Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(6)




 いつの間にか、ソファで眠ってしまったようだ。何度も繰り返されるチャイムの音で目が覚めた。もう夕方になっている。誰が来たのだろうか。ジョイスは女友達と約束があるから、今日は来られないと言っていた。でも心配だからと、様子を見にきたのだろうか。それとも――もう一つの可能性を考えた時、僕は心が躍った。ステラかも――彼女が折れる気になったのかも知れない。僕のことを心配して、来てくれたのかも知れない。もしそうなら、僕は彼女を受け入れよう。明日にはロードが始まることなど、気にしない。お互いに謝って、二ヶ月半後にやり直そう。
 よく考えてみたら、ステラは決してこんなチャイムの鳴らし方はしないこと、さらに鍵を持っている妻が、チャイムなど鳴らすはずがないことをすっかり忘れるほど、この時の僕は愚かしい期待に満ちていた。
「どなたですか?」僕はインターフォンに向かって呼びかけた。
 ほどなく返答が帰ってきて、僕は冷たい水を頭から浴びたような気がした。来訪者はジョイスでも、ましてステラでもなく、姉の夫エイヴリー牧師だったからだ。彼は今もっとも会いたくない人だった。
 義兄の訪問理由は、察しがついた。先月カットした第二弾シングル、『Scarlet Mission』に関してなのだろう。あの曲は出したとたんに各国のチャートで一位になり、メディアでも、かなり露出されているという。動画サイトで公開した音楽ビデオも、桁外れの再生数だ。僕はアルバムが出た時から、義兄がこの曲を聞かないようにと願っていた。今、彼が訪ねてきた理由は一目瞭然だ。これだけ露出されているのだから、きっとどこかで耳にしたに違いない。
 義兄は法服を着てはいなかった。グレーの半袖シャツに紺色のズボンという普段着姿だ。きっちりと後ろに撫でつけた黒い髪は、いくぶんてっぺんが薄くなり始めている。元々血色の良い人だが、この時には真っ赤に近い顔色をしていた。眼鏡の奥の目は異様な輝きを帯び、まるで押し殺した火山のような形相だ。
「少し話があるのだが、いいかね」
 その声も、不快感がありありと滲み出ている。
「いらっしゃい、義兄さん。お久しぶりです。どうぞ……」
 歓迎しない客でも追い返すのは失礼だし、何といっても彼は姉の夫だ。僕は牧師をリビングに招き入れた。パーラーの方は掃除していないので、ほこりだらけだったからだ。
「すみません。今、家には僕しかいないんですよ。妻は息子と一緒に、実家に行っていて……なにか飲み物を持ってきましょうか?」
「いいや、そんなものはいい。それに、むしろ君の奥さんや子供がいない方が、都合がいい。あまり愉快な話ではないからな」
 エイヴリー牧師はソファに腰を下ろすと、僕をじろりとにらんだ。
「それで、君はこんな時間から酔っぱらっているのかね、ジャスティン君?」
「もう酔っていませんよ。まだ赤い顔をしていますか?」
 僕はあわてて顔をこすった。
「いや、顔色は普通だが、君は少し酒臭い。不謹慎なことだな。いい若い者が、まだ明るいうちから酒を飲んでいるとは。決して不品行はしないと、君は以前ジョアンナに誓ったのではないのかね?」
 返す言葉がなく、ただ苦笑いするしかない。
「だがまあ、無理もないだろう。あんな悪魔のような業界にいてはな。悪習に染まってしまうのは時間の問題ではないかと危惧していたが、案の定だ」
「いつもじゃないですよ」僕はかろうじて、そう言いわけした。
「まあ良い。たとえ君が酒やたばこ、さらには麻薬などに手を出して、その結果身を滅ぼしたとしても、それは君だけの悪徳だ。私も義理の兄として一応注意はするが、もう躍起になって諫めようとは思わない。これほどの大悪の前では、小さなことだ」
「何のことですか、大悪って?」
「君の心に聞いてみたまえ」
「えっ」一瞬びくっとしたが、すぐに理解した。
「もしかしたら義兄さんは、新しいシングルを聴いたんですか?」
「ああ。三週間ほど前に、偶然私が行った店のBGMでかかったのだ。FMを流していたのだろうな」その口調は穏やかだが、強い感情を内包しているように響いた。
「今度の君らの作品が色々と物議をかもしていることは、前から知っていたが、私自身はそれまで聞いたことがなかった。もっとも、君らの前の作品は二枚ほど、聞いたことがある。昔から君は私の非難に『絶対に悪魔崇拝などしていないし、不道徳を奨励した覚えもない』と、頑強に言い張っていたね。『僕らの音楽をちゃんと聴いて、理解してから、非難してくれ』とも。そこで私はジョアンナが持っていた君らの作品を聞き、君の言葉は真実だと認めた。君らの音楽にも、真理はあるとね」
「それは……ありがとうございます」
 意外な言葉に、僕は思わず目を見はった。
「礼などは言わなくともいい。私は先入観だけで事実を認めないような、そんな石頭ではないつもりだ。だから私は、君を信じた。過去の君たちのスタンスや方向は、間違っていなかったからね。だが正直に言えば、そもそも私はロックという音楽が好きではないし、さらに君らの音楽は妙に気分をざわつかせるから、あまり積極的に聞きたくはない。だから今度の作品も、自分から聞いたことはなかった。大丈夫だろうと思っていたのでね」
「そうなんですか……」
「しかしあれは、本当に異様な光景だった」
 義兄は思い出すように、目を閉じた。
「曲がかかってしばらくすると、店の中の動きが、一気にスローダウンした。完全に止まってしまったものも、相当数いた。みんな、聴き入っているんだ。私も思わず聞いてしまった。曲が終わり、別のものになって――他のアーティストのものに変わった後、再び人々は動き出した。私もはっと我に返り、そしてぞっとした。あれは宗教を否定しているようにも聞こえる。考えすぎかとも思ったのだが、私の足元さえもぐらつかせるほど、動揺させることは確かなのだ」
「僕としては、あれは決してシングルカットしたい曲では、なかったんですが」
「では、どうしてそうなったのだ?」
「レコードレーベルが決定したんですよ。彼らは話題性があればいいわけですから。シングルカットに関しては、僕らはあまりタッチしていないので」
「そうか。それなら、経緯はまあいい。だが、問題は曲の方だ。私はその時一緒にいた妻に、問うてみた。『さっきの曲は、ジャスティン君のバンドの曲だね。君は聴いたことがあるか? あれは……はっきりそうは言っていないが、まるで神を否定しているように聞こえないか? それともそう感じるのは、私だけだろうか』と。ジョアンナは黙ったあと、頷いたよ。『ええ、ロバート。はっきり神を否定しているとまではいかないけれど、キリスト教や他の宗教を否定しているようには感じてしまって、わたしも少し戸惑っていたの』と。私たち二人がそう感じているのなら、その印象は正しいのではないか、そのことを君に会ったら、問いただしてみたいと思ったのだ」
「それで僕に確かめるために、ここにおいでになったんですか?」
「いや、君に問う必要は、もうない」義兄は重々しく首を振った。
「今日の昼過ぎに、姪のグラディスが来たのだ。君も知っているかもしれないが、私の姉の子供で、十六歳の娘だが。君たちのファンだというので、去年ジョアンナが君たちのコンサートの楽屋に一緒に連れていったこともある。覚えているかね?」
「ああ……そういえば」
 あまり印象に残っていなかったので詳しいことは思い出せないが、去年の夏、トロント公演に姉が連れてきていた少女だろう。長い茶色の髪をまっすぐに垂らした、そばかすの多い、地味な感じの娘だった。僕はたしか、一言だけ口をきいたような気がする。『よく来たね』と。その子も、『ええ、うれしいです……』と頬が紅潮させながら答えた。それだけしか、話をした記憶がない。
「グラディスは時々うちへ来るのだ。姉の使いでね。その時も届け物があって、家に来ていた。今はまだ学校も夏休みだから、お昼を済ませてすぐに来たらしい。そして我が家にあったノートパソコンで、動画サイトを見ても良いかと聞いてきた。私はかまわないと答え、彼女は喜んで見始めた。家ではパソコンを使ってもいい時間が決められているし、スマートフォンの画面では小さいとこぼしていてね」
「もしかしたら……義兄さんも、あの曲のビデオクリップを見たんですか?」
 このクリップは僕らの音楽ビデオを担当してくれている、著名なビデオ監督さんが、『曲を聴いてインスピレーションが湧いたんだ。ぜひ撮ってみないか』と僕らにもちかけ、製作されたものだ。ビデオを作るとシングルカットされる危険はあったものの、監督さんの熱心さに折れ、僕らも同意した。
 バックは三年前の『Evening Prayer』と同じ、マインズデール教会だ。『Evening〜』のテーマは“祈り”だったし、当時はシスター・アンネ・マリアも健在だったのですんなり撮影を許可してくれたのだが、『Scarlet〜』はテーマがテーマだし、シスターも死去している。それだけに撮影許可を下ろしてくれるかどうか心配だったのだが、キャラダイン神父は驚くほどあっさりと認めてくれた。亡きシスターへの敬意だったのかもしれないし、後でわかったことだが、エアリィの私小説を書いた小説家への情報提供者のうち、教会関係の証言者は神父さんだったことへの、少々の後ろめたさだったのかもしれない。
 ともかく許可は下り、肌寒い四月初めの空気の中、ビデオは撮影された。夕暮れの教会、墓地、ステンドグラス、キリスト像、マリア像、洗礼、葬儀のシーン、さらには仏像やモスク、寺院、新興宗教の礼拝――バックの映像はいろいろなものが入ってくるが、それはビデオ監督さんが編集段階で合成したものだ。
 僕らは教会を背景にして、演奏した。実際PVは当て振りで、演奏はしていないものが多いが、僕らの場合、音は録らないものの、公式音源とテンポを合わせて、実際に演奏している。この時のコスチュームは、僕を含めたインストの四人は黒いトップスとボトムス、デザインは一人一人違うが、基本的には黒一色に、銀色に光るラインアクセントがついている。エアリィは逆に白一色で、Vカットの長めのプルオーバーシャツ(ブラウス的なデザインだ)と、スリムラインのボトムス、襟元に金のラインが光る。衣装はすべてアデレードの師匠さんであり、ステラお気に入りのブランドでもある、ミシェル・クロフォード女史のデザインだ。『あなたのパートナーとそのバンドのステージ・コスチュームを一度デザインしてみたい』と、クロフォード女史がアデレードに話し、そして実現した。
 ビデオ撮りでも、バンド全員で衣装を合わせることはそう多くないが、実際に映像として仕上がってみると、このコスチュームも最大の演出効果を上げている。ブロンドの人に白はあまり似あわないと言われることもあるが、エアリィの場合はベストカラーだ。ことに今回のような純白で上下を揃え、そこに金色のアクセントを持ってくると、彼が本来持っている浮き世離れした美しさが、最大限に発揮されるようだ。これで翼でもつけたら、完全に天使に見えるほどに。さらに僕らが黒子といっては聞こえが悪いが、コントラスト的に黒と銀で回りを固めると、印象は余計に増幅する。うす曇りの、灰色がかった風景の中に立つ教会を背景に、彼は風に軽く髪をなびかせながら歌いかけている。
『既成の宗教を頭から信じる前に、考えろ! それは君を向上させるより、むしろ滅ぼすかもしれない』と。もちろん、そんな歌詞はない。はっきりと言葉には、何も出していない。あなたは厳格な恋人――あなたは口やかましい恋人――あなたは嫉妬深い恋人。そんなフレーズはある。それが僕の心を縛る、と。ただ、解放してくれ、とは言わない。あなたの目的は何、という言葉はあるが。一見ラヴソングに取れなくもない言葉と、抽象的なフレーズの組み合わせ。それでも言葉で訴える以上にはっきりと、その真のメッセージが感じられるのだ。映像は芸術的だ。これ以上ないほどのインパクトだ。それだけに、よけい始末が悪かった。もはやそのメッセージは疑いようがなくなってしまう。このビデオを、義兄に見ては欲しくなかった。動画サイトや音楽チャンネルなど見ない人だから、大丈夫だと思っていたのだが。
「ああ。私も見た」義兄は渋い顔で頷いていた。
「私が姉に頼まれたものと、ジョアンナからのジャムの瓶を持って、パソコンが置いてある部屋に入った時、グラディスはちょうど、その音楽ビデオの再生を見始めたところだった。表示を全画面にして、両手を前に組み合わせ、まるで夢見るように、うっとりとした表情で見ていたよ。私の言葉など耳に入らないことがわかっていたから、終わるまで待とうと思って、私も一緒に見ていた。以前の印象が気にかかっていたこともあってね」
 その返答を聞いた時、僕は思わず頭を抱えたくなった。
「間の悪い偶然ですね」
「君は偶然だと言うがね、ジャスティン君。それは神が私に教えたもうた警告だと思っているよ。それにしても……私は思わず、天を仰いでしまった。疑問は間違いなかったのだ。よりによって私の義理の弟が属しているバンドが、なんということをするのだと、まったく言葉もなかった。しかも直接的に攻撃しているわけではないから、私たち宗教関係者も表立っては、具体的にどうこうという強い非難はできない。あの歌だけなら他にも解釈できるし、ビデオにしてみても破壊的なものや冒涜的な映像は一つもない。だが、あれは紛れもない宗教破壊だ。なんと神をも恐れぬ、巧妙な悪知恵だ」
「僕もあの曲のレコーディング作業をしている時に、そのことには気が付いていました。ちょっとまずいなって」
「だったらなぜ、その時に止めなかったのだ? 世に出さなければ、何も大きな問題などなかったものを。それは君らの魂の罪としての問題だけで、無垢な若者たちを感化するような事態には、ならなかったろうに。私はあのビデオを見終えたあと、グラディスにもう見ちゃいかんと命じた。そうしたら、あの娘は激怒した。私がどんなに理を尽くして説得しても、まったく聞く耳をもたない。最後には、『叔父さまなんか大嫌い! だから聖職者って、あてにならない偽善者なのよ。わたしはキリスト教なんて信じないわ。否定してるからって、なんなの? 何が悪いの? 本当のことなんて、わからないじゃない? 叔父様だって、わかっていないのよ!』こう言い放つ始末だ。私は思わずその場にへたりこんだ。なんということだ。あのおとなしく素直で、女らしく慎ましやかだったグラディスが、私のお気に入りだった姪が、あんなことを言うとは」
「ああ……」
 僕は思わず頭を抱え、同時に意に反してこみあげてきた苦笑を、必死に噛み殺した。
「わかってます。一応は、わかってます。僕だって出来れば、あの曲は入れたくなかった。でもエアリィ……アーディス・レインが、どうしてもアルバムに入れたいと言ったので」
「ああ、アーディス・レインか!」
 義兄は激しいトーンで、まるで吐き出すようにその名前を繰り返した。その口調の強さに、僕は思わずびくっとしたほどだ。
「あの子はいったい、なにものだ? 外見は、まるで天使のようだが。そうだ。あのビデオを見る限り、この上なく美しく無垢な印象を与える。そして天上を翔る翼のような声で、忘れがたいほど印象的なメロディを歌う。そうだ。そこに語られる言葉をそのまま受け取るならば、決して破壊的とも冒涜的ともいえないだろう。繰り返し呼びかける『あなた』が宗教や主イエス、牧師だなととは、一言もほのめかしていないのだから。だが、言葉以上に揺さぶってくる、あの感情は何なのだ。表面上の清浄さや心地よさの影から、なんと破壊的なメッセージを送ってくるのだ。どうやったらあんなことができるのか、教えてもらいたいものだ」
「それが、彼のマジックです。いや、マジックというと誤解があるから、アーディスの才能と言うべきでしょう。それも、彼しかやれないことです。あの曲を誰かがコピーしたとしても、その字面以上の意味は伝わらないでしょう。単なる一種のラブソングとしてしか、聞き手には感じられないはずです」
「そうだろうな。だからこそ始末が悪い。天使の虚像の影から、神を信じるなと無言のメッセージを歌う。恐ろしいことだ。私にはあの子がまるで堕天使のように見えるほどだ。グラディスはまるで神のように彼を崇拝しているが。そう、恐れ多いことに神のみ言葉より、彼のメッセージの方を信じている。恐ろしいことだ。人間を神として扱うほど、罪深いことはないのだぞ」
「別に彼は自分を神さまだとは、絶対思っていませんって。ファンがどう思おうと、あいつの責任じゃないし、それに堕天使という言い方も当たってませんよ。彼には邪悪さなんて、探したってかけらもありません。たまたま、飛び抜けたカリズマと才能と美を持っているというだけです」
「だとしたら、もう少し自分の力というものに自覚を持ってもらいたいものだが、邪悪さがないというのは、私には信じられんな。もしそうなら、いたずらに若者をたぶらかして破滅に向かわせるなど、するはずがない。私はグラディスと争ったあと、表示されたビデオの再生数を見て、背筋が寒くなった。十桁に届く、とんでもない数だ。その数字の裏に、どれほどの人々が影響されているのだろう。グラディスが帰った後、姉に電話したが、ここ数ヶ月、グラディスは手に負えないようになったと嘆かれた。以前はきちんとおさげに編んでいた髪を下ろしたがり、君たちのバンドTシャツを着こみ、ジーンズを履き、ということは前からだったが、最近はより反抗が激しくなったという。妹で、十三のルースも感化され、すっかりファンになって、グラディスに従っているらしい。何時間も一緒にCDを聞き、DVDを見、パソコンやスマートフォンで動画やネットの記事、掲示板などを読んでいると。しばしば同じファンの友達も家に来て、騒いでいるという。姉が少し熱を上げすぎるとたしなめると、二人とも口をそろえて『勉強はちゃんとやっているし、教会にも一応行っているわ。家の手伝いもしている。だからそれ以外の時くらい、わたしたちの好きにさせてよ』と反論するそうだ。以前は二人とも、親に口答えなどしたことのない子たちだったのに。『恥ずかしい話だから今まで言わないでいたのだけれど』と姉は話していたが、先月、姉は熱を冷まそうと、姪たちが友達の家に行っている間に、CDとDVD、ポスターを取り上げたらしい。それに対して二人は猛烈に怒り、泣き叫んだが、姉は『あなたたちが熱を上げすぎるからよ。もう少し他にやることがあるでしょう』と叱ったところ、二人は無言で部屋に入っていったそうだ。姉は姪たちが納得してくれたものと思い、安心していたら、グラディスもルースも、それから三日間、部屋から出てこなかったという。【わたしたちは何も悪いことはしていない。なのに、お母さんは勝手にわたしたちの大事なものを取り上げた。こんな仕打ちは我慢できない。お母さんが謝って、取り上げたものを返してくれるまでは、わたしたちは抗議のストライキをする】というメールを姉に送り、部屋のドアが開かないよう机やキャビネットを移動させて、こもってしまったそうだ。学校にも行かず、食事の時も出てこず、姉がいない隙を見てバスルームに行ったり、買い物に行って食糧を買い込み、真夜中にシャワーを浴びていたらしい。そして結局音楽は、スマートフォンで見たり聞いたりしていた。それではあまり意味がない。さらに姉の夫に、『たしかに二人は、別に悪い事をしたわけではないだろう。成績も下がっていないし、むしろ上がっている。家の手伝いだって、ちゃんとしている。それをおろそかにしているなら叱っても良いが、趣味のことまで親に口出しはされたくないだろう。君も少しやりすぎたんじゃないか』と意見されて、姉は譲歩するしかなくなったらしい。もともとCDやポスターなどは捨てたわけではなく、目に付かないところへ隠しただけなので、それを戻して、二人に謝ったという。そして『たしかに冷静に考えてみたら、私もやりすぎたかもしれない。娘たちは自分の義務はやっているのだから、もう自然に熱が冷めるのを待つしかないわ』と、意気消沈したような口調で言っていた。そこまで姪たちは堕落してしまったのかと嘆いた私は、敵を知り、確かめてみなければならないと思い、問題のアルバムを初めて通して聞いた。愕然としたよ。何ということだ。君たちは……いや、あの子はいったい、何をしようとしているのだ!? 宗教だけでなく、あらゆる社会通念を破壊する気か? そんなことをして、どうするつもりだ? 君が彼の友達ならば、忠告したまえ。これ以上若者たちに間違った洗脳を続けるのは、今すぐやめろと」
「洗脳するつもりなんかありません。逆です。洗脳やコンプレックスや束縛、そういうものを、全部解いてしまうものです。だから幻想の消去なんです。まあ、たしかに姪ごさんたちのような騒動は、他にも多々あったらしいですが……それもこのアルバム関連で起きた騒ぎの一つだという話は、僕も聞いているので。でも、僕らは決して、間違ったことはやっていないと思います」
「幻想の消去か。そんなようなタイトルだったな、あの作品はたしかに。だが、それでついでに真実まで消去してしまうのかね? 若者たちがこれまでの人生で学んだことを一挙に壊してしまうことの、どこが正しいことなのかね? あの作品には、恐ろしいほど吸引力がある。私ですら、一瞬引きこまれてしまったほどにね。聴き終わって数分後、正気に返って愕然とした。もう二度と聴いてはならない、処分してくれ、それができないなら、二度と私の目に触れないところにしまってくれと、ジョアンナにきつく言い渡したほどだ。私のようなものすら取り込みそうになるほどの力が、大勢の無垢な若者たちの上に、いったいどんな影響を及ぼすのか、そう考えただけで背筋が凍った。彼はいったいどういう理由があって、そんなまねをするのだ。君も承知しているのかね、ジャスティン君? あの子の本当の意図というものを、聞いたことがあるかね?」
「アーディスの真の意図ですか? 僕もこのアルバムのリプレイを最初に聴いた時、やはりさすがに怖くなったんで、聞いたことはあります。なぜこんな危ないコンセプトを設定するんだって。彼は答えていました。今の社会はあまりに物質偏重で、間違った規範で動いているような気がする。だから、そういう呪縛をほどきたいって。僕もたしかにそう思うことはあるし、そのコンセプトは間違ってはいないと、納得したんです」
「たしかに今の世はマンモン(お金の神)が支配している。だが、それゆえにいっそう、神の教えが必要なのではないか。物理的な欲望を捨て、精神世界に生きたいというのなら、なぜ宗教を否定する? 矛盾してはいないかね?」
「おそらく彼の言う宗教は、新興勢力をさしているんじゃないでしょうか」
「いや、宗教全般だ。カルトももちろんだが、古くからある伝統的なキリスト教や仏教も、明らかに否定している。君にはわからないのかね? それとも私を誤魔化すために、そんな詭弁を言っているのかね、ジャスティン君」
 思わず返事に詰まった。はっきり後者ですとも言いづらい。
「いえ、僕の言い方が悪かったようですが……違うんです。ただ、義兄さんの前で言って良いことかどうか、わからなかったから。でも正直に言ってしまえば、アーディスは既存の宗教を信じていません。キリスト教徒として赤ん坊の頃に洗礼を受け、小さい頃にはカトリック教会のシスターの元で暮らしていた期間もあったけれど、あまり礼拝に行ったことはないし、教義もピンと来ないと言っていました。それに、あの……恐れ多いことですけれど、イエス・キリストを神様としてあがめる気にはならない、なんて言っていたこともあります。せいぜい神様に目をかけてもらった一人に過ぎないと。だから、無神論者というわけでもないんです。彼はたしかに神を信じています。でもキリスト教も仏教もイスラムも、みんなそれぞれ自分の都合のいいフィルターをかけて、自分の理想にあった神様を作り上げてしまうけれど、本当はみんな同じ神様を見ている。神はただ一つのものしかないって、以前そう言っていたし、その信念は今も変わっていないようです。だからアーディスにとっては、今の宗教も消去する対象なんだと、思ったんじゃないでしょうか」
 それはたしかに事実だが、義兄の偏見を間違いなく増大させるだろう。だから僕は言うつもりはなかったが、なぜか口をついて出てしまった。自分でも驚いたほどだ。
 案の定、義兄は眉間にしわを寄せ、嫌悪に満ちた表情になっていた。両手を頭に当てると、熱っぽい口調でまくしたてる。
「ジャスティン君! まさか君まで、そんな異端思想に染まってはいないだろうな。世の中にはたしかに無神論者も懐疑主義者も掃いて捨てるほどいるし、そういう連中はなかなか持論を捨てないが、それは彼らの罪だ。そんな連中は神の国には入れず、その時になって後悔することになるのだ。君の友達のあの子は、君の話を聞く限り、無神論者や懐疑主義ではないが、明らかに異端論者だ。それは、まあいい。自分の中で勝手に宗教を消去して、その結果地獄に落ちたとしても、それは彼自身の罪だ。しかし異端の導師になるのは、明らかに神に対する敵対行為、悪魔の所業といわざるを得ない。大勢の無垢な若者たちを地獄に落とすような真似は……恐ろしい。恐ろしすぎる。自らの間違った信仰を広めれば、より多くのものを迷わせてしまうだろう。それにあの子の信じている神とは、いったい何なのだ?」
「僕もはっきりとはわかりません。でも悪魔なんかじゃ、間違ってもないですよ。義兄さんはそう思ってらっしゃるかもしれませんが、それは絶対違います。彼は以前言っていましたっけ。それは大きな存在。運命を動かすもの、宇宙を動かすものが神様なんだって」
 予想通りの反応に、僕は思わず苦笑しながら答えた。たしかにエアリィが持っている宗教的信念は、既存の概念にはそぐわないかもしれない。キリスト教の考えからすれば明らかに異端思想だが、しかし邪悪ではない。そう僕は感じる。彼は教会の礼拝にはめったに行かないようだが、ある意味では非常に信心深い――ふとした言葉の端から、そう感じることがある。ただ、その神がキリストでないだけだ。もっと大きなもの、そんな気すらする。きっと義兄は僕が友に感化されたのだと、憂うだろうが――。
「宇宙の神か。それでは、まるでニューエイジだな」義兄はふんと鼻を鳴らした。
「だが、君は知っているかね? ニューエイジ・ムーブメントはサタンの王国を作ろうとする試みなのだというのが、聖職者たちの通説だということを」
「ニューエイジとは、ちょっと違いますよ。自然と宇宙のリズムを感じて一体になろう、という感じじゃないですから。星空を眺めるのは好きらしいですけれど。アーディス・レインは、決してロード・マイトレーヤになろうとしているわけではないです」
「本当にそうなのか? 君は私よりは、あの子のことを知っているのだろうが、本当のところは君も、はっきりとわかってはいないのではないか。君も感化されたり、取り込まれたりしている懸念もあるからな。考えたくはないが」
 エイヴリー師は疑いがありありという口調と表情だった。そして重々しくため息をつき、頭を振って、言葉を継いだ。
「だがまあ、しかし現実問題、すでにあれだけ世に出回り、多大な害がなされた今となっては、きっと何を言っても何をしても、もう遅いのだろうな。もし私が発売前に実態を知っていたら、もっと早く君の元へ押し掛け、絶対に発売させるなと、君に誓わせただろう。こんな生ぬるい議論ではなく、君がそう承知するまで、私は帰るつもりはなかった。しかし、今となっては仕方がない。君を信用していた、私が愚かだったのだ。だが一つだけ、この場で約束してくれ、ジャスティン君。次の作品は絶対に、発売前に私に聞かせるんだ」
「次のアルバムを、ですか?」
「そうだ、この次だ。それが現在、私が一番恐れているものなのだ。たしかに今回の作品自体は、聞き手の心を白紙の状態に戻すのが目的なのだろう。それは私も認める。だが、それで終わりではないはずだ。消去する力が、次は何らかの概念を構築するために働くだろう。要は力の方向性だ。君たちは、いや、あの子はいったんまっさらにした土壌に、何を植え付けるつもりなのだ? 君は知っているかね?」
「い、いいえ。それに、そこまで深い意図はないはずです」
 そう答えたところで、思い出した。マスターを通しで聞いた日、エアリィが『ここを通過しないと、先に進めない』と口にしていたことを。『君はこの先も見越しているんだね、それはなんだい?』というローレンスさんの問いかけに、『今はまだ漠然としたイメージだから、言えない』と答えていた。この次のイメージは、たしかにあるのだ。エアリィの頭の中には。ローレンスさんは、『君を信用する』と言っていたが――。
「百パーセント自信を持って、そう言いきれるかね」
 義兄は重ねて、そう問いかけてきた。僕は一瞬、なんと返答したらいいか考えた。深い意図は、たぶんあるのだろうが、そう答えたら、話がよけいに複雑になる。僕にはそれがなんだかさっぱりわからないのだから、義兄に余計な懸念を抱かせるだけだ。知らないふりをしておこう――。
「と、思います。でも彼の行動は時々僕の予想を超えるから、完全に保証は出来ないのが現実なんですが。今回だって、まさかこんなテーマになるとは思わなかったというのが、正直なところだし。僕だって、出したくて出したわけじゃないんです。でもアーディスの意向はバンドにとって絶対に等しいから、誰も止められないんですよ」
 えっ――僕は自分の言葉が信じられなかった。ただ、そんなことはないと思う、と答えておけばいいだけなのに。それなのに僕は、今の騒動の原因も義兄の非難も全部エアリィの責任にして、自分は無関係だと、そんなことを口走ってしまった。僕だって最終的には納得したはずなのに。バンドは運命共同体だから、責任はみんなでかぶることを覚悟しているはずなのに。
「止められない? それは君に熱意が足りないからだ。どんなことをしてでも止める、と言う熱意がね」義兄は腕組みをし、相変わらず熱っぽい調子で主張している。
「それができないなら、君も同罪だ。罪に加担したくなければ、もっと本気で止めなさい。私が君の立場だったら、何がなんでもやめさせるだろう。だから、次を聞かせてくれと言うのだ。まだ間に合ううちに。それが私の恐れているようなものだったら、私は躊躇なく君に命じるだろう。絶対に止めろ、と。そう、どんなことをしてもだ。それが君自身を救い、世界の若者たちを救う、唯一の道だ。もし、どうしても君に出来ないと言うのなら、私が自ら行動を起こしてもかまわない」
「どんなことをしてでも、というのは、ちょっと物騒じゃないですか、義兄さん」
 僕は思わずその激しさにたじろぎ、そう抗議せずにはいられなかった。もし次作がまた、今度のような問題作だったら――コンセプトは正しくとも、また社会に真っ向から対立するようなものだったりしたら、義兄は本気でレーベルを吹っ飛ばし、エアリィを殺してしまいかねないのではと、一瞬怖くもなった。まさかそこまでは、とは思うが、こういう妙な正義感に凝り固まった人は、その熱意のあまり、とんでもないことをやる可能性も拭いきれない。
 軽々しく約束などしたくはなかったが、そうしなければ義兄は帰りそうになく、仕方なしに、次の作品は発売前に聴かせると約束してしまった。エアリィがこれ以上危ないコンセプトを設定しないことを、祈るしかない。いや、もし製作段階で危険性を感じたら、今度こそ本気で止めなくては。義兄に渡る前に。真剣に彼に警告しなければ。
『こんなことをやり続けていたら、命がいくつあっても足りないぞ』と。
 でも、ひょっとして――僕はふいに気づいた。そんな風に感じている人間は、きっと義兄だけではないだろう。彼のようなタイプの人は、それこそ世界中に五万といるに違いない。今エアリィが、エアレースがやっていることは、僕らが覚悟していた以上に、とてつもなく危険なことなのでは。だから今回のツアーもあれだけ騒がしく、トラブルも多かったのだろうか。
 その時ふと、前作の製作時に、ローレンスさんが言っていたことを思い出した。
『その潜在的な危険性を指摘する人もいる。それは、洗脳だ。リスナーを感化する力だ。善に向かっている分にはまったく問題はないが、仮に邪悪な人間だったら、とんでもないことになる、と』
 彼は今回も、エアリィに向かって告げていた。
『君の力は諸刃の剣だ。君はその力ゆえに、一部の人々を竦ませるだろう。その力が破壊的に向かったら、と。君を良く知っている人は、そうは思わないだろうが、それよりも圧倒的に、イメージだけしか知らない人の方が多いのだからね。いや、君は負のイメージは決して持っていないが、その強すぎる力ゆえに、君の本質を疑う人も一部には出てきてしまうと思う』と。
 いや――でも、エアリィは破壊に向かうことは、決してないだろう。僕は彼を良く知っている。完全に隅から隅まで知り尽くしているとは言えないが――出生の経緯や失踪事件など、不可知な部分を残しているから――彼の本質が善であることは疑いがない。でも、ローレンスさんが言っていたように、生身のアーディス・レイン・ローゼンスタイナーという人間を知っている人は、ごく一部なのだ。その懸念は今、危険水域まで来ているのかもしれない。軽々しく立ち入るべきではないタブー、宗教問題に踏み込んでしまった今は。
 エイヴリー牧師も玄関で、立ち去り際にこんな警告を残していった。
「君は自分たちがしたことの重大さを、本当にわかっているのかね、ジャスティン君。社会や宗教を否定すると言うことは、それだけ多くの敵を作るということだ。ことに後者はな、魂の問題に関わってくる、重大なことなのだぞ。我々聖職者も真のキリスト教信者たちも、君たちにおもしろからざる感情を持っている。だが、とりあえず今のところは、やって良いことと悪いことの区別だけは、わきまえているつもりだ。しかし君たちは過激派や新興宗教、カルトの連中をも敵に回してしまった。彼らには洗脳を解かれるのは、致命傷だからな。過激派のテロの話はよく聞くだろうが、それよりも私はカルトのほうを懸念する。実際、いくつかの不穏な噂も耳にしているからね。私自身はそれで憂いが除かれるなら、彼らを非難するつもりはないが。連中の直接的なターゲットは君ではないが、バンド全体が標的となる可能性も十分にある。よけいな忠告かもしれないが、君のために言っておこう。くれぐれも用心し、祈ることだ。そして罪に荷担してしまったことを、深く悔いることだ」




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