The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

五年目(5)





 案内された食堂のテーブルには、真っ白いレースのテーブルクロスがかかっていて、金の燭台にろうそくが燃え、ベネチアグラスの器に活けた、みごとなランの花がこんもりと飾ってあった。クロスの上に、極上の食器に盛られた料理がずらりと並べてあったが、その多いこと、僕は思わず圧倒されてしまった。こんなにたくさんの料理が一度に並べてあるのは、みなが集まるパーティくらいでしか、お目にかかったことがない。フォアグラやキャビアなど珍味のオードブル、かきのクリームスープ、詰め物をしたチキンの丸焼き、ヒラメのムニエル、メロンと生ハム、グリンピースとベーコンのいためもの、レタスのサラダ、サーモンのマリネ、魚介をふんだんに使ったパスタ、きれいに盛られたカットフルーツ、カスタードパイにフルーツケーキ、淡雪のようなゼリー、焼きたてのパン。これで、本当に二人分なのだろうか。
 朝しか食べていなかったので、僕もかなり空腹だったが、見たとたんに、お腹がいっぱいになってしまったような気分がした。それでも出来るだけ食べた。イギリスは食べ物がまずいと言うが(実際、今までハズレに当たったことは何回かあるが)、しっかりと味付けがしてあって、でもくどくはなく、どれもおいしかった。プレストン氏は盛んな食欲で、僕の二倍は食べている。給仕をしてくれる家政婦さんも、ちょっと無愛想ながら洗練された態度で、影のように控えていた。
 もうこれ以上入らないまで料理を詰め込むと、コーヒーを飲んだ。テーブルには、まだ半分近くも食べ物が残っている。
「ごちそうさまでした。本当においしかったです。ありがとうございます、こんなにしていただいて。でも、ずいぶん残っちゃいましたね」
 僕はカップをテーブルに置きながら礼を述べた。
「そうかい。それは良かった。でも、もう少し食べないかい?」
 相手もコーヒーカップを取り上げながら、微笑んだ。
「いいえ、もうどこにも食べ物の入る場所は、ないですよ」
「そうかい。君は小食だね」
 小食だって。これでも全部の料理を賞味して、普段食べている量の倍は食べたというのに。こんなに食べたのは、初めてなくらいだ。
「僕は食べることが楽しみでね」プレストン氏はカップを片手に、言葉を継いでいた。
「若い頃は、あまり太らないようスタイルに気を使ったものだが、この歳になると、もう開き直りさ。ルックスでは、若い子にとうていかなわないからね。あまりに巨漢になってはみっともないが、まだこのくらいなら、押し出しが良い程度ですまされるだろう?」
「ええ……そうですね」僕は笑顔で頷いたが、内心では(そうかなあ……?)と、首を傾げている。
「残った料理は使用人たちが食べるさ。それとファングとね」
 彼は料理をおおざっぱに皿に盛ると、足下に座っている大きな黒いレトリーバー犬に与えながら笑った。この犬はおとなしいが、あまり愛想のない感じで、僕が部屋に入った時からさっきまで、床でまどろんでいた。が、餌がもらえそうだとわかると、いつの間にかのっそりと近づいてきて、待っていたのだ。
「こいつはいい奴だよ。決して裏切らないからな」彼は犬の頭を撫で、呟くように言った。

 やがてマントルピースの上にかかっている手の込んだ美しい鳩時計が、六時を告げた。切り上げるには、良いタイミングかもしれない。僕は立ち上がった。
「今日は、どうもありがとうございました。すっかりご馳走になってしまって。本当に素晴らしい料理でした。それに、とても立派なお宅ですね。今日は、楽しかったです」
「もう帰るのかい? じゃあ、車で送っていくように運転手に言っておくよ。それから、君の上着を取ってこよう」
 プレストン氏は立ち上がって、食堂を出ていこうとする。
「えっ、そんな。あなたが手ずからとって下さるなんて……」
 てっきり使用人にやらせるだろうと思っていた僕は、意外な感じとともに、恐縮した。考え方や価値観はまるきり違うが、案外この人は良い人なのかもしれない──そんなことさえ思った。
 プレストン氏はパーラーのハンガーポールにかけてあった僕のジャケットを取ってくると、近づいてきた。着せかけてくれるというのだろうか? 彼はふわりとジャケットを広げ、僕の肩口にかける。と、何かが後ろから首筋に押し付けられた。
「────!!」
 瞬間、激しいショックを感じた。まるで雷に撃たれたようだ。衝撃で身体が前に飛ばされた。声を上げる余裕すらない。体が激しく痺れる。動けない。僕はたまらず、うつ伏せに床に倒れた。と、誰かが(他には誰もいなかったから、プレストン氏だろう)僕のシャツをつかみ、乱暴な動作で体を反転させた。視界に、その顔が入ってきた。にやにやとした笑いを浮かべ、右手を振り上げる。その手に何か握られていた。黒いなにか、その先に青白い火花のような、電流のような線が見える。スタンガンだ――彼は手を振り下ろし、僕の右肩の下、胸の上あたりに、それを押し当てた。再び激しい衝撃と痛みに見舞われ、僕は思わず叫んだ。しかし、声にはならなかった。身体が激しく痙攣するのを感じた。最初の衝撃も、これだったのだろう。上着をとりに行って、僕に着せかけようとしたのは、武器を隠し持っていることを悟られず、僕に近づくためだったのか。でも、なぜ――なぜこの人は、こんなことをするんだろう──。
「効くんだね、これは。なかなか面白い」プレストン氏は残忍な笑みを浮かべた。スタンガンのスイッチを切り、ベストのポケットにねじ込むと、僕の髪をつかみ、ぐいっと引っ張った。髪が引っ張られる痛みを感じたが、どうしようもない。
「動けないだろう? そう、五分くらいは、ビリビリして動けないはずだ。どうだい、くらった感想は?」
「あっ……」僕はかろうじて声を搾り出した。でも、ほとんど声になっていない。
「どうして、なん、ですか……なぜ……?」
「まあ、君に直接恨みがあるわけじゃないんだがね。でも僕は、君のことが好きじゃないんだ」彼はにやりと笑い、僕の髪から手を放した。束ねておいた髪がほどけて、垂れ下がるのを感じると同時に、頭も床に落ちた。でも幸いふかふかの絨毯の上なので、あまり衝撃は感じなかったが。
「いい眺めだね。さっきまで僕に、生意気に偉そうに話していたけど、今はこのざまだ。君のような優等生は、本当にうんざりだ。イライラする」
 彼はポケットに手を突っ込んだ。まさかもう一度、テイザーで撃たれるのだろうか――思わずぞっとすくみ上ったが、どうしようもなかった。しかし、彼が取り出したのは別のものだった。そういえばスタンガンを突っ込んだのとは、別のポケットだ。それは黒くて平たい、小さなケースのようなものだった。
「そんな優等生に、ご褒美を上げよう」
 プレストン氏は床に投げ出された僕の左腕を持ち上げ、カフスをはずして、シャツを捲り上げた。そして僕の腕を自分の膝の上に置いたまま、床に置いたさっきの黒いケースを取り上げ、中から何かを取り出した。小さなアンプルと注射器――彼はアンプルのふたを開け、注射器の針カバーを外してその中に突っ込み、中身を吸い上げていく。
「!」──なんの注射だ!? 恐怖と不安に僕はぞっとすくみあがり、必死に逃れようともがいた。だが、身体が動かない。強い痺れが自由を奪っている。
 プレストン氏は膝の上に置いた僕の腕を左手で押さえ、右手に注射器を持って、剥き出しの腕に近づけてきた。僕は思わず震え、抵抗しようとした。ああ、でも──身体が動かない。
「心配ない。毒じゃないよ。うんと気持ち良くなる薬だ」
 彼は僕の腕に注射針をつきたてた。ピストンが押し込まれ、中の液が体に入りこんでくる。まもなく、僕は体中の力が抜けるような、心地よい脱力感に見まわれた。まるで重力も消えたような感覚で、ふわりと浮き上がり、そして柔らかく沈み込むような、そんな気分だ。それからゆっくりと、果てしなく沈んでいく。頭の中にだんだんと白いもやがかかっていくようだった。電撃のしびれが消えかけても、身体はほとんどいうことを聞かない。重く、だるく、何をする気も起こらない──。
 あっ、これはきっと、ドラッグだ――そう悟った瞬間、けだるい快楽に押しつぶされそうになっていた心にかろうじて残っていた理性が、悲鳴を上げた。冗談じゃない、いやだ! だが、けだるさはどんどん強くなる。頭の中が激しい陶酔でしびれていく。もう何も考えられない。このあと何が起ころうと、どうなろうと、もうどうだっていい。心の奥底には、あくまでいやだと叫びつづける僕がいる。でもそれ以上に圧倒的なけだるさと快感が、思考も意識も奪い去っていくようだった。
(ごめん……ジョアンナ姉さん)ふと、そんな思いが湧いた。自分の意志に反してとはいえ、誓いを破ってしまったと。それが最後の理性の反抗だった。薄いラベンダー色のもやの中に、身も心も沈みこんでしまったようだった。

 まわりの話し声が、かすかに聞こえてくる。遠くから響くように。
「ふん……ずいぶん、たわいなかったな」そう言っているのはプレストン氏。パンパンと手を叩く音がし、すぐに複数の足音が聞こえてきた。誰か入ってきたのだろうか。
「上首尾ですね。ありがとう、プレストンさん。一人で手こずるようなら、援軍にかけつけようと思ったんですよ。でも、案外簡単に行きましたね」
 聞き覚えのない声が、聞こえてきた。
「ああ。まったく警戒していなかったからな。甘いもんだよ」プレストン氏は答えている。 「それでは、彼をお楽しみにつれて行ってあげましょうか」
 そう言っている声には、どことなく聞き覚えがある。どこでだろう──?>
「これからどうするのかい?」プレストン氏が問いかけるのが聞こえた。
「そうですね。清廉潔白なバンドのメンバーをジャンキーにしてやりたいところですが、二、三日監禁して薬漬けにしない限り、確実ではないですね。でもローディーが一緒に来ている以上、それは無理でしょう。まあ、我々ものこのこ一人で来るはずはないと思いましたが。でも見た感じ、あのローディーは遊び好きそうですし、今もご主人をほったらかして、友達と飲んでいますよ。あっちにも一人張り付けてあるので、いつ帰るかわかりますが、これから別の友達が出演するライヴハウスへ行って、それからまたみなで飲むようなことを言っていたそうですから、夜中までは帰ってこないでしょうね。お供があの男だけで、マネージャーやセキュリティが来なくて、良かったと思いました」
「まあ、そうだな。ずっとお供に張り付かれたら、僕も機会がなかっただろうからね。まさか今の彼のステータスで、ローディーと二人だけで来るとは思わなかった。てっきりぞろぞろと取り巻きが来るかと思っていたよ」
「だから言ったでしょう、プレストンさん。エアレースというバンドは、そういう一般的なスターがやるようなことは、ほとんどやらないんですよ。さすがに単独行動はあまりないでしょうが。その分、我々としては付け入る余地はありますがね。ですからこうやって、身柄を確保できたのですから」聞き覚えのある声が、そう言っていた。
「それで、どうするんだい? 薬漬けが無理なら……」
「でも、種はまくことができますよ。一度やった薬の快楽は、脳が覚えているものです。だからみんなが、手放せなくなるわけですからね。でも、それだけではないんです」
 男は声を潜めた。耳うちでもしているのだろうか。声が小さすぎて、僕にはその内容は聞こえなかった。
「ほう……それはそれは」プレストン氏は、どことなく面白がっているような、喜んでいるような声を上げていた。そして彼は少し黙った後、続けた。「じゃあ、僕も一緒に行って良いかい? 見てみたいんだ。君たちに協力したんだから、いいだろう?」
「ええ。別にかまいませんよ。あなたも参加しますか?」聞き覚えのない二人目の声が、そう言った。
「いや、参加は遠慮しよう。見物だけさせてくれ」
「いいですよ。よろしければ、一人お好みの子を回しましょうか? 私たちは見ませんし邪魔もしませんから、別室でお楽しみになれば」聞き覚えのない二人目の声は、笑いを含んでいる。
「それは悪くないな。見物のあとに、そうさせてもらうか」プレストン氏も、クックと笑っているらしい。
 身体が持ち上げられるのを感じた。抗う気力は起きなかった。すべてがもうろうとして、すっぽりともやに包まれたような気分だ。どのくらいの時間がたったのかも、よくわからない。

 次に覚えているのは、ベッドに寝かされている感じだった。
「こうして見ると、わりといい男だね」
 頭の上でそんな声がする。さっき聞いた最初の声だ。
「こいつは過敏体質ではないんだね」別の声が、そう言っていた。
「そう。普通なようだね。だからきっと、よく効くだろうよ。そもそも薬品過敏なんて、そうはないさ。あいつくらいだろう」最初の声が言う。
「さてと、それで、いつからお楽しみが始まるんだい?」プレストン氏は、どことなく興奮しているような声だった。
「そうですね。あと一時間ほどで用意ができますよ。それまで、そこの椅子にでもお座りください。何か飲み物でもお持ちしましょうか」二人目の声がそう言った。
 しばらくの間――カチャカチャというグラスの触れ合う音。ほんの少しだけ、声が遠くなった。それでも言葉は聞き取れる。
「それにしても、ずいぶん手の込んだことをするんだね。君たちのターゲットは、あの子だと思っていたんだが」プレストン氏の声が再び聞こえた。
「ええ。そうですよ。まあ、これはほんの余興です。でも、トリガーになりうるという点で、このジャスティン・ローリングスは有効な駒だと思うんです。このことはきっと、あとあと彼に精神的なダメージを残すと思います。なにせ、こいつの女房は箱入り娘ですからね。そうして精神状態が悪くなれば、それだけフラストレーションも起きやすくなるし、内乱もけしかけやすくなるでしょう。それに私はエアレースというバンド自体が嫌いなんです。むやみに優等生で、気分が悪くなる」
「それは僕も同感だ。まったく、いやみなくらい善良なんだからな」
「だから、その一角から、ちょっと崩してみたかったわけで」
「なるほど。でも内乱というと、やっぱり分裂ねらいかい?」
「そうですねえ……正直に話しましょうか。分裂は意味がないです。最初から狙っていません。その気になれば、インスト陣など取り替え可能だと思うからです。もちろん、多少はダメージにはなるでしょうが……ことに、今はシルーヴァ・バーディットがいますからね。分裂させたところで、乗り換えは簡単でしょう。知っていますか? アーディス・レインとシルーヴァ・バーディットは幼なじみで、夏のフェスティヴァルで再会した時、バーディットが盛んにラブコールを送ったいう話を」
「ほう。それはまた、意外な組み合わせだね」
「ええ。でも実際問題としては、ジャスティン・ローリングスよりシルーヴァ・バーディットの方が、はるかに扱いにくいですよ。バーディットはもと殺人犯だし、天涯孤独で、妻子もいない。あの男が大事にしているものは、二人の仲間と、アーディス・レイン――あの男にとって彼は、両親とともに農場で暮らしていた、幸せだった時代の象徴らしいです。それゆえ、守りたい対象でもあると。まあ、さすがに恋愛対象ではないとは思いますが。そういう趣味はなさそうですからね、バーディットも。それでも、ジャスティン・ローリングスより、はるかに愛着がありそうですよ。ですから、バーディットを手駒にすることは出来にくいでしょう。それよりは、まだ現状の方がいい」
「それはそれは。あの男の事情は良く知らないが、一癖ありそうだとは思ってはいたよ。たしかにこの子のほうが、はるかに扱いやすそうではあるね。それなら、僕が分裂をけしかけたのは、意味がなかったな」
「いや、それはそれでいいですよ。後々の火種の一つになるでしょうから」見知らぬ声の一人が、クックと笑っている。
「火種にして……でも、分裂は狙わないのだろう?」
「そう。我々のターゲットは、アーディス・レインです。あなたがおっしゃったように。あのモンスターを潰すことが、最終目的なんですよ」
「やっぱりそうか。あの子はたしかにモンスターだな。天使の顔をしたモンスターだ。彼がモンスターでなければ、好みのタイプなんだがね。モンスター化する前に、食っておきたかったな。まあ、あの年齢では、ばれたら面倒だったろうが」
「そう言った人は、私の知っている限りでは、あなたでたぶん十五人目くらいですよ、プレストンさん」聞き覚えのある声が、くぐもった笑いを漏らしていた。
「残念ながら、年齢で躊躇している間に、モンスター化しちまいましたがね。あの時に○×が潰してくれたら、と今になって思いましたよ」
「ああ、連中か。あそこは女関係も派手だが……」
「そうですね。グルーピーを百人集めての百人斬りパーティは有名ですが。メンバースタッフ関係者、総勢数十人とグルーピー百人の、乱交パーティですよ。あなたがたは、やったことはありますか?」
「そこまで派手なのは、さすがにないな。バンドの全盛期には、たくさん女の子を呼んで、薬もたっぷり仕込んで、朝まで乱痴気騒ぎをしたことは何度もあるが。次の日のギグがある場合は、響くからダメだがね。連中はまあ、スケジュールは緩いからな。あれだけの大物だとスタジアムで客を集めて、一週間に二、三回やれば事足りる。良い身分だと思うよ」プレストン氏は少し嘆息するように言い、そして再び聞いていた。「で、まさか男の方も百人斬りをしているのかい、連中は?」
「いや、そっちは少数派ですからね。バイも含めて、メンバーと五十人近くいるスタッフの中でも、十二、三人くらいしかいません。まあ、一般的な確率からすれば多いでしょうけど。そのうちの五人は女側なので、たくましい筋肉男が好きで、それも別口ですがね。だが主要メンバー二人が男側で、好みのタイプに目がないのが大きいですね。一人はバイで、一人は専科です。誰が誰とはいいませんが」
「いや、なんとなく僕には見当がついたよ」プレストンさんは苦笑しているようなトーンだった。
「連中のターゲットにされると、悲惨ですよ。メンバー二人含めて、かなりSというか、極限状態を超えるまでボロボロにするのが、無上の喜びという奴らですから。おかげでターゲットにされた方は、身体的な回復に一週間くらいかかるという噂です。連中はもともと一か月に一週間の休みを入れていますが、そのラストに、打ち上げと称してやるんですよ。そのターゲットがサポートだった場合は」
「ほう……」
「まあ、犠牲者はサポートのバンドだけではなく、そのスタッフやローディーだったり、若い男のファンだったりもしますが。気の利いたサポートバンドだと、マネージャーやメンバーが、あらかじめそれ用の要員を同行させる場合もありましたね。基本は自分たちのスタッフに命じて、誰か適当な男の子を連れてくるんですが、サポート側が用意していたりすると、大喜びするんです。実際、連中がサポートを選ぶ基準は、タイプがメンバーやスタッフの中にいるか、いない場合はそれを提供できるか、それが最終的な決め手になるらしいですから」
「それはそれは……まあ、サポートなんて、ある程度動員上乗せが期待できる知名度がなければ、ほとんどしがらみとコネで決めているようなものだからね。我々の場合もそうだ。でも、それで決めるとなるとは……ああ、そうか。主要メンバーが、そっちだからか」
「ええ、そうです。サポート側にすれば、おいしい話ですよ。ターゲットにされさえしなければ、彼らのスタジアムツアーに同行できるし、ギャラも結構高い。サポートにしては、ですよ。そして百人パーティのお相伴にもあずかれる、と」
「ハハハ、とんだスケープゴートだね。そのターゲットは」
「そう。ターゲットの方は悲惨ですけれどね。たいていの場合、精神にも異常をきたして、PSTDになったりアルコール中毒になったり、自殺したものも二人くらいいたはずです」
「おやおや。でも連中と彼らは、接点はあったのかい?」
「四年前のツアーで、サポートに抜擢しかけたんですよ。まだデビューした翌年だったんですがね、エアレースは。でも、好みにどストライクだったために食指を伸ばしかけたんですが、土壇場になって『でも十五は、やっぱりさすがにまずいんじゃないか。万が一訴えられたらシャレにならないから、やめとけ』と、リーダーが言い出したところに、ちょうど対立候補が、好みの子を差し出してきたんです。十九歳で、新しく入ったギタリストの弟だと。それでまあ、次の機会には年齢問題もクリアされるだろうから、今回は代替品で我慢するか、と、連中もそれで手を打ったらしいですよ」
「代替品、というのもひどい言い方だね」プレストン氏は笑っているようだった。
「その後は悲惨でしたけどね。スケープゴートにされたその子とその関係者は。ツアーが始まって二か月くらいたったころ、彼は錯乱して兄を刺したらしいです。致命傷にはならず、全治一か月くらいの怪我で済みましたが。その子はそのまま精神病院に入院となり、二年前に退院してからは消息不明です。誰か有名どころに愛人として囲われているという噂もありますがね。もちろん、ツアー自体は何もなかったように続けられ、兄は急病ということにして脱退させ、代わりのギタリストを入れ――しかも念の入ったことに、これもタイプに近い若い奴をね。そいつを新しいスケープゴートに差し出したのです。弟に刺された兄の方は、メンバーがそんな目的で弟を同行させたということは、まったく知らなかったらしいですね。ツアーが始まっても、他の連中にうまくごまかされて、弟の状況を知らなかったと。だから弟にいきなり刺されて、後で事情を知らされた兄は、大変なショックを受けたそうです。それでノイローゼに近い状態になってしまい、アルコールに逃げ、一昨年の春、酔っぱらった状態で車を運転して、崖から落ちて死んでしまいました。新しいスケープゴートの方も、ツアーが終わるとすぐに脱退していますね。今もカウンセリングに通っているという話です」
「おやおや、それは気の毒に。本当に悲惨だね」
「○×も去年ツアーをはじめたんですが、前回『次のツアーでチャンスをあげる』とマネージメントにも言ったらしいですが、もうあそこまでモンスターになると、無理だと思ったようです。もう乗ってこないだろう、と。それに共演する勇気もないでしょうしね。××の二の舞になりますよ」
 ××はあれか――最後のサポートツアーのヘッドライナー。一ヶ月も持たずに中断せざるをえなくなってしまった、あの人たち。あの後の夏、彼らは仕切り直しツアーを始めたが、興行成績はボロボロだったらしい。そしてその翌年に、解散してしまっていた。話し声は相変わらず続いている。
「こんなことになるのだったら、あの時多少リスクを冒しても、思いを遂げておけばよかった、などとメンバーたちは悔しがっていたそうですが、後の祭りですね。我々も、まったく同感でしたよ。なんで強行して、モンスターになる前に潰してくれなかったのだとね」
「そうだなぁ、たしかに。でもみんな、つい年齢でビビると。そこいらの名もない一般人ではなくて、そこそこ知名度もあったわけだし……その危険を冒した勇気のあるやつは、いなかったのかい?」
「我々の知っている限りでは、いないですね。近いところで、○○くらいでしょうが、あれはもう十六になっていて、あの最初のモンスターアルバムがリリースされて、一か月ちょっとたったころですよ。でも、未遂に終わったというか、媚薬系ドラッグにアレルギーを起こして、ぶっ倒れたらしいです。いわゆるアナフィキラシー・ショックという奴ですかね。それで驚いて部屋に放置したら、奴らのマネージャーが駆けつけてきて救出されて、病院沙汰になったそうで。我々がその話を知ったのは去年なんですが、マネージャーに携帯電話で助けを求めた、という話を聞いて、あとで連中のマネージャーに言ったんですよ。なんて間抜けな。せっかくのチャンスだったのに、なぜ携帯を手の届くところに置いたんだ、と。そうしたら向こうが言うには、いや、そんな間抜けなことはしない。自分もこれはいい機会だと思ったから、そのまま手遅れになるように別の部屋に連れて行って、部屋の電話のプラグを抜いてから、そこのベッドに寝かせた。携帯電話は上着のポケットに入ったままだったから、上着ごとその部屋のクロゼットに入れた。ベッドから起きて、歩いてそこまで行かなければ、届かないはずだ、と」
「ほう、じゃあ、なんとか歩けたのか。それでそこから電話をかけて倒れた、と」
「いや、それなら部屋の床に倒れているはずですが、聞いた話では、ベッドに寝たままだったらしいですよ。それにあの状態で、歩くのは無理だったはずだと。状況を考えれば、途中で気づくことも難しいですよ。しかも最初に倒れた部屋から変わっているのに、マネージャーはそこに迷わず駆けつけた、と。まあ、これもミステリーですね。おかげで、ブレイクしかけた途端に薬で死ぬ、という最高のシナリオを逃してしまったわけです」見知らぬ声は、ため息を一つついたようだった。「それにしても、本当に厄介な存在ですよ、アーディス・レインは。今まであれほどすさまじいモンスター・アーティストになんて、会ったことがない。たいていはね、ブレイクとか、売り出しは市場の戦略なんです。ある程度のプッシュがなければ、火はつかない。いや、プッシュしてもダメな例は多々ありますけれどね。でも彼は、そういう市場戦略を全部無効にしてしまうほどの力を持ってしまっている。いや、それが自分の勢力範囲内なら万々歳ですが、我々は被害者側ですからね」
「我々のほとんどが被害者側ではないのかい? 向こうのマネージメントとレーベルだけだろう、ほくほくしているのは」プレストンさんの声も、苦々しげだった。
「そうなんですよね」見知らぬ声は、再びため息をついたようだった。
「なんとかしなければならない、というのが我々の総意です。どんな手を使っても、と。一刻も早く抹殺しなければなりません。被害がこれ以上広がらないうちに。もう周りに手を出すとか、傷つけるとか、そんなまだるっこしいことではだめです。物騒な話ですが、真面目に言って、これ以上走り続けるのを止めるためには、もう殺すしかないんです。死んだら伝説化はするかもしれませんが、もう新しいものも作れないでしょうから、これ以上の被害は防げます」
「まあ、そうだが……本当に物騒だね。毒殺でもするのかい? それともヒットマンを雇うとか?」
「毒殺はダメでしょう。警察が出てくる。我々は犯罪者にまでは、なりたくはないです。根回しが効けばいいけれど、向こうの勢力もばかにはなりませんからね。薬の事故に見せかけて、というのも、薬品アレルギーがわかっているだけに、不自然になりますし。ヒットマンは、そうですね……正直に言いましょう。一度試したことがあります。でも、失敗でした」
「ほう……」
「あいつは身体能力も、化け物級のようで……」
 再び意識が遠くなってきた。会話がまた、切れ切れの断片のようになってくる。
「そういえば、誰かが娘を拉致しようとしたと……」
「間抜けな奴だな。警察沙汰になるだけで、意味がないじゃないか」
「失敗したらしいが……」>
 また少し、霧が晴れたように、会話が明瞭に聞こえてきた。
「ところでね、この子はどうなんだろうね。そっちの趣味のやつの受けは」プレストン氏が、そんなことを言っていた。
「そうですね……まあ、そっちの方面にもモテるかもしれませんが、男側の趣味には、少し華奢さや可愛さが足りないようにも思いますよ。背も高すぎますしね。人の趣味は千差万別ですから、一概には言えませんが、どっちかと言えば、この手を好むのは、ネコの方が多いでしょうね。筋肉は足りませんが」
「ハハ、まあ、そうかもしれないな。僕も全く同感だ」
「おお、一つ良いことを思いつきましたよ、それで。より追い討ちをかけるのに……」
「どんな……ほう、それは面白い。けっさくだ」
「こいつは、愛妻家なんですよ」聞き覚えのある声が言う。「グルーピーを取らないのも、女房への義理立てらしいですからね。浮気はしない、と誓ったようで」
「バカか、この男も女房も。この業界で、馬鹿らしいにもほどがある。女もそんな約束を信じているなんて、世間知らずも良いところだ」
「お嬢さんですからね、こいつの女房は。たいして可愛くもないが、どこがいいのか、こいつはべた惚れらしいです」聞き覚えのある声が言い、さらにこう続けた。
「以前、そこをついて、脅しをかけてみたこともありますが、はったりだと見破られたのか、時間の猶予があるということがわかってしまったのか、すぐにマネージャーに相談に行ってしまいましてね。結果的に大失敗に終わりました。甘ちゃんの坊やだと思ったが、案外したたかなところもありますよ」
 あっ──ぼんやりと会話を聞き流していた僕も、そこに来てはっとするものが、まだ残っていた。この声、わかった――NYでの電話の男だ。ステラとクリスの安全と引き換えに、エアリィの歌手生命を断てと脅してきた奴。こいつがここに――?
 けだるさと快楽の奥底で、それでも怒りの火が燃えるのを感じた。誰だ──おまえは誰だ? まぶたが重い。目を開けられない。それでも僕は力を振り絞って目を開き、見ようとした。視界がかすむ。はっきり見えない──。
 霧の中にぼんやりと、四人のシルエットが見えた。少しずつ、焦点があっていく。一人はディーン・セント・プレストン──もう、さんとか氏なんて、つける気はしない。あの人だけは、はっきりわかる。でもあとの三人は、まったく見覚えがない。三人とも若くはない感じで、一人は背が低く、あとの二人は中背で、そのうちの一人はでっぷり太っている。太った奴と背の低い奴はブルネット、あとの一人は縮れたダークブロンドで、口ひげを生やしている。それだけはわかった。でも、誰があの時の男なのかは、わからない。そもそも僕は、相手の顔は見ていないのだから。何かしゃべってくれれば、声で見当がつくのかもしれないが……
「お、目が覚めかけているのか?」太った奴が言った。こいつの声は違う。
「おお。本当だ。少し追加を打とう」この声も……しかし、どっちがしゃべったのかはわからなかった。まぶたが重くて耐えられず、目を閉じてしまったからだ。誰かが僕の腕に触り、針が触れるのを感じた。再び液体が流れ込んでくる。やがてまた、大波がかぶさってきた。しびれるような陶酔感で、意識もはっきりしなくなっていく。
「そう。ばかばかしいほどの愛妻家だから、面白い手があるんですよ」
 遠くから響くように、聞き覚えのある声が聞こえた。「プレストンさん、分裂でなく内乱を狙うという意味が、わかりますか? これは遠まわしの三段論法です。まずローリングスのもっとも大事にしているものに、打撃を与える。そして、よりフラストレーションを感じやすい状態にする。その状況では、たとえ今は友達だと思っていても、我々が望む感情をだんだん持つようになってくるでしょう。人間ですからね。そうすれば、やがて手駒に使えるように……」
「そう。善良な人間が堕ちていくのを見るほど、快いものはないですよ。かつての親友を手にかけてしまって後悔する図、などは想像すると愉しいじゃないですか。ジャスティン・ローリングスは苦労知らずのお坊ちゃんだ。挫折知らずの人間はプライドが高く、精神的にももろいものです……」
「そうだな。いやみなくらい善良なバンドがクーデターで破滅する、か。面白いね……」
「まあ、時間はかかるでしょうけれどね、そこまで行くには……」
 声がゆっくりと引いていく。また意識が遠ざかっていくのだろうか。

 再び意識がつながった時、もう話し声は聞こえなくなっていた。微かなざわめきのような笑いとささやき――でも、その言葉は聞き取れない。香水の香りが、かすかにした。誰かが──柔らかい肌が触れるような感触。僕を包み込むように。僕は、みだらな夢を見ているのだろうか。やがて、深い陶酔が訪れた。漂う甘い香り、頭の芯からとろけるような激しい快楽。白いもやは、いつしか紫やピンク、オレンジや黄色の綿のような雲へと変わっていった。もう何も考えられない。何がどうなってもかまわない。僕は沈んでいく。雲の海の中へ──。

 目覚めた時には、ホテルの部屋にいた。それも、自分の部屋だ。いつ、ここに帰ってきたのだろう。頭が異様に重く、ハンマーで叩かれたようにがんがんと痛む。まるで身体中の力が抜けたような、ひどいだるさだ。
 起き上がろうとすると、激しいめまいと吐き気に襲われた。たまらず再びベッドに寝転がり、ゆっくりと深呼吸してみる。もう一回……できるだけ、そっと起き上がった。起きあがって初めて、自分が服を着ていないのに気づいた。普段はパジャマなのだが、今は本当に何も着ていない。ベッドサイドの椅子に、昨日着ていた服が無造作にかけてある。  昨夜の記憶がよみがえってきた。ああ、プレストンの家から、いつここに来たのだろう。あの男たちの会話を聞いたのは、この部屋だったのだろうか。すべては夢なのか──いや、夢なら今こんなに気分が悪いはずがない。
 今、何時だ? ゆっくりと頭を廻らせて枕元の時計を見た。十二時半──もうお昼過ぎだということか。今日も外は曇っているらしいが、昼間だということだけはわかる。プレストンの家で暇を告げようとしたのが、午後六時過ぎ、あれから十八時間が経っている。たぶん、日は飛んでいないだろう。そうだ。時計のカレンダーも二三日だ。丸一日はたっていない。でも昨夜あれから、僕は何をしていたのか。なんだかひどく後味の悪い夢を見たような気分だ。思い出したくもない。わけのわからない忌まわしさを感じる。
 服を取ろうとして両手を伸ばすと、左腕の赤い注射痕が二つ目に入った。一つは前腕に、一つは二の腕に。ぞっと全身が総毛だった。両方の腕全体を調べたが、幸いにもそれ以上の注射痕は見つからなかった。
 ともかく──ともかく、この忌まわしい薬と忌まわしい一夜を追い出そう。僕はふらつく頭を押さえてベッドからおり、壁に捕まって歩くと、バスルームに飛び込んだ。必死に吐き気を堪えながら、シャワーのコックを全開にする。熱い雨が降り注いできた。身体を流れ落ちるお湯を感じながら、じっとその中に立ち尽くした。でも、どれだけ長い時間熱いシャワーを浴びても、背中をぞくぞく駆け上がってくる寒気は消えない。

っと我が家へ帰ってきた。いまいましい薬も抜けた。もう大丈夫だ。



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