Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(17)




 周りの大混雑は、一時期ほどではないが相変わらずだ。救急車の出入りや一般の患者さんたちの妨げにならないように、という節度だけは保っているらしいのが救いだが、あまり人が多いのは入りにくい。よっぽど帰ろうかと思ったが、ぐずぐずしてたら、もっと目立つ。僕は決心して帽子をぐっと目深にかぶり、足早に玄関を通り抜けた。おそらくロビンとジョージ、ミック、それにロブやマネージメント事務所のスタッフは、僕がこっちに残っていることを知っているだろうが、エアリィが知っているかどうかは、わからなかった。よけいなことは耳に入れていないかもしれないから。
 ナースステーションで面会票を書き、病棟入り口にいる警備員さんの前を通って、ドアをノックすると、エアリィの専属セキュリティである、ネイザン・ジャクソンが中から開けてくれた。一瞬、彼のごつい巨体を見た時、僕はくるっと踵を返して戻りたい誘惑に駆られた。そうだ、あの時のロビンと今のエアリィの状況が、同じわけはない。彼が一人で病室にいるわけはないのだ、と今さらながらに気づいたが、もう遅い。
「ジャスティンさん!! どこへ行っていらしたんですか?」
 ジャクソンは目を見開き、驚きを押し殺したような声を出していた。
「あ、いや……」僕は一瞬言葉に詰まった。
「ネイト……誰か来たの?」
 エアリィが部屋の中から、小さな声でそうきいている。
「あ、ジャスティンさんが来たんだ」
 ジャクソンは振り返ってそう告げ、そして僕に小さな声でささやいた。
「彼にはあなたが行方不明だったことは、知らせてないんですよ」
「ああ、そうか……」
 僕は頷き、中へ入った。エアリィはパジャマの上から生成り色のカーディガンをはおり、半分起こしてあるベッドにもたれて、届けられた手紙を呼んでいる最中だったらしいが、僕を見ると、まるで幽霊でも見ているかのように目を丸くした。
「えー、ジャスティン! って、本物? それとも、生き別れの、双子の兄弟?」
「あのなあ……」いきなりのあいさつに、僕は思わず笑ってしまった。
「僕に双子の兄弟はいないよ。まったく、ごあいさつだな」
「だっておまえ、とっくにトロント、帰ったと思ってたから。明日帰るって言って、みんなでここに来てから……十日くらい、たってるし。またこっちに、来たの?」
 彼は読んでいた手紙の束(すべて開封済みで、便箋だけが束ねられて、クリップで留めてあるものだが、厚みが一インチくらいあった。他にもサイドテーブルに同じような束が積み上げられている)を下に置くと、僕の方へ向き直り、そう問いかけてくる。
「具合はどうだ?」僕はそれには答えずに聞いた。
「うん、だいぶいいよ。この部屋の、中くらいなら、歩けるようにも、なったし」
「そうか。良かったよ。そうだな。こうして見ていても、かなり具合は良さそうだって、僕にもわかるよ。話し方も、だいぶ普通に戻ったようだし。もう酸素テントもないんだな。マスクはあるけど」
「ああ、時々酸素補給しないと、まだ苦しいんだ。動いたあととか。でも、もうそんなに胸は、痛くないし、大丈夫だよ」
「じゃあ、俺はちょっと外へ出てくるから、何か買うものがあったら、言ってくれ。あ、ジャスティンさん、こっちの椅子をどうぞ」
 そこでジャクソンがベッドサイドにある椅子を、僕の方へ押しやった。
「あ、ミックスか、アップルジュースが、あったら、お願い」
 エアリィはそう言い、「わかった」とジャクソンは僕に目礼して、部屋を出ていく。
 僕も席を外してくれたセキュリティに「ありがとう」と感謝し、椅子に座った。
「ジャスティンは、なんか飲む? 冷蔵庫に、入ってるだろうから、適当に出して、飲んで」
「ああ、じゃあ、遠慮なく……」
 僕は部屋に備え付けの冷蔵庫を開けた。少し喉が渇いていたのだ。中にはミネラルウォーターとスポーツドリンクが数本。無糖のお茶。コーラとジンジャーエールがある。エアリィは炭酸飲料をあまり飲まないから、これは来客か付き添い用だろう。そして広口のペットボトルに入った、薄金色の水がある。その中には五、六個ほどの丸い金褐色の何かが入っていた。
「これ、なんだ? 何が漬け込んであるんだ?」
「これはね、僕の、栄養ドリンク。少し飲んでみる?」
 僕はついきれいな色につられ、冷蔵庫の上に重ねておいてある小さな紙コップをひとつとって、少しだけ中身を注ぎ、一口飲んだとたん、思わず噴き出した。びりっとした、電流のような激しい衝撃が走ったのだ。
「なんだ、これ!」僕はむせながら叫んだ。
「まるで電撃水だな」
「やっぱ、他の人が飲むと、そうなるんだなぁ」
 エアリィは少し笑いを含んだ声を出し、ほんの少し肩をすくめた。
「これ、ミネラルウォーターに、光の木の実を、入れた奴なんだ。エステルとアラン継兄さんが、一週間くらい前に摘んで、持ってきてくれたんだよ。もう実は、かなり落ちちゃってた、らしいけど」
「ああ、あれか。そういえば、マインズデールのシスターが言っていたっけな。おまえは光の木の実が好きだが、他の人は誰も食べようとしない。しびれるからって。思い出したよ。わかってるなら、人にすすめるな。僕で人体実験する気か?」
 僕は苦笑し、コーラのボトルを取り出して、再び椅子に座った。
「ところで、今はジャクソンが付き添っているんだな。アデレードさんは? 買い物か洗濯にでも行っているのかい?」
「ああ、アデル? 知らなかったっけ? 五日前に、帰ったよ。もう一応、自分のことはなんとか、できるようになったからさ。そろそろ帰ってやんないと、ロージィだって、ママが恋しいだろうし、いつまでもステュアートの家で、面倒を見てもらうわけにも、いかないから。ミル小母さんも、疲れちゃうだろうしね。それから、ずっとネイトがここにいて……ちょっと待ってて……」彼は酸素マスクをとって当てた。
「ごめん。まだちょっと、長いこと、一息に話するのは、少しきついから……」
「いや。僕の方こそ……おまえも無理して話さなくていいぞ」
「大丈夫。話すことも、リハビリだから。気にしないで。で、それでロブがアデルを、トロントへ送ってって、ロブは向こうで、溜まってる仕事片付けて、三日前に、戻ってきたんだ。アデレードも来週、またこっちへ、来るって。ロージィと一緒に…………ロブも送り迎えで、行ったり来たり、忙しいな。けど、僕もクリスマスには、帰れそうもないしさ。だから、こっちでお祝いしよってことに、なったんだ。この部屋、広いし。病院でクリスマスを迎えるのは、二回目だよ」
「もう一回は?」
「六歳の時にね。十四年前……誘拐犯から逃げる時、決死の大脱出で」
「ああ、あの時か。あの本に書いてあったもんな。八階から飛び降りたって。よく生きてたな。一階の張り出し屋根の上に落ちたとはいえ」
「昔から悪運は、強かったからね。頭から落ちないようには、したし、それに子供だと、体が柔らかいから」
「でも考えてみれば、おまえも本当にいろいろな目にあうな」
「今になっても、神様に、試されてるって、とこかな」
 エアリィはほんのかすかに、肩をすくめてみせた。
「なんか、すべてのことが、神様のテストだって、いう気がするんだ。いいことも……悪いこともさ。逆境は、神様が与えた試練だって、それは良く言われるけど……幸福もね。有頂天になって、それで悪影響が、出ちゃったら、バツって」
 そして一息入れてから、また言葉を継ぐ。
「バンドが大成功、したってことも、直接的には知らない、大勢の人に……好かれたり、憎まれたりすることも……時々、不思議な気もするけど、やっぱりそれも、テストなんだって、思えるんだ」
「神様のテスト、か。やっぱりおまえ、僕なんかより、よっぽど信心深いよ。義兄さんに聞かせてやりたいな。おまえを誤解している聖職者たちにもな」
「彼らに言わせると、やっぱ、僕なんかは、異端なんじゃない? だって彼ら……その信じる神が、イエス・キリストじゃなくちゃ、ならない、わけだし、聖書の教義や福音を信じなきゃ……いけないわけじゃない。そういう人たちに、『おまえの信じる神は、なんだ?』って聞かれたら……僕は、『少なくとも、イエス・キリストじゃないし、ヤハヴェでもない。いや、たぶん、その後ろに立つ……より大きなものだ』としか、答えようがないからさ」
「それはなあ。たしかに、まずいかもな」僕も苦笑した。
「それにしても、すごい手紙の量だな。いくら驚異的な速読ができると言っても、これだけ読むのには結構かかるだろう。おまえ、いちいち読んでるのか?」
「うん。ロブやモートンが、毎日ここに、持ち込んでくる分だけは。なんかぱっと見……あれ、これもう読んだっけ? って思うような、デジャヴな内容、多いけど。でもみんな、すごく真剣なのは……伝わってくるから。来週パソコン、もって来てもらって、公式も、チェックするつもりなんだ。なんかあの『祈りの本』……あれを下げて、更新しようって、思って。あれ自体は……凄い件数になってて、全部読もうとは、思わないけど」
「ああ、『Prayer Book』な。凄いことになっていたんだよな」僕は苦笑した。
「みんなの祈りが届いたんだと思うよ。おまえがあの時、死なないですんだのは」
「うん。それ……感じてた。みんなの、声も聞こえて、くるんだけど、他にも……真っ白の世界に、たくさんシャボン玉が飛んでくる、イメージだった。昏睡してた時。その中から、『がんばって』『負けないで』……『戻ってきて』『生きて』って……小さな声が、たくさん聞こえたんだ」
「そうなのか……」僕は不思議な気分になりながら、頷く。
「たまには『死ね』とか、『地獄へ落ちろ』とかも……来るけどね。イメージ的には、黒い針。それが、シャボン玉を壊すんだけど、シャボン玉のほうが、圧倒的に、数が多いから、針にくっついて、取り込む感じ。なんか……管理者さんの話だと、たまに、そういう書き込みも、混ざってきたらしいね。見つけ次第……削除して、アカウント停止、してたって、言ってたけど」
「ひどいな。祈りに呪いを混ぜるなんて」それしか言葉がない。
「仕方ないよ。まだ地球は……闇が、多いから。手紙だって、こんなのも来るんだ。こっちは……ホント、あまり読みたくないけど」
 エアリィは脇においてあった便箋の束を差し出した。あまり分厚くはないが、中に書かれているのは辛らつな言葉。罵倒と言ってもいい。
【しぶとすぎるだろう、もう一回死ね、男女め!】
【再起不能おめでとう。余生をのんびり過ごしてくれよ】
【もう戻ってくるな! ○×■……】
 いや、これ以上は、言葉にはとても書けない。人間として、よくもこんなことを平然と書けるものだと、憤慨するしかない。
「こういう手紙って、普通はマネージメント側で握りつぶすものだろ? なんでおまえのところに届けるんだ?」
「本当は、手紙は開封しないで、選別もしないで、そのまま渡してくれって……最初は、頼んだんだ。良いことだけしか、知らないって言うのも……片手落ちな気がして。でも、それはダメだって、言うから……封筒に剃刀とか、粉とか、変なものも、入ってることが、あるらしくて……じゃ、とりあえず、悪いものも、渡して、中身だけでもって」
「それにしても、わざわざアンチに触ることはないだろう。傷つくだけだぞ」
「うん。でも、万人に好かれるってのは、まずありえないわけだから……多少敵を作ってしまうのは、仕方ないかな、とは思うんだよ。それに、アンチには触らない方が、精神衛生的には、いいけど……無視してばっかじゃ、いけないのかもって、思うんだ…………僕のことを自分以上に、心配してくれる人もいるし、殺したいほど……憎んでる人もいる。これだけは、ちゃんと認識しておこうと、思ったんだ。でも、なぜだろう、僕はその人たちのことを、何も知らないのに………………向こうだって、僕のことを直接的には、知らないはずなのにって、ちょっと不思議な気が、するけどね」
「うん。たしかにそれはそうだな。今だって、おまえのことを心配して、あれだけの人たちが病院に来ているんだ。あれから一ヶ月以上たっているのにな」
「ああ。心配してくれるのは、ありがたいと思うよ。自分の人生まで……僕なんかにゆだねないでって、言いたくなるような手紙も、けっこう来るけど。でも……やっぱり感謝してるよ。ジャスティンも、知ってると、思うけど……『ア・リトルグレイス基金』のこと」
「えっ?」十日近くマネージメントとは完全に没交渉になっている僕は、そう言われてもわからない。
「知らない? あれ? ロブが言ってたから、おまえも知ってるかと、思った」
「なんなんだ、それって?」
「僕が個人的に、援助してた、子供たちの施設が……ほら、あまり秘密にする、必要はないって、春くらいに公にしてから、一般の寄付が、集まり出してたんだけど、それが十一月から…………ものすごい勢いで、増え始めたらしいんだ。トータル、えらい金額になりそうなんで、基金として、法人化しておこうって、マネージメントサイドから、申し入れがあってさ……一週間くらい前に、発足したんだ。その急に、募金が増えた理由ってのが、僕のために、その意思を継ぎたいって………………そう言うらしいんだ。なぜそこまでって、ちょっと戸惑うことも、確かなんだけど。でも、それだけ寄付が集まれば、子供たちの、ためにはなるから、少なくとも、僕がしてきたことは、無駄じゃなかったって…………わかってくれようとする人が、多くいれば、草の根レベルでの意識も、少しずつ変わっていくかもって……そう思えてきたんだ」
「おまえは今に世界を変えるかもしれないって、昔ローレンスさんが言っていたよ」
 僕は頷いた。「だからこそ、反作用も強烈なんだろうけどな。ニコレットも言っていたよ。おまえは神様だって。自分の人生を変え、指針を与えてくれる教祖さまだともね」
 うっかりその名前が出てしまった。あっと思ったが、もう遅い。エアリィはちょっと怪訝そうな顔になり、そしてやっぱり問い返してきた。
「誰、ニコレットさんって?」
 思わず顔が赤らむのを落ちつけようと、僕はコーラを一息に飲み干した。
「これから説明するよ、エアリィ。実はおまえの意見も聞いてみたかったんだが、なかなか言い出すきっかけがなかったんだ。ちょっと勇気もいるしね。もっともおまえに恋愛だの、人間関係のもつれは、わかるかなあ、という危惧はあるが」
「うーん、まあ、僕も、そういうのは、あまり得意じゃ、ないけど……そういう類の、話?」
「ああ。まあ、そうなんだ。おまえは最初に、僕がトロントからまた来たのかって聞いたよな。でも、違うんだ。僕はあのままずっとロンドンにいたんだ。僕はちょっとファンの子の一人と、その……いろいろあって。彼女の名前がニコレット・リースっていうんだ」
 僕はすべてを話した。妻との不仲、現在の家庭状況、そして以前会ったことのあるニコレットと再会して、彼女に逃避してしまったことを。
「へえ。じゃあ今、ジャスティンは……そのニコレットさんっていう、ファンの子の、ところにいるんだ」エアリィは驚いたような表情で微かに首を振り、そして聞いてきた。
「で、いつ、トロントに帰るの? それとも、もう帰らない?」
「帰るよ!」僕は思わず即答した。
「いつ?」
「それがわかれば、苦労しないよ」
「なんでさ」
 本当に不思議そうにそう問いかけられて、僕は苦笑せずにはいられなかった。やっぱり恋愛にほとんど無関心なエアリィに、もつれた恋愛問題など相談してもわからないのだろうな、と。しかしここまで来て『もういい』というのも中途半端だ。
「おまえさ、僕の状況を本当に理解しているか? ステラとは去年の事件以来ギクシャクして、冷戦状態にあるけれど、僕はできれば彼女と仲直りして、もう一度やり直したいんだ。でもつい正面から向き合うのが怖くて、ファンの子に逃げてしまった」
「うん。それはまあ、わかったよ、なんとなく。でも……正面から、向き合わなきゃ、ちゃんと解決しないと、思うけど。奥さんとの仲は」
「それはわかってるよ」僕は苦笑をかみ殺し、頷いた。 
「僕が意気地なしだったんだ。それは認める。だから間に合ううちに、帰りたいんだ」
「じゃ、早く、帰ればいいのに」
「だ、か、ら、ニコレットのことも放っておけないだろ」
「うん。まあ……そうだね。でもその子は、ジャスティンに、奥さんいること……知ってるんだよね? ファンなら」
「ああ。知ってはいるよ」
「じゃ、それは、彼女の責任でも……あるんじゃない?」
「おまえにかかると、本当に身も蓋もないな」僕は苦笑を抑え切れなかった。
「でも彼女の責任以上に、僕に非があると思うんだ。僕は自分の現実逃避に、彼女を利用してしまった。僕は彼女に対しても、責任があるんだ」
「それなら、無理して別れなくても……いいと思うけど。その子に、奥さんと話し合ってくるって、言って、一回帰れば。その子も……奥さんの存在、知ってるんだし」
「で、また戻ってくるって? いや、それはないだろ? 本当に二股もいいところだ。それでステラと仲直りなんて、どんな顔をして出来るっていうんだよ。それにニコレットを愛人にしておくなんて、そんな非人道的なことは出来ないよ」 
「それって、非人道的? なんで?」
「おまえなぁ……やっぱりおまえに恋愛問題なんて、相談するんじゃなかったよ。本当に恋愛オンチなんだからな。アデレードさんが気の毒だ」
「恋愛オンチって、ひどいな……って、笑わせないで、痛いから」
「ごめん」僕も思わず笑った。
「でもなあ、真面目に言うなら、不誠実だと思うんだ。結婚していながら、他の女性と関係するのは。それにその相手にも、責任を取れない。女性をどっちつかずの状態に放っておくのは良くないと思うんだ。おまえのお母さんだって、リードさんとは事実婚だったから、いろいろ苦労したわけだろ? アデレードさんだってさ」
「まあね。でも……アデルも?」
「ああ、彼女、かわいそうだったんだぞ。おまえは知らないだろうが、おまえが死にそうになって、彼女は必死にトロントから駆けつけてきたのに、病院側じゃ最初、彼女が正式な妻じゃないってことで、なかなか付き添いはおろか面会も許可しなかったんだよ。それで、さんざん泣いてたんだ」
「ええ、本当?」
 彼は意外そうな顔で、一瞬考えているような表情を見せたが、再び小さく首を振った。
「けど、まあ、それは、後で考えるよ。今は……ジャスティンの話、だから」
「まあ、そうだな」
「んー、なら、そのニコレットさんとは……別れたらいいと、思うけどなあ」
「ずいぶん簡単に言うな。でも、そうもいかないんだよ」
「どうして? 彼女に、子供が出来た、とか?」
「ち、違うよ!」僕は大慌てで否定した。
「ああ、まあ、九日じゃ……わからないか」
「そうだろうが、そんなことには、なっていないよ。これからだって、ないと思う」
「ホントに、大丈夫? お祖父さんなんて、結構何人も、隠し子がいたらしいけど……母さん以外に三人とか、そんな話があるんだ。誰かは、知らないけど。おまえも……本当に大丈夫って……絶対言える?」
「大丈夫だよ!」
 僕は少し赤くなりながらも、強く請け負った。そう、それはありえない。ちゃんと避妊したはずだし、彼女は三日前から生理中なのだから。とはいえ、それを口に出すのは憚られる。僕は頭を振った。
「アリステアさんはどうか知らないけれど、僕はそんなことにはならないさ。ちゃんと気をつけてきたよ」
「そう。だったら、べつに問題、ないと思うけど」
「そう簡単に言わないでくれよ。僕のやったことは、簡単にバイバイですませられることじゃないんだよ。それにステラにだって、謝ってすむ問題でもないし」
「うーん、でも結構、ありそうな気がする。『僕が、悪かったよ!』…………『いいえ、わたしが、悪かったのよ!』なんて、感動のシーンで、抱き合って……ハッピーエンドって、ジャスティンたちなら、すごくやりそう」
「そう簡単にいけば、僕も苦労しないよ!」
 僕は思わず吹き出しながらも、頭を振って抗議した。
「それにニコレットのことにしても、考えなきゃならないんだ。どうしたらいいか」
「……その子に対して、何をそう、迷ってるのか、僕には……わかりづらいんだけど」
「おまえ、もう一回説明しなきゃだめか?」
「いや、状況は、わかってるけど。だから……わからないんだし。ジャスティンは、その子のことは、本心では……どう思ってるわけ?」
「ニコレットのことは好きだよ。たしかに。でも、永久的なパートナーにはなれないと思う。彼女は僕に幻想を見過ぎるし、僕もなんだか我が家にいるほどには落ち着けないんだ。でも彼女と別れて家に帰ると言うことは、彼女を傷つけてしまうから、それでためらっているんだ。僕はとんでもなく人でなしなことをしてしまった。一人の純真な女の子を弄んだ。そしてぽいっと捨てるなんて、とてもできないよ」
「それは……捨て方次第だと、思うな」エアリィは少し間を置いて、そう言った。
「アデルの元彼氏みたいに……もうおまえには、用はない、なんて……ひどい捨て方しなきゃ、大丈夫じゃない?」
「そんな捨て方したのか? アデレードさんの、元の彼氏」
「らしいよ。僕は、直接は知らないけど。テレビ俳優で、アデルはそいつと、二年付き合って……最初の子供を、泣く泣く堕ろして。彼女、子供できやすい体質、みたいで……それからずっと、付き合ってる間は、用心してピル飲んでた、言ってたけど。そいつのために……お偉いさんやスポンサーと、関係させられて……それでも、その人のためなら、って……尽くしたのに、最後はポイ捨てだって。テレビ局の重役の……娘と結婚して。男、見る目ないなぁ、って言ったら、すごく怒ったけどね、彼女」
「なんというか……しかし、ひどい話だな」
 僕は思わず首を振った。アデレードがなぜ下世話なファンたちに『誰とでも寝る女』と言われ、あば○れと呼ばれていたのか、今までわからなかったが、今は少し納得できた。きっと彼女のその行為が、変形した形で、どこからか漏れたのだろう。インターネットの海の中で。彼女は愛する人のために精一杯尽くしたのだろうが、少しベクトルが違う。というか、そんなことを女性に強要する男は、たしかにクズだ。そこまでして愛する価値などない。男を見る目がなかった、というのは、間違ってはいないのだろう。同時にそんな話を、あっけらかんと僕に言ってしまうエアリィにも、きっと性的タブーとかそういう意識がないのだろうな、と思う。まあ、こういう奴なのはわかってはいたが。
「でも、ジャスティンなら、そんな別れ方、しないと思うし」
 エアリィはそう言葉を続け、僕は即座に首を振った。
「あたりまえさ!」と。
「なら、いいんじゃないの……あ、ちょっと、待って」
 少し話が長すぎたのだろうか。途中でも時々マスクを当てて一息ついていたが、今回は少し長めに沈黙し、肩で息をしている。やっぱり、まだまだ回復には、ほど遠いのだろう。あれだけの傷を負って、まだ一ヶ月ちょっとしかたっていないのだから。この時期に彼に相談を持ちかけるなんて、いくら切羽詰っていたとはいえ、配慮が足りなかったなと悔やんだが、もう遅い。
 エアリィはマスクを戻すと、再び小さく頭を振り、言葉を続けた。
「ごめん……でも、やっぱり僕には、わからないかも。なんで、傷つけるのを、そこまで怖がるのか。ってかどの道、結局誰かを、傷つけないと、解決……しないんじゃない? どっちに、ころんでも。それに、治らない傷なんて、たぶんないし、傷をできるだけ小さく、っていうのは可能だし。どっちもキープが、できないなら……どっちか切るしか、ないわけだし。友達に戻るってのも、なしなら」
「そうなんだろうな……」僕はしばらく考え込み、頷いた。
「このままではいけない。それは確かなんだ。僕が動かなければ、何も解決しない。ステラとはちゃんと話し合わないと、根本的な解決は出来ない。たとえ彼女に拒絶されても。そうだ。もし彼女に拒絶されて、最悪の結果になったとしても、僕はニコレットと結婚はできない。そういう感情ではないし。それなら、いつまでもニコレットのところにいることは、僕のためにも彼女のためにも、良くないんだ。本当に彼女のためを思うなら、僕は彼女の元から立ち去らなければ。これ以上傷を大きくしないうちに。ニコレットには誠意を尽くして、わかってもらうしかない。僕の帰るところは、ステラのもとしかないんだ。彼女とも話し合って、誤解を解いて感情のもつれをほぐして……」
「良かったね、結論が出て」エアリィは少し笑っていた。
「ああ、ありがとう。まあ、おまえは本当に恋愛オンチなんだなって痛感はしたが、単純な真実を教えてくれたよ。僕に足りないものは、勇気なんだって」
「いや、そんなこと、言った覚え、ないけど?」
「間接的にな。このままずるずる行くのは最悪だ。ニコレットと別れる勇気、ステラと話し合う勇気。それが必要なんだって、わかったから」
 僕は大きく息をついた。やっと、心の迷路から抜ける指標を見つけたような気がした。

 ドアをノックする音がした。入ってきたのはロブだ。ここに来た以上、スタッフと鉢合わせする危険性があることは、わかっているべきだったが(実際、のっけからジャクソンと鉢合わせしたし)、さすがに突然ロブの姿を見た時、僕は少々あわてた。悪戯をして逃げ回っていた子供が親に見つかった時のような、ばつの悪さだ。でも今さら逃げたり隠れるわけにもいかないし、僕ももう帰ることを決心したあとだ。お説教は仕方がない。
「やあ、ロブ……久しぶり。心配かけてごめん」
 僕は苦笑しながら彼に挨拶をしたが、その時のロブの顔といったらなかった。口をあんぐりと開け、まるで幽霊でも見るように、しばらく黙って僕を眺めている。頭の天辺から爪先までたっぷり一分ほど見つめたあと、やっとつまったような声で口を開いた。
「ジャスティン! 本当におまえなのか!?」
「あ……ああ。本当に迷惑をかけてごめん、ロブ」
 彼もやっと言語能力を回復したようだ。そのとたん、叱責が飛んできた。
「ごめんですむか! まったく、おまえという奴は! 連絡先も言わずに消えるなんて。しかも携帯の電源をずっと切ったまま行方をくらまして、もう十日近くになるんだ。こっちはどれだけ気を揉んだか。今の状況は、普通じゃないんだぞ! おまえにまで災難が及んだらと、毎日気が気じゃなかったよ」
「本当にごめん。僕はどうかしてたんだ」
「だがまあ、無事でなによりだ。さっきドアのところにいたジャクソンが『今、興味深い見舞い客が来てますよ』と言っていたから、誰かと思っていたが、まさかおまえだったとはな。これほど、ほっとしたことはないぞ。みんな心配していたんだ。一週間前から例の探偵がおまえを探そうとしていたが、かなり手こずっていたところだった。なにしろ手がかりが、ホッブスが言っていた『雨の中で絵を描いている女の子のところへ行くと言っていました。オレンジのレインコートをすっぽり着ていたので、顔はあまりよく覚えていません。名前は、言っていたんですが聞き損ないました。もしかしたらケイトだったかもしれません。アパートで、一部屋空いているから来ないかと言っていました。覚えているのは、それだけです』しかなかったからな」
 公園でニコレットと出会った時、ホッブスは僕らから少し離れたところにいたから、細かい会話までは、おそらく聞いていなかったのだろう。特に最初の部分は。僕が彼女をホテルの部屋に誘ったあたりから注意して聞いていた感じだから、その前に呼びかけた彼女の名前は、彼にはほとんど聞きとれなかったわけか。それで、間違えた名前を告げた――もともと情報がろくにない上にそれでは、凄腕探偵といえど、なかなか探せなくて当然だ。おまけに僕は彼女のところにいる間、今日ここに来るまで、外出もしなかったのだから。
 ロブは安堵の表情で僕を見、そして付け加えた。
「ホッブスは、ずいぶんしょげていたぞ。まさか、おまえが嘘を言うとは思わなかったと。信じてしまった自分が甘かった。おまえに逃げられたのは自分の責任だから、やめるなんて言っていたくらいだ」
「え? それは知らなかった。悪いことをしたな。向こうへ帰ったら、彼には謝るよ。やめるなんて、思い止まってくれと頼まなければ」
 マイク・ホッブスには本当に悪いことをしたと、その時初めて、心からそう思えた。邪魔にして、だまして逃げてしまって。彼はきっと傷ついただろう。セキュリティたちは僕らを守るために、いつも身体を張ってくれているというのに。
「そうだな、休み中に一回会って、話してやってくれ。彼も責任感が強いし、それにおまえに信頼してもらえなかったことを、悲しんでいるんだ」
 ロブはぽんと僕の肩を叩いた。
「ロビンもミックもジョージも、たびたびおまえが見つかったかって、連絡してきていたし、本当に気掛かりな九日間だったよ」
「でも、ロブ。どうしてジャスティンが、そんな長いこと、行方不明だって……僕には、教えてくれなかったのさ。もし途中でジャスティンに、帰られてたら、僕は知らないから……普通に帰しちゃう、とこだったよ」
 エアリィが苦笑いに近い表情で、そう抗議している。
「おまえには、よけいな心配をかけさせたくなかったんだよ。回復に専念してもらわないと、困るからな。それに大丈夫だ。ジャクソンがずっと、ドアの外にいたようだから。僕が来て、今買い物に行ったぞ」ロブは笑みを浮かべて、宥めるように答えていた。
「ああ、じゃ、買い物行くって、言ったのって、違うんだ。そうか……うん。まあ、それは、ありがたいんだけど……僕だけ蚊帳の外って、なんかやだな」
「すまん、すまん。しかし本当に、ここでジャスティンに会えたのは、なによりだったな。良かったよ」
「みんながそんなに僕のことを気にかけてくれていたのに、本当にごめん。謝るよ。もう絶対、こんなことはしないから」僕はそれだけしか言葉がなかった。
「当然だ。二度もやられたら、こっちの神経がもたないぞ!」
 ロブは即座にそう声を上げた。
「そうそう、おまえの奥さんからも、何度か問い合わせがあったぞ。おまえのことをずいぶん心配しているらしい。『まだ、帰ってきてないんですか? 行き先はわかりませんか?』と。さすがにこっちも、女の子と一緒らしいとは言えなくて、何もわからないとしか、答えられなかったよ」
「ステラが……?」
 妻が――僕を心配して問い合わせてくれた? ロードが終わっても家に帰ってこなかった彼女が。ステラは心を和らげて、僕との和解に応じようとしてくれているのだろうか?彼女は今も僕を愛してくれているのだろうか? 
「あ、そういえば、アデルも、言ってたっけ。ステラさんが、うちに来て……いろいろ、話したって」エアリィがそこで、思い出したように言葉を挟んだ。
「えっ? おまえのうちにステラが?」
「うん。そう言ってた……彼女に、すごくお世話になった。帰ったら、お礼、言わなきゃって。それで、ステラさん……家に帰るって、言ってたらしいよ」
「ええ! そういうことは、もっと早く言ってくれよ!!」
「だって僕は……事情、知らないから。家に帰るって、それ、普通だよねって、思って。アデルもあまり、細かい話は、しなかったし……ああ、そっか……さっきジャスティンが言ってた話……ああ、納得した。そういうこと、だったんだ」
「遅いぞ、納得するのが。おまえ頭の回転は速いんだろうが!」僕は苦笑した。
 でもステラは本当に、家へ帰っているのだろうか。どういう状況で、どういう文脈での発言だったのか、それだけでは良くわからない。家とは、実家のことかもしれないし。
 すべての疑問の答えは、まもなく出るだろう。明日、トロントへ帰った時に。その前に、苦しい仕事が残っている。ニコレットに僕が明日帰ることを伝えなければならない。気の進まない仕事だが、どうしてもやらなければ。その方が絶対に彼女のためだ。彼女の最善を願って、苦しい一歩を踏み出そう。

 ニコレットは夕方遅くになって帰ってきた。それを待って、僕は提案した。
「今日は外で食事をしようよ。君は疲れているだろうし、僕もいい気分転換になるから」
「え?」彼女は驚いたようだった。
「外に出ても、いいんですか?」
「大丈夫だよ。今日も外出してきたしね。『Eureka』をロンドンでミックスダウンしていた時に、よく食事に行っていたレストランがあるんだ。良い雰囲気の店だし、イギリスにしては食べ物もおいしい、なんて言ったら、イギリス人の君には失礼だね。でも本当に良い店なんだ。そこへ行こう」
「ええ……」
 僕たちはその店へタクシーで行き、ディナーをとって、夜遅くに帰ってきた。
「本当に、いいお店でしたね。お料理もおいしかったし、とても楽しかったです」
 ニコレットは目を輝かせていた。
「あなたと一緒に外でお食事をするなんて、なんだか夢でもみているみたいでした」
「僕はせめてお礼がしたかったんだ、ニコレット……」
 僕はためらったあと、思い切って言葉をついだ。
「いろいろ今までありがとう。僕は明日帰るよ」
「え?」
 彼女はぽかんとしたように、目を見張った。僕の言葉の意味がわからなかったように、驚きの表情でじっと見つめている。その眼差しは、百の言葉で責められているよりつらかった。僕は思わず床に膝を付き、彼女の手を握りしめた。
「ごめんね。君には本当にすまなかった。君に対してひどいことをしたね。僕に償えることなら、どんなことでもするよ。本当にごめん」
「謝らないでください、ジャスティンさん。立って……」
 彼女は呟くように言った。その瞳から涙があふれて、頬を濡らしている。
「わかってました。いつかこの日が来ることは。ただ、あんまり突然だったから、ちょっとびっくりしたの」ニコレットは涙を拭い、顔をあげた。
「わたし、あなたに感謝しているんですよ。おかげでとても楽しい夢が見られました。そうよね。夢はいつか醒める時が来るのよね。今がその時なのね。わたしも実は、思い始めていたの。こんなことは、いつまでもは続かないって。あなたはいつか、自分の世界へ戻っていってしまう。そうしたらわたしも……現実に戻るのだろうって」
「そう。君は君の生活に戻って、いつか、本物のすてきな恋人を見つけてほしい。僕みたいな奴じゃなく、君を幸せにしてくれる、本物の男をね」
「ええ。明日からわたしも、現実に戻るのね。そうね。その方がわたしにはふさわしい。あの晩あなたと話していて、気がついたの。わたしは有頂天になって、夢と現実を一緒にしてしまっていたのかもって。あなたは夢の人だった。とうてい、一緒にはなれない……わたし、はっきりそう思ったんです。AirLaceというバンドのファンは、これからも死ぬまでずっと続けるつもりですが、あなたとのことは、夢で終わらせた方がいい。この夢がいつまで続くかわからないけれど、と。でも覚悟はしていたけれど、こんなに急だとは思わなかったから、心の準備がまだ足りなかったのね。ごめんなさい、泣いたりして……」
「そんなことはないよ。悪いのは僕の方さ。君に泣かれるのは、つらいよ。許しておくれ」
 僕はニコレットの手を強く握った。その手は小刻みに震えている。秘められたその悲しみに、僕は胸をかきむしられた。
「君には迷惑をかけたね。この償いはきっとするよ。どうしたらいい?」
「ありがとう。でもわたし、あなたに償いなんて、してもらいたくありません」
 ニコレットは首を振った。優しくもきっぱりとした口調だった。
「わたしは何も失っていないわ。それに今なら、夢も失わずにすむんですもの。本当に楽しい夢が見られたから。だから、あなたにそんなことしていただく理由はないのよ。でも、そう……二人の生活の記念に、どうしてもあなたがわたしに何かくれたいっておっしゃるなら、一つだけください」
「いいよ。何でもあげる。何がほしいの?」
「来年、キャンセルになった最終公演の、振替をするんですよね。そのチケットを二枚ください」彼女は涙の中から気丈に微笑もうと努めているような表情で、僕を見上げた。
「ここにチケットだけ送ってください。住所は後で書いておきますから。それまで、引越しはしないでおきます。バックステージパスはいりません。わたしは昔どおりの一ファンに戻って、ステージの上のあなたがたを見ています。個人的には、もう会いにはいきません。その時までに、本当の恋人を、さもなければ友達を連れていきますから」
「わかった。絶対に送るよ」僕はニコレットの手を両手で握った。
「本当にありがとう、今まで」
「わたしこそ……」彼女はささやくような声を出した。
「わたしのような女の子に夢を見させてくれて、本当にありがとうございました。あなたのことは一生忘れません……」
 彼女の眼から、再び涙があふれだした。二つの透明な細い流れが頬を伝い、ぽたぽたと落ちていく。その静かな涙は、鋭い錐のように僕の心に食い入った。




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