Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(5)




 七月に第二弾シングルとして、『Scarlet Mission』がカットされ、騒ぎはさらに大きくなったようだった。もっともこの曲をシングルにしたのは、僕らの意向ではない。
 シングル用CDは、今の時勢ほとんど作られず、たいていラジオ用だけだが、僕らの場合は数量を決めて、サードアルバムから、ずっと作られている。北米とヨーロッパ限定だが。アルバム没曲と、シングル曲のビデオ、時々メイキング。それをおまけにつけて。その数量はアルバムが出るたびに飛躍的に増えているが、今回でも五十万枚なので、ファンたちの間では、プレミア扱いされているらしい。
 先行するファーストシングルは、配給会社にアルバムのマスターを渡す時に僕らが指定するが、『二枚目のシングルが必要ならば、いいと思ったものを切ってください。でも三枚目からは、ラジオ用だけにしてください』と要望するのが常で、それ以上バンド側はタッチしていない。以前の曲のライヴヴァージョンやアルバムの没曲など、カップリング・ボーナス用のマテリアルもマスターと一緒に渡すが、それがどういう組み合わせになるかということも、基本的にはレーベル任せだ。ただ、PVをおまけにつけるという性格上、セカンドシングルも、ビデオを撮った三、四曲の中から切られることが多い。
 ファーストシングルは『Parabolic』――仮想現実の氾濫する中でだんだん希薄になっていく本当の現実を、ストーリー仕立ての叙事詩の形を取りながら、鮮明に訴えかける曲だ。去年のロードで僕がグルーピーの少女シンディと関係を持ち、彼女から無責任な噂を聞かされた後、翌日バスの中でしたネット談義から『曲の種になるかも』とエアリィが言っていたモチーフが、具現化したものだ。あの会話からこのレベルに昇華できてしまう彼のソングライティング力には、毎度のことながら脱帽せざるをえない。この曲はシークエンサーを使った人工的なビートとシンセサイザーを前面に使っていて、普段のギターとキーボードのバランスが逆転しているという、僕らにとってはかなり異色作だ。たしかにアルバム全体で見ても群を抜いてインパクトがあったし、曲のストーリーを生かしたビデオクリップも大きな話題を呼んだ。結果ファーストシングルとして、過去二作においてセンセーショナルな役割を果たした曲たちに勝るとも劣らない成功を収めた。そこで、配給レーベルはセカンドシングルについても、(出来れば次も強烈なインパクトのある曲を持ってきて、もっともっと、畳みかけたい。とすれば、これだ!)とばかり、虎視眈眈と狙っていたようだ。
 彼らの戦略はわかる。問題作として爆発的な反響を呼んでいるアルバムの売り上げをさらに押し上げるために、話題が熱いうちにと思ったのかもしれない。その狙いは期待以上に当たっただろう。このシングルカットは、まさに騒動の火に油を注いだも同然だった。この曲の主題である宗教批判は、やはり十二分すぎるほど伝わってしまい、それ自体が論議を呼んだだけでなく、他の宗教関係者たちから『しかしエアレース自体が、もう新興宗教といえるのではないのか?』などと言われたりもした。二度目の襲撃の犯人も、ファンたちのことを“信者”と呼んでいたが、第三者から見れば、そう見えてしまうのだろうか。しかも一部の過激な宗教家たちやオカルティスト、ライターたちなどが、あの小説によって公の事実になってしまったエアリィの神秘的な出生、イースターというのは小説の脚色だが、それでなくともあまりに謎に満ちたその誕生の経緯に、『彼は本当は、何者なのだ? 彼は真に若者たちの救世主なのか? それともアンチキリストなのか?』などという飛躍したことまで、大まじめに言い出す始末だ。僕も同席したあるインタビューで、その議論についてどう思う? と聞かれた時、エアリィは『僕は僕自身だから。まあ、多少普通じゃない部分もあるかもしれないけど、みんなと同じ人間のつもりだよ』と、肩をすくめて答えていた。僕は『オカルティックに走りすぎだよね、いくら何でも』とフォローした。その後、やはり同席していたロブと、エアリィの専属マネージャーであるカークランドさんは、『今後、その質問はしないでくれ。宗教関係もタブーだ』と、インタビュアーたちに申し渡すようになったという。
 しかし僕らの戸惑いや困惑をよそに、騒ぎは収まる気配はなく、むしろ加熱していく一方のように感じられた。そんな中、春の終わりから夏まで北米大陸を駆けぬけ、ようやく八月下旬に最初のツアーが終了した。

 僕は我が家へと向かっていた。ロードに伴ういろいろな騒動から解放されてほっとするはずなのに、どうしても沈んでくる気持ちを抑えきれない。今では一人一人家まで完全送迎してくれるので、僕は空港でみんなと別れ、リムジンに乗って家に帰っていた。
 玄関についた僕は、また誰もいない我が家を見つけた。庭は週三回来てくれる庭師が手入れしているので、さほど荒れてはいないが、毎日水やりをしなければならない草花は夏の陽に照らされて、しおれきっていた。車はガレージでほこりをかぶり、郵便受けは手紙や新聞でいっぱい、入りきらなかったものは、玄関の隅に置かれた箱に入っている。見かねてマネージメントの人たちか庭師が、箱を持ってきて、入れてくれたのだろう。この家は三ヶ月も、ずっと放っておかれたのだ。トロント公演の時も、みんなはそれぞれ自宅に帰ったのに、僕だけは誰もいない家に行く気になれず、ホテルから通う羽目になった。『どうぜ三日だけだし、あなたは三時くらいまでしか家にいないのでしょう。だったら、わざわざ帰りたくないわ』と、妻に拒否されたからだ。あの時の情けない気持ちが思い出されてくる。ロードが終わった今になっても、まだ留守とは。失望と同時に、腹立たしさを感じた。
「またお留守ですか、ジャスティンさん?」
 玄関で待っていた車から専属ボディガードのマイク・ホッブスが降りてくると、そう声をかけてきた。
「これから奥さんのご実家に回りますか?」
 またお留守ですか、などとセキュリティにまで言われるなんて。ホッブスにその気がないのはわかっていたが、なんとなく自分が哀れまれているような気分を感じ、苛立ちは余計に大きくなった。僕は玄関の小石を蹴飛ばし、首を振った。
「いや、いいよ。ひと休みしてから、自分で行くことにする。今は、休みたいんだ」
「そうですか。大変でしたからね、本当に。お疲れさまでした。外出する時にはくれぐれも気をつけて、万一の時のためにセキュリティアラームを必ず持っていってくださいね。外の荷物を運んだら、僕もこれで失礼します」
「ああ、わかった。君もご苦労さん!」

 玄関の鍵を開け、中に入った。どさっと荷物を床に投げ出し、リビングのソファに身を埋める。真夏の暑さに、家の中はむせ返るような熱気が漂っている。僕はエアコンのリモコンを探し、スイッチを入れると、再びソファに座り込んだ。脱力したような疲労感が身体を包み込んでいた。じっとしていると、眠ってしまいそうだ。三ヵ月もの長いツアーを終え、くたびれきって帰ってきたのに、家には誰もいない。妻は僕を迎えもせず、実家に帰ったままだ。部屋の中は片付いているものの、どこもほこりが真っ白にたまっている。
 イライラした気持ちが募ってくるのを感じた。今ごろ他のみんなは、家族に暖かく迎えられているのだろう。結婚していないロビンだって、とりあえずいつものように両親の家に帰り、ツアーの疲れを休めているはずだ。みんな、今の僕が味わっているような境遇とは無縁だろう。僕だってそうだった。前回のツアーまでは。なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 ステラが大きなショックを受けたことは、理解できる。悲嘆にくれたということも。でも僕だって同じ思いだったのを、わかってはくれないのだろうか? 彼女は今になっても、僕を責めることをやめないのだろうか? わかっていると言いながら僕に過大な期待を押しつけ、それが出来ないからと、拒否を続けるのだろうか?
 僕はため息をついて立ち上がり、キャビネットからウィスキーを取り出して、キッチンに行った。そこには食物は何もなく、冷蔵庫には氷すらない。冷蔵庫の電源まで抜いてあった。ご丁寧なことだ! 舌打ちをすると、急に腹立しさがこみ上げ、僕は冷蔵庫のドアを乱暴に閉めた。食器棚からグラスを出して、酒をついだ。氷もミネラルウォーターもないから、ストレートで飲むしかない。立て続けに三杯あおったあと、僕はソファにもたれかかり、いつのまにか眠ってしまっていた。

 かなり長い間、眠っていたようだ。思ったより、疲れがひどかったらしい。目がさめた時は、夏の太陽ももう沈んだあとだった。かろうじて家具があるのがわかる、薄暗い部屋の中、しばらくソファに横たわったまま、天井を見つめる。起きあがりたい気分ではなかった。いつもならソファでうたた寝をしていると、妻が膝掛けをかけてくれた。部屋は明るく、テーブルの上には湯気の立つ食事が用意され、クリスは床の上でお気に入りの車を走らせて、遊んでいるだろう。でも今、ここに迎えてくれる家族は、いない。
 暗い中に寝ころんで天井を眺めていると、ますます気分が落ち込んでくるのを感じた。いつまでもこんなことをしていても、仕方がない。僕はのろのろと起き上がり、ライトを点けた。ひどく空腹を覚えた。考えてみたら二時ごろ飛行機の中でお昼の機内食を食べたきり、さっきのウィスキー以外何も口にしていない。もう九時半近かった。お腹が空くのも無理はない。
 だが何か食べようにも、何もありはしない。家にいれば黙っていても暖かい夕食が用意されていた時代は、もはや過去の亡霊だ。お気に入りのエプロンを掛けて『さあ、お食事にしましょう』と、にこやかに微笑む妻の姿も、『パパー、たべよ!』と無邪気にかじりついてくる小さな息子も、むなしい記憶の残像でしかない。二人はここにはおらず、テーブルの上には何もない。キッチンの戸棚や、冷蔵庫にさえも。
 ハードな、騒がしく緊張感に満ちたツアーを終えて、くたびれきって家に帰ってみれば、このありさまだ。ステラは僕のことなど、もうどうでもいいのだろうか? 自分のことをわかってくれないなどと言いながら、僕を理解しようという努力は、まったくしてくれそうにない妻に、苛立ちがつのるのを押さえきれない。ロードの途中で送った荷物も、開封されないまま部屋の中に積まれている。不要になった着替えや妻子のために買ったお土産の包みが、虚しく見捨てられて。この荷物は、最初ガレージに積んであった。おそらく自宅が留守のためにマネージメント会社に転送されてきたものを(不在の場合の転送先を、そこに指定してあったから)、スタッフが持って来てくれたのだろう。それをセキュリティのマイクが帰る前に、ここに運び込んでくれたのだ。
 何ヶ月も見捨てられていたその荷物を眺めているうちに、激しい憤りがこみあげてきた。留守中は実家に帰っているにしても、僕が帰ってくる前にはここへ戻ってきて、迎えてくれるのが当然じゃないか。その間にも、たまには様子を見に帰ってきて掃除をし、荷物くらい受け取ってくれたっていいはずだ。いや、自分でそうできなくとも、トレリック夫人にでも頼んでだって、そのくらいのことは出来るだろう。この家のことを気にかけ、そこに帰ってくる僕を気にしてくれたならば。なのに、ステラはそんな気すらないようだ。この家のことも僕のことも、なにもかもどうでもいいらしい。そんな態度に出るのなら、もういい。僕も迎えに行ってなんかやるものか――僕はかつて感じたことがないほど激しい憤りに支配されていた。ロードの騒がしさの反動で、気分がささくれていたのだろう。
 でも現実問題として、夕食のことを考えなければならない。いまさら外食なんて億劫だし、テイクアウトにしようとしても、外へ出ること自体が煩わしい。ピザやサンドイッチの宅配を頼むのも面倒だったし、そういうメニューはロードで食べ飽きている。かといって、実家へ帰るのもためらわれた。事情を説明するのもいやだったし、余計な心配をかけるだろう。だいたい独身時代ならともかく、結婚して一児の父ともなっている二三才の男が、妻がいないから不自由だといちいち実家に駆け込むのも、みっともない話だ。時間も、もう遅すぎた。でも、あと食べるものはというと――。
 家に持ち帰った荷物を調べてみた。ポテトチップスの袋とコーラが二本。ドーナッツが二個と、チョコレートとナッツ、それにリンゴが一個。コンサートのケータリングの残りだ。最終日だからもちこすわけにもいかないと、メンバー、スタッフ、クルー、それに現地のスタッフも含めて、みんなで等分して持ち帰ってきたのだが、これでもお腹の足しにはなるだろう。
 テレビをつけ、ソファに寝ころんで食べた。ほとんど味は感じなかったし、空腹も半分くらいしか満たされない。しかもコーラは冷えていない。トランクに入れっぱなしだったのだから当然だ。おまけに最初のボトルは、ふたを開けたら半分ほど、吹き上がって飛んでいった。でも、こぼれたコーラを拭く気力さえない。のどが渇いていたので、二本あったのは幸いだが、ぬるいコーラほど気持ちの悪いものはない。テレビの内容も、まったく頭に入ってはこなかった。
 食べ終わると再びウィスキーを二、三杯あおり、リモコンを取り上げてテレビを消した。服を着替えることもシャワーを浴びることもせず、そのままソファに横たわった。ベッドに行くのは、いやだった。一人では広すぎる。ライトを消し、クッションを枕代わりにして、手近にあった膝掛けを身体にかけると、目を閉じて、朝が来るのを待った。幸い、眠りはすぐに訪れてきた。ナイトキャップの酒と長いツアーの疲労が、ちょうど良い睡眠薬だったらしい。

 目覚めた時には、朝が訪れていた。まだ暑さと強さをかなり残した日差しが窓から差し込み、がらんとした部屋の中を容赦なく照らしている。寝る前に食べたものはすっかり消化されたらしく、また空腹になっていた。でも、もう本当に食べるものはない。
 妻を迎えに行くか、さもなければ自分でマーケットへ出向いて何か買ってくるかという選択枝を前に、僕は一瞬考え込んだ。どちらも気が進まない。これだけ不自由な思いをしているのに知らん顔の妻に対しては、心底腹を立てていた。絶対に、自分から迎えになど行くものかと。かといって外へ行き、周りの視線にさらされるのもイヤだ。知らない人からじろじろ見られたり、ひそひそささやかれたり、そばへ寄ってきて話しかけられたりするのは、もううんざりだ。宅配という手もあるが、その手配自体が億劫だ。考えあぐねた末、僕は第三の選択を思いついた。妻でなく母でなく、協力を求められる女性――妹がいる。ジョイスなら僕の気持ちをわかってくれるし、秘密も守ってくれるだろう。
 妹の携帯にメールし、用がなければ、ちょっと遊びに来ないかと伝えた。彼女は幸いその日は何も予定がなかったらしい。すぐに行くと返事が返ってきてから、一時間とたたないうちに、小さな鉢植えの花を持って、玄関に現れた。
「こんにちは! おじゃましまーす。お兄ちゃん、ステラさん、クリスちゃん! うちのゼラニュウムがきれいに咲いたから、お土産に一鉢持ってきたわよ!」
 なんだ、食べるものじゃないのか――普段はそんな意地汚いことは思わないけれど、この時ばかりはそう思った。ジョイスは玄関へ出てきたのが僕だけなのを見て、少し怪訝そうな表情をしている。
「あら、お兄ちゃん一人? ステラさんとクリスちゃんは?」
「今、実家へ行っているんだ」僕は簡単にそう答えた。
「ああ、そうなの。じゃ、寂しいわね」
 妹も最初は二人がいないことを、それほど重くは考えなかったようだ。何か用事があったくらいにしか。むしろステラがいないことを、喜んでいるふうでもあった。しかし一歩リビングルームへ入ってきて、あまりの散らかり方にびっくりしたようだ。旅先から送ったダンボール箱がまだそのまま積んであるし、トランクも紐が掛かったまま。一つだけ蓋を開けた状態で、中身があたりに散らばっている。テーブルの上には昨夜のゴミがそのまま、家具にはほこりが積もりっぱなし、しかも床やテーブルにコーラが飛び散ったまま、というありさまでは、驚くのも無理はない。
「どうしたの? まるでこれじゃ、お兄ちゃん、ずっと一人暮らしでもしていたみたいね」
 ジョイスは目を丸くしながら部屋を見回している。
「その通りだよ」僕は物憂げに答えた。
「ステラさんたち、いつから実家に帰ってるの?」
「五月からじゃないかな」
「五月って……もしかしたら、お兄ちゃんたちがロードに出た時から、ずっと?」
「そうだよ」
「ええ?」妹は心の底から驚いたような声を出した。
「じゃあ、トロント公演で帰ってきた時には、どこへ泊まったの? ステラさんの実家?」
「冗談じゃない。僕なんか泊めてくれやしないよ。それに僕だって、ホテルの方がましだ」
「じゃあ、うちへ帰ってくれば良かったのに」
 ジョイスは口をとがらせた後、首を傾げた。
「でも、なぜ? まあ、お兄ちゃんは長いこと留守だから、その間は実家に行っているっていうのは、わからないでもないけれど……ステラさんは、お兄ちゃんたちが帰ってきていることを、知らないの?」
「知ってるはずさ。ちゃんと三日前に、ステラ本人に電話で知らせたよ」
「じゃあ、どうして帰ってこないの? 病気なの?」
「元気だろうよ! 知るもんか!」僕は思わず声を荒げた。
「ステラはここより、パパとママのそばの方が、居心地が良いんだろうさ。ちやほやしてくれるからね。昔いた自分の家にずっといたいのなら、好きなだけいるがいいんだ!」
 ジョイスは驚いたように目を見開いて見ていた。たぶん僕の口調にびっくりしたのだろう。心配そうに覗き込みながら、遠慮がちに尋ねてくる。
「ジャスティンお兄ちゃん。ひどい妨害工作に巻き込まれて、それでステラさんと仲たがいしたって、前にママから聞いたけれど……でも、それは去年の暮れに、もう仲直りしたんじゃなかったの? ママはそう言っていたわ。まだ、喧嘩しているの?」
「一応、形の上では和解したさ。でも、本当に形だけだ。僕はステラと心から仲直りしたかったよ。でも、彼女はそうじゃないんだ。ステラにその気がなきゃ、仲直りなんてできっこないだろ。ステラは本心ではまだ怒っていて、僕が謝ったって何をしたって、許すつもりはないらしい。僕が帰ってきても、おかまいなしに実家に帰りっぱなしさ。今年に入って、ずっとそうだ。もういい加減、迎えにいくのもうんざりだよ!」
「あら、ひどい!」
 妹は驚いたように目を見張ると、憤然とした口調で言葉をついだ。
「そんなの、奥さん失格だわ。あのことだって、お兄ちゃんが悪いわけじゃ、全然ないじゃない。なのになぜ、いつまでもお兄ちゃんに怒っていなきゃならないの? ずうっと家を放りっぱなしにして、疲れて帰ってくるお兄ちゃんにわざわざ迎えにこさせるなんて、ひどいわよ。お兄ちゃん、それじゃせっかく家に帰ってきても、ゆっくり休めないじゃないの。そんなことだなんて、あたしちっとも知らなかったわ!」
「そうなんだ。でも、母さんたちには内緒にしてくれよ、ジョイス。よけいな心配をかけたくないんだ」
「ええ、いいわ。でもジャスティンお兄ちゃん、この一週間どうするの? ステラさんだって、あまり家のことは出来なかったらしいけれど、いなければ、やっぱり不自由でしょう? あの無愛想な家政婦さんだって、元々ステラさん付きなんだから、ここには来ないわけだし」
「ああ、そうなんだ。でも、なんとかやっていくよ。一つだけ、おまえに頼みたいんだけどね、ジョイス。買い物にだけ、行ってくれないかな。僕が自分で行ってもいいんだけれど、もう外を歩くのも、うんざりなんだよ」
「わかるわ。お兄ちゃんくらいの超有名人になると、外も自由に歩けないものね。今は特にね。騒ぎは知っているわ。テレビや雑誌でも見るもの。ネットでも凄いらしいわね。本当に大変よね。あたしたちもみんな、心配しているのよ。どこのマーケット? 何を買ってくればいいの?」
「ありがとう。助かるよ」
 僕は行きつけのマーケットの場所と道順を教えた。ジョイスは必要としているものをメモに取り、財布を預かって出かけていった。妹の赤いアウディが門から出ていくのを見送った後、僕は家の中に引き返した。ソファに寝転んでテレビをつけ、画面に映っているアメリカンフットボールの試合をぼんやりと見ているうちに、いつのまにかまた、うとうとしてしまったらしい。目が覚めた時には、妹が山のような買い物をせっせと家の中に運びこんでいるところだった。僕は起き上がり、荷物の運搬を手伝った。
 買ってきたものを全部しかるべき場所にしまった後、彼女はコーヒーをいれてくれた。
「はい、お兄ちゃんの好きなソーセージとマッシュルームのピザ。温かいうちに食べて。途中ケーキ屋さんがあったから、チーズケーキも買ってきたわ」
「ありがとう。もうお腹がぺこぺこで、気持ちが悪くなりそうだったよ」
「ひょっとして、お兄ちゃん、朝もまだだったの?」
「ああ、それにゆうべもろくに食べてないよ。家には何も食べるものがないからね」
「ひっどーい!」ジョイスは憤激のあまりか、真っ赤な顔になった。
「そんなのって、虐待よ。夫虐待だわ。お兄ちゃんが飢え死にしてもいいっていうの!」
「それはちょっと大げさだよ、ジョイ。ステラはただ、誰もいない家には食べ物を置いちゃいけないと、思ったんじゃないかな。それだけだよ、きっと。僕が帰ったら適当に調達してくると思ったのか、それとも全然気にしていないかだね」
 僕は苦い思いを押し殺しながら、ピザをほおばった。
「ひっどーい!」妹はそう繰り返し、ソファのアームを拳でどんと叩いた。
「いいわ。じゃ、あたしがこの一週間、奥さん代わりになって家のことをやってあげる。ステラさんなんか、迎えに行くことないわよ」
「いいのかい?」
「いいわよ。一週間だけですもの。心配するから、ママには内緒でね。誰か世話してくれる人がいないと、お兄ちゃんって本当に家事音痴ですものね」
「そういうおまえだって、あまり変わらないだろ?」
「あら、ばかにしないでよ。あたし、今、家事見習い中なんだから。まあ、見ていてちょうだい。立派な主婦ぶりを見せてあげるから。手始めに食事がすんだら、掃除と洗濯ね。本当にひどいありさまなんだから。でも、すぐに見違えるようにしてあげるわ。わかっていたら、エプロンを持ってきたのに。ステラさんのを借りていい?」
「ああ、もちろんいいさ。寝室の右側のクロゼットにあるはずだ。はっきり場所はわからないけれどね」
「じゃあ、探してくるわ」
 ジョイスは寝室へ行き、五、六分ほどして、レースがついた白いエプロンを持って戻ってきた。それはステラのとっておきのエプロン──クリスマスや誕生日のような特別な席につけているものだ。それを妹がつけようとしたら、普段の僕なら制止しただろう。それはステラの大事なものだから、悪いけれど他のを探してくれと。でも僕はあえて何も言わなかった。家を放り出した妻のかわりに、妹が好意で家政をしようとしてくれているのに、はなからけちをつける気にはなれない。かりにジョイスが純白のエプロンにしみをつけたりしても、かまうものかという気にさえなっていた。
 妹は洗濯機を回しながら、リビングスペースを掃除してくれ、夕食まで作ってくれた。
「本当に、結構立派な主婦だなあ、ジョイス」僕は思わず感嘆の声を上げた。
「言ったでしょ? あたし、花嫁修業中だって。大学も最後の年になって、少し暇になったから、ホプキンスさんに少しずつ、家事を教えてもらっているの。相変わらず、口うるさいけれどね。『ジョイスお嬢さまには、ジョアンナお嬢さまのような牧師さんのお嫁さんでなく、家事など必要ないようなおうちにお嫁に行ってもらいたいですけれど、先はどうなるかわかりませんしね。女のたしなみとして覚えておいても、困ることはありませんよ』なんて言うのよ。どう? あたし、立派な主婦になれそう?」
 ジョイスは少し得意そうに笑う。なるほど、妹の見事な主婦ぶりは、家事のプロに仕込まれた結果なのか。
「たいしたものだね。今すぐにでも、お嫁にいけるよ。でも、花婿候補はいるのかい?」
「いやねえ、まだよ」妹はちょっと頬を染めて答えた。
「お友達もいたんだけれど、結婚を考えるほどじゃなかったの。今はフリー。誰かいい人が、いないかしら」
「おまえなら、きっと誰からも好かれるよ。すてきな人だって、すぐにあらわれるさ」
 背が高くすらりとしていて、それでも随所に女らしい丸みを帯びたスタイル。オレンジ色のぴったりとしたTシャツと、クリーム色に大きな花柄のショートパンツ。オレンジ色のリボンを結んでポニーテールにした、栗色の長い髪。ちょっぴり日に焼けた顔に、きらきらした、明るい茶色の瞳。活動的なそのスタイルには、本物のレースがついた白い、ふわりとしたシルエットのエプロンはあまり似合っていない。もう少しコンパクトで飾りのない、緑か茶系、もしくは黄色の、はっきりした柄ものの方が良いだろう。ステラはその類を持っていないから、仕方がないが。
 妹は若さと健康の固まりのように見えた。ジョイスも秋には、二二才になる。もう一人前の女性だ。やがて似合いの夫があらわれ、こうして僕を助けてくれることは、もうないかもしれない。そう思うと、一抹の妙な淋しさを感じた。

 ジョイスは明日の朝食の分まで、料理を作ってくれた。もう家の夕飯の時間だから早く帰らないといけない、また明日来るね――そう約束して妹が帰ってしまうと、再び我が家は砂漠になった。家の中には誰もいない。リビングにもダイニングにも、寝室にも子供部屋にも、どこにも。声一つ、足音一つ響かない。静寂に耐えられなくなり、テレビのスイッチを入れた。野球をやっている。がらんとした部屋にテレビの音だけが、いやに大きく響いた。
 キッチンのカウンターには、ジョイスが作ってくれた鶏のフライとサラダがふきんをかけて置いてあり、シチューは鍋に入っている。コーヒーはポットごと、冷めないようにウォーマーに入れてあった。シチューを火にかけて暖めたが、火が少し強すぎたのと、かき混ぜるのを忘れたせいで、底の方が焦げ付いてしまった。
 シチューを皿に移し、コーヒーをカップにつぐと、新しいフランスパンを切った。サラダを半分とってドレッシングをかけ、冷蔵庫から今日買ってきたばかりのバターとクリームを探して、一人分の食事をテーブルの上に運ぶ。ほとんど食欲は感じなかった。テレビの音はうるさいが、消してしまうと静寂に圧倒されそうになる。僕はリモコンを取り上げ、ボリュームを少し絞った。
 ロード中はミーティング日以外、ホテルの部屋で一人朝食を取ることが多いが、苦痛には感じない。一人でも、孤独ではなかったから。お昼や夕食は、たいていみんなで揃ってとる。スタジオワークの時も多少時間帯に変動はあるものの、食事の時はお茶の時間と並んで、僕らのリラックスタイムだ。そこには、いつも会話と笑いがある。家庭に帰っても、もちろんそうだった。ステラとクリスと三人で取る食事は、愛情と暖かさに満ちた、至上のひと時だった。去年の秋までは。
 なのに、僕のオアシスであるはずのこの家で、こんな思いを味わうとは、考えもしなかった。ジョイスがせっかく腕をふるって作ってくれた料理も、僕の気分を救ってはくれない。妹には申し訳ないが、料理のおいしさはよほどの腕の持ち主でない限り、かなり食べ手の気分に左右されるようだ。それにフライは明らかに揚げすぎだし、冷めたせいで、よけいにぱさぱさする。シチューは少し焦げ臭い。これは僕の責任だが。コーヒーもいれてから何時間か経っているために、味も風味も落ちている。
 夕食を終えると、我知らずため息をつきながら、食器をキッチンへ運んだ。食器洗い器に入れるのも、おっくうだった。汚れた食器を流しに置いたまま、キャビネットからウィスキーをとり出し、グラスにつぐと、新しい氷とミネラルウォーターを注ぐ。三杯ほど水割りをあおった後、どさっとソファに寝ころんだ。
 天井を見上げながら、またため息が漏れた。我が家でたった一人迎える夜が、これほど耐え難いものだったとは。くだらない意地を張るのはやめて、明日妻を迎えにいこうか。誰か人がいなければ、やりきれない。
 そんなことを考えながら、僕はいつのまにか眠りこんでいた。

 カーテンを引き忘れたリビングの窓から、強い夏の名残の日差しが差し込んでいた。がらんとした部屋を、容赦なく照らし出している。狭いソファで二晩も眠ったせいだろうか、身体の節々が痛い。
 猛烈ないらだたしさを感じた。三日目の朝だ。僕が帰ってきたのは、一昨日の午後だ。なのに、ステラはなぜ、何も言ってこないのだろう。帰ってくる日を忘れているのか、わかっていて、知らないふりをしているのか。きっと後者に違いない。彼女はいつも僕が帰ってくる日を、忘れたことなどなかった。以前は出かける前に帰る日を確かめ、電話や手紙でも、念を押していたものだ。いつもその日は僕の好きな料理を用意し、晴れ着を着込んで美しく装いながら、僕の帰りを待ってくれていたのに。
 以前のような歓迎は期待できないとわかってはいたが、今回のツアーでも僕は、スケジュール表のコピーをステラに渡し、八月二三日に帰国予定だと、はっきり言った。三ヶ月も先のことだったから忘れているかもしれないが、ツアー途中でも僕は、何度か電話をしている。連絡をくれないのはイヤだとステラは何度も訴えていたから、つとめて一週間に一度は手紙を書き、週二回電話をしてきた。もっとも彼女が実家にいるということは、ほとんど電話がつながらないことを意味する。運良くステラがとっても、妻の応対は以前の半分も熱心ではなく、挨拶と用件だけで切れることも珍しくなかった。しかし、僕は間違いなく言ったはずだ。全米ツアー千秋楽の前の晩、運よく最初に電話口に出てきた妻に、『明後日帰る。空港には三時半頃、着く予定だ』と。その前に書いた手紙でも知らせたが、仮にステラの手に渡る前に義父母に処分されて(あの人たちなら、やりかねない)読んでいなくとも、僕は直接妻に告げた。ステラだって、答えていたはずだ。『わかったわ』と。
 わかっているなら、どうして戻ってこない。百歩譲って仮にど忘れしてしまったとしても、丸二日もたてば思い出すだろう。僕に迎えにこいということなのか? いつ帰ってこようと関係ない。迎えに来ればいいのだ。ステラはそう思っているのか。
『一緒に帰ろう。帰ってきてくれ……』
 仕事を終えて帰ってくるたびに彼女の家に出向き、義父母の敵意のただ中で、そう懇願しなければならないのか。そうして迎えに行くまでは、僕がここでどんなに不自由していようと、気にもとめないのか。
 テレビ台の横に十枚ほどの白い紙が、二つに折って無造作に立てかけてあるのに気づいた。手にとってみると、それはステラに渡したツアースケジュール表のコピーだった。以前は『よく見ているの。どこまで進んだのか、あなたは今、どのあたりにいるのかって』――そう言ってくれていた妻が、今は実家に持っていくこともせず、誰もいない自宅に放置している。おそらく、中を見てもいないのだろう。
 氷のような意志を感じた。僕を許すまいと心を閉ざす、妻の意志を。でも、僕がいったい何をしたというのだろう。何者かの卑劣な罠にはまってひどい目にあったのは、僕も同じだ。苦しんだのは、彼女だけじゃない。
 残暑の厳しい日だったが、心は冬のように冷たくなっていた。シャワーを浴びて、服を着替えると、昨日ジョイスが作りおいてくれたサラダの残りを、冷蔵庫から取り出した。パンを切り、昨夜の残りのシチューを暖める。冷たいミルクをコップにつぎ、コーヒーも温めなおした。それをすべてトレーに乗せ、決然としてテーブルに置くと、朝のニュースを見ながら食べた。食物の味もテレビがどんな内容だったかも、相変わらず覚えていない。
 いいだろう、ステラ――僕は心の中で、冷たく呟いていた。君が自分から戻ってこないなら、そのままずっとパパとママの元にいるがいい。僕は絶対に君を迎えには行かない。僕にだって心がある。プライドもあるのだから。

 食べ終わると、昨夜の分も含めて食器洗い器に放り込んだが、夕食分の汚れは、落ちずに残ってしまった。お昼前に来たジョイスが、食器を洗い直してくれた。
「あたしも知らなかったのよ。でもホプキンスさんが言っていたわ。お皿の汚れはすぐに水にひたすか拭き取っておかないと、食器洗い機だけじゃ、こびりついてとれないって」
「そうか。勉強になったよ」僕は肩をすくめた。
 妹が買い物に行く時、簡単な料理の本も一冊買ってきてくれるように頼んだ。ステラを迎えに行かないとしても、この一週間ずっとジョイスの世話になっているわけにもいかない。いくら実の妹でも、僕らの夫婦喧嘩に巻き込んで面倒をかけてばかりいては悪いし、あまり毎日だと、両親にも不審がられるだろう。妹には一日か二日おきくらいに来てもらって、残りの日は自分で家事をしよう。
 男に家事が出来ないわけではない。うちのバンドではエアリィ以外、壊滅状態だが。ジョージやロビンやミックは、たくさん使用人がいて、なんでも人にやってもらうのが当たり前の状態で育ったために、家事の手伝いとは無縁だったようだ。僕も似たようなものだ。一人暮らしの時には、持ち帰りのデリやファーストフード、宅配ばかりに頼り、許されて実家に出入りができるようになってからは、時々夕飯を食べに帰った。部屋の掃除もだいたい一週間に一回くらい、汚さが目に余った時にだけ適当に片付け、ざっと掃除機をかける程度だ。でも今はファーストフードを買いに行くのさえ人目をはばかるようだし、ロードの合間に戻ってきた時くらい、まともな家庭料理が食べたい。
 それでも掃除はなんとか自分で出来たし、僕がやり残したところは、ジョイスがやってくれた。自分が使っているスペースしか、掃除しなかったが。洗濯も二回ほど妹にやってもらって、事足りた。夏だし、僕一人ならさほど洗濯物はたまらないから、それで十分だ。アイロンが必要なものは、ジョイスに頼んでクリーニング店に持っていってもらった。すっかり汚れてしまったステラ秘蔵のエプロンも、無造作に洗濯機に放りこまれていたが、異議は申し立てなかった。
 最大の難関は料理だった。ワンプレートの冷凍食品で、電子レンジで温めて食べるものはたくさんあるが、味はいまいちなものが多いと思ってしまうので、あまり積極的には取り入れたくない。でも、ちゃんとした家庭料理となると、台所仕事など今までほとんどしたことがないのだから、付け焼き刃が通用するはずもない。紅茶は出来を問わなければいれられるし、コーヒーメーカーの使い方も覚えたが、あとは卵料理と、ベーコンや肉を焼くくらいだ。それも、オムレツやポーチドエッグは少し敷居が高く(一度オムレツを作ろうとしたが、結果的にスクランブル・エッグになった。しかも少し焦げた)、目玉焼きは三回に一回くらいは黄身がつぶれたり、殻が入る。ゆで卵、それも固ゆで卵が一番失敗なく作れるが、僕は固ゆで卵はあまり好きじゃない。とろりと半熟が良いのだけれど、なかなかそうはなってくれない。塩コショウの加減も難しく、肉やベーコンもたいてい焼きすぎてしまう。トーストも、時々焦がした。おかげで、冷凍もののワンプレートの方がはるかにましなくらい、お世辞にもおいしいとは言えない食事になってしまうこともある。おまけに果物を剥こうとして、包丁で指まで切ってしまった。すぐにヨーロッパツアーが始まるというのに、ギタリストの僕が指にけがをするなんてとんでもないと、バンドエイドを巻きながら後悔し、それ以降包丁を持つのは諦めた。包丁を使うものは、果物にせよ料理にせよ、ジョイスに任せることにした。でもジョイスとて、“家事見習い中“だけあって、レパートリーは決して多くないようで、クリームシチューと簡単なスープ、フライドチキンとステーキしか作れないらしい。あとは野菜をゆでたり、サラダを作ってもらったり。二、三食分くらい作り置きしてもらい、サラダ以外は一食分ずつパックして、冷凍庫に入れてもらった。おかげで電子レンジの使い方は、かなり詳しくなった。一度アルミはくをつけたまま入れてしまい、派手な火花をとばしたが。おまけにステーキの温め直しは、あまりおいしくない。
(未来世界のように、料理を宅配してくれると助かるな)
 ふと、そんなことさえ思った。未来世界で会ったシンプソン女史が、個人で作ると出来不出来に差があり、料理の得意でない人は、あまりおいしくない食事をとる羽目になる。それよりは常においしい食事を届けてもらう方が、ずっといいと言っていた。その時は自分の家で料理をしないなんてなんだか手抜きだし、つまらないのではないかと感じたけれど、今はその意見に諸手をあげて賛成したい心境だ。あれもワンプレートで、電子レンジ、いや、調理器で温めて食べるが、技術力のせいか、家庭料理と変らないものが、出来たてそっくりに食べられる。
 家事に挑戦することは、いくぶん目新しい興味を与えてくれたが、孤独が完全に紛らわされたわけではない。作業が一段落するたびに感じる、頬を打たれるような静寂。毎晩ウィスキーを何杯もあおり、その勢いで眠りにつく夜の寂しさ。ソファの上では狭くて、眠ってもあまり疲れが取れない感じがしたので、三日目からはずっと、客用寝室のベッドを使っていた。夫婦の寝室は、使う気にはなれなかった。僕一人では広すぎて、酒の酔いですら空しさを埋められない。絶えず僕を刺す空しさや寂しさは、怒りの感情とアルコールへと向かわせ、昼間から酒をあおることも珍しくなかった。

 出発の前日、僕は一人、再び乗り出していくツアーの準備をした。全米ツアーに使った旅行用の大きなトランクが二つ、リビングの隅にそのままになっていたので、まずはその中身を点検する。ステージ衣装の方はスタッフがやってくれるが、普段着と生活用品は、各自で用意することになっている。前回のツアーは五月から八月までだったから、ほとんど夏物だ。秋のヨーロッパだと、ちょっと寒いだろう。インナーには使えるだろうが。南欧中心に回る九月はそれでもいいだろうけれど、十月は秋物が必要だろうし、北欧にも行く。十一月はイギリスにいる予定だ。結構寒くなるだろう。それほど数は必要ないだろうが、長袖のトレーナーやセーター、ジャケットがいる。どのあたりにしまってあるのだろうか――あちこち探して、薄手のものだけは、やっと見つけ出した。冬物はどうやら、衣装ケースの中だ。ウオークインクロゼットの中に山のように積まれたケースを一つ一つ点検して、やっと欲しいものを見つけ出す。フランネルやコーデュロイのシャツ、トレーナー、パーカー、厚手のボトムス、ジャケット、ジャンパーにジップベスト、セーター。
『ジャスティン。寒くなるから、これを持っていって。わたしが編んだの』
 一昨年の秋、ツアーに出る前に、ステラがふっくりと暖かそうなオレンジ色のセーターを差し出したことを、ふと思い出した。彼女はいつも、熱心に支度を手伝ってくれた。寒くなるから、暑いから、温度の差が激しいから、くつろげるように、ちゃんとした場にも出られるように、行く先と季節、期間を考え、それにふさわしい準備を、あれこれ整えてくれた。今年の全米ツアーでさえ、冷戦状態にありながらも、一応手伝ってくれていた。
 なぜ、こんなことになったのだろう。ふと手にしたライムグリーンの新しいセーターを見つめながら、長いため息がもれた。今年の誕生日に(当日はミックスダウン作業でスイスにいたので、数日遅れて)、ステラからプレゼントされたものだ。
「クリスマスプレゼントの分と、二枚編んだのよ」と。
 心にわだかまりを残してはいても、彼女は贈り物をくれた。僕のために新しいセーターを、二枚も編んでくれた。僕の好きな薄い緑と、クリーム色で。
 僕はつまらない意地を張ってしまったのかも知れない――ふと、そんな後悔を感じた。でも、もう遅い。次の日には大西洋を越えなければならないのに、今さら迎えに行って、何になるのだろう。どんな顔をして、妻に会えるのだろう。第一、彼女の両親が、僕の前に立ちふさがって言うだろう。『今ごろ、何をしにきた』と。そうなったら、僕には何も反論はできない。
 再び、深いため息が漏れた。後悔しても遅すぎる。苦い思いで、セーターをケースに戻した。ツアーに持っていって、目にするたびに同じ思いを味わうのはいやだ。僕は今年の誕生日にファンからプレゼントされた、ブランドもののしゃれたセーターを二枚、トランクに入れた。高価な既製品より、妻の手になる素朴なふうわりとした編み物の方が、どんなにか着心地が良いだろう。どんなに暖かいだろう。だが、仕方がない。僕は彼女を閉め出してしまったのだから。
 荷造りを終え、することがなくなると、また苦い孤独感がおそってきた。僕は再び、ウィスキーの瓶を取り出した。一週間の休暇中、これで三本目だ。それも、もう少しで空になる。こんなにピッチが早いのは、初めてだった。身体に良くないことはわかっていたが、今の僕はもう、酒なしでは過ごせなくなっていたのだ。



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