Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

七年目(2)




「もう一つ、単刀直入に聞いて良いですか?」
 マイクは目を上げて、まっすぐ僕を見た。
「ああ、何?」僕はちょっと構えながら頷く。
「エアレースは本当に活動再開できるのですか? 以前と同じように。アーディス・レインさんは、命は助かったものの、歌手生命は絶望的だ、もう以前と同じようには歌えないのではないかという噂が、かなり出ているのですよね。そのことを聞いてみたら、ビュフォードさんもカークランドさんも、非常に怖い顔をして、『君が気にすることじゃない』と言うだけですし、ネイトに聞いたら、『そんなことあるもんか! 俺は絶対に信じないぞ』と、まるで噛みつかんばかりに言われてしまったのですが、本当のところは、どうなのでしょうか」
 僕は相手の顔を見たが、動揺を隠せたかどうかは自信がない。エアリィは回復しても復帰できない、エアレースのバンド生命は実質上終わりだ――そんな噂がかなり流れているのは事実だ。胸に銃弾を受けたので肺損傷がある、と病院の医師が去年十一月末の記者会見で、言ってしまったからだろう。損傷の程度は公表しなかったし、予後に対しても言及はしなかったのだが、少し医学知識がある人や、察しの良い人が、その意味を推測してしまったに違いない。
 去年の暮れに会った時の様子が、思い出されてくる。一息に話をすることが出来ず、時々酸素マスクを顔に当てて、肩で息をしていた姿が。まだ回復途上だから、そう思おうとしたが、三分の二以上も失われてしまった肺機能では、完全回復したとしても、医者が言ったように、声量を支える肺活量がなくなるのだから、かつての声は戻らない公算が高いし、以前のようにステージ上で動くことも難しいだろう。そう、常識的に考えれば――。
 僕は思わず首を振った。だが、マイケルに隠し事をしても仕方がない。彼は関係者ゆえ、おそらく公表されている以上に内情を知っているはずだし、仮に医療関係の知識があまりなくとも、ネット情報とつきあわせれば、真相を知る確率は充分にある。ここは正直に言うべきだ。僕は両手をぎゅっと握りしめ、相手の目を見返した。
「医師から、そう宣告されたことは事実なんだ。去年の十二月初めに。僕も一応は医者の息子だから、マッコーリー先生──エアリィの主治医だけれど──の言われることは理解できる。歌手にとっての肺損傷は、致命的だということを。しかも彼の場合、相当広範囲に損傷したからね。僕らも最悪の場合は覚悟している。でも、信じてはいないんだ。あきらめてもいない。わかるかい? 君ならある程度は、わかっているかもしれないけれど、エアリィは常人とは違う。いくらスーパーマンでも限度はあるだろうし、ただひたすらそんなことは信じたくないと、事実に目をつぶっているだけなのかもしれないが、でも彼がこのまま終わるなんて、僕は信じたくない。彼が完全に回復した時点で、以前と同じパフォーマンスはとうてい出来ないと、彼も僕らも納得するしかないのなら、その時にはあきらめるだろう。でもその時まで、僕らは信じていたい。今のところは、それだけしか言えないんだ」
「そうですか……」
「君の懸念はわかるよ。エアレースが活動停止になるなら――エアリィが戻れないなら、そうするしかないからね――君の契約も白紙になる。辞めようとそうでなかろうと、結局は同じことだ。君は弟さんや妹さんにも、そう言っていたというしね。それは否定しない。バンドがなくなれば、全部のスタッフやクルーが契約解除になるだろう。でもマイク、虫の良い話だけれど、それはいったん棚上げして、あくまでその時に考えてくれないか。今は僕たち誰も、本当にそうなってしまうだろうとは信じていない。春から再始動できると考えて、そのつもりで話をしている。君もそのつもりで聞いて欲しい」
「わかりました……」マイクは硬い表情で頷いた。
「もしエアレースが活動再開できるならば、僕にセキュリティとして続けて欲しいと、あなたは言われるのですね」
「ああ」
「僕もあなたがたとの仕事は好きです。待遇もいいし、全体の雰囲気も良い。とても働きやすく気持ちの良い現場だし、セキュリティ仲間たちとは、本当にいい友達になれました。それにフル契約になって、ロード以外はそれほど仕事がなくなっても、収入が保証され、自由時間がつかえる。おかげで僕はパソコンの使い方を学び、高校の通信コースに入ることも出来ました。この家の家賃も払えるし、妹や弟たちを学校にやることも出来る。母の入院費も払えました。僕は自分の仕事にベストを尽くしたつもりでした。もっとも、ネイトのように、銃や爆弾を持っている相手に飛びかかっていけるかと聞かれれば、たぶんそこまではやれないだろうと、答えるしかないのですが。まあ、彼もあんな真似は、あの時だけだ。あの時には、理性も自制も完全に吹っ飛んでいたからと、後で言っていましたがね。でも僕もあなたに危険が迫った時、少なくとも背を向けて逃げ出すようなまねはしないと思います。僕もプロですから」
「それで充分じゃないか。じゃあ、大丈夫だね」
「でも、あなたは僕がお嫌いじゃないですか?」
 再びそう問いかけられ、僕は少しはっとした。
「どうして? そんなことはないよ」
「そうだったらいいのですけれど、僕はどうも、あなたに気に入られることが出来ないようで。もっと如才のない……たとえばファーギーのような奴の方が、あなたのお気に召すだろうか、などと思ってしまうのです」
「パターソンも良い奴だけれど、それほど僕と気が合うとは思えないな。それにパターソンは……ああ、彼には絶対言わないでくれよ、少々調子の良い奴だと思えてしまうんだよ」
「ああ、それは当たっていると思いますよ」
 マイクはちょっと口の端をゆがめて笑った。
「でも、あなたが僕に続けて欲しいと言われるわけは、それでもまだ、わからないです。それほど僕に好意を持っておられたとも、思えなかったのですが」
 あくまでそう追及されて、僕は危うくお茶にむせそうになった。
「じゃあ、この際正直に言ってしまおう」
 僕はカップをテーブルに置き、相手の顔を見た。
「僕はたしかに、君を歓迎していたとは言えなかった。申し訳ないことをしたと思う。でもそれは君でなくとも、たとえばジャクソンやパターソンが僕の専属についたとしても、同じだったと思うんだ。僕はボディガードという存在自体が、うっとおしかった。僕は、まあ、言ってみれば、一種の人間嫌いなんだと思う。困ったことだと、自分でも思うけれどね。一人ぼっちはいやだけれど、本当にわかりあえる友人が数人いればいいし、新しい人にはなじみにくい。僕はそういう人間なんだ。バンドの仲間とは楽しい友人たちだし、わかりあえる親友だ。本当は僕ら五人だけで、閉じられた緊密な円を作りたい。でも、セキュリティがつくことによって、メンバー同士の距離が少し遠くなってしまう。おまけに人見知りする僕としては、君にもジミーにも、心からなじむことは出来なかった。僕はそういう不幸な奴なんだと思ってくれ」
「はい……なんとなくわかります」マイクは相変わらず硬い表情で頷く。
「でも、三年半一緒にツアーするうちに、僕は君に慣れてきた。なのに、また知らない人が来て、その人に一からなじまなければならないのは、いやなんだ。勝手な言い分なのは、自分でもわかっている。君が気分を害したとしても無理はないし、その点は申しわけないと思うよ。でもここにこうして来て、君とゆっくり話す機会に恵まれて、僕は君のことをもっと知りたいと思うようになってきたし、君は思っていた以上に良い人間だということも、わかってきた。いや、そんな言い方は、また君に失礼だね。でも僕はボディガードとして誰かがずっとそばにいなければならないのなら、君にいて欲しいと思っている。ここで君に会えて、よけいにそう思ったよ。これから先もずっとそうしてもらえたら、僕らは友達になれるかもしれない。そんな気さえしてきているんだ」
「ジャスティンさん……」
 マイクは僕を見、それからふっと視線を下に落とした。奇妙な熱情のようなものが一瞬頬を震わせ、高い頬骨に少し赤みがさした。彼は両手を膝の上にぎゅっと握り、しばらく黙り込んだあと、うつむいたまま声を落として、こう続けた。
「僕が裏切り者だったと知っても……それでもあなたは、そう言ってくださいますか?」
「えっ?」僕は一瞬、言われた言葉の意味が飲み込めなかった。
「どういうことだい、マイク?」
「三年前の全米ツアー第二レッグを覚えていますか? あなたがたが世界的に大ブレイクした年、僕があなたの専属セキュリティとなって二度目のツアーを」
「ああ『Children〜』のワールドツアー、最終シリーズだね」
「ええ、ニューヨークの最終公演で、あなたにも脅しがかけられた、あのツアーです」
「ああ……」
 思い出した。三作目『Children for the Light』の大ブレイクに伴って行われたワールドツアー。その最終日、ニューヨーク公演の前夜、ホテルの部屋にかかってきた電話。妻と子の安全を保障してほしくば、友の歌手生命を絶ち、バンド活動を終わりにさせろ、そう脅されたあの夜。翌日のミーティングの席で、実際にエアリィのカップに劇薬が混入され、だが幸いにも未遂に終わってひと騒ぎあったあの時、帰りの飛行機の中で、ロブとレオナが示唆していた。この一連の事件には、内部からの情報提供者がいたはずだと。
「まさか……」僕は固唾を飲んで目の前の男を見つめた。
「まさか君が……?」
「ええ」ホッブスは目を伏せたまま頷く。
 僕はしばらく言葉を失い、ただ彼を見つめていた。マイクは大きな身体を縮めるようにして、うなだれている。その姿を見て責めようとは思えなくなったが、しかし驚きだった。
「なぜだい……?」少し声がかすれているのを意識しながら、僕は問いかけた。
「なぜ君が、そんなことを……?」
「いろいろと理由はありましたが、第一にはやはり……嫉妬でしょうね」
 マイクは目を伏せたまま、そう答えた。
「あなたがたが強烈にうらやましかった。妬ましかったんです。家族にも愛情にも経済的にも、すべてに恵まれて、苦労もせずに、一気に成功への階段を駆け上がっていく、あなたがたが」
「…………」
「僕の半生は、そんなものとはまったく無縁でしたから」
 彼は相変わらず膝に置かれた両手を見つめたまま、話し続けた。
「僕の父は、腕の良い大工でした。子沢山だったので、生活は楽とは言えなかったのですが、それほど貧しくもなく、笑いの絶えない家族だったのです。父はよく、僕らと遊んでくれました。家族が多いので、旅行などにはとても行けませんでしたが、休みの日にはランチを持って公園に行き、キャッチボールをしたり、フットボールをしたりして、みなで遊んでいたのです。母はいつも家事に追われていましたが、子供たちはお互いに面倒を見て遊び、父もよく世話をしてくれました。食べ物も、空腹を感じない程度にはありました。でも、僕が十歳になった頃、まるで呪われたように、次々と悪いことが起きてきたんです。当時六歳だったエドワードが事故で死に──この弟は兄弟の中で一番器量よしで賢く、しかも愛嬌ものだったので、家族中に愛されていたんですが、通りをすっ飛ばして来た大きな車にはねられて、あっけなく死んでしまったのです。しかも相手の車は逃げ去って、犯人はとうとう捕まらなかったんです。一番可愛がっていた息子に死なれた打撃に追い討ちをかけるように、当時二才だったアニーの障害が発見され、父はすっかり心を乱されてしまったようです。それで、判断が狂ったのでしょうか、仕事中に高い足場から落ちて、もう二度と歩けない身体になってしまいました。それで、僕らは貧乏のどん底に落ちたのです。ケガをしてからの父は酒浸りで、いつも不機嫌でした。母は小さい弟妹たちを抱え、末っ子はまだ赤ん坊でしたが、ともかく自分が働くしかないと、昼間は工場で働き、夜は食堂で皿洗いをしたのです。でもそれだけでは、とてもやっていけないので、ジェームズと僕も近所の店の手伝いをしたり、草むしりや雑用をして、できる限りお金を稼ぎました。それで、まだ九才のキャサリンが小さい連中の面倒を見て、家を切り回していたんです。それでも父がかなりの稼ぎを飲んでしまうので、家族は食べるものにも事欠くありさまでした。一日に一、二回、薄いお粥やスープをすするのがせいぜいで。学校へ行ってもランチはなく、給湯室で水を飲んで我慢していました。家にいる小さい連中はなおさらで、僕らはいつも空腹を抱えていたんです。一番下のティモシーは、一才になるかならずで、肺炎になって死んでしまいました。たぶんかわいそうに栄養失調だったのと、キャサリンだけでは世話の手がまわらなかったせいもあるのでしょう。ローラもチャールズもアニーも栄養が足らず、がりがりにやせこけたせいで今も太れず、丈夫な体質にもなれません。あのままだったら、三人ともティモシーの二の舞だったかもしれませんが、幸い、と言っていいのでしょうか、父にもまだ良心が残っていたんですね。自分が働けず、アルコールに逃げているせいで、家族が悲惨な状態になっている。でも自分から酒は止められない。それで父にできるただひとつのことを、僕らのためにしてくれたのです」
「お父さんは……」
「自殺したんですよ。小さなティモシーが死んで、二週間後のことでした。父はロープの端をドアノブに引っ掛け、開く方ではない側のぎりぎりまで車椅子で進んで自分の首に輪を通し、車椅子から前に飛び降りたんです。変則的な首吊りですよ。ジョンとキャサリンが学校から帰って来た時には、父はもう死んでいて、ローラとチャールズは床に座り込んで泣き、アニーはにこにこしながら、父の身体をなでまわしていたそうです」
「…………!」
「それからは、いくぶんましになったのですが、今度は母が働き過ぎと心労から身体を壊し、夜の皿洗いくらいの仕事しか出来なくなってしまったのです。それでジェームズと僕は仕事を続けました。朝は新聞配達を、放課後は工場の雑用係として働いたものです」
「たった十歳でかい?」
「ええ、そうしなければ生きていけなかったのです。幸い兄も僕も昔から身体が大きかったので、いくぶん年も誤魔化せましたし。でも、学校はやめたくなかったんです。勉強することは好きでしたし、事情が許せば大学へ行きたいなんて、考えたこともありました。家がそんな状態になってからは、あきらめてしまいましたが。でもやっぱり働かなければならない分、学校はおろそかになって、小学校を出るまで二年も余分にかかってしまいましたし、やっと義務教育を終えた時には、僕はもう十八でした。そのころには、ようやく一家の生活も貧しいながらも安定してたんですが、僕はそれ以上の教育は望みませんでした。それよりも、僕より頭が良くて向学心に燃えていたジョンを大学へあげてやりたかったから、僕は近くに住んでいる日系人のおじいさんから柔術を教えてもらい、十九才で警備会社へ勤めたんです。しばらくはビルの警備をやり、一年たってイベント警備を、それから一年後には、給料が二倍以上になるという条件に引かれて、あなたのマネージメント会社のセキュリティ求人に申し込んだのです。アメリカの東部や北東部にも、求人が来ていたので。それで幸運にも採用されて、あなたの警護を担当することになったのですが……」
 彼はそこで顔を上げ、僕をじっと見つめた。
「その時の僕の気持ちを、わかってもらえるでしょうか? 不公平だ。あなたに会って、あなたを知って、僕は強烈にそう思わないではいられなかったんです。あなたのように何不自由ない、恵まれた家庭で育ったお坊っちゃんが、才能にも容姿にも恵まれ、運にも恵まれて、何の苦労もなく成功しているのが、強烈に妬ましかったんです。なぜ神さまは、こんな不公平なことをなさるのかって」
 何も言えなかった。たしかに僕は人から見れば、幸運に恵まれすぎていると思われても仕方がないのは事実だ。僕は逆境の苦しみや痛みを、ただ想像してみるしかないのだから。
 マイケルはしばらく黙り、それから話を続けている。
「二度目の全米ツアーが始まる頃、僕は電話を受けたんです。『協力する気はないか?』って。それに僕はのってしまったんです。嫉妬心もありましたし、それからあなたがなかなか打ち解けてくれないのにも、多少いらだっていて。ネイトやファーギーが自分の担当と雑談していたり、打ち解けてもらったりしているのを見ると、よけいに気になって。仲がいいですからね、あっちは。特にネイトとアーディス・レインさんとは、見ていて羨ましくなりました。だから彼の担当への忠誠は、ものすごいですよ。彼にとっては、恋人のような感じですから。ああ、妙な誤解はしないで欲しいんですが、彼もストレートだから、文字通りの意味じゃないですけどね。あの人が本当に女の人だったら、道ならぬ恋に悩んだことと思いますが。まあ、だから去年ロンドンでも、あんな状況で飛び出したわけですし。でも僕は、なんとなくあなたが僕を敬遠しているような気がして。もっとも、その次の年に他のアーティストの全米ツアーに付き合って、エアレースでの仕事がどのくらい恵まれていたのか、痛感させられましたが。それで相手に何をするのかと聞いたら、まずあなたと奥様との、結婚にいたるまでの細かい経過が知りたい、というのです。家庭環境とか大雑把な生い立ちとか、アウトライン的なことは調査できたが、それだけでは弱いと。僕はそれほど詳しくない、あまり話もしたことがないし、いきなりそんな話はとてもできないとと言うと、それならセキュリティ仲間から聞けないか、と。僕はそれで、ジャスティンさんだけピンポイントで聞くと疑われるかもしれないので、既婚メンバーは今の奥さんと、どういう風にして結婚したのだろうな、と、ファーギーに話を振ってみたのです。そうしたら、彼は話してくれました。ジョージさんから聞いた話だが、と。それで、あなたのケースに興味を持ったフリをして、彼から詳しい話を聞きだしたのです」
「ああ、そうだったのか。パターソンから……」
 とは言っても、ファーギー・パターソンを責める気はないが。彼はただ、話好きなのだろう。ジョージといろいろ話している間に出てきた話題の一つ、それだけに過ぎない。そして、ほかのことはすべて、相手が調査していたというわけか。実家の病院のこと、兄弟たちの職業、エアリィの就学状況なども。ただ彼の私小説作家と違って、それ以上突っ込んだ詳しい調査はしなかったのだろう。
 マイクは硬い表情のまま、硬い口調で話を続けている。
「それと前後して、ステージの見取り図を教えて欲しいと言ってきました。見取り図といっても、会場によって違うと答えたら、シンシナティだけで良いと。会場入りは当日だし、見取り図は組み立て段階で広げるものだから、その頃には僕はまだ会場入りしていない、と言ったら、使えない奴だと。それなら、パイロスポットはどこにあるか、と聞いてきたんです。それで、パイロスポットはドラムライザーの後ろだと教えたら、それでは誘爆は無理だな、と」
「誘爆?」
「ええ。何か発火物を投げ込もうとか、そういうことだったかもしれませんが。それで、相手は言ったのです。シンシナティに着いたら、僕のホテルの部屋番号を教えろと。教えたら、しばらく後に物音がして、見たら、小さな包みがドアのところにかかっていました。そのあと電話がかかり、その包みの中を開けてはいけない。そのまま会場である男に渡してくれと。その男の目印も書いてありました。それで、そのとおりしただけなんです。でも結局、何も起こりませんでした」
「そうなんだ。それで、それだけなのかい、君がやったことは?」
「まだあります……」マイクはうつむき、少し小刻みに震えながら首を振った。
「あのニューヨークのホテルで、最初の晩に、あなたの部屋番号を教えてくれという電話がかかってきました。そしてその日はショウの前に何をしたのか、これからミーティングはあるのか。もしあるなら、席は決まっているのか、決まっているとしたら、どういう順番か、と。それから、当日朝の九時ごろでしたが、ミーティングが延期になって、あなたも部屋で休んでいるのというので僕も部屋にいたら、再び電話がかかってきたんです。今から僕の部屋のドアノブに、薬の袋を引っ掛けておく。今日のコンサートは理由があってどうしても流したいから、その薬をミーティングの時、アーディス・レインさんのコーヒーカップに落としてくれと。いや、僕には機会はないだろうと、その時は断りました。僕は伏せてあるカップをひっくりかえすだけですから。ああ、あの人の場合はカップとソーサーを左側に移動させもするから、もし注ぎ手がファーギーなら、なんとかごまかせるかもしれないけれど、それでも見つかるかもしれない。もし注ぎ手がレオナさんだったら、薬なんか落としたら確実に気づかれる、どっちに当たるかはその時次第だから、わからない。アーディスさん側のコーヒーを用意することになるかどうかも、わからない、と。『そうか、それでは不確実すぎるな。向こうも用心しているだろうしな』相手はしばらく黙り、『わかった。また後で連絡する』と、その電話は切れました。それから一時間ほどして、また電話が来たのです。ミーティングの時の全体の席配置の確認と、どういう風にコーヒーを注いで行くのか、砂糖とミルクの有無などを。そして、もう一つ聞かれました。『一応確認のために聞いておく。アーディス・レインは、左利きだったりしないだろうな』と。『ええ、あの人はそうですよ』と僕が答えると、『なぜ、そんな重要な情報を話さない!!』と怒られました。利き手がそんなに重要なことなのだろうか、と僕は思ったのですが」
「ああ……」
 僕はぼんやりと頷いた。だが、相手には重要だったのだろう。妨害者たちはエアリィが左利きであることを知らなかったので(ギターやベース奏者なら一目瞭然だが、マイクをよく左手で持つくらいは右利きの人でもやることがあるから、わかりづらいのだろう)、彼のカップに薬を落とすのは簡単だと、僕に言ったのだろう。ミーティングの席順からして、右利きならカップは普通右側におくので、僕が左手をちょっと伸ばせば届く、と。
「それで、結局薬はどこに入っていたんだい?」僕は聞いた。
「砂糖だと思います。レオナさんが推理していた通り……」
「あの話を、君も聞いていたのか。寝ていると思っていたよ」
「目を閉じてはいましたが、あの時には起きていました。あなたが起きていて、話を聞いているのも知っていました」
「そうか……」
「十二時半を過ぎた頃に、また電話がかかってきたのです。ミーティングでは、何もしなくていい。ただ一つだけ、砂糖ポットに手を触れるな。特に奥側には、と。そして万が一ミーティングが何事もなく終わったら、気づかれないように奥の砂糖ポットをポケットにでも入れて回収し、スミスという従業員に渡してくれ。ミーティングのあと、その部屋に行っているはずだから、と。ポケットに入るような砂糖ポットなのかと僕は聞いたら、大丈夫だ、小さいからと。それで僕は承知する前に一応、念を押したんですよ。それは本当に一時的なものなのか、その晩だけはお流れになっても、明日になればちゃんと治るたぐいのものか、と。相手は大丈夫だと保証したんです」
「そうだったのか……」
「結局、騒動は起きたので、僕もそのままにして、部屋に帰ったのです。たしかに小さな金属製の平たい砂糖ポットでしたから、ポケットには入りそうでした」
「そうか。ああ、でも、レオナが砂糖ポットの中には二つしか砂糖がなかったと言っていたけれど、そうなると、どっちかが当たりを引くことになるから、何事もなくは考えにくいんじゃないかな。どういう意味だったんだろう」
「そうですね。はっきりとはわかりませんが……連中は万が一、と言っていたので、その時には砂糖を使わなかったとか、別のポットから取ったとか、そういうイレギュラーを考えていたのだと思います」
「ああ、そうか。それならわかるな」
 僕は頷き、考えた。エアリィがたまたま二つのうち、当たりを引いてしまった。レオナが飛行機の中で言っていたように、トングの向きと砂糖の位置を考慮して、心理的に取りやすい位置にあったのだろうが、彼が当たりを引かなかったら、その次に取ったレオナに当たるだろう。そう――本当にそれは、とんでもないロシアンルーレットだ。
「なんて危ない橋を渡ったんだ」思わず、そう声が出た。
「あいつらは、他人を巻き込むことなんて、なんとも思わないんだな。本当に、大変なことにならなくて良かった」
「そうですね。運悪く、アーディスさんは薬入りをとってしまいましたが、結果的には飲まなかった。それで本当に良かったと思いました。薬品で、火傷はさせてしまいましたが」
「ああ、エアリィがカップを落としたからね。夢の中で出てきた魔女がまた浮かんだ、と言って。あいつの土壇場でのカンは本当に鋭いなと、時々思うよ」
「そうですね。あの人のことはネイトやマネージメントの人や、大勢の人が守っていますが、それ以上に、何か目に見えない大きな力で守られているような、そんな感じがします」
「僕もそう思えるよ。今度のことにしても……」
 僕は頷きながら、ふと思った。もしかしたらエアリィは無意識に、あえて当たりを取ったのだろうか、と。彼は普段、非常に勘が鋭い。いくら心理的に取りやすい位置に毒入りがあったとしても、無造作に取るということは、なんとなくありそうもないような気がする。それに、彼はミルクと砂糖を入れて、かなり時間がたってからコーヒーを飲もうとした。飲む直前に入れると少し冷めるから、砂糖が溶けにくいというのもあっただろうが、でもわりと直前に入れていることの多いエアリィが、あの時はかなり前に取った。レオナは彼が入れるのを待って取った、と言っていたが、いつまでもは待っていないだろう。ランチを食べ始めた時点で、先にとって入れる。これまでのミーティングでも、そういうケースは多かった。だからあの時は、レオナに当たるのを防ぐために、あえて先に取ったのだろうか。自分が取らなかったら確実に彼女が取って、何も疑わずに飲んでしまうだろうから――いや、もちろん単なる偶然なのかもしれないが。
 僕はため息をつき、首を振った。
「あの事件の真相は、そういうことだったのか。最初にレオナが、砂糖が怪しいと言うのを聞いた時には、またそんな推理小説みたいなことを、と、僕も思ったんだけれど、まさか、それが本当に正しかったとは……」
「レオナさんは鋭い人ですよ。あの時飛行機の中でこっそり話を聞いていて、僕は冷や汗が出ました。彼女の目を盗んで薬を落とすのは無理だと、最初に断って良かったと、ほっとしたくらいですから」マイクも頷いていた。
「ああ……」僕も頷き、さらに問いかけた。
「それで、君がやったのは、それだけかい?」
「いえ、次のツアーで連中に言われて、ロサンゼルス公演初日後の深夜、僕は会場まで戻り、アリーナにいた夜間警備員の交代を待って、男を三人中に入れました」
 ホッブスはうなるように続けた。
「たぶん、みんなグルなんですよ、その警備員も。全員じゃないでしょうが、裏口のドアを、一人が勝手に開錠していましたから。僕はそいつらを無人のステージに案内し、すぐに帰りました。三日連続公演でしたから、セットは組んだままでした。その夜にたぶん、そいつらが照明装置のボルトを緩ませたんでしょう。次の日の午後に来た時には、そいつらは当然もういませんでした。その日の公演は何もなく終わったので安心していたのですが、その次で照明が落ちて……」
「ああ……そうだった」
「夕食のコーヒーの中に、アスピリンを入れたのも僕です。連中に言われて。今度は危険な薬品でないよう念押しし、では自分で持っているアスピリンを使えばいいと言われて。メーカーからポットに移す時に、錠剤を三つ落としました。アスピリンだから、別に他の人が飲んでも害はないし、いいだろうと。アーディスさんが薬品アレルギーだということは知っていましたが……カークランドさんやネイトがそのことで、いつもぴりぴりしていましたから。でも、蕁麻疹が出るくらいかな、いや、あの最初のコーヒー騒動の時にも、熱が出て点滴を打っていましたね。だから熱も多少は出るのかもしれないけれど、と。でもまさか、あそこまでひどい状態になるとは思いませんでした。あの人はみなさんにコーヒーを注いで渡して、最後に自分のものをついでいましたから、薬が濃かったのかもしれません。アナフィキラシー・ショックについては全然知らなかったわけではなかったですが、実際に見て、思わず震えました。とんでもないことをしてしまった、と」
「ああ……」前作のツアー、最初の全米の終盤に起きた一連の事件を思い出し、僕はぼんやりと頷くしかなかった。
「あの時、連中は僕に薬を落とすだけでなく、カークランドさんがいつも持っているアドレナリン注射の中身を抜き取れ、とも命じたんです。アンプルを捨てろと。それは無理だと僕は答えました。ネイトなら可能かもしれないけれど、僕はチームAではなくJだから、そんな機会はないし、普段あの人がどこにそれをしまっているのかも知らない。バッグに触れる機会もない、と。そうしたら、そうだな、それはたしかにそうだ、それはこっちで何とかする、と言っていたのですが。でもカークランドさんはいつも、あのバッグを持ち歩いていますから、連中も機会がなかったようで。それで、本当に良かったと思いました」
「そうか……連中は、そこまでやろうとしていたのか」
 僕は再び軽い戦慄を感じ、頷いた。アナフィキラシー・ショックに対して、アドレナリン注射が迅速に行われなければ、ダメージはどんどん進行する。救急車が来て、病院に運んでからだと――アスピリンに対するアレルギーは、エアリィは幼少期に一度、起こしているらしい。あの小説に書いてあった。彼の母親アグレイアさんが、レーサーのカーディナル・リードさんと暮らしていたころ、二人の留守中、発熱した彼にシッターさんがアスピリンを飲ませ、救急車で搬送される騒ぎになったという。アスピリン混入は小説が出る数か月前なので、その事実を妨害者たちが知っていたかどうかはわからないが、二度目のアレルギーだと、症状は重篤化しがちになる。万が一進行が早くて、注射が間に合わなかったら――妨害者を寄せ付ける隙を作らなかったカークランドさんの職業意識に、感謝するしかない。
「本当は、いやだったんです。最初のコーヒー事件の時のあの薬品の強さを見て、連中は危険で信用ならないと思いました。僕は決してアーディスさん個人に対して、否定的な感情なんて持っていませんから。あの人はあのステータスにもかかわらず、僕にさえにこっと笑って挨拶してくださるし、本当に良い人で、それにこんなことを言っては怒られそうですが、可愛い人だなと思っているので。それなのに、火傷をさせたり、ライトを落としたり、アナフィキラシーまで起こさせてしまって、本当に後悔しか残りません。ネイトにこんなことを知られたら、殺されますよ。彼とは本当に良い友達なので、隠れて裏切りをするのは、ひどく辛いのです。それで最初のコーヒー事件の後、次に電話がかかってきた時に、もう手を引くと言ったのです。でも相手はマネージメント会社に、妨害工作に僕が関わったことをばらすと脅してきて。母の病気のこともあり、今の職を失いたくはなかったのです。でも、その『Eureka』ツアー最初の全米が終わった時、さすがにもう限界だと思いました。もうどうあっても続けることは出来ないと、次に連中が連絡してきた時、僕はきっぱり断りました。幸いそれ以降、相手もずっと沈黙していたので、僕は内心びくびくしながらも、ほっとしていたんです。僕も今の仕事をやめたくはありませんでしたから」
「そう……」
「でも、去年あなたが黙っていなくなってしまった時、僕は自分の行為の報いを受けたような気がしました。自分にやましい行為があったから、あなたに心から信頼してはもらえなかったんだと、そんな気もしたので、あなたのセキュリティをやめることになっても、仕方がないという気になったのです」
 聞き終わってしばらく、僕は言葉を失った。
「君が協力していた妨害者たちって、誰?」やっと、それだけ聞いた。
「わかりません。ある業界の大物ということだけしか。名前も知らないんです。僕は、直接話をしたこともないし。電話ではいつも、その人の秘書とかいう中年の男でしたから」
「その男には、会ったことはあるのかい? 指示はいつも電話だけ? 謝礼の受け渡しなんかは、どうなっていたんだい? もしそれがあるならだけれど」
「ええ。指示はいつも電話を通してです。謝礼は、一応ありました。一件につき、数百ドル程度ですが。いつもホテルの部屋のドアノブにかかった袋に、入っていました。封筒の中に。それも事前に電話があり、すぐに回収するよう言われました」
「相手は君の携帯電話にかけていたのかい? そうしたら、相手の番号が残っていたりはしないかい?」
「いえ、いつも非通知でしたから、番号はわからないのです」
「本当に? いや、疑うわけじゃないけれど……」
「ええ、本当です。信じてください」
「わかった。信じるよ。でも、それ以外に、何か知っていることはないかい。どんな細かいことでもいいから、教えて欲しいんだ」
「本当にお役に立ちそうなことは、何もないんです。すみません。いつも電話だけの指示でしたから。そう言えば、一度あなたたちに何か恨みでもあるのかって、聞いたことはあります。そうしたら相手が言うには、予定を狂わせたって。あなたたちの大ブレイクは全く予想外で、彼らにはコントロールできなかった。おかげで彼らの稼ぎ手であった人たちが、軒並みセールスが落ちてしまって、すっかり損害を被ったからって。『あんな常識を越えた、とんでもないモンスターの存在を許したら、音楽シーンはめちゃめちゃになる』と、言っていました。お役に立てるかどうかわかりませんが、僕の知っていることはそれだけなんです。本当に申しわけありませんでした」
「そう……」僕の胸に一つだけ針が引っ掛かっていた。それを確かめたい。
「一昨年の秋、ディーン・セント・プレストンさんのセッションで僕が陥れられた時、君はかかわっていたの?」
「いいえ」彼は真剣な顔で、首を振った。
「そんなことをしたのがあの連中だとしても驚きはしませんが、僕は全然かかわっていません。神に誓って本当です」
「そうだよね。君は『Eureka』ツアー最初の全米から先は妨害から手を引いたって、さっき言っていたね。それに君は、あの時一緒じゃなかったし……」
 そういえば、連中も言っていた。セキュリティが来なかったのは、幸いだったと。それは、もう彼が連中のコントロール外であったことを、はっきり示している。
「ええ。それにアーディスさんの部屋に発煙筒を投げ込んだのも、金属バット男を手引きしたのも、楽屋に変なプレゼントを持って行ったのも、僕ではないです。たぶんホテルの従業員とか、会場のスタッフとか、そういう中にもぐりこませているんだと。あの時のホテルのように」
「ああ。僕は君を信じるよ」僕は頷き、相手をじっと見ながら、ゆっくりと尋ねた。
「君は、最初は僕らが憎らしかったと言っていたね。今でもそうかい? 君は、僕が君を嫌いなようだと気にしていたけれど、君自身は僕が嫌いなのかい?」
「いいえ、とんでもない! それに最初から憎んでるなんて、そんな強い悪感情ではなかったんです。ちょっと憎たらしいというか、単なる嫉妬なんですよ」
「だったら、僕は前言を撤回するつもりはないよ」
 僕は立ち上がり、マイケルのそばまで行って、軽くその手に触れた。
「それに、今だったら、連中がまた何か言ってきても、きっぱり断れるだろう。だって、僕はもう知ってしまったんだから。君は仕事をするなら僕らと一緒が良いと、最初に言ってくれたじゃないか。それならば今でも、そしてこれからも、僕の専属セキュリティでいて欲しいと思っているよ」
「ジャスティンさん……」マイクは声を詰まらせ、僕を見た。
「いいんですか。僕なんかで。僕はあなたがたに、ずいぶんひどいことをしたんですよ。それでも、許してくれるって言うんですか?」
「ああ。僕は君に恨みなんて持っちゃいない。少しはショックだったけれど、詳しい事情がわかったから、君を責めようとは思わない。エアリィだって、たぶんそうだよ。あいつは人に恨みを持つ奴じゃないしね。ミックもロビンも、それにジョージだって、わかってくれると思う。ああ、でも僕からみんなには言わないよ。その判断は、ロブに任せる。ロブには、話しておかないといけないと思うから。連中が万が一君をまた脅迫しようとしても、大丈夫なようにね。ロブもきっとわかってくれるよ。それに万が一マネージメントが渋ったとしても、僕が絶対君をやめさせないよ。危ない仕事には違いないから、絶対辞めないでくれなんて強制はできないけれど、もし君がこれまで通り続けてくれたら、僕もとてもうれしいんだ」
 彼はしばらく無言で、じっと僕の顔を見つめていたが、やがて痛いくらいにぎゅっと手を握って、頷いた。驚いたことに、ぼろぼろと涙を流している。
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
 まさかこの大男が泣くとは思わなかったので、僕はいささか面食らい、何と言葉をかけていいかわからなかった。それで返事のかわりに、相手の背中を軽く叩いた。そしてこの時、仕事中ではもっとも身近にいる彼に、僕は真の好感を抱くことができたのだった。




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