Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第二章 長い夜 (1)




 長い冬、長い夜は続く。それは時とともに深まり、徐々に牙を剥いて襲いかかってくる。僕たちの上にも、真の悲劇が幕を開けようとしていた。世界滅亡、それは一瞬の悲劇だ。有史以来、人間が数千年に渡って地上に築き上げてきたものが、ほんの数時間の間に、あっと言う間に灰に帰した。全ては消え、世界は無になった、その重みは、計り知れない。でも、それは一瞬の苦痛だ。生き残った僕たちに訪れるものは、一瞬の悲劇ではない。長く続く苦しみであり、だんだんと愛するものが欠けていくという、悲しみと恐ろしさなのだ。僕たちは長い冬の間に、その意味を思い知ったのだった。

 外は想像を絶する寒さだった。室内でさえも温度はさらに下がって、マイナス二度。ついに氷点下だ。食べ物は、子供たちに渡されるミルクだけ、それも一日一回だけは暖められるが、それ以外は室温を反映して、冷え切っている。食べていると、よけいに寒さを感じてしまうほどだが、食べなければ冬は乗り切れない。食料があるだけでも、感謝しなればならないだろう。それに子供たちが一日一回だけでも、暖かい飲み物が飲めることも。
 みんな温もりを求めているのだろう。一つの部屋に集まることが、ますます多くなった。それぞれ自分のベッドから毛布を持ち寄り、たくさん重ね着をした上に手袋や帽子を付けて、毛布にくるまる。やがて、部屋もいくつかに統合された。プライバシーよりも一般の人たちに集会のための部屋を提供することと、暖房効率を考えることのほうが重要なのだ。それに僕たちみんな、こんな状態の中では、出来るだけたくさんの人たち(ことに気心の知れ合っている仲間なら)と一緒にいるほうが、家族だけで閉じこもるよりも落ち着くようだ。
 デラックススイートの部屋に六台のダブルベッドを据えつけ、僕らバンドとその家族全員、それにロブ夫妻も加えた部屋にした。もう二つある大きなスイートルームには、僕らの親兄弟や親族たちが納まった。空いたところはスタッフたちの部屋になったり、集会室用に一般の人たちにあてがわれたりした。
 この気温では、よほどしっかり防寒していなければ、うっかりうたたねなどしてしまうと身体を壊しかねない。だが何もすることがないと、つい退屈して眠くなってしまう。僕たちは出来るだけ話をしたり、子供たちと遊んでやったりして、やることを作らなければならなかった。陰欝な日々が蝸牛の歩みのように過ぎていった。

 ここに来てから、何日が過ぎたのだろう? 日を数えることすら、もう億劫だ。壁にかかったカレンダーは最後の一枚――十二月だが、十一月を破ったのも、かなり前のような気がする。来年のカレンダーはもう出回りはじめている時期だったので、施設内の雑貨屋にいくつか置いてあった。全グループに渡すには数が足りなかったので、二グループに一枚ずつ渡され、僕らの部屋にもある。だが、ここに月や日や曜日など、はたして意味があるのだろうか?――ある! 春が来るまでの日を数えなければ。そして日の歩みをしっかり記録し、新しい世になる時に伝えなければ。僕の頭は日を数えるのをやめてしまい、携帯電話も充電が切れたまま放置しているが、時計のオートカレンダーだけは、律儀に時を刻み続けている。その数字を、僕は見つめた。
 十二月二三日、二〇二一年――。
「明日はクリスマスイブだ……」
 僕は軽い衝撃に打たれ、思わず声を上げた。みんなは頭を上げた。子供たちはぱっと目を輝かせ、大人たちは哀しみの入り混じった驚きの表情だ。
「もう、そんな時期か……」
 そんな呟きが、みんなの口からもれる。
「今年はクリスマスパーティ、やらないの?」
 クリスとジョーイとロザモンドが、三人同時にそうきいた。
「サンタさん、ここにくるかなあ」と、ティアラは無邪気に首を傾げ、
「お外寒いから、サンタさん凍っちゃうわよ、きっと」
 ロザモンドが真面目な顔で、そんなことを言っている。
「今年は、やっぱりダメかもしれないわ」
 いちばん年長のプリシラは少し事情がわかってきているのか、悲しそうな顔で頭を振り、ため息をついていた。
 大人たちはしばらく誰も、何も言わなかった。悲観的な思いが胸を押しつぶしているのだろう。僕もそうだ。去年までの暖かく楽しいクリスマス。今年は望むべくもない。AD――イエス・キリストの世界は終わってしまった。今さらクリスマスなど祝って何になるのか? 今日が一二月二三日なら、ここへ来て五〇日あまりが過ぎたことになる。その間僕たちはずっと、この中にいた。外へ行くことなど考えられない。今の外気温では、たちまち凍死してしまうだろう。外の様子はアーケードの脇通路に一つだけある透明な窓部分から見ることが出来るが、そこに映る風景はいつも同じだ。見渡す限りの暗闇。静かだ。風の音ひとつしない。どういう仕組みなのかはわからないが、この中にいても、誰にも放射能障害のような症状は出てこないのだから、僕らは今、天然のシェルターの中に守られているのかもしれない。そして同時に、僕らはここに閉じこめられている。こんな中でクリスマスを祝う気分にはとうていなれなかった。
 重苦しい沈黙を破って、エアリィが顔を上げ、言い出した。
「クリスマス、思い切ってやっちゃわない?」
「ええ?」みな一様に驚いたように、小さな声を上げた。
「こんな中でお祝いなんて、やれるか? 設備もなにもないし、第一にぎやかに騒げる気分でもないのに」僕は思わず反論した。
「にぎやかに騒ぐとは言ってないよ。陽気なクリスマスなんて、出来ないことはわかってるし。けど、子供たちにはクリスマスは、やっぱりクリスマスなんだし、ちょっとしたイベントの真似事くらいなら、出来るんじゃないかなって。この中の生活ってどうしても単調になるから、多少のメリハリはあったほうがいいと思う。だからクリスマスだけはって。お菓子とジュースを配って。キャンドルもあるし。一応準備はしたじゃないか」
「ああ、そうか……そういえば、用意はしたんだっけ」
 僕も思い出して声を上げた。今年の夏に非常食二百万食あまりを寄付したあと、秋にシェルター部四百部屋の調度品や寝具を届けると同時に、クリスマスキャンディ、缶詰のカップケーキ、キスチョコの小袋を一万個ずつ、ジュースとサイダーをそれぞれ一万本、ここに届けたのだった。暗いクリスマスになるだろうから、せめてもの楽しみになればいいと。そして一万本のカラーろうそくと燭台も――そうだ、すっかり忘れていた。
「なあに?」妻たちは知りたがり、僕たちはほんのちょっとしたイベントなら出来る用意があるのだと簡単に答えた。
「まあ、ここには、そんなものまであるの?」
 妻たちは驚いたように顔を見合わせている。
「シェルターにも、なってるくらいだからね」僕はそう誤魔化した。僕らがやった、などとちょっと口を滑らしたことは、気がついていないようだ。
「明日はクリスマスイブだから、お祝いの集会をやろう。みんなには特別たくさんお菓子を上げるよ!」僕は出来るだけ陽気にそう声をかけ、
「わーい!」それに答えて、子供たちは一斉に歓声をあげていた。

 その日の夕方、食事配りを終えたあと、そのプランを親やスタッフに相談した。
「そうだな。こんな中にいると気が滅入る。少しは気を引き立ててくれるイベントも必要だな」スタンフォード氏が大きく頷いた。
「たしかにそうですな。あいにく、ここでツリーは飾れないが。だが、お菓子やジュースやろうそくまで用意するとは、ずいぶん手回しがいいじゃないか」
 ストレイツ氏が笑った。
「静かなクリスマスをやる分には、私も依存はないが」
 ステュアート博士が小さく咳払いをし、そして続けた。
「しかし、たしかに用意のいいことだな。まるで、ここでクリスマスを過ごさなければならないことを、見越していたようではないか?」
 やはり目の鋭い親世代は、なかなか誤魔化せそうにない。とくに彼らはアイスキャッスルの状態も、僕らがいろいろなものを寄付したことも、知っているのだから。
「ううむ。そう言えば、予備の非常食や備品を寄付したのも、シェルター部の調度を寄付したのも君たちだな」
 案の定、スタンフォード氏は思案顔で首を捻り、言葉を続けている。
「あの時は理由を聞かなかったが、聞いていいかね? なぜ君たちは、そんなことをしたのかね。あれだけの寄付となると、費用だってバカにはならない。安く見積もっても、一千万ドルはするだろう。まあ、君たちは世界中で天文学的な売り上げを出していたから、そのくらいの出費は屁でもないだろうが、しかし単なる寄付にしては、スケールが大きすぎるんじゃないか?」
 僕たちは当惑気味に顔を見合わせた。やはり隠しおおすのは無理だろうか? 第一こうしてまごついているのを見れば、大人たちは不自然さを見抜いてしまうだろう。でも、ありのままを話すのなら今ではなく、親兄弟や妻たち、僕らに近い肉親みんなに知ってほしかったし、理解してほしい。
「今は、はっきり理由を言えないんだ、父さん。いつか……話すよ」
 ジョージが父親を見ながら、そう答えた。たぶんみな、同じ思いだっただろう。
「そうか……わかった」
 スタンフォード氏は息子たちの顔をじっと見つめながら、頷いた。
「何か特別のわけがあるんだな。だが、別にやましいことではあるまい。私は君たちを信用しているからな」父が僕たちみなを見ながら、静かな口調で言う。
「やましいことなんて!」僕は思わず叫んだ。
「そんなんじゃないんだ。運命の必然なんだよ!」
「ただ、ちょっと信じられないかもしれない話なんです」と、ミックが穏やかに言い足し、
「まず信じてもらえないって言った方が、あたりじゃない?」
 エアリィが頭を振って、そう訂正した。
「それは言えてるな」と、ジョージも頷いている。
 大人たちは狐に摘まれたような顔になった。
「まあ、いつか本当のわけを聞かせてくれ。どんなに突拍子のない話でも、かまわんよ」
 スタンフォード氏が目をしばたたかせながら、そう締めくくった。

 クリスマスイブの夜、中央広場で集会が行なわれた。めいめいにお菓子と飲み物を入れた袋とキャンドルが手渡され、大人から子供まで、そして圧倒的多数を占める一般の若者たちそれぞれが、片手にお菓子とジュースの袋を持ち、片手に炎の灯ったろうそくを刺した小さな燭台を持って集合している。小さな子供たちのろうそくは、出来たら火はつけさせたくなかったのが、みんなどうしてもと言い張るので、母親たちははらはらしたような表情でその傍らに付き添い、見守っていた。
 それは印象的な光景だった。照明を落とした薄暗いホールに、ぎっしりとろうそくの炎が揺れている。コンサート時のライターの火より、はるかに高い密度で揺らめき、光る炎がホールを埋めている。まるでアイスキャッスル自体が、大きなクリスマス・ツリーになったようだった。僕たちは光の海に取り巻かれ、家族と一緒にその中央に立っている。
「火を隣や前の人にくっつけないよう、気をつけて。髪を焦がしたりもしないようにね」
 エアリィはちょっと肩をすくめながら、そう注意していた。この密度だと、その危険性はたしかにあるだろう。そして一息おいてから、人々に呼びかけた。彼は集会のリーダー。それはみなの暗黙の了解だった。
「今日はクリスマスイヴだって、忘れてた人も多いかもしれないけど、ちょっぴり気分だけでも、クリスマスを味わってください。ツリーもケーキもパイもないけど、そのお菓子とジュース、それにキャンドルが、ほんのささやかなプレゼントです。えーとね……」
 エアリィはしばらく言葉を探すように黙ってから、再び話し出した。
「こんな状況だし、賑やかにっていうのは、ふさわしくないみたいだから、みんなに無理して楽しんでもらおうとは、僕たちも思わないんだ。だから、クリスマスソングでも歌おうよ。ほんの少し。それで、今夜はおしまいにしよう」
 僕たちは、いくつか静かなクリスマスソングを一緒に歌った。だが僕は、どうしてもよけいなことを考えてしまう。『樅の木』を歌いながら、今、この世に樅の木は今一本もないのかもしれない、などということを思ってみたり、『きよしこの夜』を歌いながら、イエス・キリストは果たして世界がこんな形で滅び去ることを、知っていらしたのだろうか、などと思ってしまったりもした。聖書にそれらしい予言はあるが、来るべき神の国は、いったいどこにあるのだろう。
 曲は『グローリア』になった。このあたりのナンバーになると聖歌隊経験者くらいしか、ついていけない。僕は最初から歌うのをあきらめたが、この場のほとんどの人がそうだったようだ。みんなが聴いている。エアリィは子供のころクワイアにいたことがあるらしいが、数年前の宗教否定騒動渦中の人だったこともあって、ゴスペル・シンガーとしての姿など想像できないというのが一般の認識だったし、僕らもそうだが、それは恐ろしいほど完璧な聖歌だった。彼がキリスト教の神の愛や救済を歌うなど、意外といえば意外だ。常々キリスト教は信じないと言っていたのだから――だが最高に清らかで、敬虔な祈りを乗せて、まるでボーイソプラノのような性をも超越した歌がホールに響いた時、僕らはただ固唾を飲んで聞き入り、頭をたれて祈りを捧げることしか出来なかった。
 そして最後に『アメージング・グレース』。この曲は、エアリィが子供のころ、サニーサイド農場に数ヶ月滞在した時に、よく歌っていた曲だという。それから一年後に世を去ったバーンズ夫人が、好んで聞いていたという曲――それはこの上なく純粋で、無邪気で、なおかつ崇高なものを感じさせた。
 神への信頼と慈悲を聞きながら、僕らはみな涙していた。神はおられる――僕らを見守ってくださる。こんな状況にあっても。不幸や試練は、僕らの魂を鍛えるために与えられるのだ。乗り越えなければ――僕の中にも、そんな思いがわいてきた。
「みんな、神さまは、見ていてくださるから……祈りながら生きていこう。いつか光が来ますようにって。夜はきっと明けるから。今はみんな……負けないで」
 エアリィは歌いおわると、静かなトーンでそう呼びかけた。
「はい……」
「がんばります……」
「信じます……」
「ありがとう……」
 そんな無数の呟きが返ってきた。
「アーメン」
 ジョアンナがキャンドルを握り締めながら、頭を垂れてそう唱えている。
 それは静かなクリスマスだった。みな涙の中、それぞれの部屋へ帰っていった。おそらく誰もが、希望と慰めを胸に抱いて。この時が与えられたのは幸いだった。さもなければこれから、ますます暗澹としていく冬の中で始まる悲劇を、とても乗り越えられなかっただろう。

 クリスマスの三日後、僕らはいつものように、部屋で夕食をとっていた。栄養ビスケット、ドライミルクに魚の缶詰。それから、クリスマスに配ったお菓子の残り。キャンディもカップケーキもチョコも、子供たちには二つずつ配られた。彼らは大喜びで食事のたびに取り出し、少しずつ食べている。
「ぼくの分、もうなくなっちゃったよ」
 その日、ジョーイが哀しげに訴えた。
「一度に食べるからよ。あなたって本当に、お菓子のことになると押さえがきかないのね」
 パメラが苦笑いしながら、息子を諌めている。
「わたしの分を少しあげるわ。よかったら、お食べなさいな」
 セーラが小さなチョコレートを半分ほど袋から出し、差し出した。
「いいの? ありがと!」
 ジョーイは目を輝かせながら、飛び上がった。
「ごめんなさいね、ありがとう」パメラは義妹に感謝の言葉をかけていた。
「でもセーラ、あなた昨日もクリスマスキャンディを丸々一本、子供たちに分けてしまったじゃない。その前はカップケーキをあげてしまったし。自分の分がほんの少しになってしまったわね。悪かったわ」
「いいの。わたし、あまり甘いものがほしくないから」
 セーラは微笑をうかべ、小さく首を振った。
「どうしたの、セーラ?」ロビンが少し気遣わしげに尋ねた。
「君は僕と一緒で、甘いものが大好きだったじゃない。珍しいね。好みが変わったの? それに最近あまり食べないね。夕飯だって、半分以上残してるよ」
「大丈夫よ。でも、あまり食欲がないの」
「どこか具合が悪いんじゃないの? あまり顔色も良くないわよ」
 パメラは義妹の顔と、半分以上も残された食事の盆を見比べていた。そして、しばらく考え込んだような沈黙の後、もう一度きいている。
「食欲がないのね?」と。
「ええ。なんだか胸がつかえているようで」
「胸がむかつくとか、そんなことはない?」
「少しあるわ。とくに、この魚の缶詰の匂いはダメなの」
「そう。じゃあ、ひょっとしたら……」
 パメラは一瞬の間をおいて、続けた。
「おめでたじゃないかしら」と。
「えっ!」
 その言葉に、ただ仰天するしかない。こんな中で? ロビンたちは結婚してから四年以上たつが、今まで子供は出来なかった。でも、ありえない話ではないのだろう――。
「月のものは来てるの?」パメラは優しい口調で質問を続けている。
「いいえ……」セーラは少し顔を赤らめて首を振っていた。
「そういえば、九月の末にきて……それからまだなの。でもわたし、こんな中だから、ショックで止まったのかと思っていたのよ。今までも、あまり順調な方ではなかったから」
「確かめてもらってきなさいな。医局に検査薬があるわ」レオナがそうすすめた。
 その晩、簡単なテストと診察を受け、診断が確定した。内診の器具や超音波設備がないので、はっきりとはわからないが(アイスキャッスルには簡単な診療室はあったが、産婦人科の設備はなかった)、妊娠三ヵ月の半ばか終わりころ、予定日は来年の六月末か、七月初めあたりと。そう知らされた時、セーラは顔をほころばせた。
「赤ちゃんが出来たのね……」彼女は大事そうにそっと下腹部を押さえ、ささやいた。
「よかった……」
 そう涙ぐむ妻の傍らで、見守るロビンの顔に、喜びは読み取れなかった。驚きと、不安――その方が、大きかったのだろう。結婚五年目でようやく授かった、思いがけないクリスマスプレゼント。だが、こんな環境の中でとは。
「よかったわね、本当に。ずっと欲しがっていたんですものね」
 パメラは義妹を抱いて、祝福していた。
「でも、大事にしなさいね。ここはとても寒いから、出来るだけ暖かくして、身体を冷やさないようにするのよ。大事な時期なんだから」
「ええ」
「それから、もう食事はあまり残さないほうがいいわ」
 レオナが笑顔でそう付け足した。
「食欲がなくても、出来るだけ食べたほうがいいわね。体力を付けなければ駄目よ」
「ええ、そうします」セーラは笑顔で頷いている。
「じゃあ、このチョコ、返さなきゃだめ?」
 ジョーイはちょっと名残惜しそうな顔で、もらったお菓子を眺めた。
「いいわよ。それはあなたがお食べなさいな。わたし、出来るだけ食べるけれど、甘味は入りそうにないの、今は」彼女は義理の甥に笑顔を見せながら、そう答えている。
「つわりのせいだったのね」
 ステラが少し憧れるような表情を浮かべていた。
「わたしにも経験があるわ。赤ちゃんが出来ると、少し好みが変わるのよ」
「良かったわね、セーラ。おめでとう。大事にしてね」
 アデレードは真摯な口調で、そう声をかけている。
 女性たちはこのニュースを前向きに受けとめているようだったが、僕には多少複雑な思いが残った。もちろん普通の状況なら、本当に諸手をあげて喜びたいニュースだ。でも、今は厳しく長い冬の中だ。この冬を無事に乗り切れたら――その時までは、すべてが未知数だ。厳しい冬に妊娠というハンデを背負わなければならないのでは、あまりにも条件が良くないように思えた。ロビンは目に見えて困惑し、心配しきった表情で、それでも喜ぶ妻に対し、精一杯笑顔を見せようとしている、そんな感じだ。僕ももし妻がそうだったらと思うと、あまり心中穏やかではない。ステラは今年の初めに病院に行った。そして、少しホルモンバランスが乱れているが、薬で矯正するほどではない、あまりそのことばかり思いつめずに、気を楽に持ちなさいと言われたらしい。その後、特に治療は受けず、自然に任せてきたが、まだ次の子供は出来ない。ここに来ても、その兆候は皆無だ。でも僕はむしろ、そのことにほっとしていた。とにかく、この冬を超えなければ――冬を超え、ここを脱出して、どこか暖かい所に、食料の心配もない所に落ち着かなければ、未来への展望など考えられそうにない。その時になったら、考えはじめても良いだろう。だがその時までは、ただこの冬を乗り越えること、誰一人欠けることなく――それだけに集中して生きなければならないのだから。

 運命の年は、音もなく過ぎていった。いつもの通り繁栄と安寧の中に幕を開けたこの年は、人類の誰もが予想もしなかった、滅亡と荒廃の中に幕を閉じた。カタストロフ――いいや、そんな言葉では、とてもその悲劇の大きさは言い表せない。世界が突然終わりを告げ、唯一残された僕らは今、混乱と絶望の中に沈んでいる。
 外は一面の氷、マイナス八〇度を超える想像を絶する寒さの、暗闇の世界。銀色のドームに覆われた、ここアイスキャッスル屋内施設の中での生活は、日がたつにつれ、ますますつらく思われてきた。建物の中でさえ、気温は氷点下二、三度。館内は薄暗く、本を読もうとすると、目が疲れる。食べるものも決して十分とは言えず、シャワーなど論外。一週間に一度、ドライシャンプーで髪や身体を拭くのがせいぜいだ。それも極端に低い気温の中なので、かなりさぼっている。おまけに着ているものを洗濯したくとも、水道の水は身を切るような冷たさだし、洗濯物を干しておいても冷たいままなので、乾いたのかそうでないのか、あまり良くわからない有様だ。なので、たいてい必要最小限の洗濯で済ませてしまう。結果的に、着ているものは次第に、かなり汚れてくる。でも、不潔だなどと言ってはいられない状態だった。
 年が明け、一月も終わりに近づくころには、長く続く抑圧生活の中で、みなの心は再び揺れ始めているようだった。最初の雄々しい決心も勇気も、厳しすぎる現実の前で、そういつまでも続けられるものではないのだろう。ただひとつ、僕たちを辛くも支えていた希望は、春の訪れだった。長い極地の夜が明け、冬が終わる時――その時を待ち望みながら日々を耐えていた。まだ一月の下旬だが、それでも去年の十一月から、もう三ヵ月近くすぎている。さらにあと二、三ヵ月を耐え切ることが出来れば、外への道が開かれるはずだと。ここを脱出し、世界をもう一度、自分の目で確かめること。夢にまで見た故郷へ帰ること。その時、たとえ世界が変わり果てていても。それに、もしかしたら、みんな間違いなのかもしれない。故郷の街へ帰った時、復興途上の都市を見るかも、生存者たちがいるかも――そんな、はかない希望も抱いて。だが今まで過ごしてきた三ヵ月とこれからでは、困難さが違うだろう。きっと正念場になるはずだ。そう覚悟はしていた。しかしそれが現実になった時、その絶望と不安、悲しみは身悶えするほど大きいものだということを、残酷な事実に直面して初めて悟ることになるのだった。

 一月終わりのある朝、僕らが滞在している第一ホテルの通用口の鍵が、外れているのが発見された。アイスキャッスル全体がドーム化した今では、三つのホテルと三つのショッピングセンターの裏口が、外への出入り口となっている。そこはみな二重扉になっていて、去年の十一月以来ずっと閉鎖され、鍵は施設内の管理人室に保管されている。誰かがそこに夜忍びこみ、この扉を開けたのだろうか。管理人室にあった、そのドアを開ける鍵束はなくなっていた。
 朝食を配る時、全グループに点呼を要請し、その結果一般グループの一九才になる青年が一人、いなくなっていることがわかった。同じ班の人たちの話によると、彼はかなりの閉所恐怖症だったという。彼はここの生活とその抑圧に耐え切れなくなり、扉を開けて外へ出ていったのだろうか? 暗闇の極寒世界に。
 僕らは鉄製の内扉(扉というか、シャッターだが)を開けた。一メートルほどの空間の外に、ガラス製の外扉がある。両開きで開くようになっているが、その内側に、鍵束とカッターナイフが落ちていた。スタンフォード氏がそれを拾い上げ、厚いガラスの外扉を小さく開けた。外は銀色の幕に覆われているが、中央が切り裂かれている。ドアが開くと、たちまち凍るように冷たい空気が忍びこんで、僕らを突き刺した。見渡すかぎり広がる暗闇の中、内部から漏れた明かりで、氷の上に真新しい足跡が残っているのが見える。
「こんな中へ出ていったというのか?」
 スタンフォード氏が苦々しい表情で首を振った。
「自殺行為としか言いようがないな」父が腕を組みながらうめいた。
「鍵の管理をこれからはもっと厳重にしなければならんな。うう、寒い。早く閉めよう」
 スタンフォード氏が身震いしながらドアに手をかけた時、氏の足元を、小さな人影が擦り抜けていった。
「あたしもお外へ行く。お家へ帰るの!」
 そんな声と同時に、外扉を思い切り押して、子供が飛び出していった。ローズ色のコートに黒髪の女の子。レイチェル・スタンフォード――ロビンとジョージの姪にあたる七才の少女が、一瞬の間に外へ飛びだしてしまったのだ。この子は長兄ブライアンの娘で、祖父母に連れられて、ここにやってきた。長男一家は結婚後もウォールナットフィールドに住んでいたので、レイチェルにとっては大好きなお祖母ちゃんとお祖父ちゃんではあったが、彼女の父母と三歳の弟はトロントに残っていたので、よく家族を恋しがって泣いていたようだ。いくら祖父母や親戚、遊び友達がいるとはいえ、パパやママや弟のかわりにはなれない。これまで愛情に包まれ、経済的にも恵まれて、何不自由なく育ってきた七才の少女に、この環境は苛酷すぎたのだろう。僕らと一緒に数十人の人が(スタッフやマスコミ、親戚や一般の人たちが入り混じっていた)ついてきていたが、その中にレイチェルもいたのだろう。内側のシャッターを上げたままにしていたので、彼女は飛び出してしまった。子供の力で鉄製のシャッターを上げることは、できなかっただろうに――そこが開いていたので、彼女は外の扉が開いたのも見てしまったろう。そこから、お気にいりの人形を抱いたまま、外へ走っていってしまったのだ。
 あっけにとられた僕たちが行動を起こす前に、もう一人、誰かがドアを開けて外へ飛び出していった。ジェーン・スタンフォード夫人――レイチェルの祖母であり、ロビンとジョージの母親だ。彼女もレイチェルと一緒について来ていたのだろう。孫娘を捕まえようと、夢中で叫びながら、暗闇の中へ走っていく。
「待ちなさい、レイチェル! 待ってちょうだい!」
「戻れ、ジェーン!」スタンフォード氏が声を振り絞るように叫んだ。彼も一歩外へ踏みだしかけたが、ストレイツ氏と父に止められた。
「無茶だ。外へ出たら、あなたも助からない!」
「だが、ジェーンとレイチェルが! 連れ戻さなければ!」
 スタンフォード氏はうろたえた様子で、声を上げる
「そうだよ。母さんとレイチェル、このままじゃ死んでしまうじゃないか!」
 ジョージもドアに手をかけ、今にも外へ出て行きそうな素振りだ。
「もう……遅いわ」パメラが哀しげに外を指差した。館内からの薄明かりに見える外の景色に、もう二人の姿はなかった。
「でも、そんなに遠くへは行ってないはずだろう? レイチェルはまだ七つなんだぞ!」
 ジョージは焦れて妻の手を振り解く。
「ああ……」スタンフォード氏はうめき声を上げ、両手の中に顔を埋めた。
「あの子は今、勢いに任せて走っていってしまった。だから、しばらくは無我夢中だろうが……気がついた時には、身体が動かなくなって、倒れて、眠ってしまうのだろう。ジェーンも、追いつけるだろうか。仮に追いついても、それで精一杯だろう。これだけの寒さの中では。たしかにそうだ……ここから助けに行っても……きっと同じことになる。この寒さでは、すぐに血まで凍ってしまうからな」
「そうですな……マイナス七十度なら、それほど遠くへ走っていなければ、まだなんとかなるのかもしれないが、実際はそれ以下。計れないというだけで、何度になっているかわからない。仮に百度まで下がっていたら、数分も持たないでしょう」
 父は難しい顔で首を振った。内扉と外扉の間には、スタンフォード氏、ジョージ、ロビンがいた。僕とパメラ、父と母と、ステュアート博士とストレイツ大臣は、内側のシャッターを半分ほど下ろした状態で、少し屈みこむようにして見ている。僕らはみなで、顔を見合わせた。
「あの二人を待つとしても、どのくらいなら望みがあるのだろう」
 博士は思案しているような表情で問いかける。
「本当の外気温にもよるが……五分から、長くて十五分が限界だろうと思う。それ以上は……」父はあとの言葉を言わず、首を振った。
「私はここに残る」スタンフォード社長は断固とした口調で言った。
「俺も」「僕も」ジョージとロビンが声を上げる。
「それでは、いったん内扉を閉めよう。我々は扉のそばにいる。あまり無理をしないようにな。そこもかなり寒い」
 ストレイツ大臣が腕を伸ばして、スタンフォード氏の肩を叩いた。二つの扉の間の空間も、内側に比べれば、かなりの寒さになっていたのだ。
 内扉が閉まった後、母は何かを思いついたように部屋の外へ出ていき、しばらく後、一本の懐中電灯と三つの使い捨てカイロ――張らないタイプのものを持ってきて、再び内扉を少し上げてもらい、中の三人に手渡していた。
「シャッターを閉めてしまうと、そこは真っ暗でしょう。これを……それから、これは手に握っていて。少しは違うから」
「ありがとう」
 スタンフォード氏と二人の息子は頷く。隙間から見えた三人の顔は唇まで青ざめていたが、寒さのためだけではないだろう。
 胸を引き裂かれるようだったが、僕らにできることは何もなかった。外扉は二重ガラスのドアだが、内扉は鉄製のシャッターなので、中に入ると、もう外の様子は見られない。二つの扉の間、二平方メートル弱の狭い空間に立っている、三人の様子も。しかし三人からは、外の様子はかろうじて見られるはずだ。一瞬だけドアを開け、真ん中を切り裂かれた銀色の幕をガムテープですばやくドアの両側に止めつけたので、その隙間から。そこから漏れる懐中電灯の灯りは、外から戻る時の、ガイドの光にもなるだろう。もしも戻ることが可能だったならば。三人は何度か扉を細く開けて、周りを見たに違いない。外へ行ってしまった二人に呼びかける声も、何度も聞こえた。内扉のそばで待機している人数はその間にも増え、エアリィ、ミック、ロブ、レオナ、そしてアデレード、ポーリーン、ステラ、エステル、さらに子供たちがやってきた。そしてみなで内側の三人に何度か呼びかけたが、彼らはただ、「大丈夫だ。もう少し待ってくれ」と答えるだけだった。
 最初にレイチェルが飛び出してから、二十分が過ぎた。しかし、何も変化はなかった。
「もう無理だ。あの三人を呼び戻した方がいい。外ほどではないが、あそこも相当寒い。下手をすると、彼らも凍死しかねない」父が首を振った。
 僕らは口々に呼びかけた。「もう無理だ。中に入って」と。しかし、スタンフォード氏と二人の息子は、聞き入れなかった。彼らの返答に変わりはなかった。
「大丈夫だ。もう少しだけ、待ってくれ」と。
 さらに十分が空しく過ぎた時、ステュアート博士が強い口調で声を上げた。
「もう無理だ。諦めろ! それ以上そこにいたら、君らも死ぬぞ! 中に入って来い」と。
「君らの気持ちはわかるが、たしかにその通りだと思う。諦めなければならんだろうな。酷だが……」ストレイツ大臣も、うなるように言う。
 それでもためらう三人を、僕らは半ば強引に引き戻した。シャッターを開け、七、八人で腕を引っ張って。そして再び内扉を閉めた。もうこれだけ時間がたっていては、夫人とレイチェルが戻ってくる可能性は、限りなくゼロに近い。いや、ゼロだろう。あの寒さの中で、三十分も耐えることは出来ない。すぐに身体の力も自由も奪い去られ、マヒに陥り、倒れてしまう。そしてもう目覚めることのない眠りに落ちてしまうのだろう。
 三人は中に入ってきた。何度も外扉を開けたせいだろうか、二つの扉の間の気温は、恐ろしいほど寒くなっていた。その中に三十分以上もいたのだから、三人とも身体は冷え切り、真っ青な顔をしていたが、やはりそれも寒さのせいばかりではないだろう。彼らは激しく震えながら、無言で部屋へと帰っていく。

 親族たちの部屋に入ると、スタンフォード氏はベッドのそばで立ち止まり、じっと見ていた。たぶんそこが彼らのベッド――夫人と孫娘と一緒に寝ていたのだろう。三枚のナイトガウンが重なるように、ベッドの上に広げたままになっていた。
 室内温度が低いので、ここにいる人々はみな、部屋の中でもフル装備だ。でも眠る時にはコートを脱ぎ、持ってきた柔らかいナイトガウンを羽織っている。部屋用の暖かいガウン。それは僕たちだけでなく、一般の人々用に配布した荷物リストの中にも入れたものだ。中には荷物になると持って来ない人もいたが、三分の二ほどの人は、持ってきたようだ。僕らのグループは全員が持ってきていた。
 寝具の上に広げられたボアとフリース地のガウンは、一枚がブラウン、もう一枚がワインカラー、そして明らかに子供用のローズピンク――もう着られることのない夫人とレイチェルのそのガウンを見た時、僕は胸が締めつけられた。あとからついてきた女性たちもみな、目頭を押さえている。
 スタンフォード氏は、しばらくえんじ色と濃いピンクのナイトガウンを見つめていたが、やにわにそれを引っつかむと、胸にぎゅっと抱きしめた。まるで失われた妻と孫娘のかわりのように。そして声を上げて泣いた。ジョージもベッドにつっぷし、こぶしを叩きながら声を上げている。
「許してくれよ、母さん、レイチェル!」
 ロビンも天を仰いで泣いていた。パメラもセーラも子供たちも。僕らはそのまわりをとり囲み、ただじっと見ていることしか出来なかった。
 僕は足元にあった小さな犬のぬいぐるみ――主を失った玩具を、そっと拾い上げた。
(家へ帰りたい)
 一人ぼっちの七才の少女が、どんなにここでそれを願っていたのだろう。その願いの切なさを――しかし、それを知ってもどうしようもないことが、よけいに哀れさを募らせる。願っても願っても、彼女が元の家に帰ることは、もう二度とないのだから。でもレイチェルの望みは、別の形で叶ったのかもしれない。二人の遺体は春になって、ホテルのドアから数十メートルほど離れたところで折り重なって発見されたが、二人とも安らかな顔をしていた。彼女は祖母と一緒に、彼方の世界で懐かしい家族に会ったのだろう。




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