Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(16)




 彼女のアパートに転がり込んでから、一週間が過ぎた。ニコレットは勤めをずっと休み、身の回りの世話をしてくれる。掃除や洗濯をし、おいしい食事を作り――そう。確かに彼女の手料理はおいしかった。イギリスの料理はまずいというのは、たぶんに例外もあるのだろう。淋しい我が家に帰るより、彼女とこうしているほうが、よっぽど幸せだと思えた。僕は安楽な微温湯に浸かるように、ゆったりとした快適な、そして無為な生活に身を沈めていった。その間、ほとんど何もしなかった。ギターはホテルに置いてきてしまったし、本といっても彼女の蔵書はロマンス物が多く、趣味に合わない。でも彼女が僕の好みそうな本やゲームを買ってきてくれたので、それを読んだりゲームをしたり、テレビを見たりして日を過ごした。彼女は家の仕事をする傍らで、一緒にゲームをしたり話したり、僕をモデルにして新しい絵を描いたりしていた。
 その間に、彼女のことを色々と知った。ニコレット・リースは今二十歳で、三月五日生まれ。両親はレスターで大きな商店を営んでいて、比較的裕福であること。彼女も四才違いの姉マーガレットとともに、経済的には何不自由なく育ったが、美人で利発で朗らかな姉といつも比較され、非常にコンプレックスを持っていたこと。もともと内気で引っ込み思案だった彼女はそれですっかり傷つき、ほとんど友達もなく自分の殻に閉じこもって、少女時代を過ごしたこと。そんなことを、話してくれた。そんな彼女の心の扉を開いたのは、僕たちの音楽。特にあの空前の出世作となった『Children for the Light』との出会いだったということも。
「わたし、子供のころから音楽は好きで、クラシックからロックまで、いろいろと聞いていたんです。あなたたちの音楽も、セカンドシングルの『Tell Me』をラジオで聞いて好きになって、次の日にデビューアルバムを買ったんです。それがすごく良かったから、セカンドが出た時も買ったし」彼女は僕にそう語った。
「だけど正直に言えば、最初はわたしのお気にいりの一つにすぎなかったんです。外国のバンドだし、かなり若いし。わたし、エアリィとは同じ年なんですよね。あの人の方が誕生日は三ヶ月遅いし、あら、超美形だけれど、残念ながら年下、なんて思ってしまいました。当時のわたしも十四か五でしたので、同い年はありえないと。それに、どう見ても超可愛い女の子に見えてしまうし。あなたのことは格好良いし、三歳上だし、良いな、と思ったのですが。でも、ファーストは本当に好きなんですよ。特に『Tell Me』と『 Little Vigilantes』『Truer Words』『Escape』、『Indifferent Circles』『Shades of Green』それに『A Spirit in Calling』がとてもお気に入りで……あら、十一曲中七曲って、相当なパーセンテージですね。残りの曲も、けっこう好きです。ライヴの方が、断然良いですけれど。ファーストの時って、本当にみんな若いから。エアリィ十四だし。声がすごくきれいだけど可愛いって感じで、今聞くと。最近あまり初期曲はやりませんけど、『Children〜』ツアーのDVDで聴いた時には、本当にあの時には感じなかった感情が生々しく感じられて、『Escape』とか『A Spirit〜』とか『Shades〜』とか、泣けるんですよ、本当に。本当に悩める十代の真情ずばりっていう感じで。CDもとても良かったけれど、ここまで感動はしなかったです」
「ああ。そうだね。ファーストの曲は、そういう主題が多いから。大人の世界観とのギャップというか。最初に見た時には、『ええ、おまえ、こんな詞書くんだ』って、意外だった。まだ知り合って一年もたっていなかった頃だしね。彼の内面の深いところまでは、知らなかったんだ。『Children〜』ツアーのDVDか。マディソン・スクエア・ガーデンで撮ったやつだね。あの頃はもうエアリィも覚醒しているから、スタジオ版とは違ったデリバリーがあったんだろうね」
「覚醒……って?」
「ああ、彼は『Children〜』製作前にモンスター化したから。才能的に。大脱皮したって言うかね。そしてバンドもモンスター化したんだ」僕は肩をすくめた。
「それは、わたしも思っていましたが……なにか、バンドで特別訓練を受けたっていう話は聞いていましたけれど。そう、たしかにセカンドとサードのギャップは凄いですよね」
 ニコレットは首をかしげた。
「セカンドアルバムは、わたしとしては少し期待はずれかな、と思いました。デビュー作が良かった分、期待値が高すぎたのかもしれませんが。なんというか……曲は良いんだけれど、物足りない。ファーストの時より、ぐっと来るものがない。すごく……なんていうのか、ストレートすぎる。そんな感じがしたんです。『Take into the Flame』と『Round and Round』、それに『Silent Cry』は好きでしたけれど。ごめんなさい」
「いや、僕らにとっても、セカンドは思い切り不本意だからね。君があげたその三曲以外、僕らも好きじゃないよ。その三つが、元の形をある程度残せた曲なんだ。三曲だけはそうして良いと、プロデューサが言ったんだ。それでね」僕は肩をすくめた。
「あのプロデューサーは、大戦犯ですよね。セカンドの曲は、ライヴの方が断然良いです。特にオルタネート・ヴァージョンが。去年のツアーでタイトルトラックのオルタネート・ヴァージョンを聞いた時、本当に感動しました。ああ、本当はこんなに凄い曲だったのに、なぜアルバムで出さなかったんだろうって思いました。今でも、セカンドアルバムは三曲以外、あまり聞いていませんね。ライヴヴァージョンばかり聞いてます。特にライヴで披露されているオルタネート・ヴァージョン、あれが動画サイトに上げられているんですが、そっちで出してくれたらどんなによかったか、と本当に思ってしまいますね」
「ああ。セカンドアルバムは、オルタネート・ヴァージョンが真の形なんだ。僕らが作った、最初のデモだよ。プロデューサーに、全面的にやり直しを命じられる前のね」
「本当に聞けば聞くほど、あのプロデューサー許せませんが……今はもう過去の人になってますね。良い気味だわ。でも当時のわたしは、そんな事情は知らないから、なんだか期待はずれ、という感情だけが残ったんです。それにツアーが始まったと思ったら、タクシーの事故で、あっという間に終わってしまって。ヨーロッパツアーもキャンセルになったんですよね。一応チケットとっていたんですが。それから一年近く音沙汰がなかったから、わたしもかなりさめかけていました。あなたがたが、わたしの命を救ってくれるまでは」
「えっ、僕たちが君の命を救ったって?」僕は驚き、問い返した。
「どういうこと? いつだい? まるで覚えていないよ」
「ええ。あなたがたは、知らなくて当然ですよ」
 ニコレットはちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わたしがもうすぐ十七歳になるころのことなんです。きっかけはもう少し前になるんですが、まだレスターで家族と住んでいたころです。わたしは子供のころから友達が少なくて、本当に仲のいい子がいなかったんですが、新しい学年になってしばらくすぎた十一月の終りごろから、わたしにとても親しげに声をかけてくれる女の子がいて、その子と仲良くなることができたんです。『私たちは親友よね』と彼女は言い、わたしも嬉しくて『もちろんよ!』と返したものです。彼女は美人で明るくて、はちみつ色の巻き毛がとてもきれいで、わたしはこんなに素敵なお友達が持てたことが、とても自慢でした。そして年が明けたころ、わたしに一人の男の子が声をかけてきたんです。彼は一つ年上で、同じ高校の上級生でした。そしてわたしたちは、付き合い始めたんです。彼は優しくて、わたしは有頂天になりました。三回目のデートの時、彼は自分も友達を連れてくるから、ダブルデートしようと言ってきました。それでわたしも彼女と一緒に行ったんですが、彼の方のお友達は来なくて、都合が悪くなったと。それでその日は、三人で会ったんです。彼が彼女に対して優しくて、よく話すのは、きっとお友達が来ないから、彼女が一人で寂しくないようにだと、わたしは思っていました。なんて優しい人なんだろうと。でも……それから彼からは連絡がなくなり、わたしからかけても忙しいからと言っていたんですが……そうですね、三人で会ってから、一か月もたたない頃でした。わたしがアルバイトをしている喫茶店に、二人が入ってきたんです。わたしはその時には洗い場をしていたので、接客はしなかったんですが、目を上げたら、仕切りの隙間から、テーブルに座っている二人が見えて。とても仲が良さそうで、テーブルの上で手を握り合ったりしているのです。わたしは自分の目が信じられませんでしたが、聞いてみないとわからないと、二人のところへ行きました。そうしたら、彼は彼女の方がずっと好きだと言い、彼女はわたしより自分の方が彼にふさわしい、と、平然と言うのです。さらに彼女はわたしと一緒にいたのは、今まで仲良しだった子と仲たがいしたので、他に友達のいない、引き立て役になってくれそうな子を選んだ、って言ったんですよ。『でも、あなたってホントつまらない子ね』と、そんなことまで。それに対し、彼は笑って、たしかにそうだね、なんて言うんです。おまけに、彼がわたしに声をかけたのは、間接的に彼女に近づきたかったからだとも言って。その時のわたしの気持ち、わかってもらえますか? やっとできた友達、やっとできた彼氏、そう思っていたのは、わたしだけだった。向こうはなんとも思っていない。友情や愛なんて、偽りだった。そう気づかされ、すっかり絶望のどん底に突き落とされて、制服のまま喫茶店を飛び出し、アルバイトもクビになってしまいました」
「そうなんだ。それはひどいな。でも、それはやっぱり君の言っているように、本物じゃなかったんだよ。それに早く気づいて、ある意味では良かったんじゃないかい? 昔、僕の妹がやっぱり、友達に裏切られたって、泣いていたことがあるんだ。仲良しだった子が、陰で妹の悪口を言って、別の友達グループに行ってしまったって。小学生のころだけれどね。その時母が『今のうちに気づいて、良かったのだと思いなさい。でも、他の子たちがみんなそうだと思ってはだめよ。だんだんあなたにも、わかるようになるわ。誰が偽物で誰が本物なのか。偽物に出会ったって言うことは、ある意味では良い経験なのよ』って、言っていたっけ」
「ええ。たしかにそうなんですよね。でも、わたしの家族って結構冷たくて、あなたのお母さまのように、優しくはなかったんですよ。『あなたがとろいからよ』とか、『もう少し魅力的にならなければね』なんて言うだけで。だからわたしよけい傷ついて、すっかり落ち込んじゃったんです。世の中に、自分ほど不幸な人間はいない。神さまは意地悪だ。わたしはやけになって、そう思いました。孤独で、もう二度と誰も信じられない気分で、人生に絶望してしまったんです。十代のころって、結構なにもかも大げさに感じるでしょう? あの時もそうで、わたしはもう何もかも失った。未来の希望も何もない、それならいっそ死んでしまおうって、思いつめたんです。まるで悲劇のヒロインになった気分で、暗い曲を流しながら遺書を書き、そのあとありったけの薬を飲んで、お風呂場で手首を切るつもりでした。そのまま実行して、朝まで誰も気がつかなかったら、あの晩は家に他に誰もいなかったから、わたしは本当に死んでいたかもしれません」
「でも君が今、こうして生きているということは、思いとどまったんだね」
「ええ。でも、どうして思いとどまったか、わかりますか?」
「いや」
「遺書を書き終わった時、BGMとしてかけていたメランコリックな曲を止めようとしたら、手が切り替えスイッチに触れて、ラジオに切り替わったんです。そうしたら急に、音楽が飛び込んできました。『逃げないで/憤激と絶望を内に閉じ込めないで/声を上げてほしい/助けを求めて、手を差し出してくれたら/その手を握りたかったのに/なぜ行ってしまう/未来を断ち切るな/お願いだから/見えない滝が間にあって/君の元に近づけない/それは君を閉じ込めてしまう/君の姿は水のスクリーンの向こうに/見えなくなった/そして消えてしまった』――わかります? あなたがたのサードアルバムの二曲目です。『Cascade』」
「ああ、あれか!」僕は思わず両手を打ち合わせて、小さく叫んだ。
「あれならわかるな。あれはエアリィがプロヴィデンス時代に自殺した友達のことを思い出して、書いた曲だ。『僕には何も出来なかったことが、心残りだ』って言っていた。あれだけダイレクトなリフレインは、最近あまり書かないけどね。でも、ものすごい偶然だなあ。あれはラジオシングルじゃないから、それほど頻繁にはオンエアされてなかったはずなのに、君がまさに死を決意した瞬間に流れてくるなんて」
「ええ、そうなんです。たまたまラジオで、あなたがたのニューアルバムの特集をしていたんですよ。たしかにすごい偶然でしたけれど、今では運命だと思っています。わたし、その歌を聴いた時、まるで身体を電流が通り抜けたような気分がしたんです。逃げるな、戻れ! そう強烈に言われたような感じでした。わたしの嘆きなんか、珍しくもないことだ。逃げるなんて恥ずかしい。強烈にそんな意識が呼び覚まされ、思わず震えました。ばかなことをしようとしてたって……それで、わたしは正気に返り、遺書を燃やしたんです」
「そう。よかったよ、本当に。そうだなあ、あの『Cascade』はかなりの自殺を思いとどまらせたっていうことは知っていたけれど。相当な数の手紙が来ていたし、ネットの書き込みも結構あったらしい。でも、君もその一人だったとは知らなかったな。まあ……経緯って、あの本に書いてあったから、君は知っているかな。『Cascade』はプロヴィデンスのハイスクールから生まれた、って、君も最初に言っていたものね。そう、あれは彼がトロントに来る前の年に、クラスメートが孤独や絶望に悩んで飛び降り自殺したことが題材なんだ。エアリィにしてみれば、そのクラスメートとさほど親しくしたわけじゃなかったけれど、まあ、あいつは元々誰とでも友達になろうとするほうだから、親しく声をかけたこともある……」
「ええ、知っています。あの本は読みましたから。読んでボロボロ泣きましたし。でも、そのエピソードは、わりと軽く流されていましたね。その人とは、それほど親しいわけでもなかったから、それほど気には止めていなかったら、ある日突然、校舎の屋上から飛び降りちゃったって。遺書が送られてきたらしいですね。『君には孤独はわからないだろう。君はクラスのマスコットで、みんなに愛されているから。僕は君のように笑えたら、君のように魅力的だったら、と何度思ったか知れない。でも、君が僕に親切にしてくれたことは、忘れないよ。ありがとう』って」
「ああ」頷きながら、僕は思った。しかしその人は、思い違いをしていないか、と。『僕には本当の意味での仲間なんて望めないって、わかってるべきだった』――そう言った時の彼の眼とトーンを思い出す時、ある意味ではエアリィほど真の孤独を知っている人間はいないのではないかと、僕は思える。そのクラスメートは、彼の表面だけしか見えなかったのだろう。深く付き合っていたわけでは、なかっただろうから。
 前作のレコーディング時、ローレンスさんも言っていた。
『あの子は時々、ふっと人が変わったような表情をすることがある。隔絶された孤独、失ったものに対する悲しみ。そう、言ってみればそんな感じだ。たぶん、エアリィの場合は同じ精神性を有する人、同類のいない寂しさかもしれない、そう思うんだ』
 エアリィは昏睡から目覚めた時に『みんなと一緒に行きたかった』と言った。でも、その『みんな』は、僕らではないのだろう。そんな気がする。彼の失われた同類。それが何なのかは、わからないが。
「わたし、その次の日に早速ショップに飛んでいって、CDを買ったんですよ。店に残っていた、最後の一枚でしたけど」
 ニコレットは少し頬を紅潮させながら、話を続けていた。
「本当に、すごい、すごい感動でした。別のバンドじゃないかと思えるくらい圧倒的で、言葉に出来ないくらい衝撃的で……まるで世界が変わってしまうくらい。魂が揺さぶられた、なんて生やさしいものじゃなかったです。マグニチュード九くらいの激震でしたね」
「ずいぶん大げさなたとえだね」僕は思わず苦笑した。
「本当ですよ。わたしには、それくらいの衝撃でしたもの。音楽を聴いてあんなに泣いたり震えたり、慰められたり、力づけられたことは、初めてでしたもの。何回聴いても、感動は薄れません。『Children〜』も『Eureka』も『Vanishing〜』も、みんな感動の名盤ですよ。後になるほど、ますます凄くなっていくし。わたしもますますのめり込んでいって。でもあの衝撃は、なによりも鮮明に残っているんです」
「そう、そう言ってくれると、うれしいけれど……なんだか少し照れるな」
「わたしはあなたたちに出会って、コンプレックスも悲しみも、すべてを前向きの力に変えていける強さを学んだ気がします。それから三年間で、いつのまにかわたし自身も変わってきたんですよ。物事を前向きに見られるようになって、くじけてもなんとか立ち上がれる力を持てるようになって、世の中にいるもっと不幸な人たちのことも、思いやれるようになったんです。わたしが変わると同時に、まわりも変わっていきました。友達もでき、生きがいもできて。とくに同じファンの子たちとは親友になりましたしね。姉とも、本当に仲良くなれました。わたしに感化されて、彼女もファンになったんですよ。今あなたがいる部屋にも、姉が出て行く前までは、ポスターが貼ってありました。結婚して、持っていきましたが。二回ほど、一緒にコンサートにも行ったことがあります。わたしの世界は変わったんです。本当にわたしは救われたんですよ」
「そう言ってくれると、本当にうれしいよ。アーティストとして」
「それに、これはファンの間では常識と言うか、ほかからは都市伝説扱いされてしまうんですが、あなたがたの音楽は、記憶力や集中力を上げるのにも、とても効果があるんです。勉強前に聴いて、それから勉強して、一段落したらもう一度聴いて、をしていると、すらすら頭に入ってきて、そしてテストの時には思い出す。テスト前に一曲聞ければ、もっと万全ですね。それでわたし、ハイスクール最後の成績は、ものすごく上がりました。スポーツにしても、集中力が上がって、うまくできるんです。それは他のファンの子も同じようで、だからLacerは――あ、あなたがたのファンをそう呼ぶんです――成績は上位のことが多くて、先生や親もある程度、黙認していることも多いと聞きます。わたしの親も、少しわたしのことを、見直してくれたようですしね」
「そうなんだ……」
 頷きながら、思った。それはきっと『その中にいると、自分の能力も最大限に引き出されるようだ』『あの子の力は、まわりのすべてを昂揚させるんだな』と、ローレンスさんが言っていた、その作用がファンたちにも同じように働いているという証左なのだろう。それが勉強やスポーツでの集中力という、二次的効果を生み出しているのかもしれない。
「それに、性格も少し変わりますしね。前より、積極的になれるんですよ」
 ニコレットは少しいたずらっぽい調子で言葉を継いでいた。
「昔のわたしだったら、とってもあなたの部屋まで押し掛ける勇気はなかったですから」
「でも、僕は直接的には、君の救い主やヒーローじゃないよ。たまたま転んだ君に声をかけたからっていう理由だけで、僕が君の王子さまになってしまうのかい?」
「ええ。あの瞬間、ビビっと来たんです。それに……なんというか、わたしにとって、エアリィは偶像なんですよね。アーディス・レインというアイコン。神様に近いというか、不可侵なものという感じがしてしまうんです。なんだか、恐ろしく高次元な印象で。遭遇エピソードとか読んでいると、すごくフレンドリーな人で、優しくて可愛くて飾らない人、という印象ではあるんですが、だから、本当にあなたみたいに生身で接したら、恋愛感情も湧いてきちゃうのかもしれませんが、なんだかそう思うと、きゃー、畏れ多い、と思ってしまったりもするんですよ。もし会えたとしても、まともに話が出来るかどうか、自信がないですし。でも、あなたは……わたしと同じ、人間なのかなって思えるんです。ごめんなさい、気を悪くしたら。でも、あなたの優しさは、とても人間くさいというか……エアリィが博愛だとしたら、あなたはピンポイントの愛、という気がして。あら、わたし自分で何を言っているか、わからなくなってしまったわ。でも、わたし、あなたは一人の人間だって感じて……会って話したいって、たまらなくなってしまって」
「あいつのは、アガペだからな。本人が言っていたように。それで僕は、エロスか」
 僕は思わず苦笑した。
「それに君が言っていたことは、当たっているよ。僕も君と同じ、一人の人間だということを……エアレースというバンドのメンバーであると同時に、一人の人間だ」
 僕は言葉を止めた。上手くあとの言葉が出てこない。ニコレットも少し戸惑ったように黙った。一週間前と同じ言葉。しかし、この一週間の間に、少し意識が変わったのかもしれない。彼女にとってのあこがれと、現実と。
 この一週間で話したいろいろなこと。そしてさっきの会話。その話の内容や態度、それに部屋に貼られたポスターや集められたCD、グッズ――そういったものから、彼女が僕らの熱心なファンであり、信奉者であることは察せられる。僕らのことも、たぶんファンたちに知られていることはすべて、本当にトリビアに属することさえも知っている。そして、たとえばエアリィ相手だと、彼女は完璧に熱心な一ファンとして振舞うだろう。大勢のファンたちがそうであるように。でも僕に対しては、どうなのだろう。最初に会った時には、明らかにファン的なためらいと崇拝が感じられたが、今はその思いとともに、もっと身近な人間として、普通に接しているようでもある。でも恋人として、ではもちろんない。彼女は僕を王子さまだと言ったが、想像の中で膨らんだイメージではなく、こうして現実の生身の人間として現れてしまった僕を、本当はどうとらえているのだろう? 彼女がエアレースというバンドについて論じている時、僕がそのメンバーであるという認識を、現実にはっきりと認識しているのか、それとも切り離して考えているのか――。
 僕は一瞬、わからなくなっていた。それは、彼女も同じだったようだ。
「あなたは……エアレースのジャスティン・ローリングスさんなのよね」
 ニコレットはためらいがちな口調で、そう聞いてきた。
「そうだよ……」僕も戸惑いを感じながら頷いた。
「なんだか……改めてそう思うと、すごく不思議だわ。それに、すごく怖い。あの人はすごいミュージシャンで、トロントに奥さんと子供さんがいて、来年の夏くらいにはまた世界を股に掛けてツアーして、アルバムを出すたびに世界中で何千万枚も売るような、超人気バンドのギタリストだわ。そう。わかってはいるの。わかっているんだし、あなたがあの人だということも、知ってるわ。だからこそ、こんなに嬉しいんだし……」
 彼女は言葉を飲み込んだように黙り、再び僕を見つめた。長い間、視線をゆっくりと移動させて見ている。僕の頭や顔、胸や手、足の先まで。
「あなたはあの人……半分はそうで、半分はそうじゃない。なんだか不思議な感じね」
 彼女の瞳に、当惑と不安の表情が広がっていくのが見えた。今までは長い憧れが現実になったという興奮で、夢に浮かされているような気分だったらしい。だが、初めてはっきりと現実を見据えた結果、不意に新たな認識と不安感が襲ってきたようだった。
(あなたは、本当は誰なの? わたしたちはこれから、どうなるの?)
 ニコレットの深く濃い灰色の瞳は、そう語っていた。
 その質問は僕自身をも、心底動揺させた。一瞬、自分の存在がわからなくなってしまったような戸惑いを覚える。思わず彼女の瞳から目をそらせると、壁に貼ってあったポスターの中の自分と、目があった。その中でかすかに微笑んでいる僕は、ミュージシャンとしての僕は、今の僕とは、ある種他人のようにすら感じた。
『僕はジャスティン・ローリングス。AirLaceのギタリスト』
 もう一人の僕は、自信を持ってそう言っているようだった。僕は思わずたじろいだ。
(僕だってそうだ!)僕は激しく首を振りたい衝動にかられた。
(でも僕は、それ以前に一人の人間だ。君がミュージシャンとしての僕ならば、僕はそれと同時にローリングス家の次男で、以前は医者をめざしていて、バスケットと野球とホッケー、それに推理小説やサスペンスが好きで、ステラの夫で、クリスチャンの父親だ)
 そう思ったとたん、電流のような衝撃が走り抜けた。そうだ、僕には家族がいたのに。いくら喧嘩をして冷戦状態にあったからといって、自らの播いた種を棚にあげ、他の女の子の所へ走るなんて、なんて愚かなことをしているのだろう。
(おまえはなんでそこにいるの、ジャスティン?)
(そんなところで、何をくすぶってるんだよ)
(君はそこにいるべきじゃないよ、ジャスティン)
(君の居場所に帰ったほうがいいよ。本当に)
 ポスターの中から、みながそう言っているような気がした。僕は思わず頭を押さえた。たまらない恥ずかしさを覚えた。
「どうしたの、ジャスティンさん……?」
 ニコレットの声で、僕は我に返った。彼女は僕の腕に手をかけ、心配そうに見上げている。彼女の顔を見た時、突然、ずきりとした痛みを感じた。僕は、いったい何をしたのか? 彼女をどうするつもりだったのか? 本当に心から愛していたのだろうか?
 一連の騒ぎや動揺、心の欝憤が曇らせていた現実の重みと真実が、この時突然ベールを剥がすように、はっきりと見えてきた。僕は妻との不仲から生じた心の侘びしさを埋めるために、この純真な若い女性の、一ファンとしての熱情を利用しただけなのではないかと。
「なんでもないよ」僕はしばらく黙ったあと、頭を振り、微笑してみせた。
「ただ、僕も君と同じく、ちょっと変な気がしたんだ。ここにいる僕と、それからこの僕」
 ポスターを指差し、僕は言葉を継いだ。「どっちも本当の僕だけれど、一瞬わからなくなったんだ。今、自分のいるところも、君のことも……」
 ニコレットは再び当惑したような、哀しげな顔になった。その表情は、僕の心により大きな後悔を呼び起こした。これでは彼女のことは一時の気の迷いだと、言ってしまったも同然だ。彼女を弄んで捨てるなんて卑劣なことは、とてもできない。だからと言って、ステラと別れてニコレットを妻にすることなど、とても考えられないし、そこまで彼女を愛してはいない。そう、それが苦い真実だ。ニコレットには今も昔も、強い好意しか感じていない。だからと言って彼女を都合のいい現地妻にしておくなど、それこそ非人道的だ。そこまで堕落したくはない。僕は彼女が持っているジャスティン・ローリングスのイメージを完全に壊してしまう前に、ここから立ち去るべきかもしれないが、僕がやってしまったことは、簡単に引き返せるものではなかった。ニコレットの方にも、僕を受け入れるか拒絶するかという選択があるし、正統な権利を主張することだって出来る。でも、たとえ彼女がこれからも何も言わずに受け入れてくれたとしても、その優しさと真剣な熱意に甘えていてはいけない。でも拒絶することは、なおさらひどい傷を残してしまうだろう。
『でも、わたし、ギターを弾いているあなたのことを、すてきだと思ったわ。わたしたちが初めて会った、あのハイスクールの交流パーティで。だから、あなたに声をかけられた時には、恥ずかしかったけれど、うれしかったのよ。あなたのファンの子たちも、ちょうどそんな心理ではないのかしら。もしあなたがあの時のように、ちょっと笑ってあの子たちに声をかけたら、本物の恋に落ちたりしないのかしら』
 ステラと一度破局する前、彼女が言っていたことが、不意に脳裏によみがえってきた。僕がニコレットに対してしたことは、これと同じだ。だが、最初にステラに声をかけた時と違い、今の僕には妻も子供もいる。彼女との付き合いに責任を持つことは出来なかったのに、自分の心の迷いから、たいして考えることなく、一線を踏み越えてしまった――。
 僕はため息をついた。自分の愚かさから、出口のない迷路に入ってしまったような気分だった。戻ることも出ることもできない迷路に。

 それから二日後の朝、ニコレットは食事をしながら、切り出してきた。
「わたし、今日から仕事に戻らなきゃ。クリスマスが近いから、売り場がすごく忙しくなって。もうこれ以上、休んでいられないんです。ごめんなさい」
「ああ、もうそんな季節なんだね」僕はスープをすくう手を、思わず止めた。
「ごめんね。君にはすっかり仕事を休ませてしまって」
「だってそれは、わたしが好きでしたことですから。あなたがわたしと一緒にいるなんて夢みたいなことが起きているのに、仕事へ行くなんて、もったいなさすぎると思ったんです。でも、もうそうも言っていられなくなってしまったし……。あ、でも、あなたのお昼が心配だわ。一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、そんなこと。僕のことは気にしないで」
 僕は笑って答えたが、心の中では少々動揺していた。彼女もそろそろ現実に戻って、再び日常の中に飛び立とうとしているのだと。

 その日、午前中はミステリーを読んだりテレビを見たりして過ごし、お昼に牛乳と、彼女が用意しておいてくれたサンドイッチを食べた。午後にはすっかり退屈して、むしょうに外の空気が吸いたくなった。玄関のスペアキーは、ローボードの引き出しに入っている。『もし外出することがあったら、予備の鍵はそこにありますから』と、ニコレットが出勤前にそう言っていたのだ。僕は厚いジャンパーを着て髪を束ねると、帽子を被り、サングラスをかけた。そしてそのスペアキーで鍵をかけると、外に出てタクシーを捕まえ、市街地まで乗っていく。どこへ行くか、はっきりとした当てはなかった。
 ピカデリー広場の近くでタクシーをおりると、石畳の道をゆっくりと歩いた。この街の独特な風情は、妙に心の琴線に触れるものがある。初めてここにきたのは、デビューした翌年。六年近く前だ。あの時は僕たちもまだ新人で、最初に僕らを起用してくれたビッグネーム○○の(後でとんでもない人たちだったのだと、わかったけれど)二度目のサポートについて行き、初めてイギリスの土を踏んだ。古き海の母。心にほのかな憧れと郷愁を感じさせる国土。この街を最初に訪れた時、僕たちはおのぼりさん丸出しではしゃぎ、すっかり観光客気分で歩いたものだ。
 あの時は初夏だった。今は十二月。五年半以上の歳月を経て、今僕は一人でこの街を歩いている。吹きつける風は冷たく、みぞれまで降っていた。灰色の空の下、クリスマスのイルミネーションが、せめて冬枯れの街を活気づけようとするかのように、鮮やかな光を放っている。しかしその輝きは、今の僕には、どことなく場違いな感じに思えた。
 みぞれなんて、忌々しい天気だ。傘をささなくては濡れてしまう。ニコレットと再会した時に持っていた傘を開きながら、心の中で舌打ちした。いっそ雪になってくれたら、これほど陰気な冷たさを感じさせはしないだろう。ロンドンにはあまり雪が降らないということは知っている。冬には雪が付きもののトロントで育った僕には、十二月のみぞれがいっそう忌々しく感じるのだろうか。
 小さなため息が漏れた。あれから何度ここに来ただろう。ツアーで四回、ミックスダウンに一回、フェスティヴァルに出るので一回、そうだ、あのセッションも、ここだった。もうプレストンさんに対する憎しみはなくなったものの、事件そのものは今も許せない。妨害者たちに対する憤りも消せない。あの卑劣な計画のおかげで、僕は二人目の子供を失った。そして妻も、息子をも、今失いかけている――僕は小さく地面を蹴った。そもそも今回のツアーで泊まったホテルも、あの時と同じだ。部屋は違うが。ホテル自体が悪いわけでは当然ないが、とんでもない災難に会ったのも、頷けるような気さえした。

 天気のせいか、あまり人通りは多くなかった。最近は人から見られずに歩いたことのない僕だが、おかげで今は気づかれずにすんでいる。僕が今ごろ街を歩いているはずがないというファンの認識もあるのだろう。
 ほとんど肩が触れるくらいの近さで、一組のカップルとすれ違った。男性の方は二十代前半、女性のほうは十八、九歳くらいか。二人ともセーターに皮のジャンパーというスタイルで、下はジーンズ。お揃いのオレンジのマフラーを首に巻いていた。
 男性のほうが二、三歩歩きすぎたところで、こう言っているのが聞こえた。
「え? 今のジャスティン・ローリングス?」
「嘘!? 今ごろ、ここにいるわけないじゃない。とっくにカナダへ帰ってるでしょ?」
 女性のほうは、驚いたように声を上げている。
「だって、似てたよ」
「えー、本当に? だって、エアリィはまだこっちにいるけど、あとの四人は帰っちゃったでしょ? あれから、もう一ヵ月以上たってるんだもの」
「そういや十日近く前に、あとのメンバーは帰国したって聞いたな。人違いかな」
「じゃないの……?」
 それから先は聞こえなかった。その認識があるからこそ、僕もこうやってのびのび歩ける。でもその会話を聞いた時、妙なわびしさが胸をよぎった。僕はここにいるべき人間ではない。そんな気が強くした。
 みぞれはいつのまにか止んでいたが、霧が出てきた。冷たい風に吹かれながら、僕は不意に淋しさに襲われた。なんだか自分が行くあてのない放浪者のように思えた。そうしてしばらく歩いているうちに、ふと考えがよぎった。ああ、そうだ。さっきの二人が言っていたように、エアリィはまだこっちの病院にいる。どうしているか、会いに行ってみよう。病院はそこから、さほど遠くない。僕は進路を変えた。
 一人で友人のお見舞いにいくのは、数年前ロサンゼルスのロビン以来だ。あの時は守護天使のお導きによって、彼を死から救えた。でも、今度はちょっと状況が違う。慰めや助力を必要としているのは、僕のほうかもしれない。




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