Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第一章 運命の日 (1)




 アイスキャッスル。とうとう、ここに来てしまった。まだ午後二時すぎだというのに、もう日はすでに地平線に没し、濃い青灰色の、奇妙に透明感のある空が広がっていた。空気は無数のガラス破片のように鋭く、肌に突き刺さってくる。地面は鈍い白一色。少し離れたところに、水色と灰色を混ぜあわせたような色の海が見える。水面をゆっくりと流氷が流れていく。あと二週間もすれば、ここは一日中夜に閉ざされ、雪と氷と暗やみが支配する世界になるという。
 空港からアイスキャッスルの施設までは、三、四百メートルほどしか距離がない。空港内にある小さなビルの玄関を出ると、その白と銀色に輝く建物群が、すぐに視界に入ってくる。空港ビルからは、かなり広い一本の道が、アイスキャッスルの正面ゲートまで続いている。そこには二本の白い柱の上に、銀色のアーチが渡され、浮き彫り文字でこう書かれている。【Welcome to Ice Castle(アイスキャッスルへようこそ)】
 ゲートを抜けると、三棟のホテルと商店街からなる、大アーケードが広がる。建物の間を縫うようにして建てられた銀色の大きな柱から、全体を包むように、透明な強化アクリルの屋根が覆っている。有事の時には、その上からX線シールドをコーティングした銀色のカバーで覆われるという。この施設は、ミックの父親であるストレイツ国土開発大臣が開発の中心となって進められた政府プロジェクトの一環で、万が一有事の場合に核シェルターを兼ねられるような構造を合わせ持っているゆえだ。ただ、今のところはまだカバーはかけられていない。
 空港の管制塔もこの施設内に作られ、一番奥の建物の右端、大きな時計塔の上に設置されている。この部分は、アーケードの屋根の上に出ている。有事の時にはやはりここもカバーで覆われるが、その時にはモニターに切り替わるという。地下部には、四千八百人を収容するシェルターもあり、今回のコンサートにはホテル部だけでは足りないので、その部分も解放されている。そこは十二人部屋で、暖房設備と二段ベッドがあるが、ある程度そこでも快適に暮らせるように、僕らは調度を寄付していた。シェルターとしての役目も果たせるように、地下倉庫に食料や生活備品も、非常時に備えてかなりの量が備蓄されている。僕らが寄付した大量の非常食や日用品もストックされているはずだ。万が一運命が現実となってしまったとしても、一応出来る限りの備えは出来ていた。でも、この設備が本当に必要になるとは、誰も予期してはいないだろう。
 商業施設の横には遊園地があり、観覧車や小さなジェットコースター、メリーゴーランドなどの遊具が点在している。中央部にはここの命名にふさわしく、氷の城もある。夏場にはさすがに溶け出すから本物の氷ではなく、一見氷のような冷たい透明樹脂で出来ているものだが。遊園地の奥は、ウィンタースポーツ用の広いフィールドになっている。僕らはその広場に特設ステージを設け、コンサートを行うことになっていた。
 このアイスキャッスルの施設全体、空港も含めた一・五平方キロの土地の周りには、ごく弱い電流を流したフェンスがめぐらされている。この辺りはホッキョクグマの生息地であることもあり、万が一施設の敷地内に入ったりしないよう、しかし驚かせるだけで生体には影響がないように、との配慮で設置されたものらしい。自然観察などで施設外に出る時のために、二か所にゲートがあるが、それは二重扉になっていて、その都度手動で開閉されるという。
 昨年の春に開設されたこの北の果てにあるレジャーランドは、世界的にかなり人気が盛り上がってきたオーロラ鑑賞ツアーや、ホッキョクグマ、アザラシなどの生態ウォッチングツアーの、一大拠点として建設された。ただし、利用期間は九月までだ。それ以降は天候も難しいので、営業されない。だが今年は僕らのラストコンサートのため、特別に臨時営業をしてもらっていた。従業員以外は、僕らの関係者、観客たち、そして取材にきたマスコミの人たち以外いない。まったくの貸し切り状態だ。
 マスコミへの対応は、終演後の翌日に、まとめて記者会見をすると発表していた。家族も同伴しているので、それまでの取材は遠慮してくれと。その条件で誓約書を書いてくれたメディアだけが、ここに招待されている。果たして本当に記者会見など開ける状況なのかどうかというのも、一つの賭けだが。

「うわぁ!」
 空港ビルを出ると、クリスが声を上げた。寒くないようにと、僕らは空港ビル内で完全装備をしていた。息子も毛皮の帽子をすっぽりとかぶり、フランネルのシャツの上に厚手のスキーセーター、裏毛のついたスキー用の赤いサロペット、その上から紺色のダウンジャケットを着こみ、耳当てとマフラーもつけている。でも剥き出しの頬は、吹き付ける風で真っ赤だ。息子は手袋をはめた手をぽんと打ち合わせ、再び声を上げた。
「すごぉい! 本当に北極なんだね!」
「そうだなあ。本当の北極は、もう少し北だけれどね」
 思わず微かな笑いを漏らし、僕は答えた。
「あっ、オーロラだぁ!」クリスは空を見上げ、再び声を放つ。
「すごい、すごい! ぼく、初めて見たよ! きれいだな! いろんな色に光ってる! 神さまのカーテンみたい!」
「あら、本当ね。わたしも見たのは初めてよ」
 ステラも空を見上げ、微笑んだ。彼女も息子とおそろいの毛皮帽をかぶり、毛皮のついたダウンの紺色ロングコート、グレーのロングスカート、セーターにベスト、その下に幾重にも防寒下着を着けているのだろう。アイヴォリー色のカシミアマフラーを首に巻き、手袋をはめている。でも、やはりその頬は真っ赤だ。
 息をするたびに、真っ白な煙が誰の口からも飛び出す。僕も手袋の中の手を、ぎゅっと握り締めた。それでも冷たい。明日は手袋をはめたままギターを弾くわけにもいかないが、きっと素手では、かじかんで大変だろうな。手が動くだろうか。それにステージに、まさか今のように着膨れた格好で(僕のいでたちも妻や子と似たようなものだ)出るわけにもいかない。でも普段着ているような薄い服では、下手をすると、終演までに凍死するのでは。いや、これはさすがに大げさ過ぎるが、寒いことには変わらないだろう。
「最後だから変わった場所でやりたいというのは、わからないではないけれど」
 ステラが首を傾げながら、僕を見上げた。
「この季節にここでコンサートをするのは、かなり冒険ではないかしら。雪が降らなくて良かったけれど、本当に身を切るような寒さね。お客さんたちもそうだけれど、あなたたちはもっと大変ではないかしら?」
「そうかもしれないなあ」僕は思わず苦笑して、肩をすくめた。
「なぜ、アイスキャッスルなの? どなたのご意見?」
「いや、誰ともなしに、みんなでそう決めたんだ。最後だから、普通のコンサート会場でないところで、今まで行ったことのないところでやりたいってね。それにほら、ここはロビンとジョージのお父さんの会社が経営しているし、多少のわがままはききそうだからね」
 最初から、場所は決められていた。アイスキャッスルと決めたのは、僕らではない。それは未来の記録、それとも別の陳腐な言葉で言えば、運命だろうか。実際にラストコンサートの日程を発表した時、ネットの反響は『今の時期にアイスキャッスル! 吹雪でもきたらどうするの? しかも十一月のド平日! 学校や仕事を休まないと行けない! なぜ、せめて土日にしてくれなかったのか』と嘆く声で埋め尽くされていた。それでも、『休んででも行く! 行きたい!』という人が圧倒的多数だったが。この日が平日なのは、僕らにはどうしようもない。場所も日にちも、あらかじめ決められていたのだから。
「そうなの」ステラは僕の表面上の理由付けでも、納得したように頷いていた。
「そうね。でも、ここでコンサートをしようなんて考える人たちは、あなたたちくらいでしょうね。いえ、仮にやりたくとも、こんなところまで、そんなにたくさんのお客さんたちが来てくれないわ、きっと。それもこんな時期に、しかも火曜日でしょう。それでも、あなたたちは別格なのね。ここのチケットが何百倍もの競争率だったという話は、わたしも聞いたもの。すごいわね、本当に。あなたたちのファンの方たちって、とても熱心で忠実なのね」
「たとえ地のはてまでも見に行く、かい? ありがたいけれどね」僕は肩をすくめた。
 史上最大の成功、最大級のモンスター――ここ数年間、僕らはそう呼ばれ続けてきた。アルバムにして五作、実に八年間も天文学的なモンスターセールスを続け、他の追随を許さない絶対的な人気と影響力を誇ってきたのは、確かな事実だ。追い続けていた夢は、夢以上の現実となった。それだからこそ、ここに至る道が開けたのだ。でも僕らは知っている。どんな栄光も、永遠には続かないことを。僕らは最初から、常に一点を見つめて走ってきた。すべての終わり――十一年前の記憶に答えの与えられる、この日を。

 広場エリアでは、僕らより三時間ほど早く来たクルーたちと、ここの関係者たちが、セッティング作業をしていた。広場の一番奥まった場所にステージを組み上げ、鉄骨のやぐらをいくつも組んだ上に、ライトやスピーカー、カメラなどを吊るす。そしてステージの前、一メートルのところから広場の後ろまで、八千個の椅子を整然と並べる。スタンドなどはないので、みながフロアにいるような、そんな感じだ。ただ、まだ設営中なので、ステージは作られていたものの、まだライトや音響のためのやぐらを組んでいる最中のようだし、椅子も並べられてはいない。
 クルーやスタッフたちも、これが当面最後のライヴであることを知っている。AirLaceは明日のコンサートを最後に、バンドとしての活動を一応終わるのだから。でも終わるものがそれだけではないかもしれないことを、彼らは知らない。知らないことは幸いなのだろうか、それともやはり悲しいことなのだろうか。
 小さな白いため息が漏れた。空を見上げると、オーロラはもう消えていた。幾多の星の小さな明かりが、暗い空を彩っている。ステージ設営中の人々に感謝の言葉をかけると、僕らは家族と共にホテルの中へと入っていった。
 
 夜は恐怖だった。やるべきことがなにもなく、ただ眠るしかない時、それがいつまでたっても訪れない時。思いはどうしても、ひとつの点に落ちていく。一番考えたくないこと――この十一年間心を悩ませてきた疑問の、最大のクライマックスを。
 十二時を報せる柱時計の鐘が低く鳴り、日付が切り変わった時、僕は思わずベッドの中で身震いした。とうとう、この日が来てしまった。いつ起こるのか――もし今日が世界最後の日なら、それは何時に起こるのか。心臓の鼓動が早くなり、身体中の血が騒めきだす。のしかかる凍りつくような恐怖に、思わず起き上がり、大声で叫びだしたい衝動を必死にこらえた。両手をぎゅっと握り締めて、部屋の暗やみを凝視する。妻と子の規則正しい、やわらかな寝息、こちこちと時を刻む時計の音、耳元に轟く僕自身の鼓動――それが全部一緒になって、頭の中にぐるぐると渦を巻いている。胸が詰まりそうな恐怖に、我知らず身体が震え出した。両手を身体に回し、きつくぎゅっと抱いて震えを止めようとしたが、止まらない。
 これ以上部屋に寝ているのが、耐えられなくなった。時計が二時を打ったころ、僕はとうとうガウンを引っ掛けて、廊下に忍び出た。十一年前、不思議な力の悪戯で訪れた未来世界で知った、僕らの世界最後の日、それが今日だ。あの時は十一年の月日が、かなり長い時間の猶予に思えた。忙しくも華々しい年月の間に、あれは夢か幻かと怪しむ瞬間もあった。でも実際に時が過ぎ、運命の日がこうして現実となってやってきた時、恐怖は生々しいものとなって襲いかかってくる。時はなんて早く過ぎ去ったのだろう。遠い昔のあの体験が、ただの幻か何かの間違いだったら、どんなにいいだろう。この二四時間が無事に終わったら、なんて幸いなことだろう。もし今深い眠りについて、三日の朝までずっと眠っていられたら――そして何も変わらない世界を発見できたら、どんなにいいだろう──。
 やがて興奮した頭も、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。ジャスティン・ローリングスよ、もう少し冷静に考えてみろ。終わりがくるとしても、夜ではないはずだ。コンサートの観客たちの半数以上は当日来るのだし、未来の始原三賢者のうち、ステュアート博士とアランさんは今日の最終便で来たようだが、ジョセフは明日の朝便で来ると言っていた。明日にならないと、三人そろわない。もし夜のうちに終わってしまったら、ここに残るのは僕らやスタッフ、それに三千百人ほどの観客だけになってしまう。それでは歴史と違う。もし本当に起きるとしたら、午後以降だ。
 差し迫った恐怖はいくぶん和らぎ、僕は思わず小さなため息をもらした。
 自分の考えを追いながら廊下を歩いていて、誰かにぶつかった。はっと我にかえって相手を見たら、ロビンだ。僕たちは顔を見合わせ、苦笑した。お互いに同じことを考えて、部屋を逃げ出してきたようだ。さらにジョージとミックにも会った。この夜、エアリィ以外のメンバー四人が、幽霊さながらに廊下をさまよっていたのだ。メンバーだけではなく、ロブまで仲間入りしている。
 僕たちは薄暗い廊下で顔を見合わせ、再び苦笑して肩をすくめた。
「無理ないね、眠れなくても……いよいよこの日が来たんだから」
 ミックがため息を一つつき、頭を振った。
「こんなに緊張したのも恐かったのも、生まれて初めてだ」
 ロブが決まり悪そうに告白する。
「僕も……」ロビンが小さな声で同意し、ジョージも頷いた。
「もし夜の間に最悪の事態が起きたら、なんて思ったら、恐ろしくて寝ていられなくてな」
「ああ、たぶん、それはないよ」
 僕はさっき思ったことを、みんなに話した。
「ああ……そうか。そうだな」彼らは納得したように、頷いている。
「寝たほうがよさそうだな……」
 ロブが僕らを見回し、ため息を一つついた。
「ともかく、明日はラストコンサートだ。午後四時からスタートして十時まで、六時間の長丁場だぞ。コンディションを整えないと」
「何も起こらなければ……だけれど」
 ロビンがためらいがちに小さな声で付け加えた。
「それを言うなよ!」と、ジョージが少し声を荒げる。
「まあ、ともかく……」ロブが咳払いして続けた。
「予定としては、六時間の長丁場だ。だからみんな気持ちはわかるが、少しでも眠っておいたほうがいい。寝不足がステージに影響するのは、なにもヴォーカリストに限ったことじゃないんだぞ。明日が最後なのだから、悔いのないコンサートにしようじゃないか」
「そうだね」僕らはいっせいに頷いた。
「でもそういえば、エアリィは来てないな。寝られたんだろうか、こんな時でも」
 ジョージの言葉に、ロビンは微かに首を振った。
「彼は強いから。でも、眠ってはいないんじゃないかな」
「そうだな、あいつだって怖いだろうし」僕は肩をすくめた。
「これが怖くない奴なんて、いないさ」ジョージが大きく首を振る。
「まあ、とにかく僕らも寝ようよ。今ここで考えていても、仕方のないことだから」
 ミックが小さなため息とともに、そう提案した。僕らはみな頷いて、それぞれの部屋に引き取っていった。
 でも部屋へ帰り、再びベッドに潜り込んでも、なかなか寝つけない。今すぐ最悪の事態が起こるかもしれないという恐怖はなくなったものの、もう二四時間も猶予がないという切羽つまった緊張感が、頭と心を支配している。僕は目を閉じ、再び部屋の静寂に耳を澄ませた。余計なことを考えまいとして、時計の振り子の音を数え、自分の心臓の鼓動を数えてみる。時はいらだたしいほどゆっくりと、静かに過ぎていく。
 我知らず、僕は祈りの言葉を呟きはじめていた。繰り返し繰り返し、祈りを復唱する。ベッドに横たわったまま目を閉じ、両手を組んで祈り続けた。天にまします我らの父よ。御名が崇められますように。御国が来ますように――この日々の祈りを、ひたすら繰り返し続けた。やがて時計が四時を打つのが聞こえ、それからまもなく、ようやく眠りが訪れてきた。浅く、落ち着かない眠りだった。

 朝が来た。僕は熱いシャワーを浴び、ゆっくりと身支度を整えた。ほとんど食欲は感じなかった。フレッシュジュースを二杯、なんとか流し込むと、僕は窓を開けた。ようやく遅い太陽が、上り始めたところだった。しばらく部屋に待機し、テレビを見ながら妻や子供とすごしていたが、落ち着かない気分に耐えられず、僕は外へ出た。
 寒い。昨日と同じように、まるで突き刺さってくるような空気だ。ステージセットの横に止められた三台のモーターホームが、今日の楽屋だ。すえつけられた大型ストーブのおかげで、中はある程度暖かい。他にも関係者用に、十五台ほどモーターホームがあった。そこにも大きなストーブと暖かい飲み物が用意されている。
 僕は熱い紅茶にブランデーをたっぷり注ぎ、砂糖を二つ入れて飲んだ。そして深く息をついた。観客たちは、まだホテルやシェルターの部屋にいる。一時から僕らはサウンドチェックをはじめる予定で、開場は三時。気の早い人たちが広場に入りたがったが、警備員たちが三時までは観客の立ち入りは禁止と、入り口で止めていた。
「まだ開場時間前だ。それまでライヴエリアには入れない。それに、寒いしね。できるだけ中にいなさい」と。
 今日到着した観客たちも、まずはみんなそれぞれの部屋で待機しているようだ。兄ジョセフは奥さんのカレンと一緒に、午前十一時ごろの便で到着した。昨日来るはずだった姉ジョアンナも、便を変更して、兄夫婦と一緒に来ていた。姉は下の息子マシューと来てくれる予定だったのだが、この四歳になる甥はちょっと風邪気味らしく、酷寒の地への旅行は控えるようにとの義兄の言葉に従って、トロントに置いてきたらしい。上の息子ポールは学校があるので、はじめから来ない。それで兄夫婦と一緒に来たのだと言う。僕はいったんホテルの入り口まで行って、兄夫婦と姉を出迎えた。
「一人で来ちゃって大丈夫なの?」
 僕は姉に会った時、思わずそう聞いた。
「ええ。ロバートもお義母さんもいるから、大丈夫よ。それにうちの子供たち、結構しっかりしているの。二日くらいなら、ちゃんとお留守番できるわ」
 姉は微笑して、そう答えていた。
「そうだね……」
 僕は頷いた。本当に予定どおり明日帰れるかどうかという、重苦しい疑問を飲み込んで。
 両親は来てくれなかった。父は仕事があるし、もともとあまり僕の職業を歓迎していない。母も来ることができない。今は赤ん坊を産んだばかりのジョイスのことで手一杯なのだ。ジョアンナの家族も向こうに残っている。あの暗い未来図がもし本当になったら、彼らはどうなるのだろう。もうみんなには、二度と会うことは出来ないのだろうか? ああ、絶対に本当になどなってほしくない。

「おはよう、ジャスティン」
 バックステージになっているモーターホームの前に戻ってきた時には、もうロビンが来ていて、熱いスープカップを抱えたまま、そう声をかけてきた。ホームの中だけでなく、外にもいくつかの大型ストーブが置いてある。僕らのバックステージ前にも一つあり、その上にはツアーにいつも同行している料理人さんが作ってくれたスープが、鍋に入って置いてある。その側にはカップとお湯の入ったポットとブランデーの瓶が並んでいた。ストーブの周りには、円形に椅子が並べられている。僕もスープをカップに入れながら、黙って頷いた。ロビンも不安と緊張の入り交じったような表情だ。
「あれから眠れた?」
「四時すぎにね。本当は多少寝不足のはずなんだけれど、全然眠くはないな」
 僕は頷いて答えた。
「僕は一晩中、ちっとも眠れなかったんだ。でも本当に眠くないよ、僕も。少し頭が重いけれど」ロビンは、まだ観客のいないコンサート会場に目をやった。
「いよいよ……だね」
「ああ」僕は再び頷く。僕たちはどちらも、はっきりと言葉には出さない。でも言いたいことは、よくわかっている。
「でも、お父さんとお母さんが来てくれて、良かった」
 ロビンはホテルの建物に目をやってから、ほっと息をついた。
「さっき会ってきたんだ。セーラや、ジョージ兄さんたちと一緒に。父さん母さんは昨日午後三時過ぎ発の便で来たんだけれど、ここのスタッフと打ち合わせをしなければならなかったから、昨日は僕たちとは会わなくて。でも、ブライアン兄さんたちの一家は来なかったんだ。兄さんは『興味はあるけれど、そんなにみんなでぞろぞろ行くこともないだろう。もっと季節の良い時に行くよ。それに父さんが現地に行くのなら、僕はここに残って会社を見ないとね』と言っていて。でも、レイチェルは来たんだよ。兄さんの上の子なんだ。七歳になる子なんだけど、お祖母ちゃんと、オーロラが見たいって。兄さんはお祖父ちゃんが亡くなってから、会社をしっかり運営していくには、自分たちががんばらなきゃダメだって、すごく思っているみたいだ。親戚のライバルたちにも、負けたくないようだしね。だから……ジョージ兄さんも『仕方ないな、兄貴は』って、ちょっと寂しそうだった。僕も来てもらいたかったんだけど……」
「そうか。でも親が来てくれて、良かったよ。やっぱり関係者だからなのか? お父さんお母さんは」
「うん。アイスキャッスルは、お祖父さん最後のプロジェクトだから、どうしても成功させたいって、お父さんはいつも言っていたんだ。こんな時期に臨時営業は大変だが、これ以上ない宣伝になってくれるだろう。だから現地に行って、滞りなく成功できるよう、指揮しないとな、って言ってくれて。お母さんはお父さんと一緒に来る。二人はいつも一緒だから」
「仲が良さそうだもんな。おまえのお父さんとお母さんは」
「うん。伯父さんや伯母さんたちの奥さん旦那さんは、やっぱり資産家だったり、良い家柄の出だったりするんだけれど、お母さんは田舎の農場の娘だから、反対されるかな、ってお父さんは心配したらしい。どうしても反対されたら、会社を辞める覚悟だったらしいんだ。でもお祖父さんは笑って、『たいした度胸だな、ロバート。私はおまえのそういうところが好きだ。良いだろう。あの娘はいい娘だ。気配りが出来て、働き者だ。実家の資産も血筋もなくとも、きっとおまえにプラスになってくれるだろう』って。実際。お母さんはお祖父さんに、かなり気に入られていたんだよ」
「そうなのか。大恋愛だったんだな、二人は」
「うん。でも君のところのお父さんお母さんも仲いいよね。いつも思っていたんだ」
「ああ。父さんはダークホースだったらしいよ。初めは母さんには、別の人がいたんだ。というか、当時の内科部長の息子が、母さんにアプローチしていたらしい。この人に野心はあったのかどうかわからないけれど、でも父さんは別に病院を継ごうとかそういう野心はなくて、ただ母さんが好きになったからって、昔ケイト伯母さん――父さんの姉さんがそう言っていた覚えがあるんだ。それで母さんもその人より、父さんを選んだ……って、親の恋愛話をこんなところでするのも、なんだな」
「たしかにね」ロビンはちょっと肩をすくめて笑い、そしてきいてきた。
「ジャスティンのところは、お父さんお母さんは来なかったんだよね、たしか」
「ああ、そうなんだ」
 僕は頷き、椅子に腰を下ろした。座っていても冷気が足元から忍び寄るようだった。バックステージエリアには、バンドメンバーは僕ら二人しかいない。他の三人は、それぞれの家族や親族たちと一緒にいるようだった。でも僕はどうしても落ち着かず、ここに出てきてしまった。ロビンもきっとそうだろう。
「まあ元々父さんは僕の仕事を歓迎していなかったから、解散、それがどうした? だからといって、どうしてそんなところまで見にいく必要があるんだ、というような感じだよ」
 僕は肩をすくめた。
「ミックのところみたいに、引退するなら仕事を継げ、とは言われないんだね」
「言われても困るな。今から医者になるには、十年はかかる。僕も四十近くになってしまうよ。それに僕は十二年前に家を飛び出した時、『もう医者にしようとは思わん』って、父さんに言われてしまっているしね。ミックなら、二、三年秘書として勉強すれば、政界入りできるだろうけれど。お父さんの地盤もあるし、バンドでの知名度もあるから」
「そうだね。だから大臣は今回の解散をすごく喜んで、機嫌が良かったから見にきてくれた、ってミックが言っていたもんね。それに自分が発案したアイスキャッスルをこの目で見ておくのも悪くないって」
「そうだな」
 僕はスープを飲み終えると、立ち上がってドリンクテーブルに行き、ブランデーのお湯わりを作った。そして再び腰を下ろし、ゆっくりと中身をすすった。

 十二時になる頃、エアリィがバックステージエリアに出てきた。
「ラウンジにいなかったから部屋かなって思ったけど、もう出てたんだ。おまけに外? 寒くない?」
 彼は僕らを見て、少し驚いたようにそうきいてくる。白いダウンのロングコートに水色チェックのマフラーを巻いて、頭にはふわふわした白いベレーのような帽子をかぶり、同じ色の耳当て、青い手袋にボアのついた防寒ブーツを履いている。僕とロビンも似たような格好だ。防寒下着を二枚重ねにし、フランネルのシャツ、セーター、そしてダウンのロングコート――僕はモスグリーンでロビンは濃い茶色だが。防寒タイツに厚手のボトムス、そしてブーツ。帽子と手袋、マフラーと耳当てもかかせない。それでも顔に当たる風は防げない。
「寒いけどな、たしかに。なんだかじっとホテルにいられないんだよ。それにホームの中にも」僕は肩をすくめた。
「気持ちはわかるけどね。でも逆にみんなといた方が、よけいなこと考えずにすみそうだから、良いと思っていたんだけど」
 エアリィは熱いスープをカップに注ぐと、それを持って椅子に座った。
「継父さんと一緒にホテルで朝食って、考えてみたら初めてだった。あの人、今まで家族旅行とか行ったことないから」
「そうなのか?」僕は問いかえした。
「うん。研究第一の人だからね。だからここへ来てって頼むのも、ちょっと危ないかな、特にここんとこずっと、あのネオ・スーパートロンの研究で忙しそうだったから、無理かなって思ったんだけど、頼むだけ頼んでみたら、結構あっさり来てくれて、びっくりしたんだ。少し休憩してもいいだろうって。ノートパソコンとHDDとデータ用のDVD、いっぱい抱えてきてるけど。ここのコンピュータ室内管理システム、継父さんも設計段階で少しかかわったらしいんだ。だから多少は興味があるのと、エステルの保護者をかねて、って」
「へえ、そうか。でも良かった。三賢者が、無事揃ったな」
「ところで、エアリィ、君は昨夜眠れた?」
 ロビンはそんなことを聞いている。
「昨夜? うん。寝つきは悪かったけど……まあ、ある程度は」
「そうなのか。おまえはやっぱり強いな」僕は苦笑し、肩をすくめた。
「僕たち昨夜、真夜中に廊下で鉢合わせしたんだ。とても部屋で寝ていられなくて。でも、君だけは来なかったから、大丈夫だったのかなって言ってたんだよ」
 ロビンがそう説明している。
「部屋の外には行かなかっただけだよ。僕だって、ものすごく怖かった」
 エアリィはちょっと肩をすくめてから、首を振った。
「怖いし、それに、本当に悲しい。でも、僕に何が出来るだろうっていったら、今は祈るだけかなって。本当に何も出来ないから。それで祈ってるうちに、いつの間にか寝ちゃってたって感じなんだ」
「ああ、僕も最後には祈ってたな。わかるよ」僕は頷き、言葉を継いだ。
「今日は普段の倍の長丁場だ。おまえも大変だろうが、がんばろうな」
「ああ。これがラストステージだから、全力でやるよ。みんなもね」
「ああ。そうだな……これで終わりだから……」
 僕らの間にしばらく重苦しい沈黙が落ちた。
「でも、知ってる人全員を呼べなかったのが、残念だな」
 思わずそう言葉が出てきた。
「うん……みんな、来てもらいたかったな」エアリィは頷いている。
「そうだよな。おまえのゲストは、どれだけ来たんだ?」
「父さんとアラン継兄さんと、エステルとアデレードの弟と……ここまでは、さっきまで一緒にいたけど、プロヴィデンスの友達が四人と、ステュアートの方の従兄妹が二人は、お昼過ぎに来る予定だから、サウンドチェック終わったら、会いに行こうと思うんだ。それで全部だよ。シルヴィーたちにも話はしたんだけど、結局来れなかった。ちょうどリズム隊のお母さんが、三日前に亡くなって。あの二人、お母さんとはいろいろ確執あったけど、やっぱり実のお母さんだから、お葬式とか出さなくちゃいけなくなって、シルヴィーもそっちへ手伝いに行ったんだ。『君にとっては一つの終わりかもしれないけれど、僕らにとってはスタートだ。一つの通過点に過ぎないさ。だから、行けないことは勘弁してくれ。君がトロントに戻ってきたら、連絡してくれ。その時に改めて会いに行くから』って言われたけどね」
 エアリィは少し悲しげに微笑した。シルーヴァ・バーディットはアクアリアの再始動を視野に入れているのだろう。そして、またすぐに会えると思っている。だが、戻ってきてからの約束など、きっとはたせない――エアリィには、そんな思いが明らかにあるのだろう。それは僕も、多かれ少なかれ同じだ。
「でもまあ、兄弟がみんな来て良かったな。僕はだめだった。一番仲のいい妹がね、ちょうど赤ん坊が生まれたばかりで、来られなかったんだ」
 思わず深いため息が漏れた。
「うわぁ、それって超タイミング悪い……って、ごめん。でも厳しいな、それ。しかも、ジョイスさんかぁ……」エアリィも首を振ってため息をつき、言葉を継いだ。
「僕はプロヴィデンスの友達が二人、おんなじような理由で、向こうに残ってるんだ。メアリとフィルが。二人はこの春結婚してて、子供が出来て、まだ初期だから、こっちで応援してるって。ホントに、みんながここに来られたら、って思うけど、キャパとか関係なしに。でも後のことを考えると……わからない。ああ、すごく冷たい言い方になっちゃうけど、ここに来られない人は、きっと元々そう言う運命だったんだって思って……祈るしかないのかもしれない、僕らには」
「ああ……」
 それきり、僕らは言葉を失った。トロントに残った肉親たち。両親、義兄エイヴリー師、八歳と四歳の甥たち。妹ジョイスと生まれたばかりの赤ん坊。彼らは──世界は、無事でいてくれるだろうか──。
 やがてジョージとミックもやってきて、僕らはしばらく雑談した後、サウンドチェックと軽いリハーサルを始めた。とりあえず、今は目の前のことに集中した方がいい。




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