Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

六年目(4)




 スイスでのミックスダウンを終え、トロントに戻ってきた僕は、三週間ぶりに我が家の門をくぐった。誰も迎えには出てこない。家の中は、しんと静まり返っている。半ばがっかりし、半ばうんざりした気分だった。ステラは去年の十一月から――退院してきた時からずっと、僕の仕事中はクリスを連れて実家に帰ったままだ。僕は帰って来るといったん家に荷物を置いて、妻と子供を迎えにいく。義父母から皮肉を言われ、冷たくあしらわれながら、なんとか家族を連れて戻ってくる。仏頂面をしたトレリック夫人も一緒だ。レコーディングの合間に戻って来た時も今も、そうだった。
 ステラはもう身体の方は、すっかりいいようだ。今年に入ってからは、すでに普通に歩けるようになったし、流産後の検診でも、問題なく回復しているらしい。でも僕らの間には、まだあの事件が影を落としている。家のことは一切トレリック夫人に任せ、ステラはずっとクリスにつきっきりだ。一緒に遊んでやり、世話をし、過保護といっていいほど、いつもそばにいる。クリスが眠っている時には、一緒に子供部屋にこもってしまうか、寝室に引っ込むことが多くなった。
 いつもはクリスが眠ると、夫婦二人の時間だった。リビングでお茶を飲み、語り合ったものだ。でも今のステラは、なんとなく僕を避けているとしか思えない。夫婦の会話はほとんどなくなり、彼女の笑い声も久しく聞かない。僕と一緒に出かけたがらなくもなった。小旅行はもちろん、公園や遊園地にでも遊びに行こうと誘うと、『あなたと一緒だと、知らない人が寄ってきて煩わしいから、いや』と首を振る。買い物に行こうともちかければ、『出かけたくないから、トレリック夫人に頼んでちょうだい』とくる。僕の買い物なら、『あなた一人で行って』だ。気分転換にと、外での食事やお茶に誘うと、『うちのお料理では、あなたのお口には合わないの? 外でたくさんおいしいものを食べているから? トレリック夫人が気を悪くするわよ』と、皮肉が返ってくる。ドライブやピクニックの誘いも、『行きたくないわ』の一言で却下だ。夫婦生活も、ずっと途絶えたままだった。あれから半年近くたった四月になっても、まだ拒否を続ける。『放っておいて。そんな気分には、とてもなれないの』と。寝室も別にしたいとすら一度彼女はほのめかし、僕が『どうしてだい?』と少し語気を強めて問い返すと、ため息をついて、『それなら、いいわ』と、不機嫌とあきらめが入り混じったような声を出しただけだった。
 夫婦のベッドはクイーンサイズなので、シングル二台分ほどの広さがある。その広いベッドの端に、彼女はいつもうずくまって眠る。僕が寄ろうとすると、(ここはわたしの場所よ。出ていって)という表情をありありと浮かべて、迷惑そうに僕を見る。しかたなく、僕は自分のサイドに寄って眠る。手や身体が触れ合うことすらない。ずっとそんな状態だ。
 僕は最初戸惑い、やがて苛立った。ステラは僕の話を信じてくれると言ったはずだ。あのけがらわしい写真は、みんな卑劣な陰謀の産物なのだと、認めてくれたんじゃなかったのか。それなのにどうして、僕らは元通りになれないのだろう。
 情けなく悔しい思いに耐えられなくなった僕は、ついにある夜、ベッドの中で妻に正面から問い正した。
「君は僕のことを、本当はまだ許していないんだね、ステラ」
「そんなことはないわ。あなたは悪くないもの」
 彼女の答えは、どこかとってつけたように響いた。
「だったら、どうして君は僕を拒むんだい?」
「だから言ったでしょう。そんな気になれないって。いやなの、そういうことが。それにあなたは、他の人とも……」
「ステラ、あれは僕のせいじゃないって、わかってくれたんじゃなかったのかい? ねえ、君はあれから少し変だよ。ずっと僕を避けて、ろくに話もしてくれない。どこかへ誘っても、断ってばかりだ。どうしてなんだい?」
「どうして、ですって? そんなこと、わかっているはずよ。今は楽しい気分ではなくなったの。だからよ」
「そんなに流産がショックだったのかい?」
「当たり前よ。あなたは女ではないから、それがどんなに悲しいことなのかが、わかりはしないわ。わたしの中で育っていた大事な小さな命が、赤ちゃんになることなく、消えてしまったのよ。どんな子だったのかしら。どんな顔をしていたのかしら。会ってみたかったって……ずっと思ってしまうの。今はもう、かなりお腹が大きくなっているはず、六月末には生まれるはず……そう思うと、その時が来るのが怖いのよ。予定日が来たのに、あの子はいないって。わからないでしょうね。赤ちゃんが生まれたら、その子はどんな子で、どういう服を着せて、どういう風に話しかけて、そしてクリスともどういう風に遊んで、どんな兄弟になるか。ずっと思っていたのよ。ずっと楽しみにしていたの。それが全部、突然消えてしまったの。この悲しさ、あなたにわかる?」
 ステラは小さなおえつを漏らし、しばらく言葉を途切れさせた。
「でもね、楽しくなくなってしまったのは、それだけが原因ではないの。あなたさえ……あなたがもし昔と同じジャスティンで、わたしを慰め励ましてくれたなら、きっと今ほど悲しくはなかったと思うわ。でもね、わたしはもう、あなたに昔と同じ気持ちは持てない。あの写真を見た時、あなたに対する信頼が崩れてしまったのよ。もちろん、あなたの言うことは本当に違いないと、頭では理解していてもね。あなたは自分から、そんなことをする人ではないわ。それはわかってはいるの。でも、ある意味では事実よね。あなたがあの人たちと、そういう関係にあったということは」
「でも、それは僕の意志じゃないよ。君だって、わかってくれたじゃないか」
「それはそうよ。でも、わたしはあなたの意志もそうだけれど、その事実そのものがつらいのよ。あなたはいつも、何ヶ月も家を空けているわよね。去年はだいたい四ヶ月、その前の年もそのくらいしか、家にいないわ。離れている時にあなたが何をしているのかは、わたしは何も知らないのよ。あなたを信用するしか。それなのにあなたを信じられなくなったら、わたしはどうすればいいの? あなたは前に他の女の子と浮気なんかしないって、誓ってくれたわよね。それは結婚する時の約束でもあったはずよ。でもジャスティン、あなたは本当にわたしと結婚してから、一度も他の女の人と関係を持ったことはないの? あの写真は別としてよ。正直に答えてちょうだい」
 逆にそう問いつめられて、思わず返答につまった。この時ほど二度の破戒を後悔したことはなかったが、妻に嘘は付けない。僕はありのままに答えた。
「まったくないとは言えないよ。でも、二回だけだ」
「そう。思ったよりは、ずっと少ないけれど、ゼロではないわけね。あなたはやっぱり、わたしとの約束を破ったのね。わたしはあなただけを愛して、ずっと待っていたのに。あなたと結婚する前からずっと、わたしはあなたを待って過ごしてきたわ。寂しかったけれど、いつも幸せだった。それはあなたがわたしだけを愛し、外での誘惑を果敢に退けてくれてると信じていたからなのよ。それなのに、あなたは他の娘を愛したのね」
「愛したわけじゃないよ」
「愛したわけではない? それでは、あなたもやっぱり、心と身体は別なのね。愛してもいない女の人と、関係を持てるのね。それなら、なおさら信用できなくなるわ」
「そう短絡しないでくれよ、ステラ。他の子と寝たのは、たしかに僕が悪かった。そんなつもりはなかった。つい魔がさしてというか、流されてしまったんだ。でも、もうやめようと心に誓った。僕が愛しているのは、君だけだよ、ステラ。だけど、君にも理解して欲しいんだ……」
「あなたの業界は、誘惑が多いということでしょう。わかっているわ、それくらい。ミュージシャンとしては、当たり前のことなのでしょうね。でもどうしても、感情面では許せないわ。わたしたちは結婚しているのよ。それなのに自分の旦那さまが、他の人と関係を持っているなんて、愉快なわけはないではないの」
 彼女はくるりと背を向けた。しばらく沈黙した後、僕に背を向けたまま、ぽつりと呟く。
「それに、わたしが入院していた時、あなたはどうして会いに来てくれなかったの?」
「え?」意外な非難に、僕は耳を疑った。
「何を言っているんだ。毎日ちゃんと行ったじゃないか。でも、いつも門前払いだ。あげくには、転院すると脅かされたしね。君は何も言ってくれなかったし」
「それはわたしも、怒っていたからよ。本当に悲しくて遣り切れなくて、あなたを責めるよりほかに、しかたがなかったの。でも本当はね、いくらママがああ言っても、毎日ずっと来てほしかったのよ。退院するまで。転院する気なんか、なかったわ。何と言われても来てくれて、優しい言葉をかけて、誠心誠意謝ってほしかった。もしあなたがそうしてくれていたら、わたしはもっと早くあなたを許せたし、もやもやしたわだかまりを持ち続けることもなかったかもしれないと思うの」
「ステラ……」思ってもみなかった妻の言葉に、僕は半ば呆然とした。
「だったらどうして、あの時にそう言ってくれなかったんだ。君がそう言ってくれたなら、毎日行ったさ。どんなことだってしただろう。それが君の望むことなら。なのに君は、何も言わなかったじゃないか。僕は君の気持ちを傷つけたくなかったから、今は言うとおりにした方がいいと思って、病院に行くのを我慢したのに」
「ええ。わたし、勝手なことを言っていることは、よくわかっているわ」
 ステラはもう一度向き直り、僕の目を見てきた。非難の色を浮かべて。
「でも、あなたはもっとわたしのことを理解してくれていると、思っていたの。言わなくても、わかってくれると。なのに、あなたはわたしの気持ちなんて、ちっとも考えてはくれなかったのよ。それだけではないわ。あの後あなたがお仕事に行ってからも、全然連絡をくれなかった。手紙も電話も、一度だって」
「君は傷ついているんだから、そっとしておくほうがいいと思ったんだ。それにプリプロダクションの時は忙しいから、あまり連絡しないのは、いつものことじゃないか」
「でも、わたしには、まるで知らん顔をされているように思えたのよ。あなたはきっとわたしのことを、それほど大切に思ってくれていないのだわと、そう考えてしまったの。本当にわたしのことを愛してくれているなら、わたしがどれほど悲しんだかを理解してくれるはずだし、本当にわたしが必要としている慰めがどんなものかも、知っていてくれるはずよ。そうでしょう?」
「僕は僕なりに、君のことを大事にしているつもりだったよ」
「でもあなたの考え方と、わたしの望んでいるものは違うのよ。あなたはわたしのこと、わかってくれていないの」
「ステラ。君が言ってくれなければ、わからないよ。僕は超能力者じゃないんだからね」
「でも、愛はあるはずよね。黙っていてもお互いに理解しあえるのが、愛ではないの? 言わなければわからないなんて、あなたの愛はその程度のものなの?」
「君は愛に幻想を抱きすぎているよ、ステラ。だったら、君だって僕のことをわかってくれているのかい?」
 思わずそう返してしまった。その言葉は、ますます妻を苛立たせたようだった。
「わたしが、あなたを理解しようとしなかったとでも言いたいの! もういいわ。この話はよしましょう。わたしたち、いつまでたっても平行線だわ」
 ステラは再び僕に背を向けると、毛布を頭の上まで引き上げた。
「もうわたし、寝るわ。眠いの。おやすみなさい」
「おやすみ……」
 僕は茫然とあいさつを返した。冷たい『おやすみなさい』は、百の非難より雄弁に僕を打った。まるで対話の扉が、ぴしゃっと目の前で閉ざされてしまったように。僕はため息をつくと、妻に背中を向けた。
 長いこと眠れずに、さっきの会話を思い返しているうち、だんだんと僕にもわかってきた。あれ以来僕たち夫婦の仲をぎくしゃくさせているのは、あの忌まわしい事件そのものではなく、それによって明らかになってきた、お互いの小さな誤解やすれ違いの積み重ね、考え方の違い、お互いの住む世界の違いなのだと。急に妻が手の届かない所に行ってしまったような、心細さを感じた。もう僕たちは、もとに戻れないのだろうか――。

 ワールドツアーが始まるまでの、六週間あまりの半休暇。いつもならこの上なく楽しい休みが、これほどほろ苦かったことはなかった。途中十日ほどビデオ撮影や取材のために家を空けることが、いつになく救われたような気分だった。休暇が終わって二週間のリハーサルに入る時には、ほっとしたと同時に、そんな自分に気がついて、悲しくもなった。いつのまにか我が家が、楽しさややすらぎの場では、なくなっていたことに。

 まだ休暇中の四月上旬に、ロンドンから小さな包みが届けられてきた。去年のセッションで録音した曲が入ったCDと、謝礼の小切手だ。ジャケットに映っている、白いスーツに身を包んだプレストンの笑い顔を見たとたん、かっと激しい憤りがこみあげてきて、僕は内容を聞きもせず、CDをケースごと捨てた。小切手もびりびりに引き裂いて、ゴミ箱に放り込んだ。元々お金が欲しかったわけじゃない、と。
 ディーン・セント・プレストン自身がすべての陰謀を仕掛けたわけではないし、ステラが流産したのは、あくまで二次的な、不幸な偶然だ。理性の上では、彼をこれほど憎むつもりはなかった。だが、あの人が陰謀の片棒を担いでいたことは、否定しようのない事実だ。あの人の家での食事会から始まったトラブル、失ってしまった二人目のわが子、広がった僕ら夫婦の溝、壊れかけてしまった家庭。痛手はあまりに大きかった。その憤激のはけ口をどこかに見つけなければ、我慢が出来ない。
 一瞬ためらった後、僕は持っていた彼らのバンドのCDまで、すべてゴミ箱の中にたたき込んだ。中から覗いているジャケットが気になり、回収用の袋を持ち出すと、家にあった他のゴミと一緒に、収集に出した。ちょうど明日は不燃ごみの回収日だ。
 集積所に袋を放り投げた時、いわれなき傷の痛みを感じ、自分の中にあった貴重な何かが一緒に捨てられて、なくなってしまったような気がした。失われたものは、何だったのだろう。僕たち夫婦の幸せだった蜜月時代? それとも、他人に対する信頼の心だろうか?

 五月の第一週に、アルバムが世界同時発売になった。多くの国で初回プレス分が初日に完売、すべて予約分だが、それでも生産が追いつかず、足りなかったらしい。初週のCD売り上げは、記録破りの枚数――僕らの市場になっているほとんどの国で、そうだったという。オンラインでのデジタル版アルバムのダウンロード販売の方も、たちまち桁外れの記録をたたき出したそうだ。そして発売の混乱が納まると、それに引き続いて予想どおり――いや、それ以上の反響が返ってきた。リスナーからの激賛と一部の識者からの猛反発――まさに賛否両論が、いきなりフルボリュームで降ってきたようだった。
 アルバム発売二ヶ月前に、五月十八日から始まる全米ツアーの日程が発表になり、三分の二はスタジアム、あとは大型アリーナという大がかりなものだったにもかかわらず、売り出されたチケットは全部初日、それも一時間足らずで完売だったらしい。メディアの取材の方は、今回はマネージメント側で、かなりの制限をかけたようだ。殊にエアリィの私小説騒動と、このアルバムの性格ゆえに、彼のマスコミ対応は以前の十分の一に激減した。僕の方も半分くらいに減った。元より受ける数よりも申込数の方がかなり多かったところに持ってきての取材制限だったため、締め出しを食らったマスコミ側には、“突撃”を試みるものもかなりいて、自宅前やリハーサル会場の出入り口に張り込む輩が出始め、それを排除しようとするマネージメント側の警備員たちともめることもあった。そんな中、僕らはヘッドラインに昇格してから通算三回目のワールドツアーに乗り出したのだった。

 本当に騒がしいロードだった。反響も今まで以上に大きかった。このころには僕らのコンサートは、サポートアクトなし、単独で休憩を挟んで三時間二十分の長さに及んでいたが、どこへ行っても、どんなに大勢の観客がいても、すべての観客が、スタッフやセキュリティの面々までも含めて、ひとり残らず僕らの手中にある。僕らの、と言うと語弊があるかもしれない。数万観客のコンサートマスターは、アーディス・レインだ。ステージの上では、彼はもはや僕らの知っているエアリィではない。数万人の観客たちの偶像であり、感情を交流するコミュニケーターであり、導師でもあり、コンダクターでもある。数万人の観客一人一人に膨大なエネルギーと感情を放射し、彼らのフィードバックを受け止めて同化する、その激しく圧倒的な力は、僕らをさえ一種トランス状態に陥らせる。
『あの子はオンとオフのギャップが多少あるほうだけれど、一度スイッチが入ってオンになると、誰にも止められない。周りのすべてを霞ませてしまう。本当に次元が違う。そしてオンになった状態というのは、あの子の内なる超人が覚醒して、一体化している時だ』
 ローレンスさんが前作のレコーディング時に言っていたことを、レコーディングスタジオで、そしてステージの上で、そのたびに痛感する。
 エアリィはステージを降りると毎晩、楽屋のソファに落ちるように座り、そのまま数分間、うずくまってしまう。頭を膝の上にもたせかけて肩で激しく息をし、呼吸を戻して充電しなければ感情も行動も戻ってこない、そんな感じだ。そのあと、立ち上がってシャワーを浴びに行く。それは、僕たちも同じだ。エアリィより体力的には余裕はあるが、それでも膨大な感情とエネルギーの嵐の中で我を忘れて演奏すると、僕らのエネルギーもまた使い果たされてしまうようで、シャワーを浴びながらも、半分ボーとしている感じだ。
 このツアーから僕らは、二百マイル以上の移動の場合には、チャーター飛行機を使うようになったので、オーバーナイトのバス移動はなくなった。それゆえ着替えると、すぐにリムジンでホテルまで戻るのだが、会場を出る時間は、だいたい終演後十五分から二十分くらい。でもその時点では、帰りの混雑はまだ始まっていない。コンサート後、忘我の境地に陥った観客たちが我に返り、ちょうど帰り始めるのが、だいたいこのころなので、彼らが駐車場にたどり着く頃には、僕らのリムジンはもう出発している。ホテルに帰ってルームサービスでおつまみとドリンクを頼み、ソファに座ってテレビを見る。その頃にはコンサートの感情的余韻と消耗は、心地よい疲労感に落ち着いてくる。そして一晩ぐっすり眠った後、翌日の午前中に、次の公演地に向かって出発する。
 都市を巡りながら三夜から四夜こうした晩が続き、その後やっと一晩オフになり、翌日からまた新しいサイクルになる。この繰り返しで、春から夏への日々が飛んでいった。消耗されるエネルギーがあまりに大きいため、普段の二倍近く食べないと、体重も維持できない。まるで身体中の細胞が、フル回転しているようだった。意識は活性化され、体力は少しずつなくなっていく。ツアーはいつもそんなものだ。でも、なによりそこには大きな満足感と、気分の高揚がある。それだけに、みんなロードが好きなのだ。

 でもこのロードでは、一種の緊張状態に全体が包まれていたような雰囲気だった。主催者、スタッフ、セキュリティ、みながどことなくピリピリとしたような様子で、僕にもその緊張状態が伝わってくるほどだ。外でどんな騒ぎが起きているのが、どんな反響なのか、それを僕たちは直接見ることは、あまりない。ホテルや会場の入り口で待っているファンたちとマスコミが、何回か小競り合いを起こした末、否定的なマスコミを撃退する場面が何回かあった、ということくらいだろうか。インターネットの世界では、いろいろな激論が飛び交っていたようだが、見さえしなければ、それは存在しないのと変わりはしない。だから僕は(たぶん他の四人も)極力見ないようにしていた。
 新作の主題が“社会通念の打破”である以上、それを巡って、大小さまざまなトラブルが起きたようだが(親と子の争いや、集団家出、学校や職場での、普段は黙っていたことに声を上げて改善をしていこうという動き、それによって起こる争いなどだ)、そういった騒動は、僕も時々耳にすることがある。テレビやネットのニュースで。見ないように、とはいえ、ニュースまでシャットアウトは、なかなかできないのだ。もう一つわかったことは、僕らのファンたちが、基本的にメディアと敵対関係、とまでは行かないが、冷めた目で見るようになったらしい。若年向けファッションや情報サイト、広告の閲覧数が落ち、メディア離れを起こし、友人関係や交友にも多くの劇的な変化が起きた――これは僕がインタビューを受けた記者の人に聞いた話なので、真実なのか、多少の誇張が入っているのかはわからないが。でも彼は言っていた。ファンたちのそのさまざまな行動の変化は、新作タイトルの頭文字を取って『VI現象』などと呼ばれ、社会現象にまでなっていると。
 それは、水面下で激しく波立っていたのかもしれないが、僕たちには基本、あまり見えない。でも、いくつもの今までとは違う変化が、僕らの周りにも起きていた。一つには、ロード中にあまり外出できなくなったことだ。今までは、体力に余裕があれば、時々街に買い物に出たり、観光に行ったり、ボウリングやテニスをしたり、公園に散歩に行ったりしていた。ヘッドラインツアーを始めてからは、周りで見ているファンの数は飛躍的に増えているが、それでもその見物人を気にしなければ、なんとか楽しく過ごせた。でも今は、時々邪魔が入ってくるようになった。地元メディアの記者だったり、さらにはたぶん、ファンたちの親や教師や――いわゆる彼らと対立する側の人だったりが、その中から不愉快な言葉をかけてくることがあり、それに対して僕らより、周りのファンたちが怒る、そして騒動になる――そんなことが数回あってから、僕らは外に出るのを控えるようになった。外に食事に行くことも、同様の理由であまりできない。それゆえ、ほぼ移動とホテルと会場、それだけで終わってしまうことが多くなった。さらに、コンサート会場に爆弾を仕掛けたという脅迫メールや書き込みのため、捜索が入って開演が一時間か一時間半遅れ、終演制限時間ぎりぎりで終えたことが三回ほどあり、一度などは宿泊先のホテルに小包爆弾が送りつけられてきた。レーベルやマネージメントにも一、二度爆弾脅迫があって、実際マネージメントにも小型爆弾が届いたという。公式サイトもサイバー攻撃で何度かダウンしたが、エアリィと彼の継兄アランさんがメールをやり取りして、『DOSアタックなどのサイバー攻撃回避プログラム』を作ったらしく、それを導入してからはなくなった。蛇や催涙弾、毒薬や剃刀という物騒なものが楽屋やホテルに送りつけられたこともある。
 
 僕らの、とは書いたが、一連のVI現象すべての元は、アーディス・レインだ。マスコミが狙うのも、攻撃対象になるのも、そしてファンたちが守ろうとするのも――『僕は気にしないから、君たちはかかわらないで! お願いだから』彼は憤るファンたちに、何度もそう言った。それでその場の争いを収めた。物騒なプレゼントも、すべて彼に向けたものなのだが、発煙筒で気分が悪くなった以外、実害は受けていない。だが、不愉快な言葉を浴びせたり、物騒なものを送り付けるだけでなく、直接攻撃に出てくる輩が現れるに至って、僕はローレンスさんの言葉の真実に震えを感じた。
『このアルバムをこのまま出すことは、ガラスの家に特大のボールを投げこむのと同じだ』
『君は今まで以上に、危険な状態に置かれるだろう。君の無事を祈る――』

 最初の大きな事件は、ロードが始まって一ヶ月半が過ぎた頃、会場に入ろうとした時に起こった。その時、ちょうど待機していたファンたちとマスコミが、また揉めそうになっていた。僕たちは立ち止まり、エアリィが二、三歩近づいて、彼らに何か言いかけた。その時突然、彼は顔色を変え、鋭く叫んだ。
「伏せて!!」
 一瞬の間に弾丸が飛んできて、会場の壁に当たった。全員が、ほぼ反射的に伏せたために、誰も弾には当たらなかったが、もちろんその場は騒然となった。
「動かないで!」
 エアリィは声を上げ、僕らとファンたちとの間の空間に、踏み出していった。
「危ないぞ、出たら!」専属セキュリティのジャクソンが血相を変えてそう叫び、
「何やってんだ、戻れ!」と、何人かのスタッフも叫んでいる。
「大丈夫。僕は絶対当たらない。でもみんなは動かないで、絶対に。それで誰か、向かいのあのビルから撃ってるって、通報して」
 エアリィは青ざめた顔で首を振り、そうして実際に、それから飛んできた五発をすべてよけ切った。まるで弾道が見えているように。その間、誰も動けず、凍りついたように見ているほかはなかった。飛び出していったら、流れ弾に当たる危険がある。それに、彼の集中力を乱す――まるでみな、それがわかっているかのように。実際僕もその思いで、地面に根が生えたように立ちつくして、その光景を見ているしかなかった。
 弾は六連奏なのだろう。それ以上の銃弾は来なかった。そしてスタッフからの通報を受けた警察が、向かいのビルからライフルを手にして、逃げようとした男を逮捕した。
『あいつを殺せと、依頼を受けた。相手は知らない。フリーアカウントのメールから依頼された。俺はまあ、ああ、いろいろ調子に乗ってて癪だから、殺ってもいいぜと返信した。前金で一万ドルもらった。手渡しだ。相手は帽子をして、サングラスをかけていたから、顔は知らない。成功したら、百万ドルくれると言っていた。会場の入り口で騒動を起こすから、セキュリティから離れたところをビルの窓から狙い撃てば、成功できるはずだと』
 警察の報告では、犯人はそう供述したという。その男は警察のスナイパー部隊にいて、射撃の腕は優秀だったそうだ。だが三年前、薬物の横流しで捕まり、辞めていたと。
『一発で仕留めるつもりだった。実際、以前何度か、それで成功しているんだ。でも避けられた。それで、俺が見えているかのように見てきやがった。上等だ、かわせるものならかわしてみやがれ――そう思ったんだがな。なんなんだ。あいつは化け物か?』
 そいつは、そう続けていたらしい。相手からすれば、そう思うのも無理はないかもしれない。僕も不思議だったし、また驚きでもあった。
「最初のはカンかな。やばい予感がしたから」エアリィはあとでそう言っていた。
「あとは……うん。あれだけ離れてたら、弾見えるし、軌道もわかるから、周りに人がいなければよけられるよ」
 つまりそれは驚異的な視力と計算能力と、身体能力の合わせ技か。こんな真似は、彼でなければとてもできないだろう。一つ間違えれば大惨事だったことに後から思い至り、僕はぞっと震え上がった。それはきっと、他のみなも同じだっただろう。

 事件は、それだけでは終わらなかった。それから三週間後、サウンドチェックを終えて楽屋に帰ろうとした時、その部屋の前に見慣れない男がいた。赤と紺のチェックのシャツを着て、もじゃもじゃの茶色い髪に、帽子を目深にかぶった、三十を少し出たくらいの男。ここはバンドのメンバー以外、立ち入り禁止のはずなのだが。その男はニヤッと笑って、まっすぐエアリィの前に歩いてきた。
「よう、悪魔の誘惑者。おまえを殺しに来たぜ」
 男は手に持っていたもの――金属バットを振り上げ、恐ろしい勢いで振り下ろした。が、それは空を切った。エアリィの反射速度は恐ろしく早い。普通の人ならまともに頭に打ちおろされても不思議ではないその攻撃を、まるで瞬間移動したかのような素早さで、横に飛んでよけた。そして相手がもう一度バットを振り上げたところで反撃に出て、相手の男の胸のあたりを、勢いをつけて両手でドンと押した。体勢を崩した男は、尻もちをついた。
「おい、ロビン! ジャスティン! セキュリティを呼んでこい!!」
 ジョージがそう叫び、男の方に突進していった。全員で取り押さえた方がいいのだろうか、と僕は一瞬思ったが、一刻も早くセキュリティの尽力を仰ぐの先だ、とすぐ思いなおし、踵を返して、セキュリティたちの部屋へ走った。ロビンもすぐについてきた。
 セキュリティたちが駆けつけてきた時には、ジョージとミックにも体当たりされたらしい男が、二人に両側から腕を押さえられて床に転がされ、暴れていた。
「ちきしょう、離せ! この化け物め! 殺してやる!!」
 男はそう叫び、さらに聞くに堪えない悪態をついていた。そして男はセキュリティたちに連れて行かれ、警察に引き渡されたようだった。
「危ないよ、二人とも。武器持ってるやつに飛び掛かってくなんて」
 エアリィは少し頬を紅潮させながら、ジョージとミックに言っていた。
「危ないのは、おまえの方だ! まったく、この間といい今度といい、無茶しやがって!」
 ジョージは真っ赤な顔でそう声を上げ、
「本当だよ!」と、ミックも強い調子で頷いている。
「だって……僕が原因なら、仕方ないし……ね。自分で何とかできれば。でも、巻き添え食っちゃう人がいたら、いやだし」エアリィはため息をついて、首を振っていた。
 その後、警察からの報告では、男が好きだった女性が僕らのファンで、その彼女にこっぴどく振られたのが原因らしいという、かなりあきれるような動機だった。
『ステイシーは三年前にあいつらのファンになってから、おかしくなった。もともと年下だし興味ないと言っていたのが、動画サイトでアルバムを聞いてから、はまったようだ。俺の周りでも、ここ二、三年、急速に信者が増えている。俺がけなすと彼女は怒って、一度聞いてみろと言う。いや、周りはみんなそれで罠にはまっていったから、俺は絶対に聞かない。聞こえてきたら耳をふさぐ。サイレンの歌には耳を貸さないと言った。そうしたら彼女は軽蔑したような目で見、俺から離れていくと言った。それで俺は、待ってくれ、強制的に聞かされるのでなければ、もうあいつらの話題は言わない。だから友達でいてくれと言って……それでなんとかここまで来たんだが、突然彼女は言いだしたんだ。もう無意味だ。あなたと付き合うのは時間の無駄だ。無駄な関係は断ち切る。もう二度と連絡をするな、と。俺が逆上したが、彼女は数人の友達、同じファン仲間たちと来ていた。おまけにそいつらが援軍を呼び、大勢で俺を徹底的にやり込めて、もう二度とステイシーに近づかないと誓わせやがった。なんなんだ、あいつらは! 彼女も含めて、すっかり信者だ。俺ははらわたが煮えくり返った。どうにも収まらないから、仕返しにあいつらの偶像で洗脳者を殺してやろうと思ったんだ。そうすれば、ステイシーもほかの信者も、目が覚めるだろうと思ってな』と。そして『どうやってバックステージに入ったんだ』という質問には、『手引きしてくれる奴がいた。係員に化けた奴が、通してくれるはずだと。そいつが、連絡してきた本人かどうかは知らないが。名前も素性も知らないんだ。どこで出会ったかって? 闇サイトさ』と言ったという。警察はほどなく、そのくだんの闇サイトを見つけたようだが、そこの書き込みはすべて複数サーバーを経由していて、発信元を突き止めることはできないと報告してきた。ただ、そのサイト自体は閉鎖された、と。

 この事件の後しばらくして、さらに三人のセキュリティが増員された。遠くから狙い撃たれたり、安全なはずのバックステージで襲撃されたり、という事件はマネージメントを心底震え上がらせたらしく、警備を増強する必要性を感じたのだろう。実際、直接攻撃の二件は、エアリィだったから無事に切り抜けられたものの、一つ間違えば、どちらも最悪の結果になっていても、おかしくはなかっただろう。僕らの目にはその一角しか見えないが、『VI現象』とその反響が巻き起こす騒動、その台風の目である彼は、ファンたちの激しい賛同と崇拝を勝ち取ると同時に、ますます反対者たちにとって、目障りな存在になってしまったのだろうか。さらに今度のアルバムで、社会の体制側に立つ一部の人たちをも、敵に回してしまったのかもしれない。二度にわたる直接攻撃は、そのせいなのだろうか。




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