The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(3)





 翌日、僕は再び出かけた。昨日から降っていた雪も、朝方にはやんでいる。プロテスタントとカトリック、双方の教会に出かけて改宗手続きをした後、アイスバーン状になった道を、僕はステラの家へと向かっていた。もっと広いゆったりした車をというので、去年の暮れにマイカーもシルバーメタリックのBMWに買い替え、やっと運転も慣れた頃だ。
 今日は家を探さなければならない。僕のアパートメントからステラの家まで、車で四十分くらいの距離だ。いつも通っている道には、めぼしい空き地や売り家がないのは知っていたので、僕は彼女の家に向かう道を曲がらずに、そのまま少し北に走り、ノースヨーク地区に入ったところで、ぐるっと回りこむようにステラの家に向かった。すると、なんという奇跡か、いくらも走らないうちに、まさに『これだ!』と思うような家が、目に飛び込んできたのだ。まるで僕を招くように。
 その家は、まだ建ってさほど間がないような外観だった。角地にあり、かなり広い敷地は、赤茶色のレンガを土台にした白い飾りフェンスで囲われている。庭の中に木が何本か、フェンスに近い場所に植えられていて、外からはちょうど良い目隠しになってくれた。外壁はオフホワイトに塗られ、屋根は明るい緑。しっかりとした木製のドアと、二重サッシになった大きな窓。門のところに、【売り家、または貸家】と札が出ていた。
 僕はそこに書かれた不動産屋の連絡先を書きとめ、とりあえずパーレンバーク家へ行くと、そこから車で十五分もかからない場所に、良い物件を見つけたと報告した。そして不動産屋に連絡し、まもなくそこからやってきたセールスマンとともに、その家を見に行った。ステラと彼女の母親が一緒だ。ステラはその家を一目見ると、手を打ち合わせ、「あら、かわいい! すてきな家ね!」と、小さな叫び声を上げた。
 家の一階にはキッチンと食堂、吹き抜けになった広いリビング、パーラー、小さな個室が二つと食料室、ランドリールームとシャワールーム、そして洗面所とトイレがあった。食堂の外にある、中庭に面した広いテラスには、白い椅子とテーブルのセットが置かれ、天気のいい日は、ここで食事ができそうだ。二階には大きな主寝室と広めの個室が三つ、それにサンルームがある。バスルームは二階には二つあり、主寝室に付属したマスターバスルームと、子供たちや来客用のものがあった。主寝室には広いウォークインクロゼットも付属していて、屋根裏部屋までついている。庭にはしっかりした、大きな物置もあった。
「あら、すてき、すてき!」ステラは目を輝かせてそう連発し、「そうね、このくらいの広さなら、まあまあね」パーレンバーク夫人も、まんざらではない顔だ。
「絶対にお買い得ですよ! こんな物件は、もう二度と出ないでしょうから。お客さんは、本当に運がいいですよ」と、不動産屋も売り込みに余念がないようだ。
 この家は五年ほど前に建てられたもので、かなり裕福だった元の持ち主は、もう少し田舎に引っ込むために、ここを売りに出したという。家の状態は、驚くほどきれいだった。
「おいくらなんですか、この家?」僕はこっそり聞いてみた。
「これだけの立地条件で、この規模の建物にしては、破格ですよ」
 教えてくれた値段は、二百万ドルを超えていた。それではとても手が出ないと僕はあきらめかけたが、二割を頭金として入れてくれれば、残りは十年かけて分割払いにしてもらえば良いという。僕はそれでも、少し躊躇した。デビューアルバムがかなり成功したし、セカンドも半分とはいえ、わりと売れている。マネージメントは原版権の配分を六対四で割り振り、アドバンスから超過した制作費やプロデューサー分を、マネージメント側から支出してくれた。結果、セカンドアルバムに関しては、マネージメント的には大赤字になったが、僕らの収入は保証された。ツアーもサポートとはいえかなり順調なので、僕の年齢にしては、自分で動かせるお金はわりと多いだろう。パーレンバーク氏も一瞬驚いていたほどに。でも先の保証のないこの業界で、頭金で貯金の八割が消えてしまい、なおかつ百八十万ドルを超える負債を(十年分割だと、利息が入って実質は二百万ドルをゆうに超える)背負うというのも、勇気がいる。それも、年間二一万五千ドルの支払いを一度でも延滞してしまうと、次の年には出て行かなければならない。今度のアルバムがプラチナセールスにならなければ、レーベルとの契約もなくなってしまうのに。そこから先は、本当にどうなるかわからない。でもこれを逃すと、きっと希望どおりの物件などないような気がした。セールスマンのトークではなく、そんな予感がした。賃貸にした方が無難だろうが、それでは自分の家とは言えない。えい、思いきって買ってしまおう。そうすればパーレンバーク夫妻も僕の甲斐性を、少しは見なおしてくれるだろう。
 その日のうちに、もうその家は僕らの来るべき我が家となっていた。

 翌日、不動産屋から紹介されたインテリア・コーディネイターがパーレンバーク家へやってきて、ステラと僕、さらにパーレンバーク夫妻まで話に加わり、新しい家のインテリアを決めた。張り替える壁紙と照明を選び、カーテンとカーペットを決めたあと、家具を購入した。クロゼットをいくつかと、リビングのソファ、テーブル、パーラーの応接セット、キャビネット、二人分の本棚、書斎のデスクと椅子、ダイニングセット、ベッドにドレッサー。産まれてくる子供のためのベビーベッドと衣装入れを。翌日は、もうリハーサルが始まっていたが、午後三時からスタートなので、それまでの時間を利用して、ステラとその両親とともに、電化製品を購入した。エアコン、洗濯機、乾燥機、冷蔵庫、テレビ、DVDプレーヤー、ステレオセット、電子レンジ、オーブントースター、掃除機、空気清浄機、ヒーター、加湿器、食器洗い機――小切手やカードの支払い書がどんどん出ていき、今までの印税の残りやツアーのギャラをほとんど吐き出したが、もし年相応に学生の身分だったら、自分の収入だけでここまで整えることは、とうてい出来ない。その点だけは、パーレンバーク夫妻も少し見なおしてくれたようだった。

 リハーサルの三日目、午前中に僕はステラの家に寄り、通帳とカードを預け、暗証番号を教えて、残りのこまごまとしたものを、体調の良い時に揃えてくれるように頼んだ。
「ええ、わかったわ。でも、わたしの好みで整えてしまってもいいの?」
「いいよ。任せる。家にいるのは君のほうが圧倒的に多いからね。好きなように、居心地のいいように整えたらいいさ。僕は文句を言わないよ。ただ、予算があるからね。あまり豪華なものは買えないと思うんだ。通帳の残高を確認して、その範囲でお願いするよ」
「ええ。でも……わたしがあなたの通帳で、お金を下ろしても良いの?」
「当たり前だろ。君は僕の奥さんになるんだから」
「そう……ね」
 ステラは少し頬を赤らめた。そして通帳を開くと、少し驚いたような声を上げた。
「まあ……わたし、お金のことを気にしていなかったわ。ごめんなさい。けっこう減ってしまったのね。あのおうちが、思ったより高くなくて良かったけれど」
「いや……それは家の代金の、二割にすぎないんだ。頭金なんだよ。残りは、これから返していかなければならないんだ」
「あら、そうなの? 大丈夫?」
「何とかなるさ。君は気にしなくていいよ」僕は肩をすくめた。「ただ、家具とか電化製品の支払いが、来月落ちるんだ。だからその分を残してくれると、ありがたいな」
「わかったわ、どのくらい?」
「十五万ドルくらい、かな」
「あらまあ……」ステラは再び、小さな声を上げた。「かなりかかってしまったのね。ごめんなさい。わたし、わがままを言いすぎてしまったかもしれないわ」
「いや、幸い買えたからね。気にしなくていいよ」僕は再び小さく肩をすくめた
「ただ、それを引いてしまうと、そんなに動かせるお金は多くないね。三万ドルくらいしか残らない。ごめんよ」
「大丈夫よ、それだけあれば」ステラは小首を傾げて微笑んだ。
「では、あとはまかせて。大きな所は、みんなそろえたから、あとは何がいるのかしら。お鍋とか食器ね。それからベッドのおふとんや毛布、シーツやカバー、テーブルクロス。でもリネン類はうちでそろえてくれると、パパとママが言っていたわ。だから大丈夫よ。新しい服も七着作ってもらえるらしいし、ママはエプロンを十枚も作らせるって言っていたのよ。家事用にではなくて、一家の主婦として見えるように、ですって。わたしね、レース編みでテーブルセンターを編もうと思うの。ダイニングのテーブルの真中において、その上にお花を飾るの。ああ、なんだか子供の頃にそろえた、お人形のおうちのようね」
「おままごとじゃなく、本当の家だけれどね。感想はどうだい?」
「とても楽しいわ。うきうきした気分よ」ステラははしゃいだ声を出す。
「あなたとわたしのおうちなのね。それから赤ちゃんの。わたしね、子供の頃から将来の夢は、お嫁さんだったの。今の人たちからすれば、つまらないと軽蔑されてしまいそうね。それは職業じゃないのよ、と。でも真っ白いウェディングドレスを着て、結婚式を挙げて、どこか南の島へ旅行に行って、お庭のある白い壁と緑の屋根の、すてきなおうちに住みたかったのよ。あのおうちは、まったくそのとおりね。なんだか夢のようだわ」
「一つだけ、南の島への旅行っていうのは無理だけれどね。新婚旅行としては。年末か来年には行けると思うけれど。それと、僕も今はなんとかこれだけの支度が出来たけれど、君のご両親が懸念されていた通り、残念ながら先の保証というのがない世界なんだ、僕の仕事は。でも君に生活の苦労はさせないよ、絶対」
「万が一、ミュージシャンとして生活できなくなっても? パパにそう約束したのよね。大丈夫なの?」
「ああ、もし不幸にして、そんなことになったとしたら、どんな仕事をしてでも、君と子供を支えていくさ。その覚悟はできているよ。でもたぶん、そんなことにはならないような気がするんだ」
「あら、ずいぶん自信があるのね。たしかにあなたたちは上手だし、すてきだと思うけれど。よほど今度の作品に自信があるの?」
「自信? 自信はあるさ、当然。アーティストの自信だけなら、どんな作品だって大成功、っていうのが音楽業界だけれどね。僕には市場のことは良くわからない。でも……」
「発売されたら、買って聞いてみるわ」
「いや、そのうちに僕からプレゼントするよ。新婚の夢が落ち着いたらね。ああ、でも胎教には、ちょっとどうかな? 君にはやっぱり、モーツアルトのほうがいいかな?」
「大丈夫よ。クラシックの合間に聞いてみるわ。気分のいい時に」
「じゃあ、僕としてはこれから、未来の妻と子の生活のために、仕事に出かけるよ。明日からはリハが十時スタートになるから、しばらく会えないけれど、ツアーに出る前に、また寄るから。あっ、でも学校があるかな?」
「わたし、カレッジは中退するの。明日届けを持っていくつもりなのよ。だから、これからは、ずっとお家に居るわ」
「そうか。冬学期が終わってからじゃなく?」
「ええ。どうせ結婚するのだし、今が大事な時期なのだから、雪の中を通学して転んだりしたら危ないって、パパとママが心配して。無理をして通うことはない。やめてしまいなさいって言うの。だから、冬学期を待たないで、やめることにしたのよ」
「そうか。そうだね。そのほうがいいよ。今はたしかに大事な時期だから。かぜでもひいたらいけないし、疲れ過ぎないように、身体に気をつけるんだよ」
「ええ、ありがとう、ジャスティン。大丈夫よ。パパとママも同じことを、いつも言っているから。あなたも無理をしないように気をつけてね」
「ああ、ありがとう。」
 本当はステラを抱きしめ、キスしたかった。でもパーラーの隅にある揺り椅子にパーレンバーク夫人が陣取って、新しいテーブルクロスに刺繍をしているという風を装いながらも手は動かさず、僕らの様子をじっと見ているおかげで、なんとなくやりにくい。僕はステラの肩を抱き、軽く頬にキスをするだけにとどめた。それすらも夫人は「まあ!」と声を上げ、あからさまに驚きと嫌悪の表情を浮かべたが。

 全米ツアーに出発する日、二時にバスが迎えに来るので、午前中に僕は再びパーレンバーク家へ行った。どこか外へ出かけるには時間もなく、ステラの身体のこともあるので、結局パーレンバーク家の客間で、母親に監視されながら二時間ほど過ごした。帰る時にも、夫人を必要以上に刺激しないためにと、頬へのキスすら出来ず、ただ手を握りあって「行ってらっしゃい。身体に気をつけてね」、「ああ、君こそ充分気をつけるんだよ」と言い交わしただけだ。ステラは手を振りながら、「浮気はだめよ!」と言い、僕も手を振って「しないよ、絶対!」と笑った。
 そして、僕はツアーに乗り出していった。ある人気バンドのサポートとして、発売されたばかりのアルバムの、最初のプロモーションツアーだ。

 最初の公演地はオハイオ州コロンバス。前日の夜に現地入りした僕らは、市内のスタジオを借りて、軽くリハーサルを済ませたあと、会場に向かった。ヘッドライナーのメンバーたちも友好的な態度で僕たちを迎えてくれ、一時間十分という公演時間をもらった。会場は一万数千人級のアリーナ。観客は六、七分の入りだ。チケットは八割方売れているというから、あとの人たちは僕らの出番が終わってから来るのだろう。一時期ほどではないにせよ、今も全体的にロックの市場は決して活発ではないから、かなり上々の部類だろう。
 僕たちは、ファーストアルバムはかなり成功したものの、セカンドはその半分、新しいアルバムはまだ五日前に発売になったばかりで、聞いた誰もが激讃してくれる出来ではあっても、今のところ市場としては、まだ海のものとも山のものともわからない。自分たちでツアーを打つより、最初はビッグネームのサポートでいった方が、より広い露出が見込めるだろうというマネージメントの判断で、ヘッドライナー側からのサポート起用申し出を受けたのだった。
 ヘッドライナーのアーティストは僕らより十年ほど先輩で、二〇〇〇年代半ばから後半に人気を博した。CDセールスのピークは五、六年前に越していたが、今もカリスマ的な人気と、根強い観客動員を誇っている。でも、生意気を承知で言うなら、僕の好みとしてはストレートすぎて、あまり芸のない音楽だと思っていたので、昔からほとんど聴いたことがなかった。僕らのサウンドやカラーには、あまりマッチしていないカップリングだとも思う。彼らのファンは、彼らの全盛期だったころに入った人が多いらしいので、二十代後半が圧倒的だ。男女比で言えば、男性が多いという。
 僕らは二年前にデビューした、彼らの範疇でいえばまだ新人――アルバムこそ、もう三枚出ているが。しかもファン層は女性優勢、この頃で八割くらいか。それも、ほぼ十代だ。下手をすれば、アイドルバンドに見られている節もある。セカンドアルバム、特に最初のシングルの軽さも、その誤解に拍車をかけたかもしれない。実際、ミックが相手の公式掲示板にアクセスしてみたところ、向こうのファンたちの反応は、あまり僕らに対して好意的ではなかったと言う。『君たちは見ないほうが良いよ』と、彼は肩をすくめていたほどだ。
 実際、本番直前にステージの袖からちらりと覗いた感じでは、明らかに僕たちを見に来ただろう十代の女の子たちは、全体からすれば四分の一より少し多いくらい。あとは、もう少し年配の、ヘッドライナーのファンたちだろう。男の人はもちろん、女の人たちも、冷めた目でステージを見ている。最初から、ブーイングしてやろうという感じがありありだ。実際、彼らのファンは傾向の違うオープニングアクトに対しては冷たく、どんなに良いバンドでも最初から聞く耳を持たず、今まで何度もブーイングで追い払っているという評判を最近になって聞いたので、ちょっとやりづらい雰囲気だな、という不安も感じた。でも元々ファンでない人たち、それも最初からこちらにほとんど好意を持っていない人たちをどれだけ惹きつけられるか、やってみてやろうじゃないか。僕らはもう、去年までの僕らではないのだから。ブーイングするなら、してみればいい。

 暗転、そして僕らはステージに飛び出した。キャーっという女の子たちの歓声は、過半数を占める黙ったままのヘッドライナーの観客たちの中では、いやにか細く響く。僕は腕を上げ、最初のコードを弾き出した。と、同時に入ってくるドラムのビート、ベースのグルーヴ、そしてキーボードの響きが重なる。アリーナに音楽が満ちた。五日前に発売したばかりの新アルバムからのチューンで幕を開けるのは、ちょっと冒険だが、どうせここの観客たちの半分以上は(僕ら側のファン以外)僕らのアルバムなど、そもそも聴いてはいないだろう。
 変拍子や分数コードも取り入れた、一分近い長めのイントロ。空気が徐々に変わっていく。それを感じ始めるまもなく、エアリィがスクリーミング一発、そして歌いはじめる。こうなると、流れは誰にも止められない。僕の頭からよけいなことはすべて消え去り、観客たちもその急流に巻き込まれてしまったように、一気に会場の空気が変化した。観客は衝撃に揺さぶられたようにその場に立ちすくみ、最初はただ呆然と見ている。彼らはもはや、ステージの一点しか見ていないようだ。元々のファンだろう十代の女性客だけでなく、明らかにさめて構えていた二十代男性女性たちさえ、最初の一声で吸い込まれてしまったのだろう。アーディス・レインというコンサートマスター──目覚めたモンスターの力に。
『それは、完全なコミュニケーションだ。聞く者すべてに作用し、感化させることの出来る力。すべての人に感銘を与え、情景と感情を伝えられる力。たとえ言葉が通じなくとも、メッセージははっきりと伝わり、相手を揺り動かせる。たとえ相手が心を閉ざしていても、こじ開けることが出来る』インドのキャンプ地でフレイザーさんが言っていたこと――エアリィの中にその未踏の領域へ行ける可能性を認め、下手をすれば人格崩壊するリスクの中で、半ば強引にその道を開かせた人が言っていたことを、僕はこの場で改めて痛感した。レコーディングの時にもそれは感じたが、今、数千人規模の観客を前にした時、その作用は恐ろしく膨大になり、増幅されるということをも。彼は十六歳で、一見女の子のように見える。ここのメイン観客層である二十代男性たちにとってはマイナス要素になりそうなその要因でさえ、まったく問題にはならないようだ。男だとわかってはいても、今この瞬間、彼はディーヴァ(歌姫)に見えるかもしれない。
 そう思った時、僕の脳裏にヴィジョンが浮かんできた。淡い金髪を頭のてっぺんで束ね、大きなリボンをつけた、ほっそりした美しい少女が、ふわりとした水色のドレスを着て歌っている――えっ、ちょっと待て! 一瞬集中力が乱れた僕は、あわやミストーンをするところだった。なんだ、今のは? だがそれは、一瞬の混乱だった。曲は間奏になり、僕は頭を振って、演奏を続けた。やがて終盤のクライマックスへと向かって行く。僕は再び我を忘れた。
 一曲目の終了後、たっぷり五秒ほど、観客たちは完全沈黙した。水を打ったような静寂のあと、それはかつて聞いたこともないような激しい大歓声に変わった。一曲目が始まる前に物販やビールを買いに行ったり、トイレに行ったりしていた人たちも、慌てた様子で続々と戻ってくる。彼らはもはやその場を動かず、ショウが進むにつれて、人はどんどん増えていく。
 一時間十分が過ぎ、僕らがステージを降りる時には、激しいコールがいつまでも鳴り響いていた。男性の入り混じった声でバンド名を連呼されるのも初めてなら、客電がついてもなお鳴り止まない、むしろいっそう激しさを増してアンコールを求めつづけられるのも、さすがに初体験だった。
「やったね!」僕らは笑って言い交わし、お互いに手をぽんと打ち合わせた。そしてシャワーを浴びて着替えると、そのまま会場を後にした。メインアクトの演奏を聞くより、早くホテルの部屋に戻ってくつろぎたかったし、誰かの部屋に集まって、心おきなく話もしたかった。

 翌日はアクロン、一日移動日を置いてピッツバーク、クリーブランド、また移動日をはさんでインディアナポリス、シンシナチ。一日おいてセントルイス、さらに移動日が入ってメンフィス、ナッシュビル、また一日おいてアトランタ。メインのバンドにスケジュールをあわせているので、日程にはわりと余裕がある。いつものサポートペースだ。本来なら、熱心なサポートバンドはその合間を縫って地元のクラブに出たりするのだが、残念ながら僕らは未だに、それは出来ない。ただでさえアメリカは飲酒可能年齢が高く、十九歳の僕とロビンですらまだだめなのだから、十七にもならないエアリィは完全に論外だ。「もう自動車免許もとれる年なんだから、クラブぐらいいいと思うけどなあ。お酒は飲まないけどさ。ヨーロッパなら、かなり行けるのに」と、彼も納得いかなげだが、こればかりはしかたがない。それにツアー自体は誇張でもなんでもなしに、爆発的反響を巻き起こして進行していた。この頃には僕らが舞台に出る頃には観客席はすでに満員に近く、インディアナポリスあたりからソールドアウトが続いていた。観客層も僕ら側の客が、だんだん増えていっているようだった。
 だが、僕らは肝心なことを忘れていた。メインアクトは僕らではないという、当たり前の事実を。僕らはサポートで、メインのバンドは他にいる。デビューしてからずっとそうだったので、あまりに当たり前のこととして、逆に考えもしなかった。メインアクトがどんな状況にあるかを。僕らはいつも自分たちの出番が終わると、ホテルへ帰ってしまう。その方が、終わりの混雑に巻き込まれずに帰れるし、ヘッドライナーの音楽はたいして好みではなかったから。でもツアーが進むに連れ、僕らも何か面白からざる雰囲気に気づき始めた。
 はじめて挨拶に行った時、ヘッドライナーの人たちは、かなり友好的な態度で、僕らを迎えてくれた。『お互いに観客層は少し違うかもしれないけれど、良い音楽は通じ合えると思う。楽しくやっていけたら良いね』と、笑顔で言ってくれた。『何か要望があったら、いつでも言ってくれるといい』とも。サウンドチェックの時間も二十分以上くれた。でも、それからサウンドチェックの時間は徐々に短くなっていき、セントルイスからは、まったくなくなった。ぶっつけ本番、である。せめて一曲くらいランスルーする時間がほしいのに、その余裕はいつもない。さらにナッシュビルでは、あらかじめ控室にセットアップしてあった僕らの機材の、ヴォーカルマイクのワイアレスユニットが脱落していて、明らかに床に叩きつけられたように壊れた状態で見つかった。急遽スタッフが楽器店へ走り、新しいものを買い求めて事なきを得たが、開演ぎりぎりの調達になった。他の楽器はなんとかステージにセットアップ済みで、音出しも確認していたが、歌い始めて音が出なかったら洒落にならない。そのため僕らが演奏を始める前に、スタッフがステージに出てマイクテストをやってから、演奏がスタートするという珍事になってしまった。それ以来、セットアップ後の控室には必ずスタッフやクルーの誰かが待機して、見ているようになった。
 メインアクトの人たちと顔を会わせる機会もめっきり減り、たとえあっても、知らん振りか、ついと顔をそむけるか、不機嫌ににらみ返されるようになった。はっきりと気づいたのは、セントルイスあたりからだ。どうも何かがうまくいっていない、というか彼らの気に触るらしい。さすがに僕も、そう感じ始めずにはいられなかった。それは他の四人も同じだったらしい。

 アトランタで、僕らはその原因を突き止めるべく、自分たちの出演後そのまま会場にとどまり、メインアクトのステージを見ることにした。僕らのステージが終わって四十分あまりが過ぎ、セットチェンジが終わって、ヘッドライナーがステージに登場した時、僕は客席を覗いて唖然とした。観客が少ない。半分もいない。四割くらいか。僕たちが出た時には、満員だったのに。今や会場の四割から半数くらいを占めるようになっていた僕らのファンは(元々どの公演もチケットが売り出された時点で、僕ら側の観客が四分の一前後いたらしく、チケットは平均して八割ほど売れていたというが、残りの二割がツアー開始後、僕ら側の観客として参入してきているらしい。それで、ソールドアウトになっていた)、ヘッドライナーの人たちの音楽とは、あまり相性が合わないだろうから、帰っても不思議はないのだが、それにしても、ここまで減ってしまうとは。
 残った人たちは、ほとんどが二十代半ばから後半の人たちなので、おそらく元から彼らのファンなのだろう。でもその観客たちは、さすがにファンだけにブーイングはしないが、ほとんどの人が黙って立ったまま、もしくは座ったまま、無表情にステージを見ているだけだった。ビールを買いに行ったりトイレに行ったり物販に行ったりと、絶え間なく移動している人もかなりいるし、携帯の画面を見ている人も相当いる。観客全体の一割くらい、そのくらいの人数の人たちは、こぶしを振り上げ、立ち上がってのっているが、だんだんとまわりの反応に戸惑っているようにノリが鈍くなっていき、途中で座り込んでいった。
 ショウが進むにつれて、さらに観客の数が減り始めた。外へ買い物に出て行って、そのまま戻ってこない人がいる。黙って見ていた人たちや携帯をいじっている人たちが、一人、二人と首を振り、荷物を取り上げて、出口へ向かう。こんな中で演奏するのは、僕ならば、きっと拷問だと思ってしまうだろう。彼らのショウは二時間と聞いていたが、実際には三十分以上も早く切り上げてしまっていた。それでもアンコールを求める声はほとんどない。結局、最後までいた観客は、三分の一もいなかった。
 なぜなのだろう。観客たちは少なくとも半数かそれ以上は、もともとのファンだったはずなのに。僕らのせいか? 僕らのショウの余波で、観客の感動の質が変わってしまったのか? 彼らの音楽では、もはや楽しめなくなってしまったのか? 自惚れているとは思われたくないが(いや、観客の変容の原因は僕ではないのだから、自惚れではないだろう)、きっと、そうなのだろうと思えた。彼らがつらく当たる理由は、痛いほどわかった。こんな状況で、それでも友好的でいられるとしたら、もはやそれは天使か神様だろう。

 僕らはその後ホテルへ帰り、ロブの部屋にみんなで集まって、いつものようにルームサービスで軽い夜食を取った。でも、いつもならば楽しい時間が、今夜はみんな黙りがちだ。
「ちょっと良心の痛みを感じるね。かといって、僕らには何も出来ないけれど」
 ミックが苦笑しながら言い、何人かが頷く。
「僕たちは僕たちのベストを尽くすしかないからね。プロの良心に誓って」
 僕は首を振った。他に言いようがない。
「けどあの人たち、最初からあきらめてるみたいだったけど、がんばってのせ返してやるって気があったら、あれほど悲惨じゃないと思うんだけどなぁ」
 エアリィは少し考えるような表情で、そんな意見を口にした。
「おまえが言うなよ! それって、すごく冷淡に聞こえるぞ」
 思わず、そう言葉が出た。ジョージも同時に、同じような声を上げている。
「ええ、どうして? 冷たいかな? サポートが受けてても、自分たちは自分たちでベストを尽くせばいい。だって残ってるのはメインアクトの観客なんだから、いい演奏をすれば、反応してくれるはずだって、もし僕があの人たちの立場だったら、そう思うんだけど。でもあの人たち、本当に投げやりに演奏してるみたいで、よけいお客さん、のらなくなっちゃうよ。最初のうちは、楽しんでくれてそうな人たちいたのに。なんていうか、自分で負のスパイラルに陥ってるみたいな気がするんだけど」
 たしかにそれは事実だし、正論には違いない。でも彼の口から発すると、それは恐ろしく無意味な、というより無邪気に残酷な仮定に響く。エアリィが彼らの立場に立ったら、なんて。彼は彼ら普通のアーティスト、才能はあってもつまるところ普通の人間である人たちの立場に立つことは、もうきっと永遠にないだろう。あまりに桁外れの力に立ちすくむしかない普通の人間たちの思い、それを彼が知ることはできない。元々エアリィには、そういう傾向があるが。勉強にしろスポーツにしろ、出来ない人たちの悔しさや諦めを実感することができないのと同じように。決して見下げたり馬鹿にしたりはしないし、そういう感情は彼の中にはまったくないように思えるが、理解することはできないのだろう。それにエアリィはあまりに自らの変貌に対して、無頓着でありすぎる。自分がかつての彼自身、覚醒する以前の、卓越したシンガーではあるがまだ人間の範疇であった頃と、何も変わっていないように話す。彼らをその負のスパイラルに陥らせた張本人が自分であるという自覚は、彼にはまったくないだろう。この無頓着さが、ある意味で一番怖いかも知れない。そう思えた。僕だけでなく、ロビンやジョージ、ミックもそう思ったような表情だったが、誰も口には出さなかった。ただ苦笑を浮かべただけだ。
 沈黙を救うように、ロブが首を振って言った。微かな溜息のようなものとともに。
「そうだな。おまえの言うことは間違ってはいない。まあ……おまえたちが責任を感じる問題ではないんだ。気にするな。おまえたちはただ、いつものように全力で演奏したらいい。向こうが耐えられなければ、向こうのほうで対策を考えてくるはずだ」
「そう……だね」僕らはいっせいに頷いた。
「サポートでまわるのは、もう今回で最後になるだろうしな」ロブは、そうも付け加えた。「こんな状況になっては、おまえたちをサポートで起用しようなどという勇気のあるアーティストなど、いなくなるだろう。おまえたち自身、もはやサポートに納まりきるような器じゃない。どんなヘッドライナーだって、食ってしまうだろう。アルバムはまだ発売二週間だが、早くもものすごい勢いで、火がつき始めているらしい。ビルボードでも初週こそ四位スタートだったが、今週はトップになるだろうと、業界人が社長に言ったそうだ。ストリーミングのリクエストも、動画サイトの再生数もロケット並みの上昇率らしいし、曲やビデオクリップをオンエアした局には、どこもとんでもないリアクションが返ってきているとも聞く。いよいよ動き出したんだ。次からは、おまえたちがヘッドライナーだ」
 ヘッドライナー、その響きはたしかに魅力的だ。でもその前に、ともかくこのツアーを終わらせなければならない。今はまだまだ序盤にすぎないのだから。

 釈然としないまま、それでもツアーは進行していった。モンゴメリー、一日おいてニューオーリンズ、ヒューストン、さらに一日おいてダラスまで来た。
 その日もメインアクトの人たちは、サウンドチェックの時間をくれなかった。たいていどんな公演も逆リハ、つまりヘッドライナーから順にサウンドチェックをするので、サポートはそれが終わるまで、待たなければならない。でもヘッドライナーの人たちは、いつも開場時間の三、四十分前くらいに、やっと来る。来ても自分たちのサウンドチェックをするわけでもなく、だらだらとステージの上で時間をつぶしているだけだ。実際のセットアップやチェックはすべてスタッフ任せにしていて、彼らが来る前にとっくに終わっているらしい。実際彼らメンバーが来ると、スタッフさんたちは逆に引き上げていくという。まったくの嫌がらせとしか思えないが、僕らのほうも、『作業をしていないのなら、ちょっとだけでいいですから、サウンドチェックをやらせていただけませんか』と言うだけの勇気もない。いや、以前ナッシュビルでロブが恐る恐るそう切り出してみたのだが、彼らはものすごい剣幕でぎろりとにらみ、『これからやるんだよ! ただ、気分がのらねえんだ!』と怒鳴られただけだった。おまけにその腹いせなのか、マイクのワイアレスユニットが壊されるというおまけまでついた。まあ、これは状況証拠だけなので、断定はできないが。
 それ以来、下手に刺激してはと、僕らも何も言わない。さすがに普段はものに動じることのないエアリィですら、相手の不機嫌さ加減に遠慮してか、直接的には何も言わなかった。いや、彼は実際ナッシュビルで『やらないならやらせてくれって頼んでみようか、サウンドチェック』と最初に言い出したので、ロブが、『いや、おまえは行くな。僕が言ってこよう』と制して彼らに申し入れ、先のような結果になったのだった。僕らにできることは、開場時間ぎりぎりになって彼らがようやくステージから引き揚げ、向こうのスタッフさんがその機材に銀幕をかぶせるのを待ってから、あらかじめ控室で組んでおいた機材を慌ててステージに運んでPAに接続し、音が出るのを確認し、ざっとバランスを調整する。それだけだった。そのためにいつも主催者側に、開場時間を十分か十五分遅らせてくれるように頼まなければならなかった。
 僕らをひるませているのは、彼らの憎悪。直接には何もぶつけては来ないが、くすぶるような憎悪が日に日に大きくなっていくのを感じている。だから僕らもバックステージで、極力彼らと顔を会わせないようにしていた。とりわけ、アトランタで事情をある程度察してからは。ただ、できるだけ開場時間の遅れを少なくするために、相手のサウンドチェックが終わったらすぐセットアップできるよう、開場時間の十分ほど前にはステージの袖に出てきて、様子を見ていた。もちろん、相手に見つからないよう気をつけて。





BACK    NEXT    Index    Novel Top