Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

七年目(1)




 親子三人のクリスマスは、新婚の時以来だ。家政婦のトレリック夫人は準備だけして一週間のお休みを取り、姉の一家に呼ばれて出かけていった。ゲストのいない、三人だけのクリスマス。ほろ苦かった一年の埋め合わせをするように、幸福で暖かい聖夜だった。晩餐に、ステラはサラダだけでなく、詰め物をしたローストチキンとミンスパイを自分で作った。トレリック夫人の指導を受けながらではあるが、自らの手で料理を作り上げる喜びに目覚めたようで、クリスマス以後もいろいろと料理をこしらえては、テーブルに並べる。出来はといえば、その熱意に充分比例したとは言い難く、トレリック夫人の作品に比べればやはり未熟だが、そこに込められた愛情が、なにより最高の調味料だ。

 新年が明けた。いつも行く年を見送る時、胸によぎる思いがある。これで七回目。もうあと四回を残して、世界は終わりに向かって突進していく。だが、慌ただしく流れていく時間の中で、記憶も少しずつ風化していく。あれは夢、ただの幻想? それとも事実? もう確かめたくはない。
 僕はカーテンを開けて昇りゆく朝日を見、窓を開いて、冷たい空気を深く吸い込んだ。残された時は限られているのかもしれないのならば、その毎日を大事に生きなければ。カウントダウンはゆっくりとではあるが確実に、進んでいるのだから。

 年が明けてまもなく、僕は一人でシカゴまで出かけた。予告なしの単独行動や市外に出ることは禁止なので、マネージメントにその旨を告げ、チケットの手配をしてもらったので、空港まではロブに送ってもらい、シカゴの空港ではホッブスが待っている。プライベートな用事なので、自分の分のチケット代は僕の負担になるが、それはツアーのギャラや音楽媒体の収入から清算される。そして帰りは、ホッブスにトロントまで送ってもらうことになっているが、彼の飛行機代やホテル代は、マネージメント会社もちだ。社長のコールマン氏は「君たちのおかげで我が社は記録的な黒字だから、気にしなくていいよ。むしろ税金対策だ」と笑っているが。
 セキュリティは基本的にロード中の身辺警護が仕事なのだけれど、一昨年秋、前作『Eureka』ツアーが終わった後のオフから、ロード中以外の時でも“オンコール”体制、プライベートでも仕事的なものでも、警護の必要が生じた時には、駆けつけられるようなシステムがとられている。年間ずっと収入を保証するかわりに、必要な時にはいつでも身体をあけていられるように、という契約だ。もっとも、八人いるセキュリティのうち、年間フル契約になっているのは最初の三人、エアリィ専属のネイザン・ジャクソン、僕の専属であるマイケル・ホッブス、それからロードではジョージの専属になっている、ファーギー・パターソンだけだ。パターソンはレコーディング中やオフの時期はミックやロビンの警護も担当し、残りの五人は従来通り、ロード中だけの拘束となっている。
 ホッブスはフル体制の一人だし、辞意をほのめかしてはいるが、まだ正式に辞めたわけではないので、立場上はまだ僕のセキュリティだ。彼はシカゴ在住なので、今度の仕事は近くて助かったと思っているかもしれない。僕がここに来た目的がホッブスに会うためだということは伏せてくれるよう、マネージメントには頼んでおいてあった。

 空港に着いて諸手続きを済ませ(最初の方に降ろしてもらえたので、あまり他のお客と遭遇せずにすんだ)、到着ゲートを抜けたすぐ前に、ホッブスは立っていた。グレーのニット帽をかぶり、いつも着ている、ちょっとくたびれたような感じの黒いコートに身を包んで、ポケットに手を入れている。その大きな体格で、ゲートを抜ける前から、すぐに見分けられた。
 ホッブスも僕がロビーに出てくると同時に、近寄って来た。彼は警護すべき相手に会う時、他のセキュリティたちのように愛想良く微笑むことは、めったにない。この時も無表情に近い顔で、軽く僕に目礼をしただけだった。
「お疲れさまです、ジャスティンさん」
 ホッブスはほとんど表情を変えずに、手を差し出した。
「タクシーを待たせてあるので、こちらへどうぞ。お荷物はありますか?」
「ああ、荷物はほとんどないよ。これだけだ。自分で持つからいいよ」
 僕は肩にかけたバッグを指さした。
「ああ、そうですね。日帰りの予定だと聞きましたので。お帰りの便は、夜の八時二十分ですね」
「そうだね」
「手続きもありますから、遅くとも七時には、ここに戻らないといけませんね。お昼はどうされました?」
「ああ、ちょっと早いけど、空港でロブと済ませたよ。特別ラウンジを使わせてもらえたから、そこで。晩はどうしようかな……」
「夕食はビュフォードさんから、ここのラウンジの一つを借りたので、そこで食べるようにと言われています。六時四十分から八時十分まで、スカイラウンジの個室が使えますから、そこに空港内のレストランから料理を持ってきてもらえば、大丈夫です」
「ああ、そう。わかった」
「お帰りの際にはトロントまでお送りするよう言われましたので、僕もご一緒します。あなたの家まで送り届けて、明日マネージメントに顔を出して報告するようにと、ビュフォードさんから言われましたので。それで、あなたから帰りの航空券をお預かりしておくようにとのことなので、お渡し願いませんか?」
「そう。わかった」
 僕はバッグの中から帰りの航空券を取り出し、渡した。マイクはそれを確認した後、普段使っているボディバッグの中にしまいながら、問いかけてくる。
「こちらへ来る時には、何も変わったことはありませんでしたか?」
「ああ。ここまでは近いからね。短いフライトだったよ。離陸して、お茶を飲んで、景色を見てたら、もう着いたって感じだな。僕の隣は空席だったし」
「それは、マネージメント側で二席押さえておいたせいです。あなたのお隣に万が一変な人が座ったりしないように、わざと空席にしてもらうよう、航空会社に頼んでおいたらしいです。そして降りる時には、優先的に降ろしてくれと。もともとプレミアシートですから早いのですが、その中でも出口に一番近い席に配置してもらったのです」
「そう。そこまでしていたのか……」
「本来なら、僕がトロントまで迎えに行くべき所なのです。でも、あなたがお一人でいらっしゃりたいというご希望だったので、そういう手配をしたらしいですね」
 マイクは送迎のタクシーに僕を乗せ、自分も乗り込みながら聞いてきた。
「それで、どちらへ行かれるのですか?」
 僕はちょっと肩をすくめ、答えた。「君の家」と。
「えっ?」ホッブスは驚いたように、ぽかんと口を開けた。
「なんと言われました?」
「だから、君の家だよ。僕は君に会いに、ここへ来たんだ」
「なんですって?!」ホッブスは完全に仰天したらしい。
「僕にですって? いったい、何のために」
「君に会って、話したいことがあったんだ。迷惑だったかい?」
「いいえ、そんなことはないです。しかし僕の家は、とてもあなたをお連れできるような所じゃありません。うるさい妹や弟がいるし、狭くて汚いところですし……」
「それなら、どこか他の場所でもいいけれど、でも僕は、君の家を見てみたいな。君の家族も。もちろん、君がかまわなければだけれど」
「そう……ですか」
 ホッブスは当惑したような表情で、しばらく黙ったあと、運転手に「パインストリートの三番地二八」と告げた。マネージメントから教えてもらった彼の住所がそのあたりだったから、どうやら自宅に連れて行ってくれるらしい。

 車の中で、ホッブスは終始無言だった。僕も相手が友人や家族でない限り、自分からあまり話しかける方ではない。それゆえロード中などは、この沈黙を重苦しく感じ、相手の身体の大きさにも威圧感を感じて、あまり好感情を持ってこなかった。でもホッブスとは、もう三年半のつきあいになる。ロード中は、ほとんどいつもそばにいた。ファンから邪魔にされながらも、僕をかばって移動させてくれたり、グルーピーや取材陣を追い払ってくれたり。それが仕事だとはいえ、彼はずっと僕に奉仕してきてくれたのに、僕が彼にしたことは、だまして逃げてしまった、それだけだ。
 大地は白く、空は灰色だったが、雪は降っていない。僕はちらっとマイクの横顔を眺め、密かにため息をついた。ホッブスは本当に、僕のセキュリティを辞める気なのだろうか。エアリィの復帰見通しが立っていない今、バンドが存続するかどうかもわからない。でも、もし幸運にも活動を続けていけるなら、ホッブスには辞めてもらいたくない。僕のやったこと――彼の信頼を踏みつけたことを謝り、辞めたいという彼の意志を思いとどまらせなくてはならない。やっとホッブスに慣れたところなのだ。今さら知らない人に、べったり傍にくっつかれていたくはない――。
 そう思ったとたん、少しはっとした。そんな考え方は相手に失礼じゃないか。セキュリティやスタッフとは、バンド仲間ほど対等な友達というわけにはいかないが、僕らを支えてくれる貴重な音楽ファミリーだ。でも、どうして対等な友達になれないのだろうか。僕の専属スタッフであるチームJの二人、マイク・ホッブスは僕より一才上なだけだし、ジミー・ウェルトフォードは、ほとんど同い年だ。立場を越えてつきあうことが出来たら、親友になり得たかも知れない。彼らとは実際、仲は悪くない。でも、友達とは言えないだろう。打ち解けて長く話したこともなければ、彼らのプライベートも、ほとんど知らないのだから。ホッブスもジミーも、僕に敬語で話す。丁寧なのはけっこうだが、その分心理的な距離があるのだろう。彼らにとって僕は友人と言うより、仕事の上司に近いのかもしれない。おそらく僕が彼らをオープンに信頼せず、友人として心を開いていないせいで――それだからホッブスもジミーも職業的丁寧さから抜けられないのだし、友達にもなれなかったのだろうか。でも、彼らはいつも忠実だった。常に礼儀正しく接し、精一杯彼らの仕事をこなしてくれた。その誠意に答えられないほど、人でなしにはなりたくない。

 ホッブスの自宅は、空港から車で一時間ほどの場所にあるダウンタウンのはずれ、五階建てのアパートだった。くすんだグレーの外観は多少古びてはいたが、外壁にひびは入っておらず、作りは頑丈そうだ。彼の家は四階にあった。エレベーターはなく、内階段すらない。彼の後に続いて上がった外階段は狭く、段を上るたびに、かんかんと足音が響く。各階には三件ずつ入っていた。ホッブスの家は西側の角部屋で、階段から一番遠い。
「寒くて申し訳ないのですが、すみません。少しここでお待ち願えませんか」
 ホッブスがドアのところで僕を振りかえり、恐縮したような口調で言った。
「まさかあなたがいらっしゃるなどとは思いも寄らなかったので、中は散らかっているのです。とてもそのままお見せできるようなものじゃありません。おまけに間の悪いことに今はまだ学校が休みで、しかも全員今日は用事がないらしく、兄弟たちがみな家にいるのです。あなたがいらっしゃったなんて言ったら、どんなに騒ぐか知れやしません。僕は先に中に入り、ちょっと片付けと、それと兄弟たちに注意しなければなりませんので、本当に申し訳ないのですが、しばらく待っていただけませんか」
「ああ、いいよ」
 吹きさらしの廊下は、たしかに寒かった。シカゴもトロントと同じような立地だから、気温が下がるとなると半端ではないのだろう。ホッブスが中に消えると、僕はコートの前をしっかりとかき合わせ、帽子を深くかぶった。うう、それでも寒い。部屋が散らかっていようが、兄弟がいようが、僕はかまわないのだが、彼は気にするのだろう。急に来た僕も悪いのだし、しかたがない。
 相当長く待たされたら風邪をひきかねなかったが、幸い十分もたたないうちに、再びドアが開いた。中から出てきたのはホッブスではなく、十七、八才くらいの女の子だ。背は高いがやせていて、毛玉がちらほらある赤いカーディガンをはおり、濃いグレーのロングスカート、薄いベージュのタートルネックセーターといういでたちだ。茶色の長い髪をお下げに編み、そばかすだらけの顔に丸い眼鏡をかけている。
「あの……ジャスティン・ローリングスさん……ですよね。わあ、本物!?」
 彼女は最初おずおずとした様子で口を開いたが、最後には叫ぶような口調になっていた。
「あの……あたし、ローラといいます。マイク兄さんの妹なんです」
「ああ、こんにちは、ローラ。はじめまして」
 僕はサングラスをはずし、思わずファンにするように微笑んだ。
「きゃあ、やっぱりかっこいい! すてき!」
 そんな面映い言葉を叫んだ後、彼女は気をとりなおしたように頭を振った。
「あの……ジャスティンさん。お外じゃお寒いですわ。兄は今、一生懸命部屋を片付けていますけれど、まだちょっとかかりますから、どうか中へ入ってお待ちくださいな」
「ああ……いいかな?」
「ええ、もちろん」
 僕は玄関の中に入り、ローラが後ろからドアを閉めた。
「後でサインをくださいね」彼女は無邪気な口調でそんなことを言い、
「ああ、いいよ。お安いご用さ」僕はつい儀礼的に微笑んでしまう。
「こら、ローラ! 抜け駆けはずるいぞ!」
 誰かがそう叫んだと思うと、玄関にさっきの少女とほとんど同じ年頃と思われる少年が出てきた。マイクの弟だろうか。ほとんど似ていないが。この少年はずいぶん背は高いがやせ型で、ひょろひょろとした印象だ。少し色のさめた赤と黒のボーダー模様のセーターを着ていたが、袖は明らかに短い。ジーンズの膝は抜けていたが、ダメージ加工ではなさそうだ。黒っぽい髪の毛を肩まで伸ばし、濃い茶色の丸い目に、鼻も多少丸い。頬には、にきびができていた。
「ああ、はじめまして。俺……いや、僕はチャールズ・ホッブスといいます。マイク兄の弟で、十七歳です。今学校でバンドを組んでて、ギターをやってるんです。目標はエアレース、というのは絶対無理だとは思うんですが、僕の目標はあなたです。今、『Morning After Dark』をコピーしようと必死なんです」
「ああ、『Vanishing〜』の?」
「ええ。あの……僕のギターで、もしよろしければ……あの、本物を弾いてみてくださいませんか」少年は頬を深紅に染めながら僕を見、先のローラが、「こら、チャーリー。あんただって、しっかり抜け駆けしてるじゃない!」と、叫んでいる。
「ギターが違うと感触も変わるから、いつも通りに弾けるかどうかわからないけれど、弾いてみるのはかまわないよ。でも、ここだと音が外に漏れたりして、迷惑にならないかい?」
「いえ、別に平気です。隣は昼間ほとんど家に誰もいないし、上はちょうど空き家だし、下のじいさんばあさんは耳が遠いから。僕は普段ヘッドフォンをしているんですけれど、これは音を出さなきゃ、話にならないじゃないですか。それにあなたのギターをうるさいなんて言う奴はいませんよ」チャールズは平気な顔をしている。
 玄関にまた一人、誰か出てきた。黒っぽい髪をお下げにした、十五、六歳くらいの少女だ。平板な目鼻立ちやそばかすの多さは、先のローラに良く似ている。黒味がかった茶色の目に、眼鏡はかけていないが。はにかんだ笑みを浮かべてこっちを見ているが、何も言わない。かわりにローラが紹介してくれた。
「ああ、この子は妹のアンです。でも、あたしたちはみんな、アニーって呼んでいるの。あたしは十八で、チャーリーが十七、アニーが十六なんです」
「へえ、ずいぶん続いているんだね」
「ええ。ただ、アニーはちょっとおつむが弱いの。それに話せないし。でもあなたのことは知っているし、エアレースは大好きだから、ここへ出てきたんじゃないかと思うんです」
「そう」僕は少し同情を感じながら頷き、彼女にも笑いかけた。
「こんにちは、アニー」
 少女はうれしそうにぱっと目を輝かせたが、何も言葉を発しはしなかった。
「こら、おまえたち! ローリングスさんのお邪魔をするなって、マイク兄さんに言われたんじゃなかったのか」
 そんな声がして、また玄関に誰かが出てきた。二十歳を少し出たくらいの青年で、マイクに良く似てがっしりした体つきに黒い縮れ毛、黒っぽい目の、彼の兄弟の中ではおそらく一番好男子だろう。青年は丁寧に頭を下げた。
「本当に弟や妹たちが煩わせてしまって、申し訳ありません。はじめまして。僕はジョンといいます。マイケルの弟です。僕はもうすぐ二二歳で、イリノイ州立大学の学生です」
「はじめまして、ジョン」僕は頷き、握手を交わした。
「こんなところまでわざわざおいでくださったのに、こんな狭苦しい玄関でお待たせして申し訳ありません。おまけにローラやチャーリーが騒がせてしまって。彼らもいささか興奮しているようです。マイク兄の仕事は理解していて、いつもそのことを友達に自慢してもいるんですが、まさかあなたご本人にお会いできるとは、思っていませんでしたので。僕もお会いできて、本当に光栄です。僕もあなたがたの音楽は愛聴していますので。それにしても、バンドのほうは大変な時期ですよね、今」
「ああ、今、活動中断中だからね」
「いつごろアーディス・レインさんは、カムバックできるんですか?」
 チャーリーが声を上げて、そう聞いてきた。
「ああ……それはまあ、今の時点ではノーコメントだね。実は僕も、はっきりとはわからないんだ」僕はあいまいに笑った。
「難しいんですか、やはり再起は? あの……差し出たことを聞いて、大変恐縮なんですが……いろいろな噂を聞きますから」
「ジョン兄さん、縁起でもないことを言わないでよ!」
 ローラが叫ぶように、そう遮った。
「いやだ、あたし、それでなくともハラハラしているんだから。マイク兄さんは変なことを言うし……もしエアレースが活動ストップになったら、自分の契約も白紙になるだろうし、そうなったら同じことだ、なんて」
 僕は何も言えなかった。しかも思わず動揺が顔に出てしまったらしい。
「おまえのほうが無遠慮だぞ、ローラ。いや、僕も僕だが。本当にすみませんでした。変なことを聞いてしまって」ジョンが丁寧にわびている。
「いや、いいんだ。ただ、僕らとしては、活動停止には絶対にしたくないんだよね、何としても。それで、マイクとも話したいと思って、ここに来たんだ」
「みんな……どこにいるんだ?」
 ホッブスがやっと玄関に出てきた。そこに並んでいる弟妹たちを見ると、驚き、困惑したような顔になっている。
「こら、みんな! ジャスティンさんのお邪魔をするなって言っただろう。なぜここに、みんながずらっといるんだ。ジョン、おまえまで。ローラやチャーリーを押さえてくれって、頼んだじゃないか」
「すまない、兄さん」ジョンは素直にわびていた。
「ただ、ローリングスさんがこの寒い中、ずっと外で待っていたら風邪をひいてしまうから、玄関で待ってもらうようにするだけだと、ローラが言ったんで、僕も、それはそうだと思ってしまって。本当に煩わせてしまいましたね、ローリングスさん。申し訳ありませんでした」
「いいよ、本当に気にしていないから」僕は軽く微笑してみせた。
「すみません、本当にお待たせして。外にいてもらおうなんて考えたのは、たしかに僕の落ち度です。寒くて大変ですよね。でも家に入れば入ったで、きっとローラやチャーリーがうるさいと思ったので」
 マイクは申し訳なさそうな様子を見せながら、僕を中に案内した。
 玄関から廊下を挟んだ右側が広めの食堂と居間になっていて、古びた木製の大きなテーブルに、椅子が六客並んでいるのが見える。その向こうに緑色のカバーをかけたソファと小さい丸テーブル、テレビ台に小さなステレオ、隅にはパソコンが乗ったデスクがある。食堂の奥が台所のようで、そのさらに奥は浴室らしい。廊下の左側には、個室のドアが三つあった。そのうちの一つに僕を招き入れると、マイクはドアを閉めながら弟妹たちに呼びかけている。
「おい。誰も入って来るんじゃないぞ。ドアの所で立ち聞きなんかも、絶対にするなよ! ジョン、今度こそ、ローラとチャーリーをちゃんと押さえていてくれ。おまえの責任においてな。僕らが話している間は、二人をリビングから一歩も出すんじゃないぞ。それからアニー、お茶とお菓子を僕の部屋に持ってきてくれ。お茶とカップは、一番上等なやつだ」
「いいよ。気を使わなくて」僕は苦笑した。

 案内された部屋は、どうやらジョンとマイケルの個室らしい。わりと広く、幅広の二段ベッドと机が二つ、窓のところに大きなソファ、そして古びたたんすと本棚が置いてあり、難しそうなのから、くだけたものまで、ぎっしり本が詰まっていた。本棚の横にガスストーブが据え付けられていて、部屋はほんのりと暖かかった。
「こんなところで申し訳ありません。でも、リビングでは兄弟たちがうるさいと思いますので……どうぞ、そちらの椅子におかけください」
 マイクは右側のデスクの椅子を指し示し、自分は左側のにこしかけた。僕は言われたとおり、椅子に座った。たぶんこっちはジョンの椅子なのだろう。座り心地は決して悪くないが、スプリングがちょっと怪しい。ブラウンのチェック地で出来たカーテンはそろそろ買い換えた方がいいような感じだし、ベッドにカバーはかかっていず、ふとんが剥き出しのままだ。ベージュの絨毯の毛足も、かなり擦り切れていた。
 軽くノックの音がして、アニーがトレーの上にお茶とお菓子を乗せて入ってきた。僕に向かってにこっと笑いながら、お茶のカップとお菓子を机の上に置き、「ありがとう」と僕が言葉をかけると、さらにうれしそうな笑顔になった。「お茶を置いたら、早く戻れ」とマイクに命じられて、本当に渋々という感じで、また出ていく。
「申し訳ありません。アニーは口がきけないんです。知的障害があって。バカな奴なんですが、料理や家政は、わりと上手なんです」
「そう。じゃあ立派だよ」
 僕はカップを取り上げた。ターコイズブルーに金のふちがついたカップは、たぶん客用の取っておきだろう。マイクの分は茶色のマグカップに入っている。中味を一口すすると、ぷんと良い香りがした。いれ方も温度も適切なようで、少なくとも僕より、はるかに上手だ。ステラも最近お茶のいれ方がうまくなってきたが、やっぱりまだこの少女の方が上手かもしれない。冷え切った身体に、暖かい紅茶が染みとおるようだった。僕はしばらく黙って紅茶を飲み、出されたビスケットをひとつつまんだ。そのビスケットは偶然にも、昔マインズデール教会を訪ねた時に、シスターのところで出されたものと同じだった。
「かなり兄弟が多いんだね。全部で五人かい?」
「いえ、九人兄弟なんです」ホッブスは首を振った。
「僕は上から二番目で、ジェームズという、僕より二歳年上の兄がいます。兄は建設現場で働いていて、この冬に結婚したばかりなんです。それから僕とジョンの間に、キャサリンという妹がいます。彼女は近所の雑貨屋で働いているんですが、去年の秋に結婚しました。ですから二人とも、今は家を出ています。ジョンとローラの間にもエドワードという弟がいたんですが、子供の頃に死にました。あと、アニーの下にティモシーという弟がいましたが、これもごく赤ん坊の頃に死んでしまって、今家にいるのは五人だけなんです」
「そうなんだ。ご両親は?」
「二人とも、もういません」
「そう……」
 僕はどう相槌をうっていいかわからず、紅茶をもう一口飲んだ。マイケル・ホッブスの家庭のことなど、それまで興味をもったこともなかったが、話を聞くと大変そうだということだけは感じられる。両親は死に、兄弟の二人も幼い時に死に、残った七人の兄弟がお互いを支えあって暮らしていたが、そのうち二人は最近相次いで結婚し、今は五人と言うわけか。そして末の妹は、程度は軽そうだが知的障害があるという。
「じゃあ、君が僕らのロードに同行している間は、四人で暮らしているのかい?」
「そうですね。ジョンは大学の寮費がもったいないと、ここから自転車で往復三時間かけて通っていますし。彼は奨学生で、休み中は設計事務所でアルバイトをしているんですが、今日は休みなんですよ。日曜日ですから。アニーは学校へは行けないので、家でもっぱら家事をしていて、ローラとチャールズは地元のハイスクールへ行っています。ローラは六月に卒業するので、その後どこかへ勤めるんでしょうね。ただ去年の夏までは、母が生きていました」
「ええ? じゃあ、君のお母さんは去年の夏になくなったのかい? いつ?」
「去年の七月です。七月二十日」
「じゃあ、ロード中じゃないか。君はお母さんの死に目に会えなかったんだね」
「はい」
「どうして言ってくれなかったんだい? 言ってくれたら、帰ってもらえたのに」
「去年のロードは本当に大変でしたし、みんな臨戦態勢でピリピリしていたのに、そんなことはとても言えません」マイクは顔を曇らせて首を振った。
「それに母が長くないのは、わかっていましたから。一昨年の冬に入院した時、もうすでに余命半年と言われていたのです。僕は春の全米ロードに出る前、いったん仕事についたら八月下旬まで帰れないから、待っていてくれるように言ったのです。待てない場合は来ることができないから、僕を恨まないでくれと。母はわかっていました。自分が病気で倒れても、こうしてちゃんと病院で治療をしてもらえる。それも僕が今の仕事についているおかげなのだから、まずそちらを優先するようにと、母自身が言ったのです」
「そう。だけど、言ってくれたら一日二日くらい、帰してあげられたよ。七月にはセキュリティも三人増えたんだし、数日くらいなら君が抜けても、大丈夫だったと思うんだ。たとえ臨終に間に合わなくとも、お葬式ぐらいは出られただろうに。最後に親不孝をさせてしまったようで、ほんとうにすまないね」
「気にしないでください。あの時は忙しかったですし、新しい連中にも気を配る必要が、あったものですから。僕は自分の仕事を全うしたかったんです。どうか、あなたがお気に病むのはやめてください」
 マイクは首を振った。きっぱりとした口調だった。
「ああ……わかった……ありがとう」僕は頷き、ついで聞いた。
「でも、そうしたら、多い時で八人いたんだね、この家に。少し狭くないかい?」
「そうですね。この部屋は、今でこそ僕が仕事の時には、ジョンが一人で使っていますが、昔は一番多い時で、四人が使っていたんです。ジェームズとジョン、チャーリーと僕で。僕が仕事で出ている間は、三人で使えるんですが。あのソファは、その時の名残ですよ。ジョンとチャーリーが下のベッドで、ジェームズが上で寝ているので、僕は帰ってくると、あのソファで寝ていたのです。ジェームズも僕も体が大きいので、狭くて誰かと一緒に寝る事は出来ませんから」
「そうなんだ。あとの部屋は?」
「真ん中の部屋は、母の部屋でした。母は入退院を繰り返していたので、病院にいる時には、僕ら男兄弟の誰かがベッドを使うこともありましたが。今はチャーリーの部屋です。奥は妹たちの部屋です。キャサリンが結婚したので、今はローラとアニーだけです」
「そう……」
「以前は、もう少しお金が溜まったら大きいところへ引っ越そうと思っていたんですが、今は人数も減ったので、このままいることにしました。今までは母の治療費にお金がかかったので、家の修繕や調度まで手が回らなかったのですが、これから少しずつ手を入れていきたいと思っています」
 マイクはマグカップの紅茶を飲み干すと、僕を見た。
「それで単刀直入に聞かせてもらいたいのですが、ジャスティンさん。あなたがわざわざこんなところまで僕に会いにいらしたのは、どういうご用件でですか?」
「ああ。そうだね」
 僕もカップを取り上げて中身を半分ほど飲んでから、テーブルに戻した。
「一つには、ロンドンで君をだまして逃げてしまったことを、謝りたかったんだ」
「そんなことを、気になさっていたんですか?」
 マイクは少々驚いたような顔をした。
「僕もたしかに、あの時は驚きましたし、ショックでもありました。でも、あとで冷静に考えてみたら、もし僕があなたの立場だったら、やっぱり待ってなんかいないでしょうし、ああいう明かな“追っ払い”に気がつかなかった、僕の配慮が足りなかったんです。それだけのことです」
「本当にそうかい? ならば、どうしてやめるなんて言い出したのかい? ロブがそう言っていたんだ。君がショックを受けて、辞めると言っていると」
「ビュフォードさんには、たしかにそう言ったかもしれません。アーディス・レインさんのことで相当動揺しているところに、あなたに逃げられて所在がわからなくなったということで、ビュフォードさんは、もう本当にカッカしていましたから。もしあなたに何かあったら責任をとって自分は辞めると、僕は言ったんです。あなたのプライバシーに踏み込みたくなかったとはいえ、あなた方の会話をちゃんと聞いていなくて、お相手の子の情報をほとんど覚えていなかったことも、かなり叱られましたし、僕自身も甘かったと反省しました。だからそう言った時には、本当にそのつもりだったのです」
「僕に何かあったら? じゃあ、問題はないんだ。僕はこうしてぴんぴんしているんだから、君が辞める道理はないんだね」僕は思わず身を乗り出した。
「良かった。君が辞めると聞いたから、どう説得しようかと、考えていたんだ。僕がシカゴに来たもう一つの用件は、それだったんだよ。これまで通り続けて欲しいと思って」
「そうなんですか」マイクはちょっと意外そうな顔をした。
「僕はきっと、あなたは僕が辞めた方が、ほっとするのではないかと思っていました」
「どうしてだい?」
「あなたは、あまり僕を歓迎しているようには思えなかったからです」
 僕は思わずぎくりとし、相手の顔を見返した。
「でも、あなたを非難しているわけじゃないんです」
 マイケルは膝に視線を落としながら言葉を継いだ。
「あなたは本当に良い人だと思っています。大スターなのに、偉ぶったりしない。いつも人当たりが良くて、気持ち良く仕事をさせてくれる。僕はフル契約になる前、ロード中だけの警護だった頃、あなたがたのヨーロッパ・オセアニアツアーから参加して、次の全米第二レッグが終わった翌年、あなたがたとの仕事が再開するのは九月だというので、その間僕は、単発のイベント警備のほかに、他のアーティストのセキュリティとして仕事をしたんです。その頃は母も病気でしたし、遊んでいる暇はありませんでしたから。一月から三月までと、四月から七月まで、二つのバンドというか、後者はソロですが、のセキュリティを勤めたんです。しかし、僕はミュージシャンのセキュリティはあなたがたが最初だったので、そういうものだと思っていたんですが、思いきりカルチャーショックを受けました。ネイトやファーギーに『甘いぞ。こんな好待遇でやってくれて、配慮してくれる人たちは、まずいないぞ』と言われたわけがわかりました。彼らはある意味、ベテランですからね。ネイトは二十歳前からやっていて、最初の仕事があの○×のツアーで、他にも五、六組の有名アーティストと仕事経験があると言っていましたし、ファーギーも当時でキャリアは四年あって、同行したアーティストのツアーも、これで七本目だと言っていましたから。僕も外へ出てみて、あなたたちとの仕事が本当に恵まれていたのだと痛感しました。だから、あなたたちとの仕事は失いたくはないんです」
「そう……」
 僕はいくらか落ち着きを取り戻し、紅茶をもう一口飲んだ。自分の部屋、自分のフィールドにいるためか、半ば辞めるつもりになったことで開き直ったのか、マイケルはいつになく落ち着いているように見え、そして雄弁だった。僕は彼がこれほど一息にいろいろなことを話すのを、初めて聞いた。そういえば、他のセキュリティ仲間たちと楽しそうに話していることも、多々あった。マイケル・ホッブスは陰気で無口なのではなく、本来は話し好きなのだが、僕があまりしゃべらないので遠慮をしていたのかもしれない。




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