Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years' Sprint

八年目




 年末年始休暇が明けると、僕らは再び雪深い高原にこもり、作業を続けた。レコーディングが完了すると、短い休暇。ミックスダウンはミュンヘン。そうして二月の末、通算六枚目のアルバムが完成した。
 最新作の制作は、曲作りからミックスダウンまでの全工程が、約三ヵ月ちょっとというハイスピードで進み、行き詰まることもほとんどなかった。エアリィの曲作りペースが驚異的なのは相変わらずなのだが、これまでは彼の出す課題に僕らが追いつくのに、かなり時間がかかっていた。三作目が一番大変で、作を経るごとにだんだんとその時間は短くなり、この作業も四回目になった今では、僕らも最初のヴォーカルラインと曲構成を聞いた時点で、なんとなくわかるようになっていた。曲が要求するベストのアレンジや演奏が、何であるかを。
 ベストの解法はアレンジをかける前段階、エアリィが曲の原型を出してくる時点で、すでに決められている。彼の頭の中には、もうできあがりのイメージがある。だが結局僕らが探し求めたベストアレンジが、すでに彼が予期していたものであることに、前作では多少とまどったものだ。しかし今回は『だからなんだ? 結局僕らのやり方は正しかった、それが証明されただけじゃないか』という思いに変わっている。言ってみれば、それはテストのようなものかもしれない。それも試験官は非常に寛大で、自分の解法だけを正解とするのではなく、僕らが出してきたものはみな正解というスタンスを取ってくれる。いや、正しいか間違っているか、それはすべて僕らの判断に任されていると言っても良いだろう。
 エアリィは以前と違い、ちょっとした具体的なアドバイスさえ、自分からは言わなくなった。僕らに意見を求められた時以外は。今回も、元から書いてきた三曲に関しては前回と同じようにフルパートの完成形だったし、曲順設定もパズルの意図があるのだと思えたので、彼の意見を聞いてそのまま取り入れたが、それ以外のインストアレンジに関しては、全面的に僕ら四人にゆだねる、そういう姿勢だ。そして僕らは彼の信頼に応える、それだけだ。
 結局ベストの解法とは、あらかじめ決められていようとそうでなかろうと、音楽に最良の形を与えることだ。エアリィが提示してくる曲が人間本体だとしたら、僕らのインストアレンジとはその人にもっとも似合い、その魅力を最上に引き出してくれる衣装を着せることかもしれない。そのためにプラスアルファの楽器を導入することも、自然に思いつくようになった。僕らは幸いなことに、彼の試験に合格するだけの、それもあまり試行錯誤せずにそこにたどりつけるだけの力量を、身につけられたのだと思う。
『Children〜』から『Vanishing〜』までの三枚あわせたアルバムセールスは、天文学的な数字になった。でも、もうプレッシャーとは感じない。最初から、売れることにあまりこだわりはなかった。前作のクオリティをキープしつつ、同じものの繰り返しにならないようにという気負いも、いつのまにかなくなっていた。ただ全力をあげて作れば、きっと満足のいくクオリティを持った作品になる、そんな確信が僕には(おそらく他のみなにも)あった。

 完成したマスターを初めて通しで聞いてみた時、僕は深い満足感と達成感を味わった。それはきっと他の四人も同じだっただろう。前作のリプレイをはじめて聞いた時のような戸惑いもない。今回の作品も前作同様に、収録された十一曲それぞれには別のテーマがありながら、トータルで集まると意味を持って聞き手に働きかけてくる。今回のパズルの回答は、陳腐に聞こえるのを承知で、一言で言ってしまうなら、『自分を信じて進め』だ。
『Polaris』――北極星という抽象的なタイトルだが、それは広大な夜空を導く方位針、ガイドランプを意味する。僕の好きな星。
『変わらないからさ。何時の時代も。星空を導く灯台みたいな気がする』と、昔インドの高原で星を見ながら、エアリィに言ったことがある。彼はその時、『けど、北極星だって不変じゃないんだよ。あと何万年かしたら、別の星が北極星なんだから』などと返していたが、今回このタイトルを選んできたのは、やっぱり同じ思いがあったからなのだろうという気がする。星空の灯台はこの場合人生、社会という広野における目的、その意味、真実をも象徴している。自分に目覚め、愛と勇気、それに信念をその光とすることを。
 このアルバムは『目覚め』を意味する。僕はこの時、はっきりと悟った。ロンドンの病院で『VIは対の片方だから、これだけでは不完全だ』というエアリィの言葉の意味が。これをやるためにこそ、前作は必要だったのだ。完全な目覚めはゼロの地平に立って、初めて達成される。既成の概念や通念、先入観や幻想をすっかり取り払ってこそ、真実が見えてくる。自分の力で切り開こうという、強さと誠実さが備わる。前作と今度の作品とは、二枚で初めて完全な効力を発揮する。本当の意図は、この時完結するのだと。
 実際、今回のアルバムの曲には、前作で提起された疑問の、一つの回答となっているもの、つまり、前回の収録曲と対になっているものが、いくつかある。普遍的な価値観を求める『Turning the Scale』に対する『Here I Stand』、『Scarlet Mission』に対して、新しい宗教感を打ち出した『Rock of Ages』のように。『Green Aid21』で演奏した新曲も一部構成を変えて、新しいパートを付け加え、正式タイトルも『The Arc of Gaia』となって収録された。
 セカンド以来のタイトルトラック『Polaris』は、僕らの曲の中でもかなり異色で、六分五十秒、一切繰り返しがなく、歌が入る部分の四分半強のうち、歌詞はたった十二ライン。後はすべてスキャット。いろいろな音はあるが、言葉はない。そのヴォーカル音域は、三オクターブ半にわたる。これは最初にエアリィが書いてきた曲だったので、すでにフルパートあり、僕らが付け加える余地はなかったが、その分、構成を覚えるのも大変だった。おそらくキャリア上一番の難曲と言えるだろう。不思議な曲でもある。ほとんど言葉がなくとも、聞いていると圧倒的な星空の広がりと、伸びやかで自由な気分、高揚感と幸福感を感じる。それはこの曲ほど強くはないにせよ、アルバムの背後に一貫して流れる感情だ。
 心を開いてすべてのものを受け入れ、自分を信頼すること。自分にも相手にも誠実であること、自分で考え自分で感じ、決定し、それを信じること。未来を信じ、希望を信じて前向きに生きること。それは純粋な自己への信頼。このアルバムから放射するメッセージは、非常に強い肯定的な気分をリスナーに起こさせる。力強い上昇志向を喚起し、気持ちを高揚させる。
『消去する力が別の方向へ働くだろう。それは何だ? それが、私には恐ろしい』
 前作で義兄エイヴリー牧師にそう言われた。次作が完成したら、リリース前に聞かせるという約束もした。だが僕は完成したばかりの新しいサンプルCDを姉あてに送った時、何の恐れも感じなかった。義兄は以前『私は先入観だけで事実を認めないような、そんな石頭ではないつもりだ』と言った。僕らの以前の音楽にも真理はあると、認めてくれてもいた。ならば、きっとわかってくれるはずだ。それほどにメッセージは疑いがない。
 義兄からは何の返事もなかったが、一週間ほどして、姉が連絡をしてきた。
「大丈夫よ。『恐れていたことにはならず、良かった』と、ロバートは言っていたわ。とても素晴らしい作品ね。私も今までで一番好きだわ」と。
 僕だけでなく、同じような懸念を抱えていたメンバーが、他にもいたようだ。マスターを聞き返したあと、ミックがほっとしたようにこう言ったのだ。
「実は前作をリリースして、最初の全米ツアーが終わってオタワに帰った時、父さんに言われたんだ。ずいぶん、今回の作品は騒動を呼んでいるようだな。今まではおまえの活動のおかげで、支持が増えた部分があるのはたしかだから、何も言わなかったが、これは問題かもしれないぞ。私のところにも、いろいろと抗議が来ているんだ。これ以上支持者に反発されると困るから、もし次の作品も物議をかもしそうなら、バンドを辞めるか親子の縁を切るか選べ、とね。もちろん僕は、後者を選ぶつもりだったけれど。でも、これでひと安心だ」と。
「政治家は支持団体とのしがらみが絡むからなあ。俺らは、それほどじゃないんだが」
 ジョージは肩をすくめ、
「えー、そんなことになってたなんて知らなかった。本当にみんなには、迷惑かけちゃったんだなぁ」エアリィは申し訳なさそうな表情になった。
「でも、これで整地の意味が明らかになったんだしね、それに前作も十分意義があったよ。何も悪いことはない。誇りに思って良いんじゃないかな、僕らみんな」
 ミックの言葉に、ロビンとジョージも頷いていた。もちろん僕も。

 新作は四月の第二週にリリースする予定だった。その間は、二週間ほどビデオ撮影とプロモーションのための取材が入る他はオフだ。ちょうどその休暇中、ジョイスが結婚した。
 三月も終わりのその日は、僕の結婚式の時と同じように、一足早い春の日差しに包まれていた。新調したばかりの、アップルグリーンのドレスを着たステラと(濃い緑はあまり似合わないと本人も言うが、少し青みがかった薄い緑は彼女の髪や肌の色に良く映えていた)、同じ色のベストスーツを粋に着こなしたクリスを連れ、僕自身はロビンの結婚式でも着たリーフグリーンのフォーマルスーツに身を固めて、自宅から直接教会へ行った。
 ステラがクリスを教会の庭で遊ばせている間に、僕は花嫁の控え室を訪ねたが、ドアを開けたとたん、中から出てきた実家の家政婦ホプキンスさんと、危うくぶつかりそうになった。
「ああ、ジャスティン坊ちゃん!」
 ホプキンスさんは目を潤ませ、鼻を真っ赤にしていた。
「本当におきれいな花嫁さんですよ。ジョイスお嬢さまは、ローリングス家の秘蔵っ子ですからね。何もかも、おめでたいじゃありませんか。この上なく素晴らしい旦那さまですしね。お嬢さまのために、奥様とわたしはここ一ヶ月ほど街中を駆けまわり、一番良いものをと心を砕いたのです。あのお衣装は十万ドルもしたんですが、ええ、ええ、かわいいお嬢さまのためなら、たとえ百万ドルのお衣装だって、惜しくはありませんよ。御覧なさい。まるでお姫さまのようですから」
 ホプキンスさんは包みを抱えて廊下へ出ていき、僕は中へ入った。ジョイスは控え室の椅子に腰掛けていたが、僕が入っていくと立ちあがり、にこっと笑った。
「お兄ちゃん、見て。きれいなドレスでしょう?」
「ああ、本当だ。それにドレスだけでなく、おまえもとてもきれいだよ」
 床に長くもすそを引くウェディングドレスは純白で、柔らかい絹地の上に、薄いオーガンジーのような生地が重なっている。慎ましやかに少しだけ開いた胸元には、群がる雲のようにレースがふんだんにあしらわれ、大きく膨らんだパフスリーブに長いカフス、スカートもフープを入れたのでは、と思わせるほど、ふわりと膨らんでいた。装飾の好きなジョイスの趣味にふさわしく、白いリボンやバラの花があちこちに付けられ、本物の手編みレースを一面にあしらい、ところどころに小さな真珠を散らしてある。でも決してごてごてした感じにはならない、洗練されたデザインだ。妹もまた、そのドレスに負けないくらい美しく見えた。まつげの長い淡褐色の瞳を輝かせ、頬を紅潮させた若々しい顔。艶やかな栗色の髪を編み上げ、頭にぐるっと巻き付けている。華やかなヘッドドレスのついたシフォンのベールが、霞のようにすっぽりとおおっていた。
 教会についた時、すでに花婿には紹介されていた。ジョイスの夫となる人は今年二九歳になる、ブルネットで背が高い、実直そうな好男子だ。今日から僕の義兄弟になるクレメント・ファーガスンは(ジョイスはクレムと呼んでいるが)病院の外科部長の息子で、本人も優秀な外科医だという。ジョイスはローリングス姓をそのまま受け継ぎ、夫は通常は元の姓を使うが、戸籍上は妻方に改姓するらしい。父と同じだ。ということは、この夫が病院の次期院長に、ほぼ決まったようなものだった。
 控え室で、花婿とはどこで知り合ったのかと聞くと、妹は無邪気にこう答えた。
「一年前に、パパが紹介してくれたの」
「父さんの紹介? じゃあ、おまえは病院をつぐために、親の決めた相手と結婚するのか、ジョイ?」僕は驚き、思わずそう問い返した。
「別にパパは彼と結婚しなさいなんて、命令はしなかったわ。いい人だから会ってみてはどうかって、聞いただけよ。あたし、クレムに会ってみて気にいったから、そのまま彼と付き合い始めたの。それから半年たって、彼がプロポーズしてくれたのよ」
「そうか。でも、本当にそれでいいのか?」
「ええ。だってあたし、他に付き合ってる人はいなかったし、それにね……」
 ジョイスは僕を見上げて、にっこりと笑った。
「あたし、お兄ちゃんがミュージシャンになるって家を飛び出した時、パパに約束したんだもの。もしお兄ちゃんを許して認めてくれたら、あたしはパパの気に入ったお医者さまと結婚して、病院をついであげるって」
「ジョイス!」僕は茫然として妹を見つめた。
「じゃあ、おまえは僕のために……?」
「勘違いしないで。あたし、お兄ちゃんの犠牲になったわけじゃないわ。だってあたし、他に本気で好きな人とかが、いたわけじゃないの。クレムはいい人であたしを大事にしてくれるし、あたしも好きだもの。たしかに自分で相手を見つけたわけじゃないけれど、好きなんだからいいじゃない。ちゃんと自分の意志で結婚するって、決めたんですもの。パパも大喜びだし、あたしも満足してるの。心配しないで、ジャスティンお兄ちゃん。あたし、ちゃんと幸せになるから」
「ジョイス!」
 僕は思わずドレスが崩れる心配があることも忘れて、衣装の上から妹を抱きしめた。
「ごめん。そんなことだなんて、僕はちっとも知らなかったよ」
「お兄ちゃんが謝らなくても良いじゃない。あたしはずっとお兄ちゃんの夢を応援していた、それだけよ。あたしはお兄ちゃんを誇りに思っているわ。それに、あたしはね、別に何かになりたいなんて、はっきりした夢は持っていないし、他に大恋愛をした好きな人がいるっていうわけでもないのよ。本当にクレムのことが好きなの。だから、そんな顔をしないで。お願いだから……」
「ああ。そうだったね。今日はおまえのめでたい日なんだ。おまえが幸せなら、僕は何も言うことはないよ。本当に幸せになれよ、ジョイス」
「ええ……」彼女はちょっと涙ぐみ、そして僕にしがみついてきた。
「あたしね……あたし、本当はお兄ちゃんが一番好きよ。誰よりも。だからお兄ちゃんのためにも、パパやママのためにも、あたしのためにも……これが一番いいの」
「ジョイス。まったく、おまえってやつは……ありがとう」
 僕は苦笑し、同時に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、軽く妹の背中を叩いた。
「でも、これからはそれじゃ、ちょっとまずいと思うぞ。まず誰よりも、旦那さんを好きにならなきゃな」
「ええ、わかってるわ。もちろんそうするわよ」
 ジョイスは再び笑顔にかえって、頷いていた。

 でも結婚式の間中、僕はなんとなく気分が晴れなかった。ステラがあとで言っていたように、妹を他の男に取られたという、一抹の淋しさも交じっていたことは否定できない。でもそれ以上に、ジョイスが僕のために親の決めた相手と結婚したという事実が、重くのしかかっていた。たしかに妹が言うとおり、他の恋人と引き裂かれたというわけではないかもしれない。父も決して強制はしなかったし、クレメント・ファーガスンと結婚すると決めたのは、紛れもなく彼女の意志だろう。僕がとやかくいう問題ではないことは、百も承知している。でも自分の夢のために、結果的に妹を犠牲にしてしまったような気が、どうしても拭えなかった。だがジョイスももう秋には二四才、一人前の大人だ。彼女が決断したことは、尊重するしかない。
 新夫婦があいさつに来た時、僕は花婿の手を取って言った。
「頼んだよ、ファーガスンさん。ジョイスを……妹を幸せにしてやってほしいんだ」
 あとは胸がつまって、それだけしか言えなかった。
「任せてください。一生大事にします。きっと幸せにしてみせますよ」
 クレメント・ファーガスンは微笑し、穏やかな声で答えた。
「お願いだよ!」
 僕は新郎を見据え、両手にぎゅっと力をこめて握った。それが妹のために出来る、精一杯のことだった。ファーガスンが野心と富のためでなく、本当にジョイスを愛してくれているのだと信じよう。大丈夫、父の眼力はたしかだ。愛する末娘を不幸せにするかもしれない選択など、するはずがない。僕から見てもクレメントは誠実な男に見えた。式が終わって、彼が花嫁を見つめる目にも、愛情と優しさが感じられた。
 婚礼の宴が終わると、新夫婦はヨーロッパへと新婚の旅に出かけていった。出席した人々は、みな並んで見送った。二人を乗せた車が、空き缶の音を派手に響かせながら、威勢よく走り去っていく。その小さくなっていく姿を見つめる父や母の顔は、自分たちの望みどおりの結婚をした末娘に対する満足と誇らしさ、そして愛すべき秘蔵っ子を送り出した淋しさが入り交じっているようだった。母は涙をぬぐうためにそっと頬に手を当て、父は決まり悪そうに帽子を深く引きおろしていた。ホプキンスさんはエプロンを顔に押しあてて、すすり上げている。僕も心の中で祈りながら、婚礼の車が遠ざかっていくのを見送っていた。妹の結婚が幸福であるように。あと三年半という時間を、精一杯幸せに生きてほしい。それからも、できたらずっと――。

 四月下旬から、再びロード生活が始まった。繰り返される毎晩のスタジアムやアリーナでのパーティ(コンサートと、それについてくる一連の騒ぎのことだ。実際のパーティは、僕らはあまりやらない)、おびただしいファンと、それよりはるかに数は少ないが、しつこさではまさる取材陣、豪華なホテルの部屋、移動の飛行機、リムジン、サロンバス、専属のシェフさんが作ってくれる料理やレストランでの食事、少しばかりの中傷や嫌がらせ、そういう世界が、再び僕らとともにあった。また喧騒と一緒に歩く生活が始まるのかと思うと、多少うんざりするけれど、コンサートそのものは大好きだ。ステージと会場の完全な一体感。そこに交わされる、膨大な感情のキャッチボール。気分の高揚、陶酔。それはなにものにも代え難い歓びだった。
 今回のコンサートも二部構成で、第二部のアルバム完全再演は、前回と同じだ。今回の完全演奏は『Polaris』だが。そしてますます増えていく曲をカバーするために、それ以外はA、B、C、Dと四つのショーパターンになっていた。どれも所要時間は三時間あまり。僕らも観客も終わった時には、体力精神力の限界に達してしまうようだ。終演後、楽屋に戻った僕らはみなソファに座り込み、コンサートの余韻と疲労感が一緒になって、思わずぼーっとする。もともとエアリィには、このアフタートランスとでも言うべき状態が前からあったが、前回のツアー後半から今回にかけては、僕らまでしばしば一緒に付き合ってしまっている。十分ほどしてようやく動く気力が出てくると、軽くシャワーを浴びて着替え、会場を後にするのだ。
 観客たちの方は、しばらくは何かに憑かれたように叫び続けているという。やがて彼らは叫ぶのを止め、僕たちと同じようなトランス状態に陥るようだ。彼らが現実に立ち戻って帰り始めるのは、僕らが会場をあとにしてからが多いので、会場を抜けるのは、いつも比較的簡単だ。一昨年の騒動以来、チケットのない人は会場付近に入れないようになっていたので、観客がみな中にいる状態では、ほぼフリーパスだ。
 ファンたちは僕らに強い崇拝を寄せているようだ。そして、それは彼らの行動にも表れてくる。ありがたいことだけれど、その数の多さや影響力の強さを、時々目の当たりにしたりすると、やはり多少のとまどいを感じることもある。それに、一部のマスコミに『集団催眠』だの『巨大な新興宗教』、さらには『どんな麻薬より強力なドラッグ』だなどという、ありがたくない呼び方はされるのにも、抵抗を感じる。エアリィのことを『誘惑者』だの『教祖』だの『洗脳者』呼びされるのも、気にはなる。でも、僕らは決して負の力は与えないつもりだ。破壊よりは、創造していきたい。憎むよりは愛したい。それはファンの上にも確実に伝わっているようで、認めてくれる識者たちも多い。それが救いだ。
 その思いは、ツアーを続けているうちに、やがて信念へと変わっていった。百パーセントの賛同は、どんな場合でも得られないのだろう。それは仕方がない。僕らを理解しようとせず、影響力の大きさだけを懸念して騒ぐ大人たちがいろいろ勝手に言い立てることは、あまり気にする必要のない雑音でしかない。誤解したい人は勝手にすれば良い。一つの固定観念からしかものを見られない人は、勝手にその不自由さに縛られたら良い。僕らは自分の信じた道を行くだけだ。
 ただ、反対勢力を完全に無視するわけにもいかない。あの事件の犯人たちは逮捕されて、今は刑務所の中だ。でも、また同じような輩が出てこないとも限らない。マネージメントやレーベル側もかなり尽力してくれているが、僕たちに対する反対勢力を完全に抑え込むことは、なかなか難しいようだ。繰り返しになるのであえて書かないが、ツアーは決してすべて平穏無事なまま進行したわけではなく、爆弾をしかけたという書き込みや物騒なプレゼントといった、いくつかの小さな事件は相変わらず発生している。だが幸いなことに、それで誰かが実際に怪我を負ったり、公演がキャンセルになったり、というような状況にはなっていない。爆弾をしかけたというメールや書き込みも、警察が何人か犯人を検挙した後のツアー後半には、ほとんどなりをひそめたようだ。
 観客たちが会場に入るとまずやることは、座席周りのチェック、そしてトイレや天井、階段、建物のチェックらしい。警備員たちももちろん、それ以前に同じようにしている。会場に届けられるプレゼントや手紙はすべて、あらかじめ開封され、中身をチェックされてから、透明な袋に入れて渡される。食べ物や生もの、花、ぬいぐるみや人形などは受け取り拒否になる。それは以前からそうだ。その注意は数年前からオフィシャルサイトにも書いてあることなので、ファンたちも守っているようだ。食べ物や飲み物も、相当厳重に管理されているようだし、レストランなど外食の際には、僕らが食べる前に必ずスタッフが先にひとさじとって食べる、いわゆる“お毒見”をしている。移動は相変わらず物々しい体制だ。だが僕たちはみな、半分運任せの心境だった。ロンドンの病院でエアリィが言っていたように、『僕たちにはまだやらなければならない仕事が、天から与えられた仕事があるから、それが終わらないうちは決して死にはしない』という固い認識、それとも信念が、僕らみなの支えになっているようだ。
 僕も少しずつ悟りつつある。僕らに今与えられている使命はたぶん、アイスキャッスルで苦難の時代をくぐり抜けられる強い精神を、ファンたちの間に育てることなのではないかと。ツアーを続けていくうちに、そんな認識が心に芽生えてきていた。
 通算三枚目にあたる出世作『Children for the Light』からの一連の四枚の作品を通してみた時、それらの作品群とそれをベースにした僕らのコンサート活動に、こんなにも多くのファンが賛同し、受け入れられ、深くその概念が浸透していくのを目のあたりにした時、その思いに行き当たる。僕らに与えられた力は、何のためにあるのか。僕らが八年前に未来世界へと飛び出し、世界の終末から一部の人間たちを救うという使命を担って戻ってきたことは、単なる偶然なのか。いや、今となっては必然だったのかもしれないと思える。今の時代の、物質的には満ち足りているが精神的には欲求不満だらけの、弱く自己中心的な若者たちに、長い暗黒の耐乏生活を耐えうるだけの精神力はないだろう。そのためには意識改造が必要であり、強い求心力や精神的支柱が必要だ。
 僕らのファン集団が膨大なカルトを形成しているという一般の懸念は、そういう点では決して的外れではない。たぶんそれが希代のスーパーシンガー、アーディス・レインが誕生した理由なのだろう。彼はこの大きなムーブメントの紛れもない中核であり、本体であり、台風の目だ。そして僕を含めたインストの四人はその流れの中で、彼をサポートする役目を持ってきたのではないだろうか? そう考えると、すべての糸がつながるように思う。
 僕は移動中の飛行機の窓から雲の海を見下ろしながら、ふと考えた。この僕は、いったいどこまで必然だったのだろうか、と。僕も生まれた時から、ある種の宿命を背負ってきたのだろうか?
『私はすぐに戻ってくる。すべてを見届けるために』
 僕の前世かも知れない神父さんが最後につぶやいた言葉が、ふと思い出されてきた。そしてその意味を、僕はおぼろげに悟った。
『何を見届けるのですか?』というシスターの問いに答えて、彼は答えていた。
『起源の子と世界の……』
 最後まで言うことは出来なかったが、それはたぶん、『起源の子と、世界の終わりと再生を』が、正解だろう。起源の子がエアリィで、世界の終わりがカタストロフなら、なるほど僕はたしかに彼に出会ったし、あの運命の日を生きることにもなるだろう。そして再生の兆しまで――おそらくオタワに移るまで、僕は生きるのだろう。それが、僕の宿命なのだろうか。神父さんの日記にも、そう記されていた。不思議な声――あの幻影の言葉が。
(あなたは再び、この世にやってくるでしょう。まったく違うあなた自身として。そのあなたには、重大な使命があるのです。時の輪を閉じるために記録を残し、起源の子に出会って、彼女の変革を手助けする。そして、世界の終焉と再生を見る――)
 彼女の変革、と言うと語弊があるが、それは言いかえると『起源子の変革』になり、それがたぶん今エアリィが、AirLaceを通じてやっていることなのだろう。ファンたちの意識改造。そして僕は同じバンドに所属して、彼とともにある。サポートをしている。それは、まったくそのとおりだ。しかし、起源子の変革は、それだけなのだろうか。『二つの輪をつなぐ接点』『魂に光の種を蒔く』――まあ、後者はなんとなくわかるが。それは啓蒙を詞的な言葉で言い換えた、ともとれるから。でも前者はわからない。
 僕は頭を振って、それ以上考えることをやめた。飛行機は次の公演地に着き、僕らは新たな聴衆と向き会うために空港におりたった。

 ロードは進んでいった。四月下旬から三ヵ月間の南北アメリカ縦断、八月半ばから二カ月半続いたヨーロッパツアーを終えると、それから二週間のインターバル。そして、年内いっぱいアジア・オセアニア地区を回る。
 クリスマスの一週間前に、僕らは再び故郷へ帰ってきた。同時に、誰からともなく提案が出た。今年のクリスマスは、メンバー五人それぞれの家族とロブ夫妻で一緒に祝おうと。
 二四、二五日と郊外の大型コテージを借り切り、十七人全員が集まってパーティを開いた。ある意味では、親兄弟や親戚よりつながりの深い僕らだ。こういうクリスマスがあったっていい。愉快な暖かい、にぎやかな集いを。

 クリスマスの夜、パーティが果てて、疲れながらも満ち足りた様子のみんなは、それぞれの家に帰っていった。クリスははしゃぎ疲れたのか、車の中で眠り込んでいる。参加人数が多いだけにそれぞれの贈り物を用意するのが大変だったけれど、当然のことながら贈られたプレゼントも多く、カラフルな包みがたくさん積み込まれた車の中、クリスはチャイルドシートで、ぐっすり眠っていた。その手に、いくつかのプレゼントがしっかりと抱きかかえられている。そんなわが子の楽しげで満足そうな寝顔が、バックミラー越しに見えた。
 助手席のステラも振り返って微笑み、低い声でささやくように言った。
「楽しかったわね、ジャスティン」
「ああ。本当だ」
「クリスも、とてもはしゃいでいたわ。お友達がたくさんいるから。あの子、いつもうちでは一人で遊んでいるから、淋しいのでしょうね。同じ年配の子供は、家の近くにはいないし、それに外へ出すのは、なんとなく怖いのよ。アデレードもそう言っていたわ。彼女のところは、うちより大変だから、よけいでしょうね」
「そうだなあ。特にロザモンドちゃんは、一回誘拐未遂があるし」
「大変よね、本当に。だから彼女、バンドの活動中は、ほとんど外へは出ないそうよ。買いものはシッターさんやマネージメントの人に頼んで――オフィスに専門のお世話係の人がいらっしゃるみたいね――彼女はずっと家にいることが多いらしいわ。家ならセキュリティシステムもしっかりしているし、庭も広いから。でも、『ロザモンドもティアラも、閉ざされた世界にいるのよね、この状態では。これでは、いけないと思うわ』と、ため息をついていたの。だから、せめてメンバー間だけでも交流しましょうと、マネージメントの人にサポートしてもらって、うちやパメラさんのところの子たちを呼んでもらったり、逆に遊びに来たりもしているのよ。でも彼女のところもパメラさんのところも、兄弟がいるでしょう。それがうらやましいわ。うちももう一人、子供がいるといいわね」
「そうだね……」僕はあいまいに頷いた。
「でも今からじゃ、クリスとは少し年が離れすぎるかもしれないよ。あの子にはジョーイくんやロザモンドちゃんのような、年の近い遊び友達が必要なんじゃないかな。どのみち来年の秋には小学校だけれど」
「そうね。もう来年にはあの子も六歳になるから、九月から小学校なんだけれど……」
「何か不安なの?」
「ええ。クリスは幼稚園に行っていないし、近所に子供もいないから、学校へ行っても周りにお友達がいないんじゃないかしらって」
「ああ、でも新しい友達はできるんじゃないかな」
「それはそうなのかもしれないけれど、通学は大丈夫かしら。それも不安なのよ。それに、もしあの子があなたの子供だとわかったら、何か特別な目で見られたりはしないかしら」
「安全面に関しては、マネージメントのセキュリティにまかせて大丈夫だと思うよ。あとは……そうだなあ、一般のお母さんには秘密にしてもらうか、それとも思いきってオープンにして、普通に付き合っていくかだね。僕らだって決して特別な人間じゃないってわかれば、向こうだって普通に接してくれるかもしれないし」
「そうね……そうだといいけれど」
「ただ、ロザモンドちゃんやジョーイくんと、学年が離れてしまうのは残念だな。仲間を引っ張ってこようと思っても、二人は小学校、再来年だしね」
「そうなのよね……」ステラは残念そうな顔で、微かに首を振る。
「せっかく仲良しなのに、出生年が違うせいで、一緒の学年になれなのが残念だわ。クリスもとてもがっかりしているみたいだし、かわいそう」
「ああ」
 僕は考えた。できれば一緒にしてやりたいが――そうだ。市の教育委員会に相談してみようか。事情があれば、そのへんはフレキシブルに対応してもらえるかもしれない。もちろん、ただ仲良しと学年が離れるのは嫌だ、というような単純な理由ではダメだが、僕の仕事の都合で、とか、もっともらしい理由をつければ、クリスの就学を一年遅らせることが可能かもしれない。そうすれば、二人と一緒に学校へ通える。クリスは九月生まれなのだから、早く入れるより、いいかもしれない。
 僕がそう提案すると、ステラはぱっと顔を輝かせた。
「あら、それはいいわね! 認めてもらえるといいけれど。そうすれば、一緒に通えるわ。ああ、でも学区が違うわね。ロザモンドちゃんはリッチモンドヒルだし、ジョーイ君はリヴァーデイルよ。うちはノースヨークだから」
「プライベートスクールへ通わせたらいいんじゃないかな、公立じゃなく。その方が融通が利きそうだし。今プリシラちゃんが通っているのも、クイーンズパーク近くの私立小学校なんだ。そこはとても良いところらしいから、そこに行かせてもらおう。私立なら、学区は関係ないしね」
「そうね。それなら大丈夫だわ。遠いかもしれないけれど。うちもだけれど、ロザモンドちゃんはかなり郊外だから、車でも一時間くらいかかりそうね」
「そうだなあ。でもエアリィのところはそうまでしても、僕らと一緒のところへ、通おうとするかもしれないな。ロザモンドちゃんの安全面でも、特別扱いを分散させるためにもね。だから、もしそうできれば、うちも一緒に……まあ、どっちにしろ、マネージメントの協力が必要なんだけれど」
「そうね。それなら早速、まず教育委員会に行かなければ。それでもし就学時期をずらすことを認めてもらえたら、あとは親同士の話し合いね。あなたはアーディスさんやジョージさんと相談してみて。わたしもアデレードやパメラさんと、話をしてみるわ」
「ああ、わかった」
「春までには、ツアーが終わるのでしょう? それなら、それからでもいいかしら」
「そうだね。三月からはオフだ」
「待ち遠しいわね。お休みはいつまでなの? 五月一杯くらいまで?」
「たぶんそのくらいかな、例年通りだと。正式には年明けのスケジュール編成会議で決まるんだけどね。今までのペースを維持するなら、五月一杯くらいまではオフで、次のアルバムは十月か十一月あたりに完成目標で、冬くらいからロードが始まって、また一年くらい。そんなところじゃないかな」
 そうすると、さらにその次は、春くらいから製作に入って、リリースして最初の全米をこなすくらいで、運命の日が来てしまうわけか──ついそこまで考えが先走り、僕はまた背中に悪寒が走るのを覚えた。本当にもう、猶予は長くない。あと、たった三年──。
「それなら、春はオフなのね。それにレコーディングの時にはロードより留守が短いから、来年は少し長く家にいてくれるのね」ステラはうれしそうな口調だった。
「ああ。できるだけ君のそばにいるよ。君とクリスのそばに」
 僕は言った。ひどく切なさを覚えながら。
 リミットがだんだん近くなってくる。残された時間は、どんどん短くなっていく。あれはただの幻想だったのか勘違いか、それとも本当のことなのか。今となっては、はっきり確信などない。だが、やはり恐ろしいリミットであることに変わりはなかった。もしも、その一日が無事に過ぎれば、なんだ、やっぱりあれは夢だったのかと、笑い飛ばせる。なぜあんな嘘のような話を本気で信じていられたのか、と。でもそれまでは、ずっと思えてしまうだろう。未来には大きな壁、もしくは深い溝があると。そこから先の保証はない。もし本当に未来世界で得た知識が現実になってしまったら、たとえ生きていられたとしても、今僕らが享受できているほどんどすべてのものが、世界と一緒に消えうせるのだ。残されるのはこの身体と、家族だけ。ああ、家族だって、ずっとそばにいてくれるだろうか、本当に──。
 そう、それまでしかないのだ。この世界を、愛する人たちを、僕らが成し遂げたもの、持っているものすべてを喜べるのは。幸せだと言っていられるのは。だからそれまでの年月を、決して無駄にするな。悔いのないように過ごせ、と。まるで死の宣告を受けた病人、いや、執行日のわかっている、死刑囚のようなものだ。しかも、それが自分のことだけでなく、世界と愛する人たちすべてを巻き込むリミットなのだから、よけいに切なく、恐ろしい。
 もうそんなことは考えるな。何度も思ったはずだ。考えても悩んでもせんのない問題を思い煩って、貴重な時間をロスするな。
 僕は片手をハンドルから離し、手を伸ばしてステラの小さな手を握りしめ、微笑もうとしながら口を開いた。つとめて普段通りの口調で。
「そう言えばね、来年は新年パーティはやらないんだ。ロブのお母さんがメキシコの娘さんの家へ行って、当分帰ってこないから。今年はそれでもビッグママ抜きでやったけれど、今回はどうしようと、みんなで話したんだ。でも、こうしてクリスマスパーティをやったんだから、ニューイヤーはパスしても良いんじゃないかってことになって。その次のことは、また来年決めるけどね。奥さんや子供たちの意見も聞いて。君はどう思うかい、ステラ? 再来年以降、続けていきたいかい?」
「そうねえ、新年パーティは嫌いではないわ。気後れした時もあったけれど、今ではアデレードがいるし、セーラやパメラさんやポーリーンさん、それにレオナさんにも、かなり打ち解けられるようになったわ。特にセーラとパメラさんには。クリスもロザモンドちゃんやジョーイくんに会いたいでしょうし、良い交流の機会だと思うのよ」
「そうか。じゃあ君は、継続してもいいって言うことだね」
「ええ。お料理は相変わらず、得意ではないけれど。でもケータリングのご馳走も良いけれど、みなさんのお料理も、他ではなかなか味わえないのだから、良いと思うわ」
「そうだね。君もお料理修行をしていることだし。だんだんトレリックさんの手を借りなくても、上手になってきたね。ロードから帰ってくるたびに、君の進歩に驚くよ。この間出してくれた、パイ皮で包んだシチューやロールキャベツなんか、本当においしかったよ」
「わたしもね、あなたが家に帰ってきてお料理を食べて、おいしいって言ってくれるのが何よりうれしいの。これからもがんばるわね」
「ありがとう!」
 僕は妻を抱きしめようとした。が、今は運転中だ。
 空からは、絶え間なく雪が降ってきている。ヘッドライトに照らされて、白い氷片が舞っている。クリスマスは終わり、まもなく年が明ける。また一年が過ぎようとしていく。ああ、なんて時間は早く経っていってしまうのだろう。落ちてくる雪を途中で止めることができないように、僕らに時を止めるすべはない。

 やがて車は我が家の門をくぐった。ガレージの前に止めると、軽い雪ぼこりが舞い上がる。妻の手を取って降りるのを助けると、眠っているわが子を抱いて玄関に入った。クリスはむにゃむにゃと何か寝言を言いながら、ぎゅっと抱きついてくる。楽しげな笑みがその顔に浮かんでいた。
 僕は息子を抱き締め、その巻き毛に頬を押しあてながら、思わずまぶたが熱くなるのを感じた。ああ、せめて未来が変えられないのなら、この愛するものたちのために時ができるだけゆっくりとたってくれることを、祈らずにはいられない。




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