The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(9)





 八日間の短い休日は、あっという間に飛び去った。家庭というオアシスでの安らぎも、クリスマスまでお預けだ。二度目のアメリカツアー、ミュージシャンとしての僕に戻ることは、非日常に返ることだった。忘れかけていた不安、大ブレイクの反作用は、春にヘッドラインツアーに出てから、ずっと沈静していた。冬になっても、ツアーはソールドアウトの数を伸ばしながら、観客たちの熱狂とともに、順調に(メジャーマーケットを中心に回るため、少し移動距離が長いという以外は)進んでいった。
 エアリィの第二の故郷プロヴィデンスでの初公演も、会場が七、八千人というキャパシティしかなかったために、ロードアイランド州限定でしかチケットを取れない制限をかけた中で、会場の外に同じくらい、いやそれ以上の数の、中に入れなかった人たちが取り巻き、あちこちに『Welcome back!(お帰り!)』という華やかなのぼりが翻る中、行われた。それはまさに凱旋公演と言うべきもので、前回はボストン公演に来た彼の友人たちも、地元の知人たちも多く駆けつけ、終演後は一大パーティとなった。僕らも普段はあまりパーティには出ないが、一時間ほど顔を出してから、ホテルに帰った。エアリィはその後二、三時間くらい会場にいたらしく、翌日次の公演地に移動する時、『あー、すごく疲れたけど、楽しかった! 懐かしかったし! みんなもつきあってくれて、ありがとー!』と、まだ興奮冷めやらない調子で言っていた。エアリィにとっての帰郷、そして凱旋は、僕たちインストの四人にとっては直接関係のないものではあるが、トロントの人たちとはまた違う、その熱気にあふれた歓迎ぶりに圧倒されたと同時に、僕らの知らないアーディス・レイン・ローゼンスタイナーの別の世界に、少し触れることが出来たような気がした。

 今年の締め括りを飾るべく、僕らはクリスマスのイルミネーション華やかな、ニューヨークに乗りこんだ。春のツアーでは、元のスケジュールがラジオ・シティだったのでそこでやったが、今回はマディソン・スクエア・ガーデンで二日間のコンサート。このツアーのDVD撮影もある。最大級に客を入れるシーティング・プランだったが、チケットは完売だ。看板に燦然と輝く【SOLD OUT】の文字。今回のツアーではずっと見慣れてきたけれど、ここMSGの看板にかかっているのを見ると新たな興奮を感じる。
 三年前、初めてのアメリカツアーでタイムホールに巻き込まれ、MSGの舞台を逃した時、エアリィが言っていた。『どうせなら、ヘッドライナーでMSG目指さない?』と。その夢が、こんなに早く実現してしまうとは、その時には思ってもみなかった。しかも両日ともにソールドアウトだなんて。
 MSGの初日、サウンドチェックまでの間を利用して、僕らはティファニー本店へ行った。僕は約束していた、ステラへのクリスマスプレゼントを買うために。ステラが欲しいと言っていたプチネックレスは、すぐに見つかった。そうだ、ジョイスにも買っていこう。妹も前から金のオープンハートを欲しがっていた。ジョイスには小さなダイアモンドがついた金のペンダントを、ジョアンナと母にも、おそろいのプラチナ製ビーンズのペンダントを買った。実家の家政をずっと担ってきている忠実なホプキンスさんにも、ホワイトゴールドのブローチを。それから――トレリック夫人にも、何か贈るべきだろうか。ステラとクリスがお世話になっているのだし。そう思い、夫人用にも同じホワイトゴールドのブローチを買った。ああ、そうだ。義母にも何か買わないと、まずいだろうか。僕のプレゼントなど、喜んではくれないだろうが、でも一応買っておこう。トレリック夫人に買って自分にないと、いやみを言われる可能性がある。それも同じものでは、使用人と同列にされたと気を悪くしかねない人だ。義母にはプラチナ製のブローチにしておこう。バンドの他のみんなも、それぞれ大切な人へのプレゼントを選んでいたようだ。
 マディソン・スクエア・ガーデン。ロックの殿堂での、ソールドアウトコンサート。その初ステージを踏んだ感慨は忘れられない。最高の夜だった。観客の大歓声と音楽の揺るぎない力が僕たちを包み、全ての雑念を払っていく。
「よくやった、おまえたち! 今夜も最高だったぞ!」
 興奮気味のロブの賛辞が、ステージの締めくくりだった。

 その夜、僕らは楽屋で軽く飲んで(とはいえここはアメリカなので、僕ら年少の三人はまだアルコールが飲めないが)、いつもより遅く、十二時を過ぎて、ホテルに帰りついた。明日はいよいよ最終公演、三月末から始まった初めてのヘッドラインツアーも、明日で終わる。明日の晩はスタッフやクルー、ドライバーさんたちも含めて、クリスマス祝いも兼ねた、大掛かりな打ち上げパーティをする予定だった。パーティとはいっても、知らない人のいない打ち上げ会は好きだ。そして、次の日の午後には帰る。トロントへ。妻と子の待つ我が家へ。三月までのオフ、待ちに待った長期休暇だ。長いツアーがやっと終わりに近づいてきたことで、気分は昂揚していた。
 自室に帰るとまもなく、僕らのツアーコーディネイターでもある、ロブの奥さんレオナが手配してくれたホットミルクが届いたので、ゆっくりとそれを飲んだ。よく眠れるようにと温かい飲み物を、彼女はいつも寝る前の時刻に合わせて、メンバーそれぞれの部屋にルームサービスを頼み、届けてくれるのだ。ホテルの部屋も、最初のころはずっとモーテルの相部屋だったが、やがてシングルルームの割合が増えていき、サポート最後の二ツアーは、すべてシティホテルの個室になった。でもサポートでは、そのくらいが上限だ。アリーナツアーのヘッドラインに昇格してからは、大きなシングルルーム、時にはスイートで、上級クラスのホテルが多くなった。今僕が泊まっている部屋もスイートタイプで、大きなベッドと、リビングスペースがついている。
 僕は寝支度をするとベッドにもぐりこみ、すぐ眠りにおちた。ツアー終盤の疲れに加えてステージでの消耗もあり、最近では枕に頭を乗せると、すぐに眠くなる。未来世界のような睡眠ウェーブ枕がなくとも、適度な疲れは眠りを誘うようだ。

 電話の音がしている。眠りの底から浮かび上がり、僕はコール音を認識した。一瞬、オーストラリアのあの朝を思い起こした。でも今は、あの時とは状況が違うはずだ。僕はうつぶせになり、先に時計を見た。まだ三時半過ぎだ。眠い──こんな夜中に電話なんて、いったい何の用だ。何かよほど緊急の用事なのだろうか。
 コール音はやみそうになかった。僕は軽く舌打ちをすると手を伸ばし、受話器を取った。
「はい……」
「ジャスティン・ローリングスさんですか?」
 聞き覚えのない男の声だった。外からかかってくる電話だと、最初に出るのはフロントか交換台だが、この人は違うようだ。もしそうなら、最初からそう告げるはずだし、第一本名で呼びかけたりはしない。僕はこのホテルにはカール・アーヴィングという名で泊まっているし、フロントやコンシェルジュは普通、『お客様』という呼び方をする。その時にはまだ眠くて、そこまで頭が回らなかったが。それにこの相手は口調こそ穏やかだが、その種の職業的丁寧さは感じられなかった。
「そうですけれど、どなたですか……?」僕は訝りながらも、ついそう答えてしまった。
「夜分すみませんね。ちょっとお話があるんですよ」
「失礼ですが、どなたですか?」僕は少し苛立ちを感じながら、再び聞き返した。
「私が名乗っても、あなたはご存じないでしょう。でもね、私はあなたのことを、よぉく知っていますよ。個人経営のものではトロント市内一番といわれる大病院の院長のご次男で、お兄さまはコンピュータエンジニア、お姉さまは牧師の奥様、年子の妹さんはトロント大学傘下の、トリニティカレッジの学生さん。お母さまは先代院長の一人娘で、現在の院長は入り婿ですね。あなたの奥さまのことも知っていますよ。ステラ・ヴォン・パーレンバークという、貴族の末裔のお嬢さまだそうですね。しかも子供をあきらめていた頃に授かった大事な一人娘さんだったので、あなたとの結婚には相手のご両親は大反対だったのですが、お嬢さんへの情にほだされて、渋々許可されたとか。お子さんもお腹にいらっしゃいましたしね。でも奥さんは、元の姓なのですね。貴族の誇りなのでしょうかね。ちょっと男心をくすぐるような品のいい、かわいい方ですね。美人とは言えませんが。金髪の巻き毛で、小柄な女性でしょう。あなたと同い年だそうで。奥様は九月生まれなので、あなたより半年ほど年下にはなりますが。今日買われたティファニーは、奥さまへのクリスマスプレゼントですか? お熱いことですね」
「え……え?」何が言いたいのだろう。僕の知らない人なら、なぜ僕やステラのことを知っているんだ。僕が今日ステラのためにティファニーのアクセサリーを買ったことまで、知っているなんて。妙な胸騒ぎが、眠気をどこかに吹き飛ばしていた。相手は口調だけは丁寧に、しかし明らかに感じ取れるからかいと侮蔑の響きとともに、話し続けている。
「あなたのお家も知っていますよ。ご実家の方ももちろんですが、奥さまとの愛の巣もね。お幸せでしょう、ジャスティン・ローリングスさん。最愛の奥さまとの間にかわいい坊ちゃんも生まれて、バンドは空前の大成功。もう一生生活にも困らない。まだ二十歳の身空で、結構なご身分ですねえ。生まれた時から金持ちの家に育って、何不自由ない生活で、今はスーパースターとは。恵まれすぎですね、本当に」
 不吉な予感は、ますます募っていった。僕は少し声が詰まるのを意識しながら、問い返した。「なにが言いたいんですか?」と。
「いえね、今が幸せの絶頂で良かったですね、それだけですよ。しかし、一寸先には何が起きるかわからないのが、人生ですからね。明日にはもう、大変なことになっているかもしれませんよ。たとえばあなたのおうちに、たちの悪い男たちがやってくるかもしれない。そいつらがあなたの最愛の奥さまをいたぶり、辱めるかもしれない。ああいうお嬢さまタイプの女性は、案外そういうのがお好きかもしれませんけれどね」
 身体から血の気が引くのを感じた。
「やめろ! まさか、おまえは……そんなことを」
 相手は下卑た笑いを発し、悪夢のような言葉を続けている。
「たとえばの話ですよ。でも、実際に起こらないという保証はないじゃありませんか。私はそんなことはしませんがね。たちの悪い男たち、と言ったでしょう。まあ、奥様とて嫌ではないかもしれませんが。たとえば私の知っている女は……」
 男はその後、怖気を催すような下品な描写をし、さらに侮辱的な言葉を連ねた。僕は吐き気をこらえ、「やめてくれ、ステラはそんな女性じゃない」と言うだけで精一杯だ。それは妻への最大限の侮辱であり、そんな言葉をとても書けない。
「女性というものは、わかりませんからね。あなたも、わかっていないのではないですか?」男は再び下品な笑い声を上げ、さらにとんでもない言葉を続けた。「それに、そのたちの悪い男たちが、あなたの奥さまをいたぶっただけでは飽きたらず、退屈しのぎに、あなたの大切な坊やに、何か悪さをする可能性もありますよ。足を持って逆さまに振ってみるとか、キャッチボールをしてみるとか。三ヶ月の赤ちゃんなら、手ごろな大きさですね。まあ、怪我はさせないようにはするでしょうが、完全に保証はできないかもしれませんよ。うっかり手がすべることもあるでしょうから」
「やめろ! もうやめろ! 聞きたくない!」
 耐えきれず、僕は叫んだ。耳をふさぎたい気分だった。受話器を叩きつけて、電話を切りたい。貧血を起こしたような、気分の悪さを感じた。身体の力が抜けそうになり、ベッドのヘッドボードにもたれかかる。この男の言うことは、ただの悪ふざけだろうか。本当に実行しはしないだろうか? 不安が胸を締めつけ、息苦しくなってきた。
「やめてほしいですか? そんなことは、決して起こってほしくないですか?」
 相手はなぶるような口調だった。
「あたりまえだ!」
「引き替えに、今の成功を失ってもですか?」
「なんだって……どういうことだ?」
「取引しませんか、ジャスティン・ローリングスさん。さっき言ったひどい悪夢が現実とならないために、あなたにしてほしいことがあるんですよ」
「……脅迫するのか、僕を?」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。私のたとえ話を信じるか取り合わないか、それはあなたの自由です。たちの悪いいたずらだと思って聞き流してくださっても、それはそれでけっこうですよ。結果までは保証しませんけれどね。ただ、あなたが私の頼みを聞いてくださったら、その悪夢は決して現実にはならないと保証できますがね」
 はっきり言うのを避けてはいるが、僕が相手の頼みとやらを聞かなければ、ステラとクリスがひどい目にあうぞと、暗に脅しているのも同然だった。激しい憤りがこみ上げてきた。こんな奴の脅しになんて、決して屈したくはない。相手の言うことが単なるはったりや悪ふざけだと確信できれば、恐れはしないのに。でももし、たとえ数パーセントでも本気の可能性があるなら――。
「僕に何をしろと言うんだ……?」
「そうですね。単刀直入に言いましょうか」相手は一瞬言葉を切り、吐き出すように続けた。「エアレースの活動を停止させてください。モンスターアルバム一発だけなら、まだ我慢できますが、このままもし今の勢いでずっと活動されたら、非常に困るんですよ」
「なんだって!」僕は思わず絶句し、それからやっと答えた。「そんなこと、僕の一存で決められるわけがないだろう」
「まあ、そうでしょうね」かすかに笑いを含んだ声だった。「でもジャスティン・ローリングスさん。私はエアレースの活動は止めて欲しいけれど、あなた個人の活動まで止めるつもりはありません。ですからあなたはご自由に、ご自分の好きな音楽を続けられますよ」
「つまりおまえは僕に、バンドを抜けろと?」
「思ったより頭の悪い人ですね。それに自惚れも強いようだ。そんなことは言っていませんよ。あなたが抜けたところで、しかたがないでしょう。あなたが抜ければ多少は痛手でしょうけれど、エアレースは依然モンスターとして存続しますよ。彼がいる限りはね」
「……エアリィ?」
「ええ、そちらの呼び方もかなり浸透してきていますが、アーディス・レインさんですね。彼がバンドの心臓ですから、いなくなれば、エアレースも恐れる存在ではない。あなただって、ひょっとしたら邪魔に思っているのではないですか? 自分より三才も年下で、メンバーとしては最後に入ってきたくせにバンドをのっとり、すっかりあなたの影を薄くしてしまったと」
「誰が!」僕は吐き捨てるように言った。「エアリィは友達だ。それに僕らは音楽上のパートナーだ。そんなこと、これっぽっちも思っていやしない」
「麗しい友情ですね」相手の声には、からかっているような響きがあった。「ではあなたに、その友達を抹殺してくださいと頼んだら、やってくださいますか?」
「なっ!」
「いえ、抹殺といっても、本当に殺す必要はありませんがね。私はあなたに殺人犯になれとは、いくらなんでも言えませんから。あの子はロックシンガーでなくとも、あれだけ才能に恵まれているのだから、他の道でも立派に成功できますよ。あなたが良心の呵責を感じる必要はないと思いますがね」
「…………」
「あなたも知っている通り、彼は十三歳でハイスクールを主席卒業するような、天才じゃないですか。そう。十年前にロードアイランド州の教育課を驚愕させた、最強の天才少年ですよ。瞬間写実的記憶と演算能力、並外れた識字力と理解力、そこからの発展応用能力と、すべて揃っているけれど、天才にありがちな性格の偏りは、全く見られなかったらしいですね。それも、本来の学力は小学校レベルをはるかに超えて、本当はグレード九か十に入るところを、小学校へ行きたいという本人の希望で五年に入り、その後の小学校二年間で、難関大学すら入れるほどの学力を身につけてしまったけれど、やはり本人の希望で、グレード六から八へ飛び級するだけで終わったという。もったいないですね。非常にもったいない。普通にいっていれば、今頃最年少博士になっていたでしょうに」
「そうなのか……?」
 これは僕も知らなかったことだ。本当だろうか。でも、十分ありそうな話だ。
「ご存じなかったんですか、そこまでは」相手はわざとらしく驚いたような口調だった。
「でも彼はそうだとしても、その道は選ばなかった。MITへも行かなかったし」
「行っておくべきでしたねぇ」男の声には、相変わらずからかうような響きがあった。「せっかくの大天才が、もったいないと思いませんか。まあ、彼は音楽でも、とんでもない天才ですけれどね。でも科学者や学者になった方が、ロックシンガーより、はるかに平穏で適切だと思いますよ。だから、あなたが正しい道に戻してやる。それが我々にとってもあなたにとっても、ひいては世界人類にとっても、究極の正しい選択だと思うんですがね。彼はきっと科学の発展に寄与してくれるでしょうから。そのうちにノーベル賞も取れるかもしれませんよ」
「結局おまえは、僕に何をしろと言うんだ。エアリィにバンドを辞めてMITへ行けと言うのか? そんなこと僕が言える義理じゃないし、言う権利もない。逆に僕は彼がMITでなく、僕らとプロになる道を選んでくれたことに、感謝している。僕は彼が科学者になるのが最善だとは思っていない。才能はたしかにあるけれど、エアリィは自分でも科学者向きじゃないと言っていたし、僕もそう思う……」
「だから、そういうことを言っているのではないのですよ。本当に物わかりの悪い人だ」相手はため息をついたようだった。「あなたにいまさら説得しろとは言いませんよ。そんなことは無意味ですからね。でも一方の道が閉ざされたら、彼としては向いている向いていないに関わらず、結果的にもう一つの道を選ばざるをえなくなるでしょう。まあ、別に科学者でなく、スポーツ選手あたりを目指してもいいんでしょうがね。きっとそちらでも超一流になれるでしょうから。あの子は本当に、これ以上ないくらい不公平な話ですが、容姿だけでなく、いろいろな天賦の才に恵まれていますからねぇ。一つぐらい才能が潰れても、痛くもかゆくもないでしょうよ。彼はまだ十七歳ですから、いくらでも方向転換は出来ますし、もう一生、生活に困らないくらいは稼いだでしょうしね」
「だから、何が言いたいんだ。僕に何をしろと……」
「なに、あなたにやって欲しいのは、とても簡単なことですよ。あなたのお部屋のドアに、白い袋がかかっています。その中に入っている薬を一粒、明日のミーティングの時にでも、アーディス・レインさんのコーヒーカップに落とせばいいんです。簡単なことでしょう? 隙を見て、ちょっと手を伸ばせば良いだけですから。あなたがやったなんて、誰にもわかりませんよ。そうですね、それができれば、明日の公演はできないでしょうから、あなたも明日中にトロントへ帰れる。いとしい奥さまと坊やに会えますよ。もちろんお二人とも無事にね」
「な……なんだって?!」
「間違って他の人のカップに落とさないでくださいよ。劇薬ですからね。それと、濡れた手で触るのは厳禁です。あなたの手も大変なことになりますよ。それは困るでしょう。でも、飲んでも命にかかわることはありませんよ。ただ大きな声は出なくなるはずです。それだけです。完全に声を奪うわけではありません。かなり声はかすれるでしょうけれど」
「…………!」
「エアレースの快進撃も、もうそうなると終わりですけれどね。伝説の名アルバム一枚だけで終わる、それもまた素敵ではありませんか」
 そんなはずはないだろう、ふざけるな! そう言いたかったが、声にはならなかった。相手はさらに言葉を続けている。
「ジャスティン・ローリングスさん。あなたにとって、一番大切なものはなんです? 成功ですか、お金ですか? 他人の威光を借りた? いやいや、それよりももっと大事なものがあるでしょう。最愛の奥さまとお子さまがね。よく考えるといいですよ」
 一瞬の間をおいて、一段声を低め、相手は付け加えた。「最後に一つ、忠告しておきます。このことをマネージメントに相談しようなどとは、考えない方が良いですよ」
 クックッと忍び笑いが聞こえた。背筋がぞっと寒くなり、全身が総毛だった。何か言おうとしても、言葉にならない。相手が受話器を置く音がした。それきり、発信音のほかは何も聞こえてこない。僕はしばらく呆然と電話を見つめ、震える手で受話器を置いた。

 僕はふらつきを感じながらベッドから起き上がり、部屋のドアまで歩いて行って、開けた。廊下側の取手に、小さな白いビニール袋がかかっている。僕はそれを取り、再びドアを閉めて部屋に戻った。その袋の中に、白い封筒がある。灯りをつけてソファに座り込み、かすかな手の震えを感じながら、中を改めた。小さなジップつきビニール袋に入った、直径五ミリほどの小さな白い錠剤が二つ。これが本当に、飲んだものの声を奪う劇薬なのか。ぞくっと震えを感じた。
 僕は慎重に袋を開け、錠剤を一粒だけコップに落として、ミネラルウォーターを注いでみた。ためしに飲んでみるわけにはいかない。本当にそのとおりになっても、僕ならあまり困ることはないだろうが、人体実験をする勇気はない。指を入れるのも、ギタリストという職業上、困る。考えた末、枕の上に落ちていた髪の毛を、一本入れてみた。一、二秒間、髪の毛はそのままコップの中を揺らいでいたが、ふっと激しく泡立ち、溶けた。再びぞっと震えるのを感じながら、今度はビーフジャーキーを入れてみた。やはり一、二秒の間をおいてぶくぶく泡立ち始め、原型がなくなっていく。さらに、シャツについていたタグを切って入れてみると、それもまた溶けていく。
 僕は慌ててコップを取り上げ、中身を洗面所に捨てた。透明なプラスティックのコップが内側から白濁しているのを見て、さらに激しい悪寒を感じた。具体的な薬品名は特定できないものの、これは間違いなく劇薬だ。それもすぐには効果を発揮しない、たちの悪い奴だ。すぐに刺激したら、飲んだとたん変だと感じて、吐き出されるだろう。だから、強酸ではない。アルカリの方だろうか。それとも、酸でも即効性のないものか、もしくは他のものか。よくわからないが、これは確実にたんぱく質を溶かす。繊維も溶かす。プラスティックさえも腐食させる。そんなものを飲んだら、のどや食道が焼ける。声帯も確実にダメージを受けるだろう。完全に飲みこんでしまったら、たぶん消化器官もやられる。すぐに吐かせないと、命に関わるほどに。でも吐かせたらまた、のどに二度目のダメージを受けてしまうだろう――。
 残ったもう一方の薬も、流しに投げ捨てたかった。とんでもない。こんなもの、絶対にエアリィには飲ませられない。彼の才能は確かに桁外れゆえに、僕でさえ怖いと感じることはある。でも、彼から歌を奪うことだけは考えられない。エアリィはたしかに多くの才能、桁外れの天分に恵まれている。あの男の言うとおり科学者になっても、さもなければ運動選手やダンサーを目指しても、きっと超一流になれる。それは僕も確信するが、やっぱり彼の最大の天職はシンガーだ。アーディス・レインは世界でただ一人、これまでも、たぶんこれからも決して現れることはないだろう、未踏の領域に達することの出来た、究極のシンガーだ。その才能をつぶすことは、僕の手をたとえ百本切り落としたとしても、決して償えない罪だ。そんなことはとてもできない。やってはいけない。いくら最愛の妻と子のためであっても──。
 ああ、これが本当に単なる悪ふざけだとわかりさえすれば、何も悩むことなどないのに。たちの悪い嫌がらせだと百パーセント確信できたら、僕は残りの錠剤をトイレにでも投げ捨て、ベッドに潜り込んで眠るだろう。でも、あの男は僕とステラのことを、マスコミに公表されている以上に知っていた。エアリィが州を驚かせた天才少年であったことも(まあ、これはある程度察しはついていたが)、彼の本来の学力なら、今頃大学院を余裕で出ているだろうということも、僕は知らなかったのに、相手は知っていた。十四になるかならずで高校を卒業した、ということは公に知られているが。それは隠しようのない事実だからだ。さらに相手は、僕が今日ティファニーに行ったことも、明日がバンドのミーティング日であることまで知っていた。ちょっと手を伸ばせば届くと言うからには、相手は彼と僕が普段ミーティングで隣同士に座っているのも、知っているということだ。いったい何者だ。妨害者たちは、なぜ僕らの内部事情をそれほど知っている――?
 恐ろしい不安に襲われ、僕は部屋の中を歩き始めた。今も誰かに見られているような、無防備な頼りなささえ感じた。だがその妨害者が明日、自宅近くのどこかに凶悪な連中を待機させ、合図があれば押し入る準備をしているなどということが、ありえるのだろうか? 家にはステラとクリスだけではなく、家政婦のトレリック夫人とメイドもいるはずだ。彼女たちの勤務時間内なら。五十過ぎの未亡人と二十歳そこそこの娘では、ならず者たちを防ぐことは出来ないかもしれないが、警察に通報するくらいは、できるかもしれない。だが、相手は何人だ? これだけいろいろなことを知っている相手なら、そのことも当然計算に入れて、それ以上の人数で来るのではないか? 彼女たちにも危害を加えるか、さもなければ邪魔できないように縛り上げることだって、簡単にできるのではないか? いや、しかし白昼堂々そんな振る舞いをすれば、近所の人に気づかれて、通報される可能性もあるだろう。近所との付き合いは挨拶程度で、ほとんどないが、家は普通の住宅街の中にあるのだから。連中はそんなリスクを犯すのか? それとも気づかれないように、声も上げられないように脅すのか? いや、そんなリスクを犯さないようにするなら、決行は夜なのか? 深夜、あたりが寝静まり、使用人たちも帰って、ステラとクリス、二人だけでいる時に。その場合、僕が早く帰れば……いや、無理だ。コンサートが終わり、その足で最終の飛行機に飛び乗っても、トロント到着は三時半前、自宅に着くのは、どんなに早くても四時半だ。そんな時間まで、連中が手をこまねいて待っているはずがない。しかし、単なる悪戯かもしれない理由で、最終公演をキャンセルするわけにはいかない。
 頭の中に、恐ろしい映像が浮かんできた。言葉にするのさえおぞましい、決して考えたくないことなのに、そのイメージは繰り返し僕を拷問にかける。その可能性は、果たしてどのくらいだろう? 僕が指示に従わず、その結果、万一ステラとクリスがとんでもない災厄に見舞われてしまったら、いったいどうしたらいいんだ──。
 僕は頭を抱えた。我知らずうめき声が漏れる。妻と子の安全と引き換えに、自分の手を切り落とせと言われたほうが、どのくらい楽だったろう。自分の命と引き換えでもいい。だが、どんなにかけがえのない、いとしい妻と子のためであっても、この要求だけは飲めそうにない。人間として、音楽を愛するものとして。もし本当にそんなことをしてしまったら、僕はきっと自分が許せなくなるだろう。それでも自分だけは平然と音楽活動を続けるなんて、とてもできない。僕は自分のやったことを告白し、エアリィに許しを乞うて──彼はそれでも僕を恨まないと思う。それが、よけいにつらいだろうとも思える。僕の人生も破滅するだろう。そうしたら、いったい誰が救われる? ステラとクリスにとっても、僕は価値を失った人間の屑に成り下がるだろう。彼らのためにそうしたという行為自体より、その良心の呵責から破滅した男に、夫や父親としての価値など見出せまい。
 だが、もし僕が相手の条件を飲まなかったために、ステラとクリスにおぞましい災厄が降りかかったら、僕は自分の行為の結果、彼らを救えなかったことに、やはり良心の呵責に耐え切れなくなることは、目に見えている。僕はステラに『君が何よりも大事だ』と言った。その言葉に嘘偽りはない。ステラとクリスが何よりも大事だ。そのために何を犠牲にしてもというのは、自分だけのことなら当てはまる。だが、そのために親友の最大の才能を破壊する権利は、僕にはない。
 いくら考えても、答えは見つかりそうになかった。時間だけが過ぎていく。真冬のニューヨークの夜明けは遅い。窓から無数の街灯りが見える。この街は決して眠らない。僕にこれほど苦しい究極の二択を迫る奴は、どこにいる。おまえもこの中にいるのか。卑劣な。激しい憤りを感じた。負けるものか。

 今、ステラとクリスは安全だろうか――。街の灯りを眺めているうちに、ふと、そんな思いが浮かんだ。落ち着け。良く考えろ。もし脅迫者の言うことがハッタリではなく、本気だったとしても、少なくとも今は、二人は無事なはずだ。僕が交換条件を飲んだか蹴ったかは、連中もミーティングの時にならなければ、わからないはずだから。明日の、いや、もう今日か、早くとも朝九時過ぎくらいまでは、連中も行動は起こすまい。そう、今はまだ、大丈夫なはずだ。さらにもし相手が白昼堂々の犯行を避けるなら、もっと時間の余裕がある。
 ならば今、二人に警告を発することは可能だろうか? 僕が脅しに屈しなかったとして、その結果ステラとクリスがひどい目にあわないよう、十分な自衛手段をあらかじめ取ってもらうことは、できないだろうか? いざとなったら、義父母に事情を話して、協力してもらってもいい。こうなったら、義父母には頼みにくい、などと言っている場合ではない。パーレンバーク夫妻のことだから、警察に電話するなどと言うかもしれないが、それでもかまわない。妻と子に危害が及びさえしなければ、警察沙汰になったってかまわない。  時計を見ると、五時前だった。まだみんな寝ているだろうが、起き出す時間まで待っているのは、耐えられなかった。僕はホテルの電話を取り上げ、外線ボタンをプッシュしかけて、ふと手を留めた。相手は、マネージメントに知らせようと考えない方が良いと言った。それは、どういう意味だ? マネージメントに訴えたら、その場で僕が交換条件を破ったとみなし、ステラとクリスを襲う気なのか? それだと、直接妻に話をすることも、同列とみなされたりはしないか?
 いや――僕は頭を振った。自衛は無駄ではないはずだ。仮に、僕の部屋に巧みな盗聴装置やカメラがしかけられていて、僕の行動があちらに筒抜けだったとしても、相手が具体的な行動を起こすまでには、時間がかかるはずだ。仮にそれが一、二分であっても。その間にステラに戸締まりをしてもらい、外に怪しい気配がしたら、すばやく警察を呼ぶだけの余裕はあるはずだ。そのあと僕は直ちにロブに電話をして、協力を要請しよう。僕がしなければならないことは、絶望の二択ではないはずだ。離れてはいても、僕にできることは、凶悪な連中の手からステラとクリスを守ることだ。もちろん卑劣な脅しに屈することではなく、正々堂々と。
 受話器をおろし、携帯電話を取り上げた。もし部屋に盗聴機があるなら、気休めにしか過ぎないが、ホテルの電話だと、妙な剥き出しの感じがしてしまう。僕は深く息をつき、電波状態を確かめた。OKだ。自宅に発信し、しばらく待った。呼び出し音が聞こえる。一回、二回――十回くらい鳴っただろうか。そのコール音を聞きながら、僕は胸苦しさを覚えた。寝ているのだとは思う。だが、本当にそうだろうか。まさかあいつらは、もう行動を起こしているのか? はなから取引などする気はないのか? そんな恐ろしさが消せない。が、やがて、電話がつながった。僕は我を忘れて呼びかけた。
「ステラ! ステラ! 無事かい?」
「なんだ、こんな時間に!」
 雷のような声で、返答が帰ってきた。男の声だ。一瞬、心臓が凍り付いた。
「今、何時だと思っているんだ! これだから、非常識な奴は困る!」
 よく聞いたら、義父の声だった。瞬間、体中の力が抜けたような気がした。
「お義父さん!」
「こんな非常識な奴に、お義父さん呼ばわりされたくないわ!」義父は不機嫌に怒鳴る。でも今は、その怒鳴り声さえ福音のように聞こえた。
「いらしていたんですか?」
「来て悪いのか? ここは私たちの娘の家だ。家内だって来ている」
「お義母さんも……」我知らず、安堵のため息が漏れた。ステラとクリスだけよりも、義父母が一緒にいてくれれば、万が一の時に助けになるだろう。
「誰、ジャスティン?」
 背後でステラの声がし、しばらくあって、彼女が電話口に出てきた。
「どうしたの、ジャスティン、こんな時間に。時差の関係? ああ、でも今ニューヨークよね。同じ時間のはずだけれど」
「ああ、こんなに朝早く電話して悪かったよ。でも、どうしても気になったんだ。さっき、変な電話があってね」
 僕は『これから家族を襲いに行くかもしれない』と、ほのめかされたとだけ伝えた。その内容や交換条件のことなど、詳しいことは何も話さなかったが、やはり当然のことながら、妻にはショックを与えたようだ。
「まあ、怖い!」ステラは悲鳴に近い声を上げた。
「大丈夫だよ。たぶん、たちの悪いいたずらだろうと思う」僕は出来るだけ落ちついた声を出そうとした。「でも、万が一ということもあるから、今すぐ戸締まりを厳重にして、窓のシャッターもおろしたままにして、明日僕が帰るまで、外へ出ないでほしいんだ。誰か来ても、いつでも通報できるように電話を持って、相手をきちんと確認するまでは、絶対にドアを開けるんじゃないよ。お義父さんたちも泊まりに来てくれたのなら心強いけれど」
「ええ。今年は家で三人だけでクリスマスをすると言ったら、スミソンズさんと一緒に、準備を手伝いに来てくれたの。一週間ほど前から。スミソンズさんは元々住み込みだから、今はうちに泊まっているし、トレリック夫人も帰らずに、一緒にいるのよ。スミソンズさんと仲がいいから、いろいろお話したいんじゃないかしら。メイドたちはいないけれど、休暇中で」
 そうすると今はステラとクリス、義父母と、パーレンバーク家の料理人さんもいるのか。さらに普段は通いの家政婦さんも泊まっているなら、家の中には、六人いる勘定だ。それならたとえ犯人が複数で来ようと、一人二人は目を逃れて警察に通報もできるだろう。こちらの数は多いほどいい。
「僕が帰るまで、できたら、いてもらったほうがいいな。今、玄関や窓の鍵はかかっている? シャッターもおりている?」
「ええ。大丈夫よ。寝る前に確認したから。あなたが帰ってくるまで、パパやママたちにここにいてもらうようにするわね。元々、明日の朝まではいるって言っていたし。クリスマスの買い物は昨日行ってきたし、明日までずっと外に出なくても、大丈夫よ」
「そう、良かった。ちょっと不自由だけれど、ぜひそうしてくれ。頼んだよ。戸締まりは、本当に大丈夫だね?」
「ええ。このあたりはそう物騒ではないから、昼間は鍵をかけないこともあるけれど、夜はちゃんとかけているわ。パパやママがいる時には、くどいくらい確認しているし。実はね、二週間ほど前にパパが言い出して、セキュリティシステムもつけてもらったの。玄関とお庭に防犯カメラと、家の中に四ヶ所くらい非常ベルをつけたのよ。何かあったら、警備会社が来てくれることになっているわ。あの……あなたが前にしていたお金の話ね、それをパパとママに言ったら、万一狙われると危ないと言い出して。大丈夫よね。警備費はうちの負担だけれど。月に千八百ドルかかるけれど、かまわない? あなたが帰ってきたら、言おうと思っていたの」
「ああ、もちろんだよ。僕も帰ったら、そうしようと思っていたんだ。よかった。それなら大丈夫だね。あっ、今は昼間でも、しっかり鍵をかけるんだよ」
 深い安堵のため息が漏れた。義父母の過保護と心配性が、こんなところで幸いするとは。

 家に連絡し終えると、僕は躊躇せずロブの部屋に電話をかけた。
「こんな朝早く悪いけれど、ちょっと相談したいことがあるんだ」と告げ、その薬を持って、彼の部屋に行った。念には念を入れて、マネージメントの協力も仰ぎたい。
 ロブはパジャマにガウンを引っかけた姿で、まだ眠そうだったが、話を聞いてたちまち目が冴えたらしい。「なんだって!?」と、大声を上げた後、しばらく僕を見、そして肩をぽんと叩いた。「ありがとう、ジャスティン! 話してくれて。大丈夫だ、心配するな!」
 ロブはすぐにコールマン社長に電話をしていた。もちろんこんな早朝なので、会社ではなく自宅だろう。社長さんも眠っていたようだったが、すぐに起きて処置をしてくれたらしい。十分ほどのちに折り返し電話がかかってきて、いつも使っている警備会社に連絡し、明日の夕方僕が帰るまで、自宅を警備するように手配すると言ってくれたようだ。
 その間にロブの奥さんで、僕らのツアーコーディネイターでもあるレオナも起きてきて、ルームサービスでココアを頼んでくれた。
「寒くないの、ジャスティン? ガウンも着ないで」
 レオナにそう言われ、僕は改めて自分がパジャマのまま、ここに来てしまったことに気づいた。彼女はロブの部屋用カーディガンを着せかけてくれ、慰めるような笑みを見せた。
「そうよね、つらかったでしょうね。そんな卑劣な脅しをかけられて」
「本当にな。だが、ここに相談に来てくれて良かったよ。大丈夫だ、ジャスティン。心配するな。おまえの奥さんと坊やには、指一本触れさせない。我々を信用しろ」
 ロブも安心させるように、ぽんと僕の肩を叩く。
「うん。ありがとう」僕はのどにこみ上げてくる熱い塊を飲み下し、頷いた。
「おまえは部屋に帰って休め。ろくに寝ていないのだろう」
「ああ。そうするよ」
 深い安堵を感じながら、僕はココアを飲み干して立ち上がった。
「今日のミーティングは、時間をずらして午後からにしよう。おまえはそれまで、ゆっくり寝ておけ。僕はその間に、他のメンバーに話をしておこう」
「ああ」僕は頷き、部屋へ帰りかけたが、ふと気になった。
「ロブ、全員に話をするのかい? エアリィにも?」
「ああ。そうだな……彼には交換条件のことは言わないでおこう。ショックだろうからね」
「そうか。よかった」
 実行する気はまったくなかったが、あの脅迫の真の内容をエアリィが知ったら、やっぱり衝撃を受けるだろう。僕はほっとしながら、自室へ引き上げた。もう六時半を過ぎていた。この時期ではまだ夜は明けないが、時間的には朝だ。不意に眠気を感じた。考えてみたら、昨夜は二時間半ほどしか寝ていない。緊張が解けたら、どっと睡魔がおそってきた。僕はベッドに潜り込み、まもなくぐっすりと眠り込んだ。

 再び起きあがった時には、すっきりとした気分だった。僕は大きくのびをし、冷たい水で顔を洗った。もうすぐ一時だ。午後からになったミーティングが始まる。その前に念のため、もう一度自宅へ電話した。ステラが出て、いつもの声で、何も変わったことはないから大丈夫、と言った。マネージメント会社の人からも電話があり、警備員が二人、朝からずっと僕の家の前で、見張ってくれているという。僕はほっと深いため息をつき、冷蔵庫から冷たいコーラを取り出して飲み干すと、窓を細く開けた。冷たい風が気持ち良い。
「大丈夫だ。僕は負けたりしないぞ」思わず声に出して、そうつぶやいた。卑劣な脅迫者なんかに負けはしない。今夜は最終公演だ。思い切りやろう。




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