、あきらめて欲しくないんだ。そうしなきゃ、この状況は乗り切れないんだから」
「……『強くなければ、生きていかれない』ってことね」
 アデレードはしばらく黙った後、少しかすれた声で呟いた。
「わかっているの。わかってはいるんだけれど……」
「あと、もう一つあった。『優しくなれなければ、生きて行くに値しない』ってさ」
 エアリィもふっと小さなため息をついて、そう付け足した。
「この中じゃ、ほんとにその通りかな。それに愛を失わず、常に希望を持って前に進んでいけたら……なんか思いっきり陳腐な言葉だけど、ここにいるみんな一人一人がその気持ちを持ち続けてくれたら、これからの未来はもっと良くなるんじゃないかな。難しいことだってのは、よくわかってるつもりだけど。人間の心って、強さと弱さが同居してるから。けど、みんなが悲劇の中から立ち上がっていくヒーローやヒロインになれたらなって思うんだ。そしたら、またこの世界も輝き始めるんじゃないかって」
「あたし、ヒロインになるわ」
 突然ロザモンドがすくっと立ち上がり、まじめくさった顔でそう宣言した。
「わがまま言って、ごめんね。ママ、パミィ。でも寂しくて、退屈だったんだもん。でもあたし、これからは悲しくてもつらくても耐えるの。シンデレラみたいに」
「おー、すごいな、ロージィ。立派だ。残念ながらここには魔法使いはいないし、白馬に乗った王子さまが現れるとしても、だいぶ先のことだろうけど」
 エアリィは微かに笑いながら、娘の頭をぽんと叩いた。
「けど、おまえが癇癪起こした気持ちもわかるよ。おまえは、あまり一人遊びが得意じゃないんだ。外で飛び回るのが好きだったし、ティアラも、友達もいたからね」
「うん、そうなの。でも、どうすれば一人でうちの中にいても、楽しくなれるの?」
「無理に楽しく過ごそうとは思わなくって、いいんじゃないかな。そういう時期もあるから。怒ってもいい。つまんないと思ってもいい。ヒロインになろうと、頑張りすぎなくてもいい。そういうのを乗り越えて、今を生きていくのが、おまえにとって一番大事なことだと思うんだ、ロージィ。僕がおまえを叱ったのは、おまえがかんしゃくを起こしたからじゃない。死んじゃいたいって言ったからだ。僕たちは、おまえに生きてほしいと願ってる。生きて……生き抜けて、新しい世界で大人になってくれたら……」
「パミィ……泣いてるの……?」
 娘は少し驚いたように見上げている。
「うん。ごめん……ちょっと泣き虫になったみたいだ。恥ずかしいね。でもロージィ、もう二度と死んじゃいたいなんて言わないでほしい。おまえがヒロインになってくれるって言うなら……そう、今は強い心を持って、生きていってほしいんだ」
「うん……あたし、もう二度とそんなこと言わない。楽しくなくても、耐える」
 ロザモンドは真剣な表情で、決然とした様子で頷いた。
「ありがとう……じゃあ、ロージィ。まず学校の勉強をやってみないか?」
「お勉強?」
 娘の方は、父親の提案にあまり気乗りがしないように、問い返している。
「ああ。まずはそこからやってみよう。小学校三年生の勉強から。ある程度持ってきているだろうし、ここの本屋にもドリルとかあったから。まあ、僕が教えられたらいいんだけど……」エアリィはそう言いかけ、
「あなたは無理でしょう? あなたは見て覚えて理解して、が瞬間に同時にできるから、人がなぜわからないのか、わからないのよね。だから、教えられない。あなたが唯一出来ないことよね。わたしが教えるわ」アデレードが肩をすくめて、微かに笑っていた。
「あたしもパミィみたいに、なんでもすぐに覚えられたら、いいんだけどなぁ。そこ似てくれなくて、残念よ。そうしたら、お勉強しなくてすむのに」と、ロザモンドも首を傾げ、ちょっと不満げな様子で言っている。
「おまえがあまり勉強好きじゃないのは、知ってるよ。まあ、僕も好きとは言えないけどね」エアリィは苦笑して、娘を見ながら首を振り、
「パミィもお勉強嫌いなの? だって、すごくできるのに?」と、娘は驚いたようだった。
「ん、だからまあ、退屈しのぎだったりするんだよね、僕の場合。おまえの場合も、そうだね、ロージィ。勉強したり、今まで読んだことのない本を読んだりしてれば、とりあえず時間はたつ。あと……そうだ。少し僕らの仕事も手伝ってみないかい?」
「パミィのお仕事のお手伝いって、ほかの人たちとお話したり、食べ物を配ったりすること?」
「そうだけど、他の人たちと会ったりするのは、今の状況とおまえの体力だと、風邪をもらったりする心配がありそうだから、冬の間はやめといた方がいいかな。そうだ。食事の用意を手伝ってくれないかな。数を数えて、箱に入れるだけの簡単な仕事だ」
「うん。やる!」
 ロザモンドは即座に頷いた。そして少しそれよりは熱意がなさげな様子で、「お勉強もやるわ」と付け足していた。
「OK! じゃ、そうしよう。僕も後で倉庫に行って、おまえが読めそうな新しい本を探してみるよ」エアリィは笑って、娘の頭をぽんと小さく叩いていた。
 その日から、ロザモンドは僕たちの手伝いをはじめた。グループごとにまとめた箱に、「一、二、三……」と数を数えながら、食事のパックを入れていったり、リビング部のテーブルにドリルを広げて、学校の勉強も始めたりと、健気に奮闘する姿はかわいらしくも切ない。妹もお友達もみんないなくなってしまって一人になった小さな女の子が、生きていく意味を見いだそうとして、懸命になっている。なんと健気で強い精神なのだろう――そう思わずにはいられない。亡き一人息子が最後まで気遣っていた大好きな友達が、せめて一人だけでも冬を生き延びてくれればと、切にそう願わずにはいられなかった。ロザモンドがこの冬を乗り越え、そしてセーラのお腹の赤ちゃんが夏、無事に生まれてくれれば――それも、この長い冬に、たぶん誰もが祈り続けた願いだっただろう。

 去年の暮れに妊娠がわかってから、セーラとロビンは長い冬の間、厳しい寒さからひなを守る親鳥のように、ただひたすらお腹の赤ちゃんを気遣って、過ごしてきたようだった。毛布を幾重にも腰から下に巻き、冷やさないように無理をしないように、できるだけ横になって休み、食べ物も出来るだけとって、栄養を不足させないよう、偏らせないよう――そんな懸命の努力のおかげなのだろう。セーラは初期の不安定期を乗り越え、妊娠中期に入っていた。お腹の膨らみも、いくぶん目立つようになっている。そのお腹を大事そうにさすりながら座っている彼女の顔は、希望であふれんばかりだ。夏までもってくれれば、新しい生命が誕生する。失われた子供たちは帰ってこないけれど、生命は続いていける。この小さな赤ん坊は、僕らみなの希望でもあった。
「良かったわね、ここまで来て。もう安定期ですものね。赤ちゃん、よく動いてるでしょう?」ある日アデレードが、優しい口調でそう問いかけていた。
「いいえ。まだ動かないわ」
 セーラはお腹をさすりながら、かすかに首を振っている。
「今、何ヵ月だったかしら?」パメラがそうきいた。
「もう、そろそろ七ヵ月よ」
「そう……」
 その後バスルームから、パメラとアデレードが小声で話しているのが聞こえてきた。
「七ヵ月近くにもなって胎動がないのは、少し変ではないかしら?」
 パメラが声を潜めるように、そう言っている。
「人によっては、感じにくいって話も聞くけれど……」
 アデレードは少しためらうような口調で、そう答えていた。
「相当太っている人なら、そうかもね。でも、彼女は違うし」
「たしかに、少し心配ね。月のわりには、お腹もそれほど大きくないようだし」
「心音は先月聞いたと言っていたけれど、今月はどうなのかしら」
「今月の検診はまだじゃない?」
「ああ、そうだったわね。来週だわ。それじゃ、その時になったら、わかるわね」
「そうね。取り越し苦労だったら、本当にいいけれど……」
 僕は偶然その話を耳にし、不安が忍び寄るのを感じた。二度のお産経験のある彼女たちだから、そういうことには詳しいのだろう。懸念が間違いであってくれればいいが。

 でも不幸にして、彼女たちの心配は当たっていた。それから二日後、夕食が終わってみんなで話をしている時、セーラが急に意識を失って倒れたのだ。その日は朝から元気がなく、食事もほとんど手をつけていないので、心配していた矢先だった。床に転げ落ちた彼女をあわてて抱き抱えたロビンは、小さな悲鳴を上げた。
「すごく熱い!」
「熱があるんだな」
 僕は駆け寄った。その身体はたしかに、ひどく熱く感じた。
「セーラさんをベッドに寝かそう。ロビン、手を貸してくれ」
 僕は彼女をベッドに寝かせた後、父を呼びに隣室へ行った。
 やってきた父はセーラをしばらく診察したあと、顔を上げた。
「少し内診も必要だが……かまわないか?」
 ロビンは無言で、唇まで青ざめながら頷いた。パメラとアデレード、それにレオナがベッドカバーを持って、目隠しを作った。父はしばらくその中に屈みこんでいたが、やがて頭を上げ、診断を下した。
「詳しいことは血液検査をしてみないと断言は出来ないが、おそらく敗血症だ」
「敗血症?」
 ロビンはぽかんとした表情で、父を見上げた。その病名が良くわからないらしい。
「重い感染症だ。細菌が全身に回って、命取りになる」
「え?」ロビンは一瞬で真っ青になった。
 マヒしたような沈黙に落ち込んでしまった彼にかわって、僕はきいた。
「でも、なぜセーラさんがそんな病気に? お腹の子供に何かまずいことがあったの?」
 父は重苦しい表情で首を振った。
「子供はもう死んでいる。聴診器でいくら探しても心搏は拾えないし、触診してみたところ、子宮口から少量の血膿が出てきた。この時期の胎児死亡の原因は、胎児の先天的な異常だったのか、子宮内環境の悪化のせいか、他の要因なのか、それは調べてみないとわからないが、ここではたぶん無理だろう。だが、この環境が祟っているのは、間違いない。一般グループでも、妊娠しても流産になってしまい、中期の安定期まで持たないのだ。二、三人だけはそれを乗り越えたが、やはり中期で胎児死亡になってしまった。そして、母親も命を落としている。やはり敗血症で……死んだ胎児から細菌感染を起こして、全身に回ったのだろう」
「そんな……」僕は言葉を失った。あれほど待ち望んだ生命なのに。
「セーラは……妻は……小父さん、セーラは助かるよね!」
 ロビンは父にとりすがった。半分泣き声になっている。父はそんな彼を同情と苦悩に満ちた眼差しで見下ろし、静かにその腕を叩いた。
「さっきも言ったように、一般グループでも、中期で胎児死亡になった母親は命を落としている。セーラさんも、厳しいだろうと思う。こういう場合、最善の処置は、出来るだけ早く胎児を母体の外へ出し、抗生物質を大量に投与することだ。だが、ここに産婦人科の設備はない。不幸なことにね。掻爬の道具もなければ、人工的にお産をさせる誘発剤もない。さらに抗生物質もないんだ。有効な手は何も打てないんだよ。もし間に合ううちに陣痛が起きて、自力で胎児を外に出すことが出来れば、まだ少しは希望があるが、それでも予後は難しい。そして今は、その間に合う時期は過ぎてしまった。もう時間の問題だ。あと二日もてば、良いほうだと思う」
 この残酷な宣告を聞いて、ロビンはよろよろとあとずさり、頭を抱えて悲鳴を上げた。それは、聞くものの身をも引き裂くような苦悶の叫びだった。
「父さん! もう少し他に言い方があるだろう!」
 僕は思わず父に詰め寄った。
「嘘をつけというのか、ジャスティン? 無駄な希望をもたせろと? その方がかえって残酷だと私は思う。事実を受けとめて、乗り越えなければ」
 父は断固とした表情で首を振った後、ため息をついて頭に手をやっていた。
「しかし……ここへ来て私は医師としての無力を、痛感している。絶望の宣告なぞ、私だって、したくはないのだ」
 僕はそれ以上、何も言えなかった。セーラのベッドのそばにひざまずき、狂ったように泣いている親友を、ただじっと見ているだけだ。慰めの言葉も言えそうにない。あんなに待ち望んでいた生命なのに――神さまは何という残酷なことをなさるのか。そんな思いが胸に巣くっている。それは試練の長い冬を通りすぎていく間に、何回となく感じた思いだ。

 父の見通しはまちがっていなかった。翌々日の夕方、セーラは眠るように静かに息を引き取った。その間高熱のために意識が混濁し、さかんにうわごとを繰り返していた。
「赤ちゃん……わたしの赤ちゃん……」彼女はそう言い続け、
「セーラ、赤ちゃんはだいじょうぶだよ」
 ロビンはそんな気休めの嘘をつき、妻の手を握りしめる。たぶんそのたびに、彼は胸が張り裂けそうな思いをしているのだろう。それが二日間、幾度となく繰り返された。
 二日目の午後四時ごろだった。セーラはふいっと目を開けて満面に微笑を浮かべ、こんなことを言った。
「ねえ、ロビン……見て、見て。わたしたちの赤ちゃんよ。かわいいでしょう」
 彼女は両手を差し伸べた。熱に浮かされ、幸せな幻覚を見ていたのだろうか――? 
 ロビンは泣いてしまって、しばらくは対応できなかったようだ。だがそれから、彼は一世一代の勇気を振り絞るように、妻の両手を取って笑いかけた。
「うん、セーラ。君にそっくりだよ。かわいい赤ちゃんだ……」
 その声は明らかに震えていた。
「うれしい……」
 満足そうな微笑みが広がった。そして彼女は目を閉じた。
 数分後、ベッドのシーツからどす黒い血が、ぽたりと床に垂れた。ロビンは毛布と布団を取り除けると、悲鳴を上げた。シーツは血まみれになっていた。やってきた父は女性たちに再びベッドカバーで目隠しを作らせてから、「ジャスティン、ロビンくん、手伝ってくれ。胎児が外に出るかもしれない。ロビンくんは奥さんの下着を取ってやってくれ。ジャスティン、わかるか? 分娩体位だ」と、緊迫した声で言った。ロビンが震える手で真っ赤に染まった下着をとりのけた後、僕はできるだけ患部を見ないようにしながら、足を持ち上げて体勢を作った。数分後、十数センチほどの赤黒い塊がシーツの上に落ちた。それは異臭を放ち、もはや原形をとどめていない。
 父はそれを両手ですくい上げ、「誰か密閉容器は持ってないか?」と聞いた。パメラが荷物の中から、四角い形の、白い密閉容器を探し出してきた。おそらくアイスキャッスルに来た時、手製のお菓子か何かを、それに入れて持ってきたのだろう。父は手にしたものを、料理を保存しておくその容器に入れ、蓋を閉めた。そして後産を始末した後、その容器をそっとセーラの胸の上に置いた。「女の子だ」と言いながら。両手が動いて、彼女はそれを抱きかかえるような仕草を見せた。意識は戻らなかったが、その顔に再び笑みが浮かんだ。
 それから三十分もしないうちに、セーラは息を引き取った。静かな臨終――呼吸が止まり、鼓動が止まる。それでも彼女はなお笑みを浮かべたまま、プラスティックの密閉容器に入ったわが子を、胸に抱いていた。
「セーラ!」
 その時、ロビンが発した言葉はそれだけだった。だが、それは何と言う苦痛と悲しみ、そして絶望の響きに満ちた声だったことか。
 父が臨終を宣告したあと、ロビンは子供の入った容器もろとも、妻の身体を掻き抱いた。長い間、そのままぴくりとも動かなかった。彼女とその子供を地下の霊安室へ連れていく時間になっても、まだ彼はそのままの状態だった。
「ロビン、セーラさんを霊安室に……」
 僕がそう言いかけると、「嫌だ!」と激しく首を振る。
「ここに置いておくわけにはいかないぞ。彼女のためにも」僕は強く言った。
「じゃあ、僕はあそこに残る」彼は決然として、そう言い張る。
 実際、地下に彼女の身体を運んで安置した後、僕らはロビンを連れ戻すために、四人がかりで引っ張らなければならないほどだった。
 妻と生まれてくるはずの子供を同時に失ったロビンの悲しみは、どんな同情の言葉も慰めも受け付けないほど、大きかったのだろう。その翌日いっぱい、ほとんど虚脱状態に陥ってしまったほどだ。話しかけてもまったく聞こえないように虚ろに宙を見つめていて、三度の食事も、まったく手をつけない。いくら食べるように勧めても首を振るばかりで、かつて妻と寝ていたベッドに終日腰をかけ、何も目に入らないような状態だ。
「今は何を言っても無理だな」
 ジョージがついに匙を投げたように言い、首を振った。
「もともと、あいつはショックから立ち直るのに時間がかかるんだ。しばらくそっとしておくしかないようだな」
「そうだね。でもあまりこんな状態が続いたら、あいつまで身体を壊すんじゃないかな。それが心配だよ……」
 僕はそう言いかけた。そのとたんロビンはぱっと顔を上げ、激しく頭を振って叫んだ。
「僕も一緒に死んじゃいたいよ! そのほうが、よっぽど幸せだよ!」
 それから一頻り激しく泣きじゃくり、それが納まるとまた虚脱状態に返る。翌日からは少しずつ食べるようにはなったが、数日間虚脱状態は続いた。
 セーラは生涯の恋人だ。これほどの女性には、もう二度とめぐり合えない――セーラに二度目のプロポーズをする時、ロビンはそう悟ったという。彼女はロビンの生涯の愛だった。それをこんな形で失ってしまったのだから、彼の受けたショックの大きさは、僕にも理解できる。二人にとって不幸だったのは、よりにもよってこんな時期に、子供が出来てしまったことなのだろうか。結婚して以来四年以上もずっと待ち望んでいた子供が、彼女の命取りになるとは。なんという皮肉、そして残酷なことだろう。
 一昨年の暮れ、ステラが言っていたことを思い出した。
『セーラもすごく子供を欲しがっていて、でもなかなか出来ないから、お医者さんへ行ったんですって。それでやっぱり少し問題があって、今、治療しているって話よ』
 そのつらい治療を耐えた努力が実を結び――最後には仇になった。苛酷な環境――あまりにも苛酷すぎる、長い冬の中で。冬は生命を奪い去る。無慈悲にためらいもなく。僕たちは冬に奪われた犠牲者たちのために祈り、なかなか来ない夜明けを待ち望んでいた。暗い空から日がさし、氷が温む日を。ああ、それはいつ来るのだろう。




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