Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第一章 運命の日(3)




 時刻は、十一時四一分になったところだった。薄い金色の光がアイスキャッスル上空を覆いつくした、その数秒後――僕が恐怖の叫びをあげるまもなく、そして深い感動のさなかにあっただろう観客たちが歓声を返すまもなく、それは訪れたのだった。
 突然、空気がビーンと音をたてて鳴動し、震え、続いて激しく空が光った。真夜中の青白い太陽のような、目も眩む光が降り注ぐ。さっきの金色の柔らかい光とはまるで違う、強烈な、突き刺すような青白く冷たい光だった。まるで強烈な光のシャワーを浴びせられたようだ。巨大な星が、空を走っていった。無数の星が雨のように光って流れていく。
 一瞬の間をおいて、ダーンと鈍い音響と共に大地が激しく揺れた。僕はその場に立っていることが出来ず、弾き飛ばされた。身体がアンプにぶつかり、また反動で前へ飛ばされる。客席の人々も一斉に飛ばされ、転んだり押し倒されたりしていた。
 激しい横揺れはすぐに収まり、縦揺れに変化した。地面を揺るがす大きな衝撃が、足元から突き上げてくる。盛り上がってくる――ずずーんと突き上げてくるような振動に、アイスキャッスル全体が揺れている。
 僕はその場に座り込んだ。揺れに抗って立っていることが困難だった上に、足の力も抜けてしまったようだ。全身に感じる衝撃の力は、まるで今まで大地の中に眠っていた巨大なエネルギーが、怒りがどっとほとばしり出てくるような勢いだった。遠くの方から木霊のように、低い地鳴りのような、虚ろな大砲の響きにも似た音が聞こえてきた。不気味な伴奏を奏でているように。
 地面からは、断続的に大きな衝撃が突き上がって来る。突然襲って来た巨大な振動に、客席の人々も一斉に椅子に座ったり地面にうずくまったりしながら、両手で頭を押さえた姿勢で、じっとしていた。
「地震だ!」誰かがそう叫んでいるのが聞こえた。
「なんでこのタイミングで地震なの!! バカ!!」
 そう叫んでいる、女の子らしい声も聞こえる。
 ただみんな、思ったほど混乱状態にはなっていないようだった。彼らはまだ、この地震の背後にある本当の意味、恐ろしさを知らないのだ。

 僕はステージの上に跪いたまま、振動を感じていた。身体ががたがたと震えるのは、地面が揺れているせいばかりではない。圧倒的な恐怖――感じられる思いは、ただそれだけだった。
 ステージのライトは、最初の振動の直後に消えていた。しかし、別の光が空を照らしているようだった。僕は見上げ、息を呑んだ。四方の空が光っている。赤く、青白く。この地の上は漆黒の空。だが、地平線の上から断続的に光が吹き上がる。青白い閃光が煌めき、そして赤く染まる。まるで大きな環のように、その不気味な光が夜空を取り巻いている。振動は尚も続く。身体中の血が逆流するような恐怖の中、僕は震え続けた。終わってしまった。本当に――全身の力が抜けたような、ひどい虚脱感が襲う。我知らず涙が流れ出し、あとからあとから頬を濡らして落ちていく。身も心も恐慌の大波に沈み、何も感じられなくなっていても、惜別の涙が溢れてくるのを止められない。失われてゆく、この世界に。多くの人々のこれまでの人生、喜びも悲しみも希望も夢も、すべてがこの瞬間、無情に断ち切られてしまったことに。
 電光時計の表示がぼんやりと眼に入ってきた。十一時五五分――最初の振動が来たのが十一時四十分過ぎだったから、十五分もたっていないのに。ああ、まるで永遠に終わらない、炎の責め苦の中にいる気分だ。
「おお、神よ。お助けください……」
 そんな呟きが、何度も口をついて出た。無力だ。僕には何もできない。母なる地球、そして宇宙の怒りに対して。
「ジョイスーー!!」
 我知らず、僕ははるかな南の空に向かって絶叫していた。トロントに残っている妹。一昨日病院で会った時には、母になった喜びに目を輝かせ、『可愛い子でしょ?』と、得意そうに、生まれて間もない我が子を抱いて、微笑んでいたジョイス。その中に浮かんだマドンナの微笑――かつて妻の顔に見たのと同じ、女として母として目覚めた喜びの表情だ。その腕の中ですやすやと眠っていた、小さな小さな生命、真っさらの無限の可能性であるはずの、生まれたばかりの赤ん坊――クロード・ジェームス・ローリングスと名付けられたばかりの、小さな甥。
 エイヴリー牧師――ひとつの価値観に固まりすぎてはいたが、それでも理解しようとしてくれたし、いつもその底に熱心な善意を持っていてくれた義理の兄。二人の元気な甥たち。少し内気なポールと利発なマシュー。子供のころからずっと、家族の一員だったホプキンスさん。トロントにおいてきた愛犬パービー。最初のころは天敵のようだったが、最近少しずつ軟化してきた義父母――彼らは愛情深い人たちだった。愛情の方向性が少々狭かったが、もう少し時間があったら、彼らとも完全に和解できたかもしれないのに。
 みんな、どうなってしまったのだろう。ずっとバンドを見守ってくれた、僕の憧れだったローレンスさんは、ロンドンでつかの間愛し合い、思い出をくれたニコレットは、ずっとバンドを守ってくれたコールマン社長は、長年僕の専属クルーをやってくれたジミーは、フレイザーさんや他のインストラクターたちは、ソロの時協力してくれたリズム隊の人たちは――僕の生涯で出会った大勢の人たちは。
 僕はよろよろと二、三歩前に身を動かし、がっくりとつっぷした。身体中の力がすべて奪い取られたようだ。うずくまったまま両手できつく耳をふさぎ、目を閉じる。それでも響いてくる恐ろしい音響と、身体に感じる振動を防ぐことは出来ない。消えてくれ! 早く終わってくれ! 最後にはもうその思いより他に、何も感じることが出来なくなった。ああ、いつ終わるのだろう。

 十二時を過ぎたころ、振動は弱くなっていった。遠くからゴーッといううねりに似た音が聞こえた。海が鳴っている。
「津波?」僕は身を起こし、ぼんやりと呟いた。ここに――波がくる?
「うん……たぶん」
 エアリィがまだ跪いた姿勢のまま僕らを振り返り、虚ろな調子で頷いた。
「けど、ここは大丈夫だ。ここには……水はこないよ」
 彼は首を振って立ち上がると、言葉を継いだ。
「でも、ここにいるより、戻ったほうがいいな」
「そうだ……ね」
 さっきまでキーボードの影につっぷしていたらしいミックが、蒼白な顔で立ち上がって呟いた。ジョージやロビンは唇まで真っ青になって、震えている。僕もまだ自分が震えているのがわかる。なにかをする気力は取り戻せなかった。
「みんな……出来るだけ落ち着いて、ゆっくり中に戻って! コンサートは、これで終わりだから……ありがとう。気をつけて……部屋に帰って」
 エアリィが観客たちに、そう呼び掛けていた。彼も顔は蒼白で、声も少し震えている。でも、あの最後の『Evening Prayer』での祈りの間に、ある種の悲壮な覚悟ができたのかもしれない。この場では、僕らの誰よりも精神力を保っているようだった。そして、まだ彼にはコンサートマスターの呪力が残っているのだろう。観客たちは一斉に立ち上がり、ステージに向かって大きな拍手と歓声を上げた後、最後列の観客たちから順々に、列を乱すことなく動き出し、広場から遊園地エリアを通り、アーケード内へと戻っていった。
 観客席にほとんど人がいなくなったころ、僕も震える足で、ステージを降りた。ギターを肩にかけたままだったので、機械的にはずしてラックに戻し、歩み去る。もうこれが最後のライヴ――ずっと悟っていたように。しかし、何の感情も湧いてこなかった。まったくの無感覚――まるで心が麻痺してしまったように。

 家族用のモーターホームに足を踏み入れると、ステラとクリスが駆けよってきた。
「凄い地震だったわね、ジャスティン。こんなにひどくて長いのは、初めてよ。まだ余震が来ているわ。怖いわ。早くホテルに帰りましょう」
 ステラは怯えた表情で僕の腕を取った。
 クリスも手にすがりつき、不安そうに見上げている。
「パパ、ぼくね、寝てたの。だけど目が覚めちゃった。椅子から落っこっちゃったんだもん。すごい揺れだったね。ねえ、ひょっとしたら、最後の審判の日が来たの?」
 息子の無邪気な言葉に、芯から震えた。何も言えなかった。僕は妻と子を抱きしめた。
「ホテルに戻ろう」
 ようやく僕は言葉を絞りだした。自分の声が遠くから響いてくるようだ。
「あなた、真っ青よ、ジャスティン。それにひどく震えているわ」
 妻は僕の顔を気遣わしげに覗き込んだ。
「大丈夫? あなたがそんなに地震が嫌いだとは、知らなかったわ。もっとも、好きな人はいないでしょうね。わたしも恐かったわ。初めて大きな地震にあったんですもの。あなたもそう?」
「ああ……」
「でもこんな所で変ね。カナダには、ほとんど地震は起きないはずなのに。クリスもすっかり怯えちゃって、審判の日がきた、なんて騒いでいるのよ。でも、その気持ちもわかるわ。本当に長くて、ひどかったんですもの。あれほど怖かったのは、初めてよ」
 僕はただ黙って彼女の方を見た。何か言おうとしても、言葉にならなかった。
「ちょっと待って。地震だったら、正確な情報を知らなくちゃならないわ」
 後ろでポーリーンの声が聞こえた。僕は振り返った。彼女はラジオのダイアルを回しながら、首を傾げている。いくらダイアルを回してみても、聞こえてくるのは、ピーピー、ガリガリという雑音だけなのだ。
「どこの放送局も入らないわ。おかしいわね、故障したのかしら」
 ポーリーンは不思議そうに、そう呟いている。ステラも僕の腕につかまりながら、その様子を見ていた。ほかのメンバーたちの家族も、集まってきていた。
「このラジオを試してみたら、ポーリーン。海外放送も入る高性能のものだから」
 パメラが大きなラジオを持ってきた。
「ええ……」
 ポーリーンは頷いて受け取り、机の上に置くと、ダイアルを回した。声が入った。彼女は手を止めて、ボリュームを上げた。激しい雑音に交じって、緊急を知らせるけたたましい警報の音と、途切れ途切れの声が聞こえて来る。
「緊急事態です。大至急…シェルターに……避難してください……」
 アメリカの緊急放送だ。あらかじめ録音されていたもので、有事の場合に自動的に放送されるという噂の――避難? 今からで間に合ったのだろうか。でも、これで一つの事実が確定した。とうとう悪夢が現実になった。僕らの世界は終わってしまったのだと。
 かすかなモーターのうなりと、布が広がっていくような音が聞こえた。見上げると、アーケードの中央部、ひときわ高い屋根に格納されていた銀色のシールドが広がって、施設全体を覆っていくところだった。外側に建つホテルや他の施設の側面を流れ落ち、やがて地面に届くと、錘が地面に刺さって固定され、内側からの空気で膨らんで、大きな銀色のドームのようになった。もともとは核シェルターとしても機能するように設計された、ここアイスキャッスルは、それが必要になる事態が起きた時には、自動でシールドが降りるという。大都市から発射されるその緊急シグナルを、ここから五百メートルほど南に設置された中継局を通じて感知した時に、シェルターモードに切り替わると。そして今、そのシールドが降りた。それは、もう一つの証明でもあった。

 ホテルの大会議室に、関係者たちが集まっていた。マネージメントやスタッフ関係、マスコミの人たち、アイスキャッスルの従業員、僕らの肉親たち――みんな頭を寄せあって口々に何かしゃべっている。部屋の中には大きなテレビが置かれていたが、その画面には空虚な砂嵐が映り、ザーッという騒音だけが流れていた。多くの人がいらだたしげに携帯電話の画面を見つめ、首を振る。何人かが懸命にラジオのダイアルを回している。でも、やっぱり雑音の他は、何も聞こえてこない。みんな興奮した面持ちで声高にしゃべり、落ちつきなく歩き回っていた。
 ここに集まって来た人々は一様に、何か信じられない悪夢の中へ突き落とされたような表情をしていた。こんな感覚は覚えがある。未来世界へ飛んだ時に。馴染み深い世界から切り離された。その思いは同じだ。でも今僕らを取り巻いている状況は、あの時とは比べものにならないほど重く厳しく、そして悲しい。あの時には、僕らの世界は依然として存在し、戻れるかもしれないという希望の余地も、かすかではあるがあった。でも今、世界が存在をやめてしまった。すべては消えてしまった。もしそれが真実なら、もうどこへも戻れない。世界から切り離されたまま――。
 恐れと不安が感覚をなくした心の奥深くで激流となって渦巻き、出口を求めてぶつかってきた。僕は頭を抱え、我知らずうめき声を漏らした。
 背後でいくつもの声が、怒号のように交錯しながら広がっていく。
「だめだ! 電話がどこへも通じない」
「インターネットも全滅だ。回線は生きているが、全部サーバーエラーになる」
「携帯もダメだ! メールすら通じない。電波は入っているのに!」
「きっと相手方が、軒並みダウンしているんだろう」
「だが、いったい、何がどうなったんだ?!」
「どこか放送が入らないか?」
「ダメだ。緊急放送はいくつか入っているようだが……生では入らない」
「緊急放送? しかし、そんなことが信じられるか?」
「現にそう言ってるんだから、仕方がないだろ!」
「ここも、シェルターモードになっている。間違いないんじゃないか?!」
「だが、いったいどうしてなんだ!! 今はそんな情勢じゃないぞ」
「ロシアか中国か、どこかほかの過激な国が仕掛けたんじゃないのか?」
「馬鹿な! どこにしろ、そんな自殺行為をやるほど、間抜けじゃないはずだ」
「迎撃システムは、完璧なんじゃなかったのか?」
「小惑星が衝突したのか?」
「そんな予測はなかったぞ! それに、どうして核まで爆発するんだ? あの放送が流れて、ここがシェルターモードになったというのは、そういうことだろう。だが、どうしてだ? どうしてなんだ?」
「それがわかれば、苦労などあるものか!」

『私たちにも、はっきりとした因果関係は特定できなかった』
 未来世界で会ったゴールドマン博士の言葉が、ふと脳裏を掠めた。現実に今、カタストロフの真っ只中にいても、なおわからない。なぜ起きたのか、どのようにして――それは、永遠に解けない謎のまま残るのだろう。僕は虚脱した頭で、漠然と思っていた。原因なんか、もうどうでもいい。起こってしまったのだから――理由がわかっても、どうにもならないことなのに、なぜいまさら原因を求めて騒ぎたてるのだろう。軽いいらだちを覚えた。だが、それ以上の感情はまだ湧いてこない。
「諸君、少し落ち着いてくれたまえ!」
 スタンフォード氏が机を叩き、声を高くした。
「アイスキャッスルの責任者として、みなさんにお願いしたい。どうかやみくもに騒ぐのだけは、やめてもらいたいですな。まず冷静になって、情報を集めることです。はっきりしたことがわからなくては、何もできません」
「とは言っても、この状況で情報収拾は難しいぞ」
 ミックの父親、ストレイツ国土開発大臣が腕組みをしながらうなった。
「放送も通信も全滅ですからね」
 スタンフォード氏も苦りきった顔で頷いている。
「オーストラリアの国営放送が入ったぞ!」
 さっきからしきりに大型ラジオのチューニングをしていたジャーメイン・スチュアート博士が、顔をあげた。
「だいぶ遠いから聞き取りにくいが、なんとか聞けるだろう。聞こえるかね?」 
 ボリュームを上げると、やがて途切れ途切れの放送が聞こえてきた。激しい雑音の中を潜り抜けて、かすかにアナウンサーらしい女の人の声が聞こえる。
「緊急ニュースです………本日、十一月三日午後二時四〇分……大地震が起こり……巨大隕石が……太平洋東海岸に、大規模な津波……シドニー、メルボルン、キャンベラ、ブリスベーンは……水没……それ以前に、核爆発の影響と思われる……………スカイシャイン現象……放射線………国民の大半が、即死………わたしは今、内陸部の、臨時放送局から………ここも、やがて………時間の問題……国家の存続さえ危ぶまれ……世界規模の被害で………今、わたしたちの文明は最大の危機に……」
 雑音が激しくなり、やがて声は聞こえなくなった。でも聞き取れた言葉は間違いようがない。みな声もなく、その場に立ち尽くしていた。頭を抱えて、床にべったりと座り込んだ人たちもいる。
「オーストラリアは、核兵器を持たないと言われている国だ。原子力発電所もない。他の原子力施設を持つ国からも離れている。一番近くて、東アジア地域だ。その国で……スカイシャインで、ほとんどの国民が即死した? いったい、何が起きたんだ?」
 ステュアート博士が首を振りながら、まだ半信半疑といった風情で呟いた。
「大津波とも言ってますね。隕石がぶつかって……昔から、大隕石が海に落ちたらそうなるとは、言われていましたが……そういえば、大きな星が流れた……あれがそうだろうか……」スタンフォード氏もうつろな調子で、首を振っている。
「信じられない……」誰かが、今にも泣きそうな声を上げた。
「そんな馬鹿な!」悲鳴に近い声も聞こえる。
「どうしてだ! なぜ!?」誰かが激しく壁を叩く。
 短い混乱のあと、やがてみなは黙り込んだ。啜り泣いている声も聞こえる。
「とにかく、今日は部屋に引き取ったほうがよさそうだ」
 スタンフォード氏が大きなため息とともに、そう言った。
「明日、ここの客たちにも、事情を説明しなければならないな。混乱しなければいいが」
「パニックになるなというほうが無理だ」ストレイツ氏が力なくうめいている。
「たしかにそうだが……」
「だが、ここがシェルター兼用に設計されていたのは、不幸中の幸いでしたな」
 ステュアート博士はふっと息を吐きながら、頭を振っていた。
「本当にそうですね。推進されたのはストレイツ大臣でしたが……先見の明がありましたよ」スタンフォード氏もまた、ため息混じりに頷いている。
「だが、私はまさか本当にこの設備が必要になるとは、夢想だにしなかった」
 こう抗弁しているのは、当の大臣だ。
「とりあえず我々はみな、しばらくはここにいなければならないんですか?」
 こう聞いているのは、マスコミ関係の誰かのようだった。
「そうですね。他に方法がありません。どこかに連絡が取れるまでは」
 スタンフォード氏が、自らに言い聞かせているかのような口調で答えていた。
「どのくらい?」
「それはわかりません。私にもあなたにも、誰にも……だが、ここはシェルター兼用に設計されていますので、かなり長期間滞在は可能です」
「これだけの人数で大丈夫ですか? 何千人もおりますよ」
 心配そうに、父が聞いていた。
「正確には八二五二人です」
 アイスキャッスル管理責任者の名札をつけた背広の人物が、代わって答えている。
「しかし食料の点なら、かなりストックがあります。半年は大丈夫だと思います。簡易シャワーやドライシャンプーもありますし、その他衛生設備もあります。館内には診療所もございますし、トロントから医師も数人派遣されています。あなたもお医者さまですか?」
 相手はそう尋ねた。父の服の襟についている医師会理事のバッジに気づいたのだろう。父が頷くと、彼はこう言葉を継いだ。
「それはようございました。心強いです」
「食料が確保されているのは、たしかにありがたいが……」父は腕組みをした。
「核の冬が恐いぞ。もし本当だとしたらだが。おまけにここは極地で、しかも悪いことに、今は十一月だ」ステュアート博士が後を引き取って、首を振る。
「ここの制御システムは、博士も携わっておられたのでしたね」
 スタンフォード氏が気遣わしげにきいていた。
「ああ。設計段階だけですがね。核シェルターを兼ねるということで、緊急システムはしっかりできているはずです。外部電力が断たれたり、緊急シグナルを感知したりしたら、シェルター用プログラムが立ち上がるように出来ていますし。シェルターカバーが起動しているということは、今はもう、そうなっていると思いますが。確認してきます。一緒に来てもらえませんか」
「わかりました」
 スタンフォード氏は頷き、アイスキャッスルの管理責任者とともに、ステュアート博士の後について、部屋を出て行った。そして二十分ほどして、三人は戻ってきた。
 博士は頭を振りながら、言葉を続けた。
「システム自体には、異常はない。ガス油田も無事なようだし、見たところパイプラインにも損傷はなさそうだ。水道も問題ない。ここは深層地下水を濾過して使っているが、今のところ水質に問題はないようだ。下水の方も機能している。だが、供給される燃料にも発電電力にも限りがある今、外気温が下がりすぎると、室内温度も下がってきてしまう。しかし、これからどこまで外気温が落ちるか、私も予測が出来ない。その専門家ではないしな。だが、見通しは厳しいだろうと思う」
「そうですね……」みなは頷くと、一斉に黙り込んでしまった。
「まあ、ともかくしばらくは、私たちもここで生きていけるのですから……」
 スタンフォード氏が気を取り直したように言った。
「ともかく今日はこれで、みなさんお休みください。もう夜中の三時を回っています。明日の朝、一般の人たちに出来るだけ穏便に事態を伝えましょう。ただし大規模な天変地異と核爆発で、世界が壊滅状態らしいなどということは、完全に確認が取れるまで伏せておきたいと思います。また明日ここで、詳しい協議をいたしましょう」
 集まった人々は氏の賢明な提案に従って、のろのろと部屋を出ていった。だが本当に休めるかどうか、それは保障のかぎりではないだろう。

 僕も重い足取りで自分の部屋に帰った。中はすでに暗かった。もうステラもクリスも寝ているのだろう。そう思い、足音を忍ばせてベッドに近づいた。息子は眠っていた。だが妻はネグリジェの上に厚いナイトガウンをはおり、毛布を膝にかけた状態で、暗やみの中でじっとベッドの端に腰かけて、僕を待っていたようだ。
「ジャスティン……いったい、何があったの?」
 彼女はささやくような声で問いかけてくる。
「わたし、心配で眠れないの。外でポーリーンさんがつけていたラジオで……緊急事態だって……映画で見たことがあるわ、そんなシーン。いったい、何が起きたの? ここにもカバーが降りてしまったし……怖いわ。どうしたらいいのかしら。みんな、間違いだったら良いのに……」
 僕は黙って、震えている妻の身体を抱き締めた。本当に大変な事態になったのだと無情に断定することも、そんなことは本当ではないと、気休めの嘘をつくことも出来なかった。ただその身体を抱きしめ、暖めて、震えを止めてやることしか。僕は言葉を失い、両手に力をこめた。涙が頬を伝って流れる。長い沈黙の後、ようやく言葉を絞りだした。
「間違いだったら、いいな……」それより他には、何も言えそうになかった。
「間違いよね。そうよね……」
 ステラは僕にしがみつきながら、そう繰り返している。
 僕は無言で妻を抱きしめながら、暗い部屋をぼんやりと見つめていた。ここの中は昨日と変わったところなどないのに、外ではいったい、何が起きたのだろう――何が起きたかは、わかりきっているはずなのに、虚脱感と絶望の中で、そんな思いを追いかけている。時計の音が、時間がたっていくのを知らせ、息子のやわらかい寝息も聞こえる。ああ、少なくともここは、まだ存在している。でも、世界は本当になくなってしまったのだろうか。

 最初の数日は、当然のことながら、かなりの混乱状態だった。カタストロフ翌日の朝、目覚めた一般の観客たちは――ホテル部の観客たちは窓の外に張り付いた銀色の幕を見、そしてシェルター部も含めた全員が、テレビをつけようとしても、何も映らないことを発見して、ひと騒ぎ起きたようだ。ホテルのフロントは昨日の地震でカバーが降りたのだと説明し、テレビが映らないのは、テレビの故障ではないし、アンテナの不備でもない、先の地震で放送局が復帰していないためだろうと説明していた。一般客たちはお互いに、すべての部屋のテレビが映らないこと確かめた後、首を傾げながらも了解したようだった。ラジオに関しても同じ苦情が起こり、さらに電話がつながらないために、また一騒動起きたという。携帯電話も電波は入るものの、どこへ発信してもつながらない。それは、僕らを含め、みなそうだったようだ。たぶん空港近くの電波塔はまだ生きているのだろうが、受信局側が機能していないのだろう。大元のキャリアもダウンしているらしく、アイスキャッスル内の通話すら出来なかった。館内wi-fiは使えるものの、ネットにつなごうとするとサーバーエラーになる。たぶん電話と同じく、つなぐ先がなくなっているのかもしれない。
 お昼ごろ、アイスキャッスルの管理責任者とスタンフォード社長が館内放送を通じて、昨日の地震で都市部にかなり被害が出ているらしく、それゆえ連絡がつかない。トロントや近隣都市とも連絡がつかないので、飛行機も飛ばすことが出来ない。状況がはっきりするまでは、ここを災害時の緊急避難所とすることにし、これから昼食を配るので、アーケードの中央広場(通路部分だが、ドーム状の屋根に覆われた今は、建物に囲まれた、縦二百メートル、横三十メートルくらいの細長いホールのようになっていた)まで取りに来てくれと、施設にいる全員に告げた。そしてアイスキャッスル内の従業員たちの力を借りて、倉庫から持ってきたパンと飲み物を配った。夜は、まだ今は電力もガスも余裕があったので、飲食店を総動員して、残った食材を調理して出していた。
 その翌日、アイスキャッスルにあった商店の品物が、かなり減ってきたので(みな、今のうちに買えるものは買っておこうと思ったらしい)、パニックを避けるためにすべての商店を閉鎖し、残った品物はまとめて小さな倉庫に移した。
 だがこんな状態が三日四日と続くにつれて、人々の間には当然のことながら、強い不安が広がっていったようだ。本当のものからまったくのデマまで色々な噂が飛びかい、だんだん精神的に不安定になっていっているようだった。家族や友人たちの安否を知りたくとも、連絡手段がないという不安もあるのだろう。食事を配る時に、『まだ見通しはつかないんですか?』『いつまでここにいればいいんですか?』という声を、かなり聞くようになってきたらしい。

 僕らの親たち、関係者や施設に働く人たち、マスコミの人々はその間も、だんだん危うさを増していく状況を心配しつつ、情報収拾に躍起になっていたようだ。だがすべての努力は無駄だった。メディアも電話もインターネットも全滅状態で、いかなる連絡もとれなかった。頼りは無線だけだ。カタストロフの翌日から、館内の電波局を利用して、世界各地の生存者たちに連絡をつけるための、救難放送も始められた。
「こちら、カナダのヌナプト準州プリンスチャールズ島内、アイスキャッスル。生存者約八千人あり。もし、どなたか生存者がおられましたら、こちらに連絡をください。ステーション・ナンバーは○○○……」
 こういう内容の放送を、エンドレステープで流し続ける。英語だけでなく、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、日本語、ハングル、タガログ、タイ、ヒンズーと、ありとあらゆる言葉でメッセージを送った。関係者の中で誰か一人でも知っている言葉があれば、どんな局地的な言葉でも採用し、エスペラントさえ使った。無線は普通、それほど距離が出ないが、ここはシェルターを兼ねるという目的ゆえ、かなりブーストして、遠くまで届けることができるようになっているらしい。それに対して、最初の数日は、まだ散発的にいくつかの返答が来た。しかしどれも人口の疎らな地域のシェルターからで、逆に助けを求めてきている。だが、こちらもまだとても動ける状態ではない。ただお互いに連絡を取り合うだけだ。相手の電波状況はこちらほど強力ではないようで、かなり途切れるが、それでも他に生存者がいるという事実は、大いに慰めになった。

 不安定な最初の一週間が過ぎた夕方、関係者たちの対策本部では、みなが難しい顔で集まっていた。
「どうやら、最悪の事態になったことは確実だな」
 ストレイツ氏がうめくように口火を切った。
「信じられないことだが……」ステュアート博士が首を捻った後、続けた。
「だがしかし、いつまでも現実から逃避していても、仕方があるまい。我々はなんとかここで生き延びる努力をしなければならないな」
「そのとおり、そのとおり」スタンフォード氏が頷いた後、難しい表情で付け加える。
「だがそのためには、そろそろ一般の人たちにも、現状を正しく認識してもらう必要があるな。彼らの状況は今、かなり不安定だ。それというのも、事実がはっきりわからない苛立ちがあるからだ。ただ災害があって、ここは避難所だ。それだけでは、不安になるのももっともだ」
「事実を知って、前向きに生きていく気力を持ってもらわないと困るのはたしかだが、かなり難しいことだな」父は、かなり危ぶんでいるような口調だった。
「だが、彼らの理解と協力は不可欠だ。数の上で我々の大多数をしめているのだから」
 あるジャーナリストが、熱っぽくそう主張する。
「そうだ。関係者は全部で三百人足らずだが、客たちは八千人いる。それも、みんな若い」
 スタンフォード氏は考え込んでいたようだが、やがて僕たちのほうを振り向いた。
「そうだ。客たちは、君たちを見にきたんじゃないか。みんな、君たちのファンだろう? でも君たちはコンサートが終わってから、同じ建物にいても、一般の人たちと接触していない。今は接触しない方が良いという、ビュフォードさんたちマネージメント側の判断で。君たちが現われると、よけいに混乱するかもしれないという懸念はわかる。でも実際、食料を渡す時に、よく聞かれるらしい。『エアレースのメンバーたちは、まだここにいるんですか?』と。だから……どうだろう。一度彼らの前に姿を現して、君たちから本当の事情を、説明してくれないだろうか。そうすれば、彼らも少し落ち着くと思う」
「えっ?」僕たちは声を上げ、お互いに顔を見合わせた。
「危なくないだろうか、それは……たしかにファンだっただろうが、こんな事態の前で」
 ジョージが疑わしげに首を傾げる。
「そうだね。でもたしかに、彼らは僕らの観客だ。みんなをここへ引っ張ってきたのは僕らなんだから、僕らに責任があるんだと思う。やっぱり彼らと接触した方がいいんじゃないかな。その上で相手がどう出るか、というのは多少不安だけれど、それでもね」
 ミックが考え込んでいるような表情ながら、静かに頷いた。
「そうだな……」僕は彼の理を認めた。ジョージとロビンも頷く。
「うん。観客の人たちに会うっていうのは僕も賛成だけど、誰が話す?」
 エアリィが少し首を傾げながらそう聞くと、僕を含めあとの四人は、一斉に声を上げた。
「おまえのほかに、誰がいるんだよ」と。
「え? ここでも僕がMCやるの?」
 MCじゃない。たしかにコンサートで観客に話すのは、多くの場合ヴォーカリストの役目だが、エアリィが一般の人たちに話すべき、という理由は別のところにある。アーディス・レインはバンドの九十だ。彼はファンたちの間に、絶大な影響力を持っていた。こんな非常事態の中ではコンサートの時ほど効力は発揮できないだろうが、他の誰よりも彼がやったほうが、効果は期待できる。エアリィが万一失敗するなら、僕ら他の四人には、なおさら勝ち目はないだろう。




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