The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

五年目(7)





 翌日も会いに行ったが、ドアのところで追い返された。その次の日も。三日目に、義母は僕を病室に引き入れ、激しい憎悪の視線でにらみつけてきた。
「しつこい人ね! あなたが何をやったか、ステラから全部話は聞いたわ。今さらどの面下げて会いに来る権利があるの、あなたには! あれほどあなたを信じて待っていたステラを裏切るなんて! ステラはかわいそうに、ここで毎日泣きどおしよ。昨日まで食事にも手をつけずに、ずっと泣いていたの。今も泣いているわ。かわいそうに。これもみんな、あなたのせいよ! ええ、そうよ、あなたはそういう人なのよ。だから私も主人も、あんなに反対していたのに。ステラは今になって、私たちが正しかったと思うと言ってくれたわ。ありがたいことに、目が覚めてくれたのよ」
「お義母さん……そんな。僕の話も聞いてください」
「あなたにお義母さんなんて呼ばれる筋合いはないわ。けがらわしい! あなたは約束したはずね。浮気は決してしないと。約束を破るような人とは、これ以上話したくないし、娘にも関わりあってもらいたくないわ」
「話だけでも聞いてください!」
「どうせ、うまい言い逃れでも考えているんでしょう。信用できるものですか。聞くだけ無駄よ!」
「違うんです! ステラもあなたも、本当の事情は何もわかっていない! 僕はステラを裏切ったりなんてしていません」
「裏切ったりしていません? どの面下げて、そんなことが言えるの。結婚していながら他の女と破廉恥なまねをすることのどこが、裏切っていないと言えるの」
「あれは違うんです。僕は陥れられて……」
「陥れられた? あなたがそんな戯言を言っていたと、ステラからも聞いたわ。ではお聞きしますがね、陥れられて、いやいやあんなことをするような男の人が、どこにいるの? 見え透いた言いわけは止めてちょうだい」
「言いわけじゃないんです。本当のことなんです」
「やめて、ジャスティン!」ステラが向こうを向いたまま、鋭く叫んだ。「あなたは、やっぱりそう言うのね! 僕のせいじゃないって、弁解ばかりしているのね! どうして男らしく認めてくれないの。僕が悪かったって、どうして謝ってくれないの? あなたはそういう人だと思っていたわ。そんなに卑怯な人だなんて、思わなかったわよ!」
「だから、違うんだ……」僕は口をつぐんだ。だめだ、何を言っても、結局弁解に聞こえてしまうに違いない。でも、僕が自分からすすんであんなことをしたと、思い込まれるのは耐えられない。どうしたらいい──。
 言葉を捜しているうちに、義母が再び口を開いた。
「もう、本当にここへは来ないでちょうだい。ここはあなたのご実家の病院だけれど、患者が第一だということは、同じでしょう? 退院したら娘は、私たちの家に連れて帰ります。今あなたのご実家で面倒を見ていただいているジョシー坊やも、一緒に連れて帰りたいと思います。ステラが会いたがっているのでね。あなたの子であっても、あの子はステラの子でもあり、私たちの孫でもありますからね。将来は、あの子が私たちの跡取りになるかもしれないわけですしね。ダメになってしまった二人目の男の子は、あなたのお家のお墓に入れたのですから、ジョシーちゃんは私どもでもらっても良いと思いますよ。そうじゃないこと? それに幸いなことに、あの子はあなたなんかに似ていませんしね。ステラの小さい頃によく似ていますよ」
 ジョシー? ああ、クリスのことか。義父母はミドルネームのジョシュアから、ジョシーと呼んでいるのか。そういえばトレリック夫人もクリスのことを、ジョシー坊ちゃんと呼んでいた。
 義母は薄色の目にますます憎悪の表情を上らせながら、僕を見た。
「早く帰ってちょうだい。あなたと話していると、それだけで気分が悪くなるわ。それに、よけいステラが悲しむだけよ。もう本当に来ないでもらいたいわ。どうしても来るのなら、ステラを転院させます。ステラもそうして欲しいと言っているわ」
「今転院するのは、無茶だ……」
 それほどまでに、僕に会いたくないのか。義父母は当然だろうが、ステラまで──。
「わかりました。もう来ません。ステラのことをよろしくお願いします」
「よろしく、なんて笑わせるわ。ステラは自分のものだとでも思っているの? 私を誰だと思っているの。ステラの母親よ」義母はフンと鼻を鳴らした。
 ステラは何も言わない。僕に背を向け、ただクリーム色の壁を見つめているようだ。その肩が小さく、しゃくりあげるように動いた。ステラは泣いている。本来なら誰よりも彼女の悲しみを共感し、和らげてあげなければならない僕なのに、何もできない。むしろここにいることで、彼女の苦しみを深めてしまうのかもしれない。
 僕はドアを開け、廊下へ出ていった。本当に、もう来ない方がいいのかもしれない。ステラは僕を許していない。僕がいるとかえって彼女の立ち直りを妨げるのなら、もう来ない方が──我知らず、ぎゅっと唇をかみしめた。どちらにしても、ステラの退院予定日の翌日には、また仕事が始まる。まだ体力が回復していない妻には、退院したらそのまま実家に行って世話になっているほうが負担は少ないし、精神的にも気楽だろう。
「クリスマス前に迎えに来ます」部屋を出る前に、僕は振り返って、それだけ言った。義母は返事のかわりに再びフンと鼻を鳴らし、ステラは相変わらず背を向けたまま、黙っている。僕はドアを後ろ手に閉め、廊下を歩きだした。

 僕らの家は、ステラが入院した時から留守になっている。クリスは実家で面倒を見てもらっているので、僕も一緒に帰っているからだ。
 実家の玄関に着くと、廊下の奥からクリスがうれしそうに飛び出してきた。
「パパァ!」そう叫びながら手をのべる息子を抱き上げ、その柔らかい頬に頬ずりをした。
「パパ、いたい」クリスチャンはちょっと顔をしかめる。
「ああ、ごめんごめん。今朝、ひげを剃るのを忘れていたよ」
 僕は苦笑し、ついで息子を強く抱きしめた。しがみついてくる小さな手、柔らかく小さな身体。そのぬくもりは、なにものにも代え難い慰めを与えてくれる。
 義母が言うとおり、クリスは一見、それほど僕には似ていない。小作りの顔立ちや全体の雰囲気はたしかにステラに似ていて、それゆえ義父母もこの子をかわいがっているのだろう。でもクリスの髪の色は僕とステラのブレンドで、鼻と口元は僕に似ていて、ステラもそのことに、とてもほっとしたと言っていた。クリスは僕とステラの子供なのだ。両方の血を受け継いだ、僕らの掛け橋だ。僕らの間をつなぐ、大事な、そして唯一の希望だ。

 事故から六日後にステラは退院し、その足で義母と一緒にクリスを迎えにやってきた。彼女はまだ松葉杖をついていて、顔も青白い。二人はクリスの面倒を見てもらったことを、丁寧な口調で母に感謝していた。でも、僕には言葉をかけようとはしない。
「ママ! ママ!」クリスはステラの姿を見ると、うれしそうに飛び上がって駆け寄った。ステラも微笑んで身をかがめ、小さな息子を抱き締めて頬摺りをしている。
「ごめんね、クリス。寂しかったでしょう!」
「さあさあ、ジョシー坊や。ママと一緒にお祖母ちゃんのお家に行きましょうね」義母は優しい声で、そう呼びかけていた。
「パパは?」クリスはうれしそうにしながらも、僕を振り返って首を傾げる。

「パパはこれからお仕事なのよ。だから、またママとお留守番ね。お祖父ちゃんお祖母ちゃんのお家で。寂しくないでしょう、坊や?」ステラは僕の方を見ずに、子供を抱き締めたまま答えている。 「うん」クリスは頷き、笑いながら僕に手を振った。
「またね、パパ」
「ああ、元気でな、クリス。いい子にしているんだよ」
 僕は息子に向かって手を振り、笑顔を向けた。いつものように。でも、ステラにはキスや抱擁はおろか、手を触れることさえ出来ない。彼女は僕を見ようとすらしなかった。常に僕の視線を避けているようで、ただ息子だけを見つめている。まるでガラスごしに見ているかのように、妻が遠い存在に感じられた。
 彼女は、まだかたくなに怒っているようだ。あの写真を本気で信じ込んだのだろうか? それとも流産のショックを、僕を責めることで和らげているのだろうか? 彼女の心を読むことは出来なかったが、その身体と心、両方ともが気にかかる。僕はステラの夫なのだ。
 僕は歩みより、手を取ろうとした。だが彼女はつと手を引っ込め、ふっと横を向く。僕はため息を押し殺し、その横顔に向かって言った。
「ステラ、身体を大事にして……ゆっくり養生しておいで」
「ええ……」彼女は相変わらず僕を見ないまま機械的な仕草で頷くと、杖に寄りかかって立ち上がった。「ごめんなさいね、クリス。ママは足が痛いから、あなたの手はひけないの。おばあちゃんと一緒に来てね」
「さあ、行きましょう、坊や」義母はとろけるような笑顔を浮かべ、小さな手を取っている。
「うん……」クリスは少し戸惑ったように僕たちを見比べながら、頷いていた。小さな心の中にも両親の様子がいつもと違うことを、漠然と不安に感じているのかもしれない。
 クリスは義母に手を引かれて、門の前で待っていたパーレンバーク家の車に乗り込むと、後ろの窓から伸び上がるようにして、こっちを見ていた。遠ざかっていきながら、その小さな手を何度も、僕に向かって振っている。僕も息子の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。
 車が角を曲がってしまうと、我知らず深いため息が漏れた。再びクリスマスに帰ってきた時、ステラの凍りついた心は溶けているだろうか? 僕らは元に戻れるだろうか?

 家に入ると、母がためらいがちに、しかし気遣わしげに尋ねてきた。
「何かあったの、ジャスティン? ステラさんと喧嘩でもしたの?」
「喧嘩じゃないよ」僕はのろのろと首を振った。
「じゃあ、何があったの? わたしも、なんだかおかしいと思っていたのよ。あなたたちは普段あんなに仲が良さそうだったのに、さっきの様子は……それに、普通は女が流産なんていう悲しい経験をしたら、いちばん頼るのは旦那さまなのよ。でも、あなたは病院へも、ほとんど行かなかったようだし」
「ステラが僕に会いたくないって言うからね」
「なぜ……?」母はしばらく黙り、ためらうような口調で続けた。「まあ、あなたたちはもう大人ですからね。夫婦のことは、夫婦で解決するのが一番いいことよ。わたしが余計なお節介を焼くことは、ないんですけれどね。でも、なんだか気になるのよ。あなたがたの様子が、いつもと違いすぎているようだから……」
「心配かけてごめんね。母さん」
「悩みがあったら、話してごらんなさい、ジャスティン。わたしたちは少なくとも人生の先輩よ。何か良いアドバイスをしてあげられるかもしれないわ」
 僕はその言葉につられるように、事情を打ち明けた。子供のころ、小さなトラブルをいちいち彼女の元に持ち込んだように。
 母は少し唇を噛みながら黙って話を聞き終えると、ため息をついた。
「恐い世界ね……あなたたちの仕事は。だから、わたしは心配だったのよ」
「今になってみると、本当にそう思うよ。でもいいことだってあるから、後悔はしてないけれど」僕もため息と一緒にそう認めた。
「でも、あなたは良心に恥じるようなことは、何もしていないわけでしょう、ジャスティン。あなただって、あくまで被害者なわけですからね」
「ああ、それは誓うよ」
「だったら、あなたなりの誠意を尽くして、ステラさんにそれを信じてもらうしかないわ。今は彼女もいろいろなショックで平静さを失っているでしょうから、時がたって気持ちが和らぐのを待った方が、いいかもしれないわね。ちょうど今から仕事に入って、クリスマスに戻るくらいに、もう一度試してごらんなさいな。きっと、大丈夫よ。仲直りできたら、今年のクリスマスも、家でみんな一緒に過ごしましょう」
「うん。でも彼女、その時ならわかってくれるだろうか?」
「それはあなた次第よ。でもね、ジャスティン。もし、あなたが何ら良心にやましいところがないならば、神さまがそれをご存じよ。きっといいようになさってくれるわ。だから、あまり思い詰めないでね」
「うん。ありがとう、母さん……」
 不覚にも涙が出そうになってしまい、僕は慌ててその場を立った。


 翌日から、新作のための作業が始まった。いつも休暇が明ける時には、もう少しお休みがあったらな、と思うのだが、今回だけは仕事がまた始まったことに、うれしさと救いだけを感じる。音楽と、心を許しあえるバンドの仲間たちが待っていてくれることに。この期間、いつも僕らの“お母さん”役を務めてくれるビッグママの笑顔も、ほっとした気分にさせてくれた。
 プリプロダクション用にいつも使っている宿泊施設についたその晩、夕食の後コーヒーを飲みながら、みなでテーブルを囲んでいた。話題は、ほとんど休暇中のことだ。でも僕は、積極的に話したい気分ではなかった。バハマやプリンスエドワード島での楽しかった旅行は、今では遠い残像だ。あの忌まわしい課外セッションのことなんか、思い出すのもいやだ。
 だが会話が進んでいくうちに、ジョージが何気ない調子で、初めての課外活動の感想を聞いてきた。僕は一瞬、びくっと身体が震えた。何も言えないような気がしたが、それではみんなに変に思われてしまう。それで話し始めたが、口をついて出てきたのは、表面的な、どうでもいいことばかりだ。それをさらにどうでもいい詳細をつけて、早口にしゃべった。スタジオワークの感想や待遇、彼らのバンドの解散のいきさつと、カール・シュミット氏の現在の状況、プレストンがすっかり中年のおじさん風になっていて、それでも格好は派手だったこと、食事会に行ったこと、館が豪華だったこと、ごちそうの量がものすごく多かったこと。元の奥さんとロスの家の話。三人の使用人。『好きな時に寝て好きな時に好きなものを食べて、お気に入りの子を呼んで、自由気ままに生きたい』と言っていたこと。犬のこと。そして僕は口をつぐんだ。それ以上は、やっぱり自分からは言えない気がした。
 みんなは興味深げに聞いているようだったが、僕が話し終わった後、妙な沈黙が降りた。やっぱり、普段の僕と感じが違うのが、わかってしまったのだろうか。いぶかしんでいると、やがてミックが静かな口調で問いかけてきた。
「本当にそれだけかい、ジャスティン?」と。
 身体がさっきより大きく震えるのがわかった。僕は彼の顔を見た。
「どういう意味だい、ミック……?」
「いや、それだけなら、それで良いんだ。忘れてくれ。でも、ジミー・ウェルトフォードがマネージメントにロンドン行きの報告をしに来た時、気になることを言っていたと、ロブに聞いて、僕も気になっていたんだよ」
「そう。彼はおまえがプレストン氏の屋敷に招かれていった夜、氏と何かトラブルがあったのではないか、と言っていたんだ」ロブが話を引き取って、続けた。
「ジミーが?」
「ああ。最終日、ウェルトフォードが午前四時前にホテルに帰ってきて――これは彼に、厳重注意しておいたがね。君はジャスティンの付き添いでロンドンへ行ったんだ。遊びじゃない。それを忘れてもらっては困る、とね。彼はロンドンで昔の友達に会って、クラブに別の友達の公演を一緒に見に行った後、その友達も合流して、時間を忘れて遅くまで飲んでしまったと言っていた。まあ、ウェルトフォードもひどく反省しているようなので、それ以上は咎めなかったが。それで彼が、お昼ごろおまえに会った時、少し様子がおかしかったと言ったんだ。とても気分が悪そうで、プレストン氏に対して、ひどく怒っているように見えた、と。『お昼まで寝ていて、ひどく気分が悪そうで、朝食もジュースしかいらないと言うので、最初はプレストンさんの家で飲み過ぎての、二日酔いかと思ったんです。でもそうきいたら、ものすごくむっとした顔をして、あの人の関係者になど二度と会いたくないから、迎えが来る前に帰ると言うんです。あのジャスティンさんが、あそこまで誰かに腹を立てている様子を見たのは初めてです。それに帰りの飛行機でも、珍しくファンに怒鳴ったりしていました。プレストンさんのお宅に、呼ばれていないのに押しかけるわけにはいかないし、一人で大丈夫だからとジャスティンさんがおっしゃったので、ついお言葉に甘えてしまったのですが、もしかしたらプレストンさんのお宅で何かあったのかと、気になったのです』と」
「そう……ジミーが……」
「それと、これは関係ないのかもしれないけれど、君の奥さんは一週間前に自宅の階段から落ちて、流産してしまったらしいね。本当に気の毒だとしか言いようがないけれど、ジャスティン、それは、本当に単なる不幸な事故かい? それならいいんだが……」
 ミックが重ねて問いかけてきた。ステラが流産して入院したことは、ロブがオフ中も十日に一回かけてくる定期連絡で、『何か変わったことはなかったか?』と聞かれ、話していた。階段から落ちた原因は伏せて。みなには知らせてなかったが、たぶんロブ経由で伝わったのだろう。それを今この流れで出されて、僕はもう身体の震えを止める事ができなかった。
「ステラがあんなことになったのは、僕のせいだ。そして、あいつらのせいだ」
 僕は呻いた。みんなが驚いたような視線で、僕を見つめるのを感じると同時に、僕は両手で顔を覆い、うつむいた。
 しばらく誰も何も言わなかったが、やがてミックが穏やかな言い方で促してきた。
「話してくれないかな、ジャスティン。何かトラブルがあったのなら」
「ああ」僕はのろのろと頷いた。「このさいだ。みんな話してしまうよ。あの晩何があったのか、それからどうなって、なぜステラが流産したのか……」
 僕は顔をあげ、みんなを見まわした。そしてごくりと固唾を呑み、再び口を開いた。
「あの人の食事会の後、僕は……」一瞬ためらい、それから思い切って言葉を継いだ。「帰ろうとしたら、あの人が上着を着せてくれようとした。そして僕に近づいて、スタンガンで首のところを撃ったんだ。それで倒れて、右胸の鎖骨あたりに二発目を打たれた。僕は完全に動けなくなって……抵抗できないままに、注射されたんだ。ドラッグを」
「なんだって!?」みんなは一斉に声を上げた。
 僕はぎゅっとこぶしを握り、話を続けた。「そう、ほとんど同じ手口なんだよ。二年半前のエアリィの時と。でも、まさか僕にも同じ手を使われるとは、思いもよらなかった。打たれたのはどんな種類の薬だったか、僕は知らない。意識が朦朧として、強烈な快楽を感じた。途切れ途切れに周りの状況が入ってくる感じで……たぶん食後だったから、効き目がゆっくりだったのかもしれない。薬が効いている間のことは、あまり覚えていないんだ。途中まで、まわりでいろんな奴の声がしていたことしか。プレストンもその中にいたし、そう、ニューヨークで僕に脅しをかけてきた奴も、その中にいたよ。声にはっきり聞き覚えがあった。他に、あと二人いた。まったく見覚えのない中年男がね。まぶたを開けるのも大変だったけれど。でもそこから追加の薬を打たれて、本当に意識がはっきりしなくなった。気がついた時には次の日のお昼頃で、その後ジミーが来たんだ。頭が痛くてだるくて、たまらなかった。イライラするし、飛行機には酔うし、最悪だったよ。家に帰って一晩ぐっすり寝て、やっと気分が治ったんだ。僕はそれで終わったと思っていた。でも、まだ続きがあったんだ……」僕は思わず再び顔を覆った。
「それから二週間たったころ、手紙が来たんだ。それもステラ当てに。僕が……知らない女たちと、セックスしていた。あの晩、たぶんもうろうとしているうちに、抱かされたんだろうと思う。かすかに、ほんのかすかにだけれど、それを暗示する記憶もあるんだ。その中には、オカマまで混じっていた。連中はその最中を写真に撮って、ステラに送りつけたんだ。それを見て彼女はひどく動揺して部屋を飛び出し、二階に駆け上がろうとして、階段を踏み外した。それで流産してしまって……」
 みんなは一瞬絶句していたようだった。頭を上げ、みなの顔を見ると、全員、はっきりと顔色が青ざめている。
「ひどいな……それって、最悪だ!」エアリィは吐き出すようにそう呟き、
「本当にね。ひどすぎるよ……」ロビンは絞り出すように言う。
「とんでもない話だな!」ジョージは憤激を込めた口調で、テーブルをどすんと叩き、
「まったくね……本当に大変な目にあってしまったね、ジャスティン」ミックは同情をこめた眼差しで頷いていた。四人とも本心から驚き、憤激し同情してくれていることが、はっきりと感じられる。そのことに、僕は慰められた。
「それにしてもな……ウェルトフォードは職務怠慢だぜ。プレストンの家におまえ一人で行くというのは、まあ、成り行き上、仕方がなかったのかもしれないが、せめていつでも連絡が取れる状態で、ホテルに待機するべきだったんだ。そうすれば、夜になっておまえが帰ってこない時点で、プレストンに問い合わせも出来ただろう。まったく、あいつは何しに行ったんだ? 昔の友達と遊ぶためか?」ジョージが首を振り、憤ったような口調のまま言った。
「その点は、僕もまったく同感だ。彼にはもうお説教をしたから、繰り返さないがね」ロブも重々しい口調で、顔をしかめている。
「まあ、その場合でも、たとえば今日はこのまま家で泊まってもらうことにした、とでも言われてしまえば、ウェルトフォードがホテル待機していて、プレストンさんに連絡できたとしても、どうにも出来なかっただろうけれどね」ミックが首を振った。それは、たしかにそうなのだろう。ジミーが悪いわけではない。『せっかく来たんだから、昔の友達に会ってきていいよ』と言ったのは僕だし、連中はいろいろな状況に対応した手を考えていた可能性もあるのだから。
「それで、奥さんには誤解だって、わかってもらったのかい?」ミックがふっと息をついてから、そう問いかけてきた。
 僕は再び暗澹とした気持ちになって、首を振った。「いや、まだなんだ。説明しようとしたんだけど、聞いてくれない。ショックが大きすぎたんだろうね。おまけに、あんなに待ち望んでいた二人目の子供がだめになってしまって、すごく精神的なショックを受けているんだ。今はまだ、話が出来る状態じゃないよ」
「そうか……困ったね」みんなも真剣な面持ちで、いっせいに頷いている。 「でも、すべては本当に誤解なんだから、辛抱強く誠意を見せれば、きっと解決するよ」
 ミックが穏やかにそう言い、僕は再びいくぶん慰められた。
「そうだね……みんなに話せてよかったよ」
「そうだ。黙っていないで、話してくれ。どんな些細なことでもいい。きちんと話して欲しいんだ。今後の注意を促せるし、それからアフターケアも必要だからな」ロブが僕たちを見まわし、強い口調で言った。
「ところでジャスティン、その写真はどうした? まだ持っているのか?」
「まさか! すぐに破り捨てたよ」
「そうか。その写真が昔ながらのフィルムなのかデジカメなのかはわからないが、きっとどこかに元があるに違いない。万が一その写真が外部に悪用されて、もっとひどいスキャンダルになったらたいへんだ。すぐ社長に連絡して、調査してもらおう」
 ロブは携帯電話を手に、部屋を出ていった。

 食堂に残った僕ら五人はしばらく黙り、お互いに顔を見合わせていた。僕も何と言っていいかわからなかったし、他のみなもそうだったのだろう。が、やがてミックが思い切ったように、こう聞いてきた。 「ジャスティン。思い出したくないだろうけれど……いや、明日からは、もうこの話は忘れよう。でも、今だけ教えて欲しいんだ。プレストンさんのセッションで、どんな話が出た? あの人は君に、どんなことを言ったんだい? あの人が妨害者なら、他にも揺さぶりをかけていたかもしれない。それが気になるから……覚えている限りで良いから、君が見たこと聞いたこと、気がついたことを教えて欲しいんだ」
「セッションからかい?」
「ああ」
 僕はしばらく考え、最初に浮かんできた事から話し始めた。
「僕たちは健全すぎるって、嫌みなぐらい優等生だって、あの人は言っていた。あの男たちも、そんなことを言っていた。僕らはむやみに優等生すぎて癪に障るって。だから、その一角から崩してやろうと思うって、あいつらはプレストンに言っていたんだ」
「そうか……」みんな、真剣な面もちで頷いていた。
「まあ、たしかに俺たちは業界の優等生かもな。薬もやらない。女好きでもない。むしろガードが堅いことじゃ有名だ。酒だって、へべれけになるほど飲みはしない。だからって、それは俺たちの自由で、自分で勝手に自堕落やっている連中から、そんなこと言われる筋合いはないぜ」ジョージが首を振って、微かに肩をすくめている。
「それはそうだ。僕らは恥じることなんて、何もないよ」ミックも真剣な面持ちで頷く。
「それに、グルーピーと寝ないってステラと約束をしていたことも、あいつらは知っていて……それを馬鹿らしいって、一蹴した。世間知らずだ、って」
 そのあと連中はステラへの侮辱の言葉を口にしたが、それは繰り返したくなかった。僕は苦々しく続けた。「僕はばかばかしいほどの愛妻家だから、面白い手があるって言ってた。だから連中は、こんなやり方をしたんだと思う」
 みなはいっせいに小さな声を漏らし、そして黙った。何と言って良いか、わからなかったのだろう。しかし彼らの同情は感じられた。僕は首を振り、言葉を継いだ。 「でも、僕は恥じてはいない。あいつらから見ればばかばかしいことでも、僕たちは真剣だった。それが、僕たち夫婦の信頼の証だと思っていた。今もその気持ちは変わらないさ」
「そうだ。本当に、君が恥じることは何もないよ、これっぽっちも」
 ミックが強い口調で言い、他の三人もいっせいに頷く。
「うん。ありがとう……」僕は頷き、両手を前に組んで、さらに記憶を呼び起こそうとした。思い出したくないことだが、あの夜のさまざまな会話がよみがえってくる。
「それとあの人は、パーティは必要な営業だって言っていた。僕たちはあまりそういう付き合いをもたないって、暗に非社交的なことを非難しているみたいだったな」
「パーティか。俺たちの性にはあわないな」ジョージが肩をすくめ、
「うん。なんかあれって、The上辺の付き合い、って感じがする」エアリィも苦笑する。
「君たちがそうだと、僕らは言うまでもないね」ミックも穏やかに肩をすくめた。
「そう。僕らにその必要性はないって、僕も思ったよ。それと、原盤権やコンサートのギャラが等分なんて、普通はやらないって言っていたんだ。おのおのの貢献度は違うはずだからって」
「ああ……」ジョージ、ミック、ロビンの三人は、一様に複雑な表情を浮かべていた。しまったと思ったが、もう遅い。エアリィは「え? だって貢献度って、みんな同じじゃない? バンドなんだから」という、予想通りの反応を返してきたが。
「そうだよな。だから、僕も言ってやったんだ。みんなが同じように貢献しているんだから、それが当然だと僕らは思っているってね」僕は断固として頷いた。「プレストンは言っていたぞ、エアリィ。おまえは聖人なのか、いや、偽善者なんだなってね。おまえは偽善者なんかじゃないって、僕はすぐに言ったんだが、あの人は納得していなかったようだよ」
「……どういう意味、それって?」
「つまりおまえの立場で、なぜそれほど無欲でいられるか、いられるはずはない、ということさ。あの人は欲の塊のような人らしいからね。だから、みんな自分と同じだと思っているんだろうよ」
「へえ……」エアリィはしんから怪訝そうに首を傾げていた。「プレストンさんがどういう意味でそう言ったのか、僕には良くわかんないけど……無欲って? みんなが反対するからやってないけど、いっそのこと誰が何を作ったかとかいうのもなしにして、全部五等分しちゃえばいいって思ってることとか? だってその方が気楽じゃない? 僕だけ多いって、なんかみんなに悪いみたいな気になっちゃうし……みんなは気にするなっていうけど。まあ、たしかに今、お金があってよかったなって思うことはあるけどね。お金で困ってる人を助けてあげられたり、欲しかったものが買えたり、買ってあげられたり、行きたかったとこへ旅行に行ったりできるし。でも、それだけだしね。お金で買えないことも、いっぱいあるし、でも逆に、お金がなきゃできないってことも多すぎる。なんかお金偏重になりすぎてない、この社会って? いつもそう思うんだけど」
「だ、か、ら、おまえのそういうところが、あの人には理解できないのさ」僕は思わず肩をすくめた。
「そう……? うーん、でも、僕はよくわからないな。お金があって、いろいろときらびやかなものに囲まれて、贅沢な生活してても、プレストンさんって、あまり幸せな人には見えないけど……ジャスティンの話聞いてると。むしろ寂しい人だなって印象だった。大きなお屋敷に一人で住んでて、いつもは一人でご飯食べて……お気に入りの子を呼ぶって言っても、その子と本当の交流もないわけだろうし。犬がいるだけ良かったけど、犬だけっていうのも、寂しい気がする。それに犬に人間の食事の残りをあげるって、どうなんだろ? 犬は喜ぶだろうけど、味強すぎないかな」
「まあ、それはあるだろうし、犬にとって悪いものも、入っているかもしれないからな。たまねぎとか。あまり良くはないよな」僕は思わず肩をすくめた。「でも、あの人は奥さんのことも、アクセサリーとしか考えていなかったようだし、周りの人との本気の交流は、持ちたくないのかもしれないな。そういえば、使用人さんたちとも、それほど親しくはなさそうだった。必要なこと以外は、話さない感じで。でもあの人が満足しているなら、僕は同情はしないよ」
「満足……してるのかな、それで」エアリィは小さく首を振る。訝っているような口調だった。
 あの人が満足していようがいまいが、僕は気にしない。おまえも、そこまで気にするものでもないだろう。完全に世界が違うのだから。そう思ったが、口には出さなかった。僕は首を振り、口調を変えた。
「でも、それ以外にも金のことは、いろいろ聞かれたな。詳しい所得配分や、何に使ったかとか、貯金が好きなのか、とか。あの人は相当な浪費家だけれど、お金にはかなり執着しているのかな。まったく、あの家をみんなに見せてやりたいぐらいさ。まあ、ミックやジョージやロビンは見慣れているかもしれないけれど。貯金はしないで使う主義だって言っていたけれど、それにしても派手だったな。それで、僕にも言うんだ。君らは相当稼いでいるだろうけれど、贅沢はしないのかって。メイオールさんに金銭的なことは管理してもらっているって言ったら、信用できるのか、なんて言っていた」
「金銭的なことを、かい? ジャスティン」ミックが眉をひそめた。「じゃあ、ロブやメイオールさんにそのことを話した方がいいな。プレストンさんがその話を妨害者たちに話したら、何か仕掛けてこないとも限らないし……」
「メイオールさんに勘定をごまかせとか、そそのかしたりして? けど、それってないんじゃないかなあ。あの人、超がつくくらい真面目だもん。それに、ちゃんとしてるよ。計算まちがってたことないし」エアリィは首を振った。
「まあ、おまえがチェックしてたら、ごまかせないよな」
 ジョージが肩をすくめる。僕も思わず苦笑した。
「チェックしてるわけじゃないよ。メイオールさん、いつも明細送ってくれるから。みんなもそうじゃない?」
 そういえばメイオール氏は、たしかに四半期決算の度に、僕らに分厚い明細の写しを送ってくれる。僕はよくわからないから、ざっとしか見ていないが。しかしそれも、彼の公明正大さの証だろう。ジャック・メイオール氏は、誰もが認める誠実な人だ。彼は信頼に値する人なのだ。
「僕も信用はしているよ。でも、どういう揺さぶりをかけてくるかわからないからね」ミックは相変わらず重々しい顔をしている。
「マネージメントがマージンを取りすぎる、とも言っていたっけ。レーベルやマネージメントは、自分の力を利用して家来にしないとだめだって」僕はそう付け加えた。
「なんで?」エアリィが首を傾げるので、僕は続けた。
「そうすれば、自分の思うようにやれるから、って言うのさ。僕らはもう、かなり自由を勝ち取っていると思うのに」
「そうだよ。でもそこがあの人の揺さぶりなんだろうね。今まで良い関係を続けている僕らとマネージメントを、決裂させたいんだろう」と、ミックが頷いている。
「そうだ。もう一つあの人は揺さぶりをかけてきたよ。はっきりとね。あの人とカール・シュミットさんとの過去のトラブルを、未来において僕らが再現するに違いないとね、エアリィ」僕は指を振った。
「何? それって、どういうこと?」
「つまり、おまえと僕がいつか喧嘩別れするって言うんだよ、あの人は。しかも、さんざん僕にたきつけたんだ。君はナンバー2のままじゃ、もったいないってね」
 それを聞いて、他の三人の方が心配げな顔になった。だがエアリィ自身はあまりピンとこないらしく、納得いかなげに首を傾げている。「でも、なんで僕らが喧嘩別れしなくちゃならないのかな? 何のために? それに、別れるほどの大喧嘩の原因って、何?」
「さあな」僕は肩をすくめて、苦笑した。「まあ、連中も言ってたんだ。今の僕らの場合、分裂を仕掛けるメリットはないって」
「そうなんだ……なら、まあ、良かったけど」
 なぜ分裂を仕掛けるメリットがないか、言った方がいいだろうか、とは思ったが、止めた。インスト陣は取り替え可能だとか、シルーヴァ・バーディット云々の話は、僕らにとって、あまり愉快な話ではないだろうと思えたからだ。




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