Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(11)




「来たよ。だから、カウントを止めろ!」
 エアリィはぱさっと髪を振りやり、決然とした口調で言った。
「ふん。その勇気だけは認めてやろう」
 相手はせせら笑っているような口調だ。
「その子を放して、帰してあげてくれないか? 僕もここへ来たんだから」
「この子を離すのは、我々の目的が果たせてからだ」
「目的って?」
「まあ、おまえがここに出てきてくれたから、最初の段階は完了だが、それはまだ序の口に過ぎない。真の目的はこれからだ」
「だから、その目的って何? 僕にある場所へ行ってくれたら、って言ってたけど、それがそうじゃないのか?」
「そうだ」
「ある場所って、どこ?」
「とても素敵な場所さ。おまえにふさわしい」男はにやっと笑う。
 その間、僕らはもどかしげに見守っているしかなかった。が、注意が向こうにそれているのをついて、いちかばちか行動しようと試みた人たちも、何人かいた。そのうちの一人は、モートン・カークランドさん。エアリィの医療トレーナーで、専属マネージャーだ。真っ青な顔で交渉を見つめながら、震える声で小さくささやいている。
「誰か、僕の後ろの誰か……通報してくれ。気づかれないように。今、警察にかけた……」
 ちょうど前に立っているセキュリティの影になるため、今なら気づかれないと思ったのだろう。カークランドさんは後ろ手に携帯電話を握り、手探りでかけたようだ。それに呼応して、なんと真後ろにいたロビンがほんの少し屈み(彼もまた、ちょうどセキュリティ二人の影になっている位置に立っていた)、「○○ホテルの裏で、銃を持った男が女の子を人質に取ってます。早く来て!」と、震える声で強くささやいたあと、赤い顔をしたまま、元の姿勢に返った。僕は驚きと同時に、思わず『よくやった、ロビン!』と声を上げて、ぽんと背中を叩きたい衝動に駆られた。もちろん、そんなことは出来ないが。
 なんとか、相手には気づかれずにすんだようだ。男たちがこちらを見た目に、変化はないようだった。ふうっ──僕は思わず吐息をもらした。通報が成功したなら、五、六分で警察がやってくるだろう。それまで時間を稼げれば、大丈夫だ。同時にセキュリティの一人(新しく来た三人の一人だ)が、前を向いたままささやいた。
「誰か……投げるものを持っていないか。固ければ、なんでもいい。連中に気づかれないように気をつけて、俺に渡してくれ」
 もし犯人たちが銃を撃とうとしたら、とっさに投げるつもりだろうか? 僕はセキュリティの陰に隠れた方の右手を、そっとポケットに滑り込ませた。ギターのピックじゃ柔らかすぎるし、コインでもちょっと役不足だ。でもその他に役立ちそうなものは、何も入っていなかった。だが、そうだ。僕にもそれなら出来るかもしれない。小学生時代、僕は野球チームのエースだった。今でもコントロールがきくかどうかは怪しいが──僕はポケットに手を入れたまま、一番固そうな五十ペンスコインを握り締めた。
「俺のズボンの右ポケットを探れ……気づかれないように……」と、ファーギー・パターソンがごく微かに身体を相手に寄せて、ささやいていた。最初のセキュリティが後ろ手にそっとそのポケットに手を入れ、「ああ、これなら充分だろう……」とささやいて、すぐにそこから手を引き抜いていた。
 その間に、中年男はじっと眺めながら、嘲笑するようなトーンで言葉を継いでいた。
「しかしこうしてみると、おまえは本当に男には見えないな。娘は最初、おまえを女と思っていたらしいが、たしかにそう思うのも不思議じゃない。生まれてくるのを間違ったのか? それとも男のふりをしているだけなのか? 美しい……それはたしかだが、おまえはその見せかけの美で、どれだけの人をたぶらかしたんだ」
「それ、今関係ないだろう。あんたたちは、なんでこんなことをするんだ? 目的は? なんで僕を指名したんだ?」エアリィはひるまず、そう言い返している。
「おまえに会いたかったんだ、我々は。もちろん、こいつらとは違う意味でな」
 中年男は再びペッとつばを道路に吐き、そう答えた。
「じゃあ、どうして僕に?」
「しらばっくれるな! おまえ、自分のやったことぐらい知っているだろう! おまえのおかげで、仲間がどれだけたぶらかされたと思っているんだ! その男たちの妹も恋人も、そして私の娘もだ!」
「そうなんだ……」
 エアリィは少し驚いたように相手を見た。そして少し間をおいて聞く。
「どこの教団?」
「それはどうだっていい! おまえは何が目的なんだ? どうして我々の信徒をたぶらかして、自分の信徒にしようとする? 新手の邪教でも作る気か?」
「邪教って……そんなつもりはないよ。教祖になるつもりもないし。僕はただの、ロックバンドのシンガーだよ。それ以上でも、それ以下でもない。僕らの曲であんたたちの身内がその宗教を捨てたのだとしても、それは彼女たちの自由だと思うし。逆に言えば、その程度で離れられるほどの力しか、なかったってことなんじゃないか」
 おい、それは危ない! 僕は思わず冷たい汗が全身に吹き出るのを感じた。いや、ただでさえエアリィが出て行ってからは、冷や汗をかきっぱなしだが――たしかに正論だが、それは挑発になるぞ! 
 案の定、男たちの顔は真っ赤になった。
「地獄へ落ちろ!! これ以上とやかく言うと、この子を殺すぞ!」
 女の子を押さえている若い男が、詰まったような声で、激しい調子で威嚇した。
 エアリィも直接的に言いすぎて、相手を怒らせてしまったことを悟ったのだろう。ため息をつくと、視線を下に落とし、「ごめん。宗教は自由だから、あなたたちが信じていることを、僕があれこれ言う権利はないね」と詫びている。
 あっさり謝罪されたので、男たちも少し拍子抜けしたのか、そのまま黙っていた。
「こうしていても、埒が明かないと思わないか? え? もたもたしていると、誰かが目を盗んで、警察に知らせるかもしれないからな」
 やがて中年男が気を取り直したように、銃でとんとんと肩を叩きながら再び口を開いた。
「僕も同感だけど……じゃあ、どうすればいいかっていう具体的な解決案を、あんたたちは言ってくれないから」エアリィは頭を上げ、相手を見ながらそう答える。
「そうだな。じゃあ、そろそろ本題に入るか」
 男は二、三歩踏みこみ、手を伸ばして銃口をぴたりと付きつけた。左胸──まともに心臓直撃の位置だ。大口径の銃で、一メートルもない至近距離。撃たれたら即死してしまう。
「我々は、おまえに天誅を加えに来たんだ。復讐もかねてな」
 男は銃を構えたまま、にやっと笑った。
「おまえに会いたかったというのは、そういうことだ。ずっと狙っていたんだが、機会がなかったし、正攻法では無理だと思った。おまえはいつも、あのでかいボディガードと一緒にいるし、他の有象無象も大勢いる。それにおまえはスナイパーの銃弾も、金属バットもよけたらしいからな。仮に一対一になれたとしても、仕留めることは難しいだろう。だから、こんな手段をとらせてもらったわけだが、もしおまえが出てこなかったら、言葉通りここで銃を乱射し、出来るだけおまえの信徒、おまえの言うところのファンを道連れに、抗議の自爆をするつもりだった。このダイナマイトが見えるか?」
 男はあいたほうの手でジャケットをめくった。確かに何本もの爆薬らしきものを、腰の周りに巻きつけている。
「Suicide Bomber(自爆テロ)か……」
 エアリィは青ざめながら、そう呟いた。
「それは爆発させないで欲しいな。ここでは……あんたたちの命もなくなるし」
「我々の命など、どうでもいいのさ。教団のためなら」
「それは違う! 人の命より重たい教義なんて、ないはずだ」
 彼はまた相手の逆鱗に触れる危険を考えたのだろう。再びトーンを落とし、首を振って、言葉を継いだ。「僕はそう信じてる」と。
「これだけの至近距離にいるのだから、爆発させてもいいのだがな。火をつけた瞬間に、吹き飛ぶだろう。この爆薬は、半径十メートルくらいの範囲で、木っ端微塵になるらしいからな」男は再びにやっと笑った。
「だが自爆テロや大量殺戮は、我々の教義とは違う。我々は過激派とは違うからな。そこのところを誤解してもらっては困るね。だからいわゆる、起爆装置を引っ張って爆破させるようなタイプの自爆もしない。たまに失敗もあるらしいからな。それに我々も本音を言えば、出来れば死にたくはない。おまえがおとなしく地獄へ行ってくれたら、それでいいんだ。本当はもっと、苦しんで死んでもらいたかったんだが。頭でなく、胸を撃ってやるから、おまえは死体になっても美しくいられるぞ。教祖様の耽美主義に、感謝するんだな。動くなよ。動いたら、ジョニーも引き金を引く。あの子を死なせたいのか?」
「で、もし僕が動かないで撃たれたら、あんたたちは、あの子を解放してくれるのか? 他のみんなにも、手は出さないでくれるのか?」
 エアリィは青ざめたまま、きっと相手を見返していた。
「そうだな。私が引き金を引いた後に、あの子は解放してやろう。我々が逃げるのを邪魔だてしなければ、銃も撃たないし、爆発もさせない」
「本当に……? 本当に、信用できるのか?」
「我々を信用するかしないかは、おまえ次第だ。ただおまえが逃げようとしたら、確実にもっと悲惨なことになるのは、たしかだな」
 結局、どうすれば良いんだ──僕はもどかしさに唇を噛んだ。と同時に、これは本当に現実に起こっている事なのだろうか、という妙な気分がする。まるで悪い夢でも見ているような──出口のないこの夢に、解決法はあるんだろうか? 僕はただ傍観者に終始し、はらはらしながら成り行きを見守っているしかないんだろうか? どうしたら、あの子を助けられる? どうしたら、エアリィも無事に切りぬけられる? あの狂信者たちは、どこまで信用できるんだ? あの爆弾がもし本物だとしたら――とはいえ、アーディスが出て行った時点で爆発させなかったのは、あの男の言うとおり、本当は自分も命が惜しいからに違いない。よほど追い詰められなければ、最悪のことにはならないだろう。それはたしかにそう思えるが、だからと言って、そのためにエアリィが殺されていいわけじゃない。警察は、いつになったら来てくれるんだ。でももし今ここで警察に来られたら、犯人たちは逆上して、もっととんでもないことにならないか――? 
 ソフィアという人質の少女は、今はもう死ぬほど怯えているような表情は見せていなかった。エアリィが連中の求めに応じて出ていってからは、ずっと彼を、彼だけを見つめている。と、その時彼女が弱々しい声で口を開いた。
「エアリィ……こんな奴らの言うことなんて、聞かないで」と。
「えっ?」その言葉に彼は――そしておそらくこの場の全員が、驚いたようだった。
「あなたが……わたしなんかのために、危険を犯して来てくれた。信じられない……ありがとう。それだけで……わたしはうれしい。だからわたし……殺されてもいい。あなたがわたしのために死ぬなんて、絶対絶対いや。だからあなたは……危ないことはしないで、逃げてください、お願いします。今から走って逃げれば、爆弾にだって巻き込まれずにすむわ。十メーター離れれば、大丈夫なら。わたしのためになんか、絶対死なないで!」
 その目はまるで何かに憑かれたようで、その言葉は緊張と勇気と自己陶酔が入り交じっているように響いた。僕ら側の人々もみな驚いたに違いないが、それ以上にざわっと、ファンたちの間に衝撃が走っていったのを感じた。さっきまで死ぬほどの恐怖に怯えていた、せいぜい十三、四歳の少女の必死な言葉は、今まで凍りついたように静観するしかなかったファンたちの間に、一種異様な感動を巻き起こしたようだ。
「ソフィアだけを死なせやしないわ!」
 少女の姉らしい女の子が、甲高くそう叫んだ。
「わたしたちの気概を見せてあげる!」
「そうよ! あいつらを取り押さえるのよ!」
「エアリィ! この場はわたしたちに任せて、会場へ行って!」
「そうよ。今夜が最終公演なんだから!」
「わたしたちのために出てきてくれて、ありがとう。あなたはやっぱり、ヒーローだわ。でも、あとはわたしたちが、ここは何とかする!」
「たとえそのために死んでも、本望よ!」
 そんな声があちこちから漏れ、ファンたちの人垣が激しくゆれ出した。今にもなだれを打って、押し寄せてきそうだ。
 思いもかけぬ逆襲に、男たちはすっかり動揺したらしい。
「こいつら……こりゃ、やっぱり新手のカルトだ……」
 若いほうの男の一人が、呆然とそうつぶやいている。
「だめだ! みんな、危ない! 来ちゃだめだ! 落ち着いて! 動かないで! 爆弾もあるし、危ないよ!」エアリィがファンたちに向かって、そう叫んだ。
「爆弾なんて、怖くない!」
「みんなで飛びつけば、大丈夫!」
「でも、あなたが巻き込まれると困るから、本当に逃げて! ダッシュで逃げて!」
「だから、ダメだって! みんなを置いて、逃げられるわけない! 君たちに何かあったら、困るんだ! 逆に言うよ、僕のためになんか死ぬな! それは絶対止めてくれ!」
「いい加減にしろ、おまえら!!」
 中年男がうなるような声で怒鳴った。と同時に、少女に銃を突きつけていたジョニーと呼ばれる若者が、きょろきょろと周りを見回し、そして引き金を引こうとした。しかし、その一瞬のためらいをついたように、エアリィが動いた。両手をついて一回転し、男の手を蹴り上げたのだ。はずみで銃がとんだ。かつてナイフで襲われた時にも、同じように手を蹴り上げて飛ばした、と言っていた。彼の身体能力なら、相当な早さでそれが出来るのだ。少女を押さえつけていた男がその子から手を離し、慌てて銃を拾おうとする。と、今度はびゅっと僕の傍らを何かが飛んでいき、その男の拾おうと伸ばした腕に当たった。あのセキュリティが投げたのだろう。それは大粒のビー玉か、ガラス細工の置物のように見えた。男は小さく声をあげ、腕を押さえる。僕も同時にコインを投げた。それは最初に銃を持っていたジョニーという男の眉間に当たり、そいつは一瞬うずくまった。
 女の子は手を伸ばしてきたファンたちに抱き取られ、彼女たちの中に無事保護された。着地してきたエアリィがぽんと足を伸ばし、銃をこっちへ蹴り飛ばす。それは、僕の足元へ飛んできた。僕は慌てて拾い上げた。ピストルなんて、持ったのは初めてだ。なんて重い。それに、ぞっとするほど冷たい感触だ。僕は慌ててそれをロブに渡した。
 だが銃はもう一丁ある。中年男が持っていた奴だ。それも奪い取らなくては──しかもそいつは爆弾も持っている。
「ちくしょう! よくもやってくれたな!!」
 男は真っ赤な顔になり、ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのはライターだ。そしてカチッと火をつけ、身体の前に持っていきながら叫ぶ。
「動くな!! おまえら、少しでも動いたら、この導火線に火をつける。あっという間に吹っ飛ぶぞ!!」
「やめろ! だめだ! 火をつけるな!!」
 エアリィが、それを見て叫んだ。
「それなら、動くな! そう言ったはずだ!」男は吼える。
「だって、あの娘を殺そうとしたじゃないか!」
「おまえらが動いたからだ! 言っただろう。少しでも動いたら、この娘の命はないと。おまえが余計なことをしたから……おまえだけじゃない、どいつもこいつも、余計なことをしやがって!! そんなに死にたいのなら、お望みどおりにしてやる!」
「だから、止めろ!! 火はつけるな!」
 エアリィが再び、強い調子で声を上げた。
「殺したいなら……僕だけにしてくれ。みんなを巻き込むな! あんたたちは、僕に復讐をしたいんだろう。だったらこれ以上、無関係な人たちを巻き込むのは止めてくれ。僕が動かないで撃たれたら、他の人には手を出さない……そう言っただろ、さっき。だから、僕は抵抗しない。撃つなら撃て。そのかわり、爆発はさせないでくれ!」
「そんなこと、信用できるか!!」男は再び吼える。
「どうやったら、信用してくれる?」
 エアリィは相手を見据えたまま、再びぱさっと髪を振りやって言った。それは、驚くほど落ち着いたトーンだった。男もその声とまなざしに一瞬取り込まれたように、黙った。
「いいだろう……」中年男はごくりと固唾を飲んだような声を出した。
「そこを動くな。手は後ろに組め。ジョニー、おまえは私の傍に来てこのライターを持ち、何かあったら火をつけろ。ハリー、おまえはそいつの傍に行って、肩と服、いや、髪でもつかんでおけ。そして私が撃ったら、すぐにこっちへ来い」
 二人の若い男たちは頷き、言われたとおりにした。
 その間僕たちはみな、まるで何かに動きを封じられたように、その場に立ったまま見ているしかなかった。人質は解放されたのだから、今飛び出していけば押さえられるかも――だめだ、爆弾がある。この距離で爆発させられたら――エアリィの反射神経なら、火をつけてから起爆するまでに十メートル離れることはできるだろうが、周りに大勢いるファンたちは間に合うだろうか――いや、きっと巻き添えが出てしまうだろう。彼は本当に動かないで撃たれる気なのか、土壇場でよけて、その隙にセキュリティが飛び出す余地を作るのか――いや、この距離だと、爆弾の起爆に間に合わない可能性が高い。そんなところにセキュリティが飛び出したら、わざわざ爆発に巻き込まれに行くようなものだ。もしエアリィがよけたら、きっとあいつは怒り狂って火を点けさせるに違いないから。それなら発砲する前に、素早く相手を攻撃するのか――いや、あの至近距離だし、相手に髪と肩をつかまれている状態では、いくらエアリィでも間に合わないかもしれないし、弾に当たる危険が大だ。それに、ジョニーという男がもしすかさず火を点けたなら――爆発が起きたら、ファンたちには確実に巻き添えが出るから、それは絶対に避けねばならない。ならば、エアリィがよけたり攻撃したら、そのタイミングでセキュリティが飛び出していって、援護出来たら――いや、仮にぴったりタイミングを合わせられたとしても、距離があるから間に合わないだろう。どうすればいいんだ――そんな考えが半ばパニック状態のまま、堂々巡りを続け、身体は動かない。きっとこの場にいた全員が、同じだっただろう。
 中年男は銃を持った手を伸ばし、言葉を継いだ。
「これは密着させて撃つと、効果が減るんだ。だから、ここから撃つ。おまえが約束を守るなら、私も約束は守ろう。私が引き金を引いてから一秒、そのくらいあれば十分だな。それまでおまえがそこを動かなければ、私も自爆はしない。乱射もしない。それでどうだ」
「わかった……」エアリィは両手を後ろに回して組んだ。そして静かに言う。
「少し祈っても良いかな……」
「おまえも祈るのか。邪教の神にか?」男は軽蔑したように顔をゆがめた。
「あんたたちには、決してわからないだろうけど……少なくとも今は」
 彼は目を閉じて、呟いた。声には出さない、しかしその唇の動きでわかった。僕は読唇術など使えないが、なぜかその土壇場の言葉はわかってしまう。四年前、インドの寺院でパニックに落ちた時のように。今、エアリィが何と言ったのかも。
“Oh,My Sacred Mother――Mercy me”
『聖なる母よ、お慈悲を……』
 母といっても、彼の母親アグレイアさんに向かって言ったわけではない。それは『神よ』と同じニュアンスだ。彼は本気だ――本気でその身を犠牲にしようとしている。激しい戦慄が走り抜けた。
「エアリィ、止めろーー!!」
 僕は思わず、声を上げて叫んだ。金縛りが少しだけほどけたように。それに続いて、その場にいた誰もが、同じ言葉を叫んだ気がした。その叫びの中、銃声がこだました。ぱっと血が飛び、エアリィは一瞬驚いたような表情で目を開け、一歩よろめくように下がると、再び目を閉じて、そのまま後ろへ倒れた。横に立って髪と肩をつかんでいたハリーと言う男が少し手を離すのが遅れたため、一瞬引っ張られたような形になったが、男が手を離すと、そのまま一気に体の力が抜けてしまったように、落ちるように倒れていく。
 その瞬間、誰かがもの凄い勢いで飛び出していった。「うおおお!」と獣のような叫びを上げて、中年男に飛びかかっていく。ネイト・ジャクソンだ。エアリィの専属セキュリティの。彼が撃たれたことで、自制心が飛んでしまったのだろう。相手が手に銃を持ち、爆弾を身体に巻いていることも、相方のジョニーと言う男がそばでライターの火を捧げ持っていることさえ、眼中にないらしい。危ない! 
 しかし相手の男たちは、少し躊躇しているようにみえた。一応目的は完遂したのだから、ここで自爆する意義はあるのか――火をつける役のジョニーという男も、当の中年男も、たぶんそう思ったのだろう。瞬間のそのためらいと、ジャクソンの勢いに圧倒されたのかもしれない。我に返った中年男が銃を撃とうと引き金に手をかけた時には、すでにジャクソンは恐ろしいスピードで、そいつの目の前まで来ていた。そしてそのままスピードを緩めずにその男に突進し、強烈なラリアートを食らわせたので、中年男は数メートルも吹っ飛んで、道路に倒れた。どうやら一撃で気絶してしまったらしい。手から銃が飛んだ。ジャクソンは急停止し、くるっと急転回して、今度はジョニーという男に突進する。その男はライターを投げ捨て、逃げ出した。それは幸い中年男とは離れた地点に落ち、その衝撃で火は消えたようだ。
「俺たちも行くぞ!!」
 ファーギー・パターソンが同時にそう叫び、残る七人のセキュリティ全員が飛び出した。ホッブスとフリーのセキュリティ三人が、若い方の二人の男たちを取り押さえ、パターソンとロビンのセキュリティ、トーマス・シングルトンが中年男を捕らえると、身体に巻いていた爆薬を外した。
「これ、やばいぞ、本当に。本物だ」
 パターソンがそれを地面に投げ出しながら、うめくように声を上げた。
「ああ。でもライターは回収した。危ないところだったな、本当に」
 ミックの専属セキュリティ、イアン・オーランドが身体を屈めて地面からそれを拾い上げ、ため息をついた。
 本気だったのだな――僕らは改めて、いっせいに身を震わせた。
 同時にファンたちが押し寄せてきた。誰かが地面に転がったままの、もう一丁の銃を拾い上げたようだ。人質にとられていたソフィアという少女の姉らしい、黒髪のあの子だ。声を震わせ、身体も木の葉のように震えながら、もう既にセキュリティたちに取り押さえられているあの中年男に向かって、銃を突きつけている。
「よくも……よくも! あんたなんて、殺してやる!」
「だめだ!」僕は前に飛び出し、声を上げた。
「これ以上、早まったことをしないでくれ、お願いだ!! エアリィは君たちを守るために、撃たれたんだ! そんなこともわからないのか! 彼の行為を無駄にしないでくれ!」
 まるでファンたちのせいであるかのようにも取れる、ひどい言い方をしてしまったな。―瞬そう思ったが、そんなことに配慮できないほど、僕も動転していたのだ。
 女の子は青ざめた顔で、銃を取り落とした。さらに体の震えが激しくなり、声を上げて泣き出した。その場にいたほとんどのファンたちが、泣き叫んでいる。
「いやぁぁ!」
「うそでしょうぉぉ!」
「なんでなんで……」
「あたしたちのことなんて、どうでも良かったのに」
「なんで、わたしたちのためになんか……」
「あたしたちが……余計なことをしたから……?」
「あいつらに逆らおうとしたから?」
「そんなぁ!」
「でも、どうすればよかったの、あの場合! 他に何が!!」
「わからない。わからないけど……こんなのいや! 絶対いや!!」
 それぞれの言葉が入り混じり、音の塊となって膨れ上がる。その中を切り裂くように、パトカーのサイレンが響いてきた。
 僕はさらに二、三歩近づき、屈みこんだ。ロブやカークランドさん、他のメンバーたちも近寄ってくる。正面から銃弾が来たその勢いなのか、そのまま後ろに倒れたのだろう。エアリィはコンクリートの上に、ほぼ仰向け状態で倒れていた。夕闇が深くなり、つき始めた街灯の灯りに照らされて、光のような長い髪が背中の真ん中あたりから、身体をとりまくように広がっている。パーカーのフードがクッションになって、それにハリーという男が髪から手を離すのが少し遅く、引っ張られたために加速度が和らげられたこともあって、頭をコンクリートに強打することは避けられたようだが、それでも――右手を投げ出し、左手は胸に当てているが、その手の下から赤い色がどんどん広がって、水色のコットンセーターを鈍い色合いに変え、さらに白いパーカーにも広がっていく。カークランドさんが抱き起こしたいように手を伸ばしたが、動かすのは危険だと悟ったらしい。そのまま呆然と見ていた。ジャクソンも駆けつけてきた。犯人たちの方は、仲間たちに任せたのだろう。そして、狂おしいほどの叫びを上げた。
「うぅぁぁぁー! だから出るなと言ったのに!! 君は優しすぎるんだよ!! なんでなんだ!?」と。そしてそれ以上はもう続けられないように、声を上げて泣き出している。僕らの後ろでロブが携帯電話を取り出し、かすれた声で救急車を呼んでいた。普段ははっきり正確に話すのが信条のロブが、今は半分しどろもどろだ。
「エアリィ……おい……嘘だろ? 冗談……だよな」
 僕は手を伸ばし、投げ出された右手に触れた。冷たい――。感情が半ば麻痺してしまったようで、僕もそれ以上は何も言えなかった。

 数分後、警官たちに男たちは連行されていった。閉じ込められていた本物の警備員たちも、無事救出された。手足をガムテープでぐるぐる巻きにされ、口もふさがれた状態で、長い人で数時間閉じ込められていたらしいが、幸い肌寒い季節だったので、熱中症や脱水にはならなかったようだ。下着姿ゆえ、身体は冷え切っていたそうだが。
 やがて救急車がやってきた。白服の技師が降りてきて、調べ始める。
「頸動脈がかすかに触れる。まだ生きているぞ」
 その言葉を聞いた時、思わず安堵のため息が漏れた。が、もう一人が首を振った。
「だが、これはかなりひどいな……」
「誰か付き添いに来て下さい」
 専属スタッフの二人、カークランドさんとジャクソンが、一緒に救急車に乗り込んでいった。ロブも本当は行きたかったのだろうが、総合マネージャーとして、ひとまず僕らの対応もしなければならないと、諦めたらしい。
 事件は一応、これで解決を見たことになる。ソフィアという女の子は無傷で保護され、ファンたちも誰もケガはない。少女の姉らしい子も早まって発砲などしなかったし、罪には問われない。制服を奪われて閉じ込められた警備員たちも、命には別条なく、犯人たちも全員捕まった。だから最悪の結末、などとは言うまい。でも無事な解決とは、到底言えなかった。
 僕らはとり返しのつかない犠牲を払ってしまったのではないだろうか──遠ざかっていく救急車のサイレンを聞きながら、みんな凍りついたようにその場に立ちすくんでいた。コンクリートの上に出来た血だまりは、まだ生々しく深紅にあたりを染めている。スタッフたちは沈痛な表情で押し黙り、警官たちがファンや警備員、ホテルの関係者たちに事情を聞いていた。ファンたちは泣き続けている。そして泣きながら、警察の質問に答えていた。その場にいた二七八人のファンたちが(この数字は、後で警察から教えてもらって知った。エアリィはたぶん、一瞬でその数を把握していただろうが)その場に佇んだまま、あるものは座り込んで、泣いていた。
 泣くな──僕は思わず叫びたくなった。まだエアリィは死んだわけじゃない。まるで彼を悼むように泣くのはやめてくれ! アーディス・レイン・ローゼンスタイナーは、僕ら凡人とは違う。普通の人間じゃないんだ。こんなことで死んだりするわけがない。
 僕はこぶしを握り、唇を噛み締めた。

 僕らはホテルに戻って、事情聴取に応じた。そこで二時間ほど詳しい話を聞かれたあと、ロブは病院に行った。僕らも一緒に行きたかったが、もう少し状態がはっきりするまでここで待つようにとロブは告げ、その言葉に従って僕らはホテルに残った。そして誰ともなくみんな一つの部屋に集まり、無言でソファやベッドに腰かけている。
「本当に、悪い夢でも見てるみたいだね……」
 ロビンがぽつんとそうつぶやいた。
「今度のアルバムは、やっぱり……出すべきじゃなかったんだろうか」
 思わずそんな言葉が口をついて出てきた。そう言えばこのツアーに出発する前に、エイヴリー牧師もこんな忠告をしていた。
『君たちは秘密結社やカルトの連中も、敵に回したのだぞ。あの連中は危険だ』
 あの男たちの正体は分からない。でも、きっとそうではないかと、僕は感じた。重苦しい沈黙の中、みんな同じことを考えているようだ。
「いや、あのアルバムを世に出したこと自体は、決して間違っていないよ」
 長い沈黙のあと、ミックが乾いた声で言い、首を振った。
「あの曲もアルバムのコンセプトも、決して間違ってはいない。今になって、僕は本当にそう思えるようになった。実際、多くの人が共感してるんだ。『目が覚めた』『勇気が湧いた』『人生を変えてくれた』『いかに自分が流されていたか、よくわかった』そんな手紙やメールや掲示板の書き込みが、毎日、山のように来ているんだ。それこそ物凄い数だよ。逆に言えば、だからこそなのかもしれないけれど……」
「ばかどもが!」ジョージが膝を叩いて、そんな悪態をついた。
「エアリィが何をしたってんだ! 宗教を盲信するなって言うことが、神の敵か? 社会のルールをもう一度考えてみるってことが、社会の敵なのか? なぜ、すぐにそう短絡するんだ、石頭の大バカ野郎! 悪魔はおまえらの方だ! 復讐だと?! そんな逆恨み、そっくりおまえらに返してやる!!」
 僕たちは誰も彼の乱暴な言葉を咎める気にはなれず、心の中で秘かに同意していた。 
 窓の外には夜の帳がおり、壁の時計は八時をさしている。あれから四時間――本当なら、ロンドン五夜連続公演の、そしてヨーロッパツアーの最終コンサートが、七時半過ぎに開演している。今の時間だったら、五曲目あたりを演奏しているころだ。なのになぜ、こんなことになってしまったのだろう――。
 不意に、事件の直前に交わした会話がよみがえってきた。
『怖い……今は行きたくない』エアリィがそんな言葉を、口にしていたことを。
『このまま進んだら、闇が待っていそうな気がする』と。
「だったらどうして……もっと自分のカンを信用しなかったんだよ、エアリィ」
 僕は思わずそう呟いた。
「おまえ、いつも異常に勘が鋭かったじゃないか。ヤバそうな予感がした時は引くことにしているって、前にも言っていたくせに、どうして今回に限って引かなかったんだ。怖いって感じたんなら、一回部屋に帰ればよかったんだ。みんなの迷惑なんて、気にするなよ。おまえも一回くらい、わがままな振る舞いをしてくれよ、本当に。時間をずらしたら、状況だって変わっていたかもしれない。リムジンが通用口にぴったり止まってさえいたら、僕らはすぐに乗りこめた。連中だって、騒ぎを起こす暇はなかったはずだ」
 そうだ。あの幻影もはっきり警告していたのに。気をつけろ、と。二度までも、その言葉を伝えていた。それなのに僕はその時、エアリィのその不安を下手なジョークで返してしまった。なぜなのだろう。僕はわかっていたはずなのに、幻影の警告の意味を。昨日までの僕なら、そう言いかねなかったかもしれないが――それとも僕はまだ、完全に潜在意識の下では、克服しきれていなかったのか。いや、違う。そうじゃない。でも結果的に、彼をあの場に出て行かせる、後押しをしてしまったのかもしれない。ただ、その動機は、昨日までの僕とは違う。何か見えざる手で押されたかのように。
「タイミングが悪かったのだろうか。でも、ホテルを無事に出たとしても、今度はコンサート会場で、同じようにしかけようとしただろうか。ああ、でも会場には警察も常駐しているからね。奴らもそこで、仕掛けられたかどうか……本当に運が悪かったのだろうか」
 ミックが物憂げな顔で、ゆっくりと首を振った。
「そう、コンサート会場には、警察も来ているからね。ホテルにはホテルの警備員がいるから……でも、僕らはファンたちまで警護は出来ない。あれだけの数じゃ、限界がありすぎるよ」僕はうめくようにつぶやいた。
「ああ、だからこそ、盲点を突かれたというわけだね」ミックがのろのろと頷く。
「ファンの連中はな、もう少し気をつけてもらうしかないな、自分で」
 ジョージが首を振った。「とは言いえ、警備員に変装されたんじゃ、お手上げだな。どこまで信用していいかわからないし、どいつが怪しいかなんて疑うと、疑心暗鬼になる。一つ間違えば、リンチにもなりかねない。それもまったく関係ない奴を」
「うん……それは難しい問題だね」
 ロビンが頷いている。そして僕らは、ひとしきり黙り込んだ。それよりも今は、重大な気がかりが一つある。でも、それを口に出すのは怖かった。




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