Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(19)




「それでね、わたし、誰かに相談してみたいと思ったの。自分では、とうてい決断できそうになかったから。でもパパやママでは、だめなことはわかっていたし、モリーも春に結婚して、旦那様と一緒にデトロイトに引っ越して行ってしまったから。他のお友達とは、普通のお話ならいいけれど、そこまで真剣な相談はしていないし、したい感じでもなかったの。それでわたし考えて、いろいろ迷って、テレビを見て四日たってから、思いきってアデレードに電話してみたのよ。彼女の携帯電話の番号を以前に教えてもらっていたから。彼女ならしっかりしているし、バンドの奥さんやガールフレンドさんたちの中では一番年も近いし、親しいからと思って。あなたとの間がうまく行かなくなってからは、ずっと疎遠になっていたけれど……だって、バンド関係の人というのは、あなたに属するものでしょう? だから、あえて遠ざかりたかったの。それにずっと実家にいて、携帯電話も切っていたから。バンド関係の人に相談すると、帰ってくる日を教えてもらえるけれど、あなた寄りの答えが出る可能性が高い。でも、それだからこそ、わたしは後押しをしてもらう必要があったのだと思うわ。彼女もここのところずっと付き合っていなかったから、怒っているかもしれない。そう思って、連絡するのに少し勇気がいったけれど、彼女はとてもいい人なのね。『あら、ステラ! 久しぶりね。元気になった? あなたから連絡してくれるなんて、とてもうれしいわ!』と、本当にうれしそうに言ってくれたの。それで、わたし心からほっとして、いろいろ電話で話してしまったわ。『ごめんなさい。ずっと疎遠になってしまっていて』と謝ったら、『いいのよ。だって女としては一番悲しいことを経験してしまったんですもの。時間が必要だと思っていたわ。今あなたとお話ができて、本当にうれしいわ』と、本当に優しく言ってくれたの。わたし、ああ、この人とは本当にお友達でいたいって、思ったわ。もとマダム・クロフォードのモデルさんだと言う以前に」
「そう……それはよかったよ」
「それで彼女に、あなたたちが帰る日を教えてもらって――あなたたちが帰る正確な日を忘れてしまった。いまは実家にいて、スケジュールの紙は家に置いてきたからと、そう言ったのよ――それで、ああ、一週間ほど先なのね、と少しほっとしたわ。それで『よかったら、こっちに遊びに来ない?』とアデレードが言ってくれたから、行くことにしたの。実際に行ったのは、それから四日後だったけれど。ちょうど次の日から、パパとママが一泊の小旅行にわたしとクリスを連れていく予定だったから、それが終わって、一日お休みして、それから、と思って。まだあなたが帰るまでに、少しだけだけれど余裕があるから。それでクリスを連れて、リッチモンドヒルの彼女の家まで、家の車で送ってもらったのよ。クリスも外出できて大喜びだったし、それにロザモンドちゃんに会えて、もっと大喜びしていたわ。ああ、クリスにはお友達が必要だったのだわって、胸が熱くなってしまったほどに。去年の九月に行った時も驚いたのだけれど、アーディスさんのおうちは、本当にお庭が広いのね。ちょっとした小公園くらいあるわ。アデレードが言っていたけれど、最初は敷地が広すぎると思ったらしいの。まるで森の中の一軒家のような感じがするって。でも、そのお庭が目隠しになってくれて、外から家の様子が見られないのは、とても助かったって言っていたわ。家の前で写真を撮ったりする人が、かなりいるらしくて」
「それは大変だ。どうしてわかったんだろうな。うちはそうでなくて、良かったな」
 僕は肩をすくめた。それもまたニコレットが言っていた、名所マップとやらなのだろうか。自宅は除外していると、彼女は言っていたが。
「ええ、本当に。それに門や庭や玄関に何箇所か二四時間監視カメラがあって、塀には赤外線センサーがずっと張ってあって、何かあったら警備センターに直結するらしいの。うちにも警備システムはあるけれど、あれだけ広いと、そこまで必要なんでしょうね。実際に人が入ろうとした騒ぎも、二回くらいあったらしいわ。すぐに警備の人が駆けつけて、連れていってくれたらしいけれど。でもお庭が広いのは、子供たちにも本当に良かったみたい。すごく良い遊び場なのね。芝生は広くて、ボール遊びも出来るし、木の多いエリアは小さな林みたいで、花壇も広くて。この季節だから、花はないけれど。芝生エリアの真ん中に大きな樅の木があって、クリスマスにはその木に飾り付けをするんですって。本物のクリスマスツリーって、すごいと思ったわ。うちも芝生に植えようかしら。それに、りんごの木も何本か植わっていて、ブルーベリーの茂みもあって、お庭で取れたりんごのパイやブルーベリーのジャムもご馳走になったわ。彼女はお料理もお裁縫もできて、編み物ももちろんできるし、本もたくさん読んでいて、あんなにきれいでスタイルも良くて、本当に羨ましいわ。わたしも、いつか自家製のパイが焼けたら良いと思ったの。トレリック夫人に頼らないで」
「ああ……期待してるよ」
 僕は肩をすくめ、笑った。そういえば、ツリーの話もアップルパイの話も、アデレードがしていたな、エアリィの昏睡中に。彼に我が家の暖かいイメージを語って、いつかそこに戻ってきて欲しいという強い願いを、彼女はその中に込めていたのだろう。今年は無理そうだが、来年はきっと天然のツリーを飾れるだろう。そして、このアイデアは悪くない。我が家にも、一本植えようか。
「もう。わたしにはできないって思っているでしょう」
 ステラは小さく笑って僕の腕を軽く叩くと、話を続けた。
「ロザモンドちゃんは、おうちのお庭が大好きみたいで、いつも遊んでいるらしいの。その時もクリスの手を引っ張って、遊んでいたわ。クリスも本当に嬉しそうで、芝生の上や木の間を走り回っていて、二人の後を犬が尻尾を振りながら、走っていて。クリスはあのワンちゃんとも仲良くなったのよ。ああ、まるで、美しい絵を見るようだったわ。わたしはサンルームでお茶をいただきながら……そうそう、お庭でハーブもいろいろ作っているらしくて、自家製のハーブティーだったわ。それで、アデレードといろいろ話したのよ。去年の事も全部話したわ。ある程度はあなたからアーディスさんを通じて、アデレードも知っていると思ったけれど、でも彼女詳しいことは、あまり知らなかったようね。『あら、そんなことが?』とか『知らなかったわ、そこまでは』と、よく言っていたもの。それで、わたしはきいてみたのよ。『あなただったら、どうする?』と。彼女はちょっと肩をすくめて答えたわ。『ああ、わたしたちだと、その状況はありえないわね』と。どういう意味って聞いたら、『もしそういう写真がわたしのところへ来ても、絶対に彼主導じゃないっていう確信があるから。だから流出とか、そういうほうと、彼の精神的ダメージを心配するわ』って」
「ああ……たしかに、それは言えそうだな」
 僕は思わず吹き出しそうになってしまった。
「彼女は、こう続けたの。『それにしても、卑怯な手ね。あなたがショックを受けたのは、良くわかるわ、ステラ。でも、それは陰謀だってわかったわけでしょう、あなたも。それなら何がわだかまっているのか、わたしにはわからないわ』と。それでわたしは、いきさつじゃなくて、ジャスティンが他の人と関係を持ったこと、その事実が引っかかるの、と言ったら、あなたはとても潔癖症なのね、って。悪いことじゃないけれど、とも。それで、こんなことを言ったのよ。『もし男女が逆転していたら、捉え方も違うのかしら。たとえば深く愛し合っているカップルがいて、彼女の方が運悪く、誰かに強制的にそんなことになってしまった。でも彼はたとえ意に染まぬものでも、彼女がその人と関係したことを怒っている。それの逆転版みたいね』そう言われて、わたし、大ショックを受けたのよ。わたしはそれほど理不尽な怒りを抱いていたのかしらって」
「たしかに……ずいぶん強烈なたとえだね。正論だけれど」僕は再び苦笑した。
「それでわたしは、でもそれだけじゃない、他にも二回くらいあるって訴えたら、彼女は言ったわ。『たしかにそれは、褒められたものではないかもしれないけれど、でも、誰にも間違いはあるのだと思うわ。わたしも昔は、とんでもない間違いをしたしね。それに、きっとどんな聖人でも、流れに負けてしまってとか、気の迷いを起こしてしまうことって、あるのかもしれない。でもジャスティンさんは、それを後悔しているのでしょう? それに、その時限りなのだとしたら……軽症だとは思うのよね。あなたがどうしても許せないというなら、それは仕方がないけれど、許せないなら別れるしかないと思うわ』と。『わたしは別れたくないわ』と言ったら、『それなら、折り合いをどこかでつけるしかないんじゃない? 仕方がないと思うか、もう一回やったらひどいわよ、と猶予を与えるか』――それで、わたしは決めたの。もう一回やったらひどいわよ、にするわって」
 僕は思わず全身に冷や汗をかいた。ニコレットとの逢瀬は絶対に秘密にしなければならないな、と。いや、とりあえずそれは、再出発前のことだ。いったん清算し、ここから始める――もう二度と僕は妻の信頼を裏切らない。どんな場合でも。それを肝に銘じよう。
 幸いステラは僕の様子には気づかないらしく、話を続けていた。
「それでわたし、今家に帰ろうかどうか迷っているって、彼女に打ち明けて、聞いてみたの。『わたしは、どうすればいいと思う?』と。アデレードはにっこり笑って言ったわ。『わたしはそうしなさいって言える立場じゃないと思うわ。でも、答えはもう出ているんじゃないの、あなたの心の中で』と。本当にその通りだったわ。だから、わたしは言ったのよ。『ありがとう。わたし、やっぱり家に帰ることにするわ』って」
「ああ、君が家へ帰ると言っていたって、アデレードさんが言っていたというのは、そこでなんだな。そういうことだったのか。僕も彼女に感謝しなければ。なんだかこの件では、エアリィとアデレードさんには、アドバイザーとしての借りが出来てしまったな。そういえば、あいつに言われたっけ。『僕が悪かった』『わたしが悪かったの』って感動のシーンで、ハッピーエンドになりそうだって。本当にその通りだったな。あまりにもそのままだから、逆に報告するのが恥ずかしいよ」僕は思い出して苦笑した。
「あら、そうなの? でも本当ね」ステラも微笑み、そして話を続けた。
「それで、その日は彼女の家に泊まったの。アデレードに勧められて。あちらの家は、ベビーシッターさんとペットシッターさんと庭師の人がいて、庭師の人は夫婦で住み込みなのね。お庭の中に庭師さんたちの家があって、そこに住んでいるのよ。あれだけお庭が広いと、必要でしょうね、ペットシッターさんは朝と夕方と、二時間ずつで。ワンちゃんのお散歩用なのかしらね、二人の人が交代で来るらしいわ。猫ちゃんもいたけれど、お庭だけで十分だから、お散歩はいらないし、ワンちゃんだけね。ベビーシッターさんは週五日の人が三人いて、朝の八時から夜の八時までの中で、時間帯がかぶらないようにしているらしいわ。一人はアデレードが昔、お店で縫い子をやっていた時のお友達らしいの。あとの二人はマネージメントに紹介してもらったって言っていたわ。庭師さんやペットシッターさんたちも、そうみたい。でも夜はロザモンドちゃんと二人だから、久しぶりにわたしと会えて楽しかったし、もっといろいろお話がしたいから、それにロザモンドちゃんもお友達を欲しがっているから、と言ってくれたの。それでわたしは、お言葉に甘えたのよ。わたしも同じ気持ちだったから。一晩泊まってから帰ろうと思ったの。お昼を済ませたら、いったん実家に帰って、準備をして、それで、その次の日の朝家に帰って、トレリック夫人にも来てもらって、お掃除とお料理をしてもらえば、あなたたちが帰ってくるのは四時くらいと聞いたから間に合う、そう思ったの。アデレードは『それだと、明後日は慌ただしいわね。うちもいろいろ準備があって、忙しくなりそうだけれど。お互い頑張りましょ』なんて、にっこりして言ってくれたわ」
「えっ……ということは、君は最終公演の日に、エアリィの家にいたわけかい? 午前中まで。ロンドンとは時差があるけど、それでも……」
「ええ。そう。偶然ね。そういえばあの時、ちょっと不思議なことがあったの。その日は雪がちらついていたから外に出られなくて、子供たちと二階の広いサンルームで遊んでいたのだけれど、急にロザモンドちゃんが泣き出したの。まるで火がついたように。わたしたちが遊びに来てからその時まで、まったく泣かなかった子だったのに。わたしは最初、クリスが気に障ることでもしたのかしらと思ったのだけれど、クリスもわけがわからないという顔をして、一生懸命『ロージィ、泣かないで。どうして、泣くの?』と、宥めようとしているのよ。ロザモンドちゃんは、しばらく何も言わずに泣きじゃくっていたのだけれど、アデレードが宥めに行って、『どうして泣くの?』と、もう一度聞いたら、『パミィが……ロージィって、呼んだ……』と言うのよ。それで、なぜ泣くのと聞かれても、ロザモンドちゃんはただ泣くばかりで、答えられないの。わたしはその時には、まるでわけがわからなかったわ。アデレードも『明日帰ってくるから、大丈夫よ』と、ロザモンドちゃんを抱きしめていたけれど、そのうちに彼女も不安げな顔になって、『いやだわ。なんだか、胸騒ぎがする……』と、時計を見たのよ。十一時十分ごろで、ロンドンでは午後四時十分……」
「ああ、ちょうどその時間に……」
 そうか……エアリィは倒れた時、消えゆく意識の中で、幼い娘の名を呼んだのだろう。それがロザモンドに届き、彼女は泣いた。それは父との別れになってしまうかもしれないという、直感だったのかもしれない。本当に幸いなことに、二人はその二週間半後に、生きて対面できたのだが。『パミーィ! おっきしたぁ!』と叫んで飛びついていった娘を、思わず『痛っ!』と悲鳴を上げながらも、『うん、僕も、またおまえに会えて、嬉しいよ、ロージィ』と、ぎゅっと抱きしめた若い父親。見ていた僕らも、思わず胸が詰まった瞬間だった。
「ええ、そうなの。後で知って、本当に驚いたのだけれど」
 ステラは頷いて、話を続けている。
「ロザモンドちゃんはそのうちに落ち着いて、またクリスと遊び始めたわ。でもアデレードは少し不安になったようで、メールを送ってみたけれど、返信が返ってこなかったの。そういうことは、よくあるらしいけれど、返信が半日後とか、二、三日遅れもあるみたいだけれど、彼女は電話もしていたわ。けれど、留守番電話につながって……『リハーサルとか取材が入っているのかもしれないけれど……大丈夫かしら……』と、本当に不安そうな顔になっていたけれど、わたしを見て、ちょっと決まり悪そうに笑ったわ。『わたしを心配性過ぎるって、笑わないでね、ステラ。でも今度のツアーは、いつも以上に不安なのよ』と。わたしは、『いろいろ大変だったものね。わかるわ』と、頷いたのよ。たしかにアーディスさんは何回も襲われているし、騒ぎの渦中の人だから、アデレードが心配するのも、無理はないと思ったの。彼女はこのツアーの間、毎日電話をしていたらしいわ。向こうが朝十時くらいになる時間帯に……ヨーロッパだと、こちらは早朝だわね。朝の四時、五時よ。その時間に目覚ましをかけて起きて、電話していたらしいの。毎朝無事を確認して、声を聞かないと落ち着かない。一、二分くらいしか、話はしないけれど、と。それに比べて、わたしは自分が恥ずかしくなったわ。今度のアルバムやツアーがあれほど騒がれていたのに、爆弾騒ぎも銃撃事件もあったほどなのに、わたしはあなたの心配をしたことはなかった。それで、あなたを愛しているなんて言えて? やっぱりわたし、妻失格だわ」
「そんなことないよ」
「いいえ、今にしてみたら、なぜあれほど無視していられたのか、不思議なくらいよ。あなたに何かあってからでは、遅すぎる。そうでなくて、本当に良かったわ」
 ステラは小さく首を振り、話を続けていた。
「ロザモンドちゃんが泣いてから一時間近くがたったころ……そうね、お昼過ぎくらいよ。わたしたちは食堂で、お昼を食べていたの。子供たちと一緒に作ったサンドイッチと、ジュースとお茶で。その時、ベビーシッターのウェンディさんが……アデレードの縫い子仲間さんで、お友達の人なんだけれど、その日は二時から来るはずだったのよ。わたしとクリスがいるから、大丈夫だから、と言って。でもその人が、一時間半以上も前に来て、それにとても慌てた様子だったわ。彼女は庭に車を止めて、家の中に入ってきて、『お客様がいる中、それにお食事中、ごめんなさい。でもアデル、大変よ! 今ロンドンで、変な情報が飛び交っているみたいなの。ほら、これ!』と、スマートフォンの画面を見せて。それを見て、アデレードは真っ青な顔になって、『嘘……』そう呟くと、ふらっと倒れそうになっていたわ。ウェンディさんが慌てて支えて……『どうしたのですか?』とわたしが聞いたら、『あ、あなたがジャスティン・ローリングスさんの奥さん? 初めまして。あなたのご主人のことは、まだ情報が回ってきていないけれど』とウェンディさんが、わたしにも見せてくれたの。それは、アーディス・レインさん狙撃に関連するネット情報で、ロンドンの現場から回ってきたものらしいわ。わたしは、『えっ』としか、言葉が出なかったわ。もちろん事件そのものもショックだったけれど、他のメンバーのことには、何も触れられていなかったから、『撃たれたのはアーディスさんだけなの? それとも他の人も? ああ、でももしそうなら、その情報も出てきてもいいはずだわ。だって、メンバーですもの。たぶん無事なのか、仮に怪我をしても軽くて、伝えるほどのこともないということなのかしら。ああ、そうならいいけれど。それとも、後で出てきたりしないでしょうね。とりあえずアーディスさんのことだけ流して……あの人は本当に時の人だから……あとはそのうちに、というのかもしれないわ。それで本当はひどい怪我をしていたら、どうしましょう』と、本当に頭の中がぐるぐるして、もう少しでわたしも取り乱してしまうところだったわ」
「ああ。今は本当に、情報拡散が早いからね」
 ニコレットの家でその話を聞いた時と同じ言葉を、僕は繰り返した。彼女は現代っ子らしくスマートフォンもパソコンも駆使しているが、相変わらずその手に疎い妻から、同じような話を聞くとは思わなかった。僕もそんなに得意な分野ではないが。
「ええ、そうね。わたしには、あまりついていけないけれど」
 ステラは小さく肩をすくめて笑い、そして話を続けていた。
「それでね、『真偽も詳しいことも、これだけじゃわからないから、マネージメントからの連絡を、落ち着いて待ったほうがいいわ』とウェンディさんが言って、彼女が子供たちにお昼を食べさせてくれて……わたしたちは心配で、もうとてもお昼なんて、入らなかったから。それで待っていたら、二時近くになって、やっとマネージメントから連絡が入ったの。アデレードは電話をとると、また真っ青な顔になって、今度は本当に床に倒れたのよ。わたし、人が気絶するところを初めて見たわ。それも彼女のように気丈な人が。彼女の介抱はウェンディさんがしてくれたから、わたしは受話器を取ったの。そして、あまりに自己中心的で恥ずかしいけれど、思わず聞いてしまったのよ。『すみません、わたし、ステラ・パーレンバークといいます。ジャスティン・ローリングスの妻です。お世話になっています。夫は無事ですか?』と。そうしたら、『ああ、初めまして。ええ、ジャスティンさんは大丈夫ですよ。彼を含め、他のメンバーにケガはありません。ただ状況が定まって事後処理が片付くまで、帰国は遅れると思いますが』と、答えてくれたの。それを聞いて、わたしは力が抜けて、そのまま座り込んでしまったわ。マネージメントの方はお話を続けていらしたけれど。『詳しいことは、また後ほど連絡しますから、ともかくアデレード・ハミルトンさんに、お嬢さんを連れてロンドンまで来てくださるように、おり返し連絡をくださいと、お伝え願えませんか。連絡がつき次第、飛行機を手配しますから。実家の妹さんの方にもこれから連絡しますので、できればご一緒に。こちらのスタッフが付き添っていきますから。正直、見通しは非常に厳しいらしいです。ですから最悪の場合の覚悟をして、来てくださいと、そう伝えてください。もちろんわたしたちも、そんなことは信じたくないですが……』と言われたのよ。その方も、泣いているような口調だったわ。わたしは……彼女に、とてもそのままは伝えられなかった。そして、思ったの。こんなに大変な事態なのに、ジャスティンの無事を喜ぶなんて自己中心的かしら、と。でも、それは良かったに決まっている。あたりまえじゃないのと、すぐ、そう思ったわ。そして、わたしは自分にできることをしようと、精一杯、彼女の力になろうと、決心したの。アデレードは、わたしに本当に力になってくれたから、今度はわたしが彼女を支えなければ、と思ったのよ。それで、ウェンディさんがロザモンドちゃんとクリスを見てくれたから、わたしはロンドン行きの荷物を用意したの。アデレードはとても動転してしまって、『ごめんなさい。わたしはどうしたらいいかしら。何をしたらいいのか、頭の中が真っ白なの』と言うだけだったから。『とにかく、ロンドンに行くんでしょう? アーディスさんに会いに。だから、わたしが荷物を用意するわ。トランクはどこ? それに、あなたたちのお洋服は?』と、わたしは言ったけれど、彼女は真っ青な顔をして、『そう、ロンドンに行くの。ロンドンに。会わなくちゃ……間に合ううちに。でも、本当に……ああ、本当に、悪い夢みたい……』と、繰り返すだけだったわ。ぶるぶる震えながら。そんな状態では、とてもマネージメントに折り返し電話はできないから、ウェンディさんが代わりにかけていたけれど。わたしも人の家のクロゼットを勝手に開けられないし困っていたら、ウェンディさんが見かねて、『ごめんなさい。本当にこんなことまでやらせてしまって』と、場所を教えてくれて、それでようやく、荷造りができたのよ」
「そうなんだ。大変だったね、君も。ありがとう。そういえばアデレードさんが、君にすっかりお世話になったと言っていたと、エアリィから聞いたけれど、そういうことだったんだね」
「ええ。彼女からは、帰国してからすぐにお礼の電話があったわ。あの時は本当に、わたしがいてくれて助かったって。わたしも本当に、最悪なことにならなくて良かったとしか、言葉がないけれど。彼女も泣いていたわ。でも彼女、言っていたの。『悲しい涙じゃないから。本当に、良かった』と。わたしも思わず、泣きそうになったわ」
 ステラは微かに笑うと、話を続けた。
「でもあの時には、本当に大変だったわ。それで三時ごろマネージメントの車がお迎えに来たから、彼女とロザモンドちゃんを送り出して。ウェンディさんも、ロザモンドちゃんのお世話とアデレードのお手伝いのために、一緒に行ったけれど、それをクリスと二人で見送って。マネージメントの方に、別の車であなたがたをお送りしますから、しばらくここで待っていてくださいって言われたけれど、家はもう鍵がかかっていて入れないから、テラスの椅子に座って。そこで、あらためて震えたのよ。いえ、寒かったのも多少はあるけれど、コートは着ていたから、そうじゃないわ。怖かったのよ。これが、あなたたちのいる世界なんだって、改めて実感して。あなたが無事で本当に良かったけれど、もしあなたがあの時のアーディス・レインさんと同じような状況だったら、わたしはどうしたかしら。あなたが今にも死ぬかもしれないということになったら……そう改めて思ったら、本当に恐ろしくて、震え上がったの。それでわたし、自分は甘かったと思い知ったのよ。あんな写真で動揺して、あなたの言い分も聞かず、あなたを取り巻く状況も理解しようとしないで、結局は自分の不注意で階段から落ちたのに、そのことまであなたのせいにして、いつまでも許そうとしないで怒っていたわたしが、本当に愚かに思えたの」
「ステラ……」僕は心から安堵を感じ、手をのべて妻の手を握りしめた。
「わかってくれて、本当にありがとう。でも、あのことに関しては、僕にも落ち度はあったんだ。僕も君への思いやりに欠けた。君の動揺よりも、自分の弁護にばかりに気を取られてしまって。それに業界の危険にたいして認識が足りなかったのは、僕も同じなんだ」
「でも、わたしはそれ以上に……」
 ステラは首を振り、言いかけた。僕はそれ以上言わせなかった。
「ああ、またこの時が戻ってきて、本当に……言葉に言えないほど幸せだよ」
 僕はステラの肩を抱き、深く息をついた。
「ごめんよ、本当に。すぐに帰ってこないで。君はわかってくれていたのに。いつからここに帰ってきていたんだい?」
「十二月に入ってすぐだったわ。アーディスさんの状態がはっきりするまでは、あなたも帰ってこないとマネージメントの方に言われていたから、とりあえず実家へ戻って、向こうの方にわたしの携帯番号を教えて、それで『メンバー四人の帰国日が決まりました』と連絡をもらった、次の日に行ったから。その時トレリック夫人も一緒に来てもらったのだけれど、彼女にも、しっかり言ったの。『わたしはジャスティンと別れる気はないし、あの家では彼が主人だから、それを忘れないでね。冷たくしないでね、お願いだから』と。そうしたら、夫人は言うのよ。『ええ、私は若旦那様が嫌いなわけではないんですよ、元々。礼儀正しくいらっしゃるし、良い方ですしね。私などにもおみやげを買ってきてくださるほどに。でも、ここだけのお話ですが――奥様や旦那様には内緒ですよ、お嬢様――若旦那様のことは出来るだけ無視しろ、冷たく当たれと奥様や旦那様が仰るので、わざとつっけんどんにしてきたのです。でも申し訳ないと思っていたのですよ、いつも』と。わたしは『まあ、パパやママったら、そんなことを?』と、ちょっと腹が立ったけれど、パパやママには何も言わないでおいたわ、夫人のために。それで、わたしたちは家を掃除して、ここであなたの帰りを待っていたのよ。でもマネージメントの方から言われた日には、あなたは帰ってこなくて。他のみなさんは帰ってみえたのに――パメラさんにも電話して、確認したのよ。マネージメントの方から番号を教えてもらって――でも、あなたは荷物しか送られてこなかったわ。その後もずっと、帰ってこなかった。それでも、何か事情があってロンドンに足止めされているのかもしれないと思って、待っていたのだけど、携帯電話は通じないし、あなたの実家へは帰っていない、マネージメントでも所在がわからないと言われて、わたし、もう本当に気が気ではなかったの。あなたはわたしを捨てて、どこかへ行ってしまったのかしら。それとも、もしかしたら反対勢力の誰かに拉致されて、ひどい目にあっているのかも知れない。そんな途方もない考えまで浮かんでしまって、心配で何も手につかなかったわ。それでクリスのカゼを良く気をつけてやらないで、肺炎寸前にしてしまって。『ママ、気持ち悪い』と、真っ赤な顔をして、ソファでぐったりしていたあの子を見た時、わたしは血が凍ってしまったわ。ひたいを触ったら、ものすごく熱くて。トレリック夫人が『お嬢様、落ち着いてください』と、うちのかかりつけのお医者様を呼んでくれて……ああ、その時の気持ちは、今でも忘れられないわ。本当に気が狂いそうだった。あなたはわたしを捨てていったかもしれない。なのに、この子にまで、もしものことがあったら、わたしもとうてい生きていけないわって……」
「それじゃ、クリスを病気にしたのは、僕の責任だよ!」
 僕は自責の念にかられ、妻の手を取って思わず叫んだ。
「僕は本当に、どうかしてたんだ。なんてバカだったんだろう!」
「でも、あなたにそうさせたのは、わたしなのよ。あなたはきっと家に帰っても、また誰もいないと思って、それで帰ってくるのが、いやだったのでしょう? そのことも、待っている間に気づいたの。だから、どこかへ行ってしまったのだって。誰かに捕まっているよりは、はるかに良かったのだけれど、それでも……」
 ステラは再びため息をつき、ゆるく首を振った。
「幸い三、四日ほどで、お薬が効いて、クリスは良くなってきたの。わたし、この子だけは手元に残しておかれるのだと、本当にほっとしたわ。でも考えたくないことだけれど、あなたはもう、本当にわたしのところに戻ってこないかもしれないと、思い始めていたの。もう遅すぎたのかしら……わたしは愛想をつかされてしまったのかしらって、悲しくて悲しくて……でも、昨日の夜よ。ふと、あなたがそばにいるような気がしたの。『許してくれ、ステラ。僕は帰るよ』と、あなたの声がしたような……気のせいかもしれないけれど、それを聞いて、わたしは少し希望を持ったのだわ。そのうちに、あなたは帰ってくるかもしれないって」
「昨日の晩?」僕は驚いて問い返した。
「昨夜は一晩中雪が降っていて、風も結構あったよね。君は編み物をしながら、クリスのそばに付き添っていなかったかい? 『風が泣いてるね』ってクリスが言って『パパはもう帰ってこないの?』と聞いていた。君は『ママがパパをいじめすぎたから、いけないの』って、答えていなかったかい?」
「ええ……」
「君はその時、あまり髪もとかしていなくて、黒いゴムでばさっと束ねて、グレーのニットワンピースに、ちょっとしみのついた白に青い小花模様のエプロンをしていたよね。その時に編んでたのは、クリスのセーターじゃなかったかい? 浅黄色の」
「ええ。どうしてわかるの?」
「僕は夢に見たんだ」
 驚きにうたれながら、僕は妻に昨夜の夢を語った。彼女も不思議そうな表情で聞いていた。トロントとロンドン。大西洋を隔てた二つの街で、その距離が一瞬だけとり払われ、呼びあう二つの魂が交流した。本当に不思議な出来事だ。これはひょっとして、あの子が引き合わせてくれたのだろうか。
 僕はその前の夢も、ステラに語った。『The Abyss in Blue』の世界そのままに、生まれなかった子供たちのいる透明な蒼い世界に行き、僕たちの幻の子供と会ってきたこと。その子が僕らに(ママのところへ帰ってあげて、とてもかなしんでいるみたい)と頼み、(また息子になって生まれてくるから)と言ったことを。
「わたしたちの赤ちゃんが……わたしたちを見守っていてくれていたのね……」
 ステラは嗚咽しながら、しばらく泣きじゃくった。
 いや、あの国は――もし本当にあるとしたら、そこからこの世界の様子を見守ることは出来ない。そうエアリィは言っていったっけ。この曲を作ってきた時に。ただ『その子への思いは届く』とも。『こっちと向こうは次元を隔ててて、今の段階ではお互いに見ることは出来ないけど、こっちからの強い思いは向こうへ届くみたい。感情の波動だけだけど』と。『それって根拠のある話なのか』と、ジョージに半信半疑な様子で聞かれると、エアリィはちょっと肩をすくめて『こういう話に根拠とか証拠とか、なくない?』と答えていた。『じゃあ、おまえはなんで、その話を知っている? どこで聞いたんだ?』という僕の問いに、彼は答えていた。『古くからの知識なんだ。信じる信じないは自由だけど』
 もし彼の言う“古くからの知識”が正しいのなら(それが何かわからないが、実際に僕自身もあの世界に行ってしまった以上、僕も信じるしかない)、ステラの思いや僕の思いは、あの子に届いているのだろう。だからステラが悲しんでいることも、わかった。それはやっぱり、たとえ文字通りの意味でなくとも、あの子は僕たちを見守っていてくれることになるのかもしれない。
「ごめんよ。この話は、君には酷だったかな」僕はステラの肩を抱いた。
「いいの。わたし、あの子が元気で幸せだとわかったから、ほっとしているのよ。それに、また生まれてくると言ったのね。また会える時を待っているわ、坊や……そう、男の子だったのでしょう? 病院の先生も、そうおっしゃっていたし」
「ああ。髪は僕と同じ色で、目の色は君に似ているんだ。とてもかわいい子だったよ」
「わたしも会えたら、よかったのに……」
「あの国に君も行けたらね……」僕は静かに言った。
「僕も信じられなかった。今度のアルバム制作でエアリィが『The Abyss in Blue』を書いてきた時、『生まれなかった子供たちの国に行った夢を見たんだ。蒼い淵の国で』って、その世界のことを話してくれた。僕は美しくも悲しいファンタシーだなって、思ったんだ。まさか一年以上後で、自分も同じ世界へつっこんでわが子と対面するなんて、思ってもみなかったよ。本当にあの世界は存在しているのかもしれない。そんな気がするんだ」
「その夢のことは、アデレードも言っていたわ」ステラも静かな口調で、頷いていた。
「去年の秋のことだって。ロザモンドちゃんがだんだん大きくなって、本当に愛らしく育っていくのを見ていると、ふと最初の子供を思い出して切なくなることがあると。彼女の前の恋人、テレビ俳優さんだったらしいけれど、結婚の約束をしておきながら、彼女を散々利用するだけ利用した挙句に、出世のために他の女の人と結婚したらしいの。それも、本当にひどいのよ。その人、最後には、彼女にスポンサーの重役の……その……愛人になれって、命令したらしいの。いくらなんでもそれは出来ないって断ったら、そうか、それならもうおまえには用はない。どのみち自分は別の女の人と結婚するからって」
「それは本当にひどいな。エアリィからも病院でチラッと聞いたけれど、そこまでひどい奴だったとは」僕は思わず首を振った。
「そうでしょう? 話を聞いて、わたしもとても腹が立ったから、その人の名前を教えてって言ったのだけれど。もう二度と、その人のテレビは見ないようにするからと。彼女、名前を上げるのも値しない、もうどうでもいいと言うの。でも子供のことはとても気になるって。その時も、相手にどうしても、その……おろしてくれって、しつこく頼まれて、仕方なくいうことをきいてしまったことが、今でも悔やまれるって、そんな話をアーディスさんにしたらしいの。彼女は最初の赤ちゃんとお別れしてから、もうこんな思いはしたくないと、ずっとピルを使っていたけれど、その人と別れてからは飲まないでいたら、ロザモンドちゃんが授かったって――彼女その時も、思ったらしいのよ。もう赤ちゃんと別れるのは、二度といやだ、絶対に彼女一人になっても、産んで育てるって。ツアーが終わって帰ってくるまで言わなかったのも、その……前の人と同じことを言われるんじゃないかって、怖かったからなんですって。状況的には、絶対にそうなりそうな気がしたから、と。アーディスさん、その時で十七歳だし、大ブレイク真最中だったから、普通そんな時に子供の親になるなんて言われたら、ダメだろうって。でも彼女は絶対にそれはいやだから、産むしかないところまで言わないで、一人でも産んで育てようって思ったらしいの。親権も、強制はしないつもりだったらしいのよ。ただ子供を産みたかった。ダメって言われたら、彼とは別れなければならない。それが怖くて、『あなたに迷惑はかけないから、この子を生ませてちょうだい、お願い……』と恐る恐る言ったら、あの人は『え? 産むのって普通じゃない? だめな理由って何かあるの? それに僕には育児参加させてくれないの?』と、驚いたように聞いたらしいわ。それで彼女、ほっとしたあまりに、本気で泣いてしまったって……」
「で、あいつはそれを、わけがわかんないと言っていたんだよなぁ」
 僕は思い出して苦笑した。
「そうらしいわね。アーディスさんっていい人で、いろんな意味でものすごい人だけれど、そのあたりの機敏は、まるでわかっていないのね。最初に、『えっ、誰の子?』なんて聞いたらしいし。もう少しでひっぱたきそうになったって言っていたけれど、彼女」
「本当に、あいつは恋愛オンチの天然だからな。それでもし自分の子じゃなかったとしたら、その相手と結婚するの? おめでとう! くらい言いそうだからな」
「本当に、そんな感じだったらしいわ。わたし、悩んでいたのに、なんなの? と、アデレードは一瞬、泣いていいのか笑っていいのか怒っていいのか、わからなかったって。彼は完全に友達の延長感覚なのよね、って彼女も苦笑していたし。そうそう、アーディスさんとアデレードの出会いって、彼女が前の恋人に捨てられて、絶望してアパートの屋上から飛び降りようとした時、たまたま彼が来て、それで助けてもらったって言うより、屋上でケンカ、いえ、彼女が一方的に怒ってしまって、死ぬ気がなくなったらしいけれど。でも、彼女は言っていたわ。わたしはファンからの受けは最悪よ。昔のわたしの愚かな行為のせいで、ひどい呼び方で呼ばれているし、何も知らない彼を陥れたって思われているから。まあ、それはほんの一部の人にだけで、普通に祝福してくれる人も多いのが救いだけれど、と。でも外でファンに会うと、時々ひどいことを後ろで聞こえよがしに言う人もいて、だからあまり外へ出たくないの、とも言っていたわ。そのことに、まったく恥じてはいないけれど、愉快なものではないから、ともね。わたしは彼女の立場でなくて、本当に良かったと思ったわ。先に赤ちゃんが出来た、というのは、わたしも同じだから」
『あの女、嫌われてるのよ。あ○ずれのくせに、計画的にはめたに違いないって』
 いつか会ったグルーピーの少女、シンディの言葉を思い出した。そして彼女がネットでそんなありがたくない風評を取った原因も理解した今、アデレードに改めて、同情を感じた。同時に、その時に聞いたステラの悪口は、決して妻には知らせまいと思った。ステラは話を続けている。
「話がそれてしまったけれど、彼女が前の子供のことを思い出して切ないって言ったら、あの人は言ったらしいわ。『うん。不幸なことだけど、生まれる前に消える命は、かなりあるんだよね。でも、その子たちは特別な待ち合い場所で待ってるんだって、聞いたことがあるよ。そのうちに、また近い血筋の新しい命として生まれてくるまで。そこは透明な青の国なんだって。その子たちは、また生まれてくるまで、そこで遊んでる、だから寂しくない。寂しい感情もないはずだ。でも、その世界を明るくするのは、その子を思い出すこと。その思いが子供たちを包む、優しい光になるらしいんだ。感情も向こうに届くらしいよ』と。それで彼女が、『それならあの子を思うことは、無駄ではないのね。でも本当にそんな世界があるなら、わたしも行ってみたいわ』と言って、その晩見た夢が、それもアーディスさんと二人同時に見た夢が、二人でその国を訪れて彼女の子供と会う、そんな夢だったと。本当に不思議な話だと、わたしも思ったものだわ。アデレードの子供は男の子で、彼女と同じ亜麻色の巻き毛で、目は茶色くて――そこは相手に似たのね、きっと――それで、言ったらしいの。『ママ、いつもママがぼくのこと思ってくれているの、わかっていたよ。うれしかった』と。そして、『ぼくは二人の孫になって生まれてくるから。生きては会えないけれど、生まれてくるから』と」
「そうそう、僕もその話は聞いたことがある。プリプロダクションの時に。それで、彼自身の弟、カーディナル・リードさんの子のカーライル君には会えなかったのかって聞いたら、あの子は一度生まれているから、普通に天国にいるはずだって答えていたな。ああ、そういえば今回、臨死体験で会ったって言ってたっけ。不思議なことだけど。で、エアリィがその夢の中でアデレードの最初の子に、未来のグランパなんて呼ばれて、え、お祖父ちゃんなの、なんかすごく年取った気がするって、あの状況にも関わらず吹き出しそうになったって、そんなことも言っていたんだ。僕らの場合は次もまた息子だから、パパとママでいいんだろうけれどね」僕はちょっと笑い、妻の肩を抱き寄せた。
「いずれあの子も、またこの世に生まれてくるんだろうけれど、それまで忘れないでいようよ、ステラ。クリスの弟になるはずの、我が家の第二子がいたことを。悲しくとも、切なくとも、覚えていよう、いつまでも。その思いが、あの子にも届くから。君はいつまでも、僕らの家族の一員だよって」
「ええ、ずっと覚えているわ。忘れたりするものですか。それにわたしたちが思い出せば、それだけであの子も寂しくないはずよ。愛してるわ。また会える日を待っているわ、って、いっぱい呼びかけるわ」ステラは再び涙ぐみながら、頷いた。
「ああ、あの子……そう、まだ名前もついていなかったのね。つけてあげたいわ」
「そうだね。今度は君がつけるかい?」
「そうね……ルークにするわ。ルーク・ローリングス……変かしら」
「そんなことはないよ。良い名前だね。スターウォーズのヒーローかい?」
「違うわ。十二使徒からとったのよ。お兄ちゃんがクリスチャンでしょう、だから……」
「そうか。そうだね」僕も思わず微笑した。そう言えば、ステラにはあまり興味のあるジャンルではなかったなと、改めて思い出しながら。
「我が家の次男、ルークだ。僕たちはこれからも、この子の成長を追っていこうよ。心の中でずっとね」
「ええ」
 ステラは頷き、そっと僕の胸に寄り掛かった。僕は腕を回し、妻を抱きしめた。

 窓の外では、音もなく雪が降り続いている。僕たちは無言でよりそい、ガラスの向こうに舞い落ちていく白い結晶を見つめていた。雪は一年間の過ちをすべて覆い尽くし、お互いの心を再び純白に変えていくように思える。もう一度やり直せる、真っ白なキャンバスに。
 一年以上もの間、夫婦の間に横たわっていた溝。僕たちの幻の子供ルークが消えて以来、広がっていたその障害は、跡形もなく消えていった。僕たちの心は以前のように、いや、以前にもまして強く結びつき、再び試練を乗り越えて、愛は強くなった。我が家は主をもち、家族は再び一つになった。ステラと僕、三才になったクリスチャン、ちゃんと生まれてさえいたら、生後半年になる次男ルーク。そう、この子のことも、僕は一生忘れないだろう。僕たち夫婦を再び結びあわせてくれたのは、ほかでもないこの子だったのだから。
 言葉のいらない沈黙の中に、僕たちは堅く手を握り合った。夜は静かに更けていった。




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