The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(10)





 一時から、ホテルの小会議室でミーティングが始まった。その席でまず、今後メンバーの家族や関係者を卑劣な妨害者たちの手から守るため、五人全員の自宅と実家に(スタンフォード兄弟とミックの実家は名士ゆえ、もうすでに警備体制が厳重なので、実家に関しての対象はエアリィの継父ステュアート家と、僕の実家だけだが)、二四時間体制の非常セキュリティシステムを取り付けることと、エアリィと僕の実家メンバーを含む、五人それぞれの家族全員と親しい親戚、友人たちに、警察とセキュリティ会社へ直結する、携帯ベルを持たせることが決定された。これで彼らが無頼漢に襲われる確率は激減するだろうし、万が一運悪く被害にあっても、最小限にくい止めることができるはずだ。
「もっと早くそうすべきだったんだ。僕らの対応が甘かったと反省しているよ」
 ロブは少しすまなそうな様子で、僕らを見ていた。
「でも、実際に被害が出る前で良かったよ」とは、みんなの一致した意見だ。
 それから定例のミーティング。各人の体調や希望、ステージの感想などの話し合いが持たれる。その頃、ランチが運び込まれてきた。普段は朝食が出てくるが、今日は開始が遅れたため、ランチミーティングだ。
 前もってそれぞれの希望を聞いて持ってきてもらったランチセットと、コーヒーが配られる。コーヒーはレオナとセキュリティの三人が、それぞれの席に置かれたカップを、最初は伏せて置かれているので、一人がそれを上向きにし、もう一人がポットからついでいく。その光景を見ながら、僕は一瞬背中にちりっと寒気が走った。あの脅迫の交換条件を実行する気は、毛頭なかった。それでも、もしも僕がより切羽つまった状況で、第三の道がない究極の二択を迫られたら、僕は苦悩しながらも、最後には妻と子を選ぶだろうという予感がある。でもその場合、果たして機会があるのだろうか?
 ミーティングで座る席はほぼ決まっていて、エアリィは僕の左隣に座る。彼は左利きだから、ソーサーとカップはセットする時に、左側に移動させるのが常だ。そうなると僕の右隣にいてくれれば、ちょうどすぐそばにカップが来て簡単なのだが、そこはロビンの席だ。僕の左側のさらに左サイドになると、少し距離がありすぎる。あの男が言ったようにちょっと手を伸ばして、というわけにはいかない。エアリィの左サイドに回ってカップに薬を放り込むのは、はっきり言って、恐ろしく目立つだろう。それに席を外す言い訳は、トイレくらいしか思いつかないが、ドアは反対側だ。不自然でなく実行するためには、僕が先にミルクを使って彼に回す時、その中に薬を放り込むくらいしか思いつかないが、そのミルクをまた誰かが使えば(正面に座ったジョージやエアリィの左隣のカークランドさんは普段ブラックで飲むが、少なくともレオナは確実に使うだろう)、二次被害を引き起こす。それにコーヒーの中なら簡単に薬は溶けるだろうが、ミルクの中ではそれほど溶けないかもしれない。むしろ後に使ったレオナの方が、ひどいことになるだろう。ミルクは使えない。それに、たとえ仮に何らかの方法で、疑われることなくエアリィのカップに薬を落とすことが出来たとしても、彼が何も知らずに飲もうとするのを、僕は平然と眺めていられるだろうか――激しい寒気が走り、思わず叫び出したい衝動にかられた。やっぱり無理だ。そんなことは。
 エアリィは何かを考え込んでいるように見えた。片手で頬杖をつき、ランチのトレーを渡された時も、どことなく上の空で受け取っていた。コーヒーを注がれた時も、普段はすぐ「ありがと」と言うのだが、今回は二呼吸ほど遅れている。
「なんか考え事か? エアリィ」ジョージが何気ない調子で、そう問いかけていた。
「うん。そんなたいしたことじゃないんだけど、なんか、昨夜見た夢のことを、ちょっと思い出したんだ」エアリィは小さく首を振り、そう答えていた。
「どんな夢を?」ミックに聞かれて、エアリィはちょっと黙ったあと、肩をすくめて答えた。「人魚姫の夢」と。
「はあ?」あまりに予想外の返答に、僕らはみなそう言ったきり、黙った。
「なんだよ、その人魚姫の夢っていうのは」僕はやっと声を上げた。
「だから、文字通りの意味だよ、ホントに。ただ、魚の尻尾はなくて、ちゃんと足があって、普通に服着てるんだけれど。でも夢の中では、海の中に住んでる女の子だったんだ、僕は」エアリィはかすかに頭を振り、言う。「それでその娘は、まあ、夢の中じゃ自分なんだけど、陸地に住んでる若者の存在がだんだん自分の中で大きくなっていって、会いたいと思ってしまう。でも海を出るには、何か大きな代償が必要だって。それで海の中の岩に腰掛けて、行きかう魚をじっと眺めながら思い悩んでたら、急に魔女が目の前に出てきたんだ。本当に、ディズニーキャラクターに出てきそうな奴で、そこから展開がまんま人魚姫になっちゃった。その魔女は茶色の液体の入ったビーカーみたいなものを突きつけて、言うんだよ。『これを飲めば、いとしい若者の住んでいる国に行ける。ただこれを飲むと、おまえは声を失うだろう』ってさ」
 なんなんだ、そのシチュエーションは! 僕は思わず絶句した。そういえば、人魚姫も人間になる代償に声を失うのだったけれど、その奇妙な符合はなんなんだ。茶色い液体というのもコーヒーを連想させる。僕が受けた脅迫の交換条件は、エアリィには知らされなかったはずなのに。僕は思わずロブの顔を見たが、ロブはただ首を振り、しんから怪訝そうな顔をするだけだった。それに、二度寝をしていないなら、それはたぶん昨夜の夢だ。僕がロブに話をする前の――。
「それで、どうしようか、声を失ったら歌えなくなるから困るな、なんて夢でも思っちゃってて、迷ってるうちに目がさめたんだけど……」エアリィは僕らの様子には気づかないらしく、少し首を傾げながら話を続けていた。「起きたら、なんか妙に動揺を感じてた。なんだろうな、これって。前半は、たまに見る太古の夢なんだ。懐かしいけど、切ない夢。海の中に泡がたくさん浮かんでて、その中に家があって、泡の中は普通に空気があるんだ。僕らはイルカか鯨みたいに、その間を泳いで、時々海面に出て。海面にはたくさんのフロートみたいなものが浮いていて、そこは小さな農園とか家になってて。でも魔女が出てきたとたんに、一気に二次元っぽくなって、イメージぶち壊しって感じで。今までそういう類の夢で、そんな邪魔が入ることってなかったんだ。いや、海を出る代償って、そんなんじゃなかったはずだ。本物の人魚姫と違って。そこを深く考えてみようとしたら、名前が浮かんできた。レルヴィナン……そして、スピアラス。その名前が浮かんできたら、なんか心のうんと奥深いところに、細い針がほんの少し刺さったような気分になったんだ。海を出る代償は、彼らなんだって。普段は意識に上らせないようにしてたことだけど――うん、もうこれ以上考えるのはやめた」
 彼は頭を振り、手を伸ばして、カップの中に砂糖を一つとミルクを入れた。スプーンでかき混ぜたあと、しばらくは飲まず、ランチを半分ほど食べてから、カップを手に取った。その間、僕らもみな食事をしていたが、僕はふと気になって目を向けた。大丈夫だろう――そうは思っていても、あの脅迫を知っていると、やはり少し構えてしまう。周りを見ると、そう思ったのは僕だけではないようで、みなが一斉に視線を注いでいた。(これは絶対、変に思われるな)と、一瞬肩をすくめたくなった。さすがにエアリィも気づいたようで、「何? どうしたの?」と、怪訝な顔で僕らを見る。が、僕らが何か言う前に、彼は一瞬驚いたような表情になった。そして飲もうとして持ち上げていたカップから、いきなり手を離した。左手の力が瞬間抜けたような感じで、手からカップが離れ、支えを失ったカップは二十センチほど落下して転がり、テーブルの縁ぎりぎりで止まった。
「おい、どうした?」こう問いかけるのは、今度は僕らの番だった。
「あ、ごめん!」エアリィも驚いたような表情で、転がったカップを見、拾い上げてトレーに戻した。「びっくりした。いきなり頭の中に、夢で見た魔女がドアップで浮かんだんだ。ビーカー突きつけて笑ってる姿が。それでつい、手離しちゃった」
「おまえが見た人魚姫の夢の……魔女か?」僕は一瞬考え、聞いた。
「うん、それ。でもカップ壊れなくてよかった。あ、ありがと。自分で拭くからいいよ。」
 エアリィはレオナが持ってきた雑巾を受け取ろうとした。が、手を伸ばしたとたん、「熱っ!」と小さく叫んで、ジーンズの左足、太ももあたりを押さえた。テーブルを伝って、コーヒーがかなりこぼれたようで、直径七、八センチくらいにわたって濡れている。
「大丈夫か?」僕は聞いた。
「うん。でも、なんかすごく熱かった。少し時間たってるのに、なんでだろ」
 彼は手を離した。僕は思わず息をのんだ。コーヒーがこぼれた部分のジーンズの繊維がぷちぷちっと切れていき、見る間に穴が開いていく。その下の皮膚も白からピンクに変わっていき、そして赤さを増していった。
「えっ、なにこれ」エアリィも目を丸くして見ていたが、「痛っ」と小さく声を上げて、再び手で押さえようとする。
「手で触らないほうがいいぞ!」僕は立ち上がり、反射的に言った。「それで間違っても、その手で目なんかこするなよ! 失明しかねないから。すぐ洗った方がいい!」
「……まさか。いつの間に……?」
 その隣に座っていた専属スタッフのカークランドさんも青ざめた顔で、呆然としたように呟く。彼も立ち上がると、レオナが持っていた雑巾を手にし、四つに折りたたんで、濡れたジーンズの上から素早く押さえた。その雑巾の隅っこを手で持ち、トレーの上に放り投げるや否や、反対の手でエアリィの腕をつかみ、鋭く声をかけていた。
「部屋へ帰ろう。急いで洗い流さないと」
「えっ、ミーティングは?」
「後からまた来ればいい。早く洗わないと、どんどん火傷が進行するぞ。早く!」
 カークランドさんは空いた方の手でバッグをつかむと、エアリィを引っ張るようにして、部屋を出て行った。セキュリティのジャクソンも後から続く。
「これは……自分で拭かない方がいいわね」
 レオナはトレーの上の雑巾に一瞬手を伸ばしかけたが、すぐに思いとどまったようだ。カップはトレーとテーブルの境目あたりに当たって転がったらしく、半分はテーブルの上に、もう半分はトレーの中にこぼれたらしい。トレーの中にコーヒーが浅く溜まり、同時にテーブルの上にこぼれた液体が、床に流れていく。椅子の座面に落ちたしずくは、まるでスローモーションのように、丸い穴となっていった。
「ホテルに連絡して……処理してもらおう。劇薬らしいと……」
 ロブも立ち上がり、そのさまを呆然とした表情で見ながら、掠れた声を出した。

 数分後、ホテルのスタッフによってコーヒーは始末されたが、トングにはさんだペーパータオルで拭き取ったあとのテーブルや床には、白く毛羽立ったような腐食のあとが残り、ランチのトレーには浅い穴が開いていた。トレーの上でコーヒーを吸った雑巾は、恐ろしいほどボロボロになっていた。それもろとも、拭き取ったペーパータオルはすべて、金属バケツの中に入れられている。
「あの、これは検査にまわした方がいいですか?」ホテルの係員にそう尋ねられ、
「お願いします」と、ロブが硬い声で頷いていた。
 その間、僕は言葉もなく見つめていた。ほかのみなも、じっと視線を据えている。テーブルと床がきれいに拭かれ、ホテルのスタッフが部屋から出て行った後、僕らは顔を見合わせた。みなの表情は、驚きと懸念、恐れに染まっていた。たぶん僕もそうだっただろう。
「なんなんだ……? 結局薬は……入ってたんじゃないか! どうしてだ?!」
 ジョージが明らかに狼狽した声を上げ、ついで僕を見た。ロビンも心配げな顔で僕を見る。ミックも――。
「違う……僕じゃない!」
 僕は思わずテーブルを叩き、激しく首を振りながら、再び立ち上がった。視線を集められたからと言って、みんなが疑っているわけではないことは、感じとれる。でも彼らは、知っているはずだ。昨夜の脅迫者の話を、すべて。薬はロブに預けた。そのことも。その脅迫内容が実行されたのを目の当たりに見ては、彼らが動揺するものも無理はないだろう。
 そして一番混乱していたのは、僕自身かもしれない。あの薬は、ロブに渡したはずだ。僕は──僕はやっていない。でも実際には、明らかにあの薬か、さもなければ同じような効果を持つ劇薬が混入していたのだ。エアリィがカップを落とさなかったら、いったいどうなっていたのだろう。人魚姫の夢に出てきた魔女が、再びアップで浮かんだ? それは明らかに、彼に警告を発していたのだろう。そのおかげで危うく難を逃れた。まあ、足は火傷をしたが――そんな印象を受ける。でも、やったのは僕なのか? 違う、違う。それは絶対に違う。二つあった錠剤の一つはためしに溶かしてみて、洗面所に捨てた。もう一つは確実にロブに渡した。僕じゃない。それとも、それとも、ロブに渡したというのは夢なのか? 僕はそれを入れたのか。妙な暗示にでもかかって――いや、実際に実行するのにはあまり手段がないと、さっきまで思っていたじゃないか。
「そうだよ! ジャスティンじゃない。だって、ジャスティンはカップに触ってなかったよ! 触れないもの、彼の位置じゃ。それに僕はずっと見ていたんだ。間違いないよ」ロビンも首を振って立ちあがり、強い調子で言った。
「それなら、脅迫されたのは、ジャスティン一人じゃなかったのか……?」ミックが頭を振りながら、呟く。
「でも、誰がやったんだ?! あの場で機会があった奴なんて……俺はコーヒー飲んだぞ。なんともなかった!」ジョージも声を上げて、立ち上がっていた。
「動揺する気持ちはわかるが、みんな少し落ち着いて、座れ!」ロブが僕らを見回し、鋭く言った。いくぶん我に返った僕は、椅子に座りなおした。ロビンもジョージも、腰を下ろしている。だが、空気が軽くなったわけでは、決してなかった。『いったい誰が?』――その思いは消えない。きっと他の三人も、そうだろう。
 僕はコーヒーカップを取り上げた。砂糖は入れないが、ミルクは入れている。もう半分以上飲んだ後だ。まったく大丈夫だった。さらにもう一口、飲んでみる。なんともない。数秒たっても変わりない。同じポットから連続して注がれたはずだが、明らかにエアリィのカップだけに薬が入っていたのだ。でも、どうやって、誰が――?
 カップを上向きにしてセットしたのは僕のセキュリティ、マイケル・ホッブスで、その後レオナがコーヒーを注いだ。こっち側の列は、その二人が配っている。二人は直前に、僕の分を注いでいた。でも、僕のコーヒーはなんともない。その前に注がれたロビンも半分ほど飲んでいたが、大丈夫だった。直後に注がれたカークランドさんも、カップの中身がいくぶん減っているから、飲んでいるのだろうが、なんともなさそうだ。テーブルの向こう側は、カップをセットしたのがエアリィのセキュリティ、ネイト・ジャクソンで、コーヒーを注いだのはジョージたちのセキュリティ、ファーギー・パターソンだ。そちらの列も全員がすでに口をつけていたが、当然なのかもしれないが、なんともなかった。
 ミーティングの時にコーヒーをついで回る時には、この体制がほとんどだ。レオナとパターソンはコーヒーショップでのアルバイト経験があり、慣れているから注ぎ手になり、ほかの二人はカップをセットする役になる。組み合わせは、その時次第だが。しかし、レオナはもちろんのこと、マイクにだって、僕らを妨害する理由なんてないはずだ。僕らが活動できなくなれば、彼らは仕事を失うのだから。エアリィの左隣はカークランドさんだが、彼がそんなことをする理由も当然ない。専属スタッフなのだから。それにエアリィは砂糖とミルクを入れた後、カップを受け皿ごと、トレーの上に移動させていた。トレーのスペースに余裕がある時には、彼はたいていそうしている。それ以降は彼の目の前、パーソナルスペースにあるわけだから、そこに誰かが何かを細工するのは難しいだろう。
 考えれば考えるほど不可能に思えて、疑心暗鬼になっていきそうだ。みなの表情も一様に、同じ考えを追っているようだった。
「今、犯人探しをするのは止めよう。疑心暗鬼になって不信にかられたら、妨害者の思う壺だ」ロブがため息とともに首を振り、そう宣言した。
「そうだね」僕らもいっせいに頷く。
「だが、エアリィになんて説明すればいいんだ? あいつは知らないんだろ? あいつのカップに薬を落とせと、ジャスティンが脅されたということは。ホテル側の過失だとでも言うのか?」ジョージが懸念をにじませた声で聞き、
「……いや、こうなった以上、彼にもすべての事情を正直に言おう。下手に隠し事をして、不信感を与えたくない」ロブはしばらく考えるように黙った後、答えていた。
「ああ」僕らは頷いて、中断していた食事を続けた。でもあまり食欲を感じない。僕の好きなボンゴレロッソのパスタもシーザーサラダも、最初はおいしいと感じたのに、今はなんとなく味が落ちてしまったようだ。パスタは少し冷めてしまったせいもあるのだろうが。

 それからまもなく、エアリィが二人のスタッフと一緒に部屋に戻ってきた。上はオフホワイトのセーターのままだが、下はブラックジーンズに変わっている。左手にも包帯が巻いてあった。たぶんズボンの上から押さえた時、薬品が手についたのだろう。最初にコーヒーのついたカップを拾い上げてもいたし。
「大丈夫か?」僕らはいっせいに声をかけた。
「うん。まだ足がひりひりするけど、化学火傷だから、完全に洗い落としたら、あとはガーゼで保護して治るの待つしかないって、モートンが」
「ええ。これは化学熱傷です。ジーンズの繊維が溶けていますし。範囲は直径三インチほどで、深度は二くらいだと思います。左手は足より軽いですが、手の平や指が一度の火傷になっています。少し範囲が広いので、できたら今日は安静にしていた方がいいとは思うんですが……」カークランドさんが考えるように少し首を振り、説明している。
「大丈夫だよ。最終日だし、それに今日もビデオ撮りあるし」エアリィは頭を振ると、小さくため息をついて言葉を継いだ。「でもよかった、飲まなくて」
「本当にな」僕らは全員がそう声を上げ、頷いた。
「でもなんで、あのコーヒーにそんなのが入っちゃったんだろ。みんなは飲んでたよね。大丈夫だった……んだよね?」
「ああ」僕らは頷き、そしてお互いに目を見交わした。
「エアリィ、実はな……おまえのあのカップには、劇薬が入っていたんだ」ロブがそう口火を切った。
「え? 劇薬? そうなんだ……。でも……僕のにだけ?」
「ああ。おまえも知っていると思うけど、僕は昨日、妨害者と思われる奴から脅迫された」僕は振り向き、話しはじめた。
「ああ。奥さんと赤ちゃんを襲うって言われた、んだよね。それでマネージメントが警備を強化するって……」
「そうなんだ。でも、おまえには言わなかったが、あれには交換条件があったんだ」
「交換条件?」
「そう。ステラとクリスを守りたいなら、こちらの言うことをきけって。相手の要求は……おまえの歌手生命を絶て、ということだったんだ」>
「ええ!」そう短く叫んだあと、エアリィは一瞬沈黙し、そして僕を見た。
「そうなんだ。……じゃあ、これって……」
「違うよ!」僕は思わず立ち上がって、テーブルを叩いた。ああ、この話の持っていき方では、そうとられて当然だ。ジョージもミックもロビンも、そしてロブも含めて、苦笑気味の表情で僕を見ている。
「だから僕は、やってないんだよ! そんなこと、できるはずがないじゃないか。僕はステラに電話して、気をつけるように言って、それからロブに相談に行った。僕が要求を飲まなくても、ステラやクリスがひどい目にあったりしないよう、最善を尽くそうと思った。薬はロブに預けた。本当さ。なのに、いつのまにか実行されてしまっていたんだ」
「そう……そんなことだったんだ。だからみんな、僕がコーヒー飲もうとした時、見てたのか。それで、結局誰がやったかは、わからないってことなんだ……」エアリィは再び小さくため息をつき、首を振った。
「うん。でも、誰がやったかなんて、もういい。それに、ジャスティン……悩んでくれて、ありがと。でも、もし二度目があったら、躊躇しないで、実行してくれていいよ」
「いや。無理だ、それは」僕は即座に首を振った。「それに、なんにせよ、僕は卑劣な脅しに屈するなんてことは、イヤなんだ」
「おまえの言いそうなことだけど、ジャスティン。でも、僕はやだよ。自分のせいで、大切な誰かの大事な人が犠牲になるかもしれない危険を犯すのは。それに……」エアリィは毛羽立ったテーブルに視線を移し、少し肩をすくめた。「大丈夫、たぶん。今だって誰かが実行したけど、僕は大丈夫だったから。まあ、火傷はしたけど、すぐ治るし……自分のことなら、自分で何とかできる。でも、人のことまでは及べないから」
 しばらく沈黙が落ちた。誰も、何も言えなかったのだろう。(おまえがそんな奴だから、よけいに悩むんだよ)と、僕は密かに心の中で呟いたが、口には出せない。
「ところでね、エアリィ、あなたランチが途中になってしまったけれど、さっきのはコーヒーを被ってしまったから、下げたのよ。何か軽いものでも食べる?」レオナが優しい口調で、そう問いかけていた。
「うん。でも、いいや。ありがと……」
「あれだけでは足りないわよ。いくらあなたが少食でも。あとでお腹がすいたら言ってね。モートンにでもいいけれど」
「ありがと、レオナ。でも、食べたくはならないと思うんだ……どっちかっていうと……ごめん、ちょっと気持ち悪い」
 エアリィは少し青ざめて口元に手をあて、立ち上がった。ふらっとしたような動作だ。慌てた様子でカークランドさんも再びバッグを片手に立ち上がり、「もう一度部屋へ戻ろう。急いで」と声をかける。ジャクソンがそれに続いて、再び三人は出ていった。
 それから二十分ほどたった後、戻ってきたのはカークランドさんだけだった。
「熱発したので、部屋で寝かせています。三八・五℃……華氏だと一〇一・五ですね。悪心もありますし、血圧も上が九十を切っていました。アレルギーか、やけどの影響なのかわかりませんが、化学火傷であることを考えると、両方かもしれません。ビュフォードさん、今日の公開取材はお休みさせてください。とても出られる状態ではないです。それと、今夜の公演を予定通りやるなら、医者に出張してきてもらって、二号輸液を点滴してもらえませんか。今日もビデオシュートがあるから、熱が下がればいいんですが」
「二号輸液?」
「生理食塩水とブドウ糖の混合液です。言えばわかると思います」
「わかった。急いで手配しよう」ロブは頷き、携帯電話を取り上げていた。
 僕らは再び顔を見合わせた。薬品過敏体質は、ケミカル火傷にも反応してしまうのだろうか。幸い傷は限定的だったので、重篤なショックは起こさなかったようだが。でも、もしうっかり飲んでしまっていたら、のどのダメージもさることながら、こっちの方も相当大変なことになってしまったに違いない。改めてぞっとした。
「本当に、本番までに回復してくれればいいが。今日もビデオ撮りがあるのだから」ロブが祈るように、そして当惑した口調で呟いたあと、首を振った。
「だが、繰り返しになるが、犯人探しはやめよう。それに幸い、と言っていいか、今日でツアーは終わりだ。最終公演が無事に終わるよう、クルーもスタッフも全力を尽くして望もう。もちろん、おまえたちもだ。がんばってくれ」
「ああ」僕らは頷き、それぞれの部屋に帰った。

 会場の楽屋へ着くと、すぐに僕はもう一度自宅へ電話をし、異常がないことを確認した。今年の最終公演、しかもマディソン・スクエア・ガーデンで、プレスの公開取材日。昨夜に引き続きDVD撮りもある。本当に重要な夜なのだ。もっとも公開取材の方は、僕らインスト四人だけの対応になってしまった。「すみません。アーディス・レインは体調不良で欠席します」と告げた時の彼らの失望のざわめきに、文句は妨害を仕掛けた奴に言ってくれ、と言いたい気分だった。
 DVD撮りの方は幸いなことに、クレーンカメラを駆使したクローズショットと、おまけのバックステージ映像は初日にとってしまったので、今日は遠景とオーディオだけだ。二日分の映像を組み合わせるから、服装も昨日と変えていない。エアリィも本番のコンサートでは、熱は三七度後半までしか下がらず、たぶん足も痛いだろうし、包帯を取った後の左手のひらも赤くなっていたが、開演すれば、そういう不調もどこかへ飛んでしまうようだ。体調が悪くとも、熱があっても、どこかが痛くとも、いったんステージに上がれば、アーディス・レインはモンスター・シンガー、コミュニケーション・マスターとして覚醒する。ステージを下りると、一気にその反動が来るらしく、楽屋で倒れてしまうことも珍しくはないが。
 その日のショウを終えると、予定したものより遥かにささやかではあったが、春からずっとがんばってくれたスタッフたちのねぎらいの意味も込めて、打ち上げパーティを行った。エアリィはドクターストップで出られなかったので、メッセージだけの参加だったが。こんな状況なので、盛り上がったとは言いがたかったが、とりあえず滞りなく終わり、二時少し前に、お開きとなった。僕はベッドに倒れこむと、ひたすら眠った。なんだかもう何も考えられないくらい、いろいろなことがありすぎたような気がしていた。

 翌日、昼ごろの便で、僕らはニューヨークを発った。ただし、これもインストの四人だけだ。エアリィは体調が回復しきれていないので、専属スタッフのカークランドさんとジャクソンとともに、一日か二日遅れて帰国する予定だった。
 出発直前に空港からステラに電話し、無事を確認してはいたが、早く妻子の無事な姿をこの目で確認したい。僕はプレミアムシートの座席に身をうずめ、窓の外を見やった。隣はいつものごとく無口なセキュリティ、マイケル・ホッブスで、おまけに彼は早くも居眠りを始めている。僕はため息をつき、窓の外を見ているうちに、いつの間にかうとうとしていたらしい。ただ眠りは浅かったようで、ふと後ろの話し声で目が覚めた。
「犯人探しはしないと言ったが……放っておいていいわけじゃない」
 ロブが小声でそう言っていた。僕の後ろの席には、ロブとレオナが座っていたのだ。
「それは当然ね。みんなには、ああ言うしかないけれど、わたしたちは違うわ。アーティストの安全を守るのが、つとめなのだから」レオナが低い声でそう答え、付け加えていた。「もっとも、わたしが一番疑われる立場なのでしょうけれどね、あの状況では」と。
「ありえないだろう! 君は最も容疑者から遠い人だ」
「ええ。でも、最も遠いわたしが、最も疑わしいなんてね。あの子たちは、思ったかもしれないじゃない。コーヒーを注いだのはわたし、しかもわたしは薬を持っている……ジャスティンから預かった薬をね」彼女の声は、苦さを含んでいた。
「バカな!」ロブは遮るように、強い口調で言った
。 「あの薬はずっと僕が持っていて、ホテルにこぼれたコーヒーの成分分析を頼んだあとで、これと同じものかどうか調べてくれと、係の人に渡したんだ。それは間違いない。だから君はそれ以上気に病むな、レオナ。君がそんなことをするはずがないことは、僕が一番良く知っている。彼らもきっと、君を疑ってなんかいない。僕はそう確信している。なのに、そこに毒を植えつけようとする。それは疑いの毒だ。あの時に言ったように、犯人探しはその疑心暗鬼の罠に落ちるようなものなのかもしれない。でもマネージメントサイドとしては、放置は出来ない。社長にも言われたんだ。可能性があるのは誰だ?と。犯人と決めることは出来ないし、容疑者扱いも出来ないが、今後の行動に注意する必要はあるな、と」
「まずはわたし?」
「いや、『レオナは除外していいだろう』と、社長も即答したよ。しかし後はというと、カップをセットしたホッブスと、左隣に座ったモートンしかいないが……」
「モートンもありえなくないかしら。わたし並みに。あの人はチームAよ。すごく熱心なのよ。ジャクソンも含めて。疑われたなんて思われたら、きっと傷つくと思うわよ」
 僕らの仲間内の言葉として、それぞれの専属スタッフをチーム○と呼ぶ。○の中には担当の名前のイニシャルが入るわけで、僕の場合はイニシャルがJなので、ギターテクニシャンのジミーとセキュリティのマイクで、チームJだ。エアリィはArthisでもAerlieでも頭文字はAなので、チームA(おそらく職務の熱心さと有能さでもAチームなのだが)――カークランドさんとジャクソンがそれに当たる。
「そうだろうな。彼にもそんな理由はまったくないし、社長もそう言っていた。たまたま位置上、左隣に座っているだけで、しかも彼はカップに手を触れていない。逆に、注がれる様子をじっと見ていた。僕もそうだった。ジャスティンの脅迫の話を聞いたあと、もしかしたらバックアップを持っている――第二の人物を置いている可能性は排除できないと思って、ずっと見ていたんだ。モートンも同じことを考えていたらしい。エアリィがカップをトレーの上に移動させた後も、僕は食事をしながら、それとなく監視していた。だが、カップを触ったり、近くに手を伸ばしたりしたものはいなかった。エアリィ本人以外は。あと可能性があるとすれば、カップをセットしたホッブスだが、彼は連続してモートンのカップもセットし、すぐにテーブルを離れた。それにもしその時彼がカップの中に何か入れたとしても、君が注ぐ時に気づいたはずだ。君は鋭い人だから」
「ええ、何かあったら気づいたと思う。わたしもあの子の分は、いつも以上に気をつけていたもの。だから、そっち側の注ぎ手になったのだし、注ぐ時にも注意して見たけれど、中には何もなかったわ」
 レオナは少し黙り、そして苦笑が混じったようなトーンで、言葉を継いでいた。
「なんだか推理小説みたいね。動機もない。少なくとも、わたしたちの側には誰一人。利害関係は全員で一致していて、バンドの活動停止なんか望む人は、誰もいない。ジョージが言っていたみたいに、他にも脅された人がいるのかというのも――あなたのいうバックアップね。それも、考えにくいかもしれない。ジャスティンが告白してきたことは、みな知っているし、それなら自分も、と考えるのが普通だから。そして機会もない。ジャスティンへの脅迫を知らないでいたなら、たぶん隙はあったのかもしれないけれど、あの話はわたしたちみんなが知っていた。だからあなたもわたしもモートンも、それに他のメンバーたちも気にして見ていたから、そこに仕掛ける隙は無いと思うのよ。おまけにランチを食べ始めてからは、カップはずっとトレーの上にあったのだから。それなら、あらかじめ細工されている可能性しかない。でも何に? コーヒーじゃない、カップでもない。わたしもそれを警戒して、事前に予備のカップと交換したから。そうすると……ああ、もしかしたら、本当に推理小説めいているけれど……お砂糖かもしれないわね」
「砂糖?」
「ええ。お砂糖の中に埋め込むことは、可能じゃないかしら? あのホテルのお砂糖は、普通の角砂糖ではなくて、少し固めの丸いものになっているから、真ん中をうまくくりぬいて、そこに錠剤を入れて、穴を埋めて戻せば……」
「本当に推理小説だな、それは。毒を溶かした水を凍らせて飲み物に入れる、というのとあまり変わらないぞ」ロブは苦笑しているようだった。
「ええ、突拍子もないのは自分でもわかっているけれど、そのくらいしか可能性を考えつかないのよ。だって、ポットに入っていたわけでもない、カップでもない、あとから誰かが入れた形跡もないとしたら、あとはあの子が自分で入れた、お砂糖とミルクしか。でもミルクは、ピンポイントで狙うのは難しいわ。液体だから。それに、ジャスティンも同じピッチャーからミルクを入れて飲んでいたけれど、大丈夫だった。でもお砂糖は――ジャスティンもモートンもあなたも、それに正面に座ったジョージも、お砂糖は入れないわ。コーヒーにお砂糖を入れるのは、ロビンとミックとわたし。エアリィはツアーが進んでくると疲れが溜まるのか、お砂糖を入れ始めるのよね、少しだけ。あの時はラストだったから、一つ入れた」
「ありえない話じゃないな、たしかに。しかし、もし一個だけに仕掛けたなら、ロビンやミックに当たる可能性も高かっただろうが……ああ、でもシュガーポットは二つあったな。ミックやロビンは、手前側を使っていた」
「そうなのよ。それで奥側のシュガーポットは、ジョージもモートンもジャスティンも使わない。わたしは入れるけれど、みんなにコーヒーを注ぎ終わってからだから、あとになるわ。位置的にも反対側よ。わたしの席はジョージの隣、モートンの正面だから。セキュリティたちは別テーブルだし、奥側のシュガーポットに関しては、最初にとるのはエアリィだから、あの子から見て取りやすい位置に一つ置いておけば……」
「本当に推理小説だな、それは。でも少しランダムすぎないか? 結果的に、運悪く当たってしまったという可能性も、否定できないが……」
「そうねえ。でも人間の心理として、シュガーポットからトングを使って角砂糖を一つとる場合、とりやすい近い位置にあるものをとらない? トングが自分の方を向いていて、そこに挟まっていたり、軽く触れるように一つあったら」
「ありえるな……」
「それに、思い出したわ。あの時、あのポットに入っていたお砂糖は、二つだけだったと。わたしが取ろうとした時、一つしか残っていなかったもの。だから、思ったのよ。あら、こっちは切れてしまったわね。まあ、向こうにもあることだし、おかわりをする時には、そちらを使えば良いって。だから、そう……二択だったのだと思う、あの子が最初にお砂糖を入れた時には。二個しかなくて、自分の側に一個、反対側にもう一個あったとしたら、わざわざ手前を避けて向こう側をとることは、確率的にはあまりないと思うわ」
「そうだな……君は後からとったんだったか、あの時も」
「ええ、そう。シュガートングは向こうを向いていたし、エアリィもたぶん今はお砂糖を入れるのだろうと思ったから、彼が取るのを待っていたの。それで、彼が取った後に残った一つを入れて、ミルクも入れて、すぐに一口飲んだわ。騒動が起きた時には半分ほど飲んでいたけれど、なんともなかった。だから、二つとも毒入りだったというわけではなさそうね。まあ、そもそも、その仮定が正しいかどうかは、わからないのだけれど」
「しかし、もしその仮定が正しいなら、現実の実行犯を絞るのは難しいぞ。ホテルの従業員だって、犯人の可能性があるんだからな」
「本当の実行犯は、その可能性も否定できないわね。でも、単独では出来ないはずよ」
「単独では、とは?」
「だって確実に仕掛けるには、わたしたちのミーティングの席を知っている必要があるでしょう。それから、みんながお砂糖を使うかどうかも」
「ああ、そうだな!」ロブははっとしたようだった。
「それにジャスティンも言っていたじゃない。相手はこっちのことを気味が悪いほど詳しく知っていたって。奥さんのこと子供のこと実家のこと、エアリィの学力のこともそうだし、一昨日みんなでティファニーに行ったことも、昨日がバンドのミーティング日だったことも、相手は知っていたらしいじゃないの。それにね、ジャスティンの部屋にかかってきた電話は、交換台を通していない。それはホテルにも確認したわ。そうなると、内線よ。そのためには誰かが彼の部屋番号を教えないと、かけることはできないはずよ。それに彼の部屋のドアノブに薬の袋をひっかけるのも、部屋がわからなければできないことだわ」
「ああ、たしかにそうだな、それは。まあ、ジャスティンの家庭環境やエアリィの突出した学力あたりは、調べれば可能かもしれないが――実際、我々でも調査できたしね。契約前に。だが、昨日がミーティング日だということや、その際の席順や、ジャスティンの部屋番号は、内部情報がなければわからないだろうな、たしかに」
「ええ。だから、放っておいていいわけじゃないと思うのよ。実際に薬を入れた具体的な犯人の特定は難しいかもしれないけれど――ホテルの従業員とか、従業員のふりをした妨害者の誰かという風になってしまうと、お手上げですもの。でも確実に、獅子身中の虫がいる。それを考えないといけないと思うの」
「そうだな。注意しなければ。これからはオフだが、オフ中でも油断はならないだろうしな。みなにセキュリティアラームは持たせたが……」
 僕は二人の会話を聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。本当に何も信用できなくなりそうな、自分たちの周りのすべてが敵のような――スタッフやクルーまで信用できなくなるなんて。いや――僕は即座に首を振った。僕たちは疑心暗鬼になってはいけない。それは信頼を損ない、周りとの関係をギクシャクさせる。それでは妨害者の思う壺だ。僕たちは考えない。犯人探しもしない。それはロブたちに任せておけばいい。そうしなければならない。
 僕は深く息をついた。と同時に、機内にアナウンスが流れた。まもなく飛行機はトロントに到着する、と。シートベルト着用のサインがついた。僕の思いはその先に飛んでいった。ステラとクリス。かけがえのない、僕の宝物。二人の無事な姿を、この目で一刻も早く確認したい。

 空港をあとにし、その気持ちに急かされながら、僕は我が家に向かった。今回も空港からはマネージメント手配のバスだが、この時も最初に僕の家に回ってくれた。それでも僕は心の中で、『早く早く』と言い続けていた。家に着くと、荷物はセキュリティに任せて、僕はバスから飛ぶように降り、我が家の玄関へと走った。
 ステラがクリスを抱いて、中から出てきた。すぐにぱっと顔を輝かせ、駆け寄ってくる。
「お帰りなさい、ジャスティン!」
「無事だったね、ステラ、クリス! ああ、本当に良かった!」
 僕は我を忘れて、二人を抱きしめた。
「ええ、大丈夫よ。なんともなかったわ!」
「うおっほん!」背後で大きな咳払いが聞こえた。僕は義父母の方に向き直った。
「留守中、本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
「何を言っとる。かわいい娘と孫のためだ。おまえのためではないわ!」
 義父は僕をじろっとにらんだ。
「本当に、なんて怖いんでしょう。だから、あなたと結婚するとろくなことがないって、あれほどステラに言ったのに」義母は眉をひそめている。
 義父は帰り際、かみつくような形相で僕を見、指を突き付けた。
「いいか! おまえのせいで娘や孫に何かあってみろ! その時にはおまえを殺すぞ!」
「覚えておきます。ありがとうございました」
 僕は苦笑しながらも、この場だけは、彼らがいてくれて助かったと、初めて思った。
 雪が降り出していた。明日はクリスマスイブだ。個人としても、ミュージシャンとしても重大な転換点だった一年も、まもなく終わろうとしていた。多くの実りと同時に、いくらかの不安の種も、前途に残して。




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