Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(13)





 一週間がすぎた午後だった。状態はほとんど変わっていない。ただ幸いなことに、自発呼吸が感知できない状態にもかかわらず、意識はないが、脳に重篤なダメージは今のところ、認められてはいないようだ。低くわずかな心拍は続いており、それに見合うだけの微細な酸素が、どこからか供給されているかのように。それは、皮膚呼吸なのかな――僕はふとそう思った。そうだ。未来世界で会ったタッカー大統領も言っていた。『ブルーブラッドは皮膚呼吸率が三十パーセントを超える』と。そして、エアリィもそのタイプだと。そういえば彼は気密性の高い服が嫌いなようで、ダイビングでもサーフィンでも、Tシャツに綿のハーフパンツでこなしてしまうらしい。実際、写真でもそうだった。『ウェットスーツは着れない。苦しくて』と、以前言っていたこともある。メイクをしないのも、緩やかなトップスが好きなのも、ボトムスはタイトだがレザーやエナメルはNGで、通気性のあるものしか着ないのも(上着も同じようだ。レインコートすら嫌がる。『濡れるのは平気』などとも言っていたし)、普通の人よりも、かなり皮膚呼吸率が高いせいなのかもしれない。だから、この代謝がほとんどない状態なら、なんとか必要な酸素をそれでまかなえているのかも――そんな気がした。もちろん、根拠はないが。それに体位変換をしていないわりに、褥創もできてはいなかった。ロザモンドに乗っかられて心拍が再開してからは、状態は悪くなってはいないが、良くもなっていない、そんな感じだ。
 晩秋のロンドンの陽は短い。まだ午後二時半だというのに、もう金色の夕日が射し込んでいる部屋に、僕たち四人がいた。アデレードは仮眠と休憩のために朝からホテルに帰っていて、ロザモンドも同じく、ベビーシッターさんとエステルと一緒にホテルにいる。看護と言ってもやることはなく、状態が変わらないか見ているだけなので、僕たち――ロビン、ジョージ、ミックと僕はアデレードを休ませるため、朝からずっとここにいた。
 アデレードが付き添っている時には、彼女はほぼ常にベッドサイドの椅子に座り、彼の右手――ペンダントを持っていない方の手を握ってさすりながら、話しかけていた。
『もうすぐ帰ってくると思って、楽しみにしてたのよ、エアリィ。あなたがフランスでロージィにお人形さんを買ったって、写真送ってくれて、あの娘は大喜びしてたの。もうすぐパミィが帰ってきて、お土産もたくさんって……お土産は、でもどうでもいいのよ。あなたが無事に帰ってきてくれたらって……ねえ、今度のオフにはお庭でいっぱい遊ぼうって、ロージィに言っていたのに。今年は庭の木から、りんごが取れたのよ。それでパイを作ったの。あなたが帰ってきた時のために、まだりんごをとってあるのよ。あなたはわたしよりパイもタルトも、作るのが上手だけれど……ロージィはパミィのケーキが食べたいって、いつも言っているの。でも、わたしもパイはかなり練習したんだから。庭の木はすっかり葉っぱが落ちて、落ち葉の掃除が大変だって、庭師のエリオットさんがぼやいていたけれど……樅の木は、まだ青いけれどね。常緑樹ですものね。今年もその木にツリーの飾りをするって、言ってたのに……ねえ、クリスマス、一緒にお祝いできるわよね。お願い、その時までには、目を覚ましてね……』
 返事をすることのない、深く眠り続ける相手に対して、彼女はいろいろなことを話していた。オフの間のロザモンドの様子や、自分たちがどのように過ごしていたか、最近お気に入りの番組や、新しく作った服や――そして最後はいつも、泣いて終わってしまう彼女の語りかけは、彼の耳に届いているだろうか。でも、たとえ聞こえていなくとも、その思いは届いていると信じたい。そして彼女ほど頻繁ではないが、僕らも声をかけ続けていた。「戻ってこいよ」「待ってるからな」「がんばってくれよ」「信じているから」と。

 この部屋は特別室なので、かなり広く、冷蔵庫とテレビ、ソファとテーブルもある。僕ら四人がいても、さほど狭くはない。お昼にはロブがサンドイッチとキッシュ、コーヒーを差し入れてくれた。
 僕はベッドサイドの椅子に座った。相変わらず眠っているというよりは、半分死んでいるかのような静寂。その顔を眺め、本当にどんな神の配剤がこれほどのパーフェクトさを作り出したのかと改めて思いながら、今はその閉じた瞳がもう一度開いてくれたら、と切に思う。そしてふと、先端が頬に触れるほど長いまつげのその色に、改めて不思議な感じを覚えた。青──ブルーブラッドは黒が青い色調に傾く人もいる、未来世界のタッカー大統領がそう言っていたが、それはどういう由来というか、メカニズムなのだろう。黒ではなく紺色の瞳孔や、普段は前髪に隠れていることが多いから目立たないが、細く整った、青い眉も。もしかしたら前髪を切って額におろしているのは、その特異な色の眉をあまり見せたくないせいかもしれない、とふと思った。まつ毛はずっと濃いサングラスをかけていない限り隠しようがないから、仕方がないにしても。ファンたちの間では青い付けまつげやマスカラが流行し、ショップにも売られるようになっている。しかし元々の色から青くするのではなく、なぜ天然で青いのか、ファンたちやマスコミも不思議がって、いろいろ議論しているようで、最近ではかなり飛躍した推測さえ出ているようだが、結論はわからない。たぶん、わかることはないのかもしれない。そして、天然の青の髪や体毛の持ち主といえば、もう一人しか思いつかない。未来世界で見た、あの『夜明けの大主』――アルシス・リンク・ローゼンスタイナー。あの人は髪も青かった。明るいコバルトブルーのような色。
 あっ──僕は思わず手を伸ばし、枕の上に広がった光のような髪の中から、一束つかみあげた。何かの影が落ちたのだろうかと思ったら、これは──鮮やかなコバルトブルーのような、青い髪。その色を認めた僕は、軽い驚きに見舞われた。その色の髪が、一インチ弱――二センチくらいの幅の束になって、左側の頭頂部、耳の上のラインから生えている。しかも、この髪の毛はまっすぐだ。エアリィの髪はゆるいウェーブがかかったくせ毛なのに、そしてごく淡いブロンドなのに、この部分だけ色も髪質も違う。この青い髪は、新しく生えて急激に伸びてきたわけではない。昨日まで僕も、そして他の誰も気づかなかった。それも一本や二本ではなく、千本以上まとまって生えている感じだ。もとからあるこの部分の髪が変成したとしか言いようがないが、そんなに短時間で急激に変成するものなのだろうか。ほとんど身体の機能を止めていると言われる、この状態で。この髪は、僕らで言うなら白髪と同じようなものなのか。いや、違うのだろう。色違いの髪。この色が子孫に伝わって、新世界で言うところのPXL因子やブルーブラッドになるのだろうか。
「あの人は、誰の子供なんだろう……」
 思わず声に出して、小さくそう呟いた。エアリィがもしここで――考えたくないことだが、万が一死んだとしたら、あの人はどういう経緯で、誰の子供として誕生するのだろう。ロザモンドの子供? いや、あの人が生まれる年には、ロザモンドはもう五十を超えているだろうから、孫なのか? でも世界が終わる時にはまだ七歳のはずの彼女が、アイスキャッスルを生き延びる保証はあるのだろうか? わからない。でも、あの新世界の歴史が本当ならば、本人か娘か、少なくともどちらかが生き延びなければならないだろう。いや、エステルの系統という可能性も、完全に排除は出来ないが――彼の血統は未来に、どういう経過を経て、あの『夜明けの大主』にたどり着くのだろう――。

 混乱した思いは、さらなる驚きに断ち切られた。ふっと誰かの手が伸びてきたのだ。その手は、静かに枕の上の髪に触れたように見えた。かすかな声が頭の中に響いてきた。
(もう大丈夫ですね、アルフィアさま。本当に、心配しましたよ)
 僕は頭を上げ、その手の主――呼びかけの主を認めると、思わず声も上げそうになった。マインズデールの草原で、そしてあの事件直前にホテルの通路で見た、あの幻影だ。いつの間にかベッドの枕元に佇み、かがみ込んでいる。しかしベッドのヘッドボードと壁との間には、十数センチくらいの隙間しかない。人が入れるはずはなかった。まさしくそれは幻だ。フードのついた光沢のある紫紺のローブに身を包み、独特の飾りをつけ、片手に銀のリングを持っている、いつもの姿だ。ただその衣装は半ば、ヘッドボードにめり込むような、重なるような形になっている。他のみんなには、その姿は今度もまったく認識されてはいないようだった。エアリィにもし意識があって見ることができたら、きっと彼にもわかっただろう。でも今は、僕にしか見えない。
 紫の幻影はベッドの上に眠っている人を、じっと見下ろしていた。再び声が響いた。
(まったく、私も肝を冷やしましたよ、アルフィアさま。なんということをしてくれるんですか。なぜよりにもよって、こんな綱渡りのような解決法を選ぶんです? あそこには死んではならない人がいたとは言え、あなたが死んだら、元も子もありません。考えるだけで恐ろしいことなのに、あなたは運を試しすぎです。本当に、はらはらさせてくれますね。でも、あなたらしいですよ。聖なる母のお恵みに、感謝いたしませんと。そしてあなたならこんな状況になっても、なんとか切り抜けてくださると、私は信じていました。聞いていますね。そう、今は眠っていても、答えは返らなくとも、私にはわかります。私の声は、あなたに届いていますよね。ええ、あなたの言い分は、あとでゆっくり聞きますよ。どうしてもこれだけを言いたくて、私はここに来たのです)
 相変わらず、木霊のように遠い声だ。僕に呼びかけているのではない。アルフィア? 初めて聞く名前――最初はそう思ったが、かすかに聞いたことがあるような気もする。はっきりとは、思い出せないが。そしてこの幻影は、ミストレス(女主人)という敬称をつけている。ミストレス・アルフィア――あくまで観念的に、だが。でもこの部屋には、女の人なんていない。僕らバンドの五人だけだ。
 幻影はエアリィに向かって呼びかけているように見えるのに、まったく違う名前で、しかも女性敬称までつけて二度も呼んでいることが、ひどく奇妙に思えた。彼は僕の知っている限りでは、男だったはずだ。見かけはどうあれ。そして相変わらず、巷では女性説が根強いとはいえ。アデレードとの間にロザモンドが生まれていることとか(この子は確実に二人の血を引いていると思える相似がある)、学校名簿でM、男性だったというような状況証拠だけでなく、マインズデールのシスターや、凍死寸前のところを助けてくれたコールガールの野バラさんといった、幼少時代の彼を知っている人たちが揃って“男の子”と認識している。それに僕もツアー中、何度もバンド全員でスパに入ったことがある。エアリィは時々『僕はサウナがいい』とか『のぼせそうだから、バスは遠慮しとく』と入らないこともあるが、ともかく何回かは一緒に入った。もちろんお互いじろじろ見たりはしないが、一応何も着ない姿は見ているのだ。僕はその時、いつも中性的な印象を受けていた。男にしては細く、しなやか過ぎるが、女の丸みはない。それでもたしかに、僕の記憶が間違いでなければ――男だったと思う。
 僕が見ているのを感じたのだろう。幻影は顔を上げた。目があった瞬間、相手は微笑した。声にならない思考、言葉にならない想念が、今度ははっきりと頭に響いてくる。
(困ったものですよ。あの場ではこれが一番犠牲を最小限にする方法だったとはいえ、こんな危険を冒すなんて。彼女はどうも思慮深くなく、向こう見ずなのですよ、昔から。度し難い楽観主義者で情に流されやすいのも、変わりないですしね。ことに今は、理性部分が三分の二も欠けていますから、いつにも増して情動的になっておられる。もう少しご自分の命の重さを、自覚していただきたいものですが、そういう点、歴代の起源子の中では、最大の問題児なのでしょうね。でも彼女の力は、とても強いですから。その点でも、歴代最強ですからね)
「……彼女とは……誰のことですか? もし彼のことだったら、どうして、彼女と呼ぶのですか?」僕は思わずそう聞き返した。
(いえ、気にしないでください。表面的には一時的に多少変化しても、私にとっては彼女なのです。長年の習慣ですよ)幻影はうっすらと笑った。
「そうなんですか……」何がなんだかわからないが、頷くしかない。
(そう。本当にはらはらさせてくれましたが、もう危機は超えましたよ。私たちにとって、最大の危機が。闇の力は、時がたつにつれ巨大になっていきますから、この段階では本当に大きな勢力になっています。それゆえ、妨害も最大になるのです。でも我々は、負けるわけにはいきません)
「闇の力? そういえばエアリィも闇が近づいているとか、そんなことを言っていたけれど、それは何ですか? いつか彼にも聞いたけれど、光と反対のものと答えていて、わかったような、わからないような感じだったんです」
(ええ。すべての世界には、光と闇があります)
 相手は相変らず、思考の言葉で語りかけてくる。
(それは光と影とは、また別の二元論です。一対ではなく、相反するものとして。光は善なるもの、広義の愛と徳、あらゆる肯定的な力をあらわし、闇はそれに反するもの、否定的なエネルギーです。憎悪、破壊、恐怖のような。一般的には悪を意味しますが、単なる悪ではなく、落ちていく力、無へ返そうとする力でしょうか。そして光は、創造し進んでいく力、上昇する力です。それは存在であり、秩序でもあります。すべての世界は、この光と闇のせめぎ合いによって営まれています。まだ地球の段階では、かなり闇の力が強い。この闇が徐々に払われて、完全な光のステージに立った時、人は究極の進化を成し遂げることが出来るのです。しかし逆に闇が徐々に増幅していき、完全に光を払底してしまうと、残ったものは無です。そうして滅びた星も後を絶ちません。それゆえ、闇とは無へ返す力と言えるのです。しかし無とはまた、あらゆる可能性を秘めた存在です。そこから何が飛び出してくるのか、カオスなのか、別のものなのか、良きものなのか、何もなくなったままか。それは、誰にもわからないのです)
「はあ……」
(闇は光を攻撃します。起源子は強い光です。しかし、壊れやすい光でもあります。ここを切れば、闇は勝利する。それゆえなのです。アルディーナはとりわけ、歴代の適合子の中では、情動的な性格なのだそうです。彼女は感情の起伏が激しく繊細で、なおかつ柔軟で気丈な人でした。起源子になっても、なおその特性は息づいているのです)
「アルディーナって……?」
 また聞きなれない名前が出てきた。しかもまた女性名なのだろう。そんな響きだ。
(ああ、あなたは知らない人ですよ。気にしないでください、今は)
 幻影は柔らかく笑った。
(情動的で力の強い起源子は、その光の接触を、より広く強く届けることが出来る。しかし同時に、情に流されやすいという弱点をも持つことになるのです。それはある意味、危険因子になりえます。起源子の時代は、もっとも危険な時期なのですから。第一ステージが確定するまでの準備期に、彼らは我々の尺度から言えば赤ん坊よりも無力で、非常に不安定な状態に置かれます。しかし、彼らは必ず乗り越えていきます。闇の攻撃が激しくとも、多少紆余曲折しようとも、時には危険な状態に陥ろうとも。彼らの使命を果たし、最後のゴールにたどり着くまで。それが起源子の宿命ですから。さもなければ、大変なことになってしまいますから)
「その起源子って……そもそも、いったい何ですか?」
 相手は答えてくれなかった。ただ泰然と微笑み、そして、くるりとリングを回すと、淡い光の中に消えていく。
「待って! 待ってください!」我知らず、僕は声を上げていた。
「僕には、さっぱりわからない。どういう意味なんですか?!」
 しまった。みんなが不思議そうに僕を見ている──。
「どうしたんだよ、ジャスティン? 誰に話してるんだ?」
 ジョージが訝しげに、みんなを代表して問いかけてきた。
「いや、なんでもない……ごめん。大声を上げちゃ、だめだよね」
 僕は苦笑して首を振った。あの幻影が言った不可思議な言葉を、頭の中で考えながら。
 起源子。起源の子――昔、どこかで同じ言葉を聞いた。シスターの話の中だったろうか。二度に渡って夢に見た、ヨハン神父の言葉だっただろうか。それとも神父さんの日記の中に書かれていたことだっただろうか。そう、何度も繰り返し、その言葉を聞いている。
『私は次の生で、起源の子と出会う運命らしい』
『起源の子が来て四半世紀で、今の文明は終焉になる』
『その起源の子とは、何なのか』
『僕にも良くわからないのですが、あの声が言うには、世界の純化のために生まれる子なんだそうですよ。そして魂に光の種を蒔き、永遠の命への祝福を運ぶ子。輪をつなぐ接点の役割を持ち、そして非常に重大な意味を負うとも』
 その時、マインズデールのシスター・アンネが臨終の時、最後に言ったという言葉が、ふいに思い起こされてきた。
『アーディス……わたしは、わかったような気がするわ……おまえが、あの……』
 それに続く言葉が、突然心に落ちてきた。
(おまえが、あの起源の子なのだって)
 ぶるっと軽い震えを感じた。あの幻影と初めてマインズデールで遭遇した時、僕の光のパートナーとの関係は、今回はあまり緊密にはならない。起源子との関係が絡むから――そう言っていたことも、思い出されてきた。起源子は後継の影と組むとも。僕はあの幻影の後継者で、あの幻影は影とも。
 シスターの認識は正しい。それに、僕のものも。僕は即座にそう認めた。起源子――その不思議なキーワードで呼ばれる人は、彼なのだ。アーディス・レイン・ローゼンスタイナー。今、僕の目の前で、半分死んだような状態で眠っている彼が。さっきの幻影も、彼を彼女と呼んでいたが、明らかに彼をさして、(歴代の起源子の中では〜)と言っていた。つまり、彼もその一人なのだ。
 そう――あの幻影が起源子を“彼女”と呼んでいたから、僕はてっきり女性なのだと思い込んでいた。だから今まで、気づかなかった。でもあの幻影にとって、エアリィは“彼女”なのだ。機能的には、今は一応男なのだとしても――。
 それなら、すべてがつながるような気がする。僕が初めてあの幻影の姿を見たのは、エアリィがインドでいわゆる『モンスターの覚醒』状態になってから、約二週間後だった。
(あの方が目覚めれば、姿を現せる)
 あの幻影は声だけの時、そう告げた。そしてヨハン神父さんの日記には(起源子が覚醒すれば、姿を現してお目にかかれる)と、言ったと書いてあった。そう――エアリィがその起源子だとすれば、その言葉の意味は納得できる。
 そして未来世界で見た夢。
『あと二十年で、起源の子が来ると言っていましたね』
 あれが神父さんとアリステアさんとの最後対話のシーンだとしたら、アリステアさんがそう言っていたのは、一九七六年五月のこと。エアリィの誕生は、一九九六年の六月。ちょうど二十年後だ。さらに起源子が来て四半世紀ということは、二五才になる時、今の文明は終わる――? それは未来世界で聞いた世界の終わり、カタストロフのことだろうか? そうだ。たしかにその時には、エアリィは二五才だ。彼が今の危機を乗り越えて、生きているとしてだが。
 それは、たしかに的確な予言なのかもしれない。でも、それ以上の意味はわからない。そして、アリステアさんが言っていたという『起源子は世界の純化のために生まれる』という言葉――それはどういう意味だろう。たしかにエアリィがエアレースを通してやったこと、ことに『Children〜』からの三枚のアルバムは、世界中でかなりの若者たちを感化した。それは事実だ。そのムーブメントは確実に浸透していき、今社会現象化するまでに至った。リスナーを感化し、純化する──そう、『ピュリファイ・ロック』――僕らの音楽は、そういう呼び方をもされる。それが『魂に光の種を蒔く』ということなのだろうか。だが、本当にそれだけなのだろうか。そして『永遠の命への祝福を運ぶ子』とも、言われていたという。しかし、さっぱり意味がわからない。だいいち起源子とは、何の起源か。なぜそういう言い方をされるのか。歴代の起源子、とあの幻影は言ったが、他にもいるのか。そしてエアリィの前世は女なのかもしれない。セディフィのような。そしてあの幻影がディラスタなら、彼女と呼ぶのも頷ける。エアリィ自身、ランカスター草原で会った時、『僕が、彼女が〜』と同列で語っていた。いわゆる“覚醒”直前に『心の中に、女の人の声が聞こえる』とも。自分の中の“彼女”について、何度か言及していた。彼がインドでパニックに落ちた時も、最初に発した言葉が『彼女が目覚めた』だった――。
 でもあの幻影自体、なにものなのか。そしてあの幻影とエアリィとは、本当はどういう関係なのか。幻影が彼を彼女と呼び、女性敬称をつけ、あの方、とも言う。あの幻影が、彼に敬意を表しているように見えるのは、なぜなのか。あの人は僕にさえ丁寧語で話すから、その延長なのだろうか。呼んだら来てくれる、とさえエアリィは言っていたが、それはあの幻影にとって、彼がそれだけ重要な、そして近しい人なのか。
 深い迷路が目の前にあり、僕は入っていくことを諦めた。でもあの幻影は、僕に向かって最初に何と言っただろう。
(本当にはらはらさせてくれましたが、もう危機は越えましたよ)
 エアリィに向かっても、呼びかけている。
(本当に心配しましたよ。でも、もう大丈夫ですね)と。
 そこまで思い至った時、その言葉が彼は助かるという喜ばしい確信のように感じられ、思わず「そうだ、きっと!」と小さな声を上げて、椅子から飛び上がってしまった。
 みんながまた不思議そうに見ている。僕が少し変になったと思ったかも知れない。彼らにあの幻影の、ちんぷんかんぷんな話をしても、きっと信じてはもらえないだろう。本当に僕が変になったのだと、思われるだけだ。ましてやそこから導き出した僕の考えなど、あまりに突拍子もないと思うかも――自分でもそう思えた。何がなんだかはっきりわかってもいないのに、一足飛びにそんな結論へ飛びつくのは、希望的観測に基づく、無理なこじつけにすぎないかもしれないと。

 しかし、僕の推測はあながち間違いではなかったようだ。その夜のことだった。ホテルに帰っていたアデレードがレオナと一緒に病室に戻ってきたので、僕らもホテルへ帰ろうと立ち上がった。その時、気づいた。ここへ来るといつも聞こえる、物憂げな心拍計のパルスの音、それが急にテンポが速くなりはじめたのだ。一分間に十一、二だった心拍数が二十、三十と、見る間にぽんぽんと上がり、一時間もたたないうちに六十台まで回復した。血圧も低めながら、下も計れるようになった。
「ほう。体温も三六度四分、自発呼吸も再開しましたか。仮死状態から抜けましたね」
 やってきた主治医は、驚きの表情を隠せないようだった。
「じゃあ、助かるんですか!?」僕らは同時に声を上げた。
「まあ、それはもう少し経過を見ないと何とも言えませんが、少なくとも今までよりは、ずっとよい状態になりましたね。それだけは確かです」
「おお、神さま!」アデレードが、むせぶような声を上げた。
「おお、ありがとうございます! ありがとうございます!」
「それは、もう少し状態がはっきりしてから言った方がよいと思いますよ、奥さん」
 ドクターは咳払いをした。最初は付き添いを渋っていた病院側も、今ではほとんどの人が彼女を“奥さん”と呼ぶようになっている。
「予断を許さないと言うのは、相変わらずですからね。もう少し経過を見ないと、大丈夫だとは言い切れません。また悪い方に急変する可能性もありますし、そうでないとしても、第一に意識が戻るかどうか、第二に仮死状態が長く続いたことによる後遺症がないかどうか。これをチェックしない限り、なんとも言えませんから。とりあえず自発呼吸が再開したからには、酸素チューブを用意しましょう。肺機能がかなり落ちているので、効率よく酸素がとれるように。これは延命治療ではありませんからね。」
「酸素テントにしてもらえませんか?」
 思わず、言葉が口から出てきた。皮膚呼吸率が高いかもしれない、と思ったことが心にあったのだろう。医師は少し驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「そうですね。酸素テントでもいいかもしれません。少し濃い目に設定しておく必要があると思いますが。感染症防止にもなりますからね。では、そうしましょうか。そして、少し経過を見ましょう」
 たしかに事態はこれで完全に危機を脱したわけではなく、その後も心拍と体温は上昇を続け、翌日の朝には、鼓動は胎児なみに百八十前後、四十度の熱というところまで行ってしまった。そして、この状態がまる二日持続した。解熱してバイタルサインが全部平常に戻った時には、僕らはほっとして床にへたり込みたいほどだった。その後数日は何の変動もなく過ぎ、主治医はため息混じりにこう告げた。
「やっと落ち着きましたかね。本当に先が読めない患者ですから、百パーセント大丈夫ですとは言えませんが、とりあえず生命の危機は脱したと思いますよ。問題は意識が戻るかどうかですね」

 幸いそれから二日後に、エアリィは意識を戻した。その日の午後、僕ら四人とロブ、そしてアデレードが見守る中で、長い眠りから目覚めたようだ。アデレードがいつものように彼の右手を握って、「今頃トロントでは雪かしらね。ここに来る時も、雪だったのよ。庭はきっと真っ白ね。でもロンドンには、あまり雪は降らないようね……」そんなことを、話しかけていた時に、彼はふっと目を開いた。そして「うん……ロンドンは……そうだね」と小さく言い、目を動かして、アデレードの顔を見ると、微かに笑った。
「アデル……やっぱ、来てたんだ。声、したから……」
 彼女は泣き笑いの顔になった。叫び声をあげ、飛びつきたいようだったが、懸命の自制心で抑えたようだ。酸素テントもあるし、体に衝撃を与えることにも、躊躇したのだろう。
 それは僕らも同様だった。声を上げ、呼びかけるだけで精一杯だ。
「目が覚めた!?」「大丈夫?」「どんな具合?」
「心配したぞ!」「本当に良かった!」と――。
 彼はそんな僕らを見、再び微かに笑うと、天井を見上げて、小さく呟いた。
「よかった……まだ……生きてて……」
 そして再び僕らを見、聞いてくる。
「ここ……病院、なんだよね。ロンドンの?」
「ああ、そうだよ」僕らは頷く。
「あれから……どうなった? みんな、無事だった?」
「ああ、大丈夫だ。爆弾も爆発しなかったし、銃もそれ以上は、発砲されなかった。おまえを別にすれば、他は誰も怪我はしていない。あの子も無事だ。あいつらは、警察に捕まった。だから、安心しろ」ロブが頷いている。
「よかった……」
 エアリィは浅くため息をついた。たぶん今、深い呼吸は出来ないのだろう。
「あの子、ソフィア・ブラッドフォードという名前で、十四歳になったばかりらしいが、彼女とお姉さんのノーマが、おまえの様子が知りたいと、ほとんど病院に通い詰めらしいんだ。あの場にいたファンたちの、ほとんどがそうらしい。大丈夫だと知ったら、きっと喜ぶだろう」ロブがそう言葉を継ぐ。
「うん。彼女たちには……巻き込んじゃって……申し訳、なかったな」
 エアリィは微かに頷いたあと、しばらく間を置いて、こう聞いてきた。
「……コンサートは……どうなった?」
「キャンセルしたに決まっているだろう」僕らは四人同時にそう答えた。
「おまえがいなくて、どうやってショウが出来るって言うんだよ! このあとのアジア・オセアニアも、北米第二レグも、全部キャンセルだ」
「そうなんだ……残念」
「でもまあ、おまえが元通り元気になれれば、また再開できるさ」
 ロブが微笑しながら、励ますように言う。
「うん……」エアリィは微かに頷き、しばらく黙ったあと、再び問いかけた。
「今日は……何日?」
「今日は十一月二六日だ。あれから、二週間以上たったんだ」僕は答えた。
「……そんなに?」彼はしばらく考え込んでいるようだった。
「そんなに長く……寝てたんだ。そうだ……長い……長い夢見てた。いろんなことを……母さんや、妹や……弟や……リード父さんにも……会ってきたよ……妹と弟は……ちょっと、大きく、なってた。でも、すぐ……引き戻されたんだ。……戻れって。誰かに……突き飛ばされて」
「おまえを地上に突き飛ばしたのはロザモンドちゃんだよ、きっと」僕は微笑した。
「そっか。ロージィが……」話を聞いて、エアリィにもわかったようだった。彼は目を閉じ、しばらく黙ったあと、再び口を開いた。
「ロージィ……」
 そこに居合わせない小さな娘への呼びかけは、なぜかひどく悲しげな調子に響いた。
「おまえは僕……を、助けて……くれたんだ。でも僕は……たぶんおまえを、助けられないのかも……しれない。ごめん……本当に……」
「何を言っているの、エアリィ。あなたがロージィを助けられないって、どういうことなの? なぜあやまるの?」アデレードが気遣わしげにそうきいている。
 彼はそれには答えず、どこか放心したような表情で、言葉を継いだ。
「それは、やっぱり……生贄、なんだよ……」と。
「えっ?」その場にいた全員が、ぽかんと目を見張った。
「祝福……なのかも、しれない。でも……同時に、犠牲……なんだ。そういう……意味では、僕は……災い、だったのかも……知れないな」
 エアリィは天井の一点を見つめて、そう呟く。そして小さく息をつくと、再び目を閉じ、また開いた時には、少し表情が変わっていた。その言葉はさらに放心したような、独り言のような呟きになっていく。
「なぜ僕が……とは、言いたく……ない。でも……別の、定めだったら……よかったのにとは……どうしても、思ってしまう。やっぱり……僕も、みんなと……同じところへ、行きたかった。一緒に……」
(その思いが私にもないといえば、嘘になりますが……でも、やむをえないことなのです)
 声が、かすかに聞こえてきた。あっ、この声――やっぱりあの人だ。また来た。いつの間にか、あの幻影がベッドサイドに佇んでいる。他のみんなには見えていないが、エアリィにはわかったようだ。驚いたように目を見開き、呟いている。「ヴィヴ……」と。彼はこの幻影をそう呼んでいると、事件直前に言っていたように。
「うん……言っても……仕方ないんだよね。それが僕らの……運命、だから」
 彼はふっと息をつくと、呟くように続けた。
「でも……ここでも……なぜ……こんな、定め……なんだろう……そうも、思って……しまうんだ」
(神のご意志には、逆らえないのですよ)
 幻影は静かに言葉を返している。
(そして、ご自分を災いと考えることは、間違っています。あなたは祝福を運ぶために、生まれてきたのですよ。忘れないでください。それは祝福なのです。永遠の幸福を得るための、光へ続く路へのライセンスをくれたのですから。それは、あなたがいればこそ、得られた路なのですよ。あなたと、そしてエルファスとヴェリアと……)
「抜けてるよ……ヴィヴ、君が。君も……十二番目の……環の……ひとりなんだから」
(そうですね。私も及ばずながら、そうでした。ありがとうございます)
 紫の人は微笑み、あいたほうの手で、手を握ったように思えた。しかし相手は幻影だから、本当に手を取られている感触があるのかどうかは、聞いてみないとわからない。再び声が響いた。
(いつも、思い出してください。ミス……いえ、アーディス・レインさん。彼らと同じところに行くことは出来ないけれど、彼らはみな、私たちをずっと見守ってくれていることを。そしてあなたはここでも、決して一人ではないということを)
「うん……そうだ。僕は……ひとりじゃない。それに、ここでだって……そうだね。ヴィヴ……ありがと……それに、最後には……みんな、ひとつになるんだ。そうだ……」
 エアリィもかすかに微笑した。そして再び目を閉じると、小さな声で囁く。
「聖なる母よ……お慈悲を、ありがとう……ございます……」
 そして彼は、再び眠ってしまったようだった。
 アデレードもロビン、ジョージ、ミックとロブも、(最初は普通だったのに、途中から、わけのわからないことばかり言うようになった。意識レベルは大丈夫なのだろうか。もしかしたら低酸素状態が続いたことの後遺症が、出たりしていないだろうか)という懸念がありありという顔だ。アデレードなどは、今にも泣きだしそうな雰囲気だ。幻影とその言葉はわかっていないだけに、よけい妙に思えたのかもしれない。
 もっとも、幻影側の言葉を認知している僕にも、少なくともエアリィが独り言のように頓珍漢なことを言っているわけではなく、一応幻影と会話が成立していることはわかるのだが、その内容はさっぱりわからない。そして――聖なる母か。その呼びかけは、あの時にも言っていた。自ら銃口の前に立った時に。聖なる母が彼らの神なら、エアリィが信じている神とは、母神なのだろうか。だから彼は神を代名詞で呼ぶとき、『彼女』と言うのだろうか。相手に多少妙な顔をされても、それが彼の宗教観なら――。
 紫の幻影は僕を見て、苦笑に近い笑みを浮かべた。
(今はそのことを、あまり深く考えないでください、ジャスティン・ローリングスさん。アーディス・レインさんは今、自我の統制が普段より緩い状態になっておられるので、意識がこちら側によって、ついポロポロと言ってしまうのでしょう。まあ、彼女は元々おしゃべりではありますがね。今は、気にしないでください)
「そうなんですか」
 僕はわけがわからないながら、頷いた。その彼女呼びはやめてくれないかな。混乱の元だ――そんなことも、ついでにふと思ってしまったが。
(すみませんね。長年の習慣なのですよ)
 幻影の思念は苦笑しているようなトーンに響いた。そしてリングを回し、光に溶けるようにすうっと消えていった。

 エアリィは翌日の朝までずっと眠り、また目覚めた。その時には幻影も現れず、彼もわけのわからないことは言わなかったので、みなが安堵したことは、手に取るようにわかった。そして医師団は入念に状態をチェックし、「仮死状態での脳ダメージはないようだ」と確認した。「あとは、時間とともに回復するでしょう」とも。
「本当に不思議な症例ですね」主治医は驚きを隠せぬ表情だった。
「今から見れば、最初の一週間の仮死状態は生命をつなぐために、自らぎりぎりの最低ラインまで、生体機能を落としていたような感じですね。大丈夫となったら、その後反動で発熱した。バランスをとるために。そんな印象を受けます。普通では、考えられないことですがね」
 たしかに不思議なことだ。でも、僕は言い知れぬ安堵を感じていた。他のみんなも、きっと同じ思いだっただろう。




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