Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第一章 運命の日 (2)




 僕らがサウンドチェックを終えたころ、妻や子供たちがホテルから出てきた。彼ら用のモーターホームに荷物を置き、でもみんながいると中はさすがに狭いのか、ほとんど外へ出てきている。昨日と同様、全員しっかり防寒体制だ。
 バックステージの広場で、子供たちは鬼ごっこを始めていた。黒い髪をお下げに編んで、からし色のコートとカバーオールを着たプリシラ・スタンフォードは今や十一才、小さい頃は人見知りの激しい子だったが、だんだん母親譲りの、しっかりした女の子になってきていた。彼女はさながら、子供たちの小さなリーダーといった感じだ。七才半の弟ジョーイは、髪の色以外はジョージにそっくりで、もじゃもじゃの鳶色の髪に丸い茶色の目をした、いつも真っ赤な頬をしている悪戯っ子だ。彼はクリスの良き相棒で、遊び仲間だ。そして二人の男の子は仲良しトリオの紅一点、ロザモンド・ローゼンスタイナーをめぐってライバル関係にもあるのだと、いつもクリスが真面目な表情で言っていた。
 ロザモンドはもともと飛びぬけてかわいい子だったが、大きくなるにつれますます器量が増し、思わずみんなが振り返って見るほどの、小さな美人になっている。ふさふさと背中に垂れた、明るい金髪の巻き毛。えくぼのあるピンク色の頬、きらきら輝く青い瞳。『この世のバラ』という命名は、たしかにぴったりだ。そういえば、クリスが生まれて命名する時、『いくつかの候補を紙に書いて、目をつぶって引けば』とエアリィに言われたが、ロザモンドが生まれた後、彼に聞いたことがある。『おまえは娘を、そうやって命名したのか?』と。『それも考えたけど、ファーストインスピレーションかな。バラの花のイメージだったんだ。濃いピンクに白が混じった。でも未来世界のバラみたいに、棘はないんだ』という答えだった。なるほど。彼のインスピレーションはいつものごとく的確だったな、と思わざるをえない。
 ロザモンドは襟と袖口に白いボアの飾りがついた、真っ赤なダウンのコートを着ていた。赤いベルベットの帽子にも、ぐるっと白い縁飾りがついている。その赤い色が自分のズボンと一緒だとクリスは得意そうに宣言し、ジョーイは「男のくせに赤なんて、女みてえ!」と、あっかんべをしている。しかし彼は、あとで自分の茶色のオーバーを少し恨めしそうに見ていた。
 子供たちは歓声を上げて駆けまわり、リーダー格のプリシラは小さなティアラ・ローゼンスタイナーの手を引いて、彼女が捕まらないようにかばいながら、遊んでやっていた。あさって四才の誕生日を迎えるティアラは、ダークブロンドの巻き毛に、大きなすみれ色の瞳で、姉のロザモンドと同じように、お人形さんのようなかわいらしさだ。この子の命名は『すみれの中に住んでる妖精の王女的な感じ』というインスピレーションだのだと、エアリィは言っていたが、これもわかる。すみれ色の瞳に、濃い黄金色の髪の毛、人を引きつける愛らしさ。姉同様、ぴったりな命名だ。ティアラの帽子とコートはピンク一色で、白い縁取りがついている。姉妹はまるで、雪原に咲いたかわいい二輪の花のようだった。
 母親たちはそんな我が子たちを見守りながら、談笑していた。その会話が、風に漂って聞こえてくる。
「来春からわたしたち、トロントの家を引き払って、セントキャサリンズにずっと住むつもりなのよ」パメラの陽気な声が聞こえた。
「あら、じゃあ、ついに農場に専念するの?」アデレードがそうきいている。
「ええ。音楽業界からはリタイアして、本格的に農場を経営したいらしいわ。わたしも賛成なのよ。セントキャサリンズは本当にいいところだし」
「うちは大学院に入るらしいわ。そこで二年勉強したら、お父さんの秘書になる。そんな約束をしたみたいなの」ポーリーンはいつもの穏やかな、冷静な口調で話している。
「あら。それじゃ、やっぱりゆくゆくは政界デビューなの? ミックさんは」
 アデレードは少し驚いたようなトーンだった。
「ええ。それが約束みたいだし。元々四十になったら引退して政治家になる約束だったようよ。少し早くなったようだけれど」
「それだと、リユニオンしたくても出来ないわね」パメラは笑っていた。
「それとこれとは別みたいよ。あの人には深い策略があるのかもしれないわ」
 ポーリーンの声も、かすかに笑いを含んでいる。
「わたしたちも、セントキャサリンズの家を本拠にすると思うわ。そこで小説を書きたいって言うの」セーラは無邪気な調子でそう言い、
「ああ、それではやっぱりみなさんは、音楽界からリタイアしてしまうのね。まあ……ここ当分なのかもしれないけれど」
 アデレードの声には、少し羨ましそうな響きがあった。
「あなたのところは、まだ当分現役でしょう、アデレード? アーディス君は本格的にアクアリアで再始動するって、もっぱらの噂よ」パメラが問いかける。
「そう……みたいね。はっきりしたことは、何も言ってくれないけれど……でも最近、しばしば向こうから連絡が来るみたいだし。エアレースとは違うと思うのよ、アクアリアは。あくまでサイドプロジェクト的なニュアンスだから。でも、しばらくは向こうでしょうね。静かな暮らしは、当分出来そうにないわ。それに、どうかわたしを見捨てないでね。アクアリアの他のみなさんは独身だから、わたしは向こうでは、お仲間がいないのよ」
「大丈夫よ、アデレード。わたしたちはずっとお友達よ」
 ステラは熱っぽい調子でそう請け合っていた。
「ありがとう。うれしいわ。それで、あなたのところはどうなの、ステラ? プランは決まったの?」
「まだ決めていないようよ。でも、やっぱりジャスティンにも、現役を続ける気はないようなの。業界には関わっていくかもしれない、とは言っているけれど」
 ステラは考えているような口調で、そう答えている。
「なんだか不思議な気がするわ。こういう日が来るなんて。わたし、最初の頃はジャスティンが長い間留守になると寂しくて、でもそう言ってはいけないって我慢して、最近、やっと慣れてきたところだったのよ」
「あら、偉いわね、ステラ。うちなんて、亭主達者で留守がいい、というところよ。まあ、牧場ではいつも一緒だし、それはそれでいいけれど、いなくても、さほど気にならないわ。あなたたちはお熱いのね」パメラが笑っていた。
「お熱いわよ、ステラとジャスティンさんは。セーラとロビンさんもね。いつまでたっても新婚さんみたいで」アデレードも少し笑っている。
「そうよね」パメラとポーリーンも頷いているようだった。
「あら、からかわないでよ、アデレード。そういうあなただって、ご主人に夢中じゃないの」
 ステラの声は、明らかに狼狽と恥ずかしさが入り混じって聞こえた。きっと頬を赤くしているのだろう。
「でも、うちは熱くなれないのよ。相手が風だから」
 アデレードの声には、微かなあきらめと、少し面白がっているかのような響きがあった。
「本当にマイペースなのよね。これからも放っておかれそうだし」
「お気の毒に! でも、仲良しよね、あなたたちも。女友達同士か姉妹に見えてしまう、という感じは否めないけれど」パメラにそう言われ、
「それは否定しないわ。姉妹なら、わたしがお姉さんね。年も三つ上だし」
 アデレードも笑っている。そして彼女はこう続けていた。
「ねえ、これから……明日トロントへ帰ったあとは、みんなばらばらの道を行くことになりそうだけれど、でも時々はホームパーティでもして、みんなで顔を合わせましょうよ」
「ああ、それはいいわね。ぜひそうしましょう!」と、全員がまるでコーラスのように、同時に声を上げていた。
 未来――彼女たちの話は、僕らが最後のツアーで話していたことを、鏡で映したようだ。もしここから続く未来が過去と同じならば、それは現実となるだろう。でも今は、まだおとぎ話だ。

 こうしている間にも、時は流れていく。お昼近くになってやっと上がった太陽は、三時間ほどで、また慌ただしく地平線に没していった。同時に観客たちが会場を埋め、僕らはモーターホームに撤退した。妻たちも子供たちを連れて、家族用ホームに引っ込んだようだ。ホームの中は比較的暖かい。僕らは椅子に腰かけ、熱い飲み物をすすりながら、ともすれば黙りがちだった。
 あと一時間で開演になる。でも、無事にやれるだろうか? コンサートの幕が下りるのと世界全体に幕が下りるのと、どちらが早いだろう。そんなことを考えただけで、どんな風よりも冷たい恐怖が吹き込んでくる。六時間――最後だから、ファンたちが聞きたい曲をできるだけ網羅しよう、そう思い設定した、普段の二倍の時間にわたる、ラストコンサート。それが終わった時に待っているものは――いや、終わるまで、待っていてはくれないかもしれない。そう思うと、再び心臓の鼓動が早くなる。身体は熱くなり、心はぞっとするほど寒い。空気の冷たさより、もっと。この日が早く終わってほしい。無事に。今ある姿のままで。それだけしか思いはない。

 開演四十分前になって、携帯電話が突然鳴り出した。【父携帯】と表示されている。父さんが今頃、どんな要件なのだろう。ジョイスか赤ん坊に、何かあったのだろうか。それとも実家に預けた犬、パービーのことだろうか? 訝りながら僕は通話ボタンを押し、電話を耳に当てた。
「もしもし……」
「ジャスティンか?」
「父さん、どうしたんだい?」
「このわからずやの警備員に言ってくれ。私はこんな寒いところで、六時間も立っておまえたちを見るなんて、ごめんだ。しかもここからでは、ろくに見えんぞ。おまえのところにとは言わんが、ジョセフやジョアンナのところに行きたいんだ。無理か?」
「ええ!」僕の驚きの声は、叫びに近くなった。
「父さん、今、どこにいるんだい!」
「だから、ここだ。会場の入り口にいる。母さんも一緒だ」
「ええっ!」僕はもう一度叫んだ。
「どうして……だって、来ないって……」
「私だって、来るつもりはなかったさ」父は不機嫌そうな口調だった。
「だが、ジョイスの、たっての頼みだからな。幸い、今病院では難しいオペの予定もないし、難しい患者も抱えていない。おまえの最後のコンサートに、自分のかわりに行ってくれと、ジョイスに頼まれてな。ビデオを撮ってきてくれと。ジョイスはストリーミングを見るつもりで、ノートパソコンをベッドに持ち込んでいたが、それがあるならいいじゃないかと、私もルーシアも言ったんだ。でもストリーミングは保存できないし、途切れるかもしれない。あとからまた見たいのだと、きかないんだ。それで、仕方がないから来ることにした。おまえが置いていったチケットを使って。母さんは私一人でここまで来るのが心配だと、一緒に来た。最終便……十一時の飛行機で来たんだが、一回ホテルに行って荷物を置いてから、ここへ来たら、入り口で警備員にビデオを取り上げられたんだ」
「それはそうだよ。会場に録音録画の機材は、持ち込み禁止なんだから。父さんはきっと、堂々と持ち込もうとしたんじゃないかい」僕は思わず苦笑した。
「知らなかったからな。だが、ビデオを撮れなければ、私たちが来たかいがない」
「わかった。主催者に頼んでみるよ。ジョイスは元気かい?」
「ああ。昨日退院して、順調に回復している。今はホプキンスさんがジョイスと赤ん坊と、それからおまえの犬の面倒を見てくれているんだ。『お嬢様と赤ちゃんは、わたしが責任持ってみますから、大丈夫です。心配せずに行ってらっしゃいませ』と言ってくれてな。赤ん坊は、今日クロードと名づけれられた」
「そう。父さんのミドルネームだね」
「おまえのでもあるぞ、ジャスティン。ジョイスはどちらのつもりでつけたのかは知らんがね。正式な名前は、クロード・ジェームズだ」
 父は少し苦笑しているようだった。
「そう。わかった。今から迎えに行くよ。正確には、どこにいるの?」
「広場に入るゲートのところだ。わからずやの警備員が二人、一緒にいる」
「わかった。じゃあ、待っていて」
 僕は電話を切り、立ち上がって外に出ようとしたところを、ロブに止められた。
「おい、ジャスティン。どこへ行くんだ?」
「父さんと母さんが、最終の飛行機でここに来たらしいんだ」
 僕は振り返って答えた。「でも、飛行機とコンサートのチケットしか持ってこなかったらしいんだ。バックステージパスは、置いてこなかったから。うかつだったけど、まさか父さんたちが本当に来てくれるなんて、思わなかったんだよ」
「ああ、そうなのか」
「それに、ジョイスに頼まれて、ビデオを持って来てしまったらしいんだ。それで、入り口のところで警備員に見咎められちゃったらしくて……」
「そうか……」ロブは苦笑した。
「だが、おまえは行くな、ジャスティン。ここからだと観客席の脇通路を通らないと、広場のゲートまでは行けない。おまえが行ったら、えらい騒ぎになるぞ。僕がかわりに行ってこよう」
「でも、ロブ。僕の両親を知っているかい?」
「行けばわかるだろう。ゲート警備員のところにいる、そんな年配のご夫婦の観客など、他にいやしないさ」
 ロブはバックステージパスを二枚携えて、モーターホームを出ていき、二十分ほど後で戻ってきた。
「お父さんとお母さんは、親族用のモーターホームにご案内したよ。おまえのお兄さんとお姉さんも、そちらにおられるからな。スタンフォードご夫妻とも面識がおありになるようだし、こっちへ来るよりお気楽だろう。ご年配の方々は関係者サークルで椅子に座って見たとしても、お寒いだろうから、親族用モーターホームの一つの中にビデオスクリーンを設置して、そこで見られるようにしたんだ。お父さん方も、その方が良いと仰っていた。それと、ビデオはこちらで、ライヴストリーミングとビューイング用に流しているものを録画してお分けすると言っておいたよ。オフィシャル用にプロも撮っているしね」
「そう。良かった。コンサートが終わったら、改めて会いに行くよ。ありがとう、ロブ」
 僕はいくぶんほっとしながら、頷いた。
 今、三時四十五分。あと十五分で開演する。今日が終わるまで、あと八時間と十五分――緊迫感で胸がつまりそうだ。

 バックステージのテーブルの上に、CDのついたラジオがのっていた。まるで前世紀の遺物のようだが、ここに持ち込んだのにはわけがある。聞こえているのは、カナダ国営放送だ。それも、ニュース専門局。北極圏の磁場のせいでバリバリ、ガリガリという雑音のかなり交じった、耳障りな放送を流し続けているのは、世界はまだ存続しているのか――今までの姿で。それを確かめたいからだ。ノイズに邪魔はされるものの、ラジオからはいつものニュースが流れている。ああ、僕らの知っている世界が、まだそこにある。
 真っ赤に燃えている石油ストーブも、その周りにしか暖かさが届かない。少し離れると、もう空気は冷たい。手がすっかりかじかんでいた。はあっと息を吹きかけて擦りあわせながら、僕はモーターホームの入り口に立ち、すっかり暗くなった空を見上げた。観客席エリアには照明塔の光が照らしているが、このあたりまでは届いていない。透明な暗やみに、一面細かいダイアモンドの粉を散らしたような、無数の星が広がっている。切れ切れに金色の北極光が走っていく。僕は一瞬その美しさに打たれ、星の世界――宇宙の広がりに思いを馳せた。僕たちの太陽もどこか遠くの星から見れば、この無数の星たちの一つにすぎない。この宇宙には数えきれない多くの太陽と地球が存在している。そこにはまた多くの生命がいるのかもしれない。僕たちの地球もこの広大な宇宙に属して、その法則と支配を受けているのなら、たとえ地球が消えてなくなったとしても、宇宙の海の中、小さな小さな泡が一つ消えるだけ――なんて取るに足りないことなのだろう。
 流れ星が一つ、銀色の糸を引いて落ちていった。僕は自分の追っていた考えの無情さに少しはっとし、頭を振ってため息をついた。地球という小さな小さな星――天の海の泡には、何十何百億の命が存在している。その生命の重みは、そこに暮らす僕らみなにとって、宇宙の存在意義と同じくらい大きいはずだ。

「ライヴストリーミングがやばいぞ。サーバーを増強したんだが、クラッシュしそうだと」
 スタッフ用のモーターホームで、何人かが携帯電話を片手に、興奮気味に叫んでいた。ここに来られなかった人たちの救済措置として、世界各地で許可の取れた二千館ほどの映画館と百三のアリーナ、三二のスタジアムで、このアイスキャッスルのコンサートが、世界各地に生中継される予定になっている。そしてオフィシャルサイトや、動画サイトの公式チャンネルで、ライヴストリーミングを配信する。最後の二週間、スタッフたちはその準備に追いまくられたようだ。彼らの話では、世界中のビューイング会場のチケットは売り出されて数分で完売し、ストリーミングには数千万の回線がつながっているという。地域によっては平日の朝や昼間なのにも関わらず、アイスキャッスルに行くのは無理でも、最後のライヴを見たいという人がこんなにいたのか、と改めて感嘆したが、同時にひどくやりきれない思いも感じた。スクリーンや画面の前にいる膨大な観客たち。でも僕らは、彼らを救うことが出来ない。あの運命が本当ならば。
 マネージメントの社長レイモンド・コールマン氏も、ここに来る予定だったが、このビューイングとストリーミングが思った以上の規模になったため、陣頭指揮のためにトロントに留まることになった。今朝、その電話がロブにあったばかりだ。そして、僕らにこう伝えてくれと言われたという。
『君たちの最後のステージを見に行きたかったのだが、私はここでサポートに回ることにする。無事に世界中のファンたちに、君たちのラストコンサートを届けられるようにね。しかしこれが本当のラストではないと、私は信じているよ』
 無事に戻ってこられたら、これで終わりではないかもしれない、たしかに。でもそれはまだ、あまりに不確定な未来だ。デビューからずっと僕たちを支えてくれたマネージメントの社長も、ここには来られない。それもやはり、運命――と思うしかないのだろうか。

「そろそろ開演時間よ。みんな、スタンバイしてね!」
 ステージマネージャーであるレイチェル・フォーリー女史の声が、僕の夢想を覚ました。僕らは弾かれたように立ち上がり、顔を上げて、お互いを見た。一斉に表情が引き締まり、みんなが頷きあう。泣いても笑ってもこれで最後。僕らのラストコンサートが始まる。最後までやれるかどうかさえ保障のない、一分ごとにとびきりの薄氷を踏んでわたるような、最後のステージが。神さま、願わくば最後まで、やりおおせますように。そしてその後も、なにもなく一日が終わってくれますように――。
 僕はステージ衣装の上からはおっていた、分厚いコートを脱ぎ捨てた。極地でのコンサートだから、ステージ衣装とはいえ、全員ヒート素材のアンダーシャツを二枚重ねて着た上にベルベットやウール系のトップス、その上から上着、下もタイツの上に厚めのボトムスといういでたちだが、それでも寒いことに変わりはない。だが、その時に感じた震えは、寒いからだけではないようだ。この時の気分を、言いあらわすことは出来ない。最後の審判の日にステージに立ち、世界に別れを告げよ――そう言われているに等しい。でも、行かなくては。

 午後四時――ほぼ定刻に、ラストコンサートは始まった。客席のライトが落ち、スクリーンにオープニングビデオが、音楽とともに流される。八千人の観客の大歓声が会場を包み込み、空気を揺るがす。イントロダクション――七色のステージライトがぱっと点灯すると同時に、僕は最初のコードを弾いた。音がはじけていく――凍りついた空気を熱く震わせて。軽快に入ってくるドラムの音、寄り添うようなベースのグルーヴ、シンセサイザーがアクセントを付ける。オープニングは四分のインストナンバー。サウンドの波の中で、恐怖は薄れていった。今やらなければならないこと、やりたいことは、ステージに立って演奏すること。全力を挙げて一曲一曲こなしていくこと。それだけだ。導入部が終わり、真のオープニング曲へ。そして僕らは五人になる。
 エアリィがステージセンターに走り出て、マイクを取ってシャウトした。それは彼の全身全霊の叫びであり、竜巻の到来を告げる声でもある。一瞬で、ステージが、そして会場全体が一つになった。未踏の領域に達したシンガー、コミュニケーション・マスターでコンダクターでもある、アーディス・レインは今夜も全開だ。彼が織りなす世界、大きな感情と情景が、ステージを、会場全体を包み込む。僕も、もはやよけいなことを考えてはいられない。
 音楽と光と歓声が交錯するステージに立ち、僕は何もかも忘れてギターを弾いた。無我夢中で弾き続けた。どのくらいの時間が過ぎていったのか、はっきりと覚えてはいない。たぶん始まって二時間くらいは、音楽に身をゆだね、完全に無我の境地だった。そこまで進んだ時、ふと思いがよぎった。こうしてステージに立ってギターを弾くのは、もう本当にこれで最後なのかもしれないと。そのとたん、頭の中に思い出がフラッシュバックを始めた。十二才の誕生日に買ってもらった、白いアコースティックギター。初めて弾いてみた時の喜び。十四才のころ、ロビンの家で初めてスィフターのCDを聴いた時の衝撃。初めて行った彼らのコンサート。その夜、訪れた啓示――プロになりたいという決心。ロビンと二人でバンド作りに乗り出し、試行錯誤の末のエアレース誕生。初めて人前で演奏したハイスクールの交流パーティ。ステラと出会ったあの夜。コンテストで思いもかけずに優勝し、プロへの道が開けた日。フィラデルフィアで初めての大観衆を前にした演奏。不思議なタイムリープと、未来世界での経験。人類滅亡の恐ろしい悪夢と自らに課せられた重責と戦いながら、最高級の栄光を勝ちとった、それからの十一年間。本当にいろいろなことがあった。音楽の上でも、私生活でも。常に不安は伴っていたけれど、今思ってみれば、なんて幸せな日々だったのだろう――。
 風景が霞んで見えなくなった。いつの間にか、涙が流れ出していた。ライトが滲んで乱反射する。すべての不安も疑問も今日で終わる。あと数時間のうちに答えが出る。他のメンバーを改めて見ると、ロビンもジョージもミックも涙を流していた。観客たちも、ほとんどの人が泣いている。僕たち五人、十二年間一緒に活動し、数えきれないほどのステージを努めてきた。後半はほとんど百パーセント、満足のいく出来だったといっても過言ではないけれど、でも今日ほどみんなの気合いが入ったことはないだろう。寒さで指がかじかむ? そんなことは、まるで気にならない。刺すような空気も感じない。僕たち五人の内側から突き上げてくる熱い叫びが、力がステージ上に渦を巻き、爆発し、観客たちに向かって放出される。観客たちから帰ってくるリアクションも、今まで以上にすさまじい。それはまるで、大きな嵐と嵐がぶつかって絡み合うような感覚だ。

 午後十時、開始から六時間がたって、コンサートの予定プログラムは終了した。観客たちは、熱烈にアンコールを要求している。これが最後なのだから、終わらないでくれと。矛盾に満ちた言葉に聞こえるが、真実の気持ちなのだろう。僕らも演奏を続けた。終わったあと二時間、じっと待っているのは恐い。演奏を続けている限り、世界も続いていく――少なくとも、待つ恐怖は忘れられる。そんな気持ちが、たぶん僕だけでなく、ほかの四人にもあったのだろう。
 コンサートは続けられ、時間はすぎていった。ステージにいても、電光掲示板の時刻は目に入ってくる。午後十一時をまわったころ、エアリィが突然、「ごめん、ちょっとインストでつないでて」と、楽屋へ戻っていってしまった。次の曲のイントロを弾き始めていた僕は(たぶん他の三人も)大いにあわてたが、とりあえずジャムでつないでいる間に、彼は戻ってきた。時間にして五分ほどだが、何をしに行ったのか――戻ってきた時の表情で、何となくわかった気がした。エアリィも感情的に限界だったのだろう。突然これ以上押さえていられなくなり、戻ってしまった――彼は僕らと違い、泣きながらは歌えない。いや、できないことはないのかもしれないが、パフォーマンス的には不完全になってしまうのだろう。だから、少し気持ちを静める必要があったのだと思う。そして僕はこの彼の言動に、少しほっとしたような気持ちを感じていた。アーディス・レインもやはり人間なのだな、と。たぶん、他の三人もそう思っていただろう、とも。
 七時間もたつうちには、ほぼすべての曲が、ごく初期の一部を除いて、演奏されていた。ロングアンコールに入ってからの選曲は打ち合わせ外なので、基本エアリィに任せている。新しい曲に入る前に彼が曲名を告げ、僕らインスト陣とスタッフたちに浸透する間の数十秒を置いて、演奏が始まる。その繰り返しだ。十一時を過ぎてからは、一度本編でやった曲が入ってくるようになった。何年も演奏していない初期曲より、インスト陣やスタッフたちにも対処しやすいという配慮なのだろう。『Polaris』『Abandoned Fire』『A Paradise in Peace』『Fancy Free』――『Abandoned〜』は歌詞がYouからMeに変わっている。それには何か意味があるのか、それとも変化をつけるためかわからないが。次の二曲は、どちらも長めのスキャットを含む。『Paradise〜』は中間部に、『Fancy〜』は最後に。『Polaris』にも似ているが、あちらは聞いていると、気分が高揚してくる。しかしこの二曲はセットになると、別の感情が湧いてくる。名状しがたい安らぎ――光に包まれ、暖かくぬくもっているような、穏やかな凪の海のような、満ち足りた気持ちに。

 時計は十一時三五分になった。あと二五分で日付が変わる。とてつもなく長く思われた一日が終わる。あとたった二五分――このままでいてくれたら。何事もなくすんでくれたら、どんなにいいだろう――。
「みんな、ありがとう! 次の曲で本当に最後だよ!」
 エアリィが観客たちにそう呼びかけている。僕は一瞬、えっと頭を上げた。次がラストナンバー? どうせなら、あと三、四曲――十二時になるまでやればいいのに、なぜここで切ろうとするのだろう。あと二十分弱の恐い猶予を残すよりも、フルにそこまで引っ張ったほうがいいのに――ロビンやミック、ジョージも驚いたような、不思議そうな顔をしている。みな、同じ気持ちなのだろう。
「『Evening Prayer』――リプライズ」
 エアリィは僕らを振り返ることなく――ロングアンコールになってからは、曲名を告げると、必ず振り向いて僕ら一人一人と眼を合わせ、僕らが頷くのを確認するのに、今は前を見たまま、いや、どちらかというと空を仰ぎ見ているような視線で、そう曲名を告げた。
 これも本編リピート曲だ。ラストを飾るとしたら、やっぱりこの曲も候補にしていいだろう。僕ら最初のナンバー1ヒットなのだから。でも、この曲はアコースティックギターのイントロから始まる。あわててクルーのチャーリーにギターを持ってきてもらい、ホルダーに固定してから、僕はイントロを弾きだした。
 凍てついた空気の中を、歌声が昇っていく。とても七時間以上歌ってきたとは思えない微塵も衰えない声が、今まで以上の透明さで悲しく切なく無心に、大いなる熱をこめて。子供の慟哭のような悲痛さと、賢人の慈愛のような優しさをこめて。揺さぶられた感情の海の中をもがきながら、僕は不意に気づいた。これは同じこの曲でも、CDバージョンではない。歌詞もメロディも少し違う。だから、リプライズか。けれど、この感じ、前にどこかで聞いたことがある――。
 曲が後半に入った時、僕は気づいた。これはオリジナル――未来世界でお別れにやった時のバージョンだ。強烈に記憶がよみがえってきた。遠い街の風景、あの時の祈り。それが今は数十倍に膨れ上がって純化された、切ないまでの純粋無垢な惜別の祈り。
 曲は、最後のパートに入ってきた。それはオリジナルでもCD版でもない、全く耳にしたことのない歌詞だった。

 今、ひざまずいて夕べの祈りを捧げよう
 長く冷たい夜が、もうすぐやってくるから
 安らかな眠りが訪れるように
 いつか新しい夜明けに目覚められるように
 さようなら、沈みゆく世界よ
 おまえの眠りが平和であるように
 永遠に続く夜はないと信じて
 いつかまた日は昇ると信じて
 今、ひざまずいて祈りを捧げよう
 おまえの最後の光が、今去ろうとしている
 だから今、祈ろう。夕べの祈りを
 それが、今僕に出来るすべて
  
 思わず声を上げたい衝動にかられた。なぜ今、ここでこの曲をやったか――しかも全く新しい歌詞をつけて――突然、理解できたのだ。これは臨終の祈り――ちょうど聖職者が死にゆく魂を慰めるように、今地球上に生きている、すべての魂のために。
 エアリィは歌い終わると、マイクを持ったまま両手を下げて、歌ではない言葉を言った。マイクを通さないその声は、しかし僕の耳には、はっきり聞こえた。前列の観客たちにも、聞こえたかもしれない。“May Rest in Peace”――安らかに眠れ――その頬を、涙が伝っていった。彼は両手をそろえたまま、そっとマイクをステージ上に置き、跪いて両手を胸の上に組むと、目を閉じて頭を垂れた。指を立てて片方は逆手に組む、あの独特の組み方だ。そして小さな声で言葉を発したが、何を言ったのかは聞き取れない。
 エアリィは知っていたのでは――その瞬間が来たことを。それを告げたのは、天性の第六感なのだろうか。それとも他のものだろうか。コンサートは本当に、これで幕を下ろさざるをえないということを。だから彼は最後の惜別のために、祈らずにはいられなかったのだろう――。
 その瞬間、コンサートの中盤から吹き始めていた風が、突然やんだ。完全な静寂が、その場を支配したような気がした。動かない空気、無数の星がきらめく夜空――その夜空に、細かい金色の光の粒が現れた。最初はオーロラかと思ったが、違う。まるで空の一点から舞い降りて広がるように、アイスキャッスル上空から数百メートル離れた地点まで、施設とその一帯を包み込む薄いベールのように伸びていく。




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