Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

七年目(7)




 宴がお開きになると、みなにキャンディボンボンと記念品(中心に小さなバラのドライフラワーが入り、周りに金の粉をちりばめた、ガラスの文鎮だった)が配られ、出席者全員が並んで、二週間の予定で北欧へ新婚旅行に旅立つ新夫婦を見送った。派手に目立つことの嫌いなロビンだから、“JUST MARRIED”のプレートも、たくさんの空き缶の伴奏もなしだ。僕らもクラッカーを鳴らしたりお米を投げたり歓声を上げたりという騒々しい見送りはせず、ただ手を振り、「がんばれよー!」と、声をかけただけだった。

 ロビンとセーラを乗せた車が走り去り、視界から消えてしまうと、また親族たちのそばではなく僕らと一緒にいたジョージが、ほっとしたような口調で言った。
「まあ、なにはともあれ、めでたしだな。あいつも良い嫁さんをもらったし、俺らもこれで全員が妻帯者だ」そして思い出したように、こう付け加えた。
「ああ、違うか。全員じゃないんだな。一応、おまえはまだ結婚してなかったんだっけ、エアリィ。でも、ほとんど夫婦みたいなもんだから、つい一緒にしてしまったぜ」
「違うよ、ジョージ。全員妻帯者ってのは、今は当たり」
 エアリィはちょっと笑い、右手を振ってみせた。
「僕も正式に結婚してるから。ほら、これ結婚指輪」
 たしかに薬指には、金の指輪がはまっている。小さなブルーダイヤをあしらった、波を思わせるラインの、シンプルだが洗練されたデザインだ。再開ツアーのリハーサルから、ずっとつけていたのは知っていたが、右手だから、まさか結婚指輪だとは思わなかった。
「ちょっと見せてくれ」
 彼は指輪を抜き取って、僕の手に落としてよこした。裏側に文字が刻んである。【2017.3.17 A.M To A.R】
「僕ら二人ともイニシャル同じだから、ミドルまで入れないと区別が付かなくて、そうしたんだ。両方ともA To Aになっちゃうから。サイズもほとんど違わないし」
 エアリィは僕の手から指輪を取り、またつけていた。
「でも、なぜ右なんだ? 普通左だろ?」ジョージが怪訝そうにきく。
「きき手に指輪すんのって、なんとなくうっとうしいから、やなんだ」
 そうか、アーディスは左利きだった。それはともかく――。
「だけどな、それ半年前の日付じゃないか。今年の三月だろ? なぜ僕らに何も言わなかったんだ? 式にも呼ばず、結婚しても黙ってるなんて」僕は首を振って抗議した。
「ああ、そういえばリハーサルに入る前だったなぁ、届け出したのは。トロントへ帰る前にマインズデールへよって。一応アデルは花嫁衣装着て、略式だけど式は挙げたんだ。夜の九時に。エステルとアラン継兄さんとエイドリアン――あっ、アデレードの弟さ、それにロージィと、あとはキャラダイン神父とシスター・キャサリン――シスター・アンネ・マリアの後任に来た人なんだけど、それだけだったかな、立会人は。みんなも呼ぼうかな、とも一瞬思ったんだけど、なんだかさ、みんなを呼んじゃうと、やっぱりちゃんと式やらなきゃいけないって気になっちゃうし、そうすると、もっと他にも呼んで、とかなっちゃって、けっこう大げさになりそうで。こっちは子連れなんだし、あんまり仰々しくはやりたくなくて。だからま、みんなに報告もしなかったんだ。式にも呼ばなかったんだし、実際結婚しても、ほとんど何も違わないから。ただアデルとロージィの姓が変わっただけで。僕自身も普段は意識してないしね。自分が結婚したんだってこと」
「そうか。見事に極秘だったね。まさか君が半年も前に結婚していたなんて、僕らも気づかなかったよ。でも、君の場合はそうでもしないと大変だからね、わかるよ」
 ミックがやさしい口調で言葉をかけていた。
「でも、おまえのタキシード姿も見てみたかったがな」
 ジョージと僕は同時に言った。
「タキシードなんて着ないよ。持ってないんだ。白のソフトスーツだけさ。これの色違い。でもさ、なんか、スーツって堅苦しい感じがして、あまり好きじゃないんだ。ああ、でもアデルの花嫁衣装は、昔ファッションショーで着た奴だよ。ステラさんとお揃いの」
「ああ、あれか。うーん。やっぱり見てみたかったな」
「あ、写真ならあるよ。エステルが撮って、僕の携帯に送ってくれた奴が」
「どれ、見せろ!」僕らはいっせいに声を上げた。
 エアリィはポケットからスマートフォンを取り出すと、操作して、僕らに見せてくれた。たしかにアデレードの衣装は、ステラと同じものだ。僕も十分見覚えがある。そこに写った輝く笑顔の彼女は、ステラに負けず美しい。いや、一般的に見れば、勝負にすらなっていないのだろう。ステラもアデレードが着た花嫁衣裳を見て憧れ、同じものを注文したのだから。それは元々、アデレードのために作られた衣装なのだろう。その雰囲気や顔立ち、スタイルに合うように。エアリィはその横で白いソフトスーツを着て、髪をゆるく、少し右寄りで束ねたスタイルで写っていた。ちょっと照れたように笑っていて、片手を花嫁の肩に、もう一方の手で娘を抱いている。レースがたくさんついた、真っ白なワンピースを着たロザモンドは両親に抱かれ、ウェディングブーケを抱えて、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。フラワーガールなのだろうか。ミニ花嫁さんのような雰囲気もある。
 指が触れたのだろうか。その写真がスライドし、兄妹二人で撮った写真が出てきた。ふわふわしたピンク色のシフォンのようなドレスを着て、満面の笑顔で兄の腕にしがみついている少女。たぶん自撮りしたのだろう。思わず言葉が口から出てきた。
「エステルちゃんも、本当にきれいになったな」
「ああ、彼女ももう十三だしね。この時は、まだ誕生日前だけど」
 エアリィは少し照れたような表情を浮かべた後、携帯電話を再びポケットにしまった。
「まあ、良かったな。でも、どうして結婚する気になったんだ? やっぱり結婚してもいいと思ったのか?」僕はついで、そう聞いた。
「うーん。今もいいんだろうかって気はしてるけど、ま、戸籍の上じゃ問題ないし、アデルもそれでも良いって言うから、いいかと思ってさ。去年、ロンドンの病院で言ってたじゃないか、ジャスティン。彼女は正式な妻じゃないから、しばらく面会許可がおりなくて泣いてたって。それでアデルの本心って、どうなんだろうって思って。生活上のパートナーで、ロージィの父親っていうだけじゃなく、こんな僕でも一応夫のほうが良いのか、それともそうじゃないのかって、退院してニューポートへ行った時、聞いてみたんだ。そうしたらアデレードは、子供にローゼンスタイナー姓を名乗らせたいって言うんだよ。それで、彼女自身も同じ姓になりたいって。ロージィもそれまでは、ロザモンド・ハミルトンだったわけだけど。ロザモンド・ローゼンスタイナーより、そっちの方が語呂良いんじゃないかって思ったんだけどさ、僕は。ダブルローズになっちゃうし。でも彼女はハミルトンじゃなく、ローゼンスタイナーになりたいって言うから……まあ、母さんも僕にその姓を継承して欲しいって言ってたから、子供たちに継がれるのも悪くないのかなって思って。ま、それでね」
「そうか。でも、やっぱり女性の立場としては、半端なのはいやだろうからな。ともかくおめでとう。僕らもほっとしたよ。やっぱり子供までいながら夫婦じゃないっていうのもなんだか不自然で、ずっと気になっていたんだ」
「あっ、再来月には、もう一人生まれるんだよ。アデル、もうすぐ九ヶ月なんだ」
「えっ、そういうことは、もっと早く報告しろ。まったくおまえは、結婚したことも第二子が出来たことも、全部報告が遅いぞ」ジョージが笑い、
「そうだぞ。それに、それならなおさらだろ!」と、僕は指を振った。
「でも、本当に良かったよ。ロビンもいい奥さんが見つかったし」
「うん。きっと似合いの夫婦になるな。今日はダブルでおめでたい日だぜ」
「本当に良かったね」
 僕らはそう言いあって、それぞれの家に帰るべく車に乗り込んだ。ジョージは家族とともに、今日は実家に泊まるらしいが、ミックとエアリィはそれぞれ車を運転してきている。僕は「途中でジャスティンとこの近く通るから、良かったら迎えに行くよ。今日は僕一人だし」とエアリィが言ってくれたので、家の前で拾ってもらって、一緒に来ている。

「ところで、エアリィ。おまえはセーラさんの真実を知っていたのか?」
 僕は車の中でそう問いかけると、彼はあっさりと答えた。
「詳しいことは知らないよ。でもさ、あの曲をリクエストするってことは、セーラさんは純情には違いないけど、どっちかっていうとアデルみたいに、過去にいろいろあったってタイプなんじゃない、きっと」
「そうなんだ、実は……」
 僕は簡単に花嫁の過去を話した。
「そうかぁ。けっこう大変だったんだ。アデルもそうだけど、ダメ男を好きになっちゃって怪我するって、わりとあるんだな。まあでも、失敗は成功の母って言うし、今は乗り越えられて幸せそうだから、良かった」
「そうだな。でもセーラさんだけでなく、ロビンもいろいろ悩んだんだよ」
「ああ……ロビンのことだから、彼女にプロポーズするのに、勇気がいったんだろうね」
「いや、それもあるけどな。彼女の過去を乗り越えるのにさ」
「そう……じゃあ、ロビンも彼女の手助けが出来て、良かったじゃない」
「いや、そういう意味じゃないんだ。結果的には、そうだけどな」
 話がかみ合っていない。ロビンが彼女の過去にこだわってしまった心理を、エアリィは理解できないのだろう。僕は苦笑し、言葉を継いだ。
「まあ、いいさ。でもロビンも心理的に、彼女の過去を乗り越える必要があったんだ。そうして二人で過去を乗り越えて、これから新しい未来を築こうとしているんだ。一人なら難しいことでも、二人なら楽に出来る」
「なんか、むずむずしてきそうな台詞、それって。結婚式のスピーチだね。ロブも同じこと言ってたし」
「あのなあ」僕は再び苦笑した。
「でもおまえも、過去を乗り越えてきた人間だろ? 難しくはないか? まあ、おまえは強いから、大丈夫か。過去に現実を侵食されたくないって、前に言っていたものな」
「うん。でもまあ、逆に言えばそれも、構え過ぎって気がしてるな。今思うと」
 エアリィは首を振った。「乗り越えてやるぞーって気張ってるうちは、まだ昔にとらわれてるってことなんだと思うし。それに、記憶や感情に無理に蓋しようとしても、そのうちに蓋が吹っ飛んで、吹き出てくるよ。だから気負わないで、、流れに任せてけばいいって、今は思ってる。僕はさ、記憶を消去できないし。赤ん坊の頃から覚えてるんだ。一番初めの記憶って言うのは、夜、木の葉っぱの間から、瞬く星を見てたことなんだ。傍に女の人が寝てて、僕はものすごく不安で寂しくなって、赤ん坊のように泣いた……て、実際赤ん坊だったんだけど」
「もしかしたらそれって、マインズデールの光の木の下の記憶か? お母さんが赤ん坊のおまえを連れて、教会に戻って来た時の」
「そう。ショールが薄くて寒かった。でもそれ以上に、圧倒的に心細かったな。すっごく無力で、頼りなくて……不安で怖かった。そのうちにだんだんと夜が明けていって、周りが明るくなっていって、星が消えていって……傍にいた人が起き上がって、ひょいと僕を抱き上げて、言ったんだ。『あらやだ、もう夕方? それとも、まさか朝?』って。まあ、その時には、まだ言葉の意味はわからなかったけど」
「おまえ、そこまではっきり記憶があったら、もう一息、誕生の瞬間とか、胎内記憶とかもありそうだな。もしそうなら、出生の真相もある程度判るんじゃないのか?」
「いや、その記憶はないんだ。それ以前でぼんやり覚えてるのは、光に包まれてた感じかな。暖かくて柔らかい、紫がかった銀色の光に」
「光?」
 水ならわかるが。暗くて温かい水、なら胎内記憶なのだろうが――。
「それより前になると、もう僕の人生じゃないけど」
 エアリィはちょっと笑い、首を振った。
「でも、それも記憶に残ってるんだ。普段はあまり意識しないけど、夢にはよく出てくるから。で、起きると、ちょっと妙な気分になるんだ」
「前世の夢か……」僕はヨハン神父さんの夢を思い出し、頷いた。たしかに妙な気分になる。そして僕は何気なく聞いた。
「おまえの前世の夢って言うのは、どんなんだ?」と。
「なんて言えば良いかな……」エアリィは少し黙った後、言葉をついだ。
「別の世界……なにもかも。だから起きた時のギャップがやばいんだ」
 それ以上、彼は何も言わなかった。そして小さく首を振ると、口調を変え、続ける。
「でもさ、それはともかく、過去は乗り越えるっていうより、ありのままを受け入れるしかないんだろうなって思う。過去と現在と……そして未来と。それに一緒についてくる感情を、どう処理してくかっていうのが課題なんだろうけど、感情がついてくるのは、仕方ないんだろうって思う。僕が前のオフの時、一昨年か、あの小説家さんが野バラさんやダンの近況と一緒に、ニューヨーク時代の一時期母さんの恋人だった奴の情報を知らせてきた時も、記憶がわーッとよみがえってきて、『うわ―、会いたくない!』って思ったし」
「あの本に書いてあったとおりなら、本当に最低野郎だからな。わかるよ」僕は頷いた。
「でも、どういう近況だったんだ? そいつ。あれから、その、おまえのお母さんからの別れの手紙で発作を起こして倒れてから……生きてたのか?」
「うん。ただ、もう彫刻は出来なくなってたけどね。あの時、あいつは脳卒中を起こしてたらしい。処置が間に合って助かったんだけど、右半身が動かなくなって」
「そうなのか。それならあの時、おまえが救急車を呼んだのが、そいつを助けたんだな。でも、右半身麻痺か。どうせそいつ、ろくな彫刻はしなかっただろうし、もう暴力もふるえないだろうから、ある意味報いかもしれないな」
「ああ……まあ、才能はそんなになかっただろうけどね。でも好きなことが出来なくなったのは、辛かったとは思う。あいつの家は資産家だったらしくて、でも親と対立して家を飛び出してたんだけど、あいつが入院してる間にその親が亡くなって、遺産を相続して、それで今まで暮らしてたらしいんだ。でも三年前に、また入院して。今度は肝臓がんだって。アルコールや薬のせいかな。でも、親の遺産ももうなくなって、病院もアパートも追い出されそうで、下手をしたら路上で野垂れ死にになるって。そんなことを言ってきたんだ。あの小説家さんがメールで。それで、ああ、あいつにはふさわしい状況なのかもしれないけど、救いようのない人生だなって、なんか哀れに思えてきたんだ。せめて最後はちゃんとベッドの上で死んでもらいたいなって思って、入院費用を払った。なかなか会う気にはなれなかったけど、会わないと気持ちの整理がつかないと思って、一昨年の十月、あいつが死ぬ前に一度だけ会ったんだ」
「そうなのか。それで、どうだった?」
「うん。闇の住人は闇のままだった。外見はかなり変わったけど、中身は同じだ。変われなかったんだなって……なんだかすごく納得したけど、すごく気分も乱された。でも僕は、もう六歳の子供じゃないから、怖れることはないんだって思った。記憶の問題だけだね」
「そうだな……でも、気持ちが通じない人間って、いるんだな」
 僕はなんと言っていいかわからず、それだけ言った。
「まあ、仕方ないよ。ただ闇の住人は二種類いるけど、あいつはどっちなんだろうなとは、思うんだ。最後には救われるのか、それとも闇に吸収されて脱落するのか……」
 エアリィは小さく頭を振ると、口調を変えて言葉を継いだ。
「ところでさ、ジャスティン。後ろから車ついてきてるの、知ってる?」
「えっ?」僕はあわてて振り返った。シルバーの小型車が後ろにいる。でも運転手の顔に、僕はなんとなく見覚えがあった。
「マネージメントの車だよ。運転してるのって、スタッフさんだし」
「護衛ってわけか」僕はいくぶん安心して、前に向き直った。
「去年の春くらいから、マーケットに買い物に行くのすら大変なんだ。ロブたちにいちいち連絡入れて、護衛が来るのを待ってなきゃならないんだ。すごくめんどくさい。オフに家族旅行に行くのにも、知らせてくれって言うんだ。それとなく護衛するからって。いや、いらない。ってか、ついてくるの、やめて! って言ったんだけど、おまえたちには気づかせないようにするし、おまえのプライベートは尊重しているから、って。ちょっと待って、そういう問題じゃない。そんなことに余分なお金と労力使わなくて良いよ! って言ったんだけど、それが自分たちの仕事だって、ロブはきかないんだ。でも僕は遠慮しないから、行きたい時には遠くへだって行くよって言ったら、それは全然かまわない。事前に知らせてくれさえすればって。予告なしに行ったら、おまえの家の中に監視カメラと、門の所に人間の警備員を二四時間貼り付けなければならなくなるぞ、なんて脅かしてくれて、もうホント……やだ!」
「おまえは大変だな。僕はセキュリティアラームだけでよかったよ」
 僕は思わず肩をすくめた。
「でも今年の頭に渡された新しいセキュリティアラームってGPSついてるから、居場所わかっちゃうよね。友達や家族はアラームが来てから対処みたいだけど、僕らメンバーは、ほぼずっと追跡されてるみたい。ロブがそう言ってたし」
「そうなのか。それはそれで、少し考えてしまうな」
「まあ、僕らのプライバシーは尊重されてるって信じたいけどね。マネージメントも大変だなって思うけど、そこまで大げさにしてくれなくともいいのに、とも思っちゃうな。もし変なのに追っかけられても襲われても、誰かを人質にとられたりしない限りは逃げ切れる自信あるよ。カーチェイスもできるし。リード父さんに時々、ドラックレースとかに一緒に乗っけてもらったりしたから」
「それで、見てて覚えたのか。だから、おまえ前に、いや未来か、無免許でも運転できたし、いきなりロケットスタートしたんだな。でも、街中でカーチェイスしないでくれよ」
「一回だけしかやってないよ。ロージィがさらわれそうになった時に」
「ああ、あれか。あれは大事にならなくて、本当に良かったな」
 一昨年のオフに、そういえばロザモンドは誘拐未遂にあったのだった。あの時には本当に、いろいろあった。僕もディーン・セント・プレストンさんのセッションから陰謀に巻き込まれ、二人目の子供を失い、夫婦の仲も冷えきった。その後『Vanishing Illusions』の騒動も加わり、エアリィとの間にも微妙な障壁が出来つつあった。今はすべてがクリアになり、元通りになったことが、本当にありがたく思える。
「話を戻すとさ、たぶん、記憶ってみんなも同じように、積み重なってるんだと思うよ。意識とのリンクがなくなってるだけで」
 エアリィはしばらく黙った後、そう言葉を継いでいた。
「そうなのかもしれないな。それが忘れるって事なのかもしれないけれど」
「でも普段忘れてても、リンクがつながると意識に出てくるから、厳密に忘れてるとはいえないかもね。そういう点じゃ、僕だってそうだよ。忘れないっていっても、普段からずっと意識し続けてるわけじゃない。思い出そうとすると、思い出されてくるっていうだけだし。みんなが忘れた、っていうのも、ただ記憶を無意識に放り込んでるだけかも知れないなって思うんだ」
「そうかもしれないな……」僕は再び頷く。
「で、たぶん、みんなは忘却の彼方に沈んで、浮かび上がってこないことがあるっていう違いだけじゃないかと思う。でも厄介な記憶ほど、忘却の彼方には沈んでくれないような気がするな。あのこととか……」
「あのこと?」
「うん。未来世界の話」
「ああ、あれか!」僕は思わず手を叩いた。
「なんで、そんなことを思い出させるんだよ、エアリィ! よりによって、今日という日に。僕だって、そのことは忘れたいんだぞ」
「今日という日にふさわしくない話題、今まで目一杯してきたじゃないか」
 彼は苦笑して、そう言い返してきた。
「まあ、そうだけどな」僕も肩をすくめる。 
 だが、再び考えてしまった。もう、あと四年というところまで来てしまったのだと。今結婚したロビンとセーラも、この世界での幸せは、あと四年しかないのだろうか? それに、子供がすぐできたとしても、三才だ。あまりにも小さすぎないだろうか? 僕はステラと結婚してからその時まで、八年ほどの時間がある。もう少し早くロビンたちも会えていたら、もっとよかったのに。
 僕は頭を振った。本当にこの忌ま忌ましい記憶を、六フィート下に埋めてしまいたい。でもどんなに深く埋めたつもりでも、あの時が来るまで決して消えてなくなりはしない。おりを見て、また飛び出してくるだろう。僕は小さなため息をついた。
 やがて九月の晴れた朝の中に立っている、我が家が見えてきた。車から降りて門をくぐると、芝生の上で遊んでいたクリスが嬉しそうに走ってきた。子供を見守っていたらしいステラもその後から、笑顔を浮かべ、近づいてくる。二人の姿は安らぎと希望の象徴のように見えた。今はこの幸せ、それだけを考えよう。

 秋の日々は飛ぶように過ぎて行き、至福の休暇は、二ヶ月間の美しい思い出と笑いに彩られた家族のアルバムの一ページとなった。そして十一月から、次のアルバム作りの作業を開始した。本当は一日からスタート予定だったのだが、エアリィが二人目の子供の誕生を見届けてから参加したので、実際の作業が始まったのは五日からだ。生まれたのは今度も女の子で、名前はティアラ・ヴァイオレットという。わずか二一才の若さで、すでに二女の父親になったエアリィは僕らに祝福された時、「ありがと!」と、少し照れたように笑って答えたが、ふと考え込んだ顔になり、こんなことも言った。
「けど、ちょっと考えちゃうんだ。この子、無事かなって。あの時、四才だから」
「あ!」
 僕たちはいっせいに、小さな叫びを上げた。その意味を、みんな知っているのだろう。再びあの認識が頭をもたげてくる。そうだ。これから子供を作るのは、もう遅いのかも。ロビンとセーラの結婚式の時にも感じたが、僕らだってそうかもしれない。二人目の子供ルークが幻となってしまって以来、ステラに妊娠の兆候はなかったが。
 妻は僕らの仲が完全に元どおりになってから、ずっともう一人子供を欲しがっていた。だが幸運にも次の子に恵まれたとしても、さぞかし先行きは大変だろう。それは本当に、幸運と言えるだろうか。
 僕の心情としては、運命の日が過ぎるまで見合わせたいというのが、正直なところだった。ちょっとクリスと年齢はあきすぎるだろうが、僕ら二人ともまだ若いのだから。でも『あと四年待ちたい』と、ステラに言うことは出来ないだろう。『なぜ四年も待つの?』と、彼女はきいてくるに違いない。その理由を正直に話すことは出来ないし、かといって、『子供はもういらないよ。クリス一人で十分だ』と、言い切ることもできない。天に任かせるしかない問題だとわかってはいても、不安と希望の狭間で、それは苦しい命題だ。

 今年はプリプロダクションからローレンスさんも立ち会ったので、最初から彼らが所有する、高原のプライベートスタジオを使った。三作目からずっとこの時期にお世話になってきたビッグママ──ロブのお母さんは、もう今年の秋からいない。と言っても、彼女は相変わらず元気にしているらしいが、遠いメキシコにいるのだ。
 結婚してメキシコシティに住んでいるロブのお姉さん、スーザンさんがこの夏の終わりに体調を崩して病気になり、しばらくの予定で手伝いに行ったところ、娘さん夫妻から望まれて、その地で孫たちが大きくなるまで、一緒に暮らすことになったらしい。ビッグママに会えないことは寂しいが、彼女は忙しく、幸福に過ごしていることだろう。暖かな土地で、娘さん夫妻と小さな三人の孫に囲まれて。それに、もうこれで会えないわけじゃない。またメキシコシティに公演に行った時に、会う機会はあるだろう。ロブのお姉さんや小さな甥姪たちにも。ただ彼らはアイスキャッスルへは、来てくれるだろうか――? 来られるだろうか――?
 
 僕らはクリスマスの直前まで作業を続けた。短いお休みを過ごすためスタジオを後にした時には、プリプロダクションは終わってデモが完成し、ベーシックトラックも二曲ほど出来上がっていた。続きは年があけて八日から、同じ場所で始めることになっている。僕らはそれぞれの家でクリスマスを過ごすために、空港から我が家へ向けて、降りだした雪の中を帰っていった。
 また、一年が過ぎた。もうあと四年だ。




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