Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(10)




 ロンドン最終公演日の朝、僕はホテルの部屋で荷物を整理していた。今夜のコンサートが終わり打ち上げパーティをしたら、明日午後の飛行機でトロントへ帰る。そのことを考えると気が重い。また八月の休暇の繰り返しになるのかと思うと、このままずっとツアーが続いていけばいいのに、とさえ感じてしまった。
 いつから我が家へ帰るのが、いやだなんて思うようになったのだろう。一度こじれてしまった愛情を元に戻すことが、これほど難しいとは。しかも時間がたつほど、ますます解決は困難になっていくように思われた。
 出かける直前になって、僕は後悔したはずだった。つまらない意地を張ってしまった。次はちゃんと迎えに行こうと。しかし、いざその決断を実行しなければならない時期が迫ってくるにつれ、決意はぐらつきだしている。
 迎えにいっても、ステラは戻ってきてくれるだろうか。夏に迎えに行かなかったから、怒っている可能性もある。しかもこのヨーロッパツアー中、僕は一度も妻に連絡をしなかった。携帯電話にしても、ホテルの電話にしても、国番号を押し、彼女の実家の番号を押そうとして、途中で止めることの繰り返しだ。
 ステラの携帯電話は、ほとんどいつも電源が切れている。以前は実家に帰っている時でも携帯電話がつながったが、あの事件以来、『家にかけてくれればいいから』と、携帯は放置しているようだ。でもステラの実家となると、時間帯によるが、最初にとるのはトレリック夫人の確率が高い。そして彼女が『ジャスティン・ローリングスさんからお電話です』と告げると(彼女は家では僕のことを若旦那様と呼ぶが、パーレンバーク家にいる時には、そう言わない。たぶん義父母が嫌がるのだろう)、だいたいその次に出てくるのは義母だ。『何の用なの?』と冷たく問いかけられ、ステラは電話に出られないと告げられ、切られる。たぶん僕から電話があったことも、ステラには話さないのだろう。トレリック夫人の勤務時間外の場合、電話を取る率が高いのはやはり義母で、同じことの繰り返しになる。たまにステラが電話口に出てくることもあるが、五回に一回あればいいほうだ。そうするとなおさら、電話をかけるのを躊躇してしまうのだ。おまけにステラにつながっても、前回迎えに行かなかった言い訳をしなければならないし、それは気まずい。
 それならせめて絵葉書を――そう考え、ヨーロッパの美しい風景が描かれた葉書を何枚か買った。でも、何事もなかったかのように以前のような文面を書くことは、よけいステラを怒らせるかもしれない――そう考えると、何を書いたらいいかわからず、そのままになっている。それにどうせ義父母がゴミ箱に放り込むのだろう。そう思うと、手紙や葉書を書く行為自体、まったく無駄な気もしてしまう。全米と同じく、ヨーロッパでもあまり外出ができづらいのは同じだが、それでもベルリンやパリ、ロンドンのように複数日滞在する町では、買い物に出ることもあった。でも、そこでステラが喜びそうなものが目についても、買っても受け取ってさえくれないのだろうと思うと、買う気分にはなれなかった。
 今度のアルバムのプリプロダクションの時、傷つき、怒りに満ちていたステラをそっとしておいた方がいいと思い、僕は連絡しなかった。そのことを後で詰られた。今もそうだろうか。ツアーが進んで行くにつれ、連絡をしない気まずさは広がっていき、ますますなんと言っていいかわからなくなって、彼女との距離が広がっていく。そしてとうとう、距離が広がったまま、ヨーロッパツアーが終わる――。
 僕はどうしたら良いのだろう。思わず、深いため息が漏れた。こんなことを続けていては、ますます妻との関係修復は難しくなっていく一方だ。今度は、迎えに行ったほうがいいだろうか。機嫌を直してもらうまでに、相当な謝罪が必要だろうが。だが、そうして仮にステラが戻ってきてくれたとしても、その家は一人よりははるかにましだが、以前と同じようでは決してない。もはや家庭は僕にとって、安住の地ではなくなっている。そう、仮に彼女が僕の謝罪を受け入れて、戻ってきてくれたとしても、たぶん春の、レコーディング終了時の半オフと、状態は変わらないのだろう。いや、もっと悪くなるかもしれない。ステラが僕のありのままの気持ちを受け入れ、過ちやこだわりを水に流して、自発的に戻ってきてくれるのでなければ。
 次のオセアニアツアーに出るまでの十日間だけなら、試してみようか。ステラを迎えに行かず、自分から帰ってきてくれるかどうかを。もしだめなら、もう一度一人で暮らせばいい。寂しいだろうが、そのうち慣れるだろうし、ジョイスも協力してくれるだろう――。
(でも、それでどうする気だ、ジャスティン・クロード・ローリングス?)
 僕の中の理性が、その時強くそう問いかけてきた。
(それで、ステラが戻ってくる保証はあるのか? どう見ても、戻ってこない公算の方が大きいぞ。以前迎えに行かなかったことと、ツアー中まったく連絡をしなかったことで、よけいにへそを曲げているだろうに。それに今度のツアーのインターバルは、一人暮らしでもまだなんとかなるだろうが、次はクリスマス休暇だ。いったいどうする気だ。また一人で実家へ帰るのか? 去年のように別々に帰ることになったと言って? 虚しくないか? それに、そうやってずっと先延ばしにしたところで、来年の春にはワールドツアーも終わってしまう。三ヶ月はオフだ。そんなに長い間、一人でいられるのか? ジョイスの協力だって限度があるし、そのうちに両親も気づくはずだ。そのころには一年も別居状態におかれている妻が、どうするかもわかっているだろう。おまえはもっともらしい理由を付けているが、本心は自分から折れるのがいやなだけだ。そして自分にストレスになるから、妻と向き合うのを避けているだけだ。だが歩み寄るなら、今しかないぞ。さもなければ、おまえたち夫婦は一生別居か、最悪の場合は離婚になるだろう。それでも本当にいいのか?)
「僕だけが歩み寄ったって、仕方がないんだ!」僕は乱暴にジーンズをトランクに押し込みながら、自分の良心に反駁するように、声を出した。
「二人で歩み寄れなければ、意味がないんだ。ステラから戻ってこない限り、何も変わらないさ」
 僕は勢いよくトランクの蓋を閉めると、安全ベルトをかけた。もう一つのトランクは、まだ開いている。ぎりぎりまで使う日用品や、今着ている服、パジャマなどを入れなければならないから。明日の朝、それを入れたら、出発準備は完了だ。
 明日帰る。それは誰もが疑っていなかった。その午後までは。

 いつもどおり四時半過ぎに会場入りするため、僕たちはその三十分前にホテルの部屋を出た。堂々とロビーから出ると騒ぎになって他のお客に迷惑だからと、ホテル側では従業員用通路を開けてくれ、裏口からいつも出ていっている。僕らはスタッフやセキュリティに付き添われ、エレベーターをおりて、長い通路を歩いていった。通路は狭く薄暗い。何人かの警備員がいて、たまにホテル側の従業員とすれ違う。でも、その他には誰もいない――はずだった。
 誰かがいる。前方の壁の前に立っている人が。青みがかった紫色の、光沢のある長いガウン、フードの縁からこぼれる濃い琥珀色の髪、片手に持った銀のリング。あの人はいつかの幻影。マインズデールで会った、紫の天使だ。僕は思わずぎくりとして立ち止まった。その人は緑の瞳に何か訴えるような表情を浮かべ、じっとこちらを見ている。
 先を行くジョージやロビン、ミック、ロブやまわりのセキュリティにも、その姿は見えていないようで、さっさと前を通りすぎていく。でも、僕以外にこの幻影が見える人間が、一人だけいた。ちょうど僕の前を歩いていたエアリィも小さく「えっ!」と声を上げ、びくっとしたように足を止めて、そっちの方向を見たのだ。
「ヴィヴ……? なんで、ここに?」
 おそらく僕ら二人にしか見えていない幻は、一瞬の点滅の後に身体の向きを変え、僕らを正面から見据えた。言葉にならない思念の声が、こだまのようにかすかに頭に響いてくる。(どうか、お気をつけてください)と。
「気をつけろって……何に?」エアリィは小さな声で、そう問いかけていた。
(闇の力が、光の継承を切るために働こうとしています。その波動がかなり強烈に感じられます。心してください)
 かすかな思念の声が再び響く。その声なき言葉は、まるでこだまが響くように遠くに聞こえる。マインズデールで会った時には、もっとはっきり聞こえたのに。最初は不思議だったが、そのわけはすぐにわかった。それは僕に向けられた言葉ではない。いわば、漏れたエコーを聞いているようなものなのだと。その幻影が呼びかけている相手、エアリィにはおそらく明瞭に響いているのだろう。
 その思念の言葉が伝わった時、彼は小さく身体を震わせ、幻影を見つめた。
「闇の力が動いてる……?」
 エアリィは小さな声で反復した。その横顔に、さっと感情が行きすぎたように見えた。驚き、当惑、怖れ――彼はしばらく沈黙した後、微かに頭を振った。
「うん。わかった。この先に、かなり厳しいことが待ってるんだ。たぶん最大の。でも……なんとかなると思う。ベストはつくすよ。ありがと」
 幻影は懸念と慈しみの入り交じったような、奇妙な表情で見つめている。
(本当に大丈夫ですか?)そう問いたげにも見えた。しばらくの間。
(あなたの助けになれれば、よかったのですが。私にできることは、母なる神に祈ることだけです。どうか、お気をつけて)
 思念の声がかすかに響くと、幻影は手に持った銀色のリングをくるりと回した。白銀の淡い光とともに、その姿はすうっと消えていく。
「どういうことだ?」
 僕は、しばらく驚きにとらわれて立ちすくんでいたが、やっとそう聞いた。
「おまえにも、あの人が見えるのか、エアリィ? でも、いったい……」
「ああ。まあ、時々会って、いろいろ話はしてるけど。でも、一人でいる時限定だよ。だから、びっくりしたな。みんなと一緒の時に見たのなんか、初めてだ」
 彼は少し黙り、僕を見て続けた。
「そうだ。ジャスティンには見えるんだった……」
「ああ。前にマインズデールにおまえを探しに行った時に、あの人を見たよ。でも一緒にいたロビンには、まったく見えなかったらしい。言っても、信じてすらもらえなかったよ。実を言えば、僕自身も半信半疑だったんだ。あれは僕の神経が生んだ幻視なのかって。今も一瞬そう思ったよ。でも、おまえにも見えているってわかって、なんだか少しほっとしたな。僕の頭がおかしくなりかけているわけじゃないってさ」
「ああ。別にあれは幻じゃないんだ。いや、ある意味そうかな。自分の頭が生んだ幻ってわけじゃないけど。あれは一種の投影で、波長の合う人っていうか、決められた人にしか見えないんだ。今のところは僕と、ジャスティンにだけしか見えない。でもそう思うと、運が悪いな、おまえも。ていうと、あの人に怒られそうだけど」
「どういう意味だよ、それ」
「だって、あれは普通の人には見えないんだ。ってことはさ、おまえは普通じゃないってことだから」
「たしかにそうだな。その理屈だと」僕は思わず苦笑して、小さく肩をすくめた。
「でも、おまえだって、人のことは言えないじゃないか。しっかり見えているんだから。それに、おまえの方が僕より、あの人とはお近づきだろ? 時々会って、話してるって、さっきそう言ってたじゃないか」
「ん、ま、それは否定しないけど」エアリィも笑って、微かに肩をすくめる。
「あの人はいったい誰なんだ? おまえは知っているのか?」
「知ってる。でも、言うことはできないな、今は。ヴィヴにも止められてるし、僕も積極的に考えたいことじゃないから」
「ヴィヴ? って、あの人が? それが名前なのか?」
「っていうか、僕が勝手にそう呼んでるだけ」
「どういう理由で?」
「なんとなく。でも、呼んだら来てくれるよ。回りに誰もいない時に、上を見上げて、『ヴィヴー!』って呼んだら、『なんですか?』って」
「ランプの精霊か?」僕は思わず笑った。
「いや、願いは叶えてくれないけどね。あの人に、その力はないし。だから、ただ話をするだけ」
「まあ、そうだろうがな。でも、僕にはとてもあの人をそんな風に、なれなれしく呼べそうもないよ」
 僕は苦笑した。でも、あの人を知っているというからには、その呼び名もなんとなくではなく、理由はあるのだろうが、言えないということだろう。
 それでもやっぱり、不思議に思わずにはいられない。僕だけでなくエアリィにも見えるということは、あの人はたしかに存在している現実ということになる。でも、なぜ他の人には見えず、僕ら二人だけが見ることが出来るのだろう。波長が合うとは、どういうことだ? ラジオやテレビのチューニングのようなものだろうか? 普通の人には見えないとエアリィは言ったが、やはり僕らは他の人とは違うのか? まあ、エアリィが普通でないのは前からわかっていたが、僕までそうなのか? 決められた人とは、どういう意味なのか。マインズデールで会った時、僕はあの人の後継者なのだと言っていた。そうすると、僕もいずれその人の役割を果たすことになるということか? あの人の役割がそもそもなんであるのか、まったくわからないのに。
 第一、あの人はいったい誰なんだ。とても人間とは、思えないのだが。投影なんて技ができること自体、普通の人間でないことは確実だ。最初は天使の類を連想したが、リングを使って姿を消したりしているさまを見ると、魔法使いを連想したりもする。だがあの人は、そのどちらでもないのだろう――そんな思いも感じだ。そして正体はわからないにせよ、あの人は何のために僕らの前に時々現れるのだろう。何らかのメッセージを伝えるために? でもそのメッセージの意味は、ほとんど理解できない。
 それに、もし僕があの人の後継者だとしたら、エアリィはいったい、あの人の何なのだろう? 呼んだら来てくれる、と言うのだから、本人が言うように、僕より近しい関係のようだが。あの人は、以前パートナーがどうとか言っていた。僕には光のパートナーが居ると。でも現実に彼と僕の関係が、いかにそれに近くとも、あの人は以前、言っていた。僕の光のパートナーは今、生の狭間で休息中――ということは、この世に存在していない。これから生まれる人ということになる。さらにあの人の別名がディラスタで、以前エアリィが人格分裂を起こし、セディフィという女の子になった時に、その名前を呼んでいた。その時、セディフィとディラスタは、二人で一対な感じを受けた。それに彼はあの幻影とも、対等に話しているようだ。もともとエアリィは敬語を使うのが苦手のようで、ローレンスさんやスタッフにも、しばらくたつとほぼ、いわゆるタメ口になるのだが、好意と信頼、それに多少の敬意が常に透けて出るためか、失礼な感じを抱かせないところが得な性分だ。しかしあの幻影に対しても、そうなのだろうか? ああ、また混乱してきた。どうもあの幻影が出現すると、いろいろと変なことを考えてしまうようだ――。
「おーい、二人でなに立ち話してるんだ! 話してもいいから、足を止めるなよ」
 ジョージが振り返って呼んでいる。微かな苦笑を浮かべて。ミックやロビン、そしてロブやセキュリティたちも、僕たちが追いついてこないのに気づいたのだろう。立ち止まって見ている。
「あ、ごめん! ちょっと気になるものが見えたから」
 エアリィは微かに笑って、そんな言葉を返していた。まあ、たしかに嘘ではないだろう。
「はぁ?」先行しているみなは、不思議そうに周りを見回している。
「なにもないよ? 壁にクモでも見つけたの?」
 ロビンがちょっと不思議そうな、怖そうな顔で、そう声をかけてきた。僕らが壁の方を向いて話をしていたからだろう。しかしクモ扱いするのは、あの人に対して悪いというか、畏れ多い気がする。
「違う。けど、今は何もないよ」エアリィは苦笑して首を振り、
「ああ。たぶん目の錯覚ってやつかな」僕も肩をすくめ、そうごまかした。
 僕たちのすぐそばで話を聞いていただろう二人の専属セキュリティ、ジャクソンとホッブスは、不思議そうな、当惑したような顔で、お互いに顔を見合わせていた。彼らは僕たちの会話内容と今の返答が、少し、というかかなりずれているのを感じて、不思議に思っているのだろう。僕たちの会話自体も、さっぱりわかっていない感じだった。まあ、当然だ。でも僕たちが歩き出すと、彼らもまた何も言わず、忠実についてきた。

 十一月のロンドンの陽は短い。夕闇の迫る中、今日もかなりファンたちが外に来ていた。どこからホテルを突き止めるのかわからないが、ネットの口コミで広がっていくらしく、滞在が長くなるに連れて、人数が増えていくようだ。初日は五十人くらいだったが、今日はちらっとのぞいてみただけでも、二百人以上いそうだ。
 コンサート会場では三、四割ほど男の子をみかけるが、ホテルまで来るような、いわゆる“追っかけ”は、ほとんど女の子だ。その大勢の少女たちをホテルの警備員たちが規制して、後ろへ下がらせている。人波が退き、通路があけられるまで、僕らはそのまま出口のところで待機していた。
「なんか……怖いな。今は、行きたくない気がする」
 その時、エアリィが首を振り、小さく身を震わせながら呟いた。
「えっ?」僕は軽い驚きを感じ、そう問い返した。
「どうしたんだ? 行きたくないって、ショウをやりたくないって言うことか?」
「違うよ。ショウ自体は、すごくやりたい。今日がヨーロッパラストなんだし、昨日また、新しいレベルに行けたって思えたから、これからが楽しみだな、とも思う。けどさ、今行くと……闇が待っていそうで」
「まあ、たしかに、もうじき暗くなるけれどな」
 半ばジョークのつもりで、僕は返した。
「そういう意味じゃないって。ナイスジョークだけど」
 エアリィは苦笑して首を振り、しばらく沈黙した後、思い直したように言葉を継いだ。
「ああ……やっぱり、今行かなきゃ。そうしなきゃ、みんなに迷惑だし」
「おまえでも神経過敏になったりするんだな。さすがにいろいろありすぎたもんな、今回のツアーは」僕は軽く肩をすくめた。
「おまえでも、って言い方、気になるなあ。僕って、それほど無神経に見えるのかな」
 彼は苦笑しながら首を振り、そう抗議した。
「ま、でも自分でまいた種なんだから、しょうがないか。アーノルドさんに言われたこと、改めて実感しちゃうよ。ガラスの家に至近距離からボールを投げる、か。自分だけなら破片浴びて傷ついても我慢できるけど、みんなにも迷惑かけるって、わかってるのに、やっちゃったから」
「でも、僕らは誰もおまえを恨んではいないよ、エアリィ。これっぽっちも。今は本心で、そう言えるぞ。結果的にあれを出したのは、バンド全体の意志なんだから、おまえだけに責任をかぶせるつもりはないさ。それとも、おまえは後悔しているのか?」
「いや、全然。だってもう出ちゃったんだから、後悔したって、しょうがないよ。それにやっぱり整地は必然なんだ。『V.I』は、正念場なんだと思う。一番、危険なところ。でも、ここを超えれば、後は大丈夫なはずなんだ。だから、乗り切らなきゃ。大丈夫。たぶん……乗り切れる。あの人に言ったみたいに。そんな気もするんだ」
「ほら、二人とも、出るよ。急いで!」
 ミックに声をかけられて、僕らは話を打ち切り、外へ出ていった。まわりを取り囲んだファンたちが派手な歓声をあげる。その中を、いつものようにフリーのセキュリティ一人と、ジョージ担当のファーギー・パターソンの二人が先導を勤め、そのあとからミック、ロビン、ジョージを、ミックとロビンの専属セキュリティが、はさむような形で歩いていく。その後を、僕が道路側、エアリィは建物側を歩き、それぞれ専属のセキュリティ二人が挟み込むようにくっつく。さらにその後にロブとレオナ、エアリィの専属スタッフ、カークランドさんが続く。そして最後にフリーの二人が、ぴったりついてくる。直接攻撃を仕掛けてくる輩が出てきてからは、外を移動する時には、いつもそんな物々しい体勢だ。
 会場へ向かうリムジンは、いつも裏口にぴったりくっついて待機しているが、今回は他の運搬車が止まっていたため、少し離れた場所で待っていた。僕らは邪魔な車を迂回して、警備員がファンたちを止めている間に、急いでリムジンに乗り込もうと足を早めた。

 その時だ。突然人波が激しく揺れ、ファンの歓声とは明らかに違う声が鋭くあがった。紛れもない恐怖の悲鳴が。さらにその声がこだまするように幾重にもかぶり、広がっていく。八人のセキュリティたちがすばやく前に出、僕らを後ろに押しやって、取り囲むような形でかばう。と同時に、人垣がある一点を中心に、さあっと引いていった。そして僕らは知った。何が起きたのか。さっきの悲鳴の正体は何だったのかを。
 一人の男が──ホテルの警備員の服装をしているが、赤毛頭の、二十代半ばくらいだろうか、その男が一人の少女を羽交い締めにしていた。茶色の髪を両側に束ねてリボンで結び、公式サイトで売っているスモークブルーのロゴ入りパーカーにえんじ色のセーター、黒っぽいチェックのジャンパースカートを着て、濃い茶色のタイツをはいた女の子は、まだローティーンくらいの年頃だった。男の腕に動きを封じられ、恐怖に顔を引きつらせて、今にも泣き出しそうだ。もう一人の男が、同じように若く、やはり同じように警備員の制服を着た、黒っぽい髪を長く伸ばした男が銃を手にし、その女の子の頭に突きつけている。少女のそばにいた十六、七歳くらいの女の子(黒い髪を肩に垂らし、黒いセーターにタータンチェックのスカートと黒いタイツ、そして捕まっている少女と同じパーカーを着ている。顔が似ているから、捕まっている子の姉かもしれない)が、懸命な様子で手をさしのべ、呼びかけている。「ソフィア! ソフィア!」と。それがたぶん、捕まっている少女の名前なのだろう。もう一人、四十代半ばとおぼしき中年男──やはり同じ制服に身を包み、黒い髪にちらほら銀色のものが見え隠れし、浅黒い肌のその男が、強い動作で、叫んでいる少女を押し戻した。
「下がりなさい! この子を助けたければ、下がるんだ!」
 その男は、さらに大声で叫んだ。
「ここにいるみなに告ぐ。動くな! 誰も動くんじゃない! 携帯電話で警察を呼ぼうとするんじゃないぞ。少しでも動いたら、この娘の命はない!」
 男は大振りのピストルをポケットから取り出し、地面に向けて一発撃った。
「なっ……」
 僕は凍りついたように、その場に立ちすくんだ。おそらくそこにいた全員が、そうだっただろう。ファンが拉致された? なぜ? なんのために? あの三人はホテルの警備員の格好をしているけれど、そうじゃないのか? あの子はきっと、姉とここに来たのだろう。僕らを一目見ようとして。その子がなぜ理不尽にも、あの男たちに拉致されたのだ? 柱のようなセキュリティの体の間から見えるその子の顔は、恐怖に青ざめ、凍りつくあまり、パニックにさえ陥いることが出来ない。そんな感じだ。
「安心するがいい。我々は別に無差別殺人に来たわけではないし、罪もないこの少女の命を奪うつもりもない。あくまで、そちらが変な動きをしなければ、だが」
「その子を離せ!」
 ロブが青ざめた顔で僕らを制し、代表で交渉に当たろうとした。
「なぜ、こんなことをする? おまえたちはホテルの警備員じゃないのか? そちらの言い分や要求は何だ?」
「制服を拝借した。本物の警備員たちは、殺してはいない。気を失わせて、そこの物入れに閉じ込めた。我々の用が済んだら、救出してやるといい」
 中年男が薄笑いを浮かべながら、右側の壁沿いにある物入れの方にあごをしゃくった。
「我々も、こんな手段は取りたくなかったが、他に方法がなかった。これははったりではない。要求が通らなければ、この子は殺す」
「だから、おまえたちの要求はいったい何なんだ?」
 ロブが焦れたように声を上げる。
「おまえではない! 我々は一介のマネージャー風情に興味はない」
 男が路上にぺっと唾を吐いた。そして一呼吸おいて、再び声を張り上げる。
「アーディス・レイン! いるのだろう、そこに! おまえの信徒を、この少女だけでなく、この場に集まったおまえの信徒たちの上に銃を乱射されたくなければ、ここへ、私の前に出てこい。ボディガードなんて連れてくるな! おまえ一人だけで、ここまで出てこい!」
「えっ!」
 僕らは再び絶句した。名指しされたエアリィは一瞬びくっと震え、青白くなるほど顔色を失った。が、ほとんど反射的な動作で、前に出ようとする。横にいたセキュリティのジャクソンがその腕をつかみ、引きとめた。
「だめだ。今連中の挑発に乗って出たら、思うつぼだ。危なすぎる!」と。
「だけど……」
 エアリィはもどかしそうに手を払いのけようとしながら、頭を振った。
「僕が出ることが、連中の要求なら……そうしないと、あの子は危ないかもしれないし、もし乱射なんかされたら……」
「そうはさせない! そんなことはさせないから」
「どうやって? 下手に動けないわけだし、通報も難しいし……」
「君が出て行って、状況が変わる保証はあるのか? あいつらのことがどこまで信用できるか、わからないんだぞ。無駄に危険になるだけだ」
「そうだ。ジャクソンの言うとおりだ。おまえが出て行っても、連中が人質を解放してくれなかったら、どうなると思う。だからおまえは動くな、エアリィ。交渉は、我々に任せろ。おまえは絶対に、ここから出たらダメだ。いいな!」
 ロブが乾いた声で制した。
「出てこないのか?」中年男が苛立ったように声を張り上げた。
「自らの信徒を見捨てるのか? はっ、とんだ教祖さまだ!」
「だから、僕は教祖じゃない!」
 エアリィもついにたまりかねたのだろう。そう声を上げた。
「何か、勘違いしてないか? 僕らは宗教じゃないんだから、信徒も教祖もないよ。僕らはただのロックバンドだし、彼女たちは僕らの音楽を好きになってくれた人たちだ。僕らにとって、大事な人たちなんだ。その子を離せ!」
「おまえはそう言って、きれい事でたぶらかそうとする!」
 男は声を上げた。そこには強い憎悪がはっきりと感じられた。
「そんな後ろで、ボディガードの影に隠れて、なんだかんだ言っていたところで、それは卑怯者の弁解だ。ここへ、私の前に出てこい。そして、ある場所へ行ってくれたら、この子は解放する。信徒たち、おまえが言うところのファンたちにも、手を出さない。どうだ!」
 そんなむちゃな要求が聞けるか! 僕は密かに歯がみした。あのソフィアという女の子はどうしても助けなければならないが、そのためにエアリィが拉致されたら、彼は絶対無事には帰れまい。あの男たち──あの話しぶりでは、どこかのカルトだろうか? 今やエアリィは、すべてのカルトを敵に回しているようなものだ。そんなところへ連れて行かれたら、どんな目に会うか──。
 なんとかならないのか? 僕は絶望的な思いで、体は動かさず、周りに目を走らせた。若い男たちの片割れは女の子をしっかりと押さえ、もう一人はぴたりと銃を突きつけている。二人ともくまなく周りに目を走らせ、不審な動きをするものがないかどうか、じっと見ているようだ。下手に通報を試みれば、あの子は危ない。交渉役の中年男も、僕らの情勢を注視しているように見える。ホテル側の警備員や、僕らのセキュリティたちも動けないし、いざという時飛び出したとしても、少し距離があるから、阻止することはかなり難しいだろう。でも果たして交渉で説得など、出来るのだろうか? 警察のプロならともかく、ロブや僕たちに。
「今から十数える」男はゆっくりと宣告した。
「その間に出てこなければ、我々はこの子を殺す。そしてその場で銃を乱射し、我々も自害する」
「…………!」
 僕らは一斉に絶句した。連中は狂気だ。しかし本気だ。それだけは、はっきりとわかる。
「一、二――」そして男は、ゆっくりと数えはじめた。
 エアリィは前に踏み出しかけた。セキュリティだけでなく、僕も袖をつかんで止めた。
「ダメだ。行ったら……」
「だけど……」
 彼は当惑しきった顔で僕を見た。カウントは続いている。
「三、四、五――」
「畜生。誰か、あいつらをなんとかしろ……」
 ジョージがもどかしげにつぶやいた。
「うしろから回り込めたら……」
 僕はすぐにその考えを却下した。ダメだ。そんな派手な動きをしたら、連中はすぐ気づいてしまう。カウントは無慈悲に進んでいく
「六、七、八……」
「行くよ、もう! 危ないとか、そんなこと言ってられない。あいつら、本気だ」
 エアリィがついに僕らの手を強く振りきり、歩いていった。
「あっ、おい……」
 引き留めかけた僕らを振り返らず、彼はささやく。
「みんな、動かないで、絶対。誰も……僕の巻き添えにはならないで。僕に出来る範囲で、なんとかするから」
 彼はセキュリティの輪を突っ切って進み、男と一メートル半足らずの距離を置いて、立ち止まった。対峙すると、相手のほうがかなり身体は大きい。小さいころの環境のせいか元々の素質なのかはわからないが、エアリィは男性としては小さい。背は自分がとても小さいと気にしているロビンとそれほど変わらず(百七十センチあるかないかくらいだろう)、まるで少女のような線の細さ。風に拭きなびいたブロンドの髪をきらめかせ、青ざめた顔をして、それでも目には怒りと気概が輝いているその姿は、見るものの目を惹きつけずにはおかなかったが、同時にひどく無防備に、そしてか弱くも見えた。大丈夫だろうか、本当に――そんな危惧は、おそらくその場の誰もが感じているに違いない。みんな叫びを押し殺し、息を詰めて成り行きを見守っているようだった。




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