The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(8)





 電話が鳴っている。深い眠りから浮かび上がった僕は、枕もとの時計を見た。午前五時過ぎ。ここに帰ってきたのは十一時ごろだった。六時間くらい眠ったのか。でも、まだ眠い。全然寝たりない──。
「なんだよ、こんな時間に……」僕は苛立たしげに呟き、受話器を取った。
「こちらはフロントですが」電話の向こうの相手は告げた。
「お休み中、大変申し訳ありません。トロントから、お客さまに国際電話がかかってきています。まだお休みの時間ですから、おかけ直しくださいと言ったのですが、緊急の用事なので、ぜひつないでほしいと、強くおっしゃっています。よろしいでしょうか?」
「え!」たちまち目が覚め、僕はベッドの上に起き上がった。トロントからの長距離というと、ステラ──? 彼女は僕が六月にロードに出かけてすぐ、実家に里帰りしていた。それゆえ少し電話が通じにくくなったが――着信拒否は解除してくれたものの、なかなか取り次いでくれない。その前の全米ロード中も、頻繁に実家に行っていて、自宅が留守の時も珍しくなかった。携帯電話を持っているのが救いだが、アメリカはともかく、他の国からだと電話代が心配、と、電源が切れていることも多い。(国際ローミングサービスをオプションで付けているから、そんなにかからないはず、と言ってもステラには今一歩理解できていないようだ)
 そういえば、予定日はいつだっただろうか。九月十日──昨日じゃないか! 昨日一日、時差ぼけでもうろうとしていたから、思い出しもしなかった。不覚だった。電話すればよかった。いや、ちょっと待て。メルボルンとトロントでは、十六時間も時差がある。ということは、カナダではまだ九月十日だ。十日のお昼過ぎ──。僕は急いで聞き返した。
「誰からですか?」
「ルーシア・ローリングスさまとおっしゃる方です。お客様のお母さまだと、おっしゃっておられますが」
「そうだ、母だ。つないでください」
 僕はツアーに出る前に、スケジュール表――ツアー日程と会場、宿泊ホテル、会場とホテルの電話番号が記されたものを、コピーをとってステラに手渡し、実家にはFAXしていた。僕はジョン・クロード・ローレンス、もしくはカール・アーノルド・アーヴィングという名で(メンバーみな、本名で泊まることはない)宿泊している、とも記していた。母はそれを見て、日付とホテル名を照らし合わせ、電話をかけたのだろう。
 しばらくの間があって、母の声が受話器から流れてきた。
「ああ、ジャスティン。通じてよかったわ。携帯にかけたけれど、出なかったから。わたしはオーストラリアとの時差は、あまり詳しくないけれど、そっちは今、何時なのかしら?」
「朝の五時だよ。九月十一日の」
「あら、じゃあ、お休みの時間だから、かけなおせと言われるわけね。ごめんなさい。でも、どうしても早く、あなたに知らせたかったのよ。あのね、聞きなさい。子供が生まれたの。男の子よ。生まれたのは、午前十時四五分。体重は九ポンド(約四千グラム)ほどあったわ。母子共に良好な状態よ」
「おお!」僕はそう叫んだきり、言葉が出なかった。子供が生まれた! 男の子――ステラと僕の息子が! 言いようのない安堵感と喜びに、僕は思わずその場で躍り上がった。
「でも、少し時間はかかったわね」電話の向こうで、母は話を続けている。
「今日が予定日だから検診の予定だったのだけれど、昨夜遅くに急に破水したという連絡がパーレンバークさんから来たので、急いで入院してもらったのよ。それからすぐに陣痛が始まったのだけれど、なかなか強くならなくて。初産だったし、母体が小柄なのに赤ちゃんが大きかったこともあって、ちょっと難産だったわ。途中で子供の心拍が落ちたから、帝王切開も考えたのだけれど、ステラさんはよく頑張りきったわよ。さっき、改めて赤ちゃんを見せてもらってきたの。まだ真っ赤だし、頭に産瘤もできているけれど、本当にかわいい子だわよ。目もぱっちりしているし、顔立ちも整っているの。大きくなったら、きっとハンサムさんになるわ」
「そうか。よかった……」僕は歓喜の吐息とともに、そう言うのがやっとだ。
「ジャスティン、本当におめでとう。あなたももう、一人の子供の父親ね。まだ二十歳の若さでも、あなたは自分から、その責任を選び取ったのよ。ちゃんと自覚して、しっかりとおやりなさいね」
「うん。わかっているよ。ああ、母さん。ありがとう、ありがとう!」
 今すぐステラと生まれたばかりの息子に会いに、飛んで帰りたい。ステラの手を握り、『ありがとう』と、肩を抱いてキスをしたい。母になった妻の顔を見てみたい。赤ん坊を抱いた妻を。生まれたばかりの僕らの息子を、早く見たい。この手で抱いてみたい。その子がどんな様子で、どんな顔をし、どんな風に泣くのか──ああ、ここがトロントだったら。せめて数時間で往復できる近さのところだったら、ツアーの最中だろうが、移動日を使って行って来られるのに。でも、ここは地球の裏側だ。オセアニア・アジアツアーが、昨日始まったばかり。これからオーストラリアとニュージーランド、インドネシア、シンガポール、香港、台湾、韓国、日本と回る。妻と子に会えるまで、まだ一ヶ月以上もあるのか。たまらなくもどかしい。
 もう寝るどころではなく、僕はひたすら落ちつきなく、部屋の中を歩き回っていた。大きな窓の向こうはまだ暗かったが、やがてゆっくりと夜が明けていく。南半球の九月は北半球の三月と同じだから、少し肌寒い。僕は上着をはおって窓を開けると、明るく染まっていく空を見あげた。歓喜のうねりと会いに行けない焦燥が、心の中に激しく交差する。昇っていく太陽が、弱い光なのに、やけにまぶしい。
 冬の名残の冷たい風がすうっと頬を掠めたと同時に、心の中にも一抹の冷たさが落ちてきた。限りある未来かもしれないのに、子供が生まれたことを、手放しに喜んでいいのだろうか。子供が一人前になるまで親は面倒を見て、守り育てる。でも、その子が一人前になるまで、世界が待ってくれなかったとしたら──?
 ぶるぶるっと激しい震えとともに、暗澹とした気持ちが突き上げてきた。やめよう! そんなことは考えるな! 心の中で、僕は激しくそう叫んだ。子供が生まれた。世界にただ一つの命、僕とステラの愛の結晶、僕らの息子が誕生したのだ。なのに、そんな縁起の悪いことを考えるなんて。未来のことなんて、誰にもわからないはずだ。あの世界だって、本当にあったのか、今ではわからない。くよくよ考えても、仕方のないことなのだ。子供が生まれたことを親が手放しで喜べないなんて、情けない。未来の枷がなんだ。限りない未来と可能性を子供の上に願う。それでいいんだ。
 僕は深くため息をついた。ああ、会いに行けたら。会いたい。その思いはいつもあったが、これほど強烈にステラに会いたいと思ったことは、初めてだ。そしてもちろん、生まれたばかりのわが子にも。

 それからしばらく、僕はまるで熱に浮かされたような気分だった。ステージに立っている時は、すべてを忘れていられる。でも誰かと話していない時、何かをしていない時には、考えるのはステラと子供のことばかり。食欲もあまり感じなくなり、ため息ばかりついている有様だ。
「まるで深刻な恋わずらいだな」ジョージにそうからかわれたが、彼はこうも言ってくれた。「でもその気持ち、俺にもよおくわかるぜ。俺も娘が生まれた時、そうだったからな。ヨーロッパでのサポートツアーが始まったばかりで、二か月近く帰れなかったんだ」
 そういえば、そうだった。二年前の五月、ジョージは子供の誕生を待ちわびていた。が、インターバルの間には生まれず、ヨーロッパに出発して三日目に、娘が生まれた。その時の彼の歓喜と、そして『ああ、ちくしょう! 会いたいけど会いにいけない! なんでこの時期にヨーロッパなんだ! なんでもう少し早く生まれてくれなかったんだよお!』という嘆きとを、僕はよく覚えている。時々ぼーっとしていたことも。その時僕は、(子供が生まれるって、そんなに嬉しいものなんだな、やっぱり)という思いを持って見ていたのだが、今となっては心から共感できる。あの時には、まさかそれから二年と四か月後に、自分も同じ思いをするとは夢にも思わなかった。救いといえば、ジョージよりは少し、会えるまでの時が短いということだけだろうか。ああ、なぜ時は、こんなにゆっくりと過ぎていくのだろう。早くこのツアーが終わればいいのに。

 子供が生まれたという知らせから一週間が過ぎ、ニュージーランドにいる時、再び電話がかかってきた。朝の八時ごろで、僕はまた電話の音で目が覚めた。
「トロントからの国際電話です。コレクトコールですが、よろしいですか?」交換手の声が言っている。
「コレクト? 誰から?」
 母だろうか? でも、母はコレクトコールなんかしてこないだろう。
「ステラ・パーレンバークさまと仰っています。あなたの奥様だと仰られていますが」
 交換手の言葉に、僕は思わず小さく飛びあがった。
「ええ! すぐ、つないでください!!」
 しばらくのち、誰よりも聞きたかった声が電話の向こうから聞こえてきた。
「もしもし、ジャスティン? わたしよ」
「ステラ! 君かい?」
「ええ。ごめんなさいね、コレクトコールなんかして。でも病院の公衆電話じゃ、ニュージーランドまでは、かからないの。少し遠すぎて。携帯電話も使えないし。だから今、ナースセンターからかけているのよ。国際電話の、コレクトコールのかけ方を教えてもらって。最初、ジャスティン・ローリングスさんいますかと聞いてしまって、いませんと言われてから、あなたは別の名前で泊まっているって気がついたのよ。そう書いてあったから」
「ああ、そうなんだ。原則、本名では泊まらないんだよ。ファンからの問い合わせとか、そういうのを避けるためにね。君は病院にもスケジュール表を持ってきてくれたのかい、ステラ?」>
「ええ。ずっと持っているわ。それで、時々見ているの。今あなたは、どのあたりにいるのかしら、どのくらい進んだのかしらって」
「ありがとう」思わず、そう言葉が出てきた。
 ステラは小さく、恥ずかしそうな、幸せそうな笑いを漏らしていた。
「それでね、わたし今日退院することになったの。赤ちゃんと一緒に」
「そうか、よかったね」僕はしばらく沈黙した。妻に言いたいことが、とてもたくさんある。感謝したいことや、愛を伝えたいことが。でも、なんだか胸が詰まってしまったようで、言葉が出てこなかった。ステラは弾んだ声で話を続けている。
「よかったわ、すぐにあなたが捕まって。あなたがホテルにいるのは、真夜中か朝のうちだけでしょう。でもわたし、あなたのいる所が今何時だか、わからないのよ。とんでもない時間にかけてしまっていたら、ごめんなさいね」
「かまわないよ。こっちは朝の八時なんだ。だから大丈夫だよ」
「ここでは、まだお茶がすんだばかりよ。本当に、遠いところにいるのね」
 彼女は小さな吐息をもらした。
「ごめんね。出産に立ち合えなくて。僕も残念だよ。まだ一ヵ月は帰れないし」
「ううん。それは仕方がないわ。お仕事ですものね。覚悟はしていたし。あなたが帰ってくるまで、実家にいるわ。パパやママも、坊やが生まれたことを、とても喜んでくれたの。わたし、それもうれしくて」
「そう、よかったよ。初孫だものね。君はもう身体は大丈夫なのかい?」
「ええ。ただ少し熱が出て出血も起きたから、ちょっと退院が遅れたの。でも、もう大丈夫よ。今は順調に回復しているわ。赤ちゃんも、とっても元気よ。それでね、ジャスティン。坊やの名前を、あなたにつけて欲しいの」
「子供の名前? ああ、そうだね。名前をつけなきゃね。いいよ。今すぐに?」
「今でなくてもいいわ。あのね、来週の日曜日が洗礼式だから、それまでにね」
「わかった」
「じゃあ、お願いね。決まったら電話して知らせてね。あまりここの電話を使っても悪いし、そろそろ検診の時間だから、切るわね」
「うん。ありがとう。本当にありがとう。ご苦労さま」僕はそれだけしか言えなかった。
「ええ……」彼女は小さな声で答え、しばらく黙ったあと、再び明るい口調になって続ける。「じゃあ、がんばってね。無事に帰ってきてね。わたし、待っているから」
「ああ」僕は頷き、それから不意に思い出した。
「そうだ、ステラ! 今日は君の誕生日だね。二十歳になるんだ。おめでとう!」
「ありがとう」少し笑いを含んだ声が返ってきた。「でも、わたしのお誕生日は、明日よ」
「あ、そうか。そっちは、まだ十七日か!」
「そうなの。でも、わたしの誕生日を覚えていてくれて、ありがとう。本当にうれしいわ」
「そんなこと当然だよ。でも、そうか……そっちでは、まだ君の誕生日じゃないんだね」
 僕は夫婦の間にある距離に思い至った。地球を半周するほど遠い。でも心の距離はない。僕は妻の心を感じとれる。きっと彼女も――。
「愛してるよ、ステラ」思わずそうささやいた。今すぐ飛んで帰って抱きしめたい。僕たちの子供を早く見たい。またもやそんな衝動が強くこみあげて来た。でもツアーはまだ一ヵ月も残っている。じっとしていられない。待つのは本当に、もどかしすぎる。

 それから二日ほど、僕は子供の名前を思案していた。子供が生まれたらつけたいと以前から思っていた名前は、とくにないが――アーノルド──うーん、いくら尊敬しているからつけたといっても、ローレンスさんに苦笑されそうだし、万一目の前で呼ぶことになったら困る。同様に、ローレンスもちょっとためらわれた。ローリーなんて愛称になったら、丸かぶりだ。しかもローレンス・ローリングスは語呂が悪い。アリステア──ハハハ、母さんは喜ぶだろうけれど、エアリィの子供ならいざ知らず、僕がつけるのは変だ。ジョン──父さんの名前だけれど、失礼ながら平凡過ぎる。マイケル──ミックはともかく、ホッブスも連想させる。どっちにしても、体格が良くなりすぎないだろうか。ジェームズ──うーん、ちょっと普通すぎるな。ジミーと呼ぶと、ローディーの方を思い浮かべそうでもあるし。ジョシュア――義父の名前じゃないか。そこまで媚を売らなくともいい。ロバート──ロビンもロブもいるからな。姉の夫とも同じだし――他には、たまに見かけるが、自分と同じ名前というのも、賛成できない。紛らわしいのもいいところだ。ピーター、ジュリアン、エイドリアン、エドワード、リチャード、アーサー、ウィリアム、ニール、アレキサンダー、ジェラルド、フィリップ──いろいろな名前が頭を駆け巡り、でもどれも『これだ!』という決定打にかける。
「じゃ、いくつか候補を紙に書いて、目をつぶって一枚ひくとか、どう?」などとエアリィに半ば冗談のように言われたが、本当にそうしようかとも一瞬考えた。でも、そんなに適当に決めて、いいものだろうか? その子に一生ついて回るものなのに。まあ、彼は「適当と運は違うよ。天の定めだと思うんだ」と主張していたが。
 迷いに迷っていると、思いがけないところからインスピレーションが落ちてきた。コンサート会場へ移動中、見えた教会、そして町の名前(ウェリントンの次の公演地は、クライストチャーチだった)――そうだ、クリスチャンというのはどうだろう。天路歴程の主人公のように、これからの困難かもしれない時代を生きるのに、神の愛が得られるように。クリスチャン・ローリングス。いいじゃないか。ミドルネームはステラに任せよう。そして普段は簡単にクリスと呼ぼう。いい響きだ。

 さっそく楽屋から電話をかけようとしたが、時差を考えてやめた。向こうはまだ真夜中だ。そんな時間に実家にかけたら、また顰蹙を買う。公演が終わり、ホテルに着いて寝る直前になって、電話をした。出たのは母親だ。彼女は冷ややかな口調で言った。
「まだステラは寝ていますよ。今何時だと思っているの?」
「朝の八時くらいじゃありませんか?」
「そうよ。でも、あなたは知らないでしょうけれど、生まれたばかりの赤ちゃんには、夜中も何度か起きて、お世話をしてあげなければならないのよ。かわいそうに、ステラはゆっくり寝る暇もないの。せっかく寝ているのだから、起こさないでくださいな。かりにも旦那さまなら、そのくらいの思いやりはあるでしょう」
 がちゃんと音を立てて、電話は切れた。それだったら、時間は関係ないだろうに。新生児に夜の授乳が必要なことは、僕だって知っている。だてに医学書を読んでいたわけではない。でもステラが寝ているか起きているか、離れているから、わからないだけだ。きっと義母は僕から電話があったことも、ステラには言わないのだろう。ため息をつき、僕は受話器を置いた。
 しかたがないのでそのまま眠り、翌朝今度はステラの携帯電話にかけた。通じない。やっぱり距離の遠さにためらって、電源を切っているのだろう。しかたがない。僕は祈るようにして、もう一度実家の番号をプッシュした。
「もしもし……」ステラの声が受話器の向こうから流れてきた時、僕は安堵のあまり、思わずほうっと深いため息をついた。
「ステラ、今ちょっと手はあいているかい?」
「あら、ジャスティン。ええ、坊やは今おとなしいわ。なあに?」
「子供の名前、決めたんだ」
「あら、よかったわ。なんていう名前?」
「クリスチャン。……変かな?」
「あら、いいじゃない。それに、意味もすてきよ」ステラは即座に言ってくれた。
「クリスチャン……クリス。かわいい! あなたなら、きっといい名前をつけてくれると思っていたわ、ジャスティン」
「よかった。気に入ってくれたら、うれしいよ」
「ええ、わたし好きよ。さっそく今日からクリス坊やと呼ぶわ。ねえ、それでミドルネームは、ジョシュアでいいかしら。パパがそうつけてくれたの」
 義父の名前もジョシュアだ。自分の名前をつけたのか。なんだかちょっと愉快ではなかったが、断れば余計こじれてしまう。
「いいよ。じゃ、クリスチャン・ジョシュア・ローリングスだね」僕はすぐ気付いて、渋々付け足した。「それとも、君のお父さんに付けてもらった名前を最初にするかい?」
「いいえ、クリスチャンが最初でいいわ。わたし、あなたの付けてくれた名前の方が好きなのよ。ジョシュアでは、パパと同じでしょう。ジョシュやジョシーと呼ばなければならないけれど、わたしはクリスの方がすてきだと思うわ」ステラはすぐにそう答えてくれた。「ねえ、ジャスティン、早く赤ちゃんを見てほしいわ。かわいいのよ、とっても。まだ生まれて半月なのに、もう髪が生えているの。濃い金髪よ。ダークブロンド。巻き毛になっているの。お目々はちょっと青がかった灰色なの。本当はね、わたしはあなたのような、エメラルド色の目をした赤ちゃんが欲しかったの。あなたの目の色が好きだから。でも、赤ちゃんがぱちっと目を開いてわたしを見てくれた時、これほどすてきな色はないって思えたの。ああ、赤ちゃんって、ほんとうに小さいの。最初はわたしが抱いたら壊れてしまうのではないかと、心配になったほどだわ。お手々もあんよもなにもかも小さくて、でも、ちゃんと揃ってるのよ。あたりまえなのでしょうけれど、とても不思議な気がして、感動してしまったわ」
 彼女はさらに我が子がどんな仕草をするか、どんな様子をしているか、どんなにいとおしいかを熱っぽく語り始めた。僕は聞きながら息子のイメージを心の中で組み立て、それにつれて、会いたさがますます募っていった。
「早くこのツアーが終わればいいな」僕は思わず深いため息をついた。「君と子供に会いたくてたまらない。まだ、あと一ヶ月もあるのが恨めしいよ」
「ええ。わたしも……」ステラも小さなため息をついていた。

 ステラと生まれたばかりの息子、それは僕を現実に結びつけてくれる錨だった。僕は家を、妻を、そしてまだ見ぬ息子に会うことを恋いこがれた。早くこの騒がしさから抜け出して、家族の元へと避難したい。コンサート自体は好きだが、外へ出れば追いかけてくるファンや、なんだかんだといろいろ聞いてくるマスコミは、時折うっとうしい。ただ妨害が入っていないことだけは、救いだった。わずらわしいことや、勝手の違う異国の習慣に戸惑いながらも、ツアー自体は順調に進んでいた。細かい中傷や嫌がらせの手紙、変なプレゼントといったものはあったのかも知れないが、耳にした会話の断片から察すると、マネージメントやエージェントがほとんど握りつぶしたようで、目立ったトラブルはない。ロードに出て半年が過ぎ、現実が半ば非現実のような毎日の中、いつしか不安は薄れていった。バンドが予想以上に大きくなっていく、その戸惑いだけだ。
 国から国へ、街から街へと移動し、終わる日を指折り数えながら、僕にとっての時間はゆっくりとたっていった。でも時が凍りつかない限り、どんなことにでも終わりは来る。長い海外遠征も、ついに終わる時が来た。

 息子が生まれたという知らせから四十日近く過ぎた十月、ようやく最終公演地の東京からトロントへ飛び立った。とうとう近づきつつある現実の期待に、僕はフライト時間さえ長く耐えがたく思われ、飛行機の中で走り出したい衝動にかられた。非現実の戸惑いも、もう完全に頭にはなかった。一週間あまりのインターバルで、二度目の全米ツアー、期間は二ヶ月と短いが、前回回りきれなかった何箇所か(エアリィの第二の故郷プロヴィデンスへの凱旋公演も含めて)と、メジャーマーケットでのリピート公演。前回の需要があまりにも多く、そのために組まれたアリーナツアーのセカンドレッグが、年内いっぱい続く。アルバムセールスも世界規模で三千万枚を超え、全米では七百万枚にもうすぐ届くところまで行った。CD売り上げが低迷する中、まるでバブル時代のような数字だ。でも今は、そんなことはどうでもいい。やっと妻とわが子に会える。ただ、その思いだけが渦巻いている。(もうすぐだ。もうすぐ会える)と。
 空港で荷物を受けとり、入国審査、税関と通り、空港ロビーを抜けた外には、マネージメントで手配してくれたバスが待っていた。空港からそれぞれのメンバーの家に順番に送ってくれるのだが、普通にいけばジョージやミックの家の方が先で、僕は最後になる。でも、みな口をそろえて「ジャスティンのところに最初に回ってあげて」と言ってくれた。普段とは逆ルートになり、かなり大回りだが、今日だけは特別だと。
「ありがとう」僕はみなに感謝し、空港から一時間以上の道のりを、ひたすら前を見て過ごした。見慣れた景色、見慣れた道を、少しずつ我が家に向かって近づいていく。胸の動悸は早くなり、気持ちは前に飛んでいく。早く、早く会いたい――。

 やっと我が家が見えてきた。ステラはお昼頃から新居に戻ってきていると、昨日電話で言っていた。家政婦のトレリック夫人とメイドさんも一緒らしい。赤ん坊を抱えていると、ますます家政はできなくなる。致し方ないだろう。完全な水入らずというわけにはいかなかったが、元々二人とも通いで、週五回なのが救いだ。トレリック夫人はあまり僕が好きではないらしく、メイドさんは遠慮するのか、二人とも家で仕事がない時には、いつも控え室になっている、それぞれの個室に引っ込んでいる。仕事をしていても、掃除以外は台所にいることが多い。だから、さほど煩わしくはないだろう。
 バスから降り、降ろしてもらったトランク二つと、お土産をたくさん詰めたバッグを台車に乗せて、僕は進んだ。玄関のドアを開けると、ベルベット地で紺色にピンクの小花が飛んだワンピースと、白いエプロンをつけたステラが、笑顔で出迎えてくれた。腕の中にしっかりと、大事そうに赤ん坊を抱きかかえている。
 僕たちの初めての息子クリスチャンは、若い母親の腕に抱かれて、安心しきったように眠っていた。クリーム色のやわらかな素材でできたベビードレスの袖口から、小さな手がちょこんとのぞいている。その手は何かをつかんでいるかのように握られていた。ピンク色がかった丸い頬に茶色のまつげ、小さな頭を取り巻いた、綿毛のような濃い金髪。小さな鼻、小さな口元、小さな耳、そして小さな手。赤ん坊とは、こんなに小さいものだったのだろうか。なんて頼りなげで今にも壊れそうで、それでも精一杯のびていこうとする、小さな生命。
「お帰りなさい、ジャスティン。この子がわたしたちの坊や、クリスチャン・ジョジュア・ローリングスよ。世界一、かわいい子でしょう?」ステラが嬉しそうな笑みをたたえながら、誇らしげに言った。「もう一カ月を過ぎたの。今日で生後三八日目よ。赤ちゃんの世話は本当に大変で、毎日眠くてしかたがないわ。でも、いやだとは思えないのよ。この子がかわいいから。本当に毎日毎日、どんどんかわいく思えてくるの。あなたも抱いてあげてちょうだい」
「ああ」僕は頷き、手を伸ばした。ステラが赤ん坊を、僕の腕の中に渡した。ああ、壊れたりしないだろうか? こんなに小さく、頼りないのに。
 腕にかすかな重みと温もりが伝わってきた。柔らかい布を通して、小さな身体が、小さな手足が、たしかな生命の息吹が感じられる。熱いものが、胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。まっさらの新しい生命、ステラと僕の生命を伝える――。
 赤ん坊のクリスがその時、ぽっかりと眼を開いた。澄みきったブルーグレイの瞳で、不思議そうに僕を見つめている。僕は子供に微笑みかけた。クリスも笑ったように思えた。それともこれはいわゆる天使の微笑だろうか。愛おしさともに、切なさもこみ上げてきた。
 生まれたての生命。この子には、どんな人生が待っているだろう? ああ、それを思ってはいけない。あまり遠くの未来を追いかけるのは、不確かなリミットが過ぎてからのほうが安全だ。今はまだ、未来には希望より不安のほうが強い。この子は無事に成長できるだろうか。あの未来がもし本当だとしたら、こんな時に子供が生まれて大丈夫だったのだろうか。だめだ。そんなことを思うな。この子は絶対に生きて、無事に成長させなくては。人生の本当の喜びを知り、一人前の大人になって、僕らのもとから飛び立つまで。
 息子が泣き出した。思わず力が入って、ぎゅっと抱きしめてしまったらしい。
「ダメよ、そんなにきつく抱いては」
 ステラは再びその腕に我が子を取り戻した。
「ごめん。慣れていないから、ついね。初めて抱いたから」
「そのうちに慣れるわ。ねっ、パパ」彼女は悪戯っぽく笑う。
「中に入って、ジャスティン。お疲れさま」
「ああ。長いこと留守にして、ごめんよ。本当に会いたかったよ」
 僕は妻と息子にキスすると、居間のソファに座った。夕食までには、まだ間がある。ステラがクリスに授乳し、コットに寝かせている間に、僕は荷物の整理をした。洗濯物は恐縮しながらトレリック夫人に頼み、お土産類はバッグごとリビングへ。ひとしきりステラのお産の様子や生まれたばかりの頃のクリスの話を聞いてから、僕はバッグを開けて、包みを取り出した。
「ヨーロッパからのものはもう送っているから、今回はオセアニア編だよ」
 僕は一つずつ包みをほどいて、中味を並べていった。
「珍しいものがいっぱいあったから、君の誕生日プレゼントもかねて、色々お土産を買ってきたんだ。着物とかきれいな置物とかアクセサリーをね。クリスのためにも、いっぱい買ってきたよ。ベビー服やおもちゃなんかが目に付いてね」
「まあ、嬉しいわ! 本当にたくさんあるのね。ありがとう」
 彼女は目を輝かせ、両手を合わせた。「本当にきれいなものばかり。ありがとう。でもわたし、あなたにお返しにあげるものが何もないわ」
「何を言ってるんだい。君は大きなプレゼントを、僕にくれたじゃないか。どんな宝物よりも貴重で素晴らしいものだよ」
「あなたが言っているのは、クリス坊やのことね」
「そうだよ。本当にどんなにお礼を言っても、言い足りないよ」
 僕はコットの中で眠っている小さな息子を見やった。「それに、これは君の誕生日プレゼントなんだから、お返しなんて心配しなくていいんだよ。第一、僕らはもう夫婦なんだからね。夫が妻にお土産を買ってくるのは、普通のことさ。今度のツアーは北米だから、あまり珍しいものはないかもしれないけれど、クリスマスプレゼントとして何か買ってくるよ。リクエストはあるかい? お金のことは、心配しなくていいんだ。ツアーが大盛況だから、かなりギャラが入ったんだよ。それに今度のアルバムがモンスターヒットになったから、関連収入が相当な金額になるんだ。もう上半期、六月までの分が入ってきてると思うけれど、それでこの家の残金を支払おう」
「今年の分を?」
「いや、全額だよ。百八十六万五千ドルを」
「そんなに払っても、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。三百五十万ドルくらい、入ったから」
「あら……そんなに?」ステラは驚いたように、目を見開いた。
「ああ。それに七月から九月までの分が、来月入るけれど、それも二百万ドル近くになるらしいんだ」
「まあ。それなら……わたしたちは、お金持ちになったということ? ジャスティン」
「そうなんだろうね。僕も転職を考えなくても良さそうだ」僕は軽く肩をすくめた。
「驚いたわ。あなたたちの今度の作品は、たしかにものすごく売れているとは聞いたけれど……」
「ああ。だからなんだろうね。二十歳の若造には、分不相応な富だ。でも、エアリィほどじゃない。今回のアルバムは、彼がほとんど曲を作っているから、僕らの倍以上の収入になるんだ。彼はまだ十七なのにね」
「あなたの二倍以上というと……一千万を超えるの? 十七歳で? まあ……なんだか遺産相続でもしたみたいね」
「そう。試算では千二百くらいらしいよ。経理の人の話だと。彼自身もとても驚いていたみたいで、君と同じことを言っていたなぁ。一回も会ったことのない、存在も知らなかった大金持ちの親戚から、突然遺産が降ってわいたみたいだって。まあ、エアリィは本当に二十歳になったら、映画俳優だったお祖父さんの遺産が、たぶん八百万ドルくらい入るらしいけれど、その前にそれ以上のものを、自力で手に入れた感じだな。でも僕も正直言って、そんな気持ちさ。遺産が降ってわいたようだって。もちろん税金を払わなければならないから、全部自分のものとは言えないけれどね。ツアーのギャラも今度の全米では、一回で一人二千ドルアップして、一万ドルになるらしいんだ。十回もやれば、ダイアモンドの首飾りだって買えるよ」
「本当に、とんでもない世界なのね……」ステラは片方の手を胸に当て、ため息をついた。
「とはいっても、君の実家ほど資産家じゃないだろうけれど」
「あら、うちはそれほどお金持ちではないのよ。たしかに使用人は五人もいるけれど、そんなに贅沢はしていないわ。たくさん使用人を置くのは、パパやママのプライドなのかもしれないわね。わたしにはお金をかけてくれるけれど、パパやママはそれほど服も買わないし、アクセサリーも新しいものは買っていないらしいの。内緒の話だけれど、パパは土地やビルを貸したお金と、昔パパのお父さんがドイツで土地を売った時の貯金とで、生活を支えているのですって。そんなに思うほど裕福ではないと、ママがこの前言っていたの。わたし、それまでは知らなかったから、驚いたわ。わたしに資産家のお婿さんと結婚して欲しいと言ったのも、一つにはそのせいらしいの。でもあなたがそれだけお金持ちになるのなら、きっとパパやママも、あなたのことを見なおしてくれると思うわ、ジャスティン」
「そうか。ちょっと意外だったな」僕は頷きながらも思った。あのプライドの高いパーレンバーク夫妻が、僕のあぶく銭(彼らはそう言うだろう)での援助なんて、あまり喜びはしないのではないだろうと。でもトレリック夫人とメイドさんには、いつもお世話になっているから、彼女たちのお給料は、せめて僕が負担しよう。
「それで、君はクリスマスプレゼントには何が欲しいんだい、ステラ?」
「あのね、では、言っていいかしら……」ステラはちょっと上目遣いに僕を見た。
「いいよ、なんでも」
「もしニューヨークへ行くなら、ティファニーのネックレスが欲しいの。プラチナで、三連のオープンハートの真中が金で、小さなダイアモンドがついているネックレスが。ドーセットさんの娘さんがつけているのを、前に見たことがあるのよ。それからずっと欲しかったの。でもそれはニューヨークの本店でしか売っていなくて、一万ドル以上すると聞いたから、あきらめていたのよ」
「わかった。お安いご用だよ。ティファニーのプラチナネックレスだね。三連のオープンハートで真ん中が金で、ダイアモンド付きの、本店限定の、か。ちょうどニューヨークは最終公演地なんだ。クリスマスプレゼントにちょうど良いね。絶対に買ってくるよ」
「ありがとう、ジャスティン」ステラはこころもち頬を紅潮させた。
「それと、もうひとつ、欲しいものがあるの。それも頼んでいいかしら」
「ああ、もちろん。なんだい?」
「あなた」
「えっ?」
「あなたよ、ジャスティン。あなたが無事に元気で、変わらずにわたしのところに帰ってきてくれること。ティファニーのネックレスより、ずっと大事なことだわ」
「ありがとう、ステラ」僕は思わず妻をかたく抱きしめた。
「ああ、ステラ。僕にとっても君が一番大事だよ。お金よりも名声よりも、どんなものよりもね。君が側にいてくれてどんなにうれしいか、言葉ではうまく言えないよ。僕が仕事に打ち込めるのも、君がここにいてくれるおかげさ」
「わたしもよ。あなたがいて、わたしのところに帰ってきてくれると思うから、毎日幸せでいられるの。クリス坊やを産む時も、覚悟していたより、ずっと苦しくて痛くて、今にも死んでしまいそうな気がしたわ。あなたがついていてくれたらって、本当にそう思えたの。パパやママはいてくれたけれど、わたし、無意識にあなたの名前を呼んでいたの。それで、思ったのよ。いいえ、あなたは今ここにはいないけれど、帰ってくる。赤ちゃんが生まれたことを、きっと喜んでくれる。わたしはがんばって、あなたに元気な赤ちゃんを見せてあげなくては。それで、がんばりきれたのよ」
「そうか……」僕は腕を伸ばし、ステラを見つめた。「ありがとう。それにごめんよ、本当に。君が一番つらい、大事な瞬間に立ち会うことが出来なくて。次の機会があったら、こんどこそはどんなことがあっても立ち会うよ。というより、ロードの真っ最中に生まれないように、気をつける必要があるかな」
「そうね。子供は三人くらい欲しいわ」ステラは微笑んだ。
「不思議なものね。クリスを産んだすぐあとでは、こんなに痛い思いをして産むのだったら、もうこの子だけでいいと思ったの。でも次の日には、お産の痛みなんて忘れているのよ。二年か三年経ったら、次の子が欲しいわ。今度は女の子が。男の子でもいいけれど。それから五年くらいおいて、三人目を。もし二人目が男の子だったら、女の子が。女の子だったら、男の子がいい。それが理想なのよ。男の子が二人いれば、一人はあなたの姓を継いで、もう一人がパーレンバーク家を継げるから」
「そうだね。男二人、女一人か。たしかにそれが理想かな」
 僕は笑った。心の底に、ひやりと冷たさを感じながら。そのプランでいくと、運命の日にはクリスは八歳、二人目の子は五、六歳、そして末っ子は赤ちゃん。限られた未来には難しすぎる。せめて末っ子の子作りは、運命の日を無事に超えてからにしたい。
「でも、それはあくまで理想だから、男の子三人兄弟でも、女の子が二人になっても構わないわ。わたしは子供が好きだし、兄弟に憧れていたから、一人っ子にはしたくないだけ。でも、まだクリスちゃんが産まれたばかりで、先を考えるのは早過ぎるわね」
「まあ、子供は授かりものだからね。でも、にぎやかになるだろうな、この家も。子供が駆けまわるようになったら」
「子供の頃、憧れていたのよ。居間に暖炉が燃えていて、わたしは揺り椅子で編み物をする。赤ちゃんがコットで眠り、子供は楽しそうに遊んでいる。大きな白いむくいぬが床の上に座っていて、夫はブランデーグラスを片手に、わたしに話しかけてくれる……」
「この家に暖炉はないなあ。作ってみるかい? リビングの上は吹き抜けだから、煙突を通すのは簡単にできると思うよ。それに、犬も飼えるだろうしね」
「笑っているのね、ジャスティン」
「いや、君らしいなって思って。でも君のイメージじゃ、仕事はあっても毎日家に帰ってくる夫なんじゃないかい?」
「それはそうよ。ロックミュージシャンというのは、予想外だったわ。でもいいの」
 ステラはにっこり笑って、僕の胸に手を当てた。「長い間留守になっても、こうして帰ってきてくれるから。あなたが家にいる間、わたしは本当に幸せよ。だから、どうか変わってしまわないでね、ジャスティン。わたしは贅沢をさせてもらうより、あなたがこのままのあなたでいてくれて、わたしのところに帰ってきてくれたら、それで充分なの」
「君は心配しているの、ステラ? バンドが大成功したから、僕が変わってしまうかもしれないって。傲慢になって思い上がったり、堕落したりするだろうって? 君を捨てて、美人女優かモデルと一緒になったりしないだろうかって?」
「いいえ。あなたはそんなことには、なりはしないと思うわ。あなたはそんな人ではないはずよ。それは信じているわ。でもね、わたしは音楽業界には詳しくないけれど、そんなわたしでも、はっきりわかるの。エアレースは、あまりに大きくなりすぎていると。不思議な気がするのよ。あなたはあなた、わたしが以前から知っているジャスティン・ローリングスで、わたしの夫でもある。あなたとこうして話していても、そう思えるわ。お金のことには驚いたけれど。いえ、それも副産物の一つなのね。エアレースというバンドが、今本当に大変な勢いで売れているということの。あなたはその一員で、それも主要なメンバー。まあ、アーディス・レインさんは別格としても、あなたも相当に人気はあるわけでしょう?」
「うーん。まあ、そうなのかな……」
「わたしは、あなたが雲の上の人になってしまわないかということが、怖いの」
 ステラは真剣な表情で僕を見据えた。「エアレースのジャスティン・ローリングスさんは、なんだかわたしの知らない人みたい。前にもそう思ったことがあるけれど、それは昔のわたしがあなたの仕事やバンドに対して、嫉妬していたからだわ。今は受け入れようとしているけれど、それでも本当に遠く感じてしまうの。あまりに大きくなりすぎて、凄すぎて。あなたが渡してくれた新しいアルバムを、わたしも聞いたわ。実家では胎教に良くないからと、パパやママがなかなか聴かせてくれないけれど、ヘッドフォンでこっそり聞くことは出来たのよ。それで、凄いとかすてきとか素晴らしいとか、そういう感情ももちろん感じて、涙が出るほど感動したのだけれど、あとで少し怖くもなってしまったの」
「怖い?」
「ええ。凄すぎて怖い。そんな印象だったの。聴いてはいるわ。でも吸引力が強すぎて、なんだか中毒になりそう。ファンの人たちならそれでもいいけれど、わたしはなんだかそれでは怖いのよ。だって、あのまま聴いていると……」
「何?」
「ずっと聴いていると……なんだか、なんというのかしら……取り込まれそうな気がしてくるのよ。アーディスさんに。あの人の感情世界に。わたしはあなたを中心に聴きたいと思って、ずっとギターの音を第一に聴いてきたの。でもあのアルバムでは、それができないのよ。楽器だけなら簡単にあなたの音だけを聴くことができるのに、歌が入ってくると、ギターを聴きたいと思っても、できなくなってしまうのね。いえ、音は入ってくるの。でも……何と言ったらいいかしら、意識に入ってくるのは、歌声だけなのよ。他の音は、それに、そうね、伴奏のようについてくる……渦巻のように。そして……なんて言ったらいいのかしら。よくわからないけれど……頭の中にイメージと感情が広がって、一つの世界になって……心が本当に揺さぶられる。悲しかったり、優しかったり、寂しかったり、せつなかったり、でも暖かかったり……そんな気分になるの。まるで、別世界に飛んでいくようだわ。聞き終わっても、気持ちに余韻が残ってしまって、いろいろな思いが湧いてくる。そう思うのは、わたしだけではないのよね。だから、あれほどの大成功になった。でもそれが……少し怖い気がするの。畏怖の思いに、近いのかもしれないわ」
「それが彼のモンスター……未踏の領域なんだな」僕はふとため息をつき、妻の肩を抱いた。「今だから、話そうか、ステラ。あまり詳しいことは僕もよくわからないし、君にも興味があるかどうか、わからないけれど。去年の夏だ。君に『何かトラブルがあるの?』と心配された時。あの時、エアリィは才能的に大脱皮しようとしていた。その反動で、かなり精神のバランスを崩したんだ。それで、一時期音信不通にもなって、いろいろあったんだ、一か月くらい。それを乗り越えて、今になった。その時、彼のコーチを務めた人に言われたんだ。彼は業界を揺るがすモンスターになる、と。そしてバンド全体も……だからこその、この大ブレイクなんだろうと思う。その現実に、僕も困惑を感じないと言ったら、嘘になるだろうね」
「まあ……そうだったの……あの時に言っていた、家出したお友達って、アーディスさんだったのね。知らなかったわ……」ステラは言葉をのんだようにしばらく黙ったが、やがて僕の腕に手をかけ、訴えるように見上げた。
「でも、あなたはあなたよね、ジャスティン……」
「そうさ。僕は僕だよ。何があっても変わりはしない」僕は妻の手を握りしめ、頷いた。「変わりたくないよ。何もかも。たとえバンドがモンスターに成長しても、僕は僕に変わりはない。君を愛する気持ち、クリスを愛しく思う気持ち、バンドの仲間たちへの友情、音楽への情熱、なにもかも変わって欲しくない。君にも変わって欲しくはないよ、ステラ。君は君のまま、クリスの母親として僕の妻として、幸福な気持ちでいて欲しい。僕のことも愛していて欲しい。これからも」
「ええ、もちろんよ」ステラは僕を見つめたまま、深く頷いている。「あなたもそのまま、変わらないでいてね、ジャスティン」
「変わらないよ。僕は僕だ。それに君とクリスへの愛は、何があっても変わるものか!」
 僕は強く力をこめて、ステラを抱きしめた。しかし、最高に気分が高揚したこの瞬間、クリスは目を覚まして泣き出し、トレリック夫人は夕食のベルを鳴らす。ステラは僕の腕から抜け出て、コットの中から赤ん坊を抱き上げ、トレリック夫人はリビングにやってきて、「お食事ですよ」と、のたまったのだった。




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