Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

十年目(2)




 僕の初めてのソロアルバムはついにリリースされ、幸いなことに反応はかなり肯定的だった。セールス的にも悪くはない。殊にストリーミングはバンドのネームヴァリューなのか、好調な初動だった。かなり地味なインストアルバムなので、CD実売はファーストアルバムの初年度枚数と、そう変わらないが、アルバムの性格と今のマーケット状況を考えれば、大成功といえよう。

 四月初めから一ヶ月あまりは、気楽なツアーに費やされた。まずはウエストコーストへ飛び、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、バンクーバーと北上しながら、一週間に四回というゆっくりとした日程で、ホールを回った。
 小さな空間で、さほどは多くないけれど、満員になったお客さんたち、その顔が一人一人見える。彼らの反応もストレートに入ってくる。そんな中で仲間たちとたっぷりジャムをしながら、二時間ほど演奏するのは、非常にゆったりとした、くつろいだ気分を感じさせた。ギグが終わると地元のクラブに飲みに行き、たわいのない話をしたり、コンサートのない晩には、ローレンスさんに先導されて、現地のライヴハウスで他のバンドを観たりもした。
 ツアーと言うよりも、まるで観光旅行のような楽しい旅は、いったんトロントへ帰ってきて、数日後に出かけた、中部から東海岸への小ツアーでも同様だった。それが終わると、また何日か休息してからモントリオールへ、そしてオタワ、最後にトロント。地元では、三日間のギグだった。観客の反応もとても好意的で、楽しんでくれたようだったし、他のメンバーも同様の楽しみを感じられたようだ。エアレースのアリーナやスタジアムツアーに慣れきっていた僕にとっては、久しぶりに原点に返ったような思いだった。
「でも、俺らも前のバンドじゃ、それほどクラブ周りはしなかったし――俺とギターのジョンが十九になってからだから、実質三か月なかったしな。しかも、レギュラーはもらえなかったから、二、三回しか経験がない。おまけにジャスティンやロビンは、学校の体育館でのライブは経験があっても、クラブや小ホールで演ったことはないよな。これが初めてだろう」地元でのギグの最終日、公演後小さなバーで飲んでいる時、ジョージが苦笑しながら、言っていたが。
「ああ、そういえばそうだね。デビュー前は年齢制限でクラブ回りが出来なかったし、プロになってサポートで回っても、大きめのホールやアリーナが多かったから。最初のヘッドラインも、いきなりアリーナクラスのメジャーツアーだったから、懐かしく思うっていうのは、変かな」僕は納得し、思わず肩をすくめた。
「君たちが、かなり特別なんだよ」ローレンスさんは煙草を片手に、笑っている。
「僕らは若い頃、ずいぶんクラブ回りをしたもんだ。だから、本当に懐かしかったよ。あの事故以来、こんな日が来るとは、夢にも思っていなかったがね」
 僕は感慨にとらわれ、上手く返事が探せなかった。みなも同じだったようだ。
 ローレンスさんは煙草をぎゅっともみ消し、微笑して言葉を継いでいる。
「君たちには感謝しなくてはね。バンドが突然なくなって以来、僕は自分の情熱のはけ口を求めて、じりじりしていた。君たちのプロデュースに関われて、それはとても刺激的な仕事だったけれど、完全燃焼するためには、やっぱり自分で存分にプレイをする必要があったんだ。久しぶりにライヴをやって、本当にそう実感したよ。これで長いフラストレーションのトンネルを、やっと抜けられた。もうロックシーンにくすぶっていた僕の情熱は、胸を焼かなくなるだろう。あとは君たちエアレースの究極のアルバムが完成するのを見届ければ、僕の音楽への情熱は完全に満足できる」
 その言葉には、『もう思い残すことはない』というような、満足のある終局への暗示を感じさせ、僕は戦慄めいた驚きを抑えることが出来なかった。
「ローレンスさん……それは、どういう意味ですか?」
「君たちの次の作品が完成したら、僕は音楽界から完全に退こうと思うんだ」
 彼の口調は静かだったが、強い決意を感じさせるものだった。
「そして妻とともに、彼女の国に行くつもりなんだ。彼女は子供の頃に、両親と弟と共にカナダに渡ってきたんだが、祖国は紛争の戦火で、かなり荒廃している。でもそんな国でも、いや、だからこそなんだろうな、彼女はいつも言っていたんだ。僕が完全引退したら、一緒に故郷に帰りたいと。そこで親のいない子供たちを何人か引き取って、育てていく小さな家を作りたいと言うんだ。彼女が幼い頃に生き別れた異母兄弟も二人向こうにいて、会いたいということもあるのだろう。実は僕の父も、同じ国の出身なんだ。母はスコットランド系のカナダ人なんだけれどね。父は戦後、従兄と友人とともにカナダに渡ってきた。だから父方の親戚はほぼ向こうにいるし、妻も僕もある程度、現地の言葉を話せる。向こうで新しい生活を築いていけるだけの蓄えもできた。僕らには子供はいないし、母のことも、妹一家が面倒を見てくれる。だから憂いはないはずなんだが、妻は僕のために、実行に移せなかったのさ。僕が音楽界に完全に満足できたらで良いと、ずっと言ってくれていた。今、僕も踏ん切りがついた。まあ、ギターはこれからも弾き続けていくけれどね、趣味として。来年の春には、旅立つつもりなんだ」
「ええ?!」
 僕らはみな、絶句してしまった。僕らのあこがれの人、三枚目のアルバム製作前から今まで、ずっとバンドを見守ってくれた人。この偉大な先輩に、僕らは何度助けられたことか。その人が来年の春には――まさに運命の年に、音楽業界から完全に引退をして、この国を去ってしまう? それでは、一緒にアイスキャッスルに来てもらうわけにはいかなくなる。
 僕はSwifterファンだったゆえ、アーノルド・ローレンスさんという名前は、本名から東欧系のラストネームを落とした形だということは知っていた。彼が移民二世であることも。彼と奥さんとの熱愛ロマンスも知っている。結婚後まもなく奥さんが子宮がんを発症し、生き続けるために、子供を持つことを諦める選択をした。そしてそれからずっと二人で、仲睦まじく暮らしてきたことも。
 プライベートスタジオでレコーディングをしている間も、ミックスダウンをしている時にも、奥さんは時々おいしい手作りパイを携えて訪問し、数日滞在しては帰っていくので、僕らも知っている。緩やかなウェーブのかかった黒髪を背中にたらした、少し色の浅黒い、可愛い感じの小柄な女性だ。僕らにもにこやかに話しかけてくれ、お茶を振舞ってくれたりしていた。彼女の祖国への移住は、長年夫婦で考えてきたプランなのだろう。自身の子供が持てなかったかわりに、戦火で親を失った子供たちの親代わりになるということも。その熟考した上での決断を、まさか変えて下さいと拝み倒すわけにはいかない。僕に――僕らにそんな権利はない。
「寂しくなりますね……」
 それしか言葉がなく、僕らはみな、テーブルに視線を落とした。

 五月下旬、僕は再び我が家に腰を落ち着けた。ステラとクリス、それからこの休暇中に飼い始めたレトリーバーの子犬パービーとともに、穏やかに春の日々は過ぎていく。十一月から心を占めていたソロプロジェクトが完結し、深い満足を味わった。今はもう一度意識をバンドへ、来るべきアルバムへと向けるための充電期間だ。

 そして六月、夏の訪れとともに、ついにエアレースとして、再始動の時期が来た。六月十日の午後、マネージメントの車が迎えに来て、僕は空港へと向かった。空港でミック、ロビン、ジョージと顔を合わせ、ロブやレオナ、ローレンスさんともども、夕方の飛行機でロンドンへと向かった。到着は朝だが、前日から予約しておいた市内のホテルで休憩し、その午後、ロサンゼルスからの飛行機で来たエアリィと合流した。
「戻ってきたんだな、やっぱり。良かったよ」
 五人の再会を祝して、ホテルの専用ラウンジを借り切り、みなでお茶を飲むために集まった時、僕はエアリィに思わずそんな言葉をかけてしまった。
「ええ? 良かったってどういう意味?」と、彼には少し不思議そうにきかれたが。
「いや……アクアリアがずいぶん評判がよかったからさ」
 ジョージがためらいがちな口調で言う。彼も同じ気持ちだったのだろう。
「ああ、アクアリアは、やってよかったって思うけど……」
 エアリィは、ちょっと肩をすくめた。
「だから、もうこれで終わっちゃったのが、少し寂しいけどね。ツアーが終わって打ち上げの時、シルヴィーたちに言われたんだ。これで終わりにはしたくない。終わりだとは思っていない、って。可能なら、またやろうねって、僕もそう言った。果たせない約束をするのはいやだから、そうとしか言えなかったけど。彼らはそれで、満足してくれたみたいだ。まだ先は長いんだ。待てるさって」
「そうなのか……」
 僕は少し複雑な思いで頷いた。他のみなも、そうだったようだ。
「映画のワールドプレミアはどうだったかい?」
 ミックが少し気を取り直したように、そう問いかけた。エアリィだけがロスから来たわけは、それに出席していたからなのだ。
「やだ、もうやりたくない。あれもう、ホントみんなの嫌いな、ザ・パーティだから。僕もなんか、すごく疲れた」エアリィは笑いながら、頭を振っていた
「それに映画ってさ、ほんとすごい飛び飛びで。わーと撮影して、何か月かおいてアフレコで、それから半年おいて、公開って。まあ、これでも早い方らしいけど」
「前売りの勢いは、凄まじいらしいじゃないか。でもおまえはもうこれ以上、プロモーションはしないんだよな。いきなり主役不在か?」ジョージは苦笑いをしていた。
「だって、こっちが本業だから、僕は。申し訳ないけど、六月からバンド再開するから、ハリウッドでやる最初のは出るけど、他は回れないって、監督さんやプロデューサさんに最初に言ったんだ。それは他のキャストやプロデューサーさんたちが回ってくれるって、了承してもらったし。それに、ハリウッドのレッドカーペットって、なんかちょっと僕の世界じゃないなって気がして。お祖父さんには慣れた世界でも、僕にはやっぱ違うなって思えたんだ。今回の役はわりと自然になりきれたけど、もう映画俳優は、仮に可能だったとしても、やらないと思うよ」
「そうなのか。プリプロダクションが終わったら、僕らも見に行ってみるよ」
 僕がそう言うと、エアリィは首を振った。
「ありがと。でも、もし見てくれるとしても、DVDが出てからでいいよ。思い出したらで良いんだ。なんかさ、アクアリアやったことも、ジャスティンのソロ聞いたことも、ミュージカルや映画も含めて……すごくたくさんの創造の火種が自分の中で生まれたなって、今そう思ってるんだ。だから今は、そっちにしか意識が向いてかない。今回が、僕たちのラストアルバムだから」
 そう思いっきり、はっきり断定しないでくれ、『たぶん』くらいつけてくれ、と思わず抗議しそうになったが、彼のいつになく真剣な表情に、僕は言葉を飲み込んだ。そして思わず頷いた。「そうだな」と。それは、他の三人――ジョージ、ロビン、ミックも同じだったようだ。

 翌日、僕らはウェールズへと移動した。森と野原の真ん中にあるゲストハウスを一ヵ月半ほど借り切り、そこの一階にある広いホールに、機材を運び込んである。ここが今回のプリプロダクションの舞台だ。これが最後かもしれないから、プリプロダクションは今まで長く滞在したことのない、でも英語圏でやろう、そうみなで思い、決めた場所だ。ローレンスさんたちのバンドも、今はもうないがこの近くにあったスタジオで、アルバムを制作したこともある。それも、理由の一つだった。料理はロード中お世話になっている専属シェフが来てくれ、家政はレオナともう一人、マネージメントから派遣されてきた人が担当してくれる。そして、作業が始まった。
 アクアリアであれだけ密度の濃い活動をしていたエアリィが、わずか二週間のインターバルでエアレースのラストアルバムに望むのは大変か、余力はあるのか。そんな心配も実はあったのだが、彼に関しては、決して並の尺度で考えてはいけない。『たくさんの創造の火種が生まれた』と、エアリィが言っていたことは、本当にその通りだったのだと、僕は痛感した。まさにその創作の火種が激しく沸騰するように、最初の一週間でほとんどすべてのマテリアルを書き上げてしまう凄まじさだ。僕らインストの四人もそれに呼応して、フル回転のアレンジ作業を迫られた。それもすんなり出てくる形だけでなく、もっと他の解法はあるかと、すべての可能性を捜し求めた。スタジオ入りしてから一ヶ月間、ほかのことは何も考えられず、朝も昼も夜も、ただ作業に没頭して日々が過ぎていった。

 デモが完成し、明後日にはここを発つことになった七月十日の午後、僕らは食堂の隣にあるサロンでお茶を飲んでいた。この窓はかなり大きく、そこから直接庭へ出られるようになっていた。庭には芝生があり、数本の木があり、季節の花を植えた花壇がある。窓から、その庭の向こうに広がる景色まで見渡せた。
 今までは目に入る余裕もなかった景色を、僕はあらためてゆったりと眺めた。夏のウェールズは瑞々しく美しい。やわらかな露を含んだ緑色の草原と森。空は青く、でもどことなく緑も青も、カナダやアメリカのそれとは違った色合いだ。ヨーロッパの雰囲気、それとも、伝統の島国の色かもしれない。
「ここの空って、ちょっと不思議な色だよね。透明なんだけど、やわらかくもあって。ちょっと緑っぽく見える時もあるし」
 エアリィが窓に眼をやりながら、そんな言葉を漏らしていた。
「ああ」僕はお茶をすすりながら頷いた。
「僕もやっとじっくり空を眺める余裕ができて、そうしたらやっぱりそう思えたよ。これが伝統の色なのかな。ちょっと独特だよな」
「なかなか良い所だな、ここも。まあ田舎だからケベックのプライベートスタジオ同様、都会的な遊びはできないがな」ロブが笑った。
「そういえば知っているか? ここの管理人に聞いたんだが、このあたりは一種のパワースポットらしい。それに、この向こうの畑で、UFOが目撃されたという噂があるんだぞ」
「レイラインとか、そんな感じかな。少し外れているようだけれど」ミックが微笑する。
「ミステリーサークルは、結局いたずらだったんだろ? UFOもそういう点じゃ、怪しいが。まあ、そのうちにみんなで屋上へ登って呼んでみるか? 未知との遭遇みたいに」
 ジョージが笑って肩をすくめた。
「なんか、凄く古い映画じゃない、それ。僕も昔、DVD見たけど、思わず笑っちゃったな。なんか異星人が異形すぎて。あれが典型的イメージなのかな」
 エアリィは苦笑しながら、首を振った。
「うん。リトルグレイとか、タコ型の火星人とか、異星人っていうと、地球人とは違ったタイプを考えるよね、普通。Xファイルの宇宙人なんていうのも、結構異形だものね。なぜそうなったのかわからないけど。たぶん、僕ら普通の人間とは違うっていうイメージなんじゃないのかな」ロビンが首を傾げながら答えている。
「ま、進化の道筋が違うと、多少異形になるかもしれないけどね。けど基本的に『神の形に似せて』作られたんなら、同じ進化たどっても不思議ないんじゃないかなぁ」
「あの『Scarlet Mission』の作者には似せない言葉だなあ、エアリィ」
 僕はつい、そうからかった。
「だから、あれは今の宗教に対する批判。僕は無神論者じゃないよ。『Rock of Ages(千歳の岩)』だって、僕の本心なんだ。宗教ってさ、呪縛や強制になっちゃいけないんだよ。もっと自由で自発的で、そして本当の神に対するものだけが……あっ」
 エアリィは小さく声を上げて、不意に言葉を止め、空を見上げた。午後の太陽が、不思議な偏光をしていた。ガラスのせいか、空気の流れや雲の悪戯かわからないが、太陽光が白っぽくなり、それにまつわるように細いオレンジ色の光が流れていく。彼は吸い寄せられるように視線を空に向けると、窓に歩み寄って、手でガラスに触れた。
「……この光……」
 彼は半ば夢想するように、やわらかく透明な青い空と、窓のガラスに反射する光の筋をじっと凝視している。僕らの存在を忘れているかのように。
「クィンヴァルスみたいだ……」
 ほとんど聞き取れないほど小さな呟きが漏れ、と同時に光の偏光が元に戻った。少し黄色見を帯びた日差しがぱっと差し込んだ瞬間、エアリィも現在にたちかえったようだ。
「ああ、ホント、一瞬だったな……ここは、違うのに」
「おい、エアリィ。いったいどうしたんだよ」僕はそう問いかけた。
 彼はちょっと照れたような、決まり悪そうな顔で僕らを見、肩をすくめた
「なんでもない……昔のことを思い出しただけだよ……」
 エアリィはちょっと笑って首を振り、言葉を継いだ。
「でも子供の頃さ、思ったことない? 空の果てって、どうなってるのかなって。僕も三つの時――秋だったな。十月の七日。教会の庭で空を見上げて、その空が高くて青くて、吸い込まれそうで、凄く不思議な気分になったんだ。空の向こうって、ものすごく果てしなくて、どこまで続いてるんだろう。何があるんだろうって。そしたら、ふっと声が聞こえた気がした。『空の彼方には、あなたが、そして私たちが望む場所がある。もう帰ることはない、しかしいつかは行くべき場所が。それは無限。それは究極。人間たちは天に上った時、自由になると言いますがね』って」
「はあ……?」
 僕らはみな目を丸くし、ついでジョージが半ばあきれたように聞いた。
「それでおまえ、その意味がわかったのか? たった三才で。今の俺だって、さっぱりわからないぞ」
「わかんなかったよ、その時は。ただ、きっとそれって本当だな、大きくなったらきっと、意味がわかるんだなって思っただけでさ」
「じゃあ、今はわかったのか?」僕は問いかけた。
「ん……わかったと思う。今は」
 エアリィは窓の外に視線をやりながら、あいまいに頷いたあと、言葉をついだ。
「でもさ、みんなは空を飛びたいって思ったことない? あの鳥みたいに、ほら……人間が空に憧れるのは、重力から自由になりたいって思いと、地上のしがらみから離れて、完全な自由を得たいって思うからなんだろうな。だから、天に上った時には完全な自由を得るっていうんだ、きっと」
「エアリィ、おい、おまえ、アクアリアで妙なトリップしなかったか? まさかとは思うが、大丈夫か?」
 ジョージは苦笑しながらも、半ば本気で危ぶんでいるような口調だった。
「だから僕は、アシッドハイはできないって。本当の天国に行っちゃいかねないから」
 エアリィは肩をすくめ、自嘲気味に笑いながら首を振った。
「ただ、今はちょっと、意識が彼女よりになってる、そんな感じなんだ。僕の中の……いや、僕自身でもある彼女が、活性化されてるみたいで」
「君の内なる人は女の人なのかい、エアリィ」ミックが比較的真剣にきいていた。
「うん。でもユングのいうアニマとは違うけどね」
 エアリィは再び肩をすくめた。そして突然、両手をぽんと打ち合わせて「あっ」と小さな声を上げた。窓の外を見上げ、「ちょっと待って」と呟くと、窓を開けて庭に出て行った。
「どうしたんだよ」僕らは問いかけると、彼は答えた。
「曲ができそう。だから、ちょっと待って」
「は?」僕らはみな、ポカンとするだけだ。
 彼は窓を閉めると、庭の芝生の真ん中に立って、じっと空を見上げていた。ほとんど動かずに。風に髪が揺れ、そこに太陽が当たって、きらきらと輝いている。そのまま十分ほど立っていた後、エアリィは部屋の中に戻ってきた。
「できた。もうデモは録っちゃった後だけど、追加してもいいよね」
「いいよ。じゃあ、聞かせてみてくれ」僕らは頷く。
「じゃ、ちょっと待って。ラウンジのピアノでやってみるから」
 そして彼は自らピアノ伴奏を弾き、歌った。

  風に乗って、彼方へ飛んでいこう
  上昇気流に運ばれて、空の高見へと
  舞い上がる鷲のように自由に気ままに
  すべての束縛から解き放たれて
  パラダイスは幻
  自由な風のような精神だけの
  地上の楽園は決してこない
  その最後の言葉がわからない限り

  光の中を飛ぶ時
  何が見えるのだろう
  地上の美しいパノラマ
  それとも壮大な幻
  果てしなく広がる空間
  頭の上には何もなく
  足元にも何もない
  光のシャワーの中で
  僕は初めて本当の自分を取り戻す
  作られたままの僕自身に

  草原の風は何を思うだろう
  森の木のざわめきは
  夜空に降る星の光は
  風に乗って彼方へ飛んでいく時
  僕は何を思うだろう
  自由な風のように
  すべての束縛から解き放たれた時
  人は至上の喜びを知るのだろうか

 僕は異様な感動に揺さ振られて震え、同時に不思議な気分を感じた。これはさっき彼が言っていたこと、『人間がもっとも自由になるのは、空に昇った時だ。神の領域に』それが具現化された歌なのだろう。『Fancy Free』
 わりと長い曲だ。そして最後の二分ほどは、言葉のないスキャット。その音を聞きながら、僕は一瞬、地上につなぎ止められていた精神の鎖を、断ち切られたような気がした。不思議な浮遊感とやすらぎを感じ、同時にその底に横たわる悲しみも、じんわりとしみこんでくる。その思いは歌が終わって現実に帰った時、強烈に増幅された。もうじき終わりが来る。それは終焉なのだろうか。それとも昇華なのだろうか、と。

 それから三日がたち、夜もかなりふけたころ、僕はラウンジにコーヒーを飲みに降り、ちょうど同じように来ていたロビンとジョージに会った。その二時間前に最後の曲のアレンジ作業を終わり、デモをハードディスクに収め、CD―Rにコピーしたばかりだった。一曲追加が出たので僕らは出発を延ばし、明日の午後、ロンドンまで戻る予定だった。そこで二日ほどゆっくりしたあと、カナダに帰る。ここのレンタル期限はまだ一週間ほどあったので、多少の延長は問題なかった。
「やっと、デモが全部終わったね。明日には出発できるね」
 ロビンが口を開いた。
「また、エアリィが追加を出してこなければな」僕は肩をすくめて頷く。
「あいつはたまにやるからな。でもそうやって出してくるのが、ものすごく突き抜けた名曲なんだ。『Abandoned Fire』といい、『Fancy Free』といい。『Abandoned〜』は夢だが、『Fancy〜』は、あの時立ってた十分で、一から構築して作ったわけだし。七分半の曲をだ。いったい、あいつの頭の中ってどうなっているのか見たいよ」
「同感!」二人とも笑って頷き、ロビンが付け足す。
「彼は未来世界で、『Evening Prayer』の原型曲を作ったこともあるしね。僕らのジャムを聞きながら、十分で。あの曲は四分ちょっとだけれど」
「ああ、そうだなぁ」
 僕は頷いた。あの時のエアリィは覚醒前だが、そのころから片鱗はあったわけだ。
「それに、アクアリアのアルバムを作って、まだ半年なのに、あれだけ書けるんだもんね」
 ロビンは感嘆したように、そう続けた。
「あいつはひょっとしたら、モンスターと言うよりエイリアンなんじゃないか?」
 ジョージは肩をすくめている。
「そんなことを言って。本人が聞いたら怒るよ。たしかにエアリィって、人間離れはしているけれど」ロビンは苦笑していた。
「あいつの場合、なんていっても出生が変わりすぎているから、いろいろ言われるんだよな。本人も、えらい飛びぬけている奴だし。まつげの色とかも変わってるから、救世主かどうかなんて論議の他にも、母親が宇宙人に誘拐されてできたハーフじゃないか、なんてまじめに言っている奴もいるくらいだ」ジョージも苦笑し、頭を振っていた。
「アブダクト説だろ? でも、それってまあ、神様が降臨してできたハーフっていう、デミゴッド説よりはましだけれど、どっちもあまりに現実離れしすぎているよ」
 僕は思わず肩をすくめた。「まあ、たしかにあいつは普通じゃないけれどね、いろいろな意味で。だから、本当にいろいろ言われているけれど。あの事件後に青い髪束が生えてきたせいもあって、替え玉じゃないか、いや、あんな桁外れな人が二人もいるわけがないから、一度死んで、魔術か何か、神秘の力で蘇ったんじゃないか、その刻印が、あの青髪じゃないか、とか。まあ、噂は突拍子もなさ過ぎるものばかりだけれど、そんな噂も本気にする人が出るくらい、たしかにあいつは規格外だよ。それに時々、底の知れない深さを感じる時があるんだ。あの曲なんか、本当にそうさ」
「あれだけじゃないぜ、ジャスティン。このアルバムの曲のほとんどは、えらく深い。一見扇動的な『Carnival』までも。そう、あの曲は、主題はあれと同じなんだ。セカンドの『La‐Di‐Dah』――俺たちの赤毛の継子と。でも、深みが段違いなんだ。まあたしかに、あの時から九年たった。十五と二四では、書く詞も違うだろう。だが、一見同じようなことを書いていながら、天と地ほども違う。実際あの時、あいつに何が起きた? あいつがモンスターになる時に。そしてあいつは本当に何者だ? 俺は真面目にそう思うぜ」
「ああ。たしかに僕も、それは思うことがあるよ。でも僕たちも、エアリィの内なるモンスターに引きずられないように、がんばらないとね。それが何者であってもさ。曲の世界を最大限に生かせなきゃ、SBQに負ける。僕たちも精一杯やろうよ。悔いのないように」
「そうだな、ジャスティン。たぶんエアレースとしては、これがラストだ。あれとは関係なく、と言いたいけれどな」
「うん……
 僕たちは三人とも黙って頷いた。運命の日が、もう近くまできている。たとえ今回がバンドとしての究極になれなくとも、新しくアルバムを作るのは、たぶんこれが最後だ。どっちに転んでも、僕たちにとってのラスト・レコーディング。その認識はそれっきり口には出さなかったが、みんな心の奥底に、いつも渦巻いているようだった。だからなのだろう、作業は今まで以上に気合いが入り、熱がこもっていた。

 その十日後から、僕たちはいつも使っている、ケベック州の高原にあるプライベートスタジオでレコーディングを行った。緑の森と輝く湖水に囲まれた、美しい風景の中で作業を進め、そのままそこで引き続きミックスダウンをした。七月の終わりから九月半ばまで、今年は本当に文字通り夏のハイシーズンを、ずっと僕らが借り切ってしまったわけだが、僕らがそれまでに渡していた使用料で、今年の夏はみなで世界一周クルーズに行くことにしたので、遠慮なく使ってください、というSwifter遺族の方々のありがたいお言葉に甘え、使わせてもらった。ローレンスさんの奥さんも最初からスタジオに滞在し、毎回お茶の時間に、手作りのケーキを振舞ってくれた。そして九月半ば過ぎに七枚目の、おそらく最後のアルバムのマスターが完成した。
 『Neo Renaissance』――新しい再生というタイトルのついたこのアルバムのマスターを通してプレイバックした時、僕は異様な感動に震えた。最終トラックの『Mother』がフェイドアウトしていった時、恥ずかしい話だが、その場に座り込んで泣きそうになってしまったほどだ。バンドとしての究極に到達したのだという思いと、アルバム自体にみなぎっている圧倒的な優しさに。それは、自意識を甘やかす、うわべだけのうすっぺらな優しさではない。アルバム自体は紛れもないロックアルバムだ。でも、そこには聞くものすべての魂を力付け、包み込み、許し、高揚させる、万物の母のような暖かい慈愛、もしくは福音ともいうべき力がある。
 二度目のプレイバックを聞きながら、僕は思った。三枚目の『Children for the Light』以降すべてのアルバムには、それぞれの意図があった。この最終作の意図は、あきらかに『沈みゆく世界への鎮魂歌と福音』だ。テーマは“博愛”。今生きていることの素晴らしさ、この世界への愛――そして滅びゆくものへの慈愛と、魂を慰め、力づける優しさ。それがこのアルバムの意味なのだ。これほど大きく、魂の根底から揺さぶられるようなポジティブなパワーは、エアレースとして僕らが出せる最高点だろう。
 とうとう来たのだな、バンドの究極に。そんな思いに深く揺さぶられた。これが僕らの、バンドとしての到達点だ。たとえ世界がずっと存続したとしても、これ以上のものは、たぶんもうできない。それに世界が今の姿で存続するのは、もう本当に長いことはないのだろう。十年前のあの出来事は、紛れもなくリアリティだ。そんな悲しい確信をも、否応無しに起こさせた。ありがたくない認識だが、それは事実として冷然と感じられる。
 そして僕は悟った。僕らの活動の、もうひとつの意義を。アイスキャッスルに行くことができるのは、僕らのファンの中でも、ほんの一握り。数千万規模に膨れ上がった母集団の中の、たった八千人だ。圧倒的多数の残りの人たちは、世界が終わるとしたら、一緒に生を終えることになるだろう。その人たちが無為の中で滅びないように、前向きに、有意義に幸福に生き、 少しでも安らかに、満足を持って生を終えられるように。圧倒的な優しさと、浄化された祈りの中で。そのためにも、僕らの十一年間はあったのだということを。

 僕たちにとって最後のアルバムとなるはずのこの最新作は、十月の終わりに発売される予定だった。みんないつものように、再びロードが始まる十一月までの間に、一カ月半ほどの“半オフ”をとった。僕は再び我が家に腰を落ち着け、妻と息子と一緒の生活を心から楽しんだ。
 クリスはこの九月から、小学校に入学していた。本来は去年なのだが、前回のオフの初めに、僕とステラはクリスを連れて市の教育委員会に赴き、僕がこれから一年以上オフになるので、息子を連れてあちこち旅行に行きたい。息子は少し身体が弱いので、転地療養も兼ねてと。(これは後者はグレーゾーンの嘘だ。クリスは決して丈夫ではないが、それほど弱くもない。しかしこう言った方が、許可が下りるような気がしたからだ)それで、一年ずらして入学させてもかまわないか、と担当者にかけあった。僕らバンドメンバーは全員トロント市の名誉市民であることも、僕の立場も幸いしたのだろうか。訴えはわりとすんなり認められ、晴れてロザモンドやジョーイと一緒に入学できることになったのだ。
 九月、ジョーイの姉プリシラが通っているプライベートスクール――私立の小学校に、三人そろって入学した。場所は市の中心、やや北よりの場所なので、ちょっと遠い。ことにエアリィはかなり郊外に住んでいるので、ロザモンドの登校には車でも一時間かかり、僕の家からでも三十分はかかる。でも、やっぱり仲良しは一緒のほうがいい。送り迎えは、やはり僕らや妻たちが前面には出ないほうがいいだろうというマネージメントの配慮で、所属している若い女性スタッフが、車で送迎を担当することになった。それもほかの保護者に不審に思われないよう、毎日同じ人だ。さらにロザモンドは道中が長いこともあり、運転手とシッターさんで、完全に二人体制になっている。さらにマネージメントは、思い切った手を打ってきた。ちょうど同じ年頃の子供を持つ社員さん二人に頼み、彼らの子供を同じ小学校に入れさせたのだ。そして学校側に、全員を同じクラスにしてくれるように頼んだという。そのため、クリス、ロザモンド、ジョーイに加え、スタッフの子供二人も同じクラスになった。マネージメントの労力に、感謝は尽きない。
 クリスの送迎担当はミス・エドワーズという二十代半ばの女性で、本職は公式サイト管理者の一人だ。ショートカットの栗色の髪に、いつもスポーティな格好をした明るい人で、毎朝七時四十分に、赤い小型車を運転して家にやってくる。クリスも彼女に、すっかり懐いているようだった。毎朝彼女に手を引かれて、「行ってきまあす!」と元気に手を振り、車に乗り込んでいく。ジョーイ、ロザモンドにスタッフの子供二人、そのほかにも何人かのお友達ができたようで、息子はすっかり学校が好きになったらしい。毎朝嬉々として通学し、僕たち夫婦はその間、新婚気分を取り戻していた。




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