Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(15)




 ニコレットのアパートは市街地の外れにあり、エレベータもない、四階建ての古い建物だったが、作りはしっかりしているようだった。彼女は二階に住んでいた。リビングダイニングとキッチン、個室が二部屋。全体にこじんまりとしていて、床には絨毯も敷いていなかったが、掃除は行き届いている感じで、さっぱりとしている。彼女が『今一部屋空いている』と言った個室は、最近結婚したという彼女のお姉さんが使っていた部屋のようだ。今はお姉さんが置いていったベッドや荷物、ニコレットの画材などが置いてある。
「わたし、実家はレスターなんですが、二年前から姉と二人で、ここに住んでいたんです。姉は九月に結婚したので、今はわたし一人なんですよ。それで、そのうちにもう少し小さいところに引っ越そうと思ってたんですが、まだそうしてなくて、良かったです。このお部屋、今からお掃除して、あなたが寝られるように片付けますね。あの……わたしのベッドは小さいですから」ニコレットはそう言いながら、少し赤くなっていた。
「姉の寝具で申し訳ないですが、でも一度洗ったので、清潔だと思います。あとで乾燥機を当てますね」
「ありがとう」
 僕は少し微笑しながら、それだけ言った。彼女の部屋には、たぶんこの部屋と同じサイズのベッドしかないのだろう。少し幅の狭そうな、シングルのパイプベッド。たしかにこれでは二人は寝られないし、僕も彼女とぴったり密着して身動きも取れない状態で眠るのには、やはり少し抵抗があるから、別々の方がお互いに気楽だろう。
 小さめのリビングダイニングには、白いクロゼット、本棚、二人がけのソファとテーブル。テレビとDVDデッキ、それにコンパクトなステレオセットが白いローボードの上に置いてあった。そのローボードの中は僕らのCDやDVD、それに雑誌がぎっしり入っている。壁には、ボードの上に僕らのポスターがドーンと貼ってある他は、彼女の手になると思われる絵がいくつか画鋲で留めて、飾られていた。公園、港、街の通りなどを水彩やクレヨンで描いたもので、なかなか上手だ。その絵がシンプルなライトグレーの壁紙に、彩りを添えている。彼女の自画像や、家族のものと思われる肖像画、友達らしい女の子や猫の絵もあった。それから――僕は思わず指をさした。
「これ、アルバムジャケットの模写だね」
 僕らのアルバム、『Children〜』から『Vanishing〜』までのジャケットカバーの絵が、昔のLPサイズに拡大されて描かれている。
 僕らのアルバムジャケットはデビュー作から一貫して、子供たちをモデルに扱っている。サードアルバムは、手の上から飛んでいく小鳥を見送る女の子、その次は青空に吹く風を見上げている男の子の後ろ姿、最新作は白いドレッサーの鏡に映る自分の姿を不思議そうにのぞいている、小さな女の子。この最新作のモデルは、一歳を少し過ぎたころのロザモンドだ。その表情がおもしろいと、エアリィはアデレードに見せるために、携帯のカメラで撮ったそうだ。その娘の写真を改めて見て、(これってユーリカ! の表情だな)と思ったらしい。が、このアルバムタイトルを持った作品は、もうすでに別のジャケットで世に出てしまったし、エアリィにしても自分の子供をジャケットに持ってこようなどとは、全く思わなかったようだ。しかし新作のジャケット選定時に、(鏡に映る世界っていうのも、幻想かも)と、この写真を思いつき、アート監督のハーバートさんに、別のモデルで撮って絵に描いてもおもしろいかも、と言ったところが、監督さんに、『いや、別のモデルはいらないよ。この方が芸術的だ。これを絵に模写して使おう』と、ジャケットカバーになった経緯がある。
「ロザモンドちゃんって、かわいいですよね。まるで天使みたいで。さすがにエアリィのお子さんだけあって、本当にきれいでかわいいって、感激しちゃいました。病院の前で実物を初めて見ることができたんですが、ピンクのフリフリのワンピースを着て、金髪の巻き毛がくるくるで、おめめがパッチリしていて、本当にお人形さんより、かわいかったわ」
 ニコレットは僕の後ろから絵をのぞき込みながら、そんなコメントをした。
「ああ、今回こっちに連れてきていたからね。先週、一足先に帰ったけれど。あの子は可愛い子だよ、本当に」
「あなたにもお子さん、いらっしゃいましたよね。クリスチャン坊や。三歳くらいでしたっけ。すみません。一歳くらいの時にネットで拡散されたから、お写真は見たんですが、かわいいお子さんですよね。今はもう少し大きくなられたでしょうけれど」
 思わずどきっとした。五月以来、半年も僕は息子に会っていないのだ。クリスはステラと僕の確執を知らない。でも小さな心にも、なんとなく父と母が昔のように仲良しではないことを、感じているのだろう。一緒にいた時もいつも通り甘え、元気に遊んではいるが、時おり手を止め、僕らをじっと見ていた。その瞳に不思議そうな表情を浮かべて。僕ら大人の意地の張り合いに、小さな息子を巻き込んで良いのだろうか――そんな良心の痛みを感じた。クリスは今、どうしているだろう。あの子は父親を――こんな僕でも、今でも慕ってくれているだろうか。今の僕に、その資格があるだろうか。
 ニコレットも僕の戸惑いをなんとなく感じたようだった。それ以上息子の話を追求はせず、他の絵の説明を始めた。これは五月のころのハイドパーク。これは去年の夏、コーンウォールに行った時、これは母親で、こっちが父親。これは姉。これは一番仲良しの友達で、これは実家で飼っている猫。僕らの肖像もロゴマークもあった。

 リビングの壁はまだ救われた。問題は彼女の寝室だ。部屋には少しスリムなシングルサイズのパイプベッドとパソコンデスクが置いてあり、その上に赤いノートPCがのっている。その横には小さなドレッサー。壁には彼女の手書きの絵は飾られていない。そのかわり、壁はおろか、天井にまで僕らのポスターがめいっぱいだ。グループショットやエアリィと僕だけのもの、宣材ポスターやライブショット、大小取り混ぜて何枚あるかわからないほどだ。他にもグラビアの切り抜きや表紙などがいっぱい貼ってあって、壁紙の地色がほとんど見えないありさまだ。どこへ目をやっても、自分や仲間たちに見下ろされているような気がして、ひどく決まりが悪い。この部屋で眠ることにならずにすんで本当によかった、とひそかに胸をなでおろした。ベッドの上の壁には、あの時ホテルの部屋で彼女に書いた僕のサインが、額に入れて恭しく飾られていた。
「すごいねえ、この部屋は……」僕は思わず苦笑しながら呟いた。
「ここは、わたしの神殿ですよ」彼女はいたずらっぽく笑った。
「これだけ集めるのに苦労したんですから。グッズもコンプリートしましたし、CDもファーストから全部揃えてます。シングルは限定販売だから、『Beyond the Night』と『The Glass Castle』しか手に入らなくて、それもやっとの状態です。シングルカップリング曲とか、PVとか……メイキングがついているのもあるし、全シングル集めたかったんですが、少なすぎますよ、発売枚数。手に入らなかったものは、動画サイトで我慢するしかなくて。ツアーDVDも、もちろん買いました。『Children〜』ツアーのMSGと、『Euraka』ツアーのO2。こっちは地元だから、よけいに気合い入ります。VIツアーのDVDは、いつ出るんですか?」
「ああ、まだ撮ってないんだよ。二回目の北米で撮る予定だったから」
「そうなんですか。早くツアーが再開するといいですね。今回のツアーも、本当に良かったから、早くDVDで見たいです。あとはブートレッグ。映像ものはほとんど出ないので、音源ばかりなんですが、三五公演分くらいあります。あっ、でも、ミュージシャンとしては、やっぱりいやですか、ブートレッグって」
「いや、僕もけっこう持っていたからね」僕は肩をすくめ、苦笑した。
「それで、不当に儲けたりするのは良くないけれど、ファン同士が非営利で音源を交換するものなら、まあ、あまりうるさく言うつもりはないよ。でも、まあ、僕らはあまりないけれど、調子が悪い日があった時、それが半永久的に音源に残されたりするのも、ありがたくはないけれどね」
「でも、ファンとしては、できるだけ生で見たい。それが無理なら、せめてできるだけの公演を、間接的にでも体験したい、というのは心理じゃないですか」
「僕も昔はファンだったからね、わかるよ。まだコンサートを観にいけなかったころ、ブートをずいぶん集めたっけ。スィフターやHSを」
 HS――Harvest Sheep。ディーン・セント・プレストンさんとカール・シュミットさんのバンド名は、CDをすべて捨ててしまってからは口に出したくもなかったが、今はすんなり言えた。プレストンさんにも、再び敬称をつける気にもなった。今はあまり他の音楽を聴かなくなっていたので、もう一度CDを買いなおそうとは思わないが。
「じゃあ君は、今回のロンドン公演も観に来てくれた?」
「ええ、もちろん。『Green Aid』と、アリーナ公演の初日を観ました」
 ニコレットは目を輝かせて頷いた。
「へえ、そう。『Green Aid』も観に来てくれたんだ。あれもね、実は映像化されるんだよ。来年の春あたりに。僕らは『Talk with Nature』と『Earth Sky and Sea』こっちはまだ仮題で、たぶん次のアルバムに収録されることになるだろうけれど、タイトルは変わるかもしれない。あんまり直接的で芸がないって、エアリィが言っていたからね。その二曲だけの参加だけれど。まあ、君は来ていたなら、わかっているよね」
「ええ。あなたがたの出演が見たくて。世界で生中継される場に、わたしも立ち会いたかったんです。だから、オークションで落としたんですよ。チケットの抽選に外れたので。お給料一か月分が飛んでしまいましたが、その価値はありました。本当に素晴らしかったわ。わたし、あなたがたのファンで良かったって、ものすごく誇らしかったんですよ。他のアーティストなんて、あなたがたの前には、みんなかすんじゃいます。ファンだからそう思えるって言うんじゃなくて、そうでない大人たちまで、そう言っていましたもの。それに、本邦初公開の新曲も聴けたし。本当にすばらしい曲ですよね。番組をタイマーで録画したんですが、DVDが出るなら、絶対手に入れなくちゃ。次のアルバムは、いつごろ出るんですか?」
「うん……まあ、エアリィが順調に回復して、復帰できたら……まず今回のワールドツアーの残り半分を消化して、三ヶ月くらい休んで、それから次を作り始めるから、早くて再来年の春か夏だね」
 復帰できなかったら永遠に出ない、などとは言えなかった。僕もそうは絶対に思いたくない。「そもそも『Earth〜』はね、グリーンエイドに出る日に出来た、それこそできたてのほやほやだったんだ。もともとは『Talk〜』だけで参加する予定だったんだけれど、二曲演って欲しいって主催者に要請されて、何にしようかって考えて、でもそれにふさわしい主題の曲が他にあるかなって思案していたんだ。そうしたら、エアリィが『作っちゃおうか。なんか出来そうな気がするから』って、ものの三十分で書いちゃった奴があれなんだよ。あまり時間がなかったからアレンジも決めてもらって、急遽スタジオを借りて、二時間ほどで仕上げたんだ」
「凄い!」ニコレットは心から感嘆したような声を上げた。
「あんな壮大な素晴らしい曲をたった三十分で書いて、二時間で仕上げた、ですって?」
「エアリィの曲作りの瞬発性は、本当に異常だよ。インスピレーションが落ちたら、たいてい三十分とかからない。だから彼はプリプロダクションは暇だって、ぼやいているしね。しかも、とんでもないレベルの曲を出してくる。同じバンドで言うのも何だけれど、彼は天才以上だ。僕も完全に脱帽している。まあ、ちょっとだけ悔しい部分もあるけれどね。でも感嘆の方が明らかに大きいんだ」
「本当に、そうですね。あの人はいろいろな意味で、すごいです。それに、あなたたちインスト陣も二時間で、あそこまでこなれて演奏できるのね。やっぱり上手なんだわ」
 ニコレットもため息をついていた。そしてしばらく何か考えているように沈黙したあと、ためらいがちに言葉を継ぐ。
「あの……ということは……」
「なんだい?」
「『ROCKIN EXPRESS』に載っていた、あなたのインタビューって……わたし、とてもショックでした。それで、信じなかったんです。あなたがあんなことを言うはずはないって。やっぱり、でっち上げなんですね」
「ああ、まあね。あれは途中から、かなり変形されているよ。実際に僕が言ったこととはね」僕は苦笑した。
「でもそのあとで、エアリィと一悶着やったっけなあ。そこのインタビュアーが彼にその記事を見せたもんだから。それでひどいケンカをした、というか、僕が一方的にケンカをふっかけてしまったんだけれど。まあ、たしかに、ほんのちょっと軋みがあったのは事実なんだ。僕自身は気づいていなかったけれどね。インタビューそのものはでっち上げでも、僕はたしかにあれに近い感情を、どこかに持っていたんだって気づいてね。あれよりひどいことを、彼に直接言ってしまったよ。でもね、そうやった爆発したおかげで、解消できたんだ、結果的に。エアリィには悪いことをしてしまったけれど、僕はやっぱり自分は欠点だらけの人間なんだって、痛感もしたよ。人間関係って、深くつきあって行くには、きれい事だけでは乗り切れないことも、出てくるんだろうね。でも、そうやってぶつかったおかげで、僕も吹っ切れたし、今の僕らはもう本当に、親友同士に戻れたよ。和解した翌日に、あんなことになってしまったけれど……」
「ああ、そうですね……」ニコレットは真剣な面持ちになり、頷いていた。
「あの時、わたし会場にいたんですよ。最終公演のチケットも取っていましたから。初日は本当に隅っこの遠い席だったけれど、それでもすごく感激して、終わってから三十分くらい、その場にぼーっと座り込んでいたくらいです。もう一回あの感動のコンサートが見られると思って、それも初日はBショウだったから、最終日はたぶんCで、違うセットが見られるって。スタジアムになったから席は遠いけれど、でもスタンド正面だったし。嬉しくて夜も眠れなかったのに、土壇場でキャンセルでしょう? あの時わたし、午前中だけ仕事に出て、午後休をとって、あなたたちの会場入りを見るためと物販のために、二時から会場に来ていたんです。そこで友達二人と合流して。初日に買い損なったロングスリーブとマグカップを買うために列に並んでいて、ああ、四時半には買い終わってロードエリアの所まで行ければいいな、と、そんなことを思ってたんです。四時二十分くらいに、なんとかグッズをぎりぎりで手に入れて――わたしが買ってすぐ売り切れになったですから、両方とも――よかった。さあロードエリアの近くに行こうって、列から出たら、会場に集まっていたファンたちの一部から、悲鳴に近い声が上がったんですよ。それから、ものすごくざわざわし始めて。『エアリィがホテルの前で、カルトの奴に撃たれたって!』『うそぉ!なんで?』『やっぱりSMがらみで?』『だと思う。他に考えられない!』――あ、SMって、Scarlet Missionの略なんです。『宗教は危ないのよね!』『三度目よ、襲撃!』『でくの坊セキュリティは、なにしてたのよ!』『やだーー! 嘘だと言って!!』って、あとはもう言葉も聞き取れないくらいになりました。現場からの情報が拡散されて回ってきたみたいなんです。わたしも急いで友達と一緒にスマートフォン取り出して、『ファンの子を人質にとられて、正面から胸を撃たれた』っていう書き込みを見たとたん、嘘、それじゃ死んじゃう! 何かの間違いよ! って、思わず貧血起こして、その場に座り込んじゃいました」
「ああ、今は情報拡散が早いからね」僕は少し苦笑した。
「会場の外には、もうかなりの人が来ていたんですが、真面目に学校に行っていた学生さんたちが、来はじめる時間帯だったから――そのうち四分の一くらいの人が『じっとしていられない! 現場行って、たしかめてくる。ホテルどこ?』『○○』『あ、そこにいたんだ』『わかった、行こう!』と行ってしまって、『病院わかる?』『救急車追っかけてる人がいるって。報告待ち』と言っている人もいて、残りの人はその場で泣いたり叫んだり、すごい騒ぎでした。わたしは座り込んだまま、友達とずっとスマートフォンで、情報を更新しようと必死になっていて、でも、みんなが同じようにしていたから、ものすごく重くて。五時前に主催者の人が出てきて、正式にキャンセルが告知されて、そのころには相当な数の人が来ていて、もう本当に騒然となりましたね。もし犯人がその場にいたら、わたしたちに殺されていたに違いないわ」
「ああ……」
 僕は思わず頭を振った。会場では、きっとすごい騒ぎになっていたのだろうな、と僕も後から思ったが、やっぱりそうだったのか。それにしてもあの場で、どうやって救急車を追いかけたんだ? あの場にいた誰かがバイクにでも乗って、突っ走ったのだろうか。病院がわかったのも、そのせいか。信号は大丈夫だったのか? 事故を起こさなくて良かったな、と、よけいな心配をしてしまった。
 そして――会場の外には、ニコレットもいたのか。五時前にはホテルの外よりも、はるかに多い――五時半からの開場なので、もうその頃には、かなりの人が来ていただろう。スタジアムのコンサートシーティング、キャパいっぱいの五万四千枚のチケットは、完売していた。少なく見積もっても、その頃には一万人以上の人が、会場の外で待機していただろう。もし僕らがあの時すぐにリムジンに乗り込める状況だったら、あいつらは警察で供述していた通り、そこに来て銃を乱射し、半径十メートルはふっとぶという爆弾で、自爆したのだろうか。
 改めて、激しい寒気を感じた。でも今それを話してニコレットを怖がらせても、仕方がない。幸い、と言うのは少し抵抗があるが、それでも、あいつらはその最後の計画は、実行しなかったのだから。僕はふっとため息をつき、頭を振った。
「僕らもヘッドラインツアーを始めてから、ずっとノーキャンセルで来たけれど、とうとう記録が破れたね。それも、まさかこんな形のキャンセルとは、僕らもとうてい思わなかった。期待して集まってくれた人たちには、申し訳なかったと思っているよ」
「でもわたし、思いました。現場にいなくて、よかったって。あの場にいた人たち、いたたまれなかったと思いますから。わたしもたぶんその場にいたら、同じようなことをしようとしたと思います。わたしは犠牲になってもいいから、逃げてって。逆にアーディス・レインさんがわたしたちの犠牲になるって、それはありえないわって。優しい人なんでしょうね、きっと。あれほどの人なのに。その気持ちはとってもありがたいんですが、自分のせいでって思ってしまうのは、本当にいたたまれないですよ」
「ごめん。そう言ってしまったのは、僕なんだ。あの時は僕も動転していたからね」
「ええ。あなたがそう言ったっていうことは、知っていますが……それも拡散されていますから。でも一般的に見れば、やっぱりそうですよね」
「でもあいつにとって、君たちの命は重いんだよ。逆に考えてみれば、自分のために誰かが、大勢のファンたちが犠牲になったって考えるのは、やっぱりいたたまれないだろう」
「まあ……そうかもしれませんね……」
「それに、彼は言ってたんだ、病院で。あの時、弾丸が当たって意識が飛ぶ瞬間まで、ずっと思っていたって。絶対に死なない。死にたくない。生きてやるって。犠牲になるつもりは、彼もなかったんだ」
「意志の力、なんですね。なんていうか……エアリィらしいなって思います」
「僕もそう思うよ」僕は強く頷いた。
「でも、あそこにいたファンの人たちが自分を責めるのは、違うと思う。僕は思わず誤解されるようなことを言ってしまったけれど、本当に憎むべきは犯人たちだ。それ以外の、誰でもないよ。身内がカルトから脱会したのは、その宗教がその程度のものだからだって、エアリィがあの場でそう言っていたけれど、本当にそうだと思う。V.Iアルバムは引き金になったかもしれないけれど、本当に価値のあるものなら、消去されたりはしない。そういう意図もあるんだ、あれには。僕も最初はわからなかったけれど、再演を繰り返すうちに、わかってきた。消去されるのは幻想だけだ。真実は消えない。なのに奴らは、自分たちと同じようにしか考えられない。僕らをカルトだと思い、彼を教祖だと思い、たぶらかして自分の下へ引き寄せた、そう思い込んで、ゆがんだ復讐を企てた。でも間違ってる、それは根本的に。僕らはロックバンドだ。エアリィはそのシンガーで、ソングライターだ。それ以下でもそれ以上でもない、彼があいつらにそう言っていたように。それを理解できないのは、あいつらが偏見で凝り固まっていたからだ」
「ええ。でも、よく言われますよね、大人たちとか、一部のメディアには。エアレース自体、一つのカルトじゃないかって。カルトっていうイメージとは、ちょっと違いますけれど。だって、スーパーメジャーですし、AirLace。断トツで、ナンバーワンメジャーでしょう、今では。でも影響力がものすごく大きいから、そう見られてしまうんでしょうね」
「まあ、それはたしかにあるね」
「V.Iは本当にセンセーショナルなアルバムだったから、騒ぎもすごかったですけれど。ネットを見ていても、本当にいろいろありましたね。わたしは親元を離れていたし、学校も卒業しているから、それほど派手な確執は起こしませんでしたが……ああ、でも上司とは二、三回ぶつかりましたね。以前でしたら、上司に意見しようなんて思わなかったですが。それは間違っている、と、どうしても思えてしまって。でもわたしだけでなく、そのセクションの七、八人くらいが後押ししてくれて、その上司は最後には戸惑ったような顔で、『ち、これが例のなんとか現象か』なんて言っていました」
「そうなんだ……」僕は思わず苦笑した。
「でも、なんだか……夢みたい」ニコレットはふとため息をついて、僕を見上げた。
「あなたがわたしの部屋にいる、こうして話をしているなんて……バンドの裏話なんかも、じかに聞けて……現実に起こっているなんて、信じられないです」
「いや、そんなに構えないでほしいな。僕はただの人間だよ。AirLaceというバンドのギタリストであると同時に、普通の人間だ。笑いもすれば怒りもする。ものも食べるし、寝るし、お風呂にも入るし、トイレにだって行くよ。別に特殊な人間なんかじゃないんだ。君と同じだよ。それは僕だけじゃない。みんな、そうさ」
「ええ。今はあなたを、とても身近に感じます」
 ニコレットは頬を紅潮させ、両手を合わせて、僕をじっと見てきた。
「去年までは、わたしも他のファンと同じような見方をしていましたけれど。あなたたちは雲の上の人で、憧れの人。毎日一回はあなたたちのCDを聞かなくては気が済まなくて、いつかカナダにも行こうと思って貯金もして。ホームタウンのコンサートが見たかったし、あなたがたの住んでいる街を見たかったから。トロントの人たちは、よくネットでぼやいていましたけれど。みんながホームタウンに来ようとするから、ただでさえ高い倍率がよけいに跳ね上がって、地元のファンがちっとも見られないって。でもわたし、地元の人って、それだけで羨ましいと思います。同じ街に住んでいるなんて。名所めぐりだって簡単に出来るし――そう、非公式サイトには、名所観光マップもあるんですよ。自宅はさすがに除外してますが」
「それは……普通の観光マップじゃないのかい? 市庁舎やタワーや議事堂みたいな」
「そういうオーソドックスな観光ガイドじゃないんです。AirLace関連の名所マップです。卒業したハイスクールとか、アマチュア時代に出ていたバンドフェスの会場になった学校とか、コンテストの会場とか、よく行っていたお店とか、良く行っている場所とか、ビデオに出てきた場所とか、マネージメント会社が入っているビルとか。ああ、あなたのご実家の病院もありますよ」
「ええ、本当かい? 大丈夫かな」
「外から見て、写真を撮るくらいですから。カナダ編はトロントが主で、あとはマインズデール。あそこの教会はエアリィの生誕地みたいなものですし、『Evening Prayer』と『Scarlet Mission』の二曲のPVの撮影地でもあるから、ある意味ファンの聖地ですね。あの人のお祖父さんの、アリステア・ローゼンスタイナーさんの聖地でもあるみたいで、わたしも少し映画は見ました。車頼りの田舎らしいですが、わたしもぜひ行ってみたい場所です。あとアメリカ編もあるんです。プロヴィデンスとニューヨークがメインの。あなたがたインストの四人には関わりはないでしょうけれど、プロヴィデンスの学校から『Cascade』や『Waitin’ for the sunrise』が生まれているわけですし、“ローディー・ギャング”のみんなで集まって遊んでいた場所とか、あの事件があった練習場とか。ニューヨークでは、『Wild Rose』や『Through the Window』があって、子供のころ監禁されていたアパートとか、飛び降りて保護された場所とか、野バラさんに助けてもらった場所とか、そういう所もあります」
「え、と言うか、特定されているのかい、その場所を。ファンたちに?」
 僕は思わず驚いてきいた。
「ええ。あの小説家さんのブログにありましたから。それがファンサイトにも転載されて。だから熱心なファンは、ほとんど知っていますし、そういう名所めぐりもけっこう盛んです。わたしもそうで、まだ名所めぐりはしたことはないですが、いつか絶対行こうと思っていて、CDやDVDを見て、聞いて、動画を見て、いろいろな情報をあさって、みんなと話して、騒いで、コンサートに行って。プライベートでは、遠くから一目でも見られたら、それだけで幸せで。本当は去年の春も、図々しくガードをかいくぐってあなたの所へ押しかけていくつもりなんかなかったんです。でも……」
 彼女は少しいたずらっぽいまなざしで、僕を見上げた。
「あなたはきっと覚えていないですよね。わたしはあなたに会ったのは、あの晩が最初じゃないんです」
「え?」でもあの時より前には、彼女を思い出せない。
「去年の春ですけど、前回のワールドツアーの、あなたたちがイギリスへ来た最初の日でした。わたし、ロンドンの空港で待っていたんです。それであなたたちがゲートから出てきて、みんなが一斉に走り出して、警備員さんが止めて……それで、わたしは警備員さんに突き飛ばされて、転んでしまったんですね。あなたはそれを見て、その人に抗議してくれたんです。『乱暴しないでくれ!』って。そして、わたしに向かってにっこり笑うと『ごめんね。大丈夫?』って、言ってくれたんですよ。それ以来あなたはわたしにとって、急に現実味を帯びた、一人の人間になったんです。生身の人間に恋するような気持ちになってしまって。だから、どうしても会って話をしたいって、そんな気持ちが押さえきれなくなって。あなたたちが泊まっているらしいホテルは、同じホテルに泊まっている人たちの書き込みでわかる場合があるので、チェックして、その時もたまたまわかったので――わたし、もしかしたらあなたたちの宿泊先はそこかもしれないと見当をつけていて、あらかじめお部屋を予約してあったので、ホテルのロビーやお店をうろうろしていたんです。あなたのお部屋は最初、わからなかったんですが、あなたのボディガードさんを空港で見て知っていたので、たまたまその人を見かけて、それでこっそり後をついて行って、あの人があなたの部屋に行くところを確認して……どうしようか迷ったんですが、意を決して、ドアを叩いたんです。怒られても、追い返されても、近くで顔を見られたらそれで良いと思って……」
「そう。マイクの後をついていったのか。まあ、あの頃ならフロアに警備員はいないから、部屋がわかったら、来られたんだろうね」
「今はいるんですか? 警備の人」
「ああ。このツアーからね。飛び込みのファンならまだいいけれど、攻撃されると困るから。特にエアリィは絶対外に部屋が知られないように、かなり気をつけているんだ。この間の全米ツアーで、ルームサービスのふりをした奴が彼の部屋に発煙筒を投げ込んで、その煙で気分が悪くなってしまって。アレルギーを起こすほどじゃなかったけれど、でも相当咳き込んでしまったんだ。公演には響かなかったけれど」
「あら、まあ! そんなこともあったんですか!」
「そう。それに発煙筒じゃなくて、爆発物だったら大変だと、マネージメントやスタッフたちは青くなっていたよ。僕らもね。彼への攻撃は、本当に洒落にならないんだ。特にこのツアーは。だからずっと彼の専属スタッフが、部屋でも一緒にいることが多かったんだ。ドアを開けた途端に襲われるような事態を避けるためにね」
「そうなんですね。でも結局、こんな大きな事件が起きてしまって……命が助かって、本当に良かったです。『危機を脱して、意識が戻った』という報告が公式ページに出た時、思わず泣きましたから」
「そうなんだ。本当にありがとう。心配をかけて申し訳なかった、とあいつの代わりに言っておくよ」
 僕の言葉にニコレットは笑って頷き、そして少しそれた話の続きに戻った。
「あの時、わたしがあなたの部屋まで行くことが出来たのは、本当に偶然の幸運だったと思います。それに追い返されると思ったら……最初は少し不機嫌そうで、ちょっと怖かったですが、すぐに笑って部屋に入れてくれて、本当に嬉しかったです。天にも昇る気持ちでした。一対一で会えて、あなたは本当に思ったとおりすばらしい人で。それで、ますます好きになってしまったんです」
「照れるな。そんなに誉め上げないでくれよ。でも僕は、ホテルで会った時が初対面だと思っていたよ。正直言って、さっき君が言った空港の話は、覚えていないんだ。ごめんね」
「いいんです。たぶん、あなたは気に留めてはいないと思いましたから。あなたにとっては、当たり前の行為なんですよね。あなたは優しい人だから。公園でお会いした時も、あなたはわたしに、さりげなく傘を差しかけてくださったし。本当に優しい人なんですね」
「頼むよ。そんなに誉め上げないでくれないか」
 僕は面映くなるばかりで、少し身の置き所のないような思いを感じた。




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