The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(4)





 この日も開場十分前くらいに、ちょっと覗いてみた。相変わらず彼らはステージに居る。でもPAやライティングのコンソール前には、誰もいない。ステージ上のメンバーだけだ。それも、ドラマーはドラムセットのところに座ってもいないし、ギタリストもベーシストも楽器を持ってさえいない。ヴォーカリストも含めて、みんなステージの床に座り込み、ウィスキーの小ビンを片手に、なんだかいかがわしい雑誌を見ているだけのようだった。おまけに全員、相当酔っ払っているようだ。
 と、見ているうちに、ヴォーカリストがこっちを振り向いた。あわてて僕らも戻ろうとしたが、遅かった。相手の表情が変わった。髪の毛を逆立てるほどの──いや、実際には立っていないが、思わずそう感じられるほどの激情が捉えたようだった。彼はいきなり手にしていたビンを投げつけ、雷のような声で怒鳴った。
「なんだ、このやろう! 俺たちを笑いに来たのか?!」
 投げられたビンはエアリィと僕の間を、というか、僕らが両方でよけたので出来た空間を通って後ろの壁にあたり、ガチャンと砕け散った。
「あ、あの……そんなつもりじゃ……ないです」
 僕とミック、それにジョージの三人が、かろうじて言った。ロビンは元々怖がって楽屋から出てきてもいない。ただエアリィはやはり気性なのだろうか、こんな相手にも臆するということがない。彼は数歩ステージに近寄り、相手に向かって話しかけていた。
「すみません。別にこそこそ覗こうと思ってたんじゃないんです。僕たちも機材のセットアップをしなきゃならないから、できるだけ時間のロスをしないように、終わったらすぐできるようにって、見てたんです。もし気に触ったら、ごめんなさい」
 デビュー当時に比べたら、敬語はかなりこなれてきたな――いや、それはどうでもいい。普通の相手なら、これで怒る人はまずいないだろう。それほどエアリィの口調や態度には率直な親しみと明るさがあり、同時に誠意もある。でもこの場では、僕は思わずひやっとした。相手は普通の状態ではない。自分たちのツアーを、言ってみればぶち壊した僕らを、心底から憎んでいるはずだ。屈辱的なステージを繰り返すにつれて、その怨念は増殖していき、もはや酒色に逃げるしかなくなっている。そして彼らの憎悪、怨念がもっとも向けられるのは、僕らの中で誰よりもアーディス・レイン――すべての公演で観客をひっさらっていき、爆発的反響を起こしている張本人のはずだからだ。
 僕らはみんな、そのことに気づいていた。ただ一人、彼自身の他は。
「おい、ちょっとまずいぞ……」ジョージが僕の肩越しに、困惑気味にささやいた。
「かといって、今唐突に呼び戻したら、よけいに刺激してしまうよ」ミックも僕の横に出てきて、懸念をにじませた声で呟く。
「本当に、状況も考えないで出るなよ……」僕は思わず、そんな言葉を漏らした。
 相手は右手にマイクスタンドを持って、ステージを下りてきた。同時に、他の四人が立ちあがり、あとに続く。最初の男は大またに近づき、顔をどす黒く染めながら、ものすごい勢いで吠えた。叫んだり怒鳴ったりという感じではない。まさに怒りに燃えた獣が咆哮するようなトーンだった。
「うるせえ!! おまえらか! 主催のやつらに、俺たちのサウンドチェックが遅いって告げ口したのは?! 誰のせいだと思ってるんだ!! みんな、おまえのせいだ!! よくも俺たちのツアーを、めちゃめちゃにしてくれたな! そうだ! これは俺たちのツアーだ! おまえらのじゃねえ!!」
 つい一ヶ月ほど前、僕の部屋に押しかけてきたパーレンバーク氏を彷彿とさせるような、激しい憤激だ。おっと、そんな悠長なことを思っている場合じゃない。これだけ憤り、なおかつ酩酊している相手では、どんな行動に出るかわからないのだから──。
 言い終わるや否や、相手は持っていたマイクスタンドを、強く投げつけた。もうほとんど目の前に来ている相手から正面きって投げられたのでは、さすがにエアリィもよけられないのだろう。彼は反射的な動作のように両手を出し、受け止めた。ただ相手の剣幕に驚いているような感じだ。僕は思わず飛び出し、叫んだ。
「逃げろ、エアリィ! 危ないぞ! 戻ってこい!」
 僕の声が聞こえたのだろう。彼は一瞬、こっちを振り向こうとした。が、相手のほうが早かった。激しい勢いで飛びかかっていく。普通の状態なら避けられただろう。エアリィの反射速度は、とんでもなく早いから。でも僕が声をかけるタイミングが最悪すぎて(しまったと思ったが、もう遅い)、ちょうど肝心な時に、相手から注意がそれる形になってしまった。そのための動きの遅れと、相手から投げられたマイクスタンドを両手に持っているため、一瞬躊躇したようだ。完全に防御するには、相手にそれを投げつけるのが効果的だが、自分の防御のために相手を攻撃するのは、ためらったのだろう。それに憤激のためなのか、相手の攻撃が恐ろしく早かった。それゆえ、避けられなかった。華奢で比較的小柄なエアリィが、自分よりふた周りほども大きい男にタックルされたら、とても立ってはいられない。まだこっちに吹っ飛んできたほうがましだったが(それなら僕らも、すばやく彼を引っ張って逃げられる)、だが相手も力の方向は考えたのだろう。彼は床に叩きつけられるように倒れた。相手がその上にのしかかり、ものすごい勢いでぐいぐいと揺さぶっている。目は真っ赤に血走り、まるで赤鬼のような形相だ。
「おまえは……おまえは、なにものなんだ……こんなに小さくて……細っこくて……天使みたいな、女みたいな、きれいな顔して……でもおまえは、化け物なんだな! おまえは、おまえは、人間じゃねえ! サイレーンだ! そうだ、おまえは、サイレーンだ!」
 サイレーン――もしくはセイレーン。その歌声を聞くと破滅に追いやられるという、海の精霊。ここでも女性連想なのはおいておいて、聞くものを否応なしに引き込んでしまうパワーは、彼らにとってそう映ってしまうのかもしれない。彼らを破滅へと導くシンガー。思わずぶるっと震えた。
 彼らにとってのサイレーンが目の前に出てきた時、どうするのか。その真の危険性に僕らが気づいた時には、遅かった。相手は肩をつかんで何度も床に頭をぶつけるほど激しく揺さぶっただけではあき足らず、その手をやにわにスライドさせて首に回し、締めはじめたのである。エアリィもとっさに相手の行動を悟ったらしく、なんとか左手を間に滑り込ませることは出来たようだが、いくら利き腕でも、もとより腕一本で引き離せるほどの力はない。相手は顔を真っ赤にし、なお何か言い募っている。だが、その言葉はもはや聞き取れないほど、わけのわからない支離滅裂なものになっていた。
 とんでもないぞ。完全に相手は正気をなくしている。こんなところで、ぐずぐず見ている場合じゃない。我に返った僕は前に飛び出し、同時にジョージとミックも出てきた。が、すぐに行く手を阻まれた。相手のバンドの残る四人が、僕らの前に無言で立ちはだかったのだ。
「どいてください!」言葉だけは多少丁寧にする余裕はあったが、怒鳴り口調になるのは止められない。しかし、彼らは動かなかった。
「どけよ! あいつが何してるのか、わかっているのか!」
 ジョージはもはや言葉遣いまでかまっていられなくなったようだが、僕も同じくらい憤激していた。思いきり目の前の男を突き飛ばし、前に出ようとした。が、相手のリードギタリストが僕の手首を捕らえ、痛いくらいぎゅっと握ってきた。
「離せ!」僕は手を振り解こうとしながら、叫んだ。「いくら僕たちがあんたたちを食ってしまったからって! あんまりだ! 許されることじゃないぞ!」
「いや……」彼は僕の手首をますます強く握ったまま、いやな笑いを浮かべた。
「いいのさ。あいつは今のうちにつぶしておかなければ……俺たちだけでなく、すべてのアーティストをだめにする。あいつは怖い……怖すぎる。あいつはサイレーンだ」
 その目に浮かんだ狂的な光に、僕は思わず全身が総毛だった。だめだ。狂っている──。彼らにとって、彼は真にサイレーン――破滅の妖精、女じゃないが――なのだと思えるのかもしれない。そしてそれゆえ、ここまで狂気に駆り立てられてしまうのか。
 エアリィが覚醒し、未踏の領域へ踏み込んだことを悟った時、僕もたしかにある種の怖れを感じた。でも彼は僕と同じ運命共同体に属しているのだから、僕の感じた思いは、純然たる畏怖に近い。でも同じフィールドに立つ敵対者──今は僕らより上の地位にある、しかし必ず撃墜されるという危機を感じているであろう人たちにとって、彼はどう映るのか──激しい戦慄を感じた。もしかしたらアーディス・レインはモンスターとして目覚めることによって、すべてのアーティストたちを敵に回したのかもしれない。僕たちは──孤独だ。
 でも、今はそんな認識に震えている暇はない。エアリィはたぶん今の状態から、自力で脱出するのは不可能だろう。圧倒的な体格と力の差がある上に、ちょうど投げつけられたマイクスタンドで足を押さえられたような格好になってしまったため、ほとんど抵抗らしい抵抗が出来ないようだ。このまま足止めされて助けに行かれなかったら、冗談ではなしに殺されてしまうかもしれない。助かっても強い力で首を締められて、万一のどにダメージを受けたら、シンガーとしては致命傷になるかもしれない。ぐずぐず考えているひまも、躊躇している余裕もなかった。
「どけ! こんなこと絶対許されない! 許さないぞ!」
 僕は渾身の力をこめて、目の前の男に突進した。続いてジョージとミックも体当たりをし、さらに二つの人影が飛びこんできた。ロビンとロブだ。たぶん廊下から見ていて、彼らも危機を感じたのだろう。
 僕らは夢中で友の救出にかかり、さらに騒ぎに気づいた警備員が駆けつけるに及んで、やっと相手も手を離した。エアリィは解放された直後には、完全に気を失っていた。まさか間に合わなかったか、と青ざめながら「おい、大丈夫か!」と頬を叩いたり揺さぶって、ようやく目を開いた時には、僕らはへたり込みたいほどほっとした。彼は起き上がろうとして、激しく咳き込んだ。その咳き込みは止まらず、のどに手を当てて、立ち上がることも出来ずに、その場に蹲ってしまう。大丈夫ではないことはわかっていても、僕らは相変わらず、「大丈夫か?」としか言えない。
 気づけば、メインアクトの人たちは、一人残らず姿を消していた。
「あの、どうしたのですか? 大丈夫ですか?」
 やっと騒ぎに気づいてやってきたらしい、警備主任らしき人がそう聞いてきた。
「いや……ええ、大丈夫です。お騒がせして、すみません」
 ロブが首を振り、そう答えた。
「では、もうすぐ開場しますので、バックステージにお戻りいただけませんか」
「すみません。我々はこれからセットアップしなければなりませんので、あと十五分ほど開場は待ってもらえますか?」
「わかりました。できるだけ速やかにお願いします。しかし……メインの機材もカバーされてないんですね。ステージの上も……」
 警備員の一人が、ステージに散乱した酒瓶や雑誌を見やっている。
「あれは、あの人たちのです。我々の方でまとめて、あとで向こうに持って行きます。機材のカバーはできないので、向こうのスタッフの方にお願いしてください」
 ロブがむっつりとした口調で、再び首を振った。
「いえ、片づけはこちらでやっておきます……大変ですね、あなた方も」
 警備員さんたちは、苦笑を浮かべていた。そして散らばった雑誌やビンを拾い、割れたビンの破片を片付け、空き瓶はごみ箱へ捨てると、中身のあるものや雑誌を持って出ていった。たぶんメインアクトの楽屋へ届けに行ったのだろう。同時に向こうのスタッフが機材に銀色のカバーをかけ、僕ら側のスタッフやクルーたちがその前に、あらかじめ楽屋で組んでおいた機材を運び込んでいる。
 ここにいるとセットアップの邪魔だが、他にはどうしようもない。スタッフやクルーたちの方も心配げに、「どうしたの?」「大丈夫?」と聞いてくる。それに対して、エアリィは頷こうとするが、それもなかなかままならないようだった。ロブが「事情は後で説明するから、悪いけれど、セットアップを急いでほしい」と彼らに要請し、ミックが「それと、音出し確認とバランス調整もお願い」と、言いたしていた。

「エアリィ、立てるか? 楽屋へ帰らないと」
 ようやく咳の発作がいくぶんおさまってきた頃を見計らって、僕はそう呼びかけた。彼は黙って頷き、ふらつきながらも立とうとした。僕は手を貸し、ジョージと二人で支えて楽屋へ向かった。息をすると、まるで喘息の患者のように、ヒューっと喉が鳴る音がする。気道がうっ血して、少し通りが悪くなっているのだろう。その状態で、ステージに出られるだろうか。いや、それより発声器官は大丈夫だったのだろうか。そんな懸念は感じたが、僕にはどうしてやりようもない。
 エアリィは楽屋に戻ると、倒れこむようにソファに座った。顔色は普通に戻ってきたが、首にはっきり手の跡がついている。地色の白さとその真っ赤な跡が、恐ろしいほど鮮やかなコントラストだった。彼はその上から自分の手を当てて、両手でのどを包み込むようにしたまま、目を閉じてうつむいていた。
「大丈夫か? 声が出ないのか、エアリィ?」
 僕はかがみこんで聞いた。彼は僕をちょっと見、声は出さずに首を振った。そして数分間、そのままの状態で座っていたあと、ようやく、「ん……」と声を絞り出した。いつになくかすれた、押しつぶされたような声だ。「水……くれない?」
「スポーツドリンクでいいか?」ロブが差し出し、そして気遣わしげに言葉を継いでいた。「ゆっくり飲んで……息を整えろ。無理にしゃべろうとするな。のどは痛いか?」
 エアリィは差し出された飲み物を受けとり、一口飲んでから首を振った。それから大きく息をつくと、ゆっくりとしたペースで半分ほど飲んでからロブに返した。彼はのどに手をやり、もう一度深く深呼吸した。
「あ──」そして一、二度大きく咳き払いをした後、やっと普通に声が出た。
「大丈夫。なんとか収まったみたい。まだちょっとジンジンするけど」
「よかった。しばらくそのまま大きな声は出さずに、静かにしていろ」
 ロブがそっと背中をさすった。
「うん……」エアリィは頷いたが、それ以上は何も言わず、まだ痛むのか左手を首に当て、何か物思いに沈んでいるような表情を浮かべている。
「どうしたんだよ、エアリィ。まだ変なのか? それとも……」
 僕は言いかけたが、彼は首に手を当てたまま頭を振り、床に視線を落としていた。
「僕は……サイレーンじゃない……そうは、ならない。なりたくない……でも……」
 彼は一瞬大きく震えた。その眼は再び深い水面と化したように、光を失っていた。
『未踏の領域とは、業界には禁断の領域、タブーだ』とローレンスさんが言っていたことを、僕は思い出した。その禁を破ったことへの最初のしっぺ返し、痛烈な洗礼を浴びて、エアリィもようやく事の重さに気づいたのかもしれない。
「気にするなよ、奴らが言ったことなんか」僕はぽんと肩を叩いた。
「そうさ。連中、ちょっとトサカに来ていたんだろう。酔っ払ってもいたしな」ジョージも肩に手をかけ、労わるような口調で言う。
「大丈夫だよ。ねえ、あの人たちが言ったことなんて、気にしないほうが良いよ」ロビンも進み出てて、声をかけていた。
 そう、僕らは同じバンドの運命共同体、仲間だ。アーディス一人に孤独な戦いをさせてはいけない。これからも、なおさら激烈な戦いになるかもしれないのだから。僕は強くそう思った。ロビン、ジョージ、ミックと目があうと、彼らもまた同じことを考えているようにぎゅっと表情を引き締め、頷いていた。
「あと四十五分で僕らの出番だ。出来るかい? それとも主催側に頼んで、少し開演を遅らせてもらおうか?」ミックがそっと背中をさすり、優しい口調で問いかけた。
「大丈夫……できる。開演遅らすと、また騒ぎになると……いけないし」
 エアリィは顔を上げ、僕らを見て、首を振った。
 そう、三日前ニューオーリンズでの公演時、二十分ほど開演時間が遅れた。幹線道路で起きた事故の影響で観客の到着がいつもより遅れたため、少し開演を待ってほしいと主催者に要望されたからだ。その分、短く切り上げるべきかを主催者に聞いたところ、『いえ、通常演目でやってください。短く切ったりしたら、観客が暴動を起こしかねないですし』と言われたため、いつものセットリストでやった。当然その分、向こうの開演時間が遅れたわけだが、それをお詫びに行こうとしたら、向こうの楽屋の手前で門前払いされた。『君たちが来ると、かえって刺激するから、悪いけれど戻って』と、向こうのスタッフさんに、いくぶん同情気味に言われた。その後、彼らはふてくされたのか、一時間以上も遅れてステージに出たらしいが、そのころには観客は九割以上帰ってしまい、ガラガラの客席に向かって三十分ほど演奏して、終わったという話だった。それもたぶん、彼らをここまで狂わせてしまった理由の一旦なのかもしれない。
「無理するなよ。前の開演遅れも俺たちのせいじゃないが、今度はどう言い訳をしようと向こうが悪いんだからな。殺人未遂で訴えられても、文句は言えないんだぞ、向こうは」ジョージが気づかわし気に言い、
「そうだ。あんな目に合ったんだから、あとに響かせないようにしないといけないぞ」と、ロブも憤りを隠せない表情だ。
「うん。でも大丈夫。もう、かなり治ったから」
 エアリィは深くため息をつくと、再び僕らを見て、かすかに笑った。その眼に、再び光と明るさが戻った。「ほんと、心配かけちゃって、ごめん。それに、助けてくれて、ありがと。一瞬、ほんとに殺されるかと、思った……」
「いや、僕が変なタイミングで声をかけたのも悪かったよ。ごめんな」僕は思わず謝った。
「そんなことないよ。ジャスティンは僕に警告してくれたんだし」
「そうだよな。そもそも、おまえが状況を見ずに出るから、危ない目にあったんだぜ。おまえはな、自覚した方がいい、もっと。あんなに明らかに酔っ払っていて、しかも怒っている相手に向かうのは、本当に危ないぞ。だからこれからは気をつけろ」ジョージがぽんとその背中を叩く。
「相手を見ろ、ってこと? うん……怒ってるな、とは思ったんだけど、だから謝らなきゃ、とも思っちゃったんだ」エアリィは首を振り、立ち上がった。
「スカーフ探さないと。このままだと、ちょっとやばいから」
「そうだな、前列の客には気づかれるかもな、その首のあとは」僕は苦笑する。
「ライトでカバーもできるけど……でも、スクリーンもあるしね」
 エアリィはクロゼットを探しながら、ふと考えこむような表情で、こう続けた。
「けど、もう……これ以上、あの人たちと一緒にツアーしないほうがいいのかな」
「そうだなあ。また何かされたら困るしな……」ジョージが言いかけた。
「じゃなくて、あの人たちがこれ以上壊れたら、いやだから」
「ああ。向こうも相当参っているからなあ」
 僕は頷きながら、そうかもしれないと思った。最初に挨拶に行った時には、彼らのステータスにもかかわらず、気さくな良い人たちだと思えたのに、三週間であそこまで狂気に変えてしまった。そのことに、改めて罪悪感に近いものを感じた。そう、ツアーが始まって、まだ三週間しかたっていないのだ。これからまだ二ヶ月も予定が入っているのだが、彼らの精神状態で、そんなに耐えられるだろうか。それに常に腫れ物に触るように神経を尖らせていなければならない感じと、サウンドチェックの時間がもらえないために、毎回開場時間が遅れるプレッシャー。さらにチェックする時間がほとんどないために、いつステージトラブルに見舞われるかわからない。僕らの方だって、参りそうだ。
「それはそうなんだが、我々の方から降りるわけにはいかないだろうな」ロブが肩をすくめた。「ヘッドライナーの了承がない限り、サポートは下りられないからな。とんでもない違約金を請求される。まあ、今だったら、彼らも喜んで了承してくれるかもしれないが」
「ああ……そうだと良いけれど」僕らは顔を見合わせた。
「うまく円満にサポートを降りられたら、結果的にツアーが一ヶ月足らずで終わりになっても、レーベルもまあ、文句は言わないだろう。なんといっても、アルバムの出足が爆発的に良いからな」
「そんなに?」僕は思わず問い返した。
「ああ。ネットと放送メディアの初期露出で、発売二週目で一気にブレイクした。今は三週目なんだが、カナダ国内でもアメリカでも、シングルアルバムともに一位になっている。イギリス、アイルランド、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、ドイツ、フランス、スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、ポーランド、チェコ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン……その他にも、多くの国のチャートで、もうすでにトップになっているんだ。見てみるか?」
 ロブはバッグの中から音楽誌を取り出し、差し出した。僕はチャートを確認し、軽い驚きに見舞われた。他の四人も同じような表情だ。
「そもそもシングルの『Evening Prayer』のビデオクリップを、公式サイトとネットの動画サイトで、アルバム発売と同時に公開したんだが……ああ、CTVの音楽ステーションでもな。その反響が、どこもとてつもなく凄まじかったそうだ。そこから火がついた。さらに発売日から五日後、動画サイトにフルアルバムがファンによって公開された。本来はけしからんことだが、それがさらに起爆剤になったらしい。それを聞いた人がCDを買いに走り、ネットや口コミで連鎖が広まって、二週間で一億近い再生数をたたき出し、今もとんでもない勢いで増え続けている。そしてCDはあっという間に完売し、レーベルは慌てて増産をかけているところだという。ローレンスさんが言っていたが、ほんの少しの露出さえ与えられたら、たちまち爆発するだろうと。まさにその通りだった。おまえたちは今、爆発しつつあるんだ」
「すごい言い方。なんか僕ら、爆弾みたい」エアリィはちょっと笑って肩をすくめていた。
「いや、おまえは爆弾だよ、たしかに」僕は思わずそう言おうとして、やめた。モンスターだのサイレーンだの、あげくにダイナマイト扱いされたら、彼としてもいやだろう。他の三人も同様に思ったらしく、目を見交わして苦笑していた。

 とりあえず、もうしばらく様子を見て、状況がますますひどくなるようなら、ヘッドライナー側にサポート降板を申し出てみよう。たぶん僕らはみなそんな思いを抱いて、ステージに向かった。そして予定通り(激しいアンコールの声が、いつも僕らを引き留めるように鳴り響いていたが、予定時間をオーバーすると、またヘッドライナーとの間に余計な摩擦を引き起こしてしまうため、それに応えることはできなかった)ステージを降り、楽屋に引き揚げた。シャワールームで汗を洗い流し、普段着に着替え、ソファに座って、ビールを一杯、といきたいところだが、僕ら年少の三人はソフトドリンクだ。カナダではロビンと僕はアルコールを飲めるが、アメリカでは、ほとんどの州でまだダメだ。それゆえ僕はコーラかジンジャエール、エアリィとロビンは炭酸があまり好きではないらしく、フルーツ系のジュースが多い。ほっと一息入れ、でもメインアクトの出番まで待って、彼らの演奏を見聞きするのは、なんとなくつらい。その前に引き揚げよう──そう思って帰り支度を始めたころ、楽屋のドアがあわただしくノックされ、主催側の関係者が飛び込んできた。
「ああ、まだいてくれた。よかった……大変なことになったんですよ!」
 エージェントの担当者は真っ赤な顔をして、息を弾ませていた。
「いったいどうしたんですか?」ロブの問いに、主催者は答えた。
「メインアクトがツアーを放棄してしまったんです。メンバーたちは、あなた方の演奏中にホテルへ帰ってしまったらしいです。『もうこれ以上はできない』と。今、セットチェンジでなく、クルーたちは機材の撤収を始めています。向こうのマネージャーが、これで全米ツアーを打ちきりにすると、一方的に通告してきて……残りの日程は、全部キャンセルだそうです」
「ええ?」
「このツアーのチケットは完売しているのに、困ってしまいましたよ」エージェントの人は、心底困惑した表情だ。
「そうですね。それにしても、ずいぶん突然でしたね」ロブが同情に耐えないという風情で頷いている。
「まあ、メイン目当てに来ている人たちでさえ、ほとんど全員サポートに持っていかれて、しかもこれから先のチケットは、かなりの数がツアー開始後に売れているのですから。控えめに見積もっても、半分近くは、最初からあなたたち目当てですよ。現に今だって、出演直前にメインアクトが突然降りたというのに、観客たちは騒ぎもしないんです。『エアレースが観れたからいい』と、あっさり引き上げはじめています。そもそもかなりの数が、あなたたちのショウが終わったあとで帰っていますしね。まあ、ヘッドライナーの出番から来た人たちは納得がいかないようでしたが、全体で数百人くらいですから。こんな調子なら、よっぽどあなたたちをヘッドラインに昇格させて、ツアーを続行してもらおうかと思ったくらいですがが――そう、向こうの陣営も、そんなことを言ったらしいですね。『あいつらをヘッドラインにしたらいいだろう!』と。しかし、それはさすがに掟破りですしね。彼らのファンだってチケットを買っているわけですし。あなたがたのステージを見てからなら納得しても、最初から彼らは出ないとわかっていると、やっぱり釈然としないでしょうからね」
「そうですね。では、今夜でツアーは終了なんですね。残念ですが」
「ええ。そういうことになります。つきましては明日、事後処理をしたいと思いますので、十二時ごろホテルの第三小会議室においで願えませんか。詳しいことは、朝連絡します」
「わかりました」
 主催者とロブのやり取りを聞きながら、僕らも悟った。波乱のツアーはたった三週間で、唐突に幕を下ろしたのだと。僕たちがヘッドライナーを“殺して”しまい、彼らがそれに耐えられなくなって、もう二度と立ち上がれなくなるほどひどいダメージを追う前に(いや、もう限界だったのかもしれない)、ツアーを放棄してしまった。
 良心の呵責も多少は感じるが、やっぱり僕らのせいだと言われても困る。運が悪いめぐり合わせとしか言いようがない。こんなことになるのだったら、会場がアリーナからホールになっても、最初から僕らだけのツアーを、敢行するべきだったのだろうか。過去二枚のアルバムともに、ある程度良いセールスを記録している僕たちだ。やろうと思えば、最初からヘッドラインツアーはできた。アリーナツアーのサポートにこだわる理由はなかったのだ。方針を決めたのはマネージメントだが、僕らも希望を出すべきだったのでは。そんな後悔もちらりと感じたが。でも今となっては、すべて後の祭りだ。なんとも後味の悪い終わり方だった。

 翌日、僕らもロブに同行して、主催者との事後処理会議に出た。ヘッドライナー側からの出席者はなく、主催者側の人たちと僕らだけだった。お昼の時間帯なので、コーヒーとオレンジジュースのほかに、サンドイッチとカナッペの軽食が出た。それをつまみながら、会議は行われた。
 主催者側の人たちは、僕たちに説明してくれた。ギャラは昨日の分まで払う。僕らに非はないので、違約金などの賠償責任はない、と。逆に少しなら損害金をヘッドライナーに求められるが、と言われたが、僕らは辞退した。ヘッドライナーの人たちに対し、やはり多少の同情を禁じえなかったので、これ以上彼らにダメージが及ばないよう、あまり高い違約金を請求しないで欲しいと、主催者に頼んだりもした。
「ああ、妥当な額を請求する予定だよ。しかし、こう言ってはなんだけれど、君たちもずいぶん人がいいね。君たちに非はない。むしろ被害者だろうに。なぜ、そんなに彼らを気にかけるんだい?」
 事後処理のためにこの日ニューヨークからやってきたらしい、エージェントの責任者で副社長でもあるハリー・メイビス氏が、いくぶんあきれ気味に僕らを見た。
「なるほど。君たちはたしかに大ウケしすぎた。完全にヘッドラインを食ってしまい、ツアーをのっとってしまった。だが、だからなんだって言うんだい。この業界は受ければ勝ちだ。サポートに食われてしまうヘッドラインが情けないだけだ。非情に聞こえるようだが、それがこの世界だよ」
 彼は身体と同じようにずんぐりした短い指を動かして懐からタバコを取り出し、かちりと火をつけると、口ひげの下から深く煙を吐き出した。
「連中は、最初から君たちをなめていたのだろう。君たちの評判を聞いて面白く思わなかった彼らは、自分たちのファンの洗礼を浴びせ、ブーイングさせてステージから追い払おうとしたようだ。しかし、完全に裏目に出たようだね。自分たちが逆に、追い払われる羽目になったわけだ。初日はまだ、観客の二割くらいは彼らの出番から来たから良かったんだが、それでも君たちのステージを見た彼らの観客は、ほとんどが途中で帰り、結果的に君たち側にシフトしてしまったようだ。それがSNSや掲示板などでだんだんと拡散され、彼らのファンたちの間で、ひと騒動起きていた。彼らの出番から来ようとしていたファンたちも、その騒動で『本当なのか? 自分はそんなことには絶対ならない。ブーイングしてやる』と、君たちの出番から行き、君たちの出演時には会場はほぼ満員。そして向こうのファンたちは返り討ちに会い、すっかり君たちの音楽に感銘を受けて、逆に連中が今まで愛好していた音楽が、急につまらなく感じるらしい。それでヘッドライナーになって客が半減し、しかも途中で帰る。そのことがネットで拡散され、ますます騒ぎが広まる……実際彼らのコミュニティでの、その騒動は私も見ていたよ。なかなか面白かったね。彼らは、マネージャーも含めて、君たちの今度の作品を聞いてはいなかったんだね。そうでなかったら、君たちをサポートに、などと考えるわけがない。それほどにあれは素晴らしい。そして君たちは元々、ライヴに定評のあるバンドだ。どれほど連中が自信過剰に陥っていたとしても、あれを聴いていたら、とてもそんなリスクを犯そうなどとは、思わないはずだからね」
 僕は驚きとともに、どう返事をして良いかわからず、他の四人の顔を見た。彼らも同じように感じているらしく、当惑気味に見返してくる。意外な思いがした。相手の最初のフレンドリーさの裏に、そんな意図があったとは。だからよけいに、思わぬ展開に焦ったのだろうか。なんとなく、相手に感じていた同情が薄れた。
 メイビス氏はタバコをふかしながら、言葉を続けている。
「それにしても、君たちには大いに将来性があるよ。このツアーで出した損害を回収して余りある成果が、期待できそうだ。どうだね。君たちのツアー予定は、どうせこれから組み直さなければならないのだから、我々のもとでヘッドラインツアーを敢行しないかね?」
「えっ?」僕らはいっせいに声を上げ、顔を見合わせた。
「ちょうど、おあつらえ向きに、スケジュールがあいているんだ。いや、このツアーのではないよ。これは彼らのツアーだから、いくらなんでもヘッドラインをすげ替えて、続行するわけにはいかない。とりあえず残り日程はキャンセルで、このツアーは正式に終了だ。向こうのマネージャーが、昼前になって泣きついてきたがね。もう一度チャンスをくれ。夏あたりにもう一度ツアーを打ちたい、と。このツアーであんたたちはさんざんやらかしてくれたが、もうそんなことはしないと誓約を入れて、さらにギャラ比率も十五パーセントダウンでいいなら考えようと、言っておいたがね」
「さんざんやらかして……とは?」ロブがそう問い返した。
「それは君たちの方が、良く知っているのじゃないかい?」
 メイビス氏はかすかに眉を上げ、少しおどけたような表情を作った。
「セントルイス公演から、ずっと開場時間が遅れている。五回連続でそれが続いた時、我々はいったいなぜだ、と現場に問い合わせた。そうすると、ヘッドライナーがいつも開場時間ぎりぎりまで、だらだらとサウンドチェックをしているから、サポートのセットアップ時間が無くなってしまうためだ、と、どの会場でも言ってきた。それで私は社員を派遣して事実を確かめさせ、それが本当だと確認してから、開場時間の最低でも二十分前にチェックを終わらせろ、と注意させた。そうしたら、向こうのメンバーが彼を殴ったんだ。それで私は昨日の昼間、マネージャーに電話して、厳重注意した。ついでにニューオーリンズで、開演を一時間遅らせた挙句に三十分で切り上げた件でも、文句を言ったんだ。昔はたしかにそれが売りのバンドもいたが、あんたたちもその仲間かね、と、やや皮肉を交えてね。そうしたら向こうのマネージャーは言った。すまない。しかし、メンバーたちのメンタルが最悪になっている。サポートを変更はできないか、と。私は返した。馬鹿を言うな。今や半分は向こうの客だぞ。どれだけ払い戻しが来ると思うんだ、と。しかし本当に昨日の今日で、このざまだ」
 ああ、だからサウンドチェックが遅いと主催に告げ口したのは僕らなのか、と相手が言ったのか。会場関係者たちはさりげなく見ているのだから、わかってしまうのに――。
「まあ、たしかに我々の方も、いろいろ大変でしたが……では、ヘッドラインツアーの件は……どのようなものなのですか?」ロブが心もち身を乗り出して聞いている。
「ああ。三月下旬からのツアーが一つ、キャンセルになったんだ。一ヶ月ほど前に、本来のバンドのシンガーが病気になってね。それも入院の必要な重病で、治ることは治るんだが、二ヶ月くらい入院が必要らしい。ステージに立てるようになるまでには、もう二ヶ月ほどかかるから、復帰は早くて五月頭になるらしい。それで回復を待つか、かわりを見つけるかで、メンバーたちとマネージメントは長いこと議論していたらしいが、結局待つことになった。ほんの三日前に、その連絡が入ったんだよ。これからキャンセル手続きをしようと思ったんだが、ちょうどいい。君たちが使わないか、このスケジュールを」
 メイビス氏は僕らのほうにスケジュール表を押しやった。一時代前にマルチプラチナセラーを出した、かなり有名なアーティスト名が冒頭に書いてあったが、赤線で消されていた。三月二五日、バンクーバーを皮切りに、六月十九日、アトランタで終わっている。二、三動一休くらいのツアーペースで、会場はアリーナと野外のアンフィシアター。小さめのところもあるが、これは完全にアリーナクラスのメジャーツアーだ。
「いきなりこれって……大丈夫ですか?」僕たちは声を上げた。
「大丈夫だろう。今の君たちの勢いなら」メイビス氏は、にやっと笑っている。
「承知してくれたら、我々も会場をキャンセルしなくてすむから助かるよ。君たちだって、これからツアーを一から組みなおすと、ゆうに二ヶ月くらいはロスしてしまうから、それよりはいいだろう?」
「ええ、それは本当に願ってもない話ですが……」ロブがいくぶん興奮気味に頷いていた。「レーベルとマネージメントに図ってみなければなりません。もちろん、きっと両方とも願ったりかなったりだと言うでしょうが。少し時間をください」
「では、明日の午前中に返事をくれたまえ。こっちも手続き上、急ぐからね。待遇やギャランティーなどの詳しい話し合いは、その時にしよう。私は夕方NYに帰り、明日は朝十時からオフィスに出ている。これが連絡先だ」
 メイビス氏は名刺を一枚取り出して、ロブに渡した。
「このツアーは去年の十一月に公式アナウンスされていて、今年の初めからチケットが売り出されていたので、そっちの払い戻しは、しなければならないんだが……とりあえず、二つのツアーのチケット払い戻しで、相当これから忙しそうだな。まあ、どっちにしろ、こっちの売り上げは芳しいとは言えなかったから、アリーナは二階を閉鎖した最小シーティングにして、野外会場はローンエリアを閉鎖しようと思っていたんだ。でも君たちだったら、両方とも解放でいけるだろう。三月なら、とくにね。OKとなったら、状況が許せば追加公演をいれるかもしれないから、実際の日程は多少これよりもきつくなるかもしれないが、大丈夫だね?」
「え……ええ」僕らは目を見交わしあいながら、頷いた。三月の情勢がどうなっているかはわからないのだから、気の早い話だ。どちらかといえば、その最小プランで行った方が無難な感じではあるのに。
「サポートアクトを入れるなら、もともと本来のほうも未定だったのだから、そちらに人選はお任せする。マネージメントや配給レーベルと相談して、知らせてくれればいい」
 メイビス氏の言葉に、ロブが「わかりました」と、頷いている。いよいよ僕らもサポートをつける立場になったのか。とくにこれといって入れたい人はいないが。




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