Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(8)




 やがて、楽屋のドアがかちゃんと開いて、エアリィが入ってきた。取材が終わったのだろう。いつものごとくカークランドさんとジャクソンが一緒だが、ジャクソンの方は「まあ、あまり気にしないほうがいいと思うぞ」と声をかけながら、セキュリティたちの部屋に行ったようだった。カークランドさんは少し当惑したような表情で、ロブの方へ向かっている。そしてエアリィは椅子に座ることも、他の三人に視線を合わせることもせず、まっすぐ僕の前に来た。そして僕を見た。
「あのさ、ジャスティン。ちょっといい?」
「なんだ?」
 口調は決して険しくもなく、かと言って沈んでいるふうでもないが、なにか考え込んでいるような感じを受ける。僕は少々驚いて顔を上げた。
「どうしたんだよ、エアリィ」
「これなんだけど……もう読んだ?」
 彼は手に丸めて持っていた雑誌を、テーブルの上に置いた。たたみじわが広がったとたん、僕は一瞬さっと顔色が変わるのが自分でもわかった。なぜだ? なぜこれをエアリィが持っているんだ? どこから──楽屋に備え付けのものは一冊しかないし、今やガードなしでの外出を止められている彼が、どこか外から持って来たとも思えない。
 僕は不意を打たれ、言葉を失った。
「なぜ君がこれを? 取材に行っていたんじゃないのかい」
 ミックが明らかに焦りの表情を見せながらも、僕にかわって問いかけていた。
「うん、そうなんだけど、そこで聞かれたんだ。インタビュアーが、この雑誌を見せて。ジャスティンがこんなことを言ってるけど、僕はそれを知っているか。それに対して、どう思うかって。さっきの取材、それと同じ雑誌なんだよ。その翌月号に僕側からの記事を載せるためにって。ジャスティンの時とは、違う記者さんだったけど」
「えっ?」
 その部屋にいた全員が、そう声を発した。カークランドさんにも事情を説明されたロブが、慌てて手帳を調べている。ロブ――雑誌に目を通すのが少し遅すぎたのか、エアリィの今日のインタビュー先を、チェックしていなかったのか。どっちにしろ、ボーンヘッドだ。そうだ――僕も思いつかなかったが、この雑誌はイギリスが発行元だ。ミュンヘンまで遠征してきて、僕にインタビューしたのは、あくまで前哨戦で、本番は地元イギリス、ロンドンでのコンサートレポートと、アーディス・レインのインタビュー。それは当然の流れのはずなのに。このツアーはいろいろ気を配ることがありすぎるから、そのあたりはカークランドさんに任せっぱなしにしたのだろうか――ああ、だからジャクソンがさっき『あまり気にしないほうがいい』と言ったのか。
 それにしても、その雑誌はなぜ、そんなことをするのだろう。僕らを本当に、分裂させたいのだろうか。これまでは、わりと好意的に見てきてくれたと思っていたのに。ただ話題性を持たせればいいと思っているのだろうか。ただ雑誌が売れればいいと、それだけで。
 憤りと戸惑いとともに、僕はしかし、妙な罪悪感も感じた。本人に聞かれては困る悪口を偶然、知られてしまった、そんな時に感じる、きまりの悪さに似ている。でもなぜ僕が、ばつの悪い思いをしなければならないんだ? そんなことを言ってもいないのに。
「聞きたいことって、なんだ? おまえはまさか本気にしたのか、エアリィ。僕が本当に、この雑誌に書いてあるとおりのことを言ったんだと……」
「いや、本当に言ったとは思ってないよ、僕も。だからインタビュアーの人には、言ったんだ。僕はこの人のインタは受けたことないけど、ジャスティンはこんなにはっきり、記者の人にあからさまに、僕だけじゃなく人のことを悪く言うような奴じゃないって。だからこの記事は信じない。それに僕はバンドを乗っ取ったつもりなんかないし、自分の考えをいろいろ言っちゃうのは事実だけど、なんでもみんなで話し合って、納得して決めてるはずだって。まあ、たしかにこのアルバム出す時、僕は突っ張っちゃったかもしれない。けど、どうしてもみんながいやなら、みんなが納得できる妥協点を、時間をかけて探すつもりだったよ」
「そうだよ。それは僕たちだって、わかっていたさ。おまえが気にすることじゃない」
「でもさ、一度きちんと話し合ったほうがいいのかもしれないなって……そう思えたから、そうも言ったよ。僕はみんなのこと、気にしなさ過ぎたのかなって、ちょっと反省したし」
「エアリィ、今さらだろうが、それは」
 ジョージがちょっとからかうように、そう口を出す。
「ホントに? ってか、そんなに僕って、みんなのこと気にしてない?」
「いや、気にしてないって言うより、おまえの感覚はちょっと、飛んじまってるところがあるんだよな。時々ズレてる部分があるっていうかな。でも、おまえに悪気はないのはわかってるから、俺らもまったく気にはしてないが」
 ジョージは少し笑って答え、ロビンとミックも頷く。
「えー、そうなんだ」
 エアリィは考え込むように少し黙り、そして再び僕の方を向いて、言葉を継いだ。
「それなら、よけいに……今話しとかないと、まずいのかな。この記事を読んだ時、ふっと思ったんだ。おまえはこんなことは言わなかった。それはたしかだと思う。でもジャスティンの本心って、どうなんだろうって。今まで考えてもみなかったけど、意外とこれに近いものがあるのかも……そんな気がして。だから、本当のところを知りたいんだ。これがおまえの本心なのか、それともそうじゃないのか」
 その口調には責めるようなトーンは微塵もなかったが、僕はまるで爆裂弾のようなショックを感じた。
「疑っているのか、僕を?」
 声が詰まるのを意識しながら、僕は問い返した。
「なぜ信じてくれないんだ。おまえは僕をわかっているはずじゃないのか、エアリィ。信じてくれているんじゃなかったのか? こんなでっち上げのインタビューを真に受けるほど、僕に対するおまえの信頼は揺らいでしまったのか? どうしてなんだよ」
「わかってると思ってたし、信じてもいるさ。って言うか、僕がこんなふうに思われてる可能性なんて、考えたこともなかった。今までは。だから、最初に見た時は、ショックだった。でも、すぐに思った。いや、ジャスティンはこんなこと言わないって。けど、わかんなくなってきたのも、たしかなんだ」
「何がわからなくなってきたんだ、何が……どうしてなんだ?」
 僕は椅子から立ちあがり、同じ目線で対峙した。いや、立ちあがると僕の方がゆうに頭半分は高い。少々見下ろす形になるが、エアリィも見下ろされてひるみはしない。彼は上背のある相手にも、決して上目遣いには見ない。頭を上げ、常に同じ視線で見返す。
「おまえを信じてないわけじゃないんだ、ジャスティン」
 彼は頭を振り、僕をまっすぐに見ていた。
「僕にもはっきりとはわからない。正直言って、何がどう変わったのか。本当は、何も変わってないのかもしれない。でもさ、僕らの距離は少し遠くなった気がする。このロードが始まったくらいから、時々感じてたんだ。何かが変わり始めてる。僕はみんなの恨みを買ったのかもしれない……そう、それほどはっきり言葉にはできなかったけど、僕は突っ走りすぎたんだろうかって。だからみんなが、少しずつ遠くなり始めたのかって。そう、ジャスティンだけじゃない。ロビンもジョージもミックも……それが僕の思い過ごしだったら、どんなにほっとするか知れない。けど、もし火種があるなら、知っておきたいんだ。まだ間に合ううちに。だからジャスティン、正直に答えてほしいんだ。あの記事でおまえが言ったこと、いや、ホントは言ってないけど、言ったことになってることは、今の本心なのか? それとも今は本心じゃなくとも、いずれそうなる可能性があると思ってるのか? それとも大丈夫だって、安心しちゃってもいいのか? それをはっきりさせないと、みんながどんどん遠くなっていきそうで、怖いんだ。ジャスティン……隠さなくたっていいよ。完全に見えなくなるくらいなら、悪いことでも知っちゃった方が楽だ。はっきり教えてほしいんだ。おまえの本当の心を」
(僕の本当の心は、どう思っているのか──?) 
 その言葉を、僕は無意識のうちに自らに繰り返した。変わるはずはないじゃないか。バンドの現状に、今の自分の立場に、何の不満があるだろう。親友であり音楽パートナーでもあるエアリィに対して、あのインタビュアーがでっち上げたような悪感情など、抱いているはずがない。だが、なぜ当の相手がそう信じてくれない。なぜ僕らの距離が遠くなったと言う。なぜそんな目で僕を見る。まるで僕の心を突き刺して見透かすような、心の奥底をかき回して真実をつかみだそうとするような、それでいて悲しげな目で。なぜ、ありもしない感情を探ろうとする──。
 その時、一つの思いが浮かび上がってきた。本当に、それはありもしない感情なのか? 僕の本当の心は――心の奥底では、どう思っているのだろう。

 突然、背中から冷たい水をかけられたような気がした。不意に何かがプツッと切れたような、軽い衝撃を感じた。それは僕の心の底に蓋をして、外に出ないようにかたく縛っていた紐だったのだろうか。たちまち、封印してあったものが、勢い良く蓋を開けて飛び出してきた。それは僕が今まで意識すらしなかった、いや、意識にのせるのを拒み続けてきた、意外な感情だった。僕は思わず震え、その衝撃に呆然となり、我を忘れた。まるで自分が別の誰かに変貌したような、恐ろしい感覚を覚えた。
「本当に僕の、本当の心が知りたいのか、エアリィ。知らないほうがお互いに良かったと、あとできっと思うぞ」自分でも驚くほど冷静な声で、僕はそう言っていた。
 彼は一瞬びくっとしたような、驚いたような顔になり、ついで凍りついた、緊迫した表情で僕を見た。その反応は、僕の視界に明確過ぎるほど入ってくる。僕らは細いテーブルを挟んで、一メートルほどの距離で対峙しているのだから。僕は相変らず彼を見下ろしていた。それもかつてこんな目で見たのは初めてだろうと自分でも思えるほど、冷たい視線で。これから続く言葉が容易ならざるものであることは、エアリィにもきっと、わかっているだろう。彼は左手を胸の前でぎゅっと握っただけで、なにも返答はしなかった。答える以前に、驚きや衝撃の方が大きかったのかもしれない。僕は重ねて問いかけた。
「どうなんだよ、アーディス・レイン・ローゼンスタイナー。おまえは本当に、僕の本心を聞きたいと言うのか?」
 まるでなにかがとりついたように、僕は残酷になっていた。たとえ彼がここで、『もう聞きたくない』と言ったとしても、僕は言葉を止められなかったかもしれない。『おまえが聞きたいと言ったんだ。いまさら逃げるのか?』と。だがエアリィは首を振りはしなかった。目を見開き、青ざめた顔で僕を見ながらも、はっきり答えた。
「うん……どんなことでも……聞くよ。僕が言い出したことだから」
「よし。じゃあ、言ってやる」
 僕は相手をじっと見据えながら、口を開いた。そして一息吸いこむと、続けた。つい一瞬前までは、思いもしなかった言葉を。
「僕はあんなことは言わなかった。それは本当だ。でもその言葉は、僕の紛れもない本心だ。なぜかは知らないが、あのインタビュアーは僕の心の声を書いてしまったんだ。でも僕はそんな感情を意識しまいとしてきた。そうさ、おまえが僕のバンドをのっとってしまったこととか、三枚目からこっち、全部自分のカラーに染め上げてしまったこととか、そういうことが、僕は面白くなかった。おまえはたしかにモンスターだよ、エアリィ。何がおまえを変えたのかわからないが、いや、元々おまえは僕の及びもつかないような、とてつもない才能の持ち主だ。何をやっても、僕はおまえにかなわない。音楽はもちろんだが、容貌も人気も人を惹きつける才覚も、勉強もスポーツもゲームも……そうさ、なにひとつとして。それも普通の場合なら、僕もがんばっていつか追いついてやる、勝ってやると思えただろう。でもおまえの場合は、桁違い過ぎる。次元が違う。どうやったって追いつけない。おまえはモンスターだからな。おまえにやれないことなんて、ほとんどないだろう。僕らが苦労して苦労してやっとやり遂げることを、おまえは楽々と何の苦もなくやってしまう。僕らには及びもつかないレベルで。それが悔しい。僕はおまえに会うまでは、自分のプライドを傷つけられることはなかった。でも、おまえが僕の前に現われてからは、僕のプライドはずたずただ。エアレースは、もうおまえのバンドだよ。おまえがなんと言おうと、事実はそうだ。バンドはとてつもなくビッグになったが、それはおまえのやったことだ。とんでもない旋風を巻きおこして社会を騒がせもしたが、それも全部おまえがやったことだ。僕じゃない。僕らじゃない。なのに、僕らまで巻き込まれる。いつもいつも、つけたしでしかない僕らが。おまえはいつか言ったな。回りを巻きこみたくない、と。それなら、僕らを引きずるな。道連れにするな。おまえが何をやろうとしているのかはわからないが、そのとばっちりを僕まで受けるのはごめんだ。おかげで僕までひどい妨害を被って、家庭はめちゃめちゃになってしまった。去年の秋までは、本当に幸せなファミリーだったのに。そこまでおまえのせいだとは言いたくないが、でもおまえと組まなかったら、こんなことにはならなかったはずさ!」
 僕は何を言っているのだろう。何も考えられない。まるで何かに憑かれたように、憤激はヴォルテージを増してくる。さらに言葉が滑り出てきた。
「それに僕は、おまえの無邪気な完全さが気に触る。少なくとも以前は好きだったが、今はだめだ。一度でいいから言ってみろよ! 『エアレースは僕のバンドだ。みんな、誰のおかげで、ここまで有名になれたと思っているんだ』って。スーパースターらしく、偉ぶってみろよ! 一番良い部屋にしてくれなければイヤだとか、ギャラを倍にしてくれとか、僕たちなんか自分の部品に過ぎないんだとか、そんなことをいっぺんでいいから言ってみろ。おまえの立場だったら、それが当たり前だろう。他のバンドの連中だって、No1スターって奴は、そうしているだろう。みんな、平然と他のメンバーを踏みつけるんだ。おまえもそうだったら、僕はもっと気楽だったよ。かりにおまえが口先やポーズだけの偽善者だったとしても……そうさ、ディーン・セント・プレストンが言ったようにだ。おまえがわがままでプライドの高い、傲慢なスターだった方が、さもなければ口先だけの偽善者だった方が、まだ僕は救われた。もっと早く面と向かって反発できたし、影でせせら笑うこともできた。だがおまえは、正真正銘の聖人だよ。本心から無邪気で、おごりもなく振舞う。おまえは自分をバンドの五分の一だと平然と言うが、僕にとっては、いやみにしか聞こえない。おまえはこのバンドの百ではないかもしれないが、九〇には確実になっている。おまえはOne of Themなんかじゃない。One with themだ。僕らは添え物だ。おまえは昔ソロ独立を断ったが、結果的に、ほとんど同じことになっているじゃないか。それが事実だ。それなのにそんなことを言われても、はいそうですかと喜べるわけはないだろう。自覚しろよ。それらしく振舞えよ。おまえがそんな奴だから、僕はネガティヴなことなんか、何も言えなかった。いや、不満を感じることさえ許されなかったんだ。おまえは知りもしないだろう。その無邪気な完全さで、僕を拷問にかけていることを。理解もできないだろうな。おまえには僕らの感情なんて、決してわかりはしない。僕ら人間の心が、わかっちゃいない。そうさ、おまえは言ってみれば、天使のようなものだからな。皮肉でもなんでもなしに。だがそれだけに、おまえは僕らの気持ちに無頓着過ぎるんだ。そう、おまえは本当に気にしなさ過ぎるんだよ。振り回される側の気持ちを。しかもさっきジョージが言ったように、おまえに悪気はないのだから、怒ることもできない。だから僕にとっては、まだおまえが悪魔の方がましだったと思える時もあるんだよ」
 僕はそこで一呼吸を置いた。エアリィは半ば呆然としたような表情で、黙ったまま僕を見ている。でも僕は、彼の心の中がわかるような気がした。僕の言葉はきっと、避けることのできないナイフのように、ガラスのかけらのように傷つけているのだろうな、と。その衝撃の強さに、彼は混乱している。目の前にいるのは本当に僕なのか、それとも見も知らぬ他人なのか訝っているような、そもそもこれが本当に現実に起こっているのか、すべてが信じられないように。だがその一方で、これは紛れもなく現実なのであり、苦い事実なのだとはっきり認識している、そのことが今までの幸福な世界を崩壊させた──そんな思いも明らかに感じている。感情が激しく交錯し、破綻の一歩手前でかろうじて踏みとどまっている、そんな印象だ。だが、僕の良心は凍りついていた。僕は──そう、その時の僕は彼のそんな反応を、半ば心地よくさえ感じていたのだ。なぜこれほど残酷になれたのか、後で考えれば不思議なほどだった。僕は相変らずさめた、冷たい視線で見下ろしながら、容赦なく言葉を継いだ。
「おまえは、その無邪気な完全さで、僕らを縛り続けるのか、エアリィ。そして僕を拷問にかけ続けるのか? おまえの理想を、おまえの意図を完結させるための手足として。でもなぜ、僕らなんだ? たまたま最初に出会ったからか? それともそれが、すでに意図されていたものなのか? でも、それは何も僕らでなくとも、そうさ、シルーヴァ・バーディットだっている。あいつは昔の約束にこだわって、おまえと組みたがっているのだろう? そうなるとエアレースとSBQの立場は完全逆転するだろうが、僕はそのほうがよっぽどいい。エアレースを自分の手に取り戻して、自分だけの成功をつかみたいんだ。たとえ今よりかなりスケールダウンしたとしても、僕はそれで満足だ」
「……そう。じゃあ、僕はもう……ここにはいられないって、こと……?」
 エアリィはそこで、やっと口を開いた。真っ青な顔で、つぶやくような口調で。
 氷のような沈黙が落ちた。長い沈黙が。
「ジャスティン!」ロビンが悲鳴に近い声を上げた。
「そんなことを言わないでよ! いやだよ、僕は。みんなと五人で、行きたいよ!!」
 その声で、僕ははっと我に返ったような気がした。何を――何を言っていたんだ、僕は?
 ジョージもミックも明らかな動揺と驚き、そして激しい当惑の入り混じったような表情で見ている。ロブは唇まで真っ青になっていた。みなの表情は一様に語っているようだった。『ついに恐れていたことが起きたか──こんな事態は、絶対避けたかったのに』と。
「そう……わかった……」
 エアリィは再び口を開いた。青白かった頬に血の気が上り、目には光が戻っていたが、それは失望から来た憤激のように見えた。
「ごめん……僕がおまえを苦しめてたなんて、知らなかった。間に合ううちに何とかできたらって思ったんだけど、もう手遅れだったんだ……」
「エアリィ、おまえも真に受けるなよ! もうちょっと話し合おうぜ」
 ジョージが二、三歩近づき、声を上げた。
「話し合って……僕もそう思ってたけど……」
 エアリィは首を振り、僕らを見つめた。悲しげな、失望と寂しさが入り混じったような目で。「でも、僕にはみんなの気持ちがわからない……ホントにそうかもしれない。最初から、わかってるべきだったのかもしれないな。僕には本当の意味での仲間なんて、ここでは望めないんだって……」
 皮肉でも怒りでもない、失望でさえない、純粋に魂の底から湧き出して来たような孤独──そのトーンは僕を、そしておそらくここにいた全員をはっとさせるほど、深い悲しみを感じさせた。かつてランカスター草原で、『誰も僕を救うことは出来ないから』そう言った時と同じように。
「ごめん……少し考えさせて……どうしたらいいのか……」
 エアリィは大きく息をつくと、頭を振って、テーブルを回り込み、僕の横をすり抜けて、奥にある着替え用の個室に入っていった。少しふらついたような足取りだった。
「エアリィ、おい……」
 ロブも含め、ジョージたち四人がはっとしたように呼びかけたが、エアリィは立ち止まらなかった。ドアを閉め、かちゃっと小さな音がして、鍵をおろしてしまったようだ。この楽屋は――他の会場もみな同じつくりだが、大きい楽屋スペースの奥に五つ、着替え用に個別の小さな部屋があり、ここは鍵もかかるようになっていたのだ。
 
 残された僕らはその場に立ち尽くし、黙りこんだ。
「あ……ああ……」
 次の瞬間、僕は全身の力が抜けたように感じ、二、三歩よろよろと前に出ると、思わず床に座り込んで手をついた。
「なぜだ……どうして、あんなことが言えたんだ。思いもよらなかったことなのに……」
 僕が、この僕が、あんなことを本気で思っていた。そう、さっき僕がエアリィに向かって言った一言一言、それは紛れもない本心だった。それを認めた時、奈落の口が開いたような気がした。はっきり自覚したのは今だったが、深い意識の底では、以前からその感情が、はぐくまれていたに違いない。いつから――? おそらく前作『Eureka』の制作時だ。『Abandoned Fire』のレコーディングが終わった夜に、感じた思い。バンドも作品も、ほとんどがエアリィのものになってしまっているのだと気づいた、あの夜から。かつてのツートップから、僕もファンや音楽ビジネスの人々からは、ロビンやミック、ジョージと同じサイドに落ちかけている、いやもう落ちているのだと気づいた時から、この感情が少しずつ心の奥底で育ってきていたに違いない。
 だが、僕の意識は認めなかった。友にそんなネガティヴな感情を持つのは罪だ。そんなことは決して思ってはいけないと。それに、エアリィ自身はその優越性を誇ったり、人を見下げたりは決してしない。ただ、とんでもない特性を“保持している”だけだ。それなのに彼を羨み責めることは理不尽だとわかっているだけに、余計だった。
 意識の闇にもぐったその思いは、しかし不気味に膨らみ続けていった。成功の激流が拍車をかけ、少しずつ助長していく僕のプライドが、影から囁き続けた。観客が僕を見るのは、エアリィがステージの視界から去って、インスト四人になる時だけだ。そこで初めて観客と目が合い、コンタクトできる。観客が僕のプレイに集中し、喝采してくれる。長めのインストブレイクでは、時々スマートフォンで何か打っている人も、中には見かけるが。おそらくライヴ情報をネット上に報告しているのだろう。でも盛り上がったコンサートのノリは維持されている。その中心は僕だ。だが五人に戻ると、観客の焦点はまた、一気に僕から去ってしまう。歌のない間奏時ですら。それは他の誰にも太刀打ちできない、アーディス・レインの作り出す空間だ。僕は単なる、その中の一要素だ。
 インストブレイクやギターソロのような、長めのインストオンリーの時にしか観客にアピールできない今の僕は、まるで月のようなものだ。太陽がない時にだけ輝ける。その栄光も、太陽の光を反射しているに過ぎない。でも僕は月ではなく、太陽になりたい。他の誰かの恩恵ではなく、自分が自らの手で達成した、満足感のある成功を成し遂げたい。今より規模は小さくなっても良いから、自分自身の栄光のただ中にいたい。もっと僕を見てくれ! もっと僕に喝采してくれ! 僕は天才なんだ! 自分にはそれだけの才能があるのだ、と。だが、今のままでは、僕にスポットライトが当たる機会は多くない。そして今後、もっと僕の見せ場は減っていくかもしれない。今作では『Message to Carry』や、ファーストシングル『Parabolic』のような、ギターよりもキーボードが目立っている曲がある。曲の性格上、その方が効果的と思い、自分でも納得したアレンジのはずなのだが、心の奥底で僕は不愉快だった。ミックにさえ負ける? ありえない。このままでは潰されるかもしれない。ここでは、僕が太陽になれる機会は永遠にない。アーディス・レインがバンドに君臨する限り、僕の才能は日の目を見ることなく埋もれてしまう――。
 それは決して意識に上ることのない、闇の言葉だった。しかし闇に潜む悪しき思いを増長させるには、充分すぎた。さらに、シルーヴァ・バーディッツ・クエイサーの存在だ。去年フェスティヴァルで会ってから、ずっと心に引っかかっていたこと――もちろんその時には、僕ははっきりした感情を意識することはなかった。でも、その時からに違いない。エアリィのパートナーは、なにも僕でなくとも良いのかもしれないと、潜在意識の中で思い始めるようになったのは。それは自分の立場が脅かされる不安以上に、僕とシルーヴァ・バーディットとの立場が入れ替われば、もっと僕も彼のように正当な評価がしてもらえるかもしれないという思いだった。そう――僕は心の底では、シルーヴァをライバル視していた。同じ条件だったら、決して人気投票で負けたりしないのに、と。僕は彼に負けたのが悔しかった。今は、はっきりとそう認識できる。そしてその原因を、(シルーヴァはバンドのナンバー1で、他のパートもすべて彼のためにあるから目立つ。僕は自分のプレイは、彩り程度にしか認識されない。僕はナンバー2で、このバンドはすべてアーディス・レインのためにあるから)と思っていた。(おまえも僕の立場になったら、わかるさ。喜んで交換してやる)――そんな思いを、感じていた。それがあの時からシルーヴァ・バーディットに対し感じていた、もやもやの正体だったのだと。
 決して意識には上ることのなかったそんな思いが複雑に絡まり、増長し、ついに今爆発するに至った。だが冷静に考えれば、今までまったく完全な無意識に鎮静していたわけではない。昨年ロンドンで陰謀にあった時、帰りの飛行機の中で思った。僕はいつも第二選択なんだと。そのことにひどく苛立った。あの時は薬の後遺症だと思っていたが、それは潜在意識での思いだったのだ。あのあと、最初のバンドミーティングで言わなくても良かった○×のツアーの秘密を語り、『おまえが未踏の領域に目覚めたから、業界はおまえを抹殺したいと思っている』と、はっきりエアリィに告げてしまったことも。さらにこのヨーロッパツアーに出る前日、エイヴリー牧師から詰問された時、僕は友をかばいきれず、かえって義兄に悪い印象を与えるようなことを言ってしまった。言うつもりじゃなかったのにと驚きはしたが、その時にはそれ以上深くは考えなかった。自分では特に意識しなかったが、きっと同じようなことがヨーロッパで受けたインタビューの中でも、起こっていたに違いない。そう――僕は、本当はなんと言ったのだろう。インタビューが僕の言葉でなくなりはじめた、あの質問から。コンセプトの話から。
『僕は答えようがないな。答える立場にもないと思う。歌詞を書いているのはエアリィだから、コンセプトも全面的に彼の領域なんだ。もちろん僕たちインスト陣も、歌詞の主題にあったアレンジを考えてはいるけれどね。だから完全に無関係というわけでもないけれど、トータルコンセプトという点においては、完全に僕の領域外なんだ』
『最初にアルバムを通してプレイバックした時、僕自身でさえ衝撃で立ちすくんだし、怖くなった。このまま出すと、反響が恐ろしくなりそうだって。でもエアリィは今の彼の必然がこのアルバムだから、きっと何度作ってもこうなると言っていた。だから彼の意思を尊重して、それにコンセプト自体に問題はないと信じて、出すことにしたんだ』
 そして僕は、たしかにこんなことも口にした。『サード以来、彼の意思はバンドの意思でもあるんだ』『僕は音楽を難しく突き詰めたい方だから、たぶん僕の意見が通っていたら、ここまで成功はしなかっただろうね』『エアリィは基本アレンジには参加しないけれど――自分で全部作ってきたものを除けば――でも彼の思うアレンジが、僕らの最終アレンジと同じになったと言っていた。つまり、僕らは彼の意図したデザインを、無意識になぞっているだけなんだろうね。不思議なことだけれど、きっと要所要所で、僕らは彼にコントロールされている部分があるんだと思う。それだけ強い力なんだろうね。だからバンドも、ここまでモンスターになったんだと思う』
 その言葉と、僕の口調や表情から、あのライターは僕の本音を探り取り、言葉にして書いたのだろう。僕の潜在意識を見透かされたわけだ。初めにあの記事を読んだ時に気づいていれば、もう少しなんとかなったのかもしれない。でも僕の良識は、ネガティヴな思いが浮かび上がることを、かたくなに禁じた。
『ジャスティンのそういう美点、良い子の部分が、人間として当然のもっと認められたいとか、人より劣っていたくないとか、そんな感情を封印してはいないか、それが気になる』
 前作のレコーディング時に聞いた、ローレンスさんの言葉。それは真実だった。その時はまだ心の奥深くで芽を出しかけていた頃で、僕はその存在にまったく気づいてさえいなかった。それから二年以上の年月の間に膨らみつづけたその思いは、今、意識の奥底から理性や良心のコントロールを突き破って暴走し、一気に噴き出してしまったのだろう。闇の中に蓄積された言葉が堰を切ってあふれ、とんでもない言葉をとどめに投げつけてしまった。『おまえは僕を苦しめる。僕はバンドを自分の手に取り戻したい』と。それは間接的には、『出ていけ!』と同じ意味なのだ。
 僕ら五人は、幸福な共同体だった。それは紛れもない事実だ。なのに僕は、すべてを崩壊させるようなことを言ってしまった――そう気づいたとたん、底なしの自己嫌悪が襲ってきた。
「ジャスティン――」
 ロビンが僕の肩に手をかけ、顔を覗き込むようにして、気遣わしげに呼びかけていた。
「ジャスティン、本気か? いいのか、おい、本当にエアリィがバンドを出ちまっても? おまえは本気で、そう望んでいるのか?」ジョージの悲しげな声も聞こえる。
 僕は二人に顔を向け、激しく首を振った。
「違う! 本気じゃない。本気なんかじゃないんだ! いや、そう言った時には、たしかに本気だった。でも、あれは僕の悪い心で、本当の僕は冗談じゃないって叫んでいるよ。なぜあんなことを言ってしまったのか、自分でもわからないくらいなんだ!」
「カタルシスが起きたんだよ、きっと。ネガティヴな感情を我慢しすぎたんだね、君は。だから……」ミックは僕に近づいて、そっと背中に触れた。
『我慢のしすぎは良くないよ』――誰かがそんなことを言っていた。そうだ。去年のセッションで、ディーン・セント・プレストンが言っていたのだった。
『カールもきれい事ばかり言っていて、本心を認めようとしなかった。そのあげく我慢が限界に達して突然切れた。僕がいかに彼のやりたいことを邪魔しているかをあげつらい、僕がかっとなって反論すると、ギターを叩き壊し、バンドを飛び出していった』と。
 僕は同じことをしてしまった。違うのは、エアリィは反論しなかったことと、僕はギターを壊さなかったことくらいだ。さらにシュミットさんと違い、僕は間接的にせよ、出ていけ、などと言ってしまった。まだカール・シュミットさんの方が奥ゆかしい。僕は創立メンバーだ、このバンドはまだ僕のものだ、そんな傲慢な思いあがりが心にあったから、そんなことを言ってしまったのだ。僕のバンド――よくも、そんなことを思えたものだ。バンドはみなの共同体だときれいごとを言いながら、僕はミックやロビン、ジョージを見下し、自分は彼らとは違うのだと奢り、彼らは自分の思い通りになるだろうとさえ思っていた。傲慢な偽善者になっていたのは、僕の方だ。
 だからあのロビンの叫びが、僕を正気に戻したのだろう。
『僕はいやだ。五人で行きたい』――ロビンは僕を、僕だけを慕っていた。エアリィに対しては僕を取られる、と嫉妬の思いを持っていたという。ならば今だって、もしかしたら心の奥底では、そう望んでいるんじゃないのか? 僕を慕ってついてきた、あの忠実なロビンなら。喜んでついてくるのでは――そんな傲慢な思い上がりを、その言葉が砕いた。そして僕は、我に返ることができたのだ。
 改めて思うと、なぜそれほどに思い上がれたのか、傲慢に盲目になれたのか、不思議なくらいだ。冷静に考えてみろ。もし本当にバンドが分裂したら、僕は自分の活動に満足できるだろうか? きっと思うように成功せず、シュミットさんと同じことになってしまう公算が高い。エアリィのいないエアレースに、どれほどの価値が――少なくともマスコミやファンが見出せるというのだろう。自分でもさっき言った。彼はバンドの九〇なのだ。残った一〇に、何の価値があるというのだ。バンドは普通の――いや、抜け殻のようになってしまうだろう。インスト陣など、取替え可能だ――あの妨害者たちはそう言っていた。それは本当なのだろう。そして今は、シルーヴァ・バーディットもいる。エアリィにバンドの枷が外れたら、シルーヴァはかつての約束の実行を、嬉々として迫るだろう。結局、今のエアレースの立場が、そちらに行くだけだ。僕らは取り残され、ファンには見捨てられ、今のSBQレベルの成功すら、おぼつかないに違いない。SBQは少なくともぱっと聞きのインパクトと華があるが、僕らは地味な曲芸を得意とするから――エアリィが才能的にモンスター化する前ですら、エアレースが成功したのは、彼のもたらすフックに飛んだメロディととっつきやすさ、そして華が、インスト陣の複雑さとうまく融合したからだ。
 動画サイトに投稿された、僕らのインストナンバー。シングルCDのカップリングとしてのアルバム没曲を、買った人たちが買えなかった人向けに投稿するそれに寄せられたコメントを、僕は一度か二度、読んでみたことがある。
【きれいな曲ね】【でも少し地味だなあ】【一回聞けば十分な感じ】【良いとは思うけれど、本体とは比べ物にならんね】【没曲だけある】【BGMとしては良いかも】【というか、完璧なBGMだね】【メロディは良いと思うし、インストとしての出来はいいんだけれど、でもアルバム曲とは雲泥の差】――そんなコメントがほとんどだった。【ヴォーカルなしのエアレースって、意味あるの?】という露骨なコメントさえ、少なからずあった。それに賛同する声も。再生数もアルバム曲たちとは二桁ほど差があり、有名曲やフルアルバムのそれとは、三桁くらい違う。それですら、“AirLace”というバンドの力で稼いだ数字。僕個人のものではない。
 それが現実なのだ。インストだけでは、おそらくSBQの半分いくかどうかすら怪しいだろう。ましてや今のエアレースとは比べ物にならない。そして僕はこんなはずではと、余計にフラストレーションを募らせるに違いない。そう、バンドを飛び出した、カール・シュミットさんのように。彼は実力はあるが地味で、プライドが高くてプロモーションが下手だから、ソロとして市場を開いていくことができなかったという。僕にも同じような匂いがすると、プレストンは言っていた。認めたくはないが、たしかにそうだ。僕もプロモーションは苦手だ。エンターテイメント的な要素も嫌いだ。市場のトレンドなんて蹴散らせたモンスター的な力は、僕にはない。そんな中、かつて世を席巻したバンドのメンバーというだけで、しかもその原動力は欠いているのに、どうして成功できるというのだろう。家庭はもう半分壊れかけている。この上音楽活動もうまく行かなくなったら、きっと僕もシュミットさんのように酒に逃げ(実際、最近の酒量はかなり増えてきている)、そして同じような経緯をたどったかもしれない。
 僕は思わず身震いをした。




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