The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(2)





 夕方、僕はステラを伴って実家へ行き、母が開いてくれた婚約パーティのメインゲストとなった。その席上、結婚式の暫定的な日が決められた。五月四日と。もちろんステラの両親の都合もあるので、変更もありうる。でも、とにかく五月の休み中に式をあげることだけは、動かないだろう。まだかなり先ではあるが、準備期間はあるようでない。僕がフルに動けるのは、あと四日だけだ。その後はリハーサルがあるので午前中しか空かず、それが終わると四月まで、全米ツアーがあるのだから。

 翌日のお昼すぎ、インターフォンのチャイムが鳴った。僕のアパートメントは外から誰かが来た場合、玄関ホールのドアを部屋の中から開錠しないと、中に入れない。いわゆる、オートロックだ。モニターを覗くと、パーレンバーク氏の顔が大写しになっている。
「開けろ……!!」強い調子で、うなるような声が聞こえた。
 ステラの父親がどうして、僕の部屋を知っていたのだろうか。ステラが教えたのだろうか。どっちにしても、夕方会いに行く予定だったが、その前に向こうから来るとは。
 アパートメントの正面ドアを開錠して二、三分後、玄関のチャイムが鳴らされた。繰り返し、性急に。僕は急いでドアを開けた。
 玄関前には、パーレンバーク氏だけでなく、夫人も立っていた。
 ステラの両親とは、まだ僕らの付き合いが許されていた頃、何度か顔を合わせたことがあるが、あの頃から、さして外見は変わっていない。パーレンバーク氏は堂々たる体格で(でっぷりなどとは言うまい)、僕と同じくらい上背もある。渦を巻いた茶色の髪は半分ほど白くなり、青い目は色だけステラの瞳に似ている。彫りの深い顔立ちに口ひげを蓄え、若い頃はけっこうハンサムだったのではないかと思わせる顔だ。濃いグレーのセーターにカーキ色のフランネルズボンという普段着だが、雪が降りしきる寒い日なのに、コートもなしだ。夫人の方も、やはり上着を着ていない。薄紫色のニットのツーピースだけだった。彼女は小柄だが、横幅は夫に負けないほどある。形よく結い上げている金髪は、ここ数年かなり白が混じって、濃淡模様になってきていた。まつげが薄いため、剥き出しのように見える目は薄い灰色で、鼻は多少鉤鼻、口は薄く引き締まっている。二人とも血色の良い顔色だったが、この時は真っ赤を通り越してどす黒くさえなり、肩でせいせいと息を切らしていた。
「あ、こんにちは。よくここがわかりましたね。実は今日、うかがおうと思っていたんですよ。お入りください」
 だが、二人ともなお真っ赤な顔をして、ドアのところに立ったままだ。燃えるような目で僕をにらみつけ、何も言わない。と、突然父親がつかみかかってきた。
「きさま……!」明らかに憤怒に詰まった声を発しながら、がっしりとした手で、やにわに僕の襟首をつかみ、ぐいぐいと揺さぶってくる。「よくも、よくも、うちの娘を……」
 あまりの勢いに、一瞬絞め殺されるのではないかと恐怖を感じたほどだ。僕は力をふり絞って手をもぎはなし、一歩後ろに下がった。パーレンバーク氏は一歩踏み込んで、再び手を伸ばす。僕はとっさに相手の手首をつかんだ。
「とりあえず、中に入ってください。外で騒ぐと、他の部屋の人たちに迷惑ですし、管理人さんが来てしまうかもしれませんから」
「離せ、汚らわしい!」氏はうなるように言うと、僕の手を振り解き、渋々という感じの足取りで、中に入ってきた。夫人もそれに続く。彼女は泣いているらしかった。目や鼻は真っ赤で、何度もしゃくりあげている。  これではテーブルについて冷静な話し合いなんて、出来そうもないな。ため息とともにそう感じながら、僕は二人を見た。パーレンバーク氏はリビングに仁王立ちで、夫人のほうはその傍らに立ち、ハンカチを取り出して目に当てながら、鼻をすすり上げている。
「座ってください。お茶でもいれますから」
 言うだけ無駄だとは思ったが、一応そう言ってみた。
「いらん!」パーレンバーク氏は一言のもとに切り捨て、腰に手を当てたまま、僕をにらみ据えた。「きさまの部屋になど、来たくはなかった! 汚らわしい! きさまはここに、娘を何度引き込んだのだ? 私たちの大事な子を。たった一人の娘を。愛らしく、汚れを知らず、白いユリのように育てと願いを込めて、そのとおりに育ってくれていたのに。きさまが、あの娘をたぶらかしたのだ。おのれ! 許さん、許さんぞ!」
「あの……いったい、どうされたのですか」
「とぼけないで!」パーレンバーク夫人が悲鳴のような声を上げた。
「あなたが娘に何をしたのか、知っているのよ! みんな知っているの! これはいったい何?!」
 夫人はハンドバッグの中から何かを取り出し、ぱさっとテーブルに投げてよこした。ああ──僕は彼らの憤激の原因を知った。一昨日病院でだした小冊子だ。
【妊娠と出産のガイドブック  セント・テレジア総合病院産婦人科】
 実家の病院名は、創業した先々代、僕にとっては曽祖父に当たる人が、病院の名前としてRollings(転がるもの)というのはあまりふさわしくないだろうと、尊敬している聖テレサにちなんで命名したらしい。裏表紙にはステラの名前、初診日付と出産予定日が記入されている。
「探し物をしているうちに、これを見つけたのよ。あの娘が切手を持っていないかと思って、引き出しをあけたら……」パーレンバーク夫人は、声を詰まらせていた。
「なんということでしょう。そんなことがあっていいのかしら。おお、神さま……」
「そのことについて、お話しようと思っていたんです」僕は努めて冷静に話そうとした。「今日ステラがカレッジから帰ってきたら、都合を聞いてもらって、夕方お宅にお邪魔しようかと。そして、その話をしようと思っていたんです。決して隠していたわけではありません。僕はステラと、結婚の約束を……」
「黙れ!!」パーレンバーク氏が雷のような声で遮った。
「結婚だと?! 誰が認めるものか! きさまのような風来坊と、うちのかわいい娘を結婚させるなど! きさまは悪魔だ! その色男づらと一見紳士的な物腰で、何も知らないうちの娘をたぶらかし、たらしこみ、そしてこんな……ステラは、まだ十九なんだぞ! ろくでなしめ! 娘は言っていたんだ。私たちは誤解している。職業はどうあれ、紳士なんだとな。それがどうだ! 紳士が聞いてあきれる! ステラは見事に騙されたんだ! きさまこそは最低の鬼畜だ!」
 氏はテーブルの上においてあったガラスの花瓶を引っつかみ、僕に投げつけた。思わず身をかわしてよけると、それは後ろの食器棚にぶつかり、がちゃーんと凄まじい音響を立てて砕け散る。食器棚のガラス戸と、中の陶器にも被害が及んだようだ。
「おちついてください。もっと冷静になって話し合ってください。僕の話を聞いて……」
 僕は前に飛び出して言いかけたが、無駄だった。
「うるさい!」パレンバーグ氏は吠え、また僕の胸ぐらを引っつかんだ。
「どうしてくれるんだ! 娘を傷物にして、あまつさえ、妊娠させるとは! あの娘の一生を、どうしてくれるんだ!」
「だから……ステラさんと結婚させてください。お願いします。できるだけの事はします。彼女を不幸になど、絶対させないつもりですから」
「黙れ! そんなことは聞きたくもない!」
 パーレンバーク氏は怒鳴り、腕に力をこめてきた。出来るだけ抵抗すまいと思ったが、あまりの苦しさに負けて、僕は再び彼の両手をもぎ離しにかかった。氏は僕の父親と同じくらいの年配のはずだが、元々力持ちなのか、それとも憤激が思いもかけないパワーを発揮しているのか、なかなか完全に引き離すことができない。
 渾身の力を振り絞って、やっと腕を引き離そうとした瞬間、電話が鳴った。
「あっ……」ステラだろうか? 彼女も学校から帰ってきている時間だ。
 電話を取ろうとして手を伸ばしかけた瞬間、パーレンバーク氏は激しく僕を突き飛ばした。僕は後ろのキャビネットに叩きつけられ、反動で床に倒れこんだ。投げられた花瓶の破片、壊れた食器棚のガラス戸、さらにまた半ば割れたガラスの中へ突っ込んでしまったために、頭や手に破片が刺さったようだ。こめかみから頬へ流れる血を感じた。右手に刺さったガラスのかけらでできた傷から、血が流れ出すのも。
「金輪際、娘に近づくな! 今度近づいたら、本気できさまを殺すぞ!」
 パーレンバーク氏は怒鳴っている。電話はいつのまにか鳴り止んでいた。
「どうしてですか!」僕はたまらず声を上げた。「僕らは愛し合っているんです。お互いがお互いを必要としていて、一緒にいたいと思っています。こんなことになってしまったのは、たしかに僕が軽率でしたが、でも僕たちは本当に愛し合っているし、ステラのお腹の中にいる僕らの子供は、生きて育っているんです。その子のためにも僕らは結婚して、ちゃんとした家庭を持って迎えてやりたいんです。お願いです、認めてください! それで気が済むなら、この部屋の中のものを全部叩き壊したっていいし、僕も喜んで殴られます。ただ、認めてください。ステラと僕の結婚を。そのためなら、どんなことだってします!」
 僕は床に膝をつき、両手をついて、夢中で懇願した。難攻不落の砦、何を言っても通じない相手。だがここを踏み越えなければ、僕らは前に進めない。
「愛し合っているだと! そんな胸糞の悪いたわごとを、二度と言うな!」父親は、ますます激高するようだった。「ステラは、きさまに騙されておるだけだ!」
「僕は騙してなんかいません。真剣です。真剣にお付き合いをしてきたし、一時の情熱で結婚しようとしているわけでもありません。認めてくれなければ、ステラのお腹の子供は片親になってしまう。それとも、まさかあなたがたは、その子を堕ろせと……?」
「そんな恐ろしいことは出来ません。なんてことを言うの!」母親が首を振り、甲高く叫んだ。「私たちはカトリック教徒よ。たとえ不本意な子供でも、生むしかないじゃないの。どこか……遠くの町へ行って、人知れず。子供はすぐ養子に出して、私たちは三人でドイツかアイルランドに戻るわ。ここにいては、あなたに会ってしまう。私たちの故郷なら、あなたから引き離しておくことが出来る」
「なっ……」僕は絶句し、そして、思わず憤激のあまり声を上げた。「なんてことを! ステラは絶対、承知なんかしませんよ。あなたがたはステラの幸福がどうのこうの言うけれど、結局彼女の幸福なんて、どうだっていいんだ。なぜそんな親のエゴで、ステラを縛ろうとするんですか? めちゃくちゃだ!」
 しまったと思ったが、もう遅い。父親の顔はますます憤激でどす黒く染まり、母親のほうはヒステリックな悲鳴を上げて、泣き出している。
「あんまりだわ! あんまりよ! 私たちの家庭をめちゃくちゃにしておいて、私たちの幸せをことごとく踏みにじっておいて、この男はこんなことをぬけぬけと……」
「言いすぎたことは謝ります。でも、ステラのことも考えてください。僕はステラにプロポーズした。ステラは承知してくれた。うれしいとも言ってくれた。そんな彼女を無理やり僕から引き離して、生まれた子供をすぐ養子に出してしまうなんて、そんなことをしたら、ステラがどんなに悲しむか……あなたがたは、考えたことはないんですか?」
「そりゃ、ステラは悲しむだろうさ。最初のうちは。だが、きさまに騙されていたことがわかれば、目がさめれば、かえって私らに感謝するだろう」
 パーレンバーク氏は轟然と言い放つ。僕は再びかっとなった。
「どうして僕に騙されているって、決めつけるんです! 僕は真剣です! 本気で彼女を愛しています。ステラだって、わかってくれた。なのに、なぜ……僕がロックミュージシャンだから、いけないのですか? 僕が医学部の学生だったら、将来父の病院を継いだら、あなたがたはステラとの結婚を、認めてくれるんですか?」
「そうだな……」氏は仁王立ちしたまま、僕を見下ろした。
「そうだったら、考えてやらんでもない。もっともまだ二十歳にもならん生娘を、たぶらかして妊娠させるという不道徳は、許し難いが。よかろう……」
 氏は台所へ歩いていき、何かを探しているようだったが、やがて戻ってきた。手には細身の包丁が握られている。僕は一瞬、刺されるのではないかと、身をこわばらせた。彼はそれを僕の前に投げてよこした。目の前にカランと音を立てて、包丁が転がった。
「きさまがその髪を切り、手を刺して、二度とギターなど弾けなくするならば、それで、もう一度医学部に入り、あの病院を継ぐならば、娘との結婚を考えてやってもいい。どうだ?」パーレンバーク氏の青い目には、酷薄な光が燃えていた。
「そうですね」と頷いた、夫人の薄色の目にも。
 僕は呆然と、目の前に投げ出された包丁を見つめた。
「手を……手を傷つけたら、僕はメスも握れなくなります」
「内科医になればいい。それに、なにも利き手を刺さんでもいいわけだからな」
 どうしたらいい――ステラとの結婚を認めてもらうためには、僕は自分の生命とも言える音楽を、ギターを捨てなければならないのだろうか。そうすれば、ステラも喜んでくれるのだろうか。僕は包丁を手にとり、次の瞬間ぞくっと激しい震えを感じた。僕は包丁を床に投げ出した。出来ない。やっぱり、そんなことは──。
「出来ないのか。ならば、あきらめてもらおうか……」
 パーレンバーク氏がさげすんだように僕を見つめ、言いかけた、その時だ。
「やめて!」と、突然甲高い声がして、誰かが僕と氏の間に入ってきた。金色の髪に白い帽子をかぶり、紺色のコートを着たままのステラだった。彼女は頬を真っ赤にしていた。青い目は怒りをたたえてらんらんと輝き、きっと両親を見据えている。
「正気なの、パパもママも! なんてことを!!」
「ステラ……」夫妻は突然現れた娘に、すっかり度肝を抜かれたらしい。呆けたように見つめたあと、口篭もっている。「おまえ、いったいいつ、どうしてここに……」
「わたし、昨日ジャスティンからスペアキーをもらったのよ。それでカレッジが終わって、まっすぐここに来たの。地下鉄の駅から電話をしたのだけれど出ないし、留守かと思っていたのだけれど、一応行ってみようと思って。うちへ電話したら、パパとママは出かけていると言われたし。でも、アパートの前に家の車が止まっていたから、まさかとは思ったけれど……本当に、ここへ来ているなんて。ドアを開けたら、パパとママの声が聞こえるんですもの。わたしは耳を疑ったわ。わたしこそ、聞きたいわよ。どうしてパパとママがここにいるの? わたしはジャスティンの部屋を教えた覚えはないのに」
「知っていたさ……調べればわかることだよ、おまえ……」父親は一転しておろおろとした口調になった。
「調べさせていたのね、探偵か何かに!」娘は頬を深紅に染めて、きっと両親をねめつけた。「あの時、言っていたものね。わたしが夜帰らなかった時。お友達のところも、ジャスティンのところも、何も知らなかったから、連絡すらできなかった。知っておけばよかったって。だから、調べさせたんでしょう!」
 両親は何も言わなかったが、その目の表情は明らかにうろたえ、娘の言うことを肯定していた。ステラは激したように、言葉を継いでいる。
「わたしに赤ちゃんが出来たことも、何かで知ったのね? 卑怯じゃないの。わたしはジャスティンと結婚するの。もう決めたの! パパやママが許さなくても平気よ。もう十九なのですもの。結婚できるのよ。パパやママが認めてくれなくとも、結婚できるの!」
「ステラ……」夫妻は悲しそうな表情で、おろおろとしていた。
「おお、どうか怒らないでおくれ、ステラ。私たちはただ、おまえの幸せを考えて……」
 母親をさえぎるように、ステラは強い調子で叫んだ。
「だったら認めてちょうだい、ジャスティンとの結婚を! わたしの幸せを本当に考えてくれるなら、そうしてくれるはずよ! もし認めてくれないなら、わたしは家を出るわ! 今日のうちに荷物をまとめて、ここへ引っ越して……でも、ここはパパやママも知っているのよね。だから、新しいところを二人で探して暮らすの。もう二度と家には帰らないわ!」
「ステラや、ステラ!」パーレンバーク夫人は哀願するように、娘の足元にひざまずいた。
「おお、あなたはいつからそんな娘になってしまったの? 私たちを脅迫するの? 十九年間慈しみ、あんなにいとしんで育てたのに、その私たちをこんな男のために、いともあっさりと捨てると言うの? なぜ、あなたはそれほど変わってしまったの? あんなに良い子だったのに……」
 娘を見上げる夫人の顔は、顎まで涙に濡れていた。
「泣かないで、ママ……」
 ステラは悲しげにその姿を見つめ、それから母親の傍らにひざまずいた。
「ねえ、ママ、泣かないで。わたしもパパやママが悲しむのは、つらいの……」
「おお、ステラ!」夫人は娘の手を握った。
「あなたは優しい子よ。本当に、優しい子。それなのに、どうして私たちをこんなに悲しませるの? みんな、あの男が悪いのよ。ええ、そうですとも……」
「ジャスティンのことをあの男、なんていうのはやめてちょうだい、ママ」
 ステラは優しくもきっぱりとした口調で遮った。「彼はいい人よ、本当に。パパもママもわかってくれようとしないけれど、本当にいい人なの。たしかにロックミュージシャンという不安定なお仕事についてはいるけれど、でもずっとわたしだけを愛して、決して浮気なんてしないと言ってくれたわ。わたしも、彼を信じているの」
「ステラ、本当にそれが信じられるの? この人は本当に、あなたの信頼に足る人だと思うの? 本当に結婚しようとする男性なら、その家族のことを考えて、充分な経済基盤と将来の安定を手に入れようと思うのが、普通ではないの? それが男の責任というものでしょう。なのに、ロックミュージシャンなんて、堅実な男性ならなりませんよ。たとえ趣味はあったとしてもね」
「不安定な業界なのは、たしかに認めますけれど……」
 ステラは僕を振りかえり、首を振った。自分が両親を説得するから、僕は口を出さないほうがいいということだろう。たしかに今僕が何か言うと、かえって彼らを逆上させるかもしれない。僕は言葉を飲みこんだ。ステラは熱心に僕の弁護をしてくれた。両親は、納得しているとは言い難い表情だが、少なくとも僕が言うよりは聞いてくれているようだ。
「では、一つだけお伺いしますけれどね」やがて夫人は冷ややかな口調で、僕に向き直った。「今はその気がなくとも、もしあなたにたいした収入がなくなったら、あなたはステラや子供のために、家族の生活のために、今の浮ついた仕事をきっぱり捨てられますか? きちんとしかるべき職について、ステラに何の不自由もかけない生活を、保証できますか?」
「もしそんなことになったら、努力します。ステラや子供に生活の苦労をさせないように」
 僕は床に座り直し、夫人を見据えた。
「努力するだけでは困るんですよ。ちゃんと実現してもらわなければ。それに生活の苦労はもちろんですが、私たちが今まであの娘に与えてきたような暮らしを、保証してくれなければ困ります。そうでないなら、あの娘を結婚なんてさせるつもりはありませんよ」
「ママ、でも結婚するのは、わたしよ」
「私たちは、あなたのためを思って言っているのよ、ステラ」
「わかっているわ。でも、わたしは別に今と同じ暮らしでなくとも、住む家があって、普通に生活できるなら、かまわないの」
「でも、もしこの人が売れなくなって、収入がなくなったらどうなるの? あなたが働くなんて、とんでもないわ、ステラ。そんなことは、絶対許しませんよ」
「ステラを生活のために働かせたりは、絶対にしません。僕がどんなことをしても、働きます。家族の生活を支えるために、なんだってします」
「本当かね?」パーレンバーク氏が疑わしげに、じろっと僕を見た。
「ええ、約束します」
「どんなことをしても働くというが、工事人夫やダンプの運転手のような、いわゆるブルーカラーでなく、もちろん後ろ暗い商売でもなく、きちんとかたぎになって働くのでなければ、私は認めない。あんたは学歴もない。良くて親御さんの病院で、事務員として働けるぐらいが関の山だろう。それでは、たいした収入は期待できんぞ」
「もし音楽活動が思わしくなくなったら、僕も考えます。完全に収入が尽きる前に。資格を取るために勉強して、学校へ行きながら、病院で働けたら働きます。他にもっと良い仕事があったら、そっちへ行きます。ロビンやジョージの家の会社でも……彼らは同じバンドメンバーで、僕の親友ですが、スタンフォードグループの御曹司でもあるんです。もしバンドが上手くいかなかったら、二人は会社に戻ると思うんですが、僕ももし使ってもらえたら、一緒に働く選択肢もあると思いますし」
「ほう、そうなのか。あの成り上がりのスタンフォード一族が、あんたのバンド仲間とはな。それなら完全には、路頭に迷わないのかもしれないが……」
「お願いします。絶対に約束は守りますから!」
 僕は頭を下げた。スタンフォード家を成り上がりと言われたことはカチンと来たが、ここで文句を言ったら、よけいに話がこじれる。
「ね、お願い、パパ、ママ!」ステラは手を伸ばし、左手に父親の手を、右手に母親の手を握ると、懇願するような表情で両親を見上げた。
「お願いよ。パパ、ママ。わたしをジャスティンと結婚させて。認めてちょうだい。わたしのお腹には、わたしたちの子供がいるの。パパやママにとっても、孫でしょう? この子を幸せにしてあげたいの。パパやママがわたしをかわいがってくれたように。お願い」
 ステラの目は潤み、頬を伝って涙が流れ出した。彼女はもう一度言った。
「お願い、パパ、ママ……」
 パーレンバーク夫妻はしんから当惑したような顔をした。そして長い間娘の顔を悲しげに見つめていたが、やがて父親がため息とともに言った。
「しかたがない。それほど言うなら……好きにしなさい」
「ええ、そうね……かわいそうに、今は何も見えなくなっているのよ」母親もしゃくりあげながら言っている。
「あの、じゃあ……」
「ジャスティンと結婚しても良いのね!?」
 同時に問いかけた僕らだが、彼らは娘のほうだけを見て、渋々という感じで頷いていた。そして僕を見、父親が一転してきつい口調で言った。
「ただし、だ! 誤解するなよ。ここまでステラがのぼせ上がっているから、おまけに子供のこともあるから、やむをえず結婚を認めるだけだ。あくまで一時的なものだ。それには、条件がある。娘に決して生活の苦労をさせないことだ。ステラの信頼を裏切らないよう、あの娘を悲しませないよう、決して浮気などはしないことだ。それから、ステラをあんたの世界に巻き込んで、好奇心ばかり旺盛なマスコミの餌食にさせないことだ。それを今ここで誓わなければ、結婚は認めない」
「ええ、誓います」僕は頭を上げ、きっぱりと頷いた。
「忘れるなよ! もしきさまが約束を破ったら、娘はすぐに連れ戻すからな!」
「覚えておきます。ありがとうございました」
 とても友好的な承認とは言いがたいが、ともかく全面決裂という最悪の事態だけは避けられたことに、僕は心底ほっとしていた。

 僕は壊れたガラスや陶器を片付け、ケガしたところを応急手当し、床に散らばった破片を掃除してから、お茶をいれた。ステラは手伝おうとしてくれたが、「ケガをするといけないわ」と母親に押しとどめられ、僕も身重の恋人を気遣うべく、「君は座っていて大丈夫だよ」と言ったのだ。そうして、やっとパーレンバーク夫妻も話し合いのテーブルについてくれた。ただ、夫妻が僕を見る目は相変わらず鋭く、好意のかけらもない。見たくもないが、渋々対峙しているという感じだ。
「さて……ステラに生活の苦労をさせない。これが約束の一つだったな。まずは一つ聞こう。今のあんたの年収は? それに今、貯金はどのくらいある?」
 パーレンバーク氏が重々しい口調で、切り出してきた。
「パパ、そんなことを聞くのは、いくらなんでも失礼よ」ステラが抗議の声を上げた。
「わかっている。こんな不躾な質問は、他の人にはしないさ。だがこの男相手で、しかも大事な娘の将来がかかっているんだ。口だけなら、なんとでも言える。大事なのは現実の数字だ」
 僕は黙って引き出しを開け、通帳を取り出して、氏に差し出した。パーレンバーク氏はそれを開き、一瞬「おっ」と小さな声を上げて、目を見開いていた。
「以外とあるんだな。その年で」
「わりと成功できましたから。今のところは」
「そうか」氏は通帳を僕に返した。
「それなら、しばらくは大丈夫そうだな。そうだな……二年。そのくらいたって、まだあんたの年収が二十万ドルを切らなければよしとしよう。それが最低ラインだ」
「……わかりました」
 なかなか厳しい条件だ。僕の年齢で、そのラインは。今までの成功を続けていくことができれば楽勝だが、万が一うまくいかずに転職となったら、そこをキープするのは難しいかもしれない。いや、どんなにがんばっても、最低数年はダメだろう。仮にジョージとロビンの親の会社で働かせてもらえたとしても、彼らでさえ一番下からのスタートだと言われているのに。バンドが失速したら、そこで終わり――実質は、その条件と同じだ。でも今は、望みにかけるしかない。
「そして、もう一つ要望がある。あんたはプロテスタントだそうだが、うちはカトリックなんだ。改宗してもらいたい」
「あっ、はい。わかりました。すぐ改宗します」
 別に宗派のこだわりはないから、同じキリスト教ならかまわない。マインズデールもカトリック教会だったし。あまり関係はないが、そんな思いも掠めた。
「花嫁衣裳は、うちで用意しますよ。ステラには精一杯の支度をしてあげたいの」
 母親も渋々という感じではあるが、交渉のテーブルについてきた。
「ええ、それはもちろん。お任せします」
「それと、新居だが、こんな集合住宅ではいかん。子供が生まれるというのに、庭一つないのではかわいそうだ。一戸建てを用意しなさい。それも、あまり小さな掘っ建て小屋に、大事な娘を住まわせるわけにはいかんぞ」
「そうね。最低限六つか七つくらいのお部屋があって、パントリーもついていて、子供が遊べるようなお庭が欲しいわね。うちから近いところに。どうせこの人は仕事で留守が多くなるのだから、ステラが一人では何かと心細いでしょう。私たちのそばにいてくれれば、時々様子を見に行けるわ」
 夫妻の要望は、僕にはちょっと困惑させるものだったが、ステラは「それはすてきね」と目を輝かせている。
「わかりました。なんとかしてみます」
「子供は、うちでお産してちょうだいね」パーレンバーク夫人は、そうも言った。
「そうしていいの?」ステラがぱっと表情を輝かせてきくと、
「もちろんよ。初孫ですものね」と、夫人は手のひらを返したような応答をする。
「新居には、うちにいる家政婦のトレリック夫人とメイドを一人、手伝いに行かせるようにするわ。あなたに家事は出来ませんものね。それにあなたは大事な身体でしょう」
「ええ。でも、いいの? トレリック夫人がうちに来てしまうと、パパやママたちは困らないかしら?」
「スミソンズさんとメイドが一人残っているから、大丈夫よ。あなたがいなくなると二人きりですものね。寂しくなるわ」夫人は大きなため息をついてみせた。
 パーレンバーク家の家政婦が来るのか。ステラに生活の不自由はさせないと約束した手前、あからさまに反対はできないが、僕にはちょっと当惑する話だった。
「あんたと結婚することになったとしても、ステラの姓は変えないでもらいたい」
 さらに父親は、そんな要望を出してきた。
「えっ?」僕は思わず声を上げ、ステラの顔を見た。
「ええ……たしかにパパやママは、前からそう言っていたけれど……わたしが結婚する時には、姓は変えないって……やっぱり、そうしなければいけないの?」ステラは両親を見、問いかける。
「そうだ。おまえは我が家の、大事な跡取り娘なんだ」パーレンバーク氏は重々しい表情で頷く。「長年続いてきた、由緒正しき我がフォン・パーレンブルク家が、私の代で途絶えてしまっては、ご先祖方に申し訳ない。しかも、ローリングスなどという下世話な姓になるなど、我々には耐えられない」
「そうですよ。いつも言ってきたでしょう?」母親も断固とした様子で娘を見ている。
「……子供に継がせるというのも?」
「そうだ。前からおまえには言っていただろう、ステラ。本当は婿養子に出来る条件なら一番良かったが、たとえ次男でも、この男を我が家の籍に入れるなど、考えるだけで身の毛がよだつ。だから子供は、とりあえずこの男の姓になる。それはいたしかたない。しかし、おまえたちに生まれた男の子の一人を、その子が成人した時に私たちの養子とし、フォン・パーレンブルクを名乗らせる。男の子がいないようなら、女の子でもいい。その希望は変わらない。おまえも承知していたはずだ、ステラ。一番良いのは、さっさとこいつと別れて、別のもっと信頼できる良い男性、我が家の婿養子にふさわしい男と一緒になることなのだが、それは今のところ当てには出来ないのだから、しかたがない。それが我々の条件だ。さもなければ、この結婚を認めるつもりはないからな」
「ええ……」ステラは小さく頷き、僕の顔を見た後、再び目を伏せた。
 そうか。ひとり娘の宿命として、きっと彼女は子供の頃から、両親にその条件を言われていたに違いない。ただ結婚の話が急に具体化したために、言い出せなかったのだろう。できたら僕は、ステラと同じ姓を共有したい。子供にも、成人した時とはいえ、途中で姓を変えるようなことも強制はしたくない。第一、もしあの未来世界が本当ならば、その子が成人になる時まで、今の世界は続いていないだろう。しかし、とりあえずその問題は今、棚上げするとして――。
 ステラの両親が血統への誇りとこだわりを強く持っているなら、ステラもそれを昔から言われていたのなら、ここは、突っ張るべきではないのかもしれない。僕自身は自分の家とか姓に、そうこだわっているわけではない。ローリングスの家には兄ジョセフもいるし、僕が妻の姓を名乗ってもいいくらいだが、それはパーレンバーク夫妻に『考えるだけで身の毛がよだつ』とまで言われているのだから、他に選択肢はなさそうだ。
「わたしがフォン・パーレンブルクのままでも、ジャスティン・ローリングス夫人になることに変わりはないわ」ステラがためらいがちに言って、再び僕を見た。
「ああ。大丈夫だよ。君は君の姓のままでいても、僕らが夫婦になることには変わりないのだから。それに息子の一人を将来的に君の姓にすることも。僕ら二人の子供なんだしね」
「そうか……それなら、まあ……よしとしよう」
 パーレンバーク氏は微かに安堵の表情を見せて頷いたあと、言葉を継いだ。
「では、これが最後なんだが、せめて式の時だけは、その髪を切ってくれ。それにあんたの友達も、バンドの連中だけは招待せんでくれ。いや、ちゃんと髪を短くして、見苦しくない格好で来るならいいが、長髪のままちゃらちゃら来られると、非常に困るんだ。うちにも体面というものある。そんな婿や友達では、恥ずかしくて親戚など呼べん」
「えっ!」僕は思わずかっと血が上るのを感じた。そんな。バンドのみんなこそ──ロビン、エアリィ、ミックにジョージ──彼らこそ、僕の結婚式に誰よりも来て、一緒に祝って欲しい仲間たちなのに。ロビンには僕のベストマンを頼もうとしたのに。それに、まだツアーのインターバル中に髪を切ったら、その次のロードはショートカットのまま出ることになってしまう。スタイルにこだわるわけではないし、また伸ばせばいいと言ってしまえばそれまでだが、長い髪も僕のステータスシンボルと思っていたから、抵抗は感じる。だが、それよりも一番つらいのは、もっとも親しい友たちを呼ぶなと言われたことだ。彼らを何か人目に付くのが恥ずかしいもののように、言われたことだ。僕自身だけなら、どんな偏見でも我慢できる。でも、親友たちまでそんな風に見られたくない。
 よほど断ろうかと思った。でも、とりあえず今まで向こうの条件を飲んできたので、パーレンバーク夫妻の態度もかなり軟化してきているように見える。ここで断ると、彼らは逆上するだろうか? 結婚は認めない、などと言い出すだろうか? また最初のように修羅場になったら困るし、ステラも今回はあまり援護してくれそうにないことは、彼女の表情から読み取れた。ステラは興味深そうな顔で僕を見ていた。この小さな譲歩を(と彼女は考えているようだ)自分のためにしてくれるかどうか、見てみようという顔だ。
「……わかりました」僕はため息とともに頷いた。パーレンバーク夫妻はいくぶん満足げな顔になり、ステラも(あら、意外)という感じとともに、(自分のためにここまで譲歩してくれた)ということに、うれしそうな表情も見て取れる。
 でも、僕の気持ちはすっきりしない。バンドのみんなは許してくれるだろうが、気を悪くしないだろうか? 第一僕の友達、結婚式に呼んで祝福してもらいたいような友人が、バンドの仲間以外、いったい何人いるだろう。はっきり言って、誰もいやしない。ロビンがロサンゼルスの病院で言っていたように、ロビンと僕は幼い時からあまりに近すぎ、排他的な親友同士だった。それで自分の世界が狭められたとは思わないけれど、こういう場になって他に友達がいないというのは、けっこう情けないものがある。もともと僕も表面的には社交的に振舞えるが、なかなか相手を友達と認めない、実質的にはかなり非社交的なのが、いけないのだろうが。しかたがない。せめてロブに来てもらおう。ロブはあくまで後見役的な人であり、友達という感じではないけれど、礼服を着てちゃんとした社会人に見えるのは、彼しかいない。
 すっきりしないながらも、話し合いはなんとか無事に終わり、最終的にはパーレンバーク夫妻も僕らの結婚を認めてくれた。五月四日という結婚式の予定日も承知してくれた。会場はパーレンバーク家が通うカトリック教会になるが。日取りが決まった後、みんなで夕食をともにとステラは提案したが、いつまでもアパートメント前の道路に車を待たせておくわけにはいかないからと、二人は帰っていった。「あなたも一緒に来てね、ステラ。あなたの食べたいもの、何でも作ってもらうから」と母親に懇願され、彼女も一緒に車に乗って行った。僕は取り残され、肩をすくめてから実家に連絡し、夕飯を食べに帰った。ついでに会場変更を話しておけばいいと。




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