Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第二章 長い夜 (2)




 二人がいなくなった日は、重苦しく悲しい日だった。だが、それで終わりではなかった。これから続いていく悲劇の前哨戦にすぎなかったのだ。
 二月に入ってまもなく、恐れていたことが起きた。長く続く寒さと閉鎖的な生活、不十分な食物が確実に人々の力を奪っていき、体力が落ちてきたところに、カゼが流行りだしたのだ。極地には、普通風邪のウィルスは存在できない。ましておや、この外気温ではありえない。しかし、内部は別だ。八千人以上の人間の中には、ここに来た最初の日に風邪気味だった人が、何人かいたのだろう。その人たちを経由して、ウィルスが持ち込まれたに違いない。ドーム内の寒くはあるが氷点下二、三度の気温では、ウィルスは死滅しない。むしろインフルエンザなどは活性化する。長引く避難生活で抵抗力の落ちた人間は、絶好の餌食だった。それはしばしば肺炎や脳炎に進行し、一般グループの中でも冬の間に、千人近くが犠牲になった。
 だが僕にとって――おそらくエアリィやジョージ、その家族たちにとっても、最大の恐怖だったのは、たとえ利己的と咎められようとも、その白い死神が、子供たちの上に近づくことだった。母親たち――ステラ、アデレード、パメラは子供たちの様子を何度も確かめ、暖かく着せて、我が子たちを守ろうとしているようだった。彼女たちだけでなく、僕らのグループ全員が気にかけていたと思う。子供たちに自分たちの食事を分け与えたり、声をかけ、注意深く様子を見、出来るだけ一般の人たちに近づかないようにしたりもして、精一杯気を配った。そのためか、幸い病気が流行をはじめて十日ほどは、みんな無事だった。でも、わかっているはずだった。春が来るまで彼らを守りおおすことが、どんなに困難なことなのかを。

 二月も半ば近くなったある日の朝、通称チビちゃん――四才四ヵ月のティアラ・ローゼンスタイナーがコンコン咳をしはじめ、「のどが痛い」と両親に訴えた。エアリィがドロップ缶から(子供たちのおやつ用に、部屋においてあった)イチゴのドロップを一つとって娘に渡すと、額を触り、その上気した頬に触れて、「ちょっと熱があるな。のど飴がわりにこれ舐めて、ベッドに入って寝ておいで」と、少し詰まったような声で言った。その時には彼女はまだ元気で、嬉しそうにドロップを口に入れ、「うん」と頷いて、コートを着たまま布団にもぐりこんだ。アデレードも少し青ざめながら娘の体温を測り、その小さな手を握った。「まだ微熱だけれど、これから上がるかもしれないから、静かにしているのよ。ママが絵本を読んであげるわ」
 彼女のお気に入りの絵本を母に読んでもらった後、ティアラは眠り始めた。その後診察に来た父は、その両親に告げた。
「風邪か、もしかしたら、インフルエンザかもしれない。検査薬も抗インフルエンザ薬も、今は切れてしまったから、確定は出来ないし有効な手も打てないが。ホテルには子供用寝台があるはずだから……幸い、君たちのベッドは部屋の一番奥にあるから、その足元にそれをすえつけてもらって、この子はそこに寝かせた方がいいな。そして隣のベッドとの間隔を、少しあけよう。これから熱が上がってくると思う。出来るだけ熱を発散させてやって……とりあえずコートは脱がせて、ガウンを着せてやりなさい。ただし、あまりきっちりと着せなくてもいい。はだけない程度にな。毛布と使い捨てカイロをベッドに入れて、汗をかいたら下着を替えてあげてくれ。子供用の解熱座薬がまだ少しあるから、あまり熱が高くなったら、それを使おう。それから脱水に注意して、水分を補給してやって欲しい。経口補給液もまだあるから、持ってこよう」
 その言葉通り、夕方には熱は四十度に達し、夜には熱さましの座薬を使った。熱は高く、眠りがちではあったが、それでもその日はまだティアラは、起きている間は、熱のわりに比較的元気なように見えた。ドロップを舐めて、経口補給液を飲み、乾パンをミルクに浸して食べた。「本読んで」「歌うたって」「おはなしきかせて」「手遊びしよ」そんなことも言っていた。
 しかし翌日の昼過ぎに眠った彼女は、その午後、ずっと眠っていた。そして夕方、不意に笑い声を上げ、目を開けると、手を振って叫ぶ。
「ママ、パミィ、おねえちゃーん!こっち!! トリクも、おいで!」そして、「お花が、きれいに咲いたねぇ!」とも。
 エアリィが驚きと恐れの入り混じったような表情で娘の小さな手を握り、そして呼びかけた。「ティアラ、おまえはいったい、どこにいるんだ?」と。
「パミィ、どこ?」
 娘は父親に目を向けることなく問いかけ、天井に視点を向けて言葉を継ぐ。
「お空がきれい」
 幻覚か、せん妄か――彼女は自宅の広い庭で遊んでいる意識なのかもしれない。次の瞬間、急に激しくひきつけた。手足が硬直したように痙攣し、目が半ば反転している。
「ジャスティン! もし可能なら、お父さん呼んできて!」
 エアリィが娘の衣服を緩め、毛布をかけながら声を上げ、僕も頷いて飛んでいった。父はすぐに来たが、その頃には発作はおさまり、ティアラはぐったりしたように眠っていた。
「脳症、かも知れない。小さい子のインフルエンザでは、稀に起こるんだ」
 父は慎重な様子で診察した後、そう告げ、痛ましげに首を振った。
「ここでは有効な手は打てないと思う。かわいそうなことだが……」
「ありがとうございました……」
 エアリィは青ざめた顔で父に軽く頭を下げると、娘の小さな手を握って、もう一方の手で、そっと娘の髪をなでた。アデレードも父に礼を言おうとするかのように口を開きかけたが、涙で咽んでしまったらしく、そのままうつむいて、激しく泣き出している。ロザモンドが二人の間に入り、目に涙をいっぱいためながら、妹を覗き込んでいる。彼女は震えながら問いかけていた。
「ねえ、ティアラ……死んじゃうの?」
「そんなことは言わないで!」
 アデレードがそう声を上げ、エアリィは上の娘の肩に両腕を回すと、微かに頷いた。
「もう一つの世界に、行こうとしてるんだよ。今度会うのは……向こう側だね」
「やだぁ!」ロザモンドは声を上げ、身体を震わせて泣いた。
 僕は――そして他のみなも、何も出来ず、そんな家族を沈痛な表情で見守っているしかなかった。そして夜が明ける頃、ティアラ・ヴァイオレット・ローゼンスタイナーはその四年の短い生涯を閉じた。
 ベッドに眠る彼女は、本当にかわいらしいお人形さんのようだった。長い茶色のまつげ、整った顔立ちに、小さな口元。顔を縁取った、ダークブロンドの長い巻き毛。でもその大きなすみれ色の瞳が開くことは、もうない。この子はとても人懐っこい子だった。よく笑って、声をかけられれば、にこっと笑って、あどけなく言葉を返した。子供軍団の小さな妹だったティアラの死は、実の姉ロザモンドだけでなく、本当の妹のように可愛がっていたプリシラにも、そしてクリスやジョーイにも大きな悲しみを与えたようだ。僕が声をかけても、にこっと笑って言葉を返してくれた。あの笑顔を思うと、胸がふさがれるようだ。

 悲劇は連鎖していった。ティアラが死んで四日のち、今度はジョーイ・スタンフォードが病気になった。前日の夕方、彼は「寒い寒い!」と連発し、がたがた震えていた。
「走り回って汗をかいたのに、着替えないからよ。新しいシャツに着替えなさい」
 パメラがそう注意した。
「やだよ、寒いもん」少年はよけい縮こまっている。
「だめよ。カゼをひいたら大変よ」
 パメラは着替えを出してきた。でもジョーイは相変わらず「寒いから、やだよお」と、震え続けている。パメラはそんな子供の顔を覗き込んでいた
「ちょっと顔が赤いわね」
 彼女は気遣わしげな表情で、その額に手をやっている。
「熱はないようだけど。さあ、早くぱっと着替えなさい」
 パメラは手早い動作で着替えをさせた。この中ではみな厚着なのだが、少年もコートの下にセーター、フランネルのシャツ、その下にハイネックのシャツ、さらにアンダーシャツを着ているが、下の二枚だけを取りかえている。その上から急いでまた服を着ると、ジョーイはさらに毛布をとってきてくるまり、
「寒い。よけい寒くなった! ちっとも、あったかくなんないよ」と、訴える。
「大丈夫よ。そのうちに暖かくなるから。ともかく、今日はもう寝なさい」
「うん」彼はコートを脱いでナイトガウンを着、さらに毛布を身体に巻き付けると、ベッドに潜りこんでいた。
 翌日の朝、ジョーイはベッドから起きてこなかった。赤い顔で、「ちょっとくらくらする」と訴える。パメラが子供の額に手を当て、「熱があるわね」と、懸念をにじませた声を出した。ジョージも覗き込み、気難しげな顔をして額に触った後、僕を振り返った。
「ジャスティン。悪いが、小父さんに診に来てもらえないか?」
「ああ、もちろんだよ」
 僕は頷き、微かな戦慄を感じながら、父を探しに部屋を出た。
 やってきた父は診察後、両親に告げた。
「たぶん風邪だと思う。ここでは試験薬がないから断定は出来ないが、インフルエンザではないだろう。普通の風邪のようには見受けられるが、喉がかなり赤いから、これから熱がもっと出てくるだろうな。寒くないよう保温に注意し、水分補給をして、食べられる限り栄養をつけさせてあげなさい。肺炎にならなければ、なんとかなるかもしれない」
「わかりました。ありがとうございます」
 ジョージは少し青ざめた顔で頷き、僕は父に言われて、まだ数本残っていた経口補給液を一瓶と、座薬を持ってきた。
 ジョーイは四日前までティアラが寝ていた子供用寝台に(もちろん消毒を施した後)寝かされ、その両親とプリシラが看護についた。この区画――部屋の一番奥のダブルベッドと、その足元の子供用寝台は、病気の子供と、その家族のためのスペースとなっていた。ベッドのシーツと布団を取り替え、それまでについていた家族と交代する。エアリィの一家とジョージの一家がベッドを交換する形で、今度は病魔と闘うのは、スタンフォード家の番になったのだ。

 最初の二日間は、わりとジョーイも元気だった。クリスやロザモンドもお見舞いに行きたいようだったが、感染の心配があるため、基本的にこの区画には入れない。少し離れたところから二人で、「ジョーイ、がんばってね!」と声をかけると、それに対し「ああ! 治ったら混ぜてくれよ! クリス、ぼくが寝てる間に、ロージィにべたべたするなよ!」と、にやっと笑って、手を振っていたりもした。しかし三日目に、彼の病は重くなった。「息が苦しい」と訴え、高熱が出た。父は「肺炎になってしまった」と、沈んだ顔で宣告した。
「小父さん、ジョーイを助けてください……お願いだ」
 ジョージは父に訴えるようにすがった。
「私にできることなら、助けてやりたい。抗生物質があれば……」
 父は苦しげな表情で、首を振った。それから三日目の夜、父は告げた。
「今夜が峠だろうと思う」
 その言葉に、ジョージもパメラもプリシラも青ざめていた。プリシラは十二時を過ぎて、眠気に耐えられなくなったのか(十一歳の女の子なら、無理もない)、ベッドに寝てしまっていたが、ジョージとパメラは眠らずに看病を続けていたようだった。そして夜明け前、分水嶺を越えた。それは物語に良くあるようなハッピーエンドではなく、ジョーイ・ロバート・スタンフォードは、もう一つの側に行ってしまった。向こうの世界に。
 そのあまりにも安らかに無邪気に眠っているその姿は、とてもこと切れてしまったなどとは信じられない。ジョージもあとで言っていた。肝心な時に、少しうとうとしてしまった。目が覚めて息子の姿を見た時、最初は治ったのかと思ったと。熱も下がり、苦しみも消えて――それは間違いではなかった。ジョーイは楽になったのだ。生命が、もはやそこになかっただけで。
 ジョージの激しい苦悶の叫びを、パメラの絶叫を、僕は忘れることが出来ない。なんと悲痛な嘆きに満ちていたことだろう。彼はまるで気が違ったようにベッドをどんどんとこぶしで叩き、声を上げて泣いた。
「起きてくれよ! 目をさませよ! なあ、坊主……なにか言ってくれよ!」
 パメラはベッドに取りすがって激しく啜り泣き、姉プリシラはしばらく茫然としたようにその光景を見ていた。やがてすっとそばを離れ、部屋の隅にある柱の影で一人泣きじゃくっている。まもなくパメラがそれに気づいたようで娘のそばへ行き、母娘は抱き合って泣いていた。クリスも親友の死をいたく悲しみ、その夜は夕食に手を付けなかった。
 クリスのよき相棒だったジョーイ、ジョージに似ておおらかで面倒見が良く、寛大で、腕白だった彼は、八歳になってまだ一ヶ月あまりで、その生涯を閉じてしまったのだ。

 重苦しく暗い冬だった。まるで悪魔に呪われたかのように病気が拡がっていき、子供たちが倒れていく。ジョーイが亡くなって五日後の午後、今度はプリシラが上気した顔で、両親に訴えた。「頭がとても痛い」と。まだ息子の死の悲しみの只中にいたジョージとパメラは、その訴えに青くなっていた。すでにプリシラは、三九度近い熱を出していた。弟が五日前まで闘病していたそのベッドに、今度は姉が横たわることになったのだ。
 診察に来た父は、かすかに首を振りながら少女に問いかけた。
「風邪だが、ひき初めではないようだな。かなり我慢したのではないか? 本当はどのくらい前から、具合が悪かったのかな?」
「ジョーイが死んじゃった次の次の日くらい……」
 プリシラは小さな声で答える。
「君はずっと弟さんの看病をしていたから、うつってしまったのかもしれない。でも具合が悪かったら、すぐに言ってくれないといけないよ。君自身にも良くないし、他の子にうつす可能性もあるからね」
「うん。でもわたし、ロージィやクリスには、具合が悪くなってからは、あまり近づかないようにしていたの。あの子たちにうつしたくないし」
 首を振ろうとして、プリシラは顔をしかめていた。父はそっとその首を触った。
「頭が痛いんだね。たぶん熱のせいだろう。少しリンパ腺も腫れている。抗生物質があればいいんだがね……子供用の鎮痛剤は、幸いまだ少しあるから、飲むといい。経口補給液はなくなってしまったけれど、スポーツドリンクの粉末がまだあるから、それを薄めに水に溶いてもらって飲んで、じっと寝ておいで。ジャスティン、取ってきてやってくれ」
 僕は頷いて、言われたものを取りにいった。父がこの部屋で診察する時には、なんとなく僕は、助手のような役目をしていたのだ。そしてそれを、まだ青ざめて手を握り合っているジョージとパメラに渡した。
「ああ……ありがとう」
 ジョージはかたい声と表情のまま、鎮痛薬とスポーツドリンク粉末の袋を受け取った。
「定量の二倍に薄めるといいらしい。そう父さんが言っていた」僕は彼に声をかけた。
「僕にはこんなことしか出来ないけれど、手伝うことがあったら言ってくれ」とも。
「ごめんなさいね、あなたの具合が悪いことに、早く気づいてあげられなくて……」
 娘に薬と水を手渡しながら、パメラは涙ぐんでいた。
「いいの。心配させたくなかったんだもの」
 プリシラは薬を飲むと、気丈に微笑もうとする。
「馬鹿やろう! 俺たちのことなんて、気にしなくていいんだよ。頼むから、もっと早く言ってくれ!」ジョージは思わず声を上げ、
「お父さん、そんな声出したら、よけい頭が痛い」と、娘に言われて
「すまん……」と、真っ赤になって謝っていた。
「だが、本当に……プリス。おまえはいい子すぎるんだよ。でもここでは、頼むから我慢しないで欲しかった……」
 そう呟くように続け、ベッドの上に顔を伏せてしまった。その肩は震えていた。
「わたしたちはジョーイのことで動揺して、あなたが病気になりかかっていることに、気がつかなかった。だから、あなたも言い出せなかったんでしょう。本当にごめんなさい。それにあなたにうつる可能性も、考えていなかった。ジョーイの病気のことで、頭がいっぱいで……わたしたちのミスね……許して、プリス……」
 パメラは半分泣いているような、うめくような口調だった。
「ちくしょう!」ジョージがそう声を上げた。
「でもまだまだ、あきらめるのは早いぞ、プリス、パム! まだこれからだ。きっと治ると信じて、がんばるぞ! もう二度と、あんなことにはなりたくない!」
「そうね。わたしたちにやれるだけのことはしなければ」
 パメラもきっと唇をかんで、頷いていた。
 しかし、その両親の戦いも願いも空しかった。我慢した分進行が早かったのか、熱はあっという間に四十度に達し、少女は頭痛を訴え続けた。たぶん髄膜炎のような症状なのだろう。基本的にプリシラは我慢強い子のようだが、それでも時々「頭がすごく痛い」と、うめく。両親が髪を撫でてやろうとすると、それすら「痛い」と声を上げる。ただ幸い、とはとても言えないのだが、彼女の苦しみはそれほど長くは続かなかった。翌日の昼間には、うとうとと眠りがちになり、意識が混濁し始めたからだ。
「おーい、プリス! 俺たちがわかるか? 聞こえるか?」「プリス! 愛してるわ! お願いだから、何か言って!」そんな両親の必死の呼びかけに、彼女は時々目を開けるが、返事はしない。うつろな眼差しで天井を見た後、すぐにまた目を閉じて眠ってしまう。その繰り返しだった。
 そして二日がたつ頃には、ついに目を開くこともなくなった。診察に来た父はその手を取り、胸に聴診器を当てて心拍を聞き、閉じた目を開かせて覗き込むと、首を振った。
「今はこん睡状態だ。ここから、どのくらいで心臓が止まるか……それは、お嬢ちゃんの残った体力次第だ」と。
 それを聞いたジョージは苦悶の叫びを上げ、パメラはベッドに身を投げて泣いた。そしてそれから十九時間後に、プリシラ・ジェーン・スタンフォードは弟と、妹のように可愛がっていた子のあとを追うように亡くなった。だがジョージやパメラの激しい嘆きを、悲嘆を、繰り返して書きたくない。あまりに酷く、悲しすぎる。

 悪夢のような二月が過ぎ去った時、アイスキャッスルの中で生きている子供は、ロザモンドとクリスチャンだけになってしまっていた。だが、二人が無事にこの三月四月を生き延びられるかどうか、決して楽観はできなかった。八才半の男の子と、もうすぐ八才の女の子。二人の子供をこの苛酷な環境の中で守り切るのは、素手で戦車に立ち向かうのと同じくらい、困難なことなのかもしれないと。
 プリシラが死んだあと、十日ほどは、なにもなかった。クリスもロザモンドも普通どおり生活していたし、いつも二人で仲良く遊んでいた。そんな二人の姿を見ながら、僕はふっと思った。この子たちはとても仲良しだから、別の世界で生きて出会っていたら、もしかしたら将来結婚することになったかもしれない、と。
 クリスもいつか、真剣な様子で、そんなことを言っていた。
『ぼく、大きくなったら、ロージィと結婚したいな』
『ジョーイもそう言うんだよ。でもぼく、負けたくないんだ』と。
 僕は笑って、息子に言ったものだ。
『ああ、でもロザモンドちゃんは今でもとても可愛いから、大人になったら、きっとすごい美人になるぞ。ジョーイ君のほかにも、たくさんライバルが出来るだろうな』
『でもぼくたちは、それより前から一緒にいるもん』と、クリスはひるまずに答えていた。
 後でエアリィにその話をして、『おまえと僕の子供同士が結婚することになったら、僕らも婚戚関係になるな』と、半分冗談めかして言ったら、『えー、そうなったら面白いけど、ロージィはまだそこまで全然意識してないだろうなぁ』と、彼は肩をすくめて笑っていた。そこへジョージが、『俺の方かもしれないぞ。うちの坊主も、そんなことを言っていたからな。まあ、クリス君は手ごわいライバルだが、もしうちが勝てたら、よろしくな』と、笑って言ってきた。そう――遠い昔、とはいえ、まだ一年もたっていない頃の話だ。
 でも、もし二人がこのまま冬を切り抜けて、無事に成長してくれたら――完全な絵空事ではないのかもしれない。仲良く元気に遊んでいる二人を見ていると、そんなはかない期待も、頭をもたげてきたほどだ。それが甘すぎる見通しであることは、わかりすぎるほど、わかっていたはずなのに。

 三月初旬のある日(後で日付を見たら、この日は三月八日だった)、クリスはお昼を少ししか食べなかった。乾パンを一口だけかじり、ミルクを半分飲んだだけ。そして手を付けていない乾パンと豆を、ロザモンドの前に押しやった。
「ごちそうさま。ぼく、もういらない。ロージィ、残った分食べて」
「こんなに? あたし、食べられないわ」
 ロザモンドは目を丸くしてクリスを見ている。
「こんなにいっぱい残しちゃ、だめよ、クリス。食べないと病気になっちゃうのよ」
「でもぼく、食べたくないんだ。のど痛いし」
 息子の言葉を聞いて、僕は思わずぎょっとして飛び上がりそうになった。妻もあわてた様子でクリスを呼び寄せ、額に触り、のどを覗き込んでいる。
「少し熱っぽいわ、この子。のども赤いし……」
 ステラはおろおろした口調になった。
「どうしましょう……」
「君が取り乱しちゃだめだよ、ステラ」
 僕は妻の肩を叩いて宥め、息子の状態を確かめて、ベッドに連れていった。
「そこでおとなしく寝ておいで、クリス。あとでお祖父ちゃんに見てもらおう」
「うん」息子はおとなしくコートを脱ぎ、ガウンを着ると、毛布の下に潜りこんだ。そして、幼い友達を振り返った。
「ごめんね、ロージィ。ぼく、今日は遊べなくなっちゃった」
「だいじょうぶ、クリス?」
 ロザモンドはベッドに近付こうとしたが、息子は手を振って制した。
「だめだよ。ぼくのそばにきちゃ。うつったら大変だもん」
「だって……」彼女は戸惑った顔で立ち止まる。
 クリスはにっこり笑い、布団を身体の上に引き上げながら言った。
「大丈夫だよ。明日よくなったら、また遊ぼうね」
 ああ、だけど、明日は本当に元気になるのだろうか――激しく心が痛んだ。息子の無邪気な様子が、大事な友達に病気をうつすまいとする心がいとおしく、悲しい。

 一時間後に診てくれた父は、難しい顔をして告げた。
「カゼだな。よくあるカゼだよ。今のところは」
 今のところは――その言葉を聞いた時、背筋が凍った。今はまだ大丈夫だが、これから病気が進んだら――二月に死んだ三人の子供たちも、ティアラはインフルエンザの疑いが強かったが、スタンフォード姉弟は普通のカゼだった。でも、すぐに重篤な合併症を起こした。そして、死んでいった。今度は我が子の番だというのか――。
「父さん!」僕は思わず声を上げ、父にすがっていた。
「どうしたらいい? どうしたらクリスを治すことが出来る? お願いだよ、教えて!!」
「カゼの時の三原則だ。安静、保温、栄養。あとは薬だが、今は子供用の解熱剤が少しあるだけだ。熱で体力の消耗が厳しい時にだけ、使える。だが抗生物質はない。幸い、スポーツドリンクの粉末はまだかなりあるから、それを水で定量の二倍に薄めて、飲ませてあげるといい。あとは、クリスの体力次第だな」
 父は決して険しくはない眼で僕を見ながら、肩を叩いた。
「しっかりしろ、ジャスティン。おまえが取り乱してどうする。きっと治ると信じて、出来るだけのことをしてやれ。暖かくして出来るだけ消化の良いものを食べさせ、寝かせるんだ。脱水にも気をつけ、水分補給を忘れるな。クリスの前で心配そうな素振りを見せるな。おまえもステラさんもな」
「ああ……わかったよ」
 僕は頷き、涙を浮かべている妻を振り返って、その手を取った。
「がんばろう、ステラ。僕らでできるだけのことをして、クリスを治すんだ」
「ええ」ステラはハンカチで涙を拭きながら、何度も頷いている。

 息子の生への戦いが始まった。十日ほど空いていて、もしかしたらずっといらないかもしれないと思い始めていたベッド――部屋の奥の子供用寝台に、その午後からクリスは移ることになった。そしてその横のダブルベッド――今まではジョージとパメラが使っていた看病用ベッドに、僕とステラは移動した。
「まあ……がんばれよ、ジャスティン。ここを移るような事はなければいいと、思っていたんだが……」今まで使っていたシーツと布団をどけながら、ジョージに同情をこめた口調で言われた時も、僕は機械的に頷くことしかできなかった。「ああ、ありがとう……」と。そして今まで使っていたベッドのシーツを広げ、毛布と布団を乗せる。クリスのベッドには使い捨てカイロを入れ、毛布をもう一枚重ねた。
 夕方から熱が上がってきたクリスは、夕食も薄めたスポーツドリンクしか口にできなかった。翌日、熱は三九度後半から四〇度前後を上下するようになり、咳も出始めた。三日目に入っても四〇度の熱は下がらず、呼吸が速く荒くなった。夕方診察にきた父は、肺炎に進行してしまったと宣告した。
 クリスは高熱のためか、一日中うとうとしていた。解熱剤をかけても、少ししか熱は下がらず、効き目が切れると、また熱が高くなる。目がさめている時もほとんど話をせず、力のない目で天井や僕たちを眺めていた。顔は熱のために紅潮し、浅く早い、苦しそうな息遣いだけが響く。食事はスポーツドリンクやミルクを、ほんの少し口にするだけだ。彼は辛抱強い病人だった。僕たちにもめったに苦しさや痛みを訴えず、懸命に病魔に抵抗しているようだ。
 重苦しい日々だった。自分の情けないまでの無力さが悔しい。我が子の苦しみを和らげてやることも、かわってやることも出来ない。生きようとする懸命の抵抗を、助けてやることすら出来ない。額に乗せた冷たいタオルを取り替え、スポーツドリンクやミルクをスプーンで口に運んでやり、熱のために痛む手足をさすってやることしか。ステラも同じ気持ちを抱いているのだろう。彼女も懸命になって、自分に出来ることを探しているようだった。毛布をかけ直したり、カイロを取り替えたり、熱い身体を撫でさすったり、タオルで汗をふいたり――子供用寝台の傍らのスツールに腰かけて、片時も休まず、付きっきりで看病している。夜も眠りさえしない。僕が心配して少し休むように言うと、彼女は首を振って、涙ぐみながら訴える。
「ここにいさせて! 大事な坊やが大変なのよ。とても落ち着いて眠ってなんかいられないわ。眠っている間に、もしものことがあったら……」
 彼女ははっとしたような顔で口をつぐんだ。眠っている間に死んでしまったジョーイのことが頭にあったのかもしれない。でも一瞬たりとも、我が子がそうなるとは、信じたくないのだろう。
「とにかくお休み、ステラ。今夜は僕が看ているから」
「とても眠れないわ。眠いなんて、思いもよらないのよ」
「ともかく、ベッドに横におなりよ。君の身体の方がまいってしまう」
「わたしの身体なんて、どうでもいいのよ!」
 ステラは泣かんばかりにして叫んだ。
「クリスを助けられるなら、わたし喜んで死ぬわ。わたしなんて、どうなってもいいの!」
「自棄を起こしちゃだめだよ、ステラ」僕は彼女の身体に手を回した。
「君が元気でなきゃ、どうするんだ。クリスが元気になった時、母親が病気になってしまったんじゃ、はじまらないじゃないか」
 こう言うのは、ひどくつらかった。我が子が再び元気になる――ああ、もしそれが本当になるなら、僕はなにものをも惜しまないだろう。どんな犠牲だって捧げる。息子が再び元気になってくれるなら――この死の影が消えてくれるなら。
「ママ……ぼく、だいじょうぶだよ」
 ベッドの上から小さな声がした。クリスが僕たちを見ている。目は熱のためにきらきらしているが、活力はもはや宿っていない。
「ぼく、だいじょうぶだよ」息子はそう繰り返し、一息ついて言葉を続けた。
「だから、ママ寝てて……」
「おお、クリス坊や……」
 ステラはむせぶような声を上げて、息子に取りすがった。
「ありがとう、ありがとう……あなたは本当にやさしい子ね」
 それ以上は言葉にならないように、ステラは声を上げて泣きだした。ついに自制がきかなくなったのだろう。僕は胸にこみあげてくる固まりを飲み下しながら、妻の背中を軽く叩いた。
「泣いちゃだめだよ、ステラ。クリスが心配する」
「ええ……」彼女は懸命な様子で涙を飲み込もうとしながら、頷いていた。
「ごめんなさいね、クリス……本当に駄目なママね、わたし」
 クリスはしばらく黙って、僕らを見ていた。呼吸が苦しいためだろう、毛布の胸のあたりが波打っている。でも、もうその顔は紅潮してはいなかった。
「パパ、ママ……ぼく、死ぬの?」
 沈黙を破って息子がそう問いかけてきた時、僕は冷水を背中から浴びせられたように立ちすくんだ。すぐには言葉が出なかった。しばらく黙って息子の顔を見たあと、激しく頭を振った。
「そんなこと、あるもんか! バカなこと言うんじゃないよ、クリス」
「そうよ、坊や。そんなに大げさに考えることないのよ」
 ステラも上擦った声で叫ぶ。
 クリスはしばらく黙って僕たちを見ていたが、再び口を開いた。
「ぼく、そんなにこわくないよ。もし……天国へ、行けるんだったら。ねえ、ぼく……天国へ、行けると思う?」
「あたりまえだよ。おまえのようないい子は、絶対天国へ行けるさ!」
 我知らず、僕はそう答えてしまった。クリスはにっこり笑った。
「よかった……」
 僕は何も言えなかった。ステラも同じだったのだろう。ただ、激しく啜り泣いている。僕も涙を堪えるのが精一杯だ。
「おまえに、なにかしてやれることはないか、クリス?」
 僕はようやっと言葉をしぼりだした。
「パパやママに出来ることなら、なんでもしてあげるよ。なにかないかい?」
「うん。ぼく……コーンスープが、飲みたい。あったかいのが」
「わかった。少しだけ、待っていてくれ」
 僕はなんとしても息子の望みを叶えてやろうと、管理室へ飛んでいった。アイスキャッスル内の商店にあった食材は、運命の日の三日後に、残ったものをすべて回収し、そこで保管していた。そして誰かがもう回復の見込みがなくなった時、そこに望みの品があれば、分けてもらっていたのだ。僕もそこへ行き、箱の中を探した。四袋の粉末コーンスープを見つけると、そのうちの一つをとり、ノートにその旨を記入してから、施設内にあるレストランの一つへと向かった。その中の食材はもうないが、食器は使える。小さな鍋に水を入れ、給湯室へ戻ってお湯を沸かし、カップの中に注いでスープを溶いた。それを持ってホテルの部屋へ帰り、スプーンで口に運んでやる。二口、三口――。
「おいしい……」クリスはにっこり笑った。
「もっとお飲み」僕はスプーンを差し出した。
「ううん。もういらない。ありがとう……」
 息子は首を振り、深いため息をついた。
「苦しいのかい?」
「ううん、だいじょうぶ。あとは……パパとママが、飲んで」
「いいのかい?」
「うん……ぼく、もう、飲めないし。もったい、ないから。ロージィに、あげたいけど……ぼくの病気、うつると困るし。だから……パパとママが……飲んで」
「わかった。ありがとう、クリス……」
 僕はカップを妻に渡した。ステラは泣いてしまって飲めないでいるようだったが、二口ほど口をつけ、僕に返してきた。僕はそれを飲んだ。久しぶりに感じる穏やかな暖かさと、そしてコーンスープの味。しかし胸が詰まってしまい、なかなか飲めない。普通以上に、しょっぱくなってもいる。
「おいしい?」クリスは再びにっこり笑って、そう聞いてきた。
「ああ、おいしいよ、とっても」僕は笑おうとした。だが、たぶんきっと、ひどい泣き笑いの顔になっていただろうと思う。
「よかった」クリスは再び微笑み、そして問いかける。
「ねえ、ロージィは……まだ元気?」
「ああ。ロザモンドちゃんは元気にしているよ。うつるといけないから、お見舞いには来られないけれどね。おまえに会えなくて、残念がっているよ」
「そう、よかった……ぼくもロージィに、会いたいけど……病気うつると、かわいそうだもんね」クリスは一息ついてから、言葉を続けた。
「ロージィも、ぼくがいなくなったら、さみしがるかなあ……ぼく、ごめんねって……言ってたって、言ってね。ぼくが死んだら」
「クリス……」僕は言葉が出なかった。黙って息子の手を握りしめるだけだ。その小さな手は、熱のために火のように熱い。
「おお、クリス坊や……」
 耐え切れなくなったように、ステラは涙の中から息子に取りすがった。
「お願いだから、そんな悲しいことを言わないで! 生きていてちょうだい!」
 クリスは母親を見つめ、にこっと笑ってみせた。
「ママ……ごめんね……ぼく……ずっといるって……」
 ささやくような小さな声は途中で消え、クリスチャンは目を閉じ、やがて眠ってしまったようだった。息子は途中までしか言えなかったが、僕にはその続きの言葉がわかった。
『ずっといるって言ったのに……』
『泣かないで、ママ。ぼく、ずっとママといるから』
 五年前、僕が妻との不仲から生じた弱さのため、家を離れていた時に、『パパはもう帰ってこないかもしれない』と泣いていたステラにかけた、小さな息子の言葉。クリスはきっと、それを覚えていたのだろう。ステラもきっと忘れていない。彼女は堪えきれなくなったように、ベッドに突っ伏して泣き出していた。僕も涙があふれてくるのを抑えきれない。




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