Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

七年目(5)




 夜になって、ロビンからメールが届いた。
【ジャスティン、いろいろアドバイスをありがとう。あの後僕はセーラに会うことができ、もう一度プロポーズをしたよ。君のすべてを受け入れるから僕と結婚して欲しいと言うと、彼女は泣き出したんだ。涙がこれほど美しいものだと、僕は初めて知ったよ。僕も危うく泣きそうになったほどに。秋には式を挙げたいと思うんだ】

 僕はそのメッセージを読むと、すぐロビンに電話をかけた。改めて二度目のプロポーズの様子を聞き、心からの祝いを述べて電話を切ると、不覚にも僕まで目頭が熱くなってきた。ああ、ロビンにもとうとう生涯の恋人、最良の伴侶が見つかったのだと。ちょっとつまずきはあったものの、そのことがかえって二人の絆を固くしただろう。
 だが大きな喜びの底に、一抹の寂しさも感じる。ずっと自分を慕ってくれた兄弟が結婚するような、そんな気分だ。でも兄弟だって成長すれば、それぞれの世界を作る。それがあたりまえだ。僕にも家族がいる。妻と息子。僕の心の錨が。彼らをもう一度この手に取り戻せて、なんとこの世は再びばら色になったことだろう。

 ロビンの婚約の知らせから十日後、僕はもう一つの知らせを受け取った。去年の十一月からずっと不確定だったバンドの未来、それを決定する一通のメールを。二月八日──今日の午後二時ごろの発信日付で、エアリィが送ってきたメールだった。普段は携帯同士で送ってくるが、時々PCからPCのメールアドレスへと送ってくる。今回もそうで、それゆえ僕がそれを受け取ったのは、メールチェックのためにパソコンを立ち上げた、午後四時くらいだった。
【ジャスティン、元気でやってる? 奥さんと無事仲直りできたそうで、ホントに良かったね。アデレードからも、いろいろ裏話を聞いたけど、やっぱり恋っていうのは、いろいろややこしいもんなんだね。でも、ロビンもとうとうセーラさんと婚約したらしいし、良かったよね、本当に。
 あっ、そうそう、肝心な報告をしなくちゃ。やっと昨日退院したんだ。でも、まだ飛行機で移動する許可は下りてないから、今はロンドンのホテルにいるんだ。一週間くらいこっちでゆっくりして、もう一回病院で診察受けて、それから帰れって言われたから。だから、しばらくホテル暮らしになりそう。そのあとはトロントじゃなく、ニューポートに行く予定なんだ。あそこにセカンドハウスがあるから。向こうの方がトロントより気候が緩やかだから、来週末から三月上旬くらいまでいて、そこにフレイザーさんとモートンが二月二十日から来てくれて、本格的なリハビリを始める予定なんだ。
(フレイザー先生のトレーニングって、五年前の悪夢を思うと、ちょっと憂鬱だけど)
 マッコーリー先生は退院診療で、前言を撤回したよ。両方の肺が完全に再生したから、リハビリして心肺機能が戻ったら、元通りに歌えるってだろうって言ってくれた。いや、本当に。ずっと寝てばっかりいる間に、僕の身体は最大限修復されたみたいだけれど、それにしても再生は、さすがに初めてだと思う。はっきり言って、気持ち悪いレベルだよね。ますます化け物扱いされそうで、やなんだけど。だから、リハビリが順調に行けば三月半ばくらいにはリハーサルができそうだし、四月くらいからツアーできるんじゃないかな。
                じゃ、三月の再会を楽しみにしてます  Bye】

 僕は何度も読み返した。本当か? 本当にこんなことが? 希望的観測でなく、本当にバンドが再始動できるのか――? この時になって初めて、信じているとは言いながら、どれほど心の奥底では最悪の可能性を想定し、怯えていたかを僕は思い知らされた。僕は大きく息を吸い込み、ついでデスクを叩いて思わず声を上げた。「やった!」と。そしてすぐ、ロブに電話をかけた。疑うわけではないが、確認のために。
「エアリィからメールが来たんだけど」
 僕が切り出すと、ロブは弾んだ声で答えた。
「おまえも読んだか、ジャスティン!」と。
「ああ。ついさっきね」
「今までに、ミックとロビンも電話をしてきたぞ。ジョージはまだ読んでいないんだろうが、きっと読んだら連絡してくるだろう。おまえも今読んだのか、ジャスティン?」
「ああ、チェックが今になってしまったからね。驚いたよ。本当に……?」
「ああ、間違いない。モートンからもその報告は受けたし、マッコーリー先生にも僕は直接確認を取ったんだ。まあ、その時こっちは三時前でも、ロンドンは八時で時間外だったが、幸いまだ病棟におられてね。話を聞くことが出来たんだ。CTを撮ったら、両肺が完全に再生されていたらしい。右はおろか、ほとんどなくなっていた左肺まで、きれいに元通りになっていたそうだ。先生もすっかり仰天したらしいよ。『再生は、肝臓ならありえる。指先も、ごくごく稀にそんな症例がある。しかし、肺が再生するなんて。こんなに医学の掟破りの患者は診たことがない!』と、おっしゃっていた」
「まったく……本当だ。もう驚くしかないよ」
 僕は思わず深く吐息をもらした。
「マネージメントとエージェントは今、最終的な日程調整に入っているんだ」
 ロブはそう言葉を継いだ。「元々春からの再始動をにらんで、ある程度スケジュールは押さえてあったのだが、我々としては、気休めのようなものだった。言ってみれば、お守りのようなものだったかもしれない。でも今や、本当に必要になったんだ。社長もスタッフもエージェントもレーベルも、今日はまるでお祭り騒ぎだ! 忙しくなるぞ! おお、キャッチがかかった。ジョージかな? と言うことで、ジャスティン。リハーサルの開始日とツアー日程が決まったら連絡するからな!」
 あわただしく電話は切れた。ロブも相当興奮しているようだ。
 僕も受話器を置くと、今度は直接本人に確認の電話をかけた。今はロンドンのホテルにいるのなら携帯電話しか手段がないが、たぶんそれゆえ、電源は切っていないだろう。ただ、今向こうは夜の十時前くらいだから、下手をするともう寝ている可能性もあるが。
「今寝るとこだった、たしかに。それにしてもみんな、反応早いなぁ」
 エアリィは電話の向こうで、苦笑しているようなトーンだった。
「ホント、いろいろ心配かけてごめん。ありがとう。でも、なんとか続けていけそうだよ」
「ああ、本当に良かったよ」僕はそれだけしか言えない。
「うん。だってさ、前に言ったみたいに、まだ途中だから。去年のロンドンのあの晩から、また始められそうで良かった。これからはホントに、楽しくやれそうだね」
「ああ……本当にな」
 僕は胸が詰まってしまい、相変わらずそれだけしか言えなかった。僕たちの道は分かたれない。あの夜、僕はそう思った。そして途切れることもない。今はそう確信できる。

 それから五日ほどたって、ロブからリハーサル開始の日が通知された。三月二十日と。再開ツアーの日程も、四月二日からと決まってきた。そうすると、この休暇も残すところは一ヶ月半足らずだ。その間にレーベルからファーストとセカンドのリミックスヴァージョンを出してみないかというオファーが来て、これには全員一致で乗った。やっとあのオルタネート・ヴァージョン――大規模修正をかける、いや、プロデューサーに破壊される前の姿を納めたあの音源が、ついに日の目を見ることが出来る。それはリミックスというレベルではもはやなく、セカンドアルバムのオルタネート版、としか言えないものだったが、五年以上たった今、ようやく元の姿――最初にそうありたいと思っていたものをリリースすることができるのだ。
 初期二枚のアルバムをリミックスする作業に、三週間ほど費やした。アーノルド・ローレンスさんがリミックス盤のプロデューサになり、バンド側はインストの四人がトロントのスタジオ──一昨年の秋に僕らが作ったところに再集結して、作業は行われた。先の見通しが立っている今は、純粋に作業を楽しめた。エアリィはリハビリ中なので参加は出来ず、『みんなでやってくれると助かる! 出来上がりはお任せするよ』と言ってきたが、僕らは完成したマスターをコピーしたものを、レーベルに渡す前にニューポートへ送った。彼のOKが出てから、マスターを渡す。それは誰もが当然のことと思っていた。ダメ出しされたらやり直す予定だったが、幸いエアリィのコメントは『なんか今改めてファーストやセカンド聞くと、うわ、すっごい未熟だったんだなぁ、とか思っちゃうけど、音はかなり良くなったと思う。それにセカンド、やっとこっそり録った奴が日の目見て良かった』だった。それで僕らもそれ以上作業する必要はなくなり、初期二作品のリミックス版が二枚組みCDとして、四月に出ることとなった。レーベルにしてみれば、五ヶ月ブランクがあいたせいで、新作のリリースがその分遅れる。その間の場つなぎ的な意味での企画だったのだろうが、僕にしてみれば、やっとセカンドアルバムをも我が子と認知できる機会が与えられた、そんな気分だった。それは、他のみんなもきっと同じだっただろう。リミックスの現場で、彼らもそう言っていたから。
 
 季節はゆっくり春へと向かいつつある。しかし、まだまだ寒さは厳しい。突然出来た長い休暇が最良の結果をもたらしつつあることは、本当に幸いだった。再び妻との愛を取り戻すことが出来、幸福なファミリーになれた。バンドの方も、活動再開のめどが立った。ホッブスとの間にもやっと真の信頼関係が築かれそうだし、キャリアの小さな引っかかりであったセカンドアルバムも、やっと思う形で出すことが出来た。まるで天の配剤のような、と言ってしまったら、僕がエアリィの災難を喜んでいるように聞こえてしまうだろうか。とんでもない。だが大きな事件の波紋が、あるべき所へすべてを落ち着けた、そんな気がどうしてもしてしまうのは、僕だけだろうか。

 ついにアーティストとして、切れた糸を再びつなげる時がやってきた。三月二十日、途中で切れたままになっているワールドツアーの残り半分、再開ツアーのリハーサル初日、全員がスタジオに集まった。バンドの五人、それぞれの専属スタッフ、ロブとレオナ。音響監督のバートランドさん、照明監督のアンダーソンさん、ステージマネージャーのフォーリー女史、ヴィジュアル監督のマーシャルさん、モニターミキサーのエリオットさん、音響設計のエリクソンさんは、全員Swifterからの移行組だ。フォーリー女史はデビュー当時から、あとの人たちはサードアルバムで初めてヘッドラインツアーをやるようになってから、ずっとお世話になっている。会場にはコールマン社長やアーノルドさんも顔を出してくれた。
 エアリィはリハーサルが始まる一週間前に、ニューポートからトロントへ引き上げてきたという。ネイビーブルーのハイネックシャツの上から少し大きめのコーラルピンクのセーターを重ね着し、ブルーのストレッチジーンズという姿でスタジオに現れた彼は、多少まだ肌が青白い以外、事件前とほとんど変わらない印象だ。エアリィがピンクを着るのは珍しくないけれど、似合うだけに本当に女の子のようでもある。そういう格好をするから、よけいに間違えられるんだぞと言いたいところだが、女装しているわけではないから、服装は彼の自由だろう。ただ一つだけ、以前と違うのは、病院で昏睡していた時に出てきた青い髪の束が、そのままずっと残っていることだ。それは緩やかな光の流れの中に走る、青い筋のように見えた。
「元気そうだな、良かったよ!」
 僕らみんなにそう声をかけられると、エアリィはにこっと笑った。
「ああ、ありがと。もう大丈夫。心配かけて、ごめん!」
「リハビリはどんな具合だった?」ロビンがそう聞いている。
「うん、けっこう順調に終わった。幸い五年前の悪夢の再現にはならなかったし。病み上がりだったから、フレイザーさんも遠慮してくれたのかな。まるで別人みたいに優しかったよ。けど、三ヶ月以上も入院してると、ホント体力落ちるんだな、って実感した! 退院したてで一週間、ホテル暮らししてた頃は、普通に生活しようとしただけで疲れるし、すぐ眠くなるし、やばい〜、これじゃやっぱり飛行機乗れないな、って、納得したけど。今はわりと戻ってるよ」
「それはなによりだ」ロブがうれしげに頷き、そして全員に向かって告げた。
「さて、リハーサルといっても、『Vanishing Illusions』のワールドツアーが、思わぬアクシデントで分断された形だから、基本的には去年の全米、ヨーロッパと中味は同じなんだ。A、B、Cと三つのランニングリストがあって、曲目は基本的に変更なし、構成やPA、照明やエフェクト関係も、だいたい前と同じだ。ただ、去年の十一月から四ヶ月以上ブランクがあいている。だからこれは、感覚を取り戻すためのランスルーだと思って欲しい。特にエアリィ、おまえはあれだけの大ケガから回復してきたばかりで、一時は再起も危ぶまれたほどだったのだから、元のペースへ持っていくカンを、このリハーサルの間に取り戻してくれ。ゆっくりでいいから」
「うん。そのためにリハビリもやってきたんだしね。だけど、本当にゆっくりしかやれないかも。最終的には一週間で……フルに挑戦できるかな」
 エアリィはそう答え、その日はAショウの半分だけを流した。翌日は残り半分、そして三日目はBショウを通しでやった。いずれも、軽く流すだけだ。プリプロダクションの大部分でもやっている彼の“流し”は、それだけでも普通の上手なシンガーというレベルは、ゆうに超えている。だが、本気の時に出てくる恐ろしいほどのパワーや衝撃、吸引力、そしてメッセージや情景の完璧なデリバリーは、“流し”の段階では出てこない。だからこの三日だけでは、僕らにはわからなかった。彼のモンスターが完全に復活したのかどうかは。
 翌日から二日は、休みになった。まだ体力的にも、連日のリハーサルは負担だろうという配慮ゆえのスケジュールだ。その中休みの初日に、僕らは遅れていた新年パーティーを開いた。
 中休みが終わった次の日──Cショウの、本気のリハーサル。途中休憩までの前半だけ、いわゆるセット1だけだが、それでも――僕らはみんな悟った。待ち望んだ事実、去年の秋までのアーディス・レインが戻ってきたことを。未踏の領域、モンスター、コミュニケーション・マスター、ありがたくないところでは催眠術者などと、いろいろな言い方がされてきた稀代のスーパーシンガーは、狂信者の弾丸などに決して破壊されたりはしなかった。いや、むしろ、そう、恐ろしい言いかただが、そのことさえも糧にして、よりいっそう彼は大きくなっていくようだった。僕が、そしてたぶん、ほかのみんなも畏怖に震えたほどに。
 だが、今はまだ体力的には不完全なのだろう。だから、半分だけしか出来ない。翌日はCショウの後半を本気でリハーサルした後、次の日にAのフルに挑戦した。終わると立っていられなくなるほどだから、まだ完全回復とはいえないが、日々確実に力は戻ってきているようだ。まだ二十歳、六月で二一という若さは、すぐに以前の体力も取り戻すだろう。
 八日間の短いリハーサルの間に、みなはっきりと実感したと思う。思いもかけないアクシデントで切れかかった糸が、再び完全につながったことを。数ヶ月悩み続けてきた重大な懸念が、ただの杞憂に終わった喜びを。

 リハーサル終了から二日おいて、ついにツアーが再開した。最初の一ヵ月は調整期間ということで、中断前の全米公演ペースである、四連続の後一日休み、そのあと三連続で、また一日休みという、九日間で七回をいきなりやるのではなく、九日を一サイクルとして、最初のサイクルは四回の公演、それから一回ずつ増やしていくという日程が取られていたし、最初の十八日間はランニングリストから一曲落として、インストのみの時間を少し長くとっている。
 復帰ツアーの最初を飾ったのは、地元トロントのスタジアム。ここで二晩、ただ連続ではなく、一日間を置いてある。それからカナダ中心に二週間ほど回った後、アメリカへ南下する。スタジアムは定員五万、二日で十万人入るのだが、今回はそれでもチケット入手が困難で、アリーナ席前方には相当なプレミアがついたという話もきいていた。初日はライヴビューイングで、世界各地に中継される予定でもあった。おかげでバックステージにまでカメラが入りこんではりつかれ、僕も含め、みなは結構緊張した面持ちだった。
 ただいつものごとく、いちばん復帰が注目されているはずのエアリィが、いちばん緊張していないように見える。普段のステージ前とほぼ同じように振舞い、再びステージに立てること、それも以前と変わらぬ、いや、それ以上の期待と熱気を持って迎えられているという事実に、その思いを聞かれた時も、いつものようにちょっと笑って「ありがと。僕もここに戻って来れて、本当によかった」と、それだけ答えた。美辞麗句は必要ない。それが彼の偽らぬ気持ちであろうし、また僕らみんなの思いでもあるのだろうから。
 前作のツアー後半から、僕らはサポートアクトを置いていない。途中休憩を挟んで二部構成でやる、An Evening with――単独形式だ。僕個人の感想を言うなら、その方がずっと気楽だった。サポートバンドのメンバーやスタッフに気を使わなくてすむし、いくら排他的と言われても、やっぱりツアーの同行者は、みな顔見知りという環境の方が快適だ。オープニングにはローレンスさんのバンド、Swifterの曲を使い、CGを使った導入ビデオを流す。それが終わったら、いよいよ僕らの出番だ。
 まだ客席のライトが消えないうちから、BGMを打ち消すように、とどろくような大歓声がバックステージまで聞こえてきていた。やがて激しいバンド名の連呼が始まる。いや、待て。バンド名だけでなく、個人コールも相当入り混じっている。響きが似ているから、何がなんだかわからないくらい渾然一体として聞こえるが。だが、どっちがどっちだってかまいはしない。
 楽屋で待機している僕たちは、すでに全員ステージに上がる準備ができていた。復活コンサート最初の衣装、ステージマネージャーのフォーリー女史とも協議して決めたものは、『Scarlet Mission』の音楽ビデオで着たコスチューム。黒と銀、白と金のあの衣装だ。休憩後の二部では、別の衣装に着替えるが。
 僕の服は黒のベルベットで出来ていて、適度な緩みを持ったシルエットだ。襟ぐりはラウンドネックで、七部袖。襟と袖に銀色のライン飾りがかなり派手に入り、胸にも銀色のスパンコールが飛んでいる。ボトムスも黒のベルベット、ストレートシルエットで、裾にやはり銀のライン飾りが入っている。夏には暑そうなので遠慮したいが、この気温にはちょうどいい。ライトの熱があるから、そのうちに暑くなることは覚悟しないといけないが。ロビンも黒地で銀のふち飾りが入った服だが、素材はウールジャージで、デザインも僕よりさらにストレートのラインを強調した、シンプルなものだ。ジョージは半袖のジャンプスーツ、素材はウールジャガード。襟と袖口、裾に銀のモール飾りが入っている。ミックもふちに銀色が入った、ベロアでできた黒いブラウスに、サージの幅広ズボン姿だ。
 四人が黒一色。銀色のアクセントは入るにせよ、これはステージのヴィジュアルを考えると、ちょっと冒険かもしれない。インパクトは強いだろうが。その中で、白一色のエアリィはやっぱり目立つ。ベロア系の生地でできた純白のオーバーブラウスは、ふわりとしたシルエットで、太ももまでの丈がある。金色のライン飾りがVカットの襟元と、広がった袖口、そして裾についている。ボトムスはストレッチ素材で、サテン系の生地だ。レギンスといっていいほど細く、僕は腕を通してちょうどいいくらい、ジョージやミックはなにをかいわんや、というほどの代物である。ボトムスはライン飾りでなく、裾に金のボタンがついている。
「その衣装に羽根をつけて、本当に天使ルックで現れてもいいかもしれないわね。復活にふさわしく」などと、ステージマネージャーのレイチェル・フォーリー女史が微笑みながら、冗談のような意見も口にした。
「えー、やだ、それ、すごく恥ずかしい、っていうか、狙いすぎ! まるでホントに死んだみたいな感じだし」と、エアリィは笑って首を振っていたが。
 そう、そんな派手なギミックを、僕らは本来歓迎しない。フォーリー女史も軽い冗談だったのだろう。だが、死の淵から奇跡の生還を遂げた彼には、たとえそんな演出をかけなくとも、会場中の人たちが見えざる翼をその背中に見るかもしれない、そんな気もする。

 会場のライトが消えた。歓声がドーム内に反響し、耳を揺るがす轟音となって会場中を包み込んでいく。ステージ上方にある三枚のスクリーンに、一分半のCGを使ったオープニングビデオが流れる。その中、まだ暗いステージ上にインストの四人がスタンバイする。暗い中に黒い衣装で、まるで闇夜のからすだ──そんな思いを感じて苦笑しながら、僕は合図を待った。僕らは今ではすっかり主流になった、インナーイヤー形のモニターは使わない。昔ながらのモニタースピーカーで、お互いの音を聞いている。自分の音も、みなの音も、そして客席の歓声も渾然一体となった、その空間が好きだから。それでも自分の音を見失うことはない。歌詞モニターも使わない。エアリィには歌詞を忘れるなど、ありえないことだから。時々アドリブを入れることがあるが。セットリスト表は一応ジョージのドラムセット脇と、ミックのキーボード上に置いてあるが、ほとんど見ることはない。
 オープニングビデオが終わり、音響、照明、ヴィジュアル、モニター、四部門のエンジニアたちがヘッドフォンマイクを通じて、お互いにスタンバイを確認した後、ステージのそでに待機したフォーリー女史が(彼女の姿は暗くともかすかに見える)、ステージ上の僕らに合図を送る。同時に僕は右腕を振り上げ、ギターをグラインドさせた。頭の上に、ピンスポットが落ちてくる。観客たちは一瞬の沈黙の後、歓声のヴォリュームを上げる。僕はひとしきり激しくギターをかき鳴らし、そしてステージのライトが、ぱっといっせいについた。ますます高まる歓声の中、軽いインストのジャミングをはさんでオープニング曲──『Vanishing Illusions』の一曲目、『Turning the Scale』へと続く。
 この作品はこのままの形、十二曲揃ってのメッセージがあるゆえに、アルバム完全再演という形にならざるをえない。そして本来は、VI完全再演は第二部の頭から始める。前年の北米やヨーロッパはそうだったし、今後もそれは変わらない。ただ、復活第一夜の今夜だけは、あえて第一部、オープニングから持ってくることにしていた。衣装に合わせて、とも言えるが、問題作ゆえの中断だったので、あえてこういう形で復活にした、という意味合いも込めている。本来の第一部頭からの十二曲は、今夜だけは第二部になる。ちょうど一部と二部の頭の十二曲を交換した形だ。
 オープニング曲のイントロが終わりに近付くと同時に、エアリィがステージの左サイドから中央に走り出て、下に置かれたマイクを拾い上げ、同時にイントロが終わる。完璧なタイミングだ。
 やっと戻ってきたんだ、この場所に──彼は戻ってきた。僕らも戻ってこられた。深い感慨が走り抜けた。もうこの時は来ないかもしれないと、この冬いくたび暗い気持ちで思ったことだろう。だがアーディス・レインは帰ってきた。以前と同じ、いや、さらにパワーアップした稀代のスーパーシンガー、完璧なコミュニケーター、導師として。恐ろしいほどの力、しかしそれでも、決して負の方向には持っていかない。まるで竜巻に巻き込まれたように、強烈な陶酔へといざなっていく。
 曲は『Fallin'』『One Night Stand』と、アルバムの順番どおりに続き、最初のMCの前に一瞬できた沈黙、その静寂が数秒続いた後、まるで会場中が爆発したように、我にかえった観客たちが歓声を上げた。ドームの屋根がふっとびそうなほど、すさまじい響き。すべての音をかき消してしまうようなヴォリュームだ。それに続いて、歓声が言葉に変わった。それは最初バンドの名前かと思ったが、違う。エアレースではなく、エアリィだ。男ファンたちが呼んでいる通称『AR』エーアーと聞こえる響きも入り混じって。それがさらに変わっていった。アーディス・レイン――彼の名前が連呼されるのは別に珍しい光景ではないが、これだけの音量の凄まじい個人コールも初めてだ。叫びながら、観客はみな泣いているようだった。復活への歓喜、この冬悩み続けた不安――僕らが感じた思いは、ファンたちの思いでもあったことを、改めて感じた。
 オープニングMCを始めようとしていたエアリィは、この響きと感情の大きな波に、一瞬圧倒されてしまったかのようだった。マイクスタンドに片手をかけたまま、少し驚いたような表情で観客たちを見ている。僕はつかつかとそこまで行って、肩を叩いた。
「エアリィ、早く何か言えよ。みんな、おまえの復帰第一声を待ってるんだからさ」
「あ……ああ、うん……」
 彼は少々躊躇したような顔だったが、すぐ頷き、大きく息を吸い込んでから、片手を上げた。明瞭な声が観客の激しい歓声を突き抜けて、力強く響いていく。
「ありがとう、みんな! 心配かけてごめん! そして、たくさんの祈りをありがとう! 僕はここに、みんなと一緒に戻ってこられて、本当に嬉しい! これからもずっと、みんなと一緒に行けたら良いな!」
 それに対する観客たちの返事は、幾重にもダブり、膨れ上がって、個々の言葉は聞き取れない。歓喜のうねり――津波のような。その歓声が少し落ち着いたころあいを見計らって、エアリィは少しトーンを落として言葉を継いだ。
「みんな気づいてると思うけど、今日だけ『Vanishing Illusions』の再演を、最初に持ってくることにしたんだ。このアルバムゆえの中断だったから。でも僕たちは、この作品に誇りを持ってる。だから、これが僕たちの答えなんだ。次の曲は『Secret Desire』」
 以前にも増して返って来た激しい歓声の中、僕たちは次の曲を弾き出した。アルバム四曲目へ。演奏中は、歓声はかなりヴォリュームダウンする。エアリィが歌い出すと、観客たちはもはや叫ばない。共有し、共感し、巻きこまれる。観客たちは身体を揺らし、リズムを取り、ステップを踏み、腕を振り上げ、その場でジャンプし、時には一緒に歌っている。泣きながら、笑いながら、陶酔した表情で。そう、かつてある雑誌のレビュワーが書いたように、その観客たちの動きは会場中で一致している。それも定番の動作ではなく、練習したわけでもない。同じ曲でも、その時によって変わる部分もあるから。会場中、誰もその場を離れず、みながいっせいに同じ動作をしているようだ。それをそのレビュワーは『巨大な集団マリオネット』と書いたが、それは違う。それはシンクロニシティ――意識スペースの共有なのだろうと、僕は思う。そして曲が終了すると、それは激しい歓声へと変わる。ドームをふっ飛ばしそうなほどに。
 コンサートは進行していった。そのまま『Talk with Nature』まで最新アルバムを完全演奏したあと、五分間のギターソロと、十二分のインストブレイク。激流はいったん穏やかになり、この間に観客たちのテンションもいくぶん落ち着いてくる。シンクロニシティは途切れ、普通の盛り上がったコンサート的なノリになる。スマートフォンを取り出している人も、ちらほら現われる。しかし五人に戻ると、再び別次元に飛んでいく。
 二十分の休憩を挟み、第二部は本来の第一部から、十二曲。前作『Eureka』アルバムの一曲目、『One on the Action』から始まり、九曲終わったところで、また十二分ほどインストブレイク。それから残り三曲、さらに終盤に向けて、熱気は最高潮に達する。そして、アンコール。
「今夜は来てくれて本当にありがとう! 楽しんでくれたら嬉しいな! おやすみ! 気をつけて帰って! いつかまた会おうね!!」と、エアリィが観客たちに告げ──これは終演を宣言するMCだ──その間に、みんな最高!とかホントに素晴らしかったよ! 力をくれてありがとう! などの、観客たちへの言葉が入る。バリエーションはあるが、それはいつも超肯定的な感謝の言葉になる。翌日が平日の場合は、明日に響かないようにね、とも言ったりする。
 僕らがステージから去り、客席に再び照明がついて明るくなっても、観客たちはなお叫び続けていた。激しいコールに送られて楽屋へ引き揚げながら、僕もまた深い陶酔と歓びに浸っていた。この瞬間が再び味わえたこと、そしてこれからも、ずっと繰り返されていくだろうという予感に。それはきっと、全員の思いだっただろう。

 この夜を皮切りに、ツアーは再び進んでいった。調整期間が無事終わると、五月上旬からはフル可動となる。そして同じ月の下旬にシカゴを訪れた時、二日連続公演の初日に、僕は約束通りホッブス兄妹との再会を果たした。ジョン、ローラ、チャーリー、アニー、それに彼らの友人九人がそろってバックステージを訪れ、開演前、僕はプレスの取材用に用意されている小部屋の一つで、彼らに会ったのだった。
 彼らは一月に会った通りの印象だが、服装は精一杯おしゃれをしてきた、ということが一目見ただけでわかる。ローラはそばかすを塗りつぶすくらいの勢いで、ばっちりお化粧をし、髪の毛も美容院でセットしたてという感じで、新調したらしい、クリーム色の地に小花模様を散らしたワンピースを着込んでいる。チャールズもバンドTシャツの上にアクセサリーを一杯つけたジーパンとベスト、髪の毛もきっちり固めた感じだ。ジョンさえもが、チャーリーと同じような服装をしている。アニーもおしろいと口紅をつけ、水玉模様の赤いワンピースを着込み、髪も巻いてセットしてある。友人たちは初対面だが、ジョンの女友達ケリーと親友ピーターは、服装はしっかり決めているが、二人とも落ちついた印象を受けたこと、ローラの三人の友達は彼女と同じくらい、お化粧も服装も気合が入っていて、いかにもティーンエイジャーの女の子らしい活気を発散していたこと、チャーリーのバンドメイトたちはみんな髪を伸ばし、ミュージシャンのたまごという雰囲気を漂わせていたこと。バンドの紅一点フィーナもバンドTシャツの上にレースのジャケット、ペンダントを三つくらいさげ、ジーンズ姿で、頭に大きなリボンをつけ、かなりしっかりとお化粧をしている。そしてチャーリーに「あれー? フィーナ、今日はコスプレしないのか?」と聞かれると、一オクターブくらい跳ね上がった声で、「だって本人に会うのよ?! 無理! あー、でも信じられない!! どうしよう!」と、ぴょんぴょん跳びはねながら、顔を赤くして答えていた。そうか。この子は僕たちのトリビュートバンドでヴォーカルをしているというから、ステージではエアリィに近いスタイルなのかもしれない、だからコスプレ――なりきり仮装か。さすがに本人の前では抵抗があるのだろうな、と納得しつつ、彼らのあまりの気合の入れようと興奮ぶりに、こっちまで面映くなってしまいそうだ。 みな口をそろえて、「今日は朝から興奮して、何も食べられない。でも、ぜんぜんお腹がすかない」と言ってさえいる。コンサートが終わって帰るころに、全員空腹で倒れなければ良いが。
 僕は彼らとひとしきり握手と言葉を交わし、サインを書いた後、彼らの要望にこたえて、エアリィにも部屋に来て会ってもらった。僕ら二人が同時に行くのではなく、時間差になったわけは、彼には大手新聞社からの取材が入っていたからだ。
「へえ、マイクの弟妹? 僕も会いにいくの? うん、いいよ。わかった」と快く承知してくれていたが、実際会った時の相手の反応は見物だった。
「すっげぇ、オーラがやばい! ホントに桁はずれだぁ!!」と、チャールズは素っ頓狂な声で叫び、女の子たちはぽかーんと見つめた後、異常なくらいキャーキャーとはしゃぎ出す。いっせいにしゃべりだすので、何がなんだか、個々の言葉は聞き取れないくらいだ。なんとか僕にもわかったのが、「復活おめでとうございます! ホントに良かった!!」「三月まで本当に、眠れないくらい心配しました!」「本当に、本当に、本当に!!」「触らせてください!!」――あとはもう、本当に言葉になっていない。ローラの友達の一人とフィーナは、実際卒倒しかけたほどだ。マイクの方がたまりかねて、「いいかげんに、そういう恥ずかしい反応はやめてくれ!」と叫んだほどだった。
 エアリィは相手の反応に少しびっくりしている感じではあったが、慣れてもいるのだろう。「ありがとう」と少し肩をすくめて、ちょっと照れたように言った後、ずらっと目の前に並んだ十三人の男女に向かって、右端から一人ずつ話しかけ始めた。名前を聞いて、「初めまして、よろしくね」と言い、一言二言しゃべって握手をし、サインを書く。僕らはやったことはないが、そのさまはMeet&Greetさながらだ。
 相手の方はがちがちに緊張しているのが丸見えで、女性陣など、今にも失神しそうな気配だ。アニーでさえ、本当に嬉しそうににっこりと笑い、手を伸ばして彼の頬に触れ、そして小さな声を上げた。「はい……ありがとう。うれしい」と。彼女の声を聞いたのは初めてだったが、兄弟たちさえそうだったらしい。ジョン、ローラ、チャーリー、そしてマイクまでもが「アニーがしゃべった!」と声を上げていたから。それはほんの少し低いトーンの、柔らかい声だった。後で聞いた話では、彼女が口をきいたのは、この時だけだったらしい。
 エアリィが部屋に入ってくる前の、僕の目の前での、女の子たちの興奮しきったおしゃべり――「ねーねー、あたし、おかしくない? 変じゃない? 髪の毛乱れてない?」「私もお化粧崩れてない? ねえねえ」「あー、もうちょっと決めたかったあ!」――などから察するに、彼女たちが気合を入れておしゃれをしてきたのは、もちろん僕も入っているには違いないが、メインは彼に会う時、恥ずかしくないためになのだと知った。もっともエアリィの方は相手がぼさぼさ頭ですっぴんの普段着だろうが、ばっちり衣装もメイクも決めていようが、たいして気にはしていないだろうが。実際、僕もそうだ。そしてそんな彼ら彼女らの様子に、(僕の時とは、テンションが二段階くらい違うな)とは思ったが、不思議と気分は波立たなかった。以前はかすかに心の奥底で、チクっとしたものだが。ただ、エアリィの取材が終わった時点で一緒に行くという選択肢を僕が選ばなかったのは、僕ら二人が同時に行ったら、自分の影が薄くなりそうだな、と思ったせいもあるだろう。僕もまだ、完全には虚栄心を捨てられないようだ。
 彼ら彼女らの反応を見ているうちに、ふとニコレットが言っていた言葉を思い出した。
『エアリィは偶像なんですよね。アーディス・レインというアイコン。会っても、まともに話せるかどうか、自信ないですし』
 だが当の本人は絶対に、このアイコン扱いは嫌だろうな、とも思えた。膨らみすぎたイメージは、生身の人間としての自然なコンタクトを妨げるかもしれない。僕も多かれ少なかれ、そういう虚像を持たれているとは思うが、ここまで極端ではないだろうことが、かえって少しありがたく感じたりもした。
 彼らは僕ら二人とともに、みなで写真を撮った後ゲストシートへ戻り、僕らは楽屋に帰った。背後で、女の子たち――ローラとその友達にフィーナ、さらにケリーまでが加わった六人の、がやがやしたおしゃべりが聞こえてくる。
「あー、すごく舞い上がって、何も話せなかったぁ! 残念! でも、うれしーい!」「本当、サインももらえたし握手したし、話しかけてくれたし。もうあたし、明日死んでも悔いないわ!」「実物、やっぱりすごく美しかったぁ!」「本当、見とれちゃった〜」「宝物よね。サインと写真」「あたし、もう手は洗わないわ」――それに男の子たちの声が混ざるが、言葉は聞き取れない。ただ、しきりに感嘆しているようなトーンだけはわかる。そしてあとは渾然一体となった音の塊となり、遠ざかって消えていった。
 マイク・ホッブスは後ろを振り返り、「おい、まだ聞こえてる! もうちょっと離れてから話してくれ。お二人に失礼だ」と言った後(彼女たちには、まったく届いていなかったが)、「すみません、お二人とも、本当にお騒がせしました。本当にありがとうございました!」を連発しながら、僕らのあとについてきた。そしてエアリィと一緒に来たセキュリティ仲間のジャクソンに、「大変だな、お兄ちゃん!」などとからかわれていた。それは全米ツアーの、小さな間奏曲だった。




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