Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(14)




 それから三日後に、継父のステュアート博士と継兄アランさんがやってきた。ステュアート博士とは初対面だが、背が高く(僕とそれほど変わらない)、痩せ気味の体躯で、ダークブロンドの髪がうなじを覆い、鋭い灰色の目に少しだけ鷲鼻、口ひげを蓄えている。彫りの深い顔立ちで、整ってはいるが、眉間によせたたてじわが少々気難しそうな雰囲気だ。そして、あまり口数は多くない。僕らにもマネージメント事務所の関係者たちにも、必要なこと以外ほとんど何も話さなかった。
 博士はエアリィの病室で、開口一番こんなことを言った。
「斧で叩いても死なない人間というのは、おまえのことだな、アーディス」
 その言葉に僕らの方がびっくりしたが、エアリィは苦笑しただけだった。
「おまえはきっと、何かに守られているのだろうな。だがな、それを過信しすぎるんじゃないぞ」ステュアート博士は、そう言葉を継いでいた。
「おまえは、とかく災難を呼び寄せる奴だな」
 アラン・ステュアートもそんな言葉をかけていた。この継兄は、初対面ではない。ニューイングランドでの公演のバックステージに来るエアリィのゲストたち――プロヴィデンスの友達の中に、この人はいつもいた。“ローディー・ギャングス”はスコットランド系、ユダヤ系、ラテン、ヒスパニック、アフリカ系に東洋系といろいろ入り混じっていて(それぞれの出自は例の小説で知った)、どちらかといえば陽気な人たちが多いが、その中に一人、純粋なアングロサクソンぽく、ひときわ生真面目そうで、僕らにはほとんど表情を変えず、ほんの少しだけ目礼するこの人が、エアリィの継兄アランさんだったということは、この場で初めて知った。今回も同じように僕らに目礼し、父親同様、挨拶抜きで継弟に話しかける。その声は少しハスキーで、少し早口だ。こうして改めて見ると、その父親によく似ている。ダークブロンドの巻き毛に灰色の目、それにやっぱり少し鷲鼻だ。ひげは生やしていず、かわりに眼鏡をかけているが。博士より背は低く、エアリィより五、六センチほど高いくらいだろう。
 アランさんはこうも言った。
「それがおまえの生き方なのだろうし、おまえにしても好き好んで選んだわけではないと言うんだろうが、あまり心配をかけるなよ、アーディス」
 二人とも言葉数は少ないし、下手をすると誤解を生みそうなことを言うが、だがよく聞くと、心から気遣っていることがわかる。エアリィは彼らとの付き合いが長い分だけ、なおさらよくわかっているのだろう。
「うん……ありがと。心配かけて……ごめん。継父さんも、継兄さんも……忙しいのに、わざわざ来てくれて……ありがとう」と、素直に感謝していた。
 ステュアート博士とアランさんは半日ほどロンドンに滞在しただけで、夕方の飛行機で帰っていった。エステルとロザモンドも一緒だ。アデレードは今しばらく看護に残るので、ロザモンドはその間、博士の家で面倒を見てもらうらしい。
 それを継父に告げられた時、エアリィは少し驚いたような顔をした。もともと博士もアランさんも義理の間柄で、しかも母親は他界しているので、エアリィもロザモンドの面倒を見てもらうというのは――特にステュアート家の家政を引き受けている、博士の姉ミリセントさんに対する遠慮もあったのだろう。
「いいの? ロージィはだって……」と、聞きかけた彼に、
「おまえの子だろう?」と、博士はなんでもないような口調で遮る。
「それに、あの子はエステルに懐いているようだ。エステルも可愛がっている。エステルにとっても、姪だしな。ミリセントも異存はないらしい。まあ、小さい子の世話は慣れてはいない、大変だろうとぶつぶつ言っているが、それはいつものことだ。それに、そう長い間でもないのだろう?」と、博士は続け、アランさんも「僕がここに来る前に、一度家に帰ったら、ミル伯母は『二歳児の接し方』なんていう本を読んでいた。だからおまえは気にしないで、早く怪我を治せ」と、苦笑に近い笑いを浮かべながら言っていた。

 僕らも、ようやく気持ちを前に向けることができた。宙ぶらりんになっていたバンド生命が再び息づいた。これからのことを考えなければならない。当日キャンセルになった最終公演は当然のこと、十一月下旬から始まる予定だったアジア〜オセアニアツアーも、来年の一月下旬から始まる予定の、二回目の北米ツアーも、すでに全面キャンセルになっている。
 十二月初めのその日、ロブは担当医師に回復の見込みを問うた。
「そうですね。回復状況には個人差がありますが、今までのところ患者の回復は目覚ましい。若いですし、まあだいたい全治三ヶ月か四ヶ月といったところでしょうか」
 主治医であるマッコーリー先生は、少し考えるように黙ってから、そう答えた。
「そうですか。では、来年の二月か三月には回復できるんですね。リハビリには、どのくらいかかるでしょうか?」
 ロブがほっとしたような面持ちで、そう問いかける。
「リハビリと言いますと?」
「まだワールドツアーの途中なので、どのくらいで再開できるか、その見とおしをお聞きしたいのです」
「ああ……そうですね」医師は口ひげをこすり、かなり当惑したような顔をした。
「それは、大変申し上げにくいのですが、無理でしょう。身体は回復しても、これまでのような活動は、もう出来ないのではないかと思います」
「えっ」その言葉に、ロブだけでなく、全員が呆然としたようだった。僕も一瞬、固まった。医師が何を言っているのか信じられず、その言葉の意味が頭に入ってこない。
「どう言うこと……ですか? もう、これまでのような活動が出来ない、とは」
 つまるようなかすれた声でロブが聞いた。
「歌手が肺機能を失うということがどういうことなのか、考えてみてください。歌うために必要なものは何か。それは発声器官と肺活量です。強い肺機能がなければ、いわゆるChest Voice、力のある声は出ないのです。ですが彼は今、以前の三分の一にも満たない肺しか残っていません。銃創による肺損傷は非常に激しかったので、左肺はほんの一部を残してほぼ全部、右も三分の一以上、切除せざるを得なくなってしまいましたからね。肺機能を取り戻すには、肺移植しかありませんが、血液型すらあわない患者に、適合する臓器があるとも思えません」
「それはたしかに……」ロブがうめく。
「それに彼には、麻酔がかけられないのです。ほとんどの麻酔薬が禁止リストに入っていました。搬入時には意識のない状態でしたから、低体温法を使って緊急手術が出来たのですが、麻酔をかけて手術というのは、まず無理ですから、仮に適合する臓器が万万が一あったとしても、移植は問題外です。ですから、治療法はないというしかありません」
「……」
「ですから、彼は残された肺だけで生きて行くほかはないのですが、それは以前の三分の一以下になっています。つまり、肺機能も肺活量も三分の一以下に落ちてしまったということです。その状態で、以前のように歌うことは無理です。声量も三分の一以下になってしまいますし、とても力のない声になってしまいますよ。せいぜい椅子に座って、細々と歌うくらいが精一杯でしょうが、ロックバンドでそれでは、バックの音量に負けてしまいますでしょうし、それですら、きっと二、三曲出来ればいいほうでしょう。普通なら、これから酸素ボンベが手放せない生活になるくらいなのですから、ロックミュージシャンとして歌えるような身体には、もうなれないだろうというのが正直なところだと思います」
「そんな……」
 僕らはみな、言葉を失った。再起不能? これは悪い夢なのだろうか。せっかく生命は助かったのに、ロックシンガーとしての命は断たれてしまったというのか。史上最大の、ただ一人未踏の領域に到達したシンガー、アーディス・レインはもう戻らないのか――。そうだ。今まで命の危機が深刻だったから、僕も思い至らなかった。ヴォーカリストが肺を損傷することの重大さを。僕は思わず全身の力が抜けるのを感じ、床に膝をついた。バンドのほかの三人も、ロブも茫然自失といった表情だ。

 その日、病室でエアリィに会うのが、ひどくつらく感じた。まだそのことを言うつもりはなかった。きっと、ひどいショックを受けるだろう。そして僕もそれに劣らずショックだ。これからどうして良いのか、何も考えられない。それはきっと、他のみなもそうだっただろう。
 エアリィはそんな僕らを見て、ちらっと微笑した。
「どしたの、みんな……ずいぶん、悲壮な顔して」
 そんなにはっきりわかるほど、落ち込んだ顔をしていただろうか。僕もみんなも。多分そうに違いない。そう言われても、何と返答していいかわからないような状態だ。
「エアリィ、あの……」僕は思わず言葉を飲みこんだ。何が言える?
「医者に、言われた? 僕は、もう歌えないって」
 僕らはいっせいに絶句した。
「知っていたのか……?」ジョージがうめくように、やっと返す。
「聞いては、いないよ。けど、察しついた。肺が、やられたから。今も、けっこう……長いこと、話を続けるのは、つらいよ。胸が痛い……酸素テントのおかげで、それほど苦しくは、ないけど……まだここから、出れないし。今歌えって言われたら、絶対無理、って思うけど。けどさ……」エアリィは視線だけ動かして僕らを見、そしてちょっと笑った。
「今、だけだから。時間があれば、治るよ」
「そうは言っても……」
 僕は言葉を飲みこんだ。肺機能が三分の二以上も失われた。それは回復しても変わらないだろう。でもそれを言うのは残酷過ぎるし、僕らにとっても悪夢でしかない。
「うん……医学的なことも、わかってる。心肺機能は、回復しないだろうって……僕は、移植は……できないだろうし」
 エアリィはどうしてか、僕の声なき言葉を聞いているような反応をする。まるでマインズデールのシスターのようだ。いや、今の彼はそれ以上かもしれない。
「けどさ、大丈夫だよ。普通の人は……だめかもしれないけど……僕は、普通じゃないから。って……自分で、言いたくなかったな、そんなこと……」
「そうか……そうだよな。おまえはたしかに、普通じゃない」僕ははっとして頷いた。
 それは絶望の中の希望。彼がこのまま終わるはずはないという思い。楽天的かもしれないが、たしかにエアリィは普通ではないのだ。常人の常識は通用しない。間違いなく死んでいるような致命的なケガを、自発的に仮死状態にして乗りきってしまうような、常識はずれの人間なのだ。その彼には、失った肺機能を取り戻すだけの驚異的な回復力もあるかもしれない。それは僕らにとって、一縷の望みだった。
「大丈夫だよ」彼はちょっと笑い、そう繰り返した。
「きっと僕は……戻るから。これで終わりには、したくない。まだ、途中なんだから。それにさ……VIは、対の……片方なんだ。これだけじゃ……不完全だから」
「ああ、きっと戻ってこいよ、本当に。僕らも、ファンたちも待っているんだ」
 僕は頷いた。その部屋にいる全員が、同じだったようだ。
「大丈夫……僕の天命は……終わってないから。まだ……先のシナリオは……生きてるはずだよ。運命って……人間には、決めらんない部分も、あるんだ。生きること……死ぬこと……やらなきゃならないこと……みんな生まれた、意味があって、やらなきゃ、いけないことがあって……それが終わるまでは、生きていなくちゃ、ならないんだ。僕もみんなも……まだ、これからやることが、残ってる。だからその時までは……僕らはきっと、前と同じように、行けるよ……」
 エアリィはふっと息を吐いて、目を閉じた。長いこと話しすぎて、疲れたのかもしれない。でもその言葉は、僕の胸に重く響いた。それは真実なのだ、と。たぶん僕たちは、みんなそれぞれ、何かをなすために生まれてくる。僕たちの最大の天命は、たぶん新世界への橋渡しをすることなのだろう。そう思った時、急にぶるっと身震いした。みんなも同じように感じたらしく、しばらく何も言えなかった。
 黙っている間に、エアリィは眠ってしまったようだ。意識を戻してからも眠りがちで、付き添っているアデレードの話から察すると、一日で起きているのは、せいぜい三、四時間くらいらしい。でもそれで、瀕死の重傷をおった身体を回復させているのだろう。そんな気がする。
 ブルーブラッド──未来世界の大統領から聞いた話を、僕は再び思い出した。この特殊な人間は、非常に高い治癒能力と回復力がある。それはおもに眠りという形で発動する。もしそれが本当にその通りで、エアリィもまた典型的なそのタイプだとしたら(ことに彼には通常の医療行為は効くどころか、害になってしまうのだ)、今彼の身体はダメージから回復させるために、眠りを欲しているのだと思える。医師も言っていた。彼は医学の常識が通用しない患者だと。だったら普通の人は再起不能でも、アーディス・レインは違うかもしれない。
「来年の春から、ツアーを再開させよう」
 ロブが静かに口を開いた。まるで自らに言い聞かせるように。
「医者がなんと言おうと、エアリィが再起不能になどなるものか。そのつもりでスケジュールを組みなおそう。みんなはどう思う?」
「同感だよ!」
 ロビン、ジョージ、ミック、それに僕は同時に声を上げた。楽観的すぎるかもしれない。現実を無視しているのかもしれない。それでも一縷の希望にかけて、来年の春の再始動、ツアー再開の準備を整え、待っていよう。まだ今度のアルバムのワールドツアーは半分なのだ。もっと多くの人に、生の僕らの音楽に触れて欲しい。問題作だからこそ、なおさらだ。こんなところで終わってなるものか。

 十二月初めの寒い夜、僕はホテルの部屋で荷物をまとめていた。ロンドンに足止めされてから三週間以上が過ぎ、明日はようやく家に帰ることになっている。でも――荷造りの手を休めて、考えずにはいられなかった。家に帰る。妻も子もいない我が家へ。しかも今度は、数ヶ月はそこにいなければならない。いや、もしかしたら、もっともっと長く──希望は持っていても、常に最悪の可能性という懸念も消すことは出来ないから。そんな長い間の一人暮らしなんて、とても無理だ。僕には耐えきれない。
 僕は気の進まない二者択一を迫られていることに気づいた。自尊心を飲み下し、すべてを水に流してステラの実家へ行き、どんなことをしてでも彼女や義父母の許しを請うて、家に戻ってきてもらうか。それとも僕の実家へ行き、すべてを打ち明け、両親や兄姉に仲介に入ってもらって、何とか元に戻れるように力添えをしてもらうか。どちらの選択肢を選んでも、憂鬱な思いだけしか感じなかった。妻のわがままをすべて許し、なおかつ頭を低くして、自らのかたくなさと思いやりのなさをわびるほど、自尊心を踏みにじるわけにはいかないと思った。そうやって僕が低姿勢で望めば、ステラは自分も悪かったとは、決して思わないだろう。この前迎えにこなかったことをなじり、連絡しなかったことをなじり、僕の理解のなさをなじり、心では僕を拒否しながら――そんな妻とずっと暮らすのは、ある意味で拷問なのではないだろうか。
 自尊心にしがみつくのは、くだらないことだ。理性の上ではそう思ってはいる。でも、それでも僕は男としてのプライドにこだわり、そこまで自分を低くするつもりはないと、平然と思ってもいた。しかも僕はそのことに対し盲目だった。頑ななまでに自分にも非があるとは認めようとしなかった。でも、それなら後者の方は――これもまた僕のプライドが立ちはだかっていた。両親に心配をかけたくないなどときれいごとを言ってはいても、本心は家庭がうまくいっていないことを親兄弟たちに知られたくない。そんなに甲斐性のない男だと思われたくない。僕はそれに対しても、また盲目だった。プライドを飲み下そうともせず、そのことに気づこうとさえしなかった。
「帰りたくないな……」
 ため息とともに、そんな呟きが漏れ、そう言う自分の声を聞いて、僕は思わずはっとした。家に帰りたくない。そうだ。それが本心だ。あの事件の朝もそう思っていた。あれから思いがけず三週間延び、意識を家庭に向けるゆとりがほとんどなかったが、再びはっきりその思いを認識して、僕は当惑した。でも帰りたくなくとも、帰らなければならない。ロンドンにとどまっていなければならない理由は、もうないのだから。エアリィの回復もとりあえず安定し、ツアーの事後処理も全部片付いた今となっては。
 僕は再び深いため息をつき、ゆっくりと荷造りを続けた。できたらトロントではなしに、どこか他へ行きたいと思いながら。

 次の日、僕たちは午後の便で帰る予定だった。僕は朝食と荷造りをすませ、外がうっすらと明るくなるのを待って、公園に散歩に出かけた。この時期のロンドンは、十時を過ぎないと夜が明けない。しかも天気が悪く、雨のしょぼつく寒い日だったが、あの事件以来、病院へ行く以外ほとんどホテルに缶詰状態に近かったので、ふいに外に出かけたい衝動にかられたのだ。ロビンやジョージ、ミックはこんな天気に外へは行きたくないらしいが、僕はともかく外へ出たかった。みんなが来ないのなら一人で気楽に行きたかったのだけれど、もちろん今の状態では、一人でなんか、とても行けはしない。ボディガードのホッブスが一緒だ。そしてロブには、「飛行機の時間があるから、十一時半までには帰れよ」と釘を刺されていた。
 他の人にあまり見つかりたくないので、僕は髪を後ろで一つにきつく束ね、帽子をかぶってサングラスをかけた。公園には、ほとんど誰もいない。たしかに傘を片手に水溜まりをよけよけ歩くのでは、あまり散歩に適してるとは言えないし、ベンチも濡れているから、腰をおろすこともできない。空は陰気な鉛色、草は茶色く枯れて、木々もすっかり葉を落としている。でも一番冴えない季節の冴えない天気でも、僕は結構楽しんだ。久しぶりに外を自由に歩くという解放感に浸っていた。つかず離れずついてくるホッブスの存在も、あまり気にならない。

 二十分ほど歩いた頃、この冷たい雨の中、ベンチに腰かけている人がいるのに気づいた。それもベンチの上にレジャーシートを敷き、両方の手すりに大きな傘を二本くくり付け、その間にビニールシートを張り渡すと言う周到さで、膝の上にスケッチブック、右手にはクレヨンを持ち、一心に絵を描いているようだ。傍らに、クレヨンの箱が置いてあった。オレンジ色のレインコートをすっぽり来こんでいて、そのフードの下から白い毛糸の帽子と、お下げに編んだ黒い髪がのぞいている。女の子のようだ。
 見ているうちに、彼女はふと目を上げた。しばらく手を止めて、じっとこちらを見ている。と、見る間に立ち上がり、絵をベンチの上に置くと、僕の方に駆けてくる。しまった、気付かれたかな。気づかない振りをして歩き去ろうか――そんな考えも頭をかすめたが、雨の中で写生している奇妙な女の子に対して引かれた興味の方が大きかった。
 僕はその場で待った。彼女は息を弾ませて側へ来ると、雨に濡れるのもまったく気にしていないように、少し小首を傾げて嬉しそうな声を出した。
「ジャスティンさん!? ジャスティン・ローリングスさん……でしょ?」
「そうだよ」
 僕は少々ためらいながら頷き、傘を半分ほど彼女の方にさしかけた。
「やっぱりそうだわ! わたしも、半信半疑だったけど……だって、こんなところにいるはずないと、思ってたんですもの。とっくに帰られたかと思っていたの」
「今日帰る予定なんだ」
「ああ、そうですよね。色々大変でしたもんね。わたしも、もう大ショックで……でも、最悪なことにはならなくて、本当によかったわ。あなたも無事だったし」
 彼女は再び小首を傾げ、僕を見上げた。僕は彼女のその動作に、なんだか見覚えがあるような気がした。声や目の表情にも。彼女は悪戯っぽい調子で言葉を続けた。
「覚えてらっしゃいません、ジャスティンさん? わたし、あなたにお目にかかるの、初めてじゃないんです。去年の五月にあなたがロンドンにいらした時、わたし図々しく二回もお部屋に押しかけていったわ」
「ああ!」僕は思い当たり、小さな叫びを上げた。
「君は……ニコレット?」
「覚えていてくださったんですね。わあ、うれしい!」
 彼女は頬をピンクに染め、両手をあわせた。
「そうです。わたし、ニコレット・リースです。お久しぶりです。あの時は、ありがとうございました」
「気が……つかなかったよ」
「あの時は、よそ行きでしたから。これが普段のわたしなんです。お化粧もしていないから、あまり見ないで下さいな。なんだか恥ずかしいわ。まさかあなたに会うなんて、思いも寄らなかったし……」
「でも、普段の君もかわいいよ」
「またあ、おせじでしょう? でも、うれしいです」
 彼女はぽっと頬を染めている。僕は再び問いかけた。
「どうして雨の日に、写生なんかしているの? しかもこんな寒い日に」
「やっぱり変ですか? でも、わたし絵を描くのが大好きで、今通信教育で勉強してるんですが、今度提出する自由課題に、雨の日の公園を描こうと思って。普通は写生なんて、きれいなものを描くんですけれど、時にはあまり人が見ない、描かないようなものを、描いてみたいと思ったんです。それで今日は雨だし、仕事もお休みだから、夜が明ける前からここに来たんです。たしかに寒いですけれど、ちゃんと防寒しましたし。雨の日の公園って、灰色に煙って陰気そうだけれど、これはこれで風情があると思いません?」
「そうかもね」
「あなただって、こんな雨の日にお散歩していらっしゃるくらいだから、きっとその風情を認めてらっしゃるんでしょ?」彼女は悪戯っぽく笑った。
「本当は晴れていた方がいいけれどね」僕も笑いを浮かべる。
「でもたしかに、君の言うことも一理あるよ。こんなうっとうしい日でも、一部の美があるってね」
「それに晴れた日は人が多くて、あっちこっち声を駆けられて大変だからですか?」
「そうだね」
「超人気者も大変ですね。エアリィ……アーディス・レインさんの事件には、本当にわたし、衝撃でしたし。あの人はわたしにとって、神様みたいな人だから……」
「神様? エアリィが君の神様みたいだって? あいつが聞いたら、いやがるよ」
 僕は思わず肩をすくめた。
「それで、僕は君にとってなんなの?」
「あなたはわたしの王子さまです」彼女は頬を染め、きっぱりと言いきる。
 僕は思わず苦笑した。
「そこまでねえ」それしか言葉がない。
「あの……ジャスティンさん。怒らないでくださいね。わたしはエアレース命ですけれど、あなたは特別なんです。あなたのことは……単にエアレースというバンドのギタリストじゃなくて、あなたは、その……厚かましいことを言ってごめんなさい。でも、あなたは手の届かない、雲の上の大スターや神様じゃなく……恋愛対象になり得るような、わたしの生身の愛する人で……ええ、わかっています。迷惑ですよね。あなたにとっては、去年の春ホテルで一緒に過ごしたことなんて、いつでもあるような単なる行きずりにすぎないんですよね。でも、あの夜のことは、わたしは一生忘れません。わたしには、宝石のように貴重な思い出なんです」
 一言ごとにますます頬を燃え立たせながら、彼女は熱っぽい口調で言った。それから恥ずかしそうにうつむき、両手で顔を覆っている。
「ごめんなさい。迷惑ですよね……」
「迷惑だって?」
 僕はそっとその手を取って、顔から離した。そしてうつむいているその眼をのぞき込み、微笑みかけた。
「僕も覚えているよ、君のことは。あれからどうしたのかなって、時々思っていたんだ」
 それは嘘ではなかった。ほのかな懐かしさとともに、二度か三度ほど、彼女と過ごした夜を思い返したことがあった。妻と上手く行かなくなってからだが。
 ニコレットは目を潤ませて僕を見上げた。頬を燃え立たせ、歓喜と恥じらいの表情を浮かべて。かすかに身体が震えている。僕は胸が熱くなり、衝動的な決心をした。どうせ家に帰ってもつまらないのなら、ここでの出会いを大切にした方がいい。ここで彼女に出会ったことは、運命の導きのような気さえした。思わず言葉が出てきた。
「ねえ、ここで再会したのは、本当に幸運な偶然だから、このまま別れるのは惜しいね。これから僕の部屋にこない?」
「ええ……」彼女は少しはにかみを見せながらも、目をきらきらさせて頷いている。
「でも、今日帰るご予定なんでしょう?」
「予定は変えたよ。しばらくトロントには帰らない」
「でも、奥さんが心配なさいません? 待っていらっしゃるでしょうに」
「妻は僕がいつ帰ろうと、まるで気にしてないさ」
 その口調と表情で、僕たち夫婦があまりうまくいってないことを、ニコレットもなんとなく悟ったのかもしれない。しばらくためらうような表情を見せた後、そっと言い出した。
「じゃあ……わたしの家にいらっしゃいません? わたし、一人暮らしなんです。ちょうど一部屋空いていますし」
「いいのかい?」
「ええ。わたしの部屋は、あなたがいらっしゃるホテルより、十分の一も豪華じゃないけれど、でもわたし、料理はわりと得意なんですよ。レストランのごちそうではなくて、あなたにイギリス風の家庭料理を作ってあげたいわ。イギリスは料理がまずい、なんてよく言われてますが、おいしいものもたくさんあるんですよ」
「そう。じゃあ、君の家に行くよ」
「いいんですか、ジャスティンさん?」
 そばで僕らのやりとりを慎み深く聞いていたらしいホッブスが、そこで口を出してきた。
 僕は彼に向き直った。
「いいさ。君はみんなと一緒に帰っていいよ、マイク。でも、一つだけ頼みがあるんだ。今からホテルに帰って、僕の荷物を持ってきてくれないか。ああ、トランク二つはいらない。一つだけでいいから、どっちかを。僕は……そうだな……」
 僕はあたりを見回した。少し離れたところに、小さなあずまやがある。
「あそこに見えるあずまやで、彼女と待っているよ。その間に、しばらくロンドンの友達の家に滞在するからと、ロブに電話で伝えておくつもりだよ」
「いつまで、ご滞在予定ですか?」
「そんなことは、わからないよ。帰る気になったら、マネージメントに連絡を入れるから。カークランドさんの他にも、二、三人ロンドン在住のスタッフがいるわけだし、まだ当分エアリィは帰れないから、ジャクソンも残るだろう。ロブも時々は来るだろうしね。だから僕もこっちへ残ったって、そんなに問題はないだろうと思うんだ」
「まあ、そうですね。それに僕は基本的に、あなたのプライバシーに立ち入るつもりはありません。でも、ここで単独行動するのは危険ですよ」
「大丈夫だよ、自分で用心するから。それにきっと、僕はそれほど狙われないと思うしね」
「連絡先を教えてくれませんか?」
「僕の携帯にかけてくれればいいよ。彼女のほうの連絡先は、迷惑がかかるといけないから、教えたくないんだ。僕もまだ知らないしね。あまり彼女を待たせたくないから、早く行ってくれると、助かるんだけどな」
「わかりました。出来るだけ急ぎます。トランクをどっちでもいいから一つだけ、持ってくるんですね。では、それまであずまやで待っていてください」
「ああ。頼んだよ」
 僕は頷いてみせた。しかし、待っている気はなかった。ホッブスの姿が公園の木立の向こうに見えなくなると、僕は彼女を振り向いた。
「じゃあ、行こう、ニコレット。写生が途中になってしまって、申し訳ないけれど」
「ええ。それは全然平気です。またの機会にしますから」
 ニコレットは写生道具やビニールシートなどをてきぱきとした動作で片づけ、大きなビニールのトートバッグに入れている。彼女の片づけが終わると、僕はその手を取ってゲートに向かった。ニコレットは少し驚いたような声を上げた。
「え? あそこのあずまやで、待っているんじゃないんですか?」
「いや、待っている気はないよ。彼が側にいると、うるさいから、追い払っただけだ。それに待っていたら、きっとみんなに何だかんだと言われるよ。僕の荷物はトロントへ送り返してくれるだろう。貴重品やパスポートは、幸いなことに今持ってきてるんだ。少しばかり身の回りの物を、これから買うよ。一緒に選んでくれる?」 
「ええ……」彼女は驚いたようだったが、微笑を浮かべて頷いていた。
 僕らは足早に公園を出ると、ちょうど通りかかったタクシーに乗り込んだ。車の中で僕は携帯電話を取り出し、電源を切った。僕が帰る気になるまで、再び電源を入れるつもりはなかった。このタイプなら、電源さえ切ってあれば、僕の居場所はわからない。僕は自分自身を隔絶するつもりだった。マネージメントから。音楽ビジネスから。そして、ステラからも。




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