Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(18)




 その夜、ニコレットの家で眠った最後の晩、僕は鮮やかな夢を見た。
 僕は洋服をつけたまま、海を泳いでいた。空は漆黒、そして真っ白。交互に、ゆっくり変わっていく。水は体温と同じような温さで、さらさらしている。やがて下へひっぱる力に捕らえられて、水の中に潜っていった。
 水の中なのに、まったく苦しさは感じなかった。あたりは一面、透明な青い世界だ。なんと形容したらいいだろう。濃いマリンブルー。青の中の蒼。ガラスのような透明感。どこまで行っても底がなく、水面も、もう見えない。
 僕は下へ行くのをやめて、歩き出した。ふわりとした浮遊感。見渡すかぎり透明な、青い世界。その先に、かすかな光が見えた。銀色の光の中に無心に遊んでいる、多くの幼子たちの姿が見える。彼らはみんな裸で、天使のように無邪気で楽しげで、それでいて少し寂しげな感じをも受けた。この光景は――『生まれなかった子供たちの国』だ。
 去年の秋、エアリィがこの世界で、アデレードと二人、彼女の最初の子供(彼女が以前付き合っていた恋人との子供だ)に会ってきた夢を見たらしい。不思議なことに、アデレードの方もまったく同じ夢を見て、泣きながら目を覚ましたのだと言う。それにインスピレーションを得てエアリィが作った曲が『The Abyss in Blue』だ。これは彼がオフに仕上げてきた三曲のうちの一つだが、レコーディングの時、この同じイメージが想起されてきた。切なく悲しく、天使のように無垢な世界を。そして、思わず涙したものだ。この曲の主題は、『命』。ひとつの命の重み、命を担うことの意味、そして生きていることの大切さ――それを考えさせられる。
 その世界が今、僕の回りにある。僕はそこを訪れている。そう気がついた時、少し畏怖に近い怖さを感じた。でももしこれが、かの子供たちの国ならば、この世界の中に会いたい子が一人いる――。
 その思いに答えるかのように、子供たちの一人が、僕の方を振り向いた。僕と同じような色合いの、金褐色の巻き毛の赤ん坊。その目の形は僕に似て、でも色は青い。ステラの目のように。その子は小さな手で、僕を呼ぶようなしぐさをしている。赤ん坊の方へゆっくり近付いていくと、その子もこっちへ向かってきた。いや、歩いているのではない。ふわふわと浮遊している。目鼻立ちのはっきりした、かわいい男の子だ。
 赤ん坊は僕の膝に小さな手をかけ、僕を見上げて、嬉しそうににっこりと笑った。声にならない無邪気な響きが、頭の中に聞こえてくる。
(パパ――)
 思わず、あっと打たれた。この子は僕たちの幻の子供だ。無事に生まれていたら、今ごろ五ヵ月か六ヵ月くらいの――そう、ちょうどこのくらいの――この世界で会いたかった、幻のわが子だ。胸がつまった。思わず涙が流れ、赤ん坊をぎゅっと抱き締めた。
「おまえ、こんなところにいたのか!」僕は夢中で叫んでいた。
「ごめんな。ごめんな! ちゃんと産んでやれなくて! 淋しくないか、ここは?」
(ううん。さみしくないよ。お友達がたくさんいるし。それにね、ぼくはまた生まれてくるよ。またパパの息子になって)
 子供の声にならない心の声が響いてきた。
(ねえパパ、ママのところへ帰ってあげて。とっても悲しんでるみたい)
「わかった。わかったよ……」僕は泣きながら頷いた。
 赤ん坊はにっこりと笑うと、僕の腕から漂うように離れていった。
 風景がゆっくりと霞んでいく。蒼い世界はだんだんと色が薄れていき、ついには真っ白になった。

 雪の降り積もる夜の景色の中に、僕の家が見えた。壁を突き抜け、部屋の中の光景が展開する。ここは子供部屋だろうか。薄緑色のチェック地に『くまのプーさん』の模様がついたカーテン、白いキャビネットの上に置かれたクマと犬のぬいぐるみ。たくさんのミニカー。そう、やっぱりクリスの部屋だ。
 子供用寝台の傍らに、ステラがいた。子供用の小さな椅子ではなく、付き添って何かする時のために用意した大人用のアームチェアに座っている。ステラの頬は青ざめ、眼の下には薄いクマができて、やつれて見えた。いつもはきれいに手入れしているブロンドの髪が珍しく乱れ、無造作に黒いゴムでひとつに束ねてある。丈の長いグレーのワンピースにも少ししわができ、白地に青い小花を散らし、細いレースをあしらったお気に入りのエプロンも、胸にしみがついたままになっている。
 ステラは編み物をしていた。浅黄色の毛糸で、クリスのセーターを編んでやっているようだ。編み針がかちかちとなる音と、外で舞っているらしい風の音が、かすかに聞こえる。彼女は手を休めた。何か考え込んでいるように、編みかけの小さなセーターを見つめている。その上に涙がひとしずく、ぽたりと落ちた。
 カーテンと同色のカバーをかけた子供用寝台に、クリスが寝ていた。その小さな額に、熱さまし用の湿布が張ってある。ナイトテーブルの上には、薬のビンが置いてあった。息子は目を閉じて、眠っているように見える。
「風、泣いてるね、ママ」
 クリスはふと目をあけ、小さな声で言った。
「本当ね……」ステラは涙を飲み込み、頷いている。
「なにが、かなしいのかなぁ」
 クリスはしばらく風の声に耳を傾けているようだったが、再び小さな声で問いかけた。
「ねえ、ママ……」
「なあに、坊や?」
「パパ、もう帰ってこないの?」
「わからないわ……」
 ステラは首を振り、窓を見つめながら返事している。
「なぜ、パパとママ、ケンカしたの?」
「……ママがバカだったの」
 彼女はしばらく黙って窓を眺めていたが、やがてぽつりとそう答えた。
「でも、ごめんなさいって、謝れなかったの。それどころか、パパが謝ってくれたのに、それじゃ足りないって、思ってしまったの。それでパパをいじめすぎちゃったのよ」
「パパ、怒っちゃったの?」
「ええ、たぶんね……」
 ステラはため息と一緒に答えた。涙が瞳に溢れ、頬を濡らしていく。
 クリスはむくっとベッドの上に起きあがり、小さな腕で母親にかじりついた。
「ママ、泣かないで。ぼく、ずっとママといるよ」
「ありがとう、クリス」
 ステラは子供を抱き締め、その小さな背中を何度もいとおしむように撫でながら、涙にむせんでいた。
「ごめんね、泣いたりして。もう大丈夫よ。ああ、坊や……あなたがいてくれるんですもの。ママは淋しくないわ」
 胸の奥から咽喉の方へ、熱い固まりが突き上げてくるのを感じた。妻も息子も、まるで目の前にいるかのようだ。二人の姿は、改めて激しい後悔と自責の念を、僕に起こさせた。
「ステラ、ステラ!」僕は夢中で呼びかけていた。
「僕が悪かったよ! 僕は帰るよ、君とクリスのもとに! 僕はどうかしてたんだ。君を理解しようとせずに、自分のくだらない意地やプライドに、こだわりすぎていた。もとに戻れるなら、僕は百回だって頭を下げる。何だってするよ。許してくれ、ステラ、クリス! 本当にごめんよ!」
 ステラはふと頭を上げ、怪訝そうにまわりを見回した。まるで僕の声が聞こえたかのように耳を澄ませている。青白い頬に、ほのかな紅がのぼっていく。
「どうしたの、ママ?」クリスが母を見上げ、不思議そうにきいた。
「いいえ……なんだか、パパがすぐそばいるような、そんな気がしたの。声が聞こえたような……」彼女はふっと淋しそうな笑みをもらした。
「気のせいね、きっと。ママがパパのことばかり考えていたから、そんな気がしたのかもしれないわ」
「パパ、帰ってくるかな?」小さな息子は無邪気ににっこりした。
「ええ、そうだといいわね……」
 ステラは小さく頷き、そっとクリスの乱れた髪に手をやった。
「そうしたら、ママ、あやまれる?」
「ええ。もちろんよ」ステラは再び頷き、息子の額に手を当てた。
「少しお熱、下がったみたいね。良かったわ。もう一服お薬を飲んで、お眠りなさい」
「うん」クリスは母がついでくれたピンク色の液体を飲むと、もう一度横になった。
 ステラは子供を見守り、時おりそっと頭を撫でてやっている。クリスが完全に眠ってしまうと、彼女は再び編み物にかえった。天井から下がった灯りが金色の光を二人の上に注ぎ、部屋の隅ではスチームヒーターが、白い湯気を上げている。風はいつしか止んで、今は音もなく雪が降り積もっていく。部屋の中に聞こえるのは幼子の安らかな寝息と、大きな柱時計がこちこちと時を刻む音、そしてステラの手の下でかちかちと音をたてる、編み針の音だけだ。
 やがて風景はゆっくりと霞んでいき、我が家の幻も、眠りと一緒に消えていった。

 僕は目覚め、ベッドの上に起き上がった。スティーム暖房機の音が、しゅーしゅーと聞こえている。窓の外はまだ薄暗いが、部屋の時計は、もう九時を回っていた。僕は起き上がり、服を着た。そして暖房装置を止め、ドアを開けてリビングに出た。
 どんよりとした、寒い、陰気な十二月の朝だった。リビングには誰もいない。ニコレットは、すでに出勤してしまったようだ。いつも食事に使っている小さなテーブルの上に、朝食がラップをかけて用意してあった。スクランブルエッグとソーセージ、スープ、パンと紅茶。その脇に、彼女の筆跡で書かれた手紙が、小さなシルバーの文鎮で止められて置いてある。僕は手にとって読んだ。

【親愛なるジャスティンさんへ
 もう仕事へ行く時間だから、出かけます。朝食は用意しておきましたから、レンジで温めて、めしあがってください。よく眠っていらっしゃったから、起こさないでおきました。面と向かって改めて別れを言われたら、また泣いてしまいそうなので、これで良かったのかも知れません。どうかお気をつけて、帰られますように。そして、どうか奥さまと仲良く暮らしてください。明け方、わたしはふと目が覚めて、あなたのお部屋を覗いた時、あなたは眠りながら奥さまのお名前を呼び、さかんに謝っていらっしゃいました。わたしはそれを聞いて、なぜか悲しい中にも、ほっとしたのです。やっぱりあなたは、わたしの思ったとおりの人だったと。
 これからも、すてきな音楽を聴かせてください。そしていつまでも、わたしの心の支えであり続けてください。あなたと暮らした十日間を、わたしは一生忘れません。まるで宝石のような思い出でした。ありがとうございました。さようなら。いつまでもお元気で、お幸せでいてください。
                 愛をこめて、ニコレット・リースより】

 手紙の最後に、このアパートの住所が書いてあった。僕はその手紙を小さく折りたたみ、そっと財布のポケットにしまった。ステラに見つかるとまずいものではあるけれど、もう二度とこんな真似をして人を傷つけないように、心の護符にするつもりだった。彼女が用意してくれた朝食をレンジで温め、そして食べた。この家で食べる、これが最後の朝食だ。食べ終わると簡単に後片付けをし、自分の荷物をまとめた。部屋を出る前に、僕は手紙を書いた。

【親愛なるニコレットへ
 本当にこの十日間、お世話になりました。君に感謝するとともに、すまない気持ちでいっぱいです。君を悲しませてしまったことを、どんなに後悔しても、もう遅いのですね。お詫びの言葉もありません。どうか元気で、いつまでも無邪気なかわいい君でいてください。君は十分魅力的だから、きっと僕なんかよりずっとすてきな男性が、君に夢中になるでしょう。僕は現実ではなかったのだと、忘れてください。きっと幸せになってください。君の幸せを、僕はいつも願っています。ありがとう、そして、ごめんなさい。君のことは忘れません。
             あなたの友達 ジャスティン・ローリングスより
PS・振替公演のチケットは、忘れずに送ります。ぜひ本物のBFと来てください】
 
 僕は手紙を同じ文鎮で止めて、机の上に置いた。彼女は嫌がるだろうとは思ったが、昨日病院の帰りに銀行から下ろしてきた五千ポンドを封筒に入れ、手紙の下に入れておいた。手切れ金とか、そういうものではなく、十日間の生活費と、チケットが届くまでここを引っ越さないなら、その分余分な家賃がかかるだろうから、そのいくらかの足しにしてくれという、簡単なメモを添えて。それからニコレットが僕のために付けておいてくれたリビングの暖房装置を止め、彼女が帰ってきた時に再び部屋が暖まっているよう、タイマーをかけ直した。そして窓の鍵を確認してからカーテンを閉め、部屋を出た。ドアを閉めてスペアキーで鍵をかけ、封筒に入れて、注意深くポストに戻す。外廊下をゆっくりと歩きながら、ロブの携帯に連絡をし、階段を下りて、アパートの外へ出ていった。
 彼女はどんな思いで、この部屋に帰ってくるのだろう。ひとりぼっちの部屋で、失われた思い出のために、涙に暮れるのだろうか――。
(ごめんよ、ニコレット。君の人生に、僕は生身の人間として割り込んではいけなかったんだ。本当に、ごめん……)
 僕はしばらく灰色の建物を見つめたあと、背を向けて歩き出した。すぐにマネージメントが手配した車が来て、傍らに止まった。どうやら今朝からアパート近くの路上に止めて、僕を待っていたようだ。僕は車に乗り込み、途中からロブも合流して、お昼過ぎの飛行機で、ヒースロー空港から飛び立った。久しぶりの我が家へと。

 時差の関係で、トロントに着いたのは、その日の午後三時ごろだった。十二月の早い日没は、あたりを夕闇に染め、ロンドンよりはるかに冷たい風が舞っている。街は雪化粧をしていて、空からもひっきりなしに白いものが降ってきていた。
 一緒に帰ってきたロブは、僕を自宅の前で降ろしてくれた。
「じゃあな、ジャスティン。家族と自分を、もっと大切にしろよ。おまえも今回のことで少し大人になっただろう。誰でも人生いろいろな回り道をして勉強するんだ。頑張れよ」
 彼は別れ際、僕の肩をポンと叩いた。
「ああ、ありがとう。心配かけてごめんよ、ロブ」
「それはもういい。だが、これからは頼むぞ。もう二度と、こんなまねはしないでくれ。春まで取り敢えず仕事はなしだが、一週間ごとに定期連絡を入れるから、いつでも連絡を取れるようにしておいてくれよ。それから、どこかへ出かける時には――まあ、近場ならともかく、市内より遠くへ移動する時には、必ず事前に僕に連絡を入れてくれ。手配があるからな。それは前のオフと同じだ。おまえたちには面倒だろうが、それだけは頼んだぞ」
「ああ、わかった。いろいろありがとう、ロブ」
 僕は頷き、握手を交わした。そしてロンドンで買ったスポーツバッグ一つを手に持って、我が家の門をくぐった。ここを後にして、もう三ヵ月半以上たっている。庭はすっぽりと雪におおわれ、白い絨毯を敷きつめたようだ。木々は白い花を一面につけたようで、緑の屋根もすっかり白くなっていた。ああ、リビングの窓に明かりがついている! 僕は誰もいない家に帰ってきたのではないんだ!

 クリスマスのリースが飾られた玄関のドアが開き、中から漏れてくる黄金色の明かりを背に、ステラが外に出てきた。たしかに夢で見たとおり頬は青ざめ、少しやつれてはいるが、金色の髪を後ろで一つにまとめ、大きな青いリボンを付けていた。僕が去年のクリスマスに贈った青いドレスを着て、首には一緒にプレゼントしたダイヤのプチネックレスをつけ、取っておきの白いエプロン(夏にジョイスが一度着たが、改めて洗濯され、糊付けされてアイロンが当てられているようだ)をつけている。白粉をつけ、唇には紅さえ引いていた。昔どおり愛らしい妻がそこにいた。青い瞳に歓喜の表情を浮かべて、僕に近寄ってくる。そして昔どおり、にっこりと笑って迎えてくれた。
「お帰りなさい、ジャスティン。会いたかったわ」と。
「ステラ、ただいま……」
 僕はそれ以上、言葉が出なかった。ただ衝動の命ずるままに、荷物を下に置き、両手をのばして彼女を抱きしめた。
「僕を許してくれ、ステラ……」
 僕は再び言葉を失った。気持ちを正確に伝ええる言葉を探せない。腕をゆるめ、妻の顔をじっと覗き込んだ。
「僕が悪かったよ、許してくれ……」僕は繰り返した。それが精一杯だった。
 ステラはしばらく無言で、じっと見上げていた。見開いた目に涙が溢れ、唇は震えている。青ざめていた頬がみるみる紅に染まり、彼女はむせぶように口を開いた。
「ジャスティン……悪かったのは、わたしの方だわ」
 ステラは僕の胸に寄りかかった。
「わたしがいけなかったの。本当につまらない意地をはっていたのよ。いけないとは思いながら、自分でもどうしようもなかったの」
「僕を許してくれるのかい?」
「ええ。それにわたしも、あなたに謝らなくてはならないわ。ごめんなさい」
 それ以上の言葉は必要なかった。一年以上ごたごたが続いて、すっかりこじれてしまった心のわだかまりが一瞬で氷解し、二人の心の距離がたちまち埋まっていくのを感じた。僕たちは抱擁し、キスをかわした。一年間のもやもやもケンカも行き違いも、すべてを洗い流して。
 廊下の奥の方から、ぱたぱたと足音が響いてきた。クリスチャンが嬉しそうに笑いながら玄関を通り抜け、僕たちの方へ駆けてくる。
「パパ、帰ってきたね。ママ!」
 小さな息子は、僕ら二人の間へ身を踊らせた。僕はクリスを抱き上げ、高くさしあげた。息子に会うのも五月以来だから、びっくりするほど成長している。
「ただいま。大きくなったなあ、クリス。それに、ずいぶん重くなったよ」
「うん。ぼく、三つになったんだよ」クリスチャンは得意そうな声だった。
「そうか。おまえも九月で三才だったんだな。ごめんよ、おまえの誕生日に何もプレゼントがあげられなくて。それにママにもね」
「でも、クリスマスがあるよ!」
「そうだな。あと十日でクリスマスだな。おまえとママに、とびっきりのクリスマス・プレゼントを贈るよ。楽しみにしていてくれよ」僕は息子に頬摺りし、
「うん」と、クリスはうれしそうに息をついた。
 息子はくまのプーさん模様がついた、薄緑のフランネルでできたパジャマの上に、ボアのついた黄色いベストを着ていた。まだ六時前だから、お休みの時間には少々早い。
「おまえ、もしかしたら病気だったのかい、クリス?」
「うん」息子はこっくりと頷いた。
「でも、もうお熱、下がったよ」
「カゼをこじらせたの。でももう、ほとんどいいのよ」
 ステラは子供をベッドに連れ戻しながら、そう説明している。
 家には家政婦のトレリック夫人もいたが、彼女もかつてのように仏頂面ではなく、かすかに口元を緩めながら、「お帰りなさいませ」と迎えてくれた。
「六時から、お食事にいたしますね」とも。
 久しぶりに親子三人で取った食事は、至上の晩餐のように思えた。

 その夜、クリスが満足げに僕ら二人の手を片方ずつ握り、眠りに落ちたのを見守ったあと、ステラと僕は静かなリビングルームのソファに座って、お茶を飲んだ。トレリック夫人は七時半に帰って行ったので、今は僕ら家族だけだ。お茶はステラがいれてくれた。
「ありがとう。それと、着てくれたんだね、去年のクリスマスプレゼントを」
 僕はカップを受け取りながら、彼女に向かって笑いかけた。
「ええ。遅くなってごめんなさい。でも今朝マネージメントの方にお電話で、あなたが夕方帰ってくると聞かされた時に、わたしも昔のようにおしゃれをして迎えたいと思ったのよ。最近、本当にかまわなかったから。それで思いついたの、このドレスを。わたしにはこの青、少し鮮やかすぎる気がして、不安だったけれど、どう?」
 ステラは昔のように僕の隣に座り、少しはにかんだように微笑む。
「きれいだよ、とても。よく似合っている。ありがとう」
 僕は妻の頬に触れ、軽くキスをした。
「わたしこそ、あの時にちゃんとお礼が言えなくて、ごめんなさいね。今年の新年パーティも、失礼してしまって。黒いドレスなんて、嫌がらせもいいところよね。来年はこの服を着て、ぜひ出席したいわ。ああ……でも、来年はあるのかしら、パーティ」
「ああ、新年パーティか。来年は延ばすことにしたんだよ。やっぱり全員揃ってやりたいから、エアリィが退院してから、三月くらいにやる予定なんだ。新年じゃないけれどね。イースターにも早いし」
「そうなの。それでは、その時ね。それまで染みをつけないようにしなくては」
「いや、今年も新しいドレスを買うよ。クリスマスプレゼントに。クリスにも新しい玩具をね。今年は楽しいクリスマスになりそうだ」
「そうね。明日ツリーを飾りましょう。クリスもクリスマス前にパパが帰ってきて、大喜びしているわ」
「本当に、間に合ってよかった。クリスの病気も、ほとんどいいみたいだしね」
「クリスが病気になったのは、わたしのせいなのよ」
 ステラは微かに首を振りながら、そう言い出した。
「あの子、ずっと風邪気味だったのに、良く気をつけてあげなかったの。それですっかりこじらせてしまって。もう少しで肺炎になるところだったって、お医者さまから叱られたわ。本当に母親失格ね。妻としても失格だけれど」
「そんなことはないよ」
「いいえ、やっぱりわたしは、妻としては失格だわ。今年に入ってからずっと、わたしはあなたが帰ってくる日を知っていながら、ずっと実家に居続けたのですもの。あなたが帰る前にここに帰って、迎えるのが当然なのに。あなたはそれでなくとも、疲れて帰ってくるのというのに。でも、わたしは頑なになって、意地悪になっていたのよ。あなたが帰ってくるたびに、わたしたちを迎えにこさせて、パパやママに嫌味を言われながらも、お願いしている姿を見て、密かに喜んでいたのですもの。いやな女でしょう?」
 彼女は自嘲するように、かすかに笑った。
「でも、夏にあなたがとうとう迎えにこなかった時、わたしはすっかり動転してしまったわ。あなたは本当に、わたしに愛想をつかしてしまったのかしら。もうわたしなんか必要なくなったのかしらって。思い悩んでいるうちに、気がついたの。わたしはあなたに愛されている。それに、あなたのために間接的にしても、ひどい目にあったのだから、あなたに意地悪をする権利がある。でも、あなたはわたしを愛してくれているのだから、どんなことをされても、我慢してくれるはず――いつのまにかわたしは、そんな思い上がった気持ちを持っていたのだって」
「それは、君の思い上がりじゃないよ。本当のことさ」僕は妻の手を取った。
「僕はどんなことになっても、君を愛しているし、受け入れようと思っていた。それに、去年の事に関しては、やっぱり責任は僕にあるんだ。僕の対応も、まずかったと思う。君は一方的に被害者なんだ。もっと思いやりを持つべきだった。たしかに君の言うとおり、僕も自分の弁護にばかり一生懸命になっていた。そんなことより、君の怒りや悲しみに、もっと寄り添うべきだったと思う。でもね、夏に帰ってきた時には、かなりイライラした状態だったんだ。ほら、今度のアルバムが社会的に大問題になって、色々と騒がれていたからね。それで僕は、普段のツアー以上に疲れていたんだよ。あまりにまわりが騒がしいから、気持ちもささくれだっていたし、少し神経的にも、おかしくなりかけていたんだと思う。だから君がいないことに必要以上に腹を立てて、本当につまらない意地をはってしまったんだ。君が僕を拒絶するなら、僕もあえて望むのはやめようと思ってしまった。僕が悪かったんだ」
「あなたを責められないわ。悪いのはわたしよ。あなたがそんな状態にあることを、わたしは全然、考えなかったのですもの。知ってはいたのよ。あれだけ騒がれていたから……当然わかっているべきなのに、関係ないわ、なんて意地になって思っていたのよ。わたし、自分のことを要求するばかりで、あなたのことを全然思いやっていなかったのよ。わがままで自分勝手だったわ。本当にごめんなさいね」
「そんなことないさ。僕だって悪かったよ」
「いいえ。わたしが悪いの」彼女は首を振って、なおも繰り返す。
「とにかく、あなたがわたしたちを迎えにこないまま、ヨーロッパへ行ってしまった時には、本当に動揺したわ。わたしは今のあなたに必要とされていないのかも、このままでは本当に捨てられてしまうかもしれないって、とても心配になったの。でも、よけい怒ってもいたのよ。迎えにきてくれないなんて、あまりにひどいわって。パパやママは、良い機会だから別れろって、あからさまに言ったわ。今のあなたはお金をたくさん持っているから、ちょうど良い、慰謝料をうんととって、別れてしまえって。クリスの養育費ももらえば、あなたの妻でなくても、贅沢な暮らしが出来るって言うの。でもわたし、そう言われた時、とてもショックだったわ。あなたと別れる!? いいえ、それだけは考えられなかった。だってやっぱりわたし、あなたを愛しているのですもの。愛しているから、いろいろなすれ違いが苛立たしくて、わかってくれないなんて、すねたり怒ったり出来たのよ。前に別れた時も、そうだったわね。結局わたしは、あれからたいして進歩していないのかしら」
「そんなことはないよ」僕はそう繰り返し、笑って妻の手を撫でた。
 彼女はにっこり微笑むと、僕の手の上に自分の手を重ね、言葉を継いでいる。
「でも、わたしはやっぱり意地っ張りなのね。わかってはいたけれど、すぐに行動するほど、素直にはなれなかったのよ。この秋の間、ずっと迷っていたの。あなたがヨーロッパから帰ってくる前に家に帰っていようか、それとも今までどおり、実家にいようかって。また迎えにこなかったらと思うと恐かったけれど、自分からあなたに謝る勇気もなかったの。連絡もまったくなかったし、あなたはきっと怒っているのではないかと思って……」
 彼女はほっとため息をつき、話を続けた。
「それにわたし、あなたがヨーロッパからいつ帰ってくるかは、あの時にはわからなかったの、正確な日にちは。スケジュールの紙ももらわなかったし、連絡もなかったから。ヨーロッパへ行ったということは、知っていたけれど。全米の次はヨーロッパと、あなたが春にそう言っていたから。ヨーロッパツアーの終わりは十一月、あなたはそう言っていた。でも、何日かはわからなかった。秋の間、ずっと迷っていたわ。朝起きた時には、あなたが帰る前に家に戻って、ちゃんと謝ろうと思っていても、夜になると、夏に迎えに来てくれなかったし、連絡もくれない、その悔しさを思い出して、それにあなたが怒っていたらと思って、やっぱり帰りたくない、という気になってしまったりして、一日中くるくると気分が変わっていたの。でもね、実家にいると、たしかにパパやママは可愛がってくれるのだけれど、なんだか最近、わずらわしく思えるようにもなってしまったの。わたしももう二三才なのに、なぜこういつまでも子供扱いするのかしらと。もちろん、パパやママがわたしをそれだけ愛してくれているのは、わかっているのだけれど。でも、これでいいのかしらという気には、なってきたわ。クリスもほとんど外へ遊びに行くことは出来ないし、家の中でも、ちょっと元気が良すぎると、『ジョシーちゃん、静かにしましょうね』って、止めるのよ。パパもママも男の子を育てたことがないから、男の子の活力がどういうものかが、わからないのね。クリスはこの家にいる時のほうが、ずっと生き生きしていて、楽しそう。それにやっぱりこの子にも、父親が必要なのだろうし……そう思うと、切なくて」
 僕は言葉が見つからず、微かに頷いた。
「そんな時、テレビで『Green Aid21』を見たの」ステラはそう言葉を継いだ。
「ここのところずっと、音楽関係のテレビやラジオは避けていたのだけど。だって、あなたのことを見たり聞いたりすると、気分がぐらつきそうで。でも、あのイベントにあなたたちが出るなんて、知らなかったのよ。普通にコンサートだけをしているのだと思っていたから。パパとママも知らなかったみたいだったわ。ただ、パパとママがお気に入りの、アイルランドの大御所フォークロア歌手と、ドイツのオペラ歌手が出たから、それに王室の方もゲストにみえるというので、見ていたのよ。それで、そのフォークロア歌手の後にあなたたちが出てきた時、パパもママも本当に驚いていたわ。もちろんわたしも。不意打ちだったのですもの。『せっかく素晴らしい歌で感激していたというのに、次があの男のバンドだと? よくこんな中に、のこのこ出てきたな。実力者ぞろいの中に。とんだ恥さらしだ。どんな茶番になるのか、見てやろう』パパはそんなことを言っていて、ママも『まあね、聞きたくはないけれど、この後いくらでも耳直しはできるでしょう』と。でも二人とも、『なんだ? 歌手は女の子なのか?!』なんて言うのよ。わたしも最初は間違えたから人のことは言えないけれど、アーディスさんが聞いたら、気を悪くしそうね」
「いや、あいつは慣れてるから平気だよ。もともとわかっている人以外は、ほぼ全員初対面で間違えるからね」僕は思わず吹き出した。
「ええ、本気でパパは言うのよ。『あの男は、女の子のバックバンドをしているのか。ちゃらちゃらしおって。しかも、とんでもない美人だな』って。わたしは訂正したけれど。『パパ、アーディス・レインさんは、ああ見えて男の人よ。わたしも最初は間違えたけれど。そうでなかったら、わたしはもっと真剣に、ジャスティンにバンドを抜けさせようとしたわよ』と。『男だと、本当か? まあ、たしかにスカートではないが、どうみても女だろう、あれは』とパパは驚いていたようで、『それにしても、あの人たちの音楽なんて、聴く価値なんてあるのかしら。あんまりひどかったら、少しチャンネルを変えましょう』なんて、ママは軽蔑したように言っていたけれど。でも演奏が始まって、あの人が歌いだしたとたんに二人とも口をつぐんで、じっと画面を見つめていたわ。終わるまで。最後には、涙を浮かべて」
「そう。気に入ってくれたなら、良かったけれど……」
 僕は思わず苦笑した。しかしステラは今、何気なくとんでもないことを言ったな。エアリィが女の子だったら、もっと真剣にバンドを抜けるように僕に迫った?『あの娘を辞めさせるか、あなたが抜けるかしてよ』と言った、あの言葉を本気で? 元々僕らのバンドは女性不可ポリシーだったとは言え、彼が男で本当に良かった――。
 ロンドンとの時差もあって、体感的には深夜だったが、まったく眠さは感じなかった。ステラは話を続けている。彼女と心からの長い話が出来るのは、一年ぶりだ。
「ええ。パパもママも、あなたのことをほとんど知ろうとしなかったから、イメージ的には騒々しい、典型的なロックバンドの音。歌うことも女の子のことや破廉恥なもの、そう思っていたみたい。バンドのみなさんのイメージも、けばけばしい衣装を着て、メイクしてと、本当に典型的よ。そんなイメージだけで、あなたのことを嫌っていたようなの。でも出てきた時、みなさん髪は長いけれど、あなたも含めて普通の服装で、お化粧もしないで、それにみなさん、立ち姿がとてもきちんとしていて、きれいなの。それに音楽も本当に素晴らしかったから……最初の曲は、話題の最新作のラストでしょう。あれは広い野原と森の中で、日の光と風を感じるみたいで、あとの方の曲は、もっと広い風景……海と大地のイメージね。両方とも聞いていると、とても気持ちが浄化されるような優しさに満たされていって、悩みとかこだわりとか、そういうものもすべて洗い流されていくようで。でもそういう自然は壊されていきつつある、それに対して何か出来ないか、そんな思いも感じて。他の出演者の方も、それぞれの分野では有名な方だったけれど、あなたがたの前には、みな霞んで見えたわ。それは、パパやママもそうだったみたい。二人とも、あなたがたの演奏が終わった後、しばらく何も言わなかったわ。それから、パパがぽつりと言ったの。『ああ、まあ……思ったより、良かったな』と。ママは『でも、あの男が良かったわけじゃ、ありませんからね』と、付け加えていたけれど。わたしは、思わずくすっと笑ってしまったわ」
「そうなんだ……お義父さんお義母さんのロックバンドイメージは、典型的な八十年代だな。その時期がちょうど、お二人の若い時だっただろうから。僕らも髪は長いけれど、グラムやLAとは、少し違うからね」僕も思わず苦笑した。
「ええ、でもね、わたし、そこであなたの姿を、半年ぶりに見たから……ギターソロになって、あなたが画面に大写しになった時、わたしはドキッとしたの。ずきっとして、切なかったわ。ジャスティン……わたしはあなたに怒っていたけれど、長い間会えないと、やっぱり寂しい。あなたに会いたいって。でも、あの時のあなたは、なんとなく少し不機嫌そうな感じがしたから、ちょっと怖くもあったのよ」
「ああ、あの時は僕の心理状態も、かなり悪かったからね。その一週間後に、爆発しちゃったくらいだから。でも。君はわかってくれたんだね。僕は自分の心を表に出すまいとしていたのに……いや、自分でもほとんど意識さえしていなかったのに、君はテレビのちょっとした映像から、読みとってくれたんだ」
「ええ……なんとなくわかったわ」
 ステラは少しはにかんだように笑って、目を伏せた。
「そういえばね、最後に王室の方々があなたたちと握手しているのを見た時、パパやママはぽかんとしていわ。それで少し、パパやママもあなたを見直したようなの」
「そう。だとしたら、よかったよ。でも、僕が王子様と握手したからかい?」
「二人は、そういう関係が大好きなのよ。それにあなたたちが政府の音楽特使で、今や億万長者で、イギリスの王子とも握手した。そういうことがね。肩書きばかり重視するのよ。そういうところは、自分の親ながらイヤだわ」
 彼女も少しいたずらっぽく笑って肩をすくめ、話を続けた。
「でも、本当に決断しなければいけない。もう十一月だから――改めて、そう思ったのよ。あのイベントの後どのくらいで帰ってくるのかも、まったくわからなかったし、あなたが帰ってきてしまってからじゃ、遅いと思ったから」
 公式サイトにツアー日程は載ってるが、と思ったけれど、口には出さなかった。パーレンバーク家には、パソコンはないらしい。タブレットもスマートフォンも使わず、旧式の携帯電話しか持っていない妻にネットは無理だな、とすぐに思ったからだ。音楽雑誌にも載っているが、彼女はきっと知らないのだろう。




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