The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(7)





 早く寝たせいか、八時前に目がさめた。ステラはまだ眠っている。よほど疲れたのだろうか。今は大事な時期なのだし、出来るだけ休息をとらせておこう。僕は妻の髪をなで、軽く頬にキッスしてから起き出した。ステラは寝返りを打ったが、目は覚まさなかった。
 昨日降った雪はもうやんでいたが、二十センチほどつもっている。昇ってきた太陽に照らされて、半透明のきらきらしたガラスのかけらのようだ。洋服を着、コートを羽織って庭に出てみた。アイスバーン状にはなっていない。雪かきをするほどでもなさそうだが、万が一ステラが滑って転んでは困る。家の裏手にある物置から真新しいシャベルを持ってくると、門までずっと細い道がつくように雪をどけた。すっかり汗ばんでしまったのでシャワーを浴び、もう一度着替えてから寝室を覗いた。ステラはちょうど起き出してきたところらしい。やんわりとこちらをにらみ、同時に微笑みながら言う。
「これから着替えをしたいの。だから入ってこないでね、ジャスティン」
 別に夫婦なのだから良いじゃないかとも思うけれど、ステラはその点ひどく慎み深い。
「はいはい」僕は肩をすくめ、退散した。
 それから二人で簡単に朝食の支度。パンとバター、卵とハムは昨日パーレンバーク夫人が買っておいてくれたらしい。冷蔵庫には牛乳と野菜ジュースのビンもあったし、トレリック夫人が作っておいてくれたらしい朝食用のスープも、鍋に入っていた。パンをスライスしてトーストし、コーヒーをメーカーでいれるのはステラ。でも彼女はつわりがあるのか、油の匂いが苦手だというので、パンにバターを塗るのとハムエッグ作りは、僕がやった。一つは見事に黄身がつぶれ、一つはこげた。あーあ、明日はゆで卵にしよう。スープを温めて皿に移し、野菜ジュースをグラスに。準備が終わると、二人で食べた。
「明日から仕事が入りそうなんだよ。前にも言ってあったと思うけれど」
 朝食の席で僕がそう切り出すと、ステラは少し肩をすくめた。
「あら、そうなの? そういえば休暇は今日までと、言っていたものね。それでは、今日だけね。二人でゆっくり出来るのは」
「ああ。だから今日は新婚気分に浸りたいんだ。トレリック夫人とメイドさんには、明日から来てもらうことにして、君のお母さんにも、悪いけれど来るなら明日以降にして欲しいと言ってくれないか」
「ええ、わかったわ」ステラは微笑んで頷いてくれた。>
 その日は、何もかも慣れない家庭生活で、マーケットに買い物に行くのにも、食事を整えるのにも片付けるのにも大騒ぎしながら、しかし忘れられないほど楽しく過ぎていった。夕食は宅配もやっている近くのレストランに電話し、料理を持って来てもらった。

 その夜九時過ぎに、僕はロブからのメールに返信した。翌日から取材を受ける覚悟はあるので、スケジュールを教えてくれと。返ってきた日程表を見て、僕は思わず目を丸くした。明日から四日間、レーベルが用意した市内のホテルで、朝九時半から夜九時半まで十二時間。途中昼休憩が一時間と、お茶休憩が二十分入っているだけで、標準で三十分、長くて五十分、入れ替えが十分というペースで、ずっと取材が入っている。いくら十日以上休んでいたからとはいえ、これはないだろう、おい、と思わず抗議したくなり、ロブに電話した。プロモーションがたくさん入っていて、エアリィだけでは大変だから手伝ってくれ、とは言われていたが――でも彼も『一日に十件以上入れないで』とロブに言ったという。僕に来た予定は一日十件どころか、それ以上ある。短期集中だからか? とはいえ、あんまりだと。
「すまない。おまえにあらかじめ回す予定のものに加えて、エアリィのキャンセル分が入ったから、こうなってしまったんだ。彼は一昨日から、取材が受けられない状態なんだ」ロブは電話の向こうで、そう言っていた。
「え? どうして? 体調でも崩したのかい?」僕は思わず問い返した。
「まあ、そうだ。インフルエンザで熱発したと、相手方には伝えているんだが……」ロブは少し言いよどんでいるようだったが、少し吐き捨てるような調子で、言葉をついでいた。「本当は違う。○○のせいだ」と。
 それは、最初に僕らがサポートを勤めたバンド。バス事故を起こしたサイレントハートの代役を終盤務めたあのツアーの、さらにその翌年の春、ヨーロッパツアーにも同行させてくれた、大物ベテランバンドだ。ツアー中、彼らはかなり友好的だった。その人たちが、なぜ――?
「どういうことだい?」僕は再び問い返した。
「最初から話をしよう。彼らは二月の半ばから、またツアーを始めたんだ。今の時代では、ベテラン勢は新譜を出しても、あまり売れない。ツアーで稼いでいくしかないからね。今回は、過去のヒットアルバムの再現ツアーだ。実は彼らも去年の年末、おまえたちにそのツアーのサポートをオファーしてきたんだが、その時には一月からのツアーが決まっていたので、断っていた。それ以降は、もうおまえたちはサポートを卒業になったから、彼らには別のバンドが二つ、同行している。まあ、その彼らが先日、トロント公演に来たんだ。それで、そのコンサートの招待状を送ってきた。バンド全体じゃなく、エアリィ単独に。まあ、ツアー時も彼はあの人たちに可愛がられていたから、親愛の情で、なのだと僕は解釈した。彼は『えー、僕だけなんだ? でも、ロブも一緒に来てくれるんだよね』と、ちょっと肩をすくめて言っていた。僕ももちろんそのつもりで、一緒に行った。先方は僕らを一般客席でなく、ボックス席に入れてくれたし、まあ……そんなに楽しんだとは言いがたいが、そう退屈でもなかった。僕も昔、良く聴いていたアルバムだったから。明らかにシンガーは声が出ていなくて、観客に歌わせたりしていたがね。終演後、招待されたのだからと、二人で楽屋に挨拶に行った。相手は懐かしがってくれ、非常に歓待してくれた……ように見えた。ところがしばらくして帰ろうとした頃、折り悪く、僕に電話が入った。取材の問い合わせで、十分ほどその場を離れた。戻ったらエアリィはいなくて、先に帰ると言っていたと、連中は言った。そうなのか、僕を待たないで帰るというのは、何か急用なのだろうか、といぶかりながら、僕も帰ったんだ」
「ああ。それで、本当に彼は帰っていたのかい?」
「いや、帰ってはいなかった。その十分間に連中に拉致された、というのが正しい。あとから話を聞いたら、テイザー、つまりスタンガンで撃たれたらしい。僕が場を外して、二、三分くらいしかたっていない時に。完全に、不意打ちだったらしい。メンバーの一人が両腕を押さえ、他の二人くらいが近づいてきて、なんだか雰囲気が変だ、と思ったとたんに、背中にテイザーを当てられたという。それで動けなくなって、『まあ、ちょっと付き合ってくれ。悪いようにはしないから』と、メンバーの一人が言い、セキュリティの一人にひょいと担ぎ上げられて。エアリィはもともと、そんなに体重はないからな。軽いものだったのだろう。その状態で楽屋の通用口から、車に乗せられたらしい。テイザーのあとは二つあったから聞いたら、途中で電撃のショックが消えかけて、動こうとしたら、二発目を撃たれたと言っていた。そしてそのまま、彼らのホテルまで連れて行かれたらしい」
「えっ?!」
「僕はそんなこととは知らず、家に帰って寝ようとしていたんだ。パジャマに着替えたところで、電話がかかってきた。弱々しい声で『ロブ……気持ち悪い……助けて』と。どこだって問い返したら、市内の某ホテルの……部屋番号も告げた。僕はあわててそこへ飛んで行き――思わずパジャマのまま飛び出しそうになって、レオナに止められたがね。鍵がかかっていたので、フロントに頼みこんで合鍵をもらい――うちでも使っていて、多少融通は利いたのと、その時フロントにいたのが、高校の同級生だったこともあってね。もし文句が来たら、僕が責任をもつと言って――部屋を開けて入って、救出したんだ。もう意識はなくなっていて、体温も下がり始めていた。そこから救急車で病院に運んだ。急性薬物中毒で、ショック状態になっていた」
「なっ……」僕は思わず絶句した。「なぜ、そんなことに?!」
「連中に薬を打たれたようだ。腕に注射の跡があった。血液検査の結果では、検出されたのは古典的な奴ではなく、合成麻薬系のものだった。でも、エアリィは薬品過敏なんだ。たぶんそれでショック状態になったんだろう。連中は慌てて、部屋に放置したらしい。でも彼はかろうじて意識を回復して、幸い携帯が手の届くところにあったから、それで僕に助けを求めてきてくれた。それで、なんとか処置が間に合ったんだが……そのまま気づかずに放置されていたらと思うと、本当にぞっとする」
 僕は言葉が出ず、ただ震えるしか出来なかった。
「そういうわけで、一昨日からエアリィは取材を受けられない。リハーサルも、二、三日参加が遅れるだろう。彼の場合、ブドウ糖と生理食塩水しか使えないから、それを点滴して、できるだけ自力でも水分をとって、あとは自然代謝で薬を排出するしかないんだが、抜け切るにはまだまだかかるらしく、体調がかなり悪い。薬が抜けていけば、だんだん落ち着いていくのだろうが、今も摂氏で四十度近く熱があるし、身体も痛いらしい。自分で症状を訴えることはないんだが、見ていても相当つらそうなんだ。ただ、まあ……警察や病院や向こうの関係者とも話はついているし、表ざたになることはないだろう。病院はいつも使っているところだから心得ているし、向こうも十六歳の子に麻薬を打ったなんて公になったら、犯罪者だ。だから必死で警察に根回ししたらしい。だったら、そんなことを最初からするなと言いたいが、わからないと思っていたらしいな。まさかアレルギーで病院沙汰になるとは、思わなかったんだろう。相手のマネージャーから、詫びの電話があった。悪気はなかった。メンバーたちは最初のツアーから、あの子のことを気に入っていた。だから一年半ぶりに会えて喜んでいたし、それで、このあと遊びに行こうと誘ったのだが、断られた。それでついカっとして、撃ってしまった、と。しかし、それはないだろう。エアリィは相手を怒らせるような断り方はしないはずだ。それにそっちはいつもテイザーを持ち歩いているのか、カっとしたからテイザーで撃つのが、普通のことなのかと、僕は問い詰めた。それに薬のことは、どう説明するんだ、と。相手は言葉を濁し……そして言った。あの時には十四、五歳だったから、可愛いなと思っても、手は出せなかった。でも機会があったら遊びたいと思った、と。だから気分を高めるためにと、薬を打ったそうだ。いわゆる……媚薬系だな。つまり……まあ、そういうことなんだ。今だって十六なんだが、十六歳未満と以上では、法的にかなり違う。十六歳未満だと、完全に犯罪になるからな。それを恐れたんだろう」
 僕は言葉を失い、血の気が引くのがわかった。あの人たちが友好的だったのは、彼に対してよく声をかけ、頭を撫でたりしていたのは、そんな下心があったのか。あの子は男の子だから安心だなと言っていたのは、下心があるとは思われないだろう、という意味だったのか? この業界に入ってしまった以上、そのリスクも考えなければならない、ということか。セカンドアルバムのプロデューサーも、好みのタイプなら男女見境ないとジョージが言っていたが、この業界は本当に、そういう輩が多いのか? ゲイも多い業界だとも聞いていたが、もしその人が女性側であるなら、男っぽい男性を求めるのだろうか? もし男性側であるなら――そういえば、エアリィが以前話してくれたプロヴィデンスでの忌まわしい事件で、第二の犠牲者はロビンにタイプが似ていたというから、もしかしたら彼も気をつける必要があるのか? 僕自身は大丈夫なのか――? いや、なんて下種な考えだ! そんなことは考えたくない。僕は激しく頭を振り、震えた。ロブは話を続けている。
「ただ最初に薬を打たれて、ショックで倒れたから、それ以上は何もない。幸い……なのだろうが、そういう問題じゃない。僕は怒り狂った。訴えないだけ、ありがたいと思え! もう二度とこっちには接触するな、そう、相手のマネージャーに宣告したんだ。そうしたら、相手はこんな捨て台詞を吐いた。『そうか。わかった。心配しなくても、もう会うことはないだろう。あの子には別に恨みはない。だが、今は恐ろしい脅威だ。あの子が倒れた時、メンバーたちは慌てたが、私は最上の結果になったと思った。あんたが救出に来たおかげで、すべてはぶち壊しだ。どうやって、あそこに来られたんだ。あのまま死んでくれたらよかったのに』と」
 僕は再び激しい悪寒が走るのを感じた。
 ロブは再び深くため息をつき、厳かな口調で僕に告げた。
「そういうわけだ。おまえには新婚早々大変だろうが、がんばってくれ、ジャスティン」
「あ……ああ」僕は頷くしかなかった。
 甘い新婚気分に、氷水をかけられたようだった。僕らのいる現実。冬のツアーでも感じた思い。未踏の領域は業界のタブーだ、と。それを踏み越えてしまった今、僕らの周りは、すべて敵なのだろうか。今は僕らより上のアーティストたちは、撃墜される危険を避けようと、僕らを――いや、アーディス・レインというモンスターを、消そうとしているのだろうか――ぞくっと激しい寒気を感じた。薬アレルギーで昏倒した時点で、放置するなんて。予想外の反応に慌てたのかもしれないが、死んでもかまわないという悪意を、ありありと感じる。そう。メンバーたちはどうだったのかはわからないが、マネージャーは明らかにその意図だったと、ロブに言ったという。エアリィが自分の窮状をロブに知らせて、助けを求めることが出来たから、よかったようなものの――。
 僕は深くため息をつき、打ち出されたスケジュール表をながめた。

 翌日から、取材地獄が始まった。朝の九時ごろマネージメントの車が迎えに来て、夜十時過ぎ、再び車で送られて帰ってくる。その間に受けたインタビューが、一日平均で十五本。挨拶をして、写真を撮られて、それから質問に答える。その繰り返した。外国のメディアだと通訳が間に入るので、会話のテンポが少し間延びする。聞かれる内容は、ほぼ同じだ。ます中心は最新作について。でも、その前に集中練習を受けたので、楽器の表現がかなり楽になった、というくらいしか、僕では言えない。各曲の解説も、僕はギタープレイやインストのアレンジ面のことしか説明できない。曲の主題とか、できるまでのインスピレーションとか、それはエアリィでないと、具体的には答えられないのだ。それゆえ、楽器専門誌以外は少し物足りなく感じるようだが、どうしようもない。さらに僕は、知らない人に会うのは気疲れする。座ってしゃべっているだけなのだが、かなり精神的疲労を感じ、夕方くらいからは、いつも頭痛がしてくる。相手の顔も名前も、いちいち覚えてはいられない。僕が意識しているのは、その日何番目の相手か、というくらいだ。そしていつも同じ質問をされるたび、いっそのこと、定型の答えを吹きこんでおいたものを、そのつど流そうか、とさえ思ってしまった。
 プライベートな質問では、やはりどうして髪を切ったのかと、インタビューのたびに聞かれた。これも僕は、同じ答えを返した。三月に結婚したので、彼女の両親の要望で切った。これからまた伸ばす、と。もっともらしい言い訳を考えるのも面倒だったのだ。結婚についての質問には、プライバシーだし、相手は一般人だから詳しいことは言わないけれど、アマチュア時代から付き合っていた同い年のガールフレンドだ、秋には子供も生まれる予定だと答えた。すべての答えを文章のようにコピーペーストできたらな、とも思った。  そんな日々が四日間続き、やっと終わったら、もうリハーサルだ。本当に、ゆっくり新婚気分に浸っている暇はない。でも、仕事が終わって家に帰ってくる時、迎えてくれる妻の笑顔に、一日の疲れも吹き飛ぶような気がした。この瞬間が至福の時だ。

 インタビュー地獄が始まった二日目、三月十三日は僕の誕生日だった。ということはロビンの誕生日でもあったのだが、うっかり忘れてしまっていた。いつものように夜十時を過ぎて家に帰ってきた時、ステラがテーブルいっぱいに料理と花を並べ、中央に大きなケーキを飾って、「お誕生日おめでとう、ジャスティン」と、にこやかに言うのを聞いて、僕は驚き、やっと思い出した次第だった。
「ああ、そうだ。そうだったね……」思わず、微笑が上ってきた。
「あら、忘れていたの? 忙しくて」ステラは笑って首をかしげる。
「ああ、そうだね。我ながら情けないよ。それにしても、すごいご馳走だね。君が作ったの、ステラ?」
 僕はテーブルに目をやった。真っ白いテーブルクロスをかけた食卓に、いちごをたくさんのせたバースディケーキと、良く煮込まれたビーフシチュー、フライドチキン、シーザーサラダ、スモークサーモンのレモン添えがのっている。赤いゼラニウムをたくさんいけた花瓶も、食卓に色取りを添えていた。
「違うわ。そんなに急にお料理上手にはならないわよ。トレリック夫人がほとんど作ったの。あの人もメイドさんも通いだから、もう帰ったけれど、午後からお料理を作ってもらったのよ。ビーフシチューは、昨日から煮込んでいたわ。わたしも少しはお手伝いをしたかったのだけれど、まだ少しつわりがあって、食べられるようにはなったけれど、お料理はつらいの。でも、お花はわたしがいけたのよ。バースディケーキは、『サンエトワール』で買ったの。特注品よ。ここまで届けてもらったの」
 ステラは小首をかしげ、ちょっと笑った。「いつか、本当にいつか、わたしが自分でこういうご馳走を、全部作れたらいいなと思っているの。でも、今はまだ無理みたい。ごめんなさいね」
「いいさ。それに君は今、ただの身体じゃないんだし」
 僕は手を伸ばして、妻を抱き寄せた。「ありがとう、ステラ。今日は今までで最高の誕生日だよ。それに、こんなに遅くまで待っていてくれて、本当にありがとう」
 食事が終わると二人で食器を洗浄機に並べ、スイッチを入れてからコーヒーを作った。その後、ステラは薄緑の紙できれいにラッピングし、黄色いリボンをかけた包みを僕に差し出した。
「これ……わたしからのプレゼント。少し恥ずかしいけれど」
 包みを開けてみると、中からレモンのような色合いの、ふんわりとしたセーターが出てきた。胸にラメの入った紺色の糸で、僕のイニシャルが刺繍されている。
「これ、君が編んだの、ステラ?」
「ええ。セーターを編むのは初めてだから、まず自分のものを編んでみて、それからそれを作ったのよ。よく見ると、網目が不ぞろいでしょう? ごめんなさいね。もっとすてきなものを贈りたかったのだけれど」
「もっとすてきなものだって? これ以上すてきなプレゼントはないよ」
 僕はセーターごと、ステラを抱きしめた。
「ありがとう、ステラ。本当にうれしいよ。大事に着させてもらうからね」
「ああ、良かったわ、気に入ってくれて」ステラはうれしそうに笑った。
 遅い晩餐を終え、片付けも終えると、「みなさんから、プレゼントが届いているわよ」とステラが告げた。その言葉通り、仕事部屋の机の上には、ロビン、ジョージ、ミックとロブからのプレゼントとカードが乗っていた。そういえば僕はロビンに出していなかった、とちょっと慌てつつ、とりあえず携帯電話でお祝いメールだけ打った。プレゼントはリハの合間に買おう。携帯には、エアリィからのお祝いメールも入っていた。彼も今の状態では、カードやプレゼントは買いにいけないので、メールだけ打ったのだろう。【ありがとう。でも、無理するなよ。早く良くなれよ】と僕は返信し、それから四人のプレゼントを開けた。ミックからは小説の装丁本が、ジョージからは限定もののスコッチが、ロビンからは見たかった映画のDVDが、ロブからは新しい携帯ゲーム機が入っていた。僕はそれぞれにお礼のメールを送り、妻の待つ部屋に戻った。
 妻と、妻の中で育まれている新しい命、そして仲間たち。激動の海に船出をしていく時でも、家庭という錨と、ともに進む仲間たちとの絆があれば、渡っていける。そんな気がした。

 取材地獄が終わったと思ったら、すぐに初めてのヘッドラインツアーのためのリハーサルだ。ステージマネージャーと音響、照明、両監督、それにテクニシャンたちが、市内のスタジオに集まってきた。広いスタジオの一角にそれぞれの名前が書かれた椅子が置いてあり、みんながそれに腰をかける。エアリィは三日目からの参加なので、バンドはまだ四人だ。ロブは中央に立ち、メモを手にして僕らに告げた。
「今回はアリーナクラスのヘッドラインツアーだから、プロダクションが大きくなった。それゆえ、スタッフも増えた。音響、照明、エフェクト、それぞれが三人体制で、さらに各監督が就任する。音響設計と、モニターミキサーもそうだ。全員、以前はスィフターのスタッフだった。だからアリーナプロダクションの設計も、手馴れたものなんだ。他にも何人かが、おまえたちのスタッフとして就任してくれた」
 そうして現われた人たち――それぞれの監督さんも含めたスィフターの元スタッフさんたちと引き合わされた僕たちは、緊張気味に挨拶を交わした。かつてコンサートDVDのスタッフロールで見慣れた名前の人たちが、自分たちのスタッフとして目の前にいる。なんだか本当に緊張してきた。
 ロブはベテランスタッフ勢との挨拶のあと、さらに言葉を継いだ。
「それから、テクニシャン系は若いスタッフを採用しようということで、何人か新しく採用した。今までは一人で二人を見ていたが、これからは基本的に、メンバー一人につき一人ずつ、専任テクニシャンがつく。それで、今までのクルー、アルバートとビリーはそのままにして、アルバートはベーステク専任、ビリーはドラムテク専任とした。新しくキーボードとギターのテクニシャンを採用したので、紹介しよう」
 ロブは二人の若者を僕らに引き合わせた。ミックにはケヴィン・ドローレスという、二十代半ばくらいの人だ。ミックと同じくらいの背の高さで、同じような髪の感じだが、かなりの痩せ型で、並ぶといい対象という感じだ。
 新しいギターテクニシャンの若者は、僕より少し背が低く、細身の体つきで、濃い褐色の縮れ毛を肩まで伸ばしていた。眉毛は太く、鼻筋は通っていて、顔にはうっすらとそばかすがとんでいる。
「はじめまして。ジェームス・ウェルトフォードといいます。ジミーと呼んでください」彼は丸い茶色の目に、まるで忠実な犬のような表情を浮かべてそう名乗った。「今、二十歳です。秋に二一になります。出身地はサドベリーで、十一才からギターを始めました。十八歳になってすぐロンドンに渡って、向こうで二年ほどプロを目指していたんですが、ここ半年くらい向こうのライヴハウスで裏方をやりながら、ギターの勉強をしていました。僕はあなたのことをデビューの頃から凄い人だなと思っていたので、テクニシャンとして採用してもらえるなんて夢のようです。がんばります」
「ああ、こちらこそよろしく」僕はちょっと笑って、手を差し出した。
「でも、ジミー、さっそくそう呼ぶけれど、君と僕は同い年なんだから、それも君の方が半年上だしね。もうちょっと気楽にいこうよ」
「わあ、光栄です。そう言っていただけると」
 ジミーは嬉しそうな表情で、手を握り返してきた。
 でも、こうして親しげに言葉をかけ、握手をしても、僕の心のどこかでは(アルバートの方が慣れていたのに、新しい人なんてありがたくないな)という思いがある。やっぱり僕も基本的にはロビンと同じで、人に心を開きにくく、人見知りもするのだろう。だが僕らの二度目のツアーからずっとギターとベース、両方のテクニシャンをしてきたアルバート・グリーンウェイが、どちらかの専属にならなければならないとしたら、やっぱり新しい人によりなじみにくい、ロビンの方に残るべきだろう。それはわかる。それにちょっとギターを弾いてもらった限りでは、ジミーはアルバートよりセンスや才能があるようだ。『彼も絶対音感の持ち主なんだよ』と、ロブは言っていたし、腕さえたしかならば、クルーとしては頼りに出来る。
 あともう一人、新しい専属スタッフがいた。二十代後半くらいで、黒い巻き毛を長めに伸ばし、整った顔に銀縁の眼鏡をかけた男性が。この人はモートン・カークランドさんという名前で、肩書きはヴォイストレーナー、つまりエアリィの専属スタッフだ。ヴォイストレーナーとはいっても、仕事は健康管理、だから医療トレーナーといってもいいだろう。実際ヴォーカリストほど体調に影響されるポジションはないわけで、そのために最重要なものは、常に健康な状態を維持することなのだが、エアリィは決して体質的に強くない。僕ら五人の中では、体調を崩す率でもナンバーワンだ。今まではサポートで時間も短く、スケジュールも緩かったが、これからはヘッドラインツアーなので、より長く、より密度は高くなる。耐久力は集中練習で身につけたから問題ないだろうとはいえ、コンディションが悪いと本人にはつらいし、あまり悪化するとキャンセルの危機も出てくる。それゆえ健康管理がよけい重要になってくるのだろう。
 カークランドさんは、去年集中練習の講師をつとめてくれたジーノ・フレイザーさんの紹介で来た人で、ロンドン出身、医大を出ているが、医師免許はないらしい。インターン経験は何年かあるそうだが、何らかの理由で試験は受けなかったようだ。でも正規の医者レベルの医療知識はありそうだ。さらに彼は、エアリィ個人の専属マネージャーを兼ねるという。これからバンドが大きくなると、ロブ一人だけで全員を見ることが難しくなるから、ということらしい。常に誰かを貼り付けておかないと不安だ――ロブやマネージメント側には、その思いがあるのだろう。たった十分間一人にしただけで、妨害者に付け入る余地を与えてしまったという事実が、ロブには痛恨の極みだったらしいし、その気持ちは僕もよくわかる。しかもロブが場を外すきっかけとなった電話も、実は偽物だったことがわかって(後日、もしかしたらと思ったロブがその相手に問い合わせたら、『そんな連絡をした覚えはない』と言われたそうだ)、余計に危機感を募らせたらしい。
 リハーサルの三日目から参加したエアリィは、しかし事件の後遺症を引きずってはいないようだった。顔色は普段よりいくぶん青白いものの、僕を見るとちょっと笑い、いつもと変わらない口調で言った。
「ごめん、ジャスティン。新婚早々、取材全部おっつけることになって!」
「まったく、大変だったぞ!」僕は肩をすくめ、極力なんでもないように返した。「まあでも、僕も長い間休んでいたしな。それに、おまえも大変だったな」
「死ぬかと思った、本当に」彼も肩をすくめ、軽い調子で返す。「ひとつだけ確実に学んだ。僕はアシッド・ハイは、絶対出来ないって」
「ジョークですめば、本当に良かったけれどね」ミックはため息とともに首を振っていた。「本当に大変な目にあってしまったね。体調はもう大丈夫なのかい?」
「うん。ありがと。まあ今日は、本気は出来ないけど。パワー不足で。でも本番始まるまでには、大丈夫だと思うよ」エアリィはそう答え、
「それなら、よかった」僕らはみな、ほっとした面持ちで頷いていた。

 スタジオリハーサルは終わった。あとは現地でのドレスリハーサルを残すのみだ。ツアー初日の二日前、空路バンクーバーに向かうため、僕は迎えに来たマネージメントの車に乗って、自宅を出た。トランクを二つ積み込んでもらい、ステラに「行ってくるよ」と告げて頬にキスした後、車に乗り込み、シートに座ったとたん、僕はぶるっと震えた。
 激しく動き始めた大きな変化は、確実に今爆発しつつある。僕らは新しいフェーズに入っていくのだ。もう以前のように、音楽業界というこの世界を、単純に渡ってはいけないだろう。現実になりつつある大成功の予感、それとともに、反作用も強く出てくるだろう。もうすでにその兆候は、十分すぎるほど現れている。セカンドまでの世界にいられたら。ファーストくらいの規模で成功を続け、さほど大きな反感や妨害にも会わずにいられたら。でも、今となってはもう遅い。不安も戸惑いもたしかにある。それでも、僕らは進まなければならない。もう後戻りは出来ないのだから。

 最初の全米ヘッドラインツアーは同じマネージメント事務所の先輩サイレントハートにサポートを務めてもらい、全米とカナダ六五都市で七三回のコンサート、八千人くらいから一万二、三千人級の会場を回る、大がかりなものだ。大きな野外会場では、ローンエリアがぎっしり人で埋まり、キャパ上限まで人数が来たので、最大では二万人の観客がいた。
 本来のスケジュールはベテラン用だったので、二、三日の公演の後一回お休みというペースで、途中一週間の中休みも入っていたらしいが、追加公演がかなり入ったため、お休み三回のうち二回はそれでつぶれる、というスケジュールになった。ロブがメールで言ったとおり、六日連続公演の後一日休みを置いて三日連続、その後一日休んで七日連続、さらにまた移動日をはさんで七連続。そんなペースだ。しかもニューヨークやロサンゼルス、シカゴのような大都市以外は、ほぼ一日限りの公演なので、とても慌しい。
 ステージが終わった後、スタッフ、クルーは即座に機材を解体し、トレーラーに積み込んで、次の都市へ向かう。そして朝現地に着き、再び組み立てる。その繰り返しだ。僕たちは終演後シャワーを浴び、着替えた後、寝台付きバスで移動するか、移動距離がそう長くなければ一回ホテルに帰り、翌日の午前中にバスで次の都市へ向かう。
 一週間の中休みになるはずの期間も、カナダ西部を回るためにつぶれ、しかも本来のスケジュールから外れるために、中一日で二千キロ、中二日で三千二百キロという、僕らは空路で行けるが、ドライバーさんたちにとっては、とんでもなく過酷なスケジュールが出来上がってしまった。移動距離が長すぎて組み立てが間に合わないために、サポートアクトがなしになる事態が、そのカナダ西部四公演を含め十回近く出てしまったし、ハードスケジュールのためか、エアリィは二回熱を出してダウンした。それでも公演キャンセルは、しなかったが。僕を含めインストの四人も、そこまで大きく体調は崩さなかったが、疲労のため、最後の一ヶ月は空き時間のほとんどを、ホテルやバスのベッドでごろごろしてすごす羽目になった。
 コンサート自体は、どこの会場もすべてソールドアウトで、文字どおり爆発的な大盛況だ。毎回観客のリアクションも、すばらしいを通り超して凄まじい。アルバムは北米やヨーロッパなどで数週間トップをキープし、その後もチャート上位にとどまり続け、CD不況時代がうそのような、八十年代バブル時代のようなモンスターセールスになる勢いだった。シングルも立て続けに三枚トップを取った。
 大ブレイクの予感は、確実に現実のものとなった。おびただしい雑誌のグラビアや記事、表紙に僕らが氾濫し、音楽チャンネルをつければ、一日に何度もかかる。まるでバンド自体が僕らの知らないところで巨大に膨れ上がり、氾濫し、洪水を起こしているようだった。時にはまるで僕らではない他のバンド、他の誰かのことを言っているような錯覚に襲われることもあった。バンドに付属する評判の高さが、数字の天文学的な大きさが、ファンの熱狂ぶりが、はたして自分たちに関わり合いがあるのかどうか、わからなくなる時さえも。デビュー作が成功した時に感じた戸惑いより遥かに大きく、その規模自体も比べものにならない。でもいくら実感が湧かなくとも、それは確実に僕ら自身であり、取り巻く状況だ。
 大嵐が激しく揺さぶってくる。高く舞い上げ、くるくる回りながら、降りることはない。文字通り足が地上に着かない。僕らを巻き上げた上昇気流は、目もくらむばかりだった。地上に降りることはかなわなかった。その後も休むことなく、吹き上げ続けたからだ。

   四月下旬にトロント公演のために帰り、新居から会場に通った時には、まだステラの身体の線は、以前のようにほっそりしていた。でも六月二十日、全米ツアーが終わって再び家に帰った時、玄関から出てきた妻の姿を見て、僕は軽い衝撃を受けた。
 ステラは半袖の白いブラウスに、細かい水玉模様が散った、紺色のジャンパースカートを着ていた。そのお腹がふわりと膨らんでいる。驚いて見つめる僕に、ステラは少し恥ずかしそうに頬を染めながら、お腹に手を当てた。
「目立ってきたでしょう? 妊婦さんはこれまでに何度も見ているけれど、実際に自分のお腹が膨らむなんて、不思議よ。なぜこれほど丸く膨らむのかしら。本当に、この中に赤ちゃんがいるのねって。それに、赤ちゃんは動くのよ。初めて胎動を感じた時には、驚いて飛びあがりそうになったわ」
「そうか……そうだね。ずいぶん大きくなったね。もうそろそろ八ヶ月だから、無理はないけれど」僕はこわごわ、妻の膨らんだ腹部に手を当てた。
「不思議だな。本当に、不思議な気がするよ」
 手のひらに、ぽんと軽い衝撃を感じた。僕は打たれたように飛びあがった。
「動いた……」
「ええ。あなたにもわかった?」ステラは微笑み、再びそっとお腹に手をやった。
「最近、本当によく動くようになったの。夜寝ていても、お腹を蹴飛ばされて目がさめたりするほどよ」
「本当に、この中に赤ちゃんがいるんだね……」
 僕は両手を伸ばし、壊れ物に触れるように、そっと妻の腹部を包み込んだ。
「不思議だな、本当に。生きているんだ。今も、育っているんだ」
 妻の中で育まれている一つの命、それを改めて感じた瞬間だった。僕は命の神秘、女性という存在の不思議さを感じた。
「ステラ、愛しているよ」我知らず、僕はささやいていた。
「お腹の赤ちゃん。君も愛しているよ。どうか元気に育って、生まれてきておくれ」

 我が家での、つかの間の休息は終わった。僕の出発と同時にステラは出産準備のために実家へ戻り、僕は次のシリーズ、海外遠征へと乗り出していった。このロードが終わる頃には、もう赤ん坊は生まれているだろう。我が子の出産に立ち会えないなんて。悔しいという以上に、情けなかった。三月と同時に切った僕の髪も、肩に届くくらいまで伸びた。もとの長さまで、もう一息だ。
 このヨーロッパツアーから、セキュリティが来た。三月から来たギタークルーのジミーにはやっと慣れてきたが、初めて僕専属のセキュリティ、マイケル・ホッブスにひきあわされた時には、僕は思わず構えたものだ。
 彼は二一歳だが、なんと言っても身体の大きいこと。六フィートある僕が見上げるほどの大男だ。広い胸板、太い手足、思わず圧倒されそうになる。茶色の縮れ毛を短く刈り込み、張り出した頬骨とあご、太い鼻筋、落ち窪んだ細い灰色の目。ごつい顔立ちで愛嬌もなく、おまけにちょっと汗臭い。彼は四六時中僕のそばにべったりと張り付き、公共の乗り物の移動では、常に隣に座る。でも彼は無口で、僕も自分から相手にあれこれ話しかけるタイプではないから、ほとんど話をすることもない。はっきりいって、うっとうしい。エアリィにならわかるが、なぜ僕にボディガードなんだ、と少々マネージメントを恨みたくなった。
 エアリィにも当然、専属セキュリティはついた。マイケルと同じくらい身体の大きな、半分黒人の血が混じった、僕ならやっぱり引くだろうなという感じの二二歳の男だ。ネイザン・ジャクソンという名で、浅黒い肌に縮れた黒い髪を後ろで束ね、マイケルと同じようにごつい顔だが、いくぶん精悍な印象だった。軍隊経験者でもあり、今までにもいくつかのアーティストのセキュリティを勤めた経験もある。そしてグレイシー柔術の達人でもあるらしい。マイクも柔道の心得があるらしいが、有段者ではない。結局、一番強い人が、エアリィの専属としてついたということだ。今の状況ならば、それは当然だろう。
 エアリィもさすがに自分のセキュリティと引き合わされた時には、相手のあまりの大きさに驚いていたようだ。彼は僕よりも一回りは小さいから、よけいにセキュリティの大きさを感じるだろう。実際ジャクソンの影に入ると、完全に見えなくなってしまうほどだ。だがエアリィは僕と違い、初対面の相手に構えない。専属スタッフのカークランドさんの時もそうだったが、二、三日も経たないうちに、この大男とさえ親しくなってしまい、「ネイト」と愛称で呼んでさえいる。
 もう一人、ファーギー・パターソンというセキュリティがいて、この人は僕よりは背が高いが、ホッブスやジャクソンほど大きくはなく、逆立てた金髪とピンク色の肌、ピアスまでしている。見た目は他の二人のセキュリティより若いが、実は三人の中では最年長の二四歳だ。空手の心得があり、やはり他のアーティストのセキュリティ経験もあるらしい。けっこう陽気な人でもあった。彼はロビン、ジョージ、ミックの三人をまとめてガードする役だが、ジョージと一番気が合うらしく、よく話をしている。マイケルよりこの人のほうが僕の専属としてはよかったかなとも思うが、あまり調子がよすぎるのも、陽気すぎるのも、かえってうっとおしいかなとも感じる。当然のことながら、ロビンは彼に対し、思いっきり引いているのが、僕にもよくわかった。>
 バンドが大きくなると、それだけ関わる人も増えていく。それに伴って、わずらわしいことも増えていくように思われた。ツアーの合間に買い物や食事に出たりするのも、今までのように気軽に行くわけにはいかない。メンバー全員で出かける場合、まずはロブかレオナが一緒だ。まあ、それはいい。ロブは仲間のようなものだし、レオナもよく知っている。それにカークランドさんが、たいてい同行する。彼もまあ物静かな人だし、巨大でもない。エアリィとはときおり話していても、僕には必要なこと以外は話しかけないから、邪魔にはならない。でも壁のようについてくる三人のセキュリティがいかにもうっとおしく、黙っていても無言の威圧感を感じてしまう。それに彼らがいるとかえって目立つようで、道行く人に振り返られるだけでなく、ファンたちもぞろぞろ後ろからついてくる。落ち着かないといったらない。
 バックステージのバンド専用の部屋でおしゃべりする時、ホテルの部屋に一人でくつろぐ時、誰かの部屋に集まり、メンバー五人だけで飲み会をする夜──僕が心からほっとできるひとときだ。

 北米と違い、ヨーロッパ、アジアは普通一週間、長くても半月、短ければ数日単位で国が変わる。現地スタッフも変われば、言葉も違ってくる。取材陣もそれぞれの国で違うから、公演の他に現地スタッフとの打ち合わせ、レセプション、プロモーションを、国が変わるたびに、いちいちやらなければならない。公演スケジュール自体は北米より緩くても、そういうプラスアルファが多いために、自由時間は少ない。
 ファンたちもホームグラウンドではないだけに、公演期間しか会えないという思いがあるのだろうか、攻勢も数倍激しい。楽屋に届けられるプレゼントや手紙の多さは、別に一部屋もうけなければならないほどだし、ホテルを一歩出れば、たちまち取り囲まれるという状況には、はっきり言って戸惑う。それゆえにセキュリティたちも出番があるというものだが、だからといって、とくに外部の臨時雇いのボディガードたちがファンを乱暴に扱うことにも、我慢がならない。英語が百パーセント通じるわけではないので、コミュニケーションにも苦労するし、環境や習慣、食文化の違いも、時にはストレスになる。結果的に、北米より疲労が強く感じられる。イギリスとアイルランド、オーストラリア、ニュージーランドは言葉も通じるし、兄弟分、という感じで、ある程度気楽だが。

 今回は、ヨーロッパからオセアニア、アジア地区まで、ノンストップでツアーが組まれている。ヨーロッパの最終公演地ロンドンから、オセアニアの皮切りとなるメルボルンまで、アブダビ、シンガポールを経由する、長い長いフライトだった。ロンドンをたったのが九月八日の夜十時過ぎ、飛行機の中で眠り、二箇所を経由してメルボルンについたのは、十日の朝七時だった。フライトは乗り継ぎも含めて、だいたい二三時間くらいだったから、あとは時差だ。
 信じられないことに、この夜にも公演が入っていた。最初の予定では明日初日なのだが、需要が多くて、追加を入れたのだという。追加公演もすぐに売り切れだそうだが、僕らまで話が降りてきていたら、きっとこの追加は断ったと思う。いくら到着するのは朝だから準備はできるといっても、ほぼ丸一日のフライトと十時間の時差を克服するには、最低一昼夜の余裕は必要だ。
 実際ついた日のお昼頃には、もう眠くてたまらなくなってきていた。なのにその日一日、現地スタッフとの打ち合わせ、歓迎ランチ、記者会見とスケジュールがびっしり入っていて、終わったらもうサウンドチェックとリハーサルの時間だ。
 僕は必死で眠気をこらえ、他の四人もそうだったようだが、ついにエアリィが記者会見の最後で寝てしまった。その二つ前くらいの質問から頓珍漢な答えをしていたから、これは危ないか、と思っていたら、案の定だ。それもまるで突然糸が切れたように、テーブルにバタンとうつぶせに寝てしまった。彼の席はど真ん中で、間違いなく一番注目されているはずなのに。僕は必死に、「ごめんなさい、疲れているんです。時差ぼけで」とフォローし、向こうの記者たちも「無理ないね。今朝ロンドンから着いたんじゃ」と、苦笑しながらも、同情的だったが。本人が翌日言ったところによると、『目を開けていようとしたんだけど、急に意識が落ちた』らしい。結局エアリィはそれからサウンドチェックの時間になっても起きず、開演ぎりぎり五分前に、やっと叩き起こすことに成功したありさまだった。
 僕らインストの四人はそこまで派手な、動画サイトの格好のネタになるような姿を晒すことは、なんとか避けられたが、僕はほとんど気力だけで持たせたようなものだった。それはロビン、ミック、ジョージも同じだろう。でも、サウンドチェックを済ませたところで、もう我慢の限界と感じた。まぶたがくっついてきて、力が抜ける。下手をしたら、ステージ上で寝てしまいそうだ。
「すまないけれど、みなもう眠くて、耐えられそうにないようだ。公演を滞りなくやるためにも、少し寝かせてくれ」と、ロブが申し入れ、メンバーとこちら側のスタッフ全員が、その後仮眠タイムになった。
 開演二十分前になって、現地スタッフに起こされた時には、まだ眠く、頭もすっきりしなかったが、熱いシャワーとコーヒーで出陣、コンサート自体は勢いで、いつもと変わらずにやれた。だが終演後、疲労がさらに眠気を倍化させ、もはや睡魔は抗えないほど強く、着替えてリムジンに乗り込んだとたんに寝た。ホテルについて起こされたが、部屋で靴を脱ぐと、すぐにベッドに転がり込んで電気を消した。




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