The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

五年目(6)





 だるさを堪えながら、のろのろと濡れた髪をタオルで拭き、トランクから新しい服を出して着終えた頃、ジミーが部屋の連結ドアをノックし、次いで顔を出した。
「お邪魔します、ジャスティンさん……すみません。お着替え中でしたか?」
「ああ、いや、着替えはすんだよ」僕はソファに身を預けながら答えた。
「ところで、ジミー。君は昨夜、何時ごろここに帰ってきたんだい?」
「あっ、すみません……昨晩は友達と飲んでしまって、ここに帰りついたのは四時前なんです」ジミーは少し顔を赤らめ、決まり悪そうな顔をした。
「僕のベッドルームから、何か聞こえなかったかい? 話し声とか物音を」
「いいえ、とても静かでした。そっとのぞいてみたら、もうよく眠っておられましたよ。それで、僕もできるだけ物音を立てないようにして、休んだのです。眠かったですから」
「そう……」僕は深いため息をつき、ソファにもたれかかった。ということは、午前四時前には、僕はもう連中の手から解放されていたのか。そういえば、あいつらもジミーが帰ってくる時間を気にしていた。クルーを同行させたおかげで、あいつらがチラッとほのめかしていたような、監禁麻薬漬けなどという、とんでもない事態は避けられたのか。ほっとしたと同時に、ひどく寒気を感じた。
 ジミーはちょっと不思議そうな表情で僕を見たが、賢明にも質問は控えたようだ。ただ、これだけ聞いてきた。「朝食はどうしますか? まだですか?」
「まだだよ。でも、何もいらない。食欲がないんだ」
「あまりお加減がよくなさそうですよ、ジャスティンさん。大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫。やっぱり、オレンジジュースだけ、もらうよ」
「わかりました。ちょっと待っていてください」
 ジミーはルームサービスに電話をかけ、まもなくボーイがジュースを持って来た。ジミーはグラスを僕に渡しながら、微かに笑って聞いてきた。
「昨日プレストンさんのお宅で、飲みすぎたんですか?」
 一瞬表情がこわばるのが、自分でもわかった。ジミーは自分が何かまずいことを言ったと思ったらしい。一瞬で笑顔は引っ込み、「すみません。差し出がましいことを言ってしまって」と、口篭もっている。
「いいや、君のせいじゃないよ」僕はグラスを受けとり、一息に飲んだ。冷たいオレンジジュースが、のどに心地いい。深く息をつくと、僕はグラスをジミーに返した。
「あの、ところでジャスティンさん。そろそろ支度をしないと、六時の飛行機ですから。二時半に迎えがくるそうですよ」ジミーがためらいがちな口調で言う。
「送ってもらいたくなんかないよ!」僕は思わず、はじかれたように叫んだ。
「あんな連中には、もう会いたくない。タクシーで帰ろう」
 ジミーは驚いたような顔で僕を見、何か言いかけて、思いとどまったようだ。そして、これだけ言った。「それでは、支度は僕がやりますから。少し休まれた方が良いですよ。本当にご気分が悪そうです。それと、髪はしっかり乾かした方が良いと思います。風邪をひきますよ。僕が乾かしましょうか?」
「ああ。じゃあ悪いけれど、頼むよ……」
 僕は頷き、ドライヤーで髪の毛を乾かしてもらうと、荷造りを任せて、ソファに横たわった。でもともかく、迎えが来るまでに帰ろう――。
 準備が終わると僕は立ち上がり、ジミーとともに、タクシーで空港へ向かった。

 頭の芯が痛い。ずきずきするいやな痛みだ。口の中が乾き、何度も水やジュースでのどを潤さずにはいられなかった。体中の力が抜けたような、ひどいだるさだ。飛行機でもシートに深ぶかと座り、ぐったりした気分で目を閉じていた。離陸の時、耳がひどく痛く、気分が悪くて吐きそうになった。今まで数限りなく飛行機に乗っているのに、こんなことは初めてだ。ちくしょう──初めての課外活動の結果がこれか。とんだ成果だ。もう二度とやるものか。バンドを離れての音楽活動なんて、楽しくもなんともない。今さらながら、人はみな善人とは限らないのだと思い知らされただけだ。
 離陸して二時間くらいたったころ、同じ飛行機に乗り合わせたファンが声をかけてきた。僕は思わず怒鳴った。
「うるさい! 僕は気分が悪くて寝ているんだ。見てわからないのか! あっちへ行け!」
 彼ら彼女らから見れば、僕はとんでもなく横柄でわがままな、鼻持ちならない奴だと思っただろう。でも、そんなことかまいはしない。もう、どうだっていい。ファンを二、三人なくそうが、痛くも痒くもない。いや、彼らがもしネットをやっていたら、僕の悪行はもっと広く知れ渡るだろう。だが、だからなんだっていうんだ。たまたま機嫌の悪い時に出くわしただけだとは思わず、たった一回の遭遇で僕という人間のすべてを決め付けてしまう阿呆な連中なんて――しかもわざわざエコノミーからファーストクラスまでやってきて声をかける奴らなんて、こっちから願い下げだ。第一、僕のファンでなくなっても、バンドのファンであることに変わりないだろうし、関係あるものか。どうせ僕は第二選択なんだ。いつもそうだ──。

 空港には、マネージメントの車が迎えに来ていた。運転していたのはロブではなく、若い男性スタッフだ。僕はその車で、自宅へ帰った。
 家の玄関に着いた時には、倦怠感はピークに達していた。時差の関係で、体感的には真夜中なことに加え、薬の影響だろう。けだるくて、立っていることもつらい。ステラがうれしそうな笑みを浮かべ、玄関に出てきて、何か言っている。
「お帰りなさい、ジャスティン。お疲れさま」
 僕はかろうじて笑顔を作ったが、それ以上の気力は出せなかった。
「ただいま、ステラ。ごめんよ。疲れて、眠いんだ。寝かせてくれないか」
 本当は妻を抱き締め、軽くキスをしながら、笑顔で「ただいま!」と言うつもりだった。いつものように。でもその時の僕は、とてもそんな気分ではなかった。相変わらず頭はずきずき痛み、口の中は乾き、身体中がだるい。だが、風邪をひいたような感じとは違う。圧倒的な脱力感だ。ちょっと驚いたように見つめるステラの傍らを擦り抜け、駆け寄ってくる息子も無視して、服を着替えることもせず、僕はベッドに入った。そして眠った。

 眠りは深く、まわりには虚無の空間がある。やがて闇の中から、夢が浮かび上がってきた。空は暗黒で星も出ていない。まったく何の光もない。一歩踏み出せば、底なしの深淵に落ち込むことがわかっている。足元から吹き上げる風が髪を揺らす。
「ここはどこだ? 僕は誰だ? みんなは……? ここは空虚だ!」
 僕は恐怖と不安の中で叫ぶ。その時足元が崩れ、僕は深淵に落ちていく。
「うわあ!」
 落ちる感覚を抱きながら、何かに捕まろうとして手を伸ばす。でも、まわりには何もない。伸ばした手に触れるものはない。むなしく空を掻きながら、僕は落ちていく。空虚な深淵は、いつの間にか黒い渦のようなものに変化した。すさまじい力で引っ張り込まれる。落ちていく。くるくる回りながら。まわりから無数の声が聞こえてくる。
『おまえには、ここがふさわしい』
『気分はどうだ。最悪だろう……』
『おまえはいやな奴だな、最低だ……』
『おまえなんか、虫けら以下のちっぽけな存在なのさ……』
『もがくがいい。助けなんて、来るものか』
『落ちてしまえ、この偽善者め』
『出口なんて、ないのさ』

「やめろー!!」
 我知らず声を上げ、僕は叫んでいた。そして目が覚めた。まるで水の中から出てきたように、全身がぐっしょり汗で濡れている。頭の中には、まだ夢の恐怖が残っている。
 僕はベッドの上に起き上がり、大きく息をついた。薄緑色のカーテンの隙間から差し込んでくる光の筋が、まぶたを射る。思わず目を細めて手をかざし、大きく息をついた。光だ。ああ、これが欲しかった──。
 カーテンを引き、窓を大きく開けて、太陽の光と風を部屋いっぱいに入れた。少し開いたドアの隙間から、妻と子供の声が聞こえてくる。頭はもう痛くない。身体もあまりだるくない。僕は深く息を吐き出し、吸いこんだ。冷たい風が、気持ちよかった。ああ、やっと我が家へ帰ってきた。いまいましい薬も抜けた。もう大丈夫だ。

 シャワーを浴びたあと、食堂に入ると、ステラの笑顔が迎えてくれた。
「やっと起きたのね。心配したのよ。昨日の夕方帰ってきたと思ったら、すぐに眠ってしまって。今、これからランチなのよ。よほど疲れていたのね」
「ああ、ちょっとね。もう大丈夫。ごめんよ、心配かけて」
「時差ぼけかしらね。あなたはいつもヨーロッパから帰ってくると、早く眠くなるようだから。それに慣れない環境で、緊張したのではないの? でも大丈夫なら、良かったわ」
 妻はほっとしたような笑顔をみせた。「お腹が空いたでしょう? 昨日の夜から、何も食べていないのですもの。急いでお肉を焼いてもらうわね。それから、はい、レモネード。わたしはいつも飲んでいるの。疲れた時にいいのよ」
 ステラはそれ以上、何も聞こうとはしなかった。ただにっこり笑って、グラスをテーブルに置く。僕はそばにきたクリスを抱き上げて、一緒にテーブルについた。
「ありがとう、ステラ。心配させて悪かったね。そう……たぶん時差ぼけだよ。帰ってきた時には、僕の時計では午前二時過ぎだったからね。それに、疲れたのもたしかだと思う。ああ、家に帰ってほっとしたよ。やっぱり家が一番いいな」
 冷たいレモネードを飲み干すと、僕は深く息をついた。悪い夢から完全に覚めたような、すっきりとした気分だ。妻に笑いかけながら、僕はやっと足を地に付けることが出来た、安堵を感じた。
 さらに嬉しい驚きが待っていた。食事を終え、コーヒーを飲んでいる時、ステラは両手を胸の前に合わせ、明るい口調でこう告げたのだ。
 「ねえ、ジャスティン。わたしね、あなたが帰ってきたら、報告したかったことがあるのよ。あのね……クリスに弟か妹が出来たの」
「ええ?」予期せぬ報せに、僕は思わずコーヒーにむせてしまった。
「ここ二週間ほど生理が遅れていたし、体調も変だったから、もしかしたらと思ったの。それであなたがロンドンへ行っている間に、お医者さまに行ってきたのよ。エヴァンス先生の所に。今、ちょうど七週目に入ったところですって。予定日は六月二五日なの。今度はどちらかしらね。わたしは女の子が欲しいけれど、あなたは?」
「そう、それは本当によかった。僕は……まだ、わからないな。どっちでもいいよ。男の子だって女の子だって、うれしいさ」
「そうよね。わたしも本当はそうよ。どちらでもいいの。男の子だったら、クリスと仲良しの兄弟になるでしょうね。それに両方の家のために、男の子は二人欲しいし。ねえ、来年の六月には、あなたはどういう予定?」
「うわ! またロード中だな、きっと! この次のアルバムは五月頭くらいのリリース予定でスケジュールが進んでいるから」
「あら、また? 残念だわ」
「でも、リリース直後のロードはたぶん北米だから、帰ってくるよ。立ち会いは難しいかもしれないけれど、会いに行くよ。移動日だったら、北米大陸どこにいても、トロントまで行って帰ってこられるからね」
「それなら、少しはよかったわ。クリスの時には、よりによってあなたはオーストラリアなんですもの。それから一ヶ月以上、オーストラリアやアジアを回っていたから、全然会えなくて……」
「あの時には、本当に参ったな。毎日、時がたっていくのがもどかしくて、たまらなかったよ」僕は思い出して笑った。その時に生まれた息子は、もう幼児と言える年齢になった。だんだんとできることが増えて、しっかりしてきたクリス。今もジュースを飲みながら、僕らの嬉しそうな様子を見て、にこにこしている。
「クリスも、もう二才なんだな。来年の六月か、予定が遅れたら七月には、お兄ちゃんになるんだ。早いもんだな」
「そうね。あっという間ね。本当に幸せだわ。あなたと結婚して二年半、毎日がずっと幸せだった。これからも、きっとそうね。来年には、欲しくてたまらなかった二人目が生まれるし。幸せだわ。怖いくらいに」ステラはそっとお腹に手を当て、微笑んだ。
 僕も幸福だ。ステラと結婚して、ずっと毎日が満ち足りていた。来年には新しい家族も増える。これ以上の幸せがあるだろうか。僕の家族──僕のオアシス、僕の港。失いたくない。ずっとずっと、永遠に。時は過ぎていく。過ぎてみれば、時間は無情に早い。でもリミットが来るまでの間は、ずっとこの幸せを離したくない。それから先のことは、考えたくない。切なかった。切なさ過ぎて、胸が痛くなるほどに。

 それから二週間ほどは、平和にすぎていった。もっとも最初の一週間は、抜けたと思っていたが、やはり薬のフラッシュバックに時々悩まされ、急に寒気がして身体が震えたり、息苦しくなったり、あの快楽が欲しい、という理不尽な渇望が起きることもあった。そんな時、僕は水やスポーツドリンクを飲み、熱いシャワーを浴びたり、身体を動かすことで耐えた。二人目も生まれるというのに、薬なんかに手を出してたまるか。連中の罠にはまり込むのだけは、絶対ごめんだ、と。その強い意志が僕を支えた。二週目に入るころには症状は徐々に消えていき、十日を過ぎるあたりから、完全になくなった。幸い、それほど強い薬ではなかったのだろう。
 ステラはつわりのせいかあまり体調が良くないらしく、家政婦のトレリック夫人がしばらく泊まりこみ、家の切り盛りにフル回転していたが、僕らの幸福が曇ることはなかった。ステラはクリスに本を読んでやったり、玩具で遊んでいるのを見守る。時おり、優しく声をかけながら。僕はもっぱら身体を動かす、ダイナミックな遊びを担当する。寝かしつけるのはステラでないとだめだが、急に冷え込みを増した庭で子供と遊ぶのは、僕の役目だ。それは誘惑を退けるための最上のセラピーであり、解決法でもあった。毎日が穏やかで美しく、満ち足りていた。

 雪のちらつく寒い十一月の午後だった。クリスは子供部屋でお昼寝をし、僕らは居間でお茶を飲んでいた。そこへトレリック夫人が一抱えの郵便物を持ってきた。
「午後の郵便です」そして空いたお皿をさっと持って、台所へ引き揚げていく。
 僕はカップを置き、テーブルの上に積まれた封筒を一つ一つ改めた。個人の住所は知らせていないので、ファンレターは来ない。ダイレクトメール、取引のある金融機関やツアースポンサーからのお知らせ、カードの明細書などを、一つ一つ封を開け、中味を確かめてから、たいていは処理用の箱の中に放りこんでいく。その箱がいっぱいになったら、まとめてシュレッダーをかけて捨てるのだ。
 その中に、ステラ当てのエアメールが一通あった。消印はロンドン。コスメティック会社の名が記された封筒だ。封筒のすみに【重要なお知らせ】と書いてある赤いスタンプが押してあった。封筒には少し厚みがあったが、そのスタンプもダイレクトメールや案内には良くあるものだったので、僕はたいして気にも止めずに、妻に手渡した。ステラも、「あら、ここは使っていないけれど、重要なお知らせって何かしら?」と首を傾げながら封を切り、中身を取り出している。彼女はまず、手紙のようなものを引っ張り出した。白い紙に何か印字してあるようだ。よくある商品案内のようなたぐいのものだろうと思い、僕はそれ以上気に止めずに、次の手紙にかかっていた。
 小さくあえぐような奇妙な声に、僕は顔を上げた。ステラは手に、何枚かの大判写真のようなものを持っている。彼女はもう一度、ひぃっと吸い込むような奇妙な声を立てた。その顔は唇まで真っ青で、手は震え、ついで身体全体もがたがたと震え出している。手に持っていたものが、ひらひらと床にこぼれていった。何が彼女をそれほど動転させたのか――? まだテーブルにおいてあった最初の紙を、手にとって読んでみた。
【先月、あなたのご主人がロンドンにみえた時の、記念写真を送ります】
 ただ、それだけ書いてある。あの時のセッションの――写真? 記念写真なんて撮っただろうか? 向こうのレーベル側の要望で、プレストンと一緒に写真は撮ったが。訝りながら、僕は床に落ちた写真を一枚拾い上げ、一瞥したとたん、衝撃のあまり、再び取り落とした。なんてことだ。記念写真というのは、そういうことか──。
 どの写真にも、はっきりと僕が映っていた。それも裸で、知らない女たちと一緒に、ベッドの中にいる! 思わず顔が赤くなるような痴態をさらしていた。どこをどう見ても、あの最中。それも写真ごとに相手の女が違っていて、たぶんもう四十代だろう中年の厚化粧女、三十代半ばくらいの派手な女、二十歳前後の女の子、十七、八くらいの若い娘、そして最後は、化粧は厚いが、どうみても男だ。三十歳くらいの男。でも、そんな――。
 あああっ──思わず叫び出したくなる衝動を、僕は懸命にこらえた。あの晩、きっとあの晩に──覚えている。甘い香水の香り、柔らかい肌の感触。覚えているのはそれだけなのだが、そういうことだったのか──身体が冷たくなった。おぞましさに気分が悪くなりそうだ。吐き気さえしてきた。そして連中が言っていた、『面白いことを思いついた。ダメージの追い討ちになるだろう』というのが、最後に男を加えることだったことも、その時悟った。あいつらが言っていたこと――この手はネコが好む。ネコってなんだ、とその時にはぼんやりと聞き流していたが、そういうことか。僕はあの時、四人の女たちと一人のオカマの相手をさせられたのか。連中が見ている前で――。
 本当に吐き気がこみ上げ、僕は思わず洗面所に行って吐いた。しかも、それだけでは飽き足らず、その場面を写真に撮って、妻に送りつけるとは。だいたい、どこで家の住所を――ああ! 僕は自分で頭を殴りつけたくなった。自分で教えたんじゃないか?! プレストンがスタジオで、出来上がったCDと謝礼をあとで送りたいから、連絡先を教えてくれと要望した。最初はマネージメント会社を教えたのだが、それでは一般のファンレターに紛れてしまうかもしれないから、是非個人の連絡先を教えてくれ、悪用はしないからと言われ、うかつにも自宅の住所を教えてしまった。僕はなんてバカで間抜けで、世間知らずだったのだろう! まさかこんな汚い罠だったとは。人を陥れるにしても、これほど卑怯なやり方があるだろうか?
「ちくしょう!」洗面所から戻ると、僕は床に散った写真を拾い上げ、ずたずたに引き裂いて、ごみ箱に放り込んだ。憤りで目がくらみそうだった。「こんな写真を信じちゃだめだ、ステラ! 罠なんだ! 悪質な嫌がらせなんだよ! 僕を信じてくれ!!」
「罠……ですって?」彼女は椅子に座ったまま、青ざめた顔をして、静かに繰り返す。その声は妙に落ち着いているようだったが、あきらかに震えていた。「どういう罠なの? どんな嫌がらせ? 教えてもらいたいものだわ。あなたがちゃんと写っていたではないの。あれは、みんな別人だとでもいうの? それとも合成写真だとでも……?」
「違うよ、そうじゃない。たしかに僕だ! でも、僕はだまされたんだ。陥れられたんだよ! 僕は全然覚えがないんだ!」
「つまらない言いわけはやめて! 男らしくないわ、ジャスティン!」ステラは激しく首を振り、かすれた声で叫んだ。「わたしだってね……わたしだって、あなたがロックミュージシャンだということは、わかっていたわ。でも、あなたはいつでも浮気なんかしていないと言っていたわよね。その言葉を信じていたのに。……まさか、ここまでひどいなんて! わたし、自分の夫がこんなにけがらわしいことをしていたなんて、夢にも思わなかったわ。あなたをずっと信じていたのよ!」ステラは目に涙を浮かべながら、なおも激しく詰る。「だからあなた、あの時に疲れたと言っていたのね。でもわたし、あなたがまさかこんなことで疲れていたなんて、思いもよらなかったわ!」
 僕は妻の憤激の前にうろたえ、なんとか弁明しようと躍起になった。
「誤解なんだよ。僕はそんなことはしてないんだ。あいつらにだまされて……わかってくれ、ステラ。信じてくれ! 僕だって被害者なんだから!」
「もういいわ、ジャスティン! あなたの言いわけなんか、聞きたくない!」
 ステラは手で涙をぬぐうと、やにわに立ち上がった。はずみで椅子が倒れるほどの勢いで部屋を飛び出し、階段を駆け上がっていく。階上の寝室に閉じこもるつもりだったのかもしれない。でも、乱れた気持ちが足をもつれさせたのか、最後の段を踏み外した。
「きゃあ!」悲鳴とともにステラはつんのめるように前に倒れ、うつぶせの姿勢のまま階段を滑り落ちていった。踊り場の手すりにぶつかり、一回転した後、今度は横向きに滑って落ちていく。最後は壁にぶつかり、反動で床に叩きつけられた。まるで悪夢を見ているようだった。
「ステラ!」僕は茫然と立ちすくみ、次の瞬間、しゃにむにそばに駆けよった。
 ステラは両手を伸ばし、身体を横に曲げて倒れていたが、「うっ」と短くうめいて、身体を起こそうとした。
「痛い……痛い……」ステラは振り絞るような声をもらした。その場につっぷしながらお腹に手をやり、泣きそうな叫びをあげている。
「赤ちゃん……赤ちゃんが。いや! 助けて!」
 スカートの下から一筋の血が流れ出し、床の上に小さな池を作っていった。
「動かないで! 今、救急車を呼ぶよ!」
 僕はあわてて電話に飛びついた。物音で気づいたのだろうか、トレリック夫人が出てきて、「お嬢さま! まあ、どうなさったのですか!?」と、声を上げていた。階上で、クリスの泣き声も聞こえる。騒ぎで目がさめてしまったのだろう。
「階段から落ちてしまったんだ。今、救急車を呼んだ。トレリックさん、僕はクリスを見てきますから、ステラを頼みます。でも、動かさないように。それと、パーレンバークさんに連絡をお願いします」
「まあ、なんと言うことでしょう……お嬢さま、お気をたしかに」
 夫人はステラの傍に行き、その手を取りながら、青ざめた顔でつぶやいている。
 僕は階上に駆け上がり、泣いているクリスを抱き上げてなだめながら、携帯電話で実家へかけた。電話に出た母は一瞬絶句したように黙った後、励ますように言った。
「落ち着きなさい、ジャスティン。ステラさんを動かしてはダメよ。そのままの姿勢で寝かせて、毛布をかけて暖かくして、出来るだけ動揺させないように、励ましてあげて。エヴァンス先生に連絡を入れておくから、救急車が来たら、うちへ来るように言ってちょうだい。あなたもクリスチャンを連れて、病院へ行ってね。わたしとジョイスも行くから、クリスはうちでしばらく預かりましょう」
「ああ、お願いするよ、母さん」
 僕は泣いている息子の頭をなでながら、階下へ降りた。救急車のサイレンが、遠くから聞こえてきた。

 ステラは病院の緊急処置室へと運び込まれ、産婦人科の主治医エヴァンス先生と、外科の医師が来た。クリスは母と一緒に来たジョイスとホプキンスさんが、すぐに実家へ連れて帰ってくれた。トレリック夫人から連絡を受けたらしいパーレンバーク夫妻も、血相を変えて病院に駆けつけてきた。
「なんだってこんなことに……奥さん、娘は大丈夫なのでしょうか?」義父が母に向かって、咳き込むように聞いている。
「階段から足を滑らせて、落ちてしまったようなんです。それも、かなり上のほうから。先生方が今診察と治療をしていますが、流産の危険があるそうなんです」
「おお、なんてこと。かわいそうに……」義母は泣き崩れていた。いつもながら義父母は僕のことは完全に無視だが、この場ではかえってありがたかった。下手に事情を説明しようものなら、逆上した二人に殺されかねない。それに僕自身、義父母のことなど、ほとんど眼中になかった。ただステラとお腹の子供が気がかりだった。

 二時間あまりがたった後、ステラがストレッチャーに乗せられて、処置室から出てきた。意識はなく、青白い顔でかたく目を閉じている。左足の下腿部に添え木が当てられ、包帯が巻いてあった。右腕には点滴の針がつけられている。
「ステラ!」僕は呼びかけた。
「ステラ、ステラや、おお!」パーレンバーク夫妻も取り乱したさまで声をかけている。
「静かに……これから産婦人科の病室へ搬送しますから。その後でご説明しますので、第一面談室でお待ちください」エヴァンス先生が僕らを見て、そう制した。
 十分ほどして、面談室で待っている僕らの前に、先生は戻ってきた。相手が腰を下ろすのを待って、僕は問いかけた。「お腹の子供は大丈夫ですか、先生?」
 それが、一番の気がかりだったのだ。
 医師はしばらく僕をじっと見、それから首を振った。
「いいえ。大変お気の毒ですが、胎児を助けることは出来ませんでした。落ちた時の、衝撃のせいでしょうか。処置室の超音波で見た時には、すでに子宮壁からほとんどはがれていて、心拍も確認できませんでした。まだ九週の半ばなので小さいですが、男の子さんでした」
「その子を箱に入れて、私にください。できたら、うちのお墓に入れたいので……」母が静かな声で言った。パーレンバーク夫人は、その傍らですすり泣いている。
「わかりました。私もそう思って、持ってきました」
 エヴァンス先生は白衣のポケットから小さな白い木箱を取り出し、母に手渡した。母は両手で包むように、その箱を受け取っている。
「流産の処置はしましたので、数日ほど安静にしていれば、身体は回復すると思います。処置時に麻酔をかけましたので、今は意識がないですが、もうすぐ目が覚めるでしょう。万一、三十分たっても覚めないようでしたら、ご連絡ください。それから、左足の腓骨にひびが入っていました。そちらは、全治三週間くらいでしょう。とりあえず五、六日入院していただいて、回復状況をチェックしたいと思います。順調ならば、あとは自宅療養で大丈夫でしょう」
 先生に少し頭を下げ、部屋を出たところで、僕は思わず廊下にへたりこんだ。にじみ出る涙を堪えきれない。お腹の子を助けることはできなかった。僕らの二人目の子供、クリスの弟は殺されてしまった。あの男たち──名前も知らない、顔もはっきりとわからないあの連中の、ほんの余興とやらのせいで、僕らの希望、罪もない命が殺された。
 胸の中は、憤怒で煮えたぎる思いだった。クリスの弟。来年の夏に生まれてくるはずだった、小さな命。それが、まだほんの数センチの人型に成長したところで、無残にも消されてしまった。あいつら──許さない。一生、許さない。どんなことをしても見つけ出して、復讐してやる! ステラを悲しませ、赤ん坊を殺し──そのことで、彼女はまたどれほど嘆くだろう。二人目の子供は、ステラの夢だった。一人っ子だった彼女は、自分の子供には兄弟を持たせたいと、いつも願っていた。そして授かった待望の命だったのに。
 でも、僕自身にも落ち度はなかったのか――そんな理性の声がする。たしかに悪いのはあいつらだ。でも、僕がもう少ししっかりしていたら、こんな悲劇は招かずにすんだのではないのか、と。ああ――僕は思わず震えた。そうだ、僕自身にも罪はある。今、バンドを取り巻く状況が危険であることは、わかっていたはずではなかったのか? 一昨年の暮れにひどい脅迫をされ、去年も妨害が相次いだというのに。それなのにどうして、あれほど無防備でいられた。ディーン・セント・プレストンが、かつての憧れの人だったからか。あの人は信頼するに足りない人だと、理性のどこかで、そう判断を下していたのに。それなのに、あの人がジャケットを着せかけてくれるという行為に対し、微塵も警戒を持たず、案外良い人なのかも、などとおめでたいことを思っていた。だから、スタンガンでなど撃たれたのだ。
 スタンガン――テイザーで体の動きを封じ、薬を注射する。それは一昨年の春、エアリィがやられたのと同じ手口だ。彼の場合は薬に対してのショック反応が起きて倒れ、相手が驚いて、そして死んだかと思って、放置して逃げたわけだが――僕はその一部始終をロブから話を聞き、知っていた。なのに、それが自分に降りかかってくるなどとは、考えもしなかった。まさか同じ手をやられるとは。相手も違うから、それに自分は直接のターゲットではないからと、油断しすぎていたのだろうか。
 あの手紙自体も、不自然な点がたくさんあった。良く考えてみたら、あの化粧品メーカーは、イギリスのブランドじゃない。たしか、本社はアメリカだったはずだ。なのに消印はロンドン。それだけでも変だが、さらに宛名が封筒にダイレクトに印字してあった。普通はシールに打ち出して貼るものなのに。そして切手が貼ってあった。エリザベス女王の、イギリスの切手だ。ダイレクトメールなら、料金は別払いで切手がないのがほとんどだ。第一、海外から航空便で来るダイレクトメールなんて、聞いたことがない。それなのに、ただ化粧品メーカーの名が入った封筒だったというだけでダイレクトメールだと思い込み、不審に思って中身を透かしてみることすらしなかった僕は、なんてバカだったのだろう。
 そしてあの時、どうしてもう少し、ステラの動揺の大きさを思いやれなかったのだろう。ただ、自分がはめられたことへの弁明に躍起になって――妻には言いわけにしか聞こえなかったことは、今になってみれば、よくわかる。おまけにステラは普通の身体ではなかった。かなり神経が高ぶりやすい状態になっていたのに。
 でも、どんなに後悔しても、すべては遅い。クリスの弟、生まれるはずだった子供は、もう帰ってこない。そしてステラは、深く傷ついたステラは、僕を許してくれるだろうか。この痛手から、立ち直れるだろうか。

 ステラの病室に行くと、彼女はちょうど意識を戻したところだった。麻酔の余韻か、どこかぼんやりとした視線で天井を見ていたが、やがて記憶が戻ってきたのだろう。彼女は僕を見たとたん硬い表情になり、ふいっと目をそらせた。そして僕を見ないまま、呟くように聞いてくる。
「わたしの赤ちゃん……お腹の赤ちゃんは、大丈夫でしょう? そうよね……」
 僕は一瞬、返事が出来なかった。傍らで義母が鼻をすすり上げ、「かわいそうに……」と、呟いている。
 ステラの顔色が変わった。紙よりも白くなり、目を見開いている。
 僕は妻の手を握り、首を振った。そして言わずにすんだらと願った言葉を、絞り出した。
「だめだった。ステラ……ごめんよ……」
 ステラは、さらに目を大きく見開いた。耳にした言葉が信じられないように。
「だめ……?」彼女は呆然とした表情で呟く。「わたしの……赤ちゃん……」
 妻はぶるっと激しく震え、甲高く声を上げた。
「うそよ! うそ! いや! そんなの、いやよ!!」
 青い目が涙で潤んでいく。身体中を震わせ、ステラは声を上げて泣いた。「うそだと言って! ねえ……いやよ! 返して! わたしの赤ちゃん……返して!! お願い!!」  ステラは身もがいて、ベッドから起きあがろうとした。義母がその肩に手をかけ、背中をなでながら、なだめている。「おお、かわいそうに、かわいそうに、ステラ。でも今、あなたは絶対安静なのよ。そんなに興奮してはいけないわ」
「そうだよ。落ち着いて、ステラ」
 僕は妻の手を強く握った。その手を、ステラは激しくふりほどいた。
「触らないで、ジャスティン! わたしに触らないで! あなたの顔なんて、見たくない! 出ていって!!」
「ステラ……」
「あっちへ行ってよ!」ステラは僕をにらみつけ、やにわに枕を投げつけた。
「あなたのせいよ、ジャスティン! みんな、あなたのせいだわ! わたし、一生許さない!!」
 彼女は肩を震わせ、再び声を上げて泣きながら、ベッドに突っ伏した。両手で寝具を叩き、頭を振って。一度別れてしまう前に見せた号泣より、はるかに激しい勢いだった。
「ステラ……」僕はもう一度彼女の名を呼び、その場に立ちすくんだ。どうしていいか、わからない。取り乱した妻の手を取り、抱きしめ、慰めたくても、彼女は激しく僕を拒否している。
 義父がコールボタンを押したらしく、看護師がやってきた。そして医師が呼ばれた。エヴァンス先生ではなく、若い当直医だ。ステラをなだめてベッドに寝かせ、鎮静剤を注射して眠らせた後、僕らを振り返った。
「患者を興奮させてはいけませんよ。回復が遅れてしまいますから」
 医師と看護師が退出した後、義父がじろりと僕を見、顎をしゃくった。
「そういうわけだ。あんたの病院の先生もおっしゃったとおり、今はステラを興奮させないことだ。出ていってもらおう。あの娘も自分で言った。出ていけ、と。あんたがここにいると、かわいそうにステラは余計に興奮してしまうようだからな」
 悔しいが、返す言葉がない。僕は唇をかみ、拳を握りしめた。どうして、こんなことになってしまったんだ――僕はベッドに眠るステラを見やり、ため息をついた。今は義父の言うとおり、出ていくしかないと思いながら。




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