The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(6)





「本当にきれいだね、ステラ」僕は花嫁を見つめ、もう一度繰り返した。
「ありがとう。うれしいわ」彼女は頬を少し紅潮させながら微笑んだ。
「子供のころから、わたし、あこがれていたのよ。ウェディングドレスを着て、花嫁さんになる日を。その日が本当に来たのね」
「だけど、君の相手は僕で良かったのかい? もっとすてきなお婿さんを想像していたんじゃないかい?」
「何を言うの、いやね!」ステラは小さな声で笑った。
「意地悪ね、ジャスティン。わかっているくせに。入って」
 ステラはドレスの裾をつまんで部屋に戻り、僕もドアを閉めて中に入った。部屋には、他に誰もいない。
「このドレス、どうかしら?」
 ステラはスカートを優雅な仕草でつまみ、にっこりと笑う。
「似合うよ。最高にすてきだ」僕は手を伸ばし、そっとスカートのドレープに触れた。
「でも、ずいぶん忙しい思いをさせて悪かったね。君はただの身体ではないのに。ドレスを選んだり、支度もいろいろ大変だっただろう」
「急に二ヶ月も早くなったのですものね。ママは文句を言って大変だったわ。このドレスも、昨日の夜に仕上がってきたの。ぎりぎりよ。クロフォードのお店では、ウェディングドレスのオーダーメイドは、普通なら二、三ヶ月、早くても三週間かかるって言われたのだけれど、無理を言って、十二日間で仕上げてもらったのよ。特急料金でドレス代が一割増しになって、ママはそこでもぶつぶつ言っていたけれど。でも、わたしはどうしても、これが着たかったの。お店にも展示してあったのだけれど、わたしのサイズではないから、仕立ててもらう必要があって……間に合ってよかった。わたし、うれしいわ。早くあなたのお嫁さんになれるし、着たかったドレスも着られて。今なら、あまりお腹も目だたないでしょう?」
「ああ、全然わからないよ」
 僕はスカートに触れていた手をスライドさせて、滑らかな腹部に触れた。壊れ物を扱うように、そっと。ステラは微笑み、僕の手の上から、自分の柔らかな指を重ねている。
「不思議ね。わたしの中に命が育っているなんて」ステラはささやくような声を出した。「昨日、念のために、もう一度検診に行ってきたの。順調ですって。超音波の映像を見せてもらったのよ。小さな手足のついた雪だるまのような形をしていて、そのちっちゃな手足が、時々動くの。わたし、感動して涙が出てしまったのよ」
「そうか。僕も見たかったな」
 ステラ同様、不思議な気分がしていた。彼女の中に今、僕たちの分身である小さな生命が宿っている。彼女の身体だけをよりどころとして育っている、僕らの子供。秋になれば、赤ん坊として、この子は生まれてくるのだろう。父親になるという感覚は、まだ僕にはピンとこない。何となく照れくさいようなうれしいような、そんな漠然とした感じだ。でも生命の神秘を、感じずにはいられない。命はいったいどのような定めで、どこから来るのだろうと。まだせいぜい二、三センチの小さな小さな命、この子は秋にどんな赤ん坊になって、産まれてくるのだろう。髪は、目は、顔は、体つきは、そして性格は? 男の子だろうか、女の子だろうか。この子はどう考え、何が好きになり、どんな人と会い、どんな夢を追いかけるのだろう──?
 突然、僕は気づいた。事実、それとも今となっては幻かもしれない、二年半前、いや、未来のヴィジョン。世界はあと八年半で終わる――もしそれが本当だったら、この子はその時、まだ八歳だ。そう思った時、背中から氷水を浴びせられたような、ぞっとする冷たさを感じた。もちろん、僕はこの子をアイスキャッスルへ連れていくだろう。でも、もし本当に世界の終わりが来たならば、とてつもなく過酷な条件と聞くアイスキャッスルで、たった八歳の子供が生き延びられるだろうか――?
「どうしたの、ジャスティン?」ステラが怪訝そうな顔で見ている。
「いや……」僕は笑おうとした。「考え込んでしまったよ。あまりに不思議で……」
「そうよね……」ステラはいとおしげにお腹をなでた。彼女の感じている思いと、僕のそれとは違うだろう。でも共通な願いは、我が子の無事な成長。それは同じだろう。
「でも、大丈夫かい。まだ十二、三週くらいだろう? 式や旅行で、疲れ過ぎないようにしなければね」
「ええ。たしかにまだ安定期ではないけれど、実際にはよほど無茶をしなければ、それほど問題はないそうよ。エヴァンス先生が、そうおっしゃっていたわ。わたしは若いし健康だから、結婚式を挙げたり、バハマに旅行に行ったりするくらいなら大丈夫だと、言ってくださったの。立っていてお腹の張りを感じたら、すぐに座るか横になること。疲れたなと感じたら、すぐ休むこと。冷やさないようにすること、それは守ってくださいとも、おっしゃっていたけれど」
「冷やさないように? じゃあ、絹のドレスじゃ寒いんじゃないかい?」
「大丈夫よ。この下にフランネルのコンビネーションを着ているの。毛糸のベストとペチコートもよ。ママが心配して、重ね着をさせるんですもの。今日は陽気がいいから、暖かすぎるくらいだわ」
「本当かい?」僕は思わずスカートを持ち上げようとした。
「だめよ、見ないで!」ステラは笑って、不届きな手を押さえている。
「ごめん。つい見たくなっちゃったよ」僕は笑って手を引っ込めた。改めてお互いに見つめあう。ステラはぽっと頬を染め、恥ずかしそうに微笑んだ。
「きれいだね、本当に」僕は再び手を伸ばし、ふんわりとした袖に触れた。
「ベールをずらしたりドレープを崩す心配がなければ、思いきり君を抱きしめたいよ」
「いいわよ……崩れたら直すから」ステラは再びはにかんだように笑う。
 僕は衝動に負け、手を伸ばして花嫁を抱き寄せようとした。と、その瞬間、控え室のドアが開き、甲高い声がした。
「ステラ、ミッシェル大叔母さんにトマスとライザが、ちょっとご挨拶にって……あら」
 パーレンバーク夫人は、慌てて飛び退いた僕を、驚いたように見やった。
「来ていたの? まあ、まだお式の前なのに、ここに入ってきてはだめよ。本当に、常識知らずなんだから。早く出て行ってちょうだい」
 言葉だけでなく、夫人はその手で僕の背中をぐいっと押し、ドアの方へ押しやる。僕は「すみません」と頭を下げ、押し出されるようにドアから出た。夫人の後ろにいた太った老婦人と中年の男女が、(これがお婿さんか)という好奇心に満ちた、あからさまに値踏みをしているような目で見ている。僕はその人たちにも軽く頭を下げて挨拶をすると、冷や汗をかきながら退散した。
 焦って小走りに自分の控え室に戻る途中、ジョイスとぶつかりそうになった。妹は明るいクリーム色のシルクにオレンジ色のリボンを裾と襟元にあしらい、レースで飾ったドレスを着て、髪をアップに結い上げ、ドレスと同じ色合いの、華やかな髪飾りをつけている。ジョイスはびっくりしたように目を丸くし、「なにやっているの、お兄ちゃん。花婿さんがこんなところをうろうろして」と、あきれたように声を上げていた。さらに控え室から出てきたホプキンスさんにも、「坊ちゃん、気持ちはわかりますが、落ち着いてくださいよ」と、たしなめられる始末だ。やれやれ、結婚式はあわただしすぎ、二人だけの感慨に浸っているひまなんてない。

 そんなバックステージの喧騒が嘘のように、式は厳粛に進められた。賛美歌が歌われ、神父さんの始まりの言葉を聞いた後、僕はベストマンを務めてくれるロビンとともに祭壇に立った。
 ステラは父親と一緒にヴァージンロードを歩いてきた。ブライズメイドを務める彼女の親友、メアリ・デュバリエ嬢がベールを捧げながらついてくる。ステラはモリーと呼んでいるメアリ嬢は、茶色の髪を両側でシニヨンに結い、サーモンピンクのドレスを着て、頬を心もち紅潮させていた。平板な顔立ちでそばかすが多く、口も少々大きくて、おとなしそうな印象の彼女は、ステラの小学校時代からの友達だ。僕たちが出会ったハイスクールの交流パーティにステラが来たのも、メアリさんに誘われたからだし(会場となった高校に、彼女と仲のいい従姉がいたらしい)、彼女がその従姉と話に行って、ステラが一人になったから、僕が話しかけられたわけだから、間接的には僕らの結びの神だ。僕らの付き合いがステラの両親に禁じられていたころには、僕に会う時、いつも彼女に協力してもらっていたという。ある意味、僕にも恩人でもある。会社員のお父さんとフラワーアレンジメントの先生であるお母さん、大学生のお姉さん。映画や食べ物の好みがステラと似ていて、よく一緒に出かけ、最近新しい彼氏が出来たこと――そんな彼女に対する情報は、ステラからよく聞いた。僕自身、メアリ嬢と直接話したことはないが。
 パーレンバーク氏は恰幅の良い身体を黒いモーニングに包み、口を真一文字に引き結んで、娘の手を取って歩いていた。ステラはうつむき、すべるような足取りでヴァージンロードを踏んでやってくる。祭壇の前で、パーレンバーク氏はきっと僕をにらみ据えながら、娘を渡した。
 僕らは祭壇に向き合い、神父さんが長々と口上を始めた。「この結婚に異議のあるものは申し出るように」というお決まりのフレーズに来た時、パーレンバーク夫妻が意味ありげに目を見交わすのが見えたが、さすがに、というかここに来て本当に異議を申し立てるなど、実際にはまったくといっていいほど、ないのかもしれない。このフレーズも無事に過ぎ、キリストの教義にもとづくお説教、賛美歌と続いた後、司祭は厳かに問いかけた。
「汝、ジャスティン・クロード・ローリングスはステラ・マリア・ヴォン・パーレンバークを妻とし、病める時も健やかなる時もこれを愛し、これを慰め、死が二人を引き離すまで、ともに生きることを誓いますか?」
「誓います」僕はステラの目を見つめながら、力をこめて答えた。
 司祭は頷き、ステラのほうに向き直る。そして、また同じフレーズが繰り返される。
「汝、ステラ・マリア・ヴォン・パーレンバークは──」
 口上が終わると、ステラはベール越しに僕を見、低い声で明瞭に言った。
「誓います」
 聖餐の葡萄酒とパンを食べ、指輪を交換した。誓いのキスを交わし、司祭は僕ら二人を夫婦と宣言した。「神が娶わせたものを、人が引き離してはならない」と。
 契約書にサインをし、僕らは正式に夫婦となった。ステラはペンを置くと、涙ぐんだ。僕は彼女の肩を強く抱き寄せた。パーレンバーク夫人も泣いている。でもその涙は、どういう種類のものだろう。

 教会の庭に出ると、参列者たちがやってきた。ステラは五人の女友達と、はしゃいだ様子でおしゃべりを始めた。ブライズメイドのメアリさんをはじめ、他の四人もそれぞれに華やかな、とはいってもそれほど派手ではない色合いのドレスに身を包み、若い娘特有の華やいだ空気を漂わせている。僕は彼女たちに軽く挨拶をしてから、ベストマンを務めてくれたロビンのところへ行った。
 ロビンは首が隠れるくらいの長さの見事なマッシュルームカットに、シルバーグレイのタキシード。白いシャツと蝶ネクタイ、黒のベストといういでたちだ。なんだか僕の知っているロビンとはまるで別人のような、もしくは学生時代に戻ってしまったような、奇妙な印象だった。ロブも白のネクタイと明るいグレーのフォーマルスーツに身を固め、来てくれていた。でも、ロブのスーツ姿はあまり違和感がない。
「おめでとう、ジャスティン」
「おめでとう。良かったな」二人はそう祝福してくれ、
「ありがとう、本当に」僕は二人の手をとった。
「良かったよ、二人だけでも来てくれて。二人の顔を見ると、本当にほっとするよ」
「二人だけ、じゃないよ!」
 いきなりそばで声がして、僕は振り向いた。そういえば彼──式の時もローリングス家の席の端にいたのに気づいたけれど、誰だろう。はっきり言って、不思議に思っていたのだった。首筋あたりまでの茶色い髪、細い銀縁眼鏡をかけ、MIT――マサチューセッツ工科大学のエンブレムの入った紺のブレザーを着て、白いシャツに赤いアスコットタイ、グレーに赤いチェックのズボンをはいた、一見非常にかわいらしい女の子のようにも見える、まだ若い──明らかに僕よりも若いその子は。
「おめでと、ジャスティン!」そう言ったその声で、僕ははっきりわかった。
「おまえ……ひょっとしたら、エアリィか!」僕は仰天しながら叫んだ。そうだ、眼鏡をかけているし、髪の毛の感じが違うので、気がつかなかった。が、この声は間違いようがない。それにその顔立ちや眼は、紛れもなく彼のものだ。
「そう。わかった?」
「おまえ……どうしたんだよ、その格好。その髪は?」
「これ? カツラなんだ」エアリィは眼鏡をとり、笑った。「やっぱ僕まで髪切ったらまずいのかもしれないけど、ジャスティンが結婚式の時どんな顔するのかなって、見てみたくて、こんなカッコしてみたんだ。これなら髪切らないでも、行けるから。それで茶色のこの長さのウィッグ、通販で買って……おととい来たんだよ。間に合ってよかった」
「そうか。ウィッグなんだ。そういう手もあったんだな」
 手を触れてみると、ふわっという妙なクッションを感じた。
「ちょっと! 触るな! 地髪まとめるのに苦労したんだから! ズレるから、やめて!」
「ごめん!」僕は思わず笑った。「でもなあ、ぱっと見には、ぜんぜんわからなかったよ、そんな格好をすると。おまえはやっぱり金髪のイメージが強いしな。そのブレザーは?」
「継兄さんのなんだ。大学時代に着てたやつが小さくなって、うちにおいてあったんで、ちょっと拝借したんだよ。で、ついでに眼鏡もかけてみよって思って、継兄さんの古い眼鏡かけてみたけど……今より度は緩いはずなんだけど、ちょっとくらくらしたな」
「そりゃ、おまえみたいに視力二・〇以上ある奴が近視の眼鏡かけたら、くらくらするに決まってるだろうよ。よく転ばずに来られたな」
「なんとかね。町の風景が歪んで見えた。ダリの絵みたいな感じで。それで時々上にあげて、その間から見てたんだ。式の時には。でも、学生っぽく見えた?」
「見えたよ。なんだか、本当にMITの学生みたいだ。若すぎるけどな。ああ、おまえもそこへ行くはずだったんだよな。あの時プロにならなかったら」
「うん。まあ、審査があるから、百パーセントじゃないけど……たぶん行ってたと思う。だからさ、僕も一瞬妙な気分がしたんだ。おまえもロビンもそんな髪して……てか、ロビン、その髪やばいよ。ビートルズみたい。まさかそれもカツラじゃないよね?」
「地毛だよ。こんなカットにされちゃったんだ。だから、言わないでよ、エアリィ。僕も、すごく恥ずかしいんだ」ロビンは頭に手をやって、苦笑する。
「トニーにお任せしたせいだな。もう一回カットしなおしてもらってこいよ。ツアー始まるまでに」僕も思わず笑った。
「トニーって、美容師さん?」
「そう。ロビンと僕の行きつけのね。あっ、その美容師が、おまえにも来てほしいなんて言ってたぞ、エアリィ」
「えー、変な髪形にされると困るから、遠慮しとく」彼は笑って、肩をすくめていた。「でもまあ、それはともかくさ……なんか、妙な気がしたんだ、さっきは。パラレルワールドに迷い込んだみたいな。あの時、結局プロになんなくて、ジャスティンとロビンはトロント大学へ行って、僕はボストンでMITに行っているような。それでジャスティンとステラさんが学生なのに出来ちゃった結婚をすることになって、僕も昔のよしみで見に来た、そんな感じがして」
「ああ、そうだな。あの時、別の道を選んでいたら、そんな形で顔を合わせたのかもな」
 僕もある種の感慨にとらわれた。もう決して引き返せない運命の分岐、あったかもしれない、もう一つの現在。
「けどさ、前に座ってるロブの姿見たら、ああ、やっぱり今の僕らは違うんだなぁって、現実に戻った気がしたよ」エアリィはちょっと笑う。僕も苦笑しているロブを見て、同じ思いを感じた。そう、一時的に外見が変わろうと、僕らの現実は変わらない。取らなかった道は、幻でしかない。現実ではなく、あったかもしれない可能性というだけだ。
「ともかく、来てくれてありがとう、三人とも。僕も本当にうれしいよ。やっと完全な結婚式が出来た。いや、ジョージとミックもいたら、もっと最高だけれど」
 僕は手を伸ばし、二人の友の手を取った。
「披露パーティが三時からあるんだよ。できたら、そっちにも来てくれないか」
「うーん、行きたいけど、僕はパス。また今日も、ロブが仕事入れてくれちゃったから。四時までにテレビ局行かなきゃなんないんだ」
「それまでには元に戻れよ、エアリィ。そのままで行かれたら、困るぞ。まったく、おまえがそんな格好で来るとはな。僕も驚いたよ」ロブは苦笑している。
「あ、着替え持ってきてなかった」
「おい。取材ならともかく、テレビに出るんだぞ。そんなアイヴィーリーグの学生みたいな格好では困る。一回帰って、着替えないとな。車で来たのか?」
「いや、停めるとこないと困るから、バス使ったよ。見られたけど、声はかけられなかったから、バレてなかったみたいだし、なんか楽しかったな。視界はゆがんでたけど」
「まあ、そうだろうな。僕もわからなかったくらいだ。ともかく、それなら家まで送って行こう。今、車を出すから。待っているから、着替えたらそのまま直行だな。ミックにも連絡しておこう」
「でも、ロブはそのままで行くの? 着替える暇ある?」
「僕はこのままでも良いだろう。僕がテレビに出るわけじゃないからな」
 ロブは苦笑し、ついで僕に向き直った。「そういうわけだ。六時からTVの公開収録があってね。そこにゲストで行くんだ。リハや打ち合わせがあるから、四時から入らないといけない。今回はジャスティンのかわりにミックが一緒だ。それが七時に終わったあとは、夕食をはさんで、八時半から十時まで、取材が三件入っている。ということで、僕もそっちに行くんだ。悪いな、ジャスティン。着替えの時間もあるから、もう行かないと」
「仕事なのか。そうか。残念だな」あいかわらずの二人のやり取りに苦笑しながらも、そう言わずにはいられなかった。ロビンもがっかりしたような顔だ。
「ロビン、おまえだけでも来いよ。ああ、でもやっぱり、一人じゃいやか?」
「う……ん。悪いけれど、遠慮したいな。君は花婿なんだから、僕が独占するわけにはいかないし、そうすると話す人もいなくなってしまうもの」
「母さんや、ジョー兄さんやジョアンナ姉さん、それにジョイスもいるぞ。おまえ、知っているだろう?」
「でも、小母さんたちは小母さんたちで忙しいでしょう。それに僕、やっぱり知らない人の多いパーティって苦手なんだ。ごめんね。僕は君の結婚式でベストマンが出来たことだけで、充分だよ」
「そうか。しかたがないな。今日は来てくれて、どうもありがとう。ロビン、エアリィ、それにロブ。うれしかったよ」
 僕は手を差し出し、彼らと順に握手していった。
「おめでとう、ジャスティン!」
「幸せにね!」
「がんばれよ!」
 そんな仲間たちの祝福が、何よりもうれしい。

 翌日、ステラと僕はハネムーンに出発した。パーレンバーク夫妻は空港まで見送りに来て、あれやこれやとステラを気遣っていた。でも当然といえば当然だが、心からほっとしたことに、それ以上はついてこなかった。
 バハマでの日々は、楽しいとか幸福というような月並みな言葉では、とても言い表せない。海辺でのんびりと日光浴をし、ホテルのテラスで海を見ながらゆったり食事を楽しみ、手をつなぎ、海岸を散歩して、時が過ぎていく。
 僕はステラと、前にもまして緊密な結びつきを感じられるようになっていた。お互いの心が一つに溶け合うような感覚を。この束の間の休暇が終われば、またミュージシャンとしての日々が待っている。初めてのヘッドラインツアーがこれから控えている。ロードはそのあとも、今年いっぱい続くのだろう。何ヵ月も離れ離れになる生活。でもお互いの心の結びつきが距離も期間も飛びこえられるほど堅ければ、僕たちはこれからも、ずっと幸福でいられる。僕はそう確信している。ステラもきっとそうだろう。大変なことは、いろいろあるだろう。でも僕たちは愛し合っている。ステラは、もう僕の妻だ。秋には、子供も生まれる。

 旅行に来て五日目の昼下がり、僕たちはホテルのテラスでお茶を飲んでいた。海はサファイアのように透明な深い青さをたたえ、南の国の太陽に照らされて、波が揺れるたびに黄金色の光を水面に反射させている。砂浜は雲母を敷きつめたような、目にしみる白。海より少し明るめの空の色、綿帽子のような雲。熱帯植物の濃い緑、赤や黄色の大ぶりな花。鮮やかな南国の、原色の風景だ。北国で生まれ育った僕にとって、この風景は一種の憧れだった。遠くの国々の夢の断片だ。
「ああ、暖かい国はいいな」思わず、そんな呟きがもれた。
「そうね。本当に楽園という感じね」ステラも微笑みながら頷いている。
 僕らは再び、心の通いあった沈黙の中に落ち込んだ。夢見るように景色を見つめているステラの瞳に、海の色が反射している。
「疲れた? ステラ」幸福な沈黙の後、僕はそっと声をかけた。
「いいえ」
「さっきから、静かだね」
 ステラはゆっくりと視線を戻すと、恥ずかしそうに眼を伏せた。
「わたしね、幸せに浸っていたの。本当に今ね、心から幸せだわ。わたし、生まれてきてよかったわって……そう思っていたの」
 暖かい、名状しがたい思いが――愛、それともいとおしさ――切ないような気持ちがこみあげてきて、僕はテーブルの上に置かれた彼女の手を取り、握った。その薬指には婚約指輪が填められている。プラチナでできたハート型の台座に、サファイアと小さな二つのブルーダイヤをあしらったものだ。結婚指輪も重ねてつけていた。小さなダイヤをはめ込んだ、透かし彫りのプラチナの指輪。僕の左手にも同じ指輪がある。ネックレスはつけることはあっても、ブレスレットや指輪はギターを弾くのにじゃまになることもあって、ほとんど身につけたことはなかった。それに男があまりアクセサリーで飾りたてるなんて、好きじゃない。でも、これだけは別だ。
「僕もだよ、ステラ。幸せだよ、君に会えて、ここにこうしていられて」
 いつまでも二人でこうしていられたら、どんなによかっただろう。でも間もなく、この思いがけなくとれた休暇も明ける。リハーサルからツアーへと、再び慌ただしい日々が始まる。彼女から離れて。でも世界に残された時が、あと八年半しかないならば、出来ればずっとステラと一緒にいたい。寂しがり屋の彼女のそばで、ずっと見守っていてやりたい。仕事も心配も恐怖も何もかもから離れて、二人でずっと――せめて限られた未来ならば、この逸楽郷にずっと住んでいたいと、この幸福な瞬間、僕はそう切望した。それは許されない望みだ。それに僕には、やっぱりミュージシャンとしての情熱もある。最後の時のために、僕らは発展しつづけなければならない。いいや、そのためではなく、自分自身の夢のために。ステラと一緒にいられる時には、その一分一秒を大事にしよう。一年中べったりとはいかなくとも、たとえ一年に二、三ヵ月ほどしか会えなくても、その時間を一年分に変えて過ごしたい。
「ねえ、ステラ」僕は彼女の手を取ったまま、呼びかけた。
「旅行も、もうすぐ終わりだね。あさって帰らなければならないなんて、すごく惜しいよ。一週間なんて、なんだかあっという間だね」
「そうね。残念だわ」ステラも名残惜しそうな表情になった。
「本当に楽しかったのに、幸せだったのに。ああ、もうすぐ旅行も終わりなのね。あなたは、またお仕事……今度のツアーが終わるのは、六月なのでしょう?」
「そう。それにロブにざっと予定を聞いたら、年内一杯ツアーだってさ。九月にもロードが入っているから、出産にもたぶん立ち会えないと思うんだ。本当に君には淋しい思いばかりをさせてしまうね。本当にごめん」
「それは仕方がないわ。だから謝らないで、ジャスティン。わたしも一応、覚悟はできているから。それに家も近いから、大丈夫よ。寂しくなったら実家に行けるし、ママたちもいつでも手伝いにくるって言ってくれているわ。それに、モリーたちも遊びに来てくれるはずなの」
「ああ、そう。そうだね、それは良かった」僕は苦笑ぎみの微笑を漏らした。

 バハマでの短い夢は終わった。僕の人生で、もっとも幸福な時。もしこの世に楽園があるとするなら、僕はそこで一週間を過ごしたことになる。多くの思い出と夢の断片を心にしっかりと刻み付けて、僕らは逸楽郷を去った。
 新婚旅行から帰って来た僕たちを出迎えたのは、三月の猛吹雪だった。
「わあ! こっちは本当に冬だ。出発した時は暖かかったのにな」
 僕は急いでコートをトランクの中からひっぱりだし、ステラに着せかけてから、自分のも羽織った。
「結婚式の時が暖かすぎたのよ。これが普通だわ。コートを持ってきておいて、よかった。バハマではいらなかったけれど、ここでは必要ですものね。ちょっと待っていてね。着替えてくるから」
 彼女が化粧室から戻ってくると、僕は笑って声をかけた。
「ストッキングがニットになったね。ずいぶん用意がいいんだね」
「気をつけているもの」
「毛糸のペチコートもはいた?」
「いやだわ」ステラは笑って、軽い動作で僕の腕を叩いた。
「つけたわよ、モスリンの下にね。でも、見てはイヤよ。念のために持ってきてよかったわ。これだけ気温差があると、本当に厳しいわね。ああ、寒い」
「じゃあ、早く家に行こう。君の身体が冷えないうちにね」
「わたしたちのホームね」彼女は車に乗りこむ時、嬉しそうにささやき、
「そうだよ」と、僕はその手を握って答えた。

 空港から約一時間あまりのドライヴで、我が家についた。家の前で車を止めて荷物を降ろしてから、ガレージに車をしまう。
「さて、いよいよ我が家についたね。今日から僕らの新しい生活が始まるんだ」
 僕はポケットから鍵を取り出し、妻を振り返った。
「ドアは二人で開けようよ。新生活の第一歩を記念して」
「ええ」ステラも微笑んで頷き、一つの鍵を二人で持って、玄関のドアを開錠しようと近づいた。でも、何かがおかしい。リビングのカーテンの隙間から、灯りが漏れている。玄関ポーチにも、ライトがついている。つけっぱなしにしたはずはないのだが。でも、ドアに鍵はかかっているようだ。僕はステラとともに玄関ドアを開錠した。そして訝りながらドアを開けると、玄関や廊下の照明が煌々と灯され、奥のほうでなにやら人の話し声や、かちゃかちゃと食器の触れ合うような音がしている。
 リビングルームのドアが勢い良く開いて、誰かが出てきた。茶色いウール地に葉っぱ模様のドレスを着た、パーレンバーク夫人だ。ステラが実家に預けたスペアキーを使って、僕らの留守中に来ていたらしい。義母の出現は、まさに不意打ちだった。彼女は満面の笑みをたたえて玄関に出てくると、当たり前のように両手を広げて、娘を抱いた。
「お帰りなさい、ステラ。ああ、さぞ疲れたでしょう? お夕食は?」
「まだよ……」ステラもさすがに母親の顔を見て、少し驚いたようだったが、すぐに微笑んでいた。「ただいま、ママ。来ていたの?」
「ええ。何もないところに帰ってくるのは、あんまりですものね。あなたは普通の身体ではないのよ。疲れているのに、お夕食のしたくなんて、出来るはずがないでしょう。まったく、この人はそんなことなど、何も考えてはいないのでしょうから。だから、お夕食を作っておいたわ。おうちも暖まっているし、お掃除もすっかり済んでいるわよ」
「ああ、ありがとう、ママ!」ステラは単純に感謝しているようだ。
 食堂に入ると、ぽかぽかと暖房をきかせた部屋で、パーレンバーク家の家政婦トレリック夫人が(やせて背の高い、五十歳くらいの人だ。ステラの話では、彼女が生まれる前からいるらしい。うちのホプキンスさんと同じだが、夫人は住み込みではなく通いで、結婚もしていたそうだが、子供はなく、夫は十年前に他界したらしい)茶色いワンピースの上から同色チェックのエプロンをかけて、夕食を運んでいた。ステラと同じ年頃だろう若いメイドさんが、丸っこい身体に紺色のワンピース、白いエプロンをつけ、せっせとテーブルに食器を並べている。焼きたてのシャリアピンステーキとソーセージ、小えびのカクテルとポテトサラダ、フルーツの盛り合わせが食卓に乗っていて、パンとスープ皿がそれぞれの席に置かれていた。三人分! ということは、義母も夕食をともにするのか。
 新婚気分は、どこかに吹き飛んでしまった。本当は鍵を開けた後、いつか二人で見た映画のシーンのように、僕は少し格好をつけてステラを抱き上げ、中に入りたかった。『ようこそ、僕らの家に』と気取って言い、キスの一つもしたかった。夕食も近くのケータリングサービスを頼んで、済まそうと思っていたのに。でもステラは二人だけの甘い気分に浸るのも悪くはないが、相変わらず母親に甘えられるのも、いやではないと思っているようだ。隣に座った母親に退去をほのめかすわけでもなく、楽しげに夕食を取っている。
 夕食後、トレリック夫人とメイドさんは洗濯物の始末にかかり、パーレンバーク夫人はステラに旅行中の話をあれこれ聞くのに余念がなかった。十時近くになって、やっと義母は重い腰を上げ、さすがにそこは気をきかせたのか、二人の使用人たちも引き連れて、パーレンバーク家からの迎えの車に乗って帰っていった。その後すぐに、ステラは疲れたから早めに休むと言って寝室へ引き揚げ、本当に眠ってしまった。彼女も旅行で疲れたのだろう。ただの身体ではないのだし、疲れやすいのもすぐに眠くなるのも、しかたがな
いことだ。僕は肩をすくめ、ため息をつくと、自分も寝支度をして、ベッドにもぐりこんだ。  やっぱり妻の実家に近い新居は、失敗だったかな――苦笑しながら、そう思わざるを得ない。明日はもうちょっと二人きりで──そう、明日が結婚休暇最後の一日だ。あさってからは、プロモーションが入ってきても文句は言えない。ああ、僕らの甘い新婚は、バハマの逸楽郷だけの夢だったのだろうか。カナダに帰ってくると、現実が待っている。そういえば僕が浮き世を離れていた十日ほどの間に、バンドの状況はどうなっているのだろう。
 眠れないので僕は起き上がり、自分の仕事部屋へ行った。この部屋には専用のパソコンがおいてある。電源を入れ、立ち上げると、メールをチェックした。バンドの仲間たち、スタッフ一同からの結婚祝いメッセージのほかに、一昨日の日付でロブからこんなメールが入っていた。

【ジャスティン、今はまだ旅行中だと思うが、帰ってきたら読んでくれ。
 予感していた大ブレイクが、とうとう現実になった。もうこの時点で、アルバム売り上げはアメリカで二百五十万枚、全世界で七百万枚を超えた。あっという間に、ノルマ達成だ。現在、アルバムは世界二九か国のチャートでトップを取り、シングルは二十か国で一位になっている。まだまだこれは大ブレイクの戸口で、全世界的にCDは慢性的品不足、入荷すると数時間で売り切れ、ダウンロード販売もストリーミングも、各国でトップ独走という状況に、市場は想像以上の大爆発をありありと予感しているという。最終的には、セールスは世界規模で二〜三千万のオーダーまで行くのではないかと、業界人は言っているそうだ。今度のツアーのチケットも二週間前から発売になったが、アリーナツアーだというのに、すべての会場で即日完売、シーティングを広げて追加をした分も、あっという間に売り切れだそうだ。それで追加公演がかなり入って、本来は二、三動一休のペースだったスケジュールが、かなりきつくなった。六、七動一休のあと、三日連続、一日休みで、また六、七連続。それが一つのパターンで、ずっと続く。例えば最初の一ヶ月は、七連続、三連続、六連続、六連続、三連続、七連続、という感じだ。それもほとんどは一日で場所が変わるので、移動も大変だ。スタッフも含め、相当なハードスケジュールになるが、需要はそれでも、まだまだ足りないという。本当に大変なことになってきたぞ、ジャスティン。
 そういう状況なので、配給レーベルからの要望もあり、マネージメントサイドとしても最終プロモーションに入っているところだ。取材申し込みは世界各国から数百件も来ていて、エアリィももう音を上げる寸前だ。『人と会うのは嫌いじゃないけど、頼むから一日に十件以上入れないで』というようになってきた。おまけに彼が丸々休めたのは、三日ほどしかないんだ。新婚早々悪いが、休暇が明けたらすぐに仕事を頼みたいので、帰国して落ち着いてからで良いから、なるべく早く連絡を待つ。ロブ】

 最後の一文は少々矛盾していないか? 僕はちょっと苦笑して、再びメッセージを読み返した。添付ファイルとして、ビルボードやitune、それに世界各国の売り上げランクを記したチャートをスキャンしたものが付いている。なるほど、たしかにこれは予想以上に大変なことになりつつあるな、とはいうものの、本当にこれが自分たちのことなのか、という不思議さもある。チャートを眺めているだけでは、たしかに大変なのだろうなという気はするが、それ以上の実感はあまり湧かない。
 でも、そうか──この調子では本当に、のんびり新婚気分に浸っているわけにはいかなさそうだ。この大事な時期にわがままを言って、十二日も完全休暇にしてもらったのだから、これ以上自分勝手は言えない。まあでも、明日はまだ休暇中だ。また義母が来襲してくるかもしれないが、そうそう毎日ではないと思いたい。
 よし──僕は何も返信を打たずにセッションを閉じ、パソコンの電源を落とした。返信は明日の夜でいい。明日までは休暇なのだから。明日一日ステラと二人きりで過ごし(そうできればだが)夜、ロブに返信して、もし仕事が入ってきたら、潔く受けよう。
 僕は仕事部屋を出て寝室に戻り、もう一度ベッドにもぐりこんだ。今度は幸い、ほどなく眠りが訪れてきた。




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