The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

四年目(3)





 そんな休暇があと一ヶ月弱となった三月初めの午後、エアリィが僕の家にやってきた。アデレードは予定日が近づいてきているので、あまり外に出られないらしく、エアリィ自身もこれからリッチモンドヒルに建てる予定の、新しい家の打ち合わせがあるからと、家の中までは入らず、玄関で立ち話をしただけだ。だが彼の姿を見て、僕は少し意外な感じを受けた。エアリィはボトム以外、めったに黒やグレーの服を着ているのを見たことがない。でもこの時の彼は、長めの黒いコートを着ていた。ボトムもブラックジーンズだ。コートの下は白いセーター。襟元から見えているTシャツは黒だった。右手に下げているトートバックも。
「そんなにじろじろ見ないでくれる?」エアリィは肩をすくめ、そう抗議していた。
「いや……だって、おまえがそんな格好をしたのを、初めて見たからなあ」
「今、喪中なんだ。だからね。黒のトップスは、そんなに好きじゃないんだけど」
「えっ……誰が亡くなったんだ?」僕は驚いて問い返した。
「マインズデールのシスターなんだ。三日前に」
「ええ!」その知らせは、驚きと感傷を僕にももたらした。そうか、あのシスターが亡くなったのか。生きてちゃんと会えるのはこれが最後のような気がすると、二年前に会った時に、シスターは言っていた。マインズデール教会でミュージック・ビデオを撮影した時には、ほとんど話らしい話をする時間がなかったので、それはある意味、当たっているかもしれない。休暇中にでも、一度会いに行けばよかった。もうかなり高齢だっただけに、なおさらだ。僕は深く吐息をつき、繰り返した。「そうか。シスター・アンネ・マリアが……」
「うん。まあ、八七だったからね。天寿を全うした、って言えるとは思うけど。風邪から肺炎になっちゃって。でも、あまり熱もなかったし、本人も大丈夫だって言うから、まわりもそんなに悪いとは思わなかったらしくて。医者に行った時には、もう手遅れだったって。あと一日持ちこたえればいい方だって、言われたらしいんだ」
「ああ、高齢者には時々あるんだよ、無熱性肺炎。なまじ症状が激しくないから気がつかないで、手遅れになりやすいから、かえって怖いんだ」
「うん。さすがジャスティン、伊達に医者の息子じゃないね。僕は神父さんから連絡もらって、すぐ行って、なんとか臨終には間に合ったんだ。それまでほとんど眠ってたらしいんだけど、僕が行った時には、目を覚ましてた。それで、『わたしは……兄さんには、向こうでは会えないわね。それが残念……だけれど、でも他のみなには……会えるわ』って、そんなことも言ってた。最後にシスター、僕の手を握って言いかけてたんだ。『アーディス……わたしは、わかったような気がするわ……おまえが、あの……』そこで意識が消えて、十分もたたないうちに亡くなってしまった。静かで……安らかだったけど。一昨日がお葬式でさ。僕も昨日の夜、マインズデールから帰ってきたんだ」
「そうか。おまえは臨終に間に合って、よかったな」
 僕は首を振り、考えた。シスターが『向こうでは兄さんに会えない』と言ったのは、もうその兄はこっちに来ているからなのか、僕として――そんな思いが掠めると同時に、何度も感じた奇妙な思いを、また覚えた。そして最後に彼女がエアリィに言いたかった言葉は、何だったのだろう。わたしはわかったような気がする。おまえがあの……その続きは。
「おまえはその最後の言葉の続き、気にならないか?」
「いや、僕はわかってる。シスターがなんて言いたかったのかは」
「なんて……言いたかったんだ?」
 僕は聞いたが、エアリィは答えなかった。ただ首を振り、これだけ言った。
「シスターは鋭い人だったから」
 どういう意味だ……そう聞きたかったが、それは彼らのプライベートに踏み込むことになるかもしれない。そう思い、僕は口調を変えた。「そうか。シスターはおまえのお母さんの後見人だもんな。だからおまえも、今は喪中というわけか」 「ああ。シスターは僕にとって、母方のお祖母さんって感覚なんだ。母さんの本当のお母さんは、母さんが赤ん坊の時に亡くなってるから。だから僕も喪に服したいなって。今週一杯くらいまでね。それでさ、これ持ってきたんだ。シスターに頼まれたから。おまえに渡してくれって」
 エアリィはバッグから布で包んだ本のようなものを取り出すと、僕に差し出した。
「僕に?」僕は手を出して受けとりながら、思わず問い返した。
「そう。まあ、おまえって、シスターに会ったのは、一、二回くらいだろうけど」
「ああ、一昨年の夏に、おまえを探しに教会へ行った時に、初めてお会いしたよ。あの時には一晩お世話になって、ずいぶんいろいろな話をしたな。ちゃんとお会いしたのは、あの時だけかな。ビデオ撮影の時には、シスターはほとんど出てこられなかったし」
 不思議に思いながら僕は包んであった布をほどき、本を取り上げた。古びた日記帳だ。
「それって神父さんの日記らしいんだ。ああ、キャラダインさんじゃなくて、先代のね」
「え? ヨハン神父さんの?」
「うん。神父さんが亡くなってから、シスターがずっと大事にしまってたらしいんだけど、なんでそれを、一度しかまともに会ったことのないおまえに譲りたいなんて言ったのかって、キャラダイン神父さんは首を傾げてたよ。でも、シスターがはっきり言ったんだ。『兄さんの日記を、おまえの友達の、ジャスティン・ローリングスさんに……渡して』って。だから一応、持ってきたんだ。いやだったらもう一度、教会に持って帰るけど」
「そうか……わかった。ありがとう」僕はもう一度日記帳をざっとくるみながら、頷いた。「いいよ。これ、僕が預からせてもらうよ。それがシスターの遺言なら。あの人はきっと、信じていたんだろうな。僕がヨハン神父さんの生まれ変わりだって」
「へえ、シスターはわかってたんだ。まあ、そうか」
 別に驚いた様子もなく、むしろ当たり前のような口調だった。
「って、そう決まりきったように言うなよ。本当のところは、どうかわからないんだから」
「まあね。そういえば、一昨年の暮れにマインズデールへ行った時、シスターがおまえの話ばかりしてたっけ。おまえのことを、ずいぶん聞きたがってたし。ご両親の職業とか家庭環境とか家族構成とか。その時、シスターは言ってたんだよ。『わたしがおまえの、あのお友達のことを知りたかったのは、単なる好奇心で
はないのよ。兄さんが聞いた声が本当だったのかどうか、確かめてみたかったの』って」 「……おまえは生まれ変わりって、本気で信じるか、エアリィ」僕はそう聞いてみた。
「信じてるよ。ていうか、知ってるって言った方がいいかな」彼はごくあっさりとした口調で答えた。「ただ、目で見たものと耳で聞いたことしか信じられない人には、わからないんだろうなって思う。また生まれ変わって人生やり直すより、天国で永遠に幸せでいた方が楽だって思うから、信じたくないってのもあるだろうし。それに生きてる間は前の人生なんて、意識されないから。その人にとっては生まれてから死ぬまでがすべてで、生まれる前のこと、死んだ後のことは知らない。今の段階では、まだ溝は深いし。でも、稀に空白の向こうから、記憶の断片が来ることもある。おまえ自身はどう思う、ジャスティン? おまえと先代神父さんとは、表面的には赤の他人だけど、でも、どこか深いところでつながっていそうだって、感じることってある?」
「ああ、そうだな。何回か神父さんの夢を見たことがあるんだ。その時には、全然知らない人だったけれど」
 僕は臨終の夢と戦争の夢を語った。のちにシスターの話と、そっくり符合したことも。
「へえ、じゃ、結構つながってるんだ。時間が短かったせいかな。でも、ジャスティンの前世がヨハン神父さんということは、前世は悲劇の聖職者で、今は良家の子息兼ロックミュージシャンか。相当な落差だなぁ。前世でがんばったご褒美かな」
「もし、そうだとしたらな。でも、そういう因果応報論って、仏教みたいだな」
「うーん、それとはちょっと違うと思うんだ。ご褒美になる場合もあるし、もうちょっとがんばって上を目指せって場合もあるし、逆に前世で業になっちゃっても、次で報いが来るとは限らないし、その辺は意外とランダムかもしれないなって思うよ。でも行き先は、途中で脱落しない限り、みんな同じなんだ。僕らの場合は」
「はあ?」
「でも、どんなに外の環境や立場は変わっても、芯は変わらないと思う。ジャスティンの場合もさ。僕は先代神父さんを、直接には知らないけど」
「僕だって、全然知らないよ! だから、なおさらに不思議なんだ」
「そういえば、ヨハン神父さんとシスターは、霊媒体質なんだって、キャラダイン神父さんが、前に言ってたんだ」エアリィは一瞬黙って僕を見た後、そう続けた。
「霊媒体質?」
「うん。というより、二人とも第六感が鋭いタイプじゃないかって思うんだけど。あの人たちの先祖に千里眼がいたとか、もっと遠い先祖は魔女裁判で殺されたとか、シスターが言ってたこともあるし。神父さんは予感とか気に敏感な人だったらしいし、シスターもね。彼女はドイツで恋人が戦死した時、その同じ時に恋人の幻を見たらしいんだ。それに、時々こっちの心の中を読んだようなことを、言う時があったし」
「ああ、それは僕も感じたな」僕は頷いた。
「そうやって考えると、結構シスターも素因があったんだなぁ。そうかぁ……うん。でも結局、ヨハン神父さんの方になったわけか。あの縛りのせいかな」
「何がだ?」
「いや、影の話……」
「は?」
「忘れて。ちょっと変なこと言っちゃったから!」
「おまえ、真面目に今日は変だぞ。ずいぶん、わけのわからないことを言って。ランカスター草原で会った時ほどじゃないが」僕は苦笑した。
「あれは洒落にならないから、本当に忘れて!」エアリィは首を振って、少し笑った。「今はたぶん、シスターが亡くなったことで、動揺じゃないんだけど、少し気分が波立ってるんだと思う。それだけだよ」
「おまえは小さい頃から、シスターにお世話になっていたらしいからな。わかるよ」
「うん。年に不足はないって言ってもね。もういないんだっていう事実は、慣れるまで、やっぱり寂しいよ。もう会えないんだし」彼は一瞬遠くを見るような目をしたあと、もう一度バッグに手を入れ、今度はクリーム色の封筒を差し出した。
「あ、そうだ。これ、アデルに頼まれてたんだ。おまえのとこ行くなら、ステラさんに渡してって。マダム・クロフォードの、春のショーの招待券」
「ああ。そうか。そういえば、ステラが言っていたな。ありがとう、とアデレードさんに伝えておいてくれ」
「うん。三月十二日だから、彼女は行けないと思うけど」
「おまえは行かないのか?」僕はそう聞いてみた。
「なんで? アデルが行ったとしても、たぶん僕は行かないよ」
 エアリィは不思議そうな表情で、少し笑った。そして、コートをもう一度はおると、帰り際、振り向いて僕を見、言葉を継いだ。「それはともかくさ……ジャスティン、おまえの人生の前には、たしかにたくさんの積み重ねがあったんだろうし、違う時代に生きてた、別の自分もいたんだろうけど……僕もいろいろつい言っちゃっといて、なんだけど、今はあまり、深く考えないほうがいいと思う、自分以前のことなんて。その日記になんて書いてあるか、僕は知らないけど、前世の言葉だ、なんて思って読んじゃうと、妙な気分になると思うんだ。でも、前がなんでも、後がなんでも、とにかく今は、おまえ自身なんだから。おまえはジャスティン・クロード・ローリングスで、他の何者でもない。当たり前のことだけどさ」
「ああ……ありがとう。そうだよな」僕は頷いた。
 あとでステラに、「アーディスさん、せっかく見えたのに、上がられなかったのね。なんのお話だったの?」と聞かれたが、僕は、「いや、あいつも忙しいらしくてね。彼と僕の共通の知り合いが亡くなったんで、僕にその人の形見を持ってきてくれたのさ。ああ、それとアデレードさんから、ファッションショーの招待券を君にって」とだけ答えた。
 エアリィと僕の共通の知り合いといったら、バンド関係かハイスクールの方か、そんなところを想像したかもしれないが、ステラはそれ以上の説明は求めなかった。むしろファッションショーの招待券の方に、気を取られたらしい。「あら、本当に送ってくれたのね。なんて優しい人なのかしら。あとで彼女にお礼の電話をかけなくちゃ」と、言っただけだ。お互いの電話番号は、きっとパーティの時に交換したのだろう。
 僕は内心ほっとした。この問題は妻に言っても、理解はしてもらえないだろう。たとえ彼女が、前世からの約束の人だったとしても。

 その夜、僕は仕事部屋で一人、古い日記帳を開いた。三八年前に亡くなっている人のものだから、ページは黄ばんでいるし、インクもかなり退色している。
 最初の日付は六四年前の五月、ヨハン神父さんとシスター・アンネがドイツから移住して入ったノヴァ・スコシアの修道会を出て、マインズデール・カトリック教会に赴任した時になっていた。そして次は日曜学校の話、次はバザー、その次は、ランカスター老人の臨終を看取ったいきさつが書いてある。どうやら日記と言っても毎日つけているわけではなく、特筆すべきことが起きた日にだけ記していたらしい。

【一九四八年七月X日
 ジョナサン・ランカスター老人の臨終に行ってきた。『良いのですよ、神父さん。私は死ぬのが嬉しいのです。やっとリディアに会えますからね。それにアリステアのことも、きっと天国へ行けば、わかるでしょうから』彼はそう言い残し、穏やかに死んだ。彼の悲劇的な話を町の人たちから聞いていた私は、人生の半分以上を深い悲しみと憤り、そして絶望の中で過ごさざるを得なかったこの人に対し、胸をふさがれるような思いを感じた。彼はかつての私――父母と兄、そしてシルヴィアを失った、私の絶望にも似ている。しかし神よ、かの人にもう少し前向きな希望や信仰があれば、これほど暗い人生を過ごさなくても良かったでしょうに。彼の来世に安らぎがあらんことを。そう祈りながら夜明けの草原を歩いていると、上空からふと一条の光が地面に降り、一本だけある若木に落ちるのが見えた。まるでヤコブの梯子のようだが、空に雲は出ていない。それに太陽は東の果てに上るところだった。明らかに太陽とは違う光だ。
 赤ん坊の泣き声がする。木の下へ行ってみると、赤ん坊が地面を這っていた。私はその子を抱き上げ、教会に連れ帰りながら、不思議な気がした。この子は、いつからここにいたのだろう、と。私が老人の家に行くため、そばを通りかかった時には、この子はいなかった。看取って帰ってきた、その間だろうか? しかし私にはなぜか、この赤ん坊があの光とともにやってきたような気がしてならない。アンネ・マリアはその説に懐疑的だが。
 私たちはこの子をアリステアと名付けた。服に縫い取りがしてあったからだ。アリステア・Lと。そういえばあの老人の行方不明の赤ん坊も同じ名前だった。もし生きていたならば、今はもう四十歳を超えている立派な大人だろうが。だが老人の臨終を看取った帰りに、彼が気にかけていた一人息子と同じ名前の赤ん坊を拾うとは、不思議な偶然に思える】

 その後何年分かの記述を経て、この時拾った赤ん坊がランカスター老人の息子にうり二つであることを老人の妹から聞かされ、不思議に思う下りがある。それはこんな言葉で、締めくくられていた。
【これは現実だ。空想的小説ではない。私の理性はそう思う。だが、もし本当に二人が同一人物なら、四二年も時を飛ばしたのは、偶発的な超常現象なのだろうか。それとも何者かの人為的な業だろうか? 後者だとしたら、いったいなんのために。いけない。私は少し神秘主義的になりかけている。そんなはずはないのだ】

 三十年近くに及ぶ長い記録は、こんな記述で終わっていた。
【一九七六年五月X日
 不思議な夢を見た。正確には、見たとは言えないかも知れない。視覚は何もなかった。羊水に浮かぶ胎児のように、暗くなま暖かく、心地よい空間しか。
 遠くから声が聞こえた。耳にではなく、心に聞こえる声だ。それは非常に印象的な、荘厳かつ清澄で、穏やかな声だった。私のことを『我が後継者』と呼ぶこの声は、驚くべきことを語った。千年期が切り替わって二十年あまりで、我々の文明は終焉になると。私の命は終わりに近づいているとも語った。自分ではそれほど重病ではないと思うが、自らの死は、さほど恐れるつもりはない。しかし、世界の終焉とは。その声は言う。私の次の人生で、その世界の終焉と再生を見ることになるだろうと。次の人生? 私はキリスト教徒だ。しかも司祭だ。仏教徒ではあるまいし、輪廻転生は信じない。しかしその声には真実の響きがあり、私は試しに問うてみた。次の人生で、私はいったい誰になるのだと。その声は答えた。(あなたは生粋のカナダ人男性として、トロントに生まれます。裕福で愛情深い医師の家に生まれ、両親と兄と姉妹、使用人たちに囲まれ、友情にも恵まれて、何不自由なく育つでしょう。シルヴィアさんの生まれ変わりの女性とも、結ばれるはずです。来世のあなたは聖職者にはなりません。あなたはロックミュージシャンとなり、あなたのバンドは世界中に受け入れられ、おびただしい数の若者たちを熱狂させるでしょう)と。
『なんだって?』私は思わず笑わずにはいられなかった。なんというジョークだ。アリステアのような芸能人、しかもロックミュージシャンとは。もっとも私は音楽を愛好し、ウッドストックにも価値を認める、異端な聖職者ではあるが。
(本気にしていませんね)その声は言った。
(しかし、あなたが本気にしようとしまいと、それは事実なのですよ。あなたのこの生は、まもなく終わる。しかし今度の休息は、わずか十七年にも満たない短さです。ここの間合いは、いつも非常に猶予がないのです。私もそうでした。あなたは再び、この世にやってくるでしょう。まったく違うあなた自身として。そのあなたには、重大な使命があるのです。時の輪を閉じるために記録を残し、起源の子に出会って、彼女の変革を手助けする。そして世界の終焉と再生を見る。あなたの次の生は、非常に重要な、鍵となる人生です。私は次の生でも、あなたに会いに来ます。起源子が覚醒した後には、私自身の姿を見せることもできるでしょう。その時まで、ごきげんよう)
 声は聞こえなくなり、私は目覚めた。全身汗びっしょりだった。その夜、アリステアが突然ロサンゼルスから帰ってきて、同じく不思議な夢を見た、いや、聞いたと語った。  私たちはその夜遅くまで、いろいろと話し合った。アリステアは自分の命はあと九年ほどで、次の生は世界再生の後、起源子の子供として生まれると言われたらしい。
『私は聞き損なったが、その起源子とは、いったいなんだか聞いたかい? 彼女というからには、女性なんだろうが』と、私は聞いてみた。アリステアは答えた。
『僕もはっきりとはわからないのですが、あの声が言うところによると、世界の純化のために生まれる子なんだそうですよ。魂に光の種を蒔き、永遠の命への祝福を運ぶ子なのだと。輪をつなぐ接点の役割を持ち、非常に重大な意味を負うとも言っていました。そしてその子が生まれて四半世紀で、この世界の終焉が訪れるそうです』
 世界の終焉か。いや、それから再生するのだから、滅亡ではない。それが希望だ。ノアの洪水のように、この病んだ世界が浄化されるためには、そんな荒療治しかないのだろうか。そういえばその声は、この文明の終わりを引き起こす災いのことを、『グランドパージ』と呼んでいた。大いなる禊ぎ――なるほど。しかし、それを引き起こす大いなる神とは、いったいなにものなのだろうか。それが私の信じている神より、さらに大きなものであるならば、我々は受け入れるしかないのだろうか】

 記録はそこで終わっていた。僕は思わず深いため息をつき、静かに本を閉じた。マインズデールへ行って、シスター・アンネからいろいろと話を聞いた時、アリステアさんが突然帰ってきて、そんな話をした三日後に、ヨハン神父は急な病に倒れ、ほどなく世を去ったと言っていた。昔、夢で見た神父さんの臨終の光景が、再び頭の中によみがえってきた。僕はかすかな戦慄を覚えた。
 これが今から三八年前に、ヨハン神父の手によって書かれたものなら、彼が僕の前世だという疑いは、ますます強まる。その夢の中の声が言っていたという彼の来世の姿は、いかにも今の僕に、しっかり当てはまる。だから、きっとシスターも確認のために、エアリィに僕のことを詳しく聞いたのだろう。そして、ますます確信を深めたに違いない。それに、ヨハン神父が亡くなったのは一九七六年五月、僕が生まれたのは九三年三月。その間は本当に、十七年弱だ。それに僕も夢の中の声を聞いたし、その声の主が姿を現したのも見た。実体ではなく、幻影だが。
 あの人は以前、声だけの時、(あの方が目覚めなければ、私も姿を見せることが出来ない)と言っていたが、幻影としてでも、姿を見たということは、その『あの方』というのは、目覚めたということか。そして日記の中では、『起源子が目覚めたあと』となっている。では、『あの方』と起源子は、イコールなのか。しかし起源子というのは、そもそもなんなのだろう。浄化のために生まれる。輪の接点。永遠の命への祝福を運ぶ――さっぱりわからない。起源子に会うとか、起源子の子供という表現がなされるところを見ると、人間なのだろうが。しかも神父さんが言っていたように、『起源の子と会い、彼女の変革を助ける』という文脈なら、その起源子と彼女はイコール、つまり女の人だ。『あの方』――女王陛下と同じ、Her Majestyという言い方からしても(観念的には、だが)、間違いないのだろう。しかしそれは、誰なんだ? 僕は会っているのか?
 僕が今までの人生で重要な出会いをした女性なんて、ステラしかいない。でも彼女は確か、ヨハン神父さんの婚約者だった、シルヴィアさんの生まれ変わり――なのかもしれない。確証はないが。でも日記の中でも、『シルヴィアさんの生まれ変わりの女性と結ばれる』と書いてあったし、未来世界で見た夢の中でも、ステラからその女性に姿が変わった。たぶん、きっとそうなのだろう。起源子というのがそもそも何なのかはわからないが、なんとなくステラは違う気がする。そうなると、あとは誰がいる? 僕が知っている女性――母、ジョアンナ、ジョイス、ホプキンスさん、レオナ、フォーリー女史、他にも数人の女性スタッフ、ビッグママ、エステル、アデレード、パメラ、ポーリーン――ああ、義母やトレリック夫人やメイドさんたちも、女性だが――でも、誰も当てはまらないような気がしてしまう。それでは、僕はまだ会っていないのか。これから出会うのか?
 僕は頭を振った。もうこれ以上考えるのはやめよう。エアリィが忠告してくれたとおり、自分が生まれる前のことなんて、深く考えるべきじゃない。僕は僕自身であって、他の誰でもないのだから。そう、明後日あたりにマインズデールに行って、シスターのお墓参りをしてこよう。そして、それで終わりにしよう。
 僕は首を振り、日記帳をもう一度布にくるむと、本棚の一番奥へしまった。再び取り出して見るつもりはなかった。時計を見ると、もうすぐ午前四時だ。思ったより遅くなっていたらしい。寝室は暗く、僕のサイドのスモールライトだけが小さく灯っている。ステラは眠っているようだった。隅に置いたベビーベッドの中で、クリスもすやすやと眠っている。僕はパジャマに着替え、ライトを消して、妻を起こさないよう、そっとベッドに潜り込んだ。しかし彼女は目を覚ましたようだ。
「ああ、ジャスティン……遅かったのね」ステラは小さく、眠そうな声を出した。
「ごめんよ。起こしちゃったね。こんなに遅くなっていたなんて、知らなかったよ」
「ええ……寝る前にあなたのお部屋をのぞいたら、何かを一生懸命読んでいるようだったから、邪魔をしてはいけないと思って、先に休んだの。起きていようかとも思ったのだけれど」
「とんでもない。先に寝ていてくれて良かったよ。じゃあ、おやすみ……」
「おやすみなさい……」
 ステラはすぐに再び軽い寝息を立てて、眠りはじめた。僕も眠りの誘いを感じた。傍らに眠る妻のぬくもりを感じながら。それは今の僕自身、ジャスティン・クロード・ローリングスとして存在している自分の、揺るぎない存在感だった。

 春からは、新しいサイクルが待っている。三月の末になると、新しいアルバム制作のことを、たびたび考えるようになった。前作のとんでもないセールスをキープできるかということより、最大のプレッシャーは、もう一枚の『Childern for the Light』にならず、しかもそれと同等以上のクオリティを持った作品を作らなければならないということだった。クオリティ面の目標が達成できさえすれば、セールスという結果はあとからついてくるだろう。そんな自負があったし、仮にもしセールスが思ったほど伸びなくとも、アルバム自体に満足があれば、かまわない。
 『Children〜』のモンスターセールスのおかげで、配給レーベルは最上級の待遇で、契約更新をしてくれた。関連収入が僕よりちょっと少ないミックやジョージ、ロビンでも、家と車を買って、派手に贅沢さえしなければ、三、四十年くらいは楽に生活できるだけのお金を手に入れている。だがクオリティ、それは大いに問題だ。『Children〜』は、奇跡の名盤だ。みんながそう思ってくれたからこそ、驚異的なモンスターセールスを獲得できたわけだが、逆に言えば、奇跡が二度続けて起きるだろうか? 前作ではすべての状況がプラスに働いて、あれだけの集中力とテンション、爆発力を生んだのだが。
 プレッシャーは重くのしかかっていた。家族といる間はほとんど考えもしないが、ミュージシャンとしての自分に戻ろうとすると、次作に対する不安が頭をもたげてくる。いざ新作用の曲を書こうとすると、頭の中が真っ白になりかける。それでつい「もういいや」とばかりにギターをしまい、仕事部屋を出て、妻や子のいる安楽な世界、リビングルームへ向かってしまう。一週間ほどはずっとそんな調子だった。
(これじゃ、いけないなあ)僕はギターを弾きながら、時おりため息をついた。
(でも、前作の曲を超えるものを作るっていうのは難しいよ。だって……)
 考えてみれば、前作の収録曲は、ほとんどエアリィが作ったものだ。彼の目覚めた天分の爆発が生んだ曲だ。僕はただ、ついていっただけ。
「もう、次作もエアリィに任せた方がいいかな」
 思わず声に出して言い、ペンをくわえながら苦笑した。でも、彼はプレッシャーを感じているだろうか。僕が感じた思いは、彼にも重圧になっているだろうか? 初めてプロとしてのステージを踏んだ時『プレッシャーってどんなの?』と、あっけらかんと言っていたエアリィのことだから、重圧に苦しむなんていうことは、あまりありそうもないだろう。でも、前作の爆発力を繰り返すことができるだろうか? モンスターの目覚めというエッジから再生したあの異常なテンションの高さは、今回は望めないだろうし――。
 僕も精一杯やろう。エアリィがどうであれ、自分自身でもベストを尽くさなければ。僕は気をとり直して、ギターを手にした。うまく行かなくとも、毎日二時間だけは努めてみようと。努力の末、なんとか納得の行くものが二曲だけ作れた。結果的に一曲はアルバムに収録され、もう一つはシングルのボーナストラックになった。

 四月に入ってまもなく、休暇は終わった。プリプロダクション作業のために、去年同じ作業をしたあの練習所(今年に入ってからマネージメントが買い取ったようで、優先的にいつでも使えるらしい)、そこに集まる時がやってきたのだ。
 現場で顔を合わせた時、ミックやロビン、ジョージはかなり緊張した面もちだった。僕もそうだろうと思う。気にしないようにとはいっても、やっぱり気になってしまう。このアルバムがどういう出来上がりになるかが。
 でも、そんな気負いは最初だけだった。エアリィが前作と同じようなペースで、突っ走ったからだ。彼はオフ中に二曲を書き、スタジオ入りしてからは、僕らとの合同セッション最初の四日間で、三曲書いた。その後も僕らのアレンジ作業をときおり見学しながら、ポンポンと追加を出してくる。最終的には二週間で、アルバムに必要なマテリアルが揃った。今回は長めの曲が二、三あったので、全部で九曲だが、そのクオリティは前作と比べても、一歩も引けを取らないものばかりだ。
 いきなりそれだけの課題を出された僕らインストの四人は、曲を最大に生かす演奏とアレンジを見つける、その作業に追いまくられた。余計なことなど、何も考えられない。僕が(おそらくミックやロビン、ジョージも)気をつけていたのは、前と同じようなパターンを使わないこと、それだけだ。
 五月の半ばにプリプロダクションが終わり、デモが出来上がった時、僕は身体の底から、深いため息をついた。この感覚は、前作のプリプロダクションが終わった時と同じ。そう――前回と同じ。試行錯誤を重ね、求める音楽を見つけた。その深い満足感と、そこに至る長い道のりで費やされた、精神的消耗感。作業の間も、その空間を支配していたのは、同じテンションの高さと集中力だった。気負いやプレッシャーは、いつの間にかなくなっていった。そして出来上がったものは、前作をさえ上回りそうな楽曲群たちだ。

 ケベック地方の高原にある、Swifterのセカンドハウス兼プライベートスタジオ、ラセット・プレイスでレコーディングに入ってからは(五月下旬から六月までの夏のシーズンを占領することになり、申し訳なかったが、三人の遺族の方たちは快く了承してくれた)、作業は前回と同様に、ぐんと軽くなった。前回のモンスターセールスで制作費にも余裕ができたため、たっぷり賃貸料を渡すことも出来、かつてそこで料理人をしていた人に、再びお願いすることも出来た。そのために、ビッグママとはプリプロダクションまでしか、一緒ではなかった。僕にとっては少々寂しかったが(ほかの四人も同じようなことを口にしていた)、ロブだけは『やれやれ、やっと母さんと離れられた』と、ほっとしたような面持ちで言っていたものだ。
 今回はレコーディング途中で一曲、新規に出来た。レコーディング作業もあと三曲になった六月半ばのある日、僕らは新しい曲の録音に、午後から取りかかる予定だった。その前に食堂で、ローレンスさんとロブも交えて遅い朝食をとっている時、エアリィが僕らに言ったのだ。「レコーディング、もう終盤だけど、もう一つ曲が出来たんだ」と。
「新曲か? いつ作ったんだ?」僕は問い返した。
「昨夜、っていうか、寝てる間かな」
「寝ている間に出来たのか?」ジョージは呆れたような口調だった。
「そう。夢なんだよ。明け方に見た夢なんだ。最初に電話が鳴ってて、それを取ったら声がするんだ。英語じゃない、どこかの別の言葉で。そのとたんに窓がばたんと開いて、別世界が展開するんだ。その夢ん中でBGMみたいに流れてた曲なんだ。それがすごく印象的だった。でも夢で聞いたのだから、ひょっとして人のかもしれないけど」
「そうか。じゃあ、食事が済んだら、とりあえず聞かせてくれよ。曲の長さはどのくらいだ?」僕はきいた。
「うーん、どのくらいかな。五分に少し足りないくらい、だと思う」
「そうか。それくらいなら、ものによっては入るよ。まずは聞かせてくれないか」
 ローレンスさんがそう言い、僕らはみな頷いた。
 夢のモチーフが曲になることもあるから、決してバカには出来ない。もうアルバム用マテリアルは揃っているけれど、もし新しい曲が良いものなら、追加してみても悪くない。あまり長い曲だと、また調整の必要があるが、五分前後までなら許容範囲だ。ただ、聞いてみないと既成曲なのかオリジナルなのかも、わからない。僕を含め、その場のみながそう思ったようだった。
 しかし、今はレコーディング終盤なので、プリプロダクションの時と違い、一つの部屋にすべての機材が設置されているわけではなかった。スタジオ部にはコントロールルームをはさんで、大小二つの部屋があるが、ドラム、ベース、ギターは大ホールに、キーボードとヴォーカルマイクは小ホールにセットされている。もし新規曲が採用なら、アレンジ作業で、もう一度大ホールに楽器を集める必要がある。

 朝食が終わり、三、四十分ほど食休みをしたあと、僕たちは食堂を後にした。
「とりあえず、セットしなおしたあとで没だったら、また手間かかるから、ここでいいよ」エアリィはラウンジで立ち止まり、あたりを見まわした。
「でも、アカペラもちょっとあれだから、何か伴奏できるものないかな……」
「アコースティック・ギターなら、そこにあるぞ。でもおまえ、弾けるか? 僕が伴奏しても良いが」
 僕はラウンジの隅に置いてあったアコースティック・ギターを取り上げ、チューニングを確認した。これは僕のものではなく、元からアクセサリーのように置いてあったものだ。ローレンスさんは時々弾いていたようだし、僕も一、二度弾いたことがある。
「簡単な伴奏くらい出来るようになったよ、大丈夫。貸して」
 エアリィは僕からギターを受け取ると、ちょっとはじいてから、弾き始めた。
 彼にピアノができることは知っていたし、ヴァイオリンもできる。一昨年の集中練習の時、覚えたのだという。でも写実的記憶と運動神経の連動技のせいか、彼は本来左利きなのだが、楽器は普通の右利き用を弾く。ギターもヴァイオリンも。「ピアノの左利き用って、あんまりきいたことないし、どれも両手使うんだから、別にそう違わなくない?」と、本人は不思議そうに言うが。
 それはともかく、エアリィがギターを弾くのを、僕は初めて聞いた。コードだけだが、カッティングは正確で歯切れが良い。リズムギタリストとして手伝ってもらっても良いかも、と思ってしまうほどの腕前だった。でもやっぱりエアリィは、ステージではヴォーカルに専念させたい。インスト部分だけなら良いが、楽器を持っていると、どうしても動きが制限されるし、歌に百パーセントパワーを集中させることができなくなるかもしれない。スタジオワークなら、僕が多重録音ででも処理できる。たぶん本人もそう思っているから、そういう申し出はしないのだろう。
 彼は歌い出した。僕は思わず、ぞくっと全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。驚きだ。今までに一度も聞いたことがないし、第一こんな桁外れの調べが既製曲であるはずがない。まるで循環メロディのようにも聞こえる、不思議なメロディ。一度聞いたら耳について二度と忘れないほど印象的で、強烈なフックに満ちている。

 眼を開いて、周りを見て
 窓を開けて、音と光を入れて
 何が見える
 何が聞こえる
 内なる窓を開けて
 自分自身の奥深くを見つめるといい

 打ち捨てられた炎は燃え続けている
 君の心の奥深く、秘密の旅路の果てに
 打ち捨てられた炎、忘れられた言葉
 禁断の約束、破れない防御

 それは君の中、奥深くで燃え続ける
 暗い波間に漂う光
 見下ろせ、自らの内側深く

 打ち捨てられた炎、忘れられない言葉
 破ることの出来ない使命、約束された道
その炎を見出した時
 それはヴィジョンを持った火になる
 それは秘密の炎となり
 その熱は君の心を焦がすだろう

 炎の光が、道を照らす
 その道の行く先が、君のゴール
 炎の熱が、君を温めてくれる
 だから前を見て、怖れないで

 光の炎が連なって、路となっていく
 その路を歩き続けるんだ
 最終到達点にたどり着くまで
 生まれた時に定められた最後のゴールまで
 光が君とともにある
 怖れないで
 ただ歩み続けるんだ……

「ああ……」エアリィはそこまで歌うと、ふと小さな声を上げて止めた。そしてしばらく黙った後、頭を振って呟くように言った。「わかった……これは僕の歌だ。だから、夢の中で響いてたんだ。昨夜寝る時に、いろいろ考えてたから……」
「どうした……? まだ途中だろ」僕は鳥肌が立つような気分を感じながらも、急にやめてしまったわけがわからず、そう問い返した。
「うん。でも歌詞はもう、ほとんどあとはリフレインだよ。最終ヴァース以外は」
 エアリィはもう一度頭を振ると、小さくため息をついてから、ギターを握り直した。
「途中で止めちゃったから、もう一度、頭からフルでやるよ」
「ああ。これはすごい曲みたいだ。恐ろしく桁外れだ。ぜひフルで聞かせてくれ」
「わかった」
 そして彼は通しで歌った後、聞いてきた。「これ……どうしようか?」
「アルバムに入れよう。おまえがかまわないなら」僕は言った。みなも頷いている。
「うん……じゃ、追加しよう」エアリィは少し黙った後、頷いた。意を決したような口調だった。
「それじゃ、次の曲のレコーディングに取りかかる前に、この曲のアレンジを考えて、仕上げてしまおうか。仕上がるまでに、最低でも二、三日かかるだろうから」ミックがそう言い、僕らも頷いた。
「待って。機材移動させる前に、一応インスト部もやってみていい? これ、夢のサントラだから、フルパートあるんだ。歌もオクターヴユニゾンだったけど、ギターもシンセもベースもドラムも、全部のパートがあったから」
「そうか。じゃあ、とりあえずどんな風だったか教えてくれよ。参考にするから」
 僕は言い、他の三人も頷く。
「OK、わかった。じゃあ……スタジオで実際やってみるよ」
 エアリィはスタジオで、全パートを実演してみせた。最初に大スタジオでドラムスを叩き――ときおりフィルインが入るほかは、比較的シンプルなパターンが、最後までずっと繰り返される。それが終わるとベースを弾いた。そして小スタジオに移動して、キーボートのパート。最後にもう一度大ホールに戻ってきて、ギターを弾く。ギターソロまで。そして録音したパートをすべて合わせ、もう一度歌った。
 それは恐ろしく大胆な、そして風変わりなアレンジだった。すべてのパートが一見お互いに関連がなさそうなリフだ。リズムの取り方も微妙に違う。一緒にあわせたらバラバラになりはしないかと、ちょっと心配になるほどだったし、たしかに少しでもタイミングがずれると、目も当てられない結果になるだろう。でも完璧に決まると、なんとも言いようのないほど、不思議な効果が生まれた。まるで万華鏡のように様々な模様を描きながら、絡み合ってはまたほぐれる、美しく妖しい音の渦巻きが出来る。ドラムのビートが心臓の鼓動のように全体の統一性を支え、さらにその上に歌が乗ると、思わず全身鳥肌が立ってしまうほど、すさまじいインパクトを放射する。僕らでは、決してこんな方法は考えつかなかっただろうと思う。でも出来上がってみると、この曲に他のアレンジがあるなんて考えられない。僕は即座に、そう認めざるをえなかった。ギターソロまで規定されたのは初めてだったが、僕がどんなに別のソロを作ろうと思っても、決してそれ以上にぴったり曲に、はまりはしないだろう――そう思えた。
 『Abandoned Fire』というタイトルが付き、夢の中の映像を再現したビデオクリップとともに、新作からの第一弾シングルとして、のちに世界中を席巻することになるこの曲は、わずか一日で作り上げられた。四分四八秒、イントロからコーダまで、インスト陣が検討を加える余地は、まったくなかった。エアリィが全パート録ったテイクを採用しても良かったくらいだが(ガイドなしで、まったく他の音のない状態で録ったにもかかわらず、出来上がりは四つの楽器が完璧に合って、シンクロしていた)、それでは僕らインスト陣の立つ瀬がない。ミックがキーボードの機材を大ホールに運び込み、午後を通して、僕らインストの四人は練習を重ねた。そして夜の八時ごろ、なんとか完璧に出来るようになった。
 夕食のあと行われた本番のレコーディングも、全体の統一性を重視するため、インスト部は一斉録音となったので、二時間あまりで全楽器のレコーディングが上がり、ヴォーカルもワンテイク。最初にオクターヴユニゾン部を録り(ここまで来ると、もう超音波の域だが。「コウモリを打ち落とせるな」と、ジョージが冗談交じりに言っていたほどだ)、最後にメインラインを歌う。ヴォーカル録音はいつもそうだが、決して途中で切ったりはしない。イントロから聞いて、最後まで一気に。文字通りのワンテイクだ。
 ヴォーカル録音に立ち会っていた僕の脳裏に、イメージが浮かんできた。宇宙空間に炎がすぅっと走って、路を創って行くイメージ。そしてエアリィが夢に見たのと同じだろう、幾多のシーンを。それはあとでPVを撮った時、確認された。同じものだ。その背後にあるのは、畏怖と悲壮感、恐ろしいほどのインパクトと、ぎゅっと胸が締め付けられるほどの、名状しがたい感情。悲しみ、切なさ、それを超える強い意志。背筋に戦慄が走り、鳥肌が立つ。そのイメージと感情は、あとで話してみてわかったのだが、その場に立ち会っていた全員が感じていたようだった。




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