The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

三年目(1)





 その年のクリスマスを、初めてステラと一緒に祝うことが出来た。いや、正確には一日早い。今日はイヴの前日だ。僕の部屋にステラが来てくれ、僕らは一足早い聖夜を二人だけで過ごした。その日も朝から雪が降っていた。ステラの家の近くにある喫茶店で待ち合わせ、ケーキとローストチキン、サラダと花を買って、僕の部屋へ。テーブルの上に白いクロスをかけ、買ってきたご馳走を並べ、クリスマスローズを花瓶に入れて飾った。
 ステラは白いレースの襟が付いた、紺色地に白い雪の模様が散ったベルベットのワンピースに、白いモヘアのカーディガンを羽織っていた。パールのネックレスをつけ、両サイドの髪を三つ編みにして、洋服と同じ素材のリボンで結んでいる。白い模様編みのニットタイツ、ローズピンクの口紅、白粉をつけ、うっすらと頬紅をひいている。彼女は、精一杯ドレスアップして、来てくれたのだろう。僕もジーンズやコーデュロイではなく、クリーム色のドレスシャツと、モスグリーンのカシミアカーディガン、グレンチェックのズボン。今日は、僕らが初めて一緒に祝うクリスマスだ。
「本当は、わたしがここでお料理を作れたら、良かったのだけれど、わたし、恥ずかしいけれど、お料理をしたことがないの。でも、これから出来るだけ覚えるようにしたいわ」
 ステラは両手を合わせ、熱意のこもった口調で言いながら、僕を見た。
「でも、今は女性だけが家の仕事をする時代じゃないしね。僕だって、クリスマス料理の一つくらい、覚えたほうがいいかもしれない。家ではホプキンスさんが、台所へ入れてくれないんだけれどね」
「男の人は料理なんてするものではないって、言うのでしょう」
「そう。彼女も前世紀の遺物みたいな人だから。いい人なんだけれどね」
「うちにいる料理人のスミソンズさんもそうよ。少しくらいは女のたしなみとして教えてもらいたいのに、台所に入っていくと叱られるの。『お嬢さまは、家事なんぞ必要ありません』ですって。『でも、わたしもいつかお嫁に行くのよ。お料理が出来ないと困るわ』と言うと、『お嬢さまには、家政など一切必要のないところへ嫁いでもらわないと』なんて言うのよ。でもそれだとわたし、何のとりえもない、ただのお飾りになってしまうわ。お飾りになるほど、きれいでもないのに」
「そんなことはないよ。でも……まあ、僕なんかはよっぽど世界的に売れなければ、メイドさんや家政婦さんなんて雇えそうにないな」
 そこでステラと目が合うと、彼女は頬を深紅に染めて、うつむいた。僕が彼女のことを無意識に未来の結婚相手と考えているように、彼女もきっとそうなのだろう。僕はここでステラにプロポーズしたいという、強烈な誘惑にかられた。でも、まだお互いに二十歳にもなっていない。一生音楽を糧にして成功できるかどうかも、今のところはまだわからない、そんな状態でのプロポーズはまだ早過ぎるし、無責任だ。いつか結婚してくれというのも、かえってステラを縛りそうでいやだった。
「メリー・クリスマス! 一日早いけれどね」僕はそれだけ言い、シャンパンを注いだ。
「メリー・クリスマス」ステラも微笑んで、グラスを持ち上げる。
「ごめんなさいね。あなたのお家のパーティに行けなくて。行きたいと言ったら、ママが泣くの。わたしがいないなら、今年はクリスマスを祝わないなんて言うのよ。わたし、あなたと一緒にクリスマスを過ごしたいけれど、そのためにパパやママが悲しむのは、いやなの。ごめんなさい」
「わかっているよ。だからこそ、今日お祝いをすることにしたんじゃないか。君は優しいんだね、ステラ」
「皮肉ではないわよね、ジャスティン?」
「とんでもない。皮肉じゃないよ。君は本当にやさしくて、家族思いなんだ。だから君のご両親も、あれほど君を愛してらっしゃるんだね」
 僕は軽く笑い、ステラがついでくれる二杯目のシャンパンに口をつけた。
「それに僕としても、家で家族と一緒に君も、というより、こうして二人だけでお祝いしたほうが、ずっといいと思うしね。さあ、食べようよ。とはいっても、このケーキ、二人で食べるにはちょっと大きいかな」
「そうね。半分いただいて、残りは冷蔵庫にとっておいてはどうかしら。明日にでも、食べられない?」
「でも、僕も明日は家へ帰るんだよ。年明けまで向こうにいる予定なんだ」
「あら、そうなの」
 ステラは首をかしげた後、ケーキを思いきり大ぶりに僕の皿に切り取った。
「それなら、がんばって食べてもらうしかないわ、ジャスティン。わたしはだめよ。四分の一で十分。太り過ぎが心配だもの」
「君は普通だよ。全然ぽっちゃりなんてしていない。もうちょっと食べても大丈夫さ。それに君は、甘いものが大好きじゃないか」
「それなら、三分の一ね。残りはあなた。あなたこそそんなにスリムなのだし、少しくらいケーキを食べ過ぎても平気でしょう」
「わかったよ、もう」僕は苦笑して肩をすくめ、フォークを取り上げた。
「なんだか太りそうだよ。チキンやサラダが入るだろうか」
「サラダは、わたしがいただくからいいわ」
 ステラは微笑して、自分の皿に取り分けている。「でも、あなたもやっぱりスタイルが気になるの、ジャスティン? いつも外見より音楽だと言っていたのに」
「それはそうだよ。でもレーベルの担当やビデオ監督さんなんかは言うわけさ。ヴィジュアル面も重要な戦略の一つだから、外見もいいにこしたことはないって。特に今度のビデオ監督さんなんかは、有名な人なんだけど、見せる映像を撮るからには、美しくなきゃ意味がない、とか言う人だよ。みっともなくなったら、本当に僕の出番がなくなりそうだ。まあ、僕はナルシストじゃないつもりだけど、あんまり不摂生に太るのは、健康上の理由からも、賛成は出来ないしね」
「ジャスティンらしい意見ね。でも大丈夫よ。あなたは十分素敵だから」
 ステラは微笑み、再びグラスを手に取った。
「来月の予定はどうなの、ジャスティン? 少しは会えそうかしら?」
「大丈夫じゃないかな。一月二二日に新作がリリースされて、ツアーは二六日から始まるんだ。それからは、四月まで会えなくなるけれどね。でも一月中なら……ツアーのリハーサルが十八日から一週間。七日から十二日までプロダクションの打ち合わせと取材日。実家からは二日に戻ってくる予定だから、それ以外の日には会えるよ」
「良かった。少しは休日がありそうね」
 ステラはクリーム色の手帳を取り出すと、空いている日に丸をつけていく。
「わたしも、だいたいはあいているわ。十日からはカレッジの授業があるけれど、昼間だけだし。年が明けたら連絡してね。わたしもするから」
「わかった」
 これ以上入りそうにないほど食べ物を詰め込み、ようやくテーブルの皿がからになると、プレゼントの交換。僕からは、さんざん頭を悩ませて選んだ白いカシミアのストールと、プラチナのスカーフ止め。箱をあけ、しんから幸福そうな笑顔を見せてくれたステラが、「わたしのほうは本当につまらないもので、恥ずかしいのだけれど……わたしが編んだの」と渡してくれた包みの中から出てきたのは、オレンジ濃淡の、まるで炎のようなマフラーだった。
「ありがとう!」頬に当ててみると、ふわりと柔らかい感触がした。
「来年はセーターを編みたいわ。わたしの手編みでは、恥ずかしいかもしれないけれど」
「そんなことはないよ。世界に一つしかないプレゼントをもらえるなんて、本当に幸せだよ、僕は」
 僕はマフラーをステラの首にも回し、ぎゅっと抱きしめた。マフラーの暖かさ以上に、彼女は暖かかった。

 クリスマス、年末と実家で過ごし、年が明けてまもなくアパートに帰ってきた僕が最初にしたのは、ステラと会ったことだった。三日、五日、六日と会い、その後はずっと仕事が入っていたので、次に会ったのは十三日だった。
 その日の午後二時ごろ、カレッジから直接僕の部屋にやってきたステラは、いつもと少し様子が変わって見えた。どことなく沈んだ表情で、眼の下にはうっすらと隈までできている。僕が買ってきたお気に入りの店のケーキも、ほとんど手をつけようとしない。ただ紅茶だけを飲んでいた。
「どうしたの、ステラ? 元気がないね」僕はそう聞かずにはいられなかった。
「なんでもないわ」ステラは首を振り、弱々しく微笑する。
「なんでもないようには見えないよ。どこか具合が悪いのかい?」
「体調は、たしかに良くないの」ステラはフォークを取り上げ、ケーキのクリームに触れた。触れただけで、再びため息をついて、お皿に戻している。
「これ……『サンエトワール』のミルフィーユでしょう? わたしが好きなのを知っていて、買ってきてくれたのよね、ジャスティン。ありがとう。でも……わたし、今は胸がつかえているようで、どうしても食べられないの。ごめんなさい」
「胸がつかえているって、どうして? 何か悩みごとかい?」
 ステラは何も答えず、ただあいまいに首を振った。
「何かあったら、話してくれよ。それとも、病気なのかい?」
「わからないの」
 彼女はうつむいたまま、再び首を振った。その目にじわりと涙が浮かんでいる。
「ステラ。いったいどうしたんだい? お願いだから、僕に話してくれよ!」
 ステラは僕を見、しゃくりあげるように泣き始めた。
「どうしたの、ステラ?」
「……来ないのよ……」
「何が? 何が来ないんだい?」うかつにもそう問い返してしまってから、気づいた。体調不良、大好きなケーキが食べられない。もしかしたら──。
「あっ」僕は思わず衝撃を感じ、小さな声を上げてしまった。そして、つとめて冷静になろうとしながら、ステラに問いかけた。「遅れているのかい? どのくらい?」
「これで、九日目よ」ステラは顔を上げ、訴えるように僕を見た。
「遅れるのは、珍しいことなのかい、君は?」
「一日二日なら……でも、こんなに遅れたことはないわ」
「でも、それって、かなり気分や体調に左右されるんだろう?」
「ええ。でも、ここ二、三日ケーキが食べられないの。匂いがとても気になるようになって。時々気分も悪くなるし」
「そう。でも、遅れているからっていう思いこみが、無意識のうちにあるのかもしれないしね……」
「まるで本物のお医者さまのようね、ジャスティン」
 ステラはかすかに非難を込めたような目で、僕を見た。
「そうであって欲しくないから、そんなことを言うの?」
「そうじゃないよ。精神的なものにも、かなり左右されるから、あまり心配しすぎるのは良くないって、思っただけさ……」
 僕は言いかけ、やめた。僕は望んでいない? いや、そんなことはない。ただ、ひどく自分でもうろたえているなと思うだけだ。思いもよらないことだった。でも、この可能性は当然、考えに入れるべきだったのでは。僕らはあまりに熱情におぼれ、お互いに無防備過ぎたのでは。いや、そんな言いかたは卑怯だ。僕が気をつけなかったから。僕が自らの欲望に流されすぎ、あとのことなど、ほとんど考えていなかったから。生理が十日近く遅れているということは、たぶん十二月の半ば過ぎくらい。思い当たるふしは、充分すぎるほどある。しっかりしろ! 僕はふがいない自分を殴りつけたい衝動にかられた。
「君はどうしたい、ステラ?」僕は身を乗り出し、彼女の手を握りしめた。
「もうしばらく様子を見るかい? それとも医者に行って、はっきりさせたいかい?」
「お医者さまに行くのは、なんだか怖いの」ステラは目に涙をためたまま、僕を見上げた。
「じゃあ、テスターを使ってみるかい?」
「誰が買いにいくの? わたしは恥ずかしいわ」
「僕が行くよ」
「あなたが? 有名人なのに、大丈夫なの?」
「かまうもんか、そんなこと」僕は首を振ったが、すぐに気づいた。
「ああ、でも処方箋がいるのか。じゃあ、同じことだな。実家の産婦人科の先生に、こっそり頼めないかな」
 とはいえ僕は病院のほうにはほとんど行かないから、先生方に面識はない。院長の息子という特権を振りかざしたくもないし、第一こんな放蕩息子では、その特権がきくかどうかも、非常に怪しい。でも両親に仲介を頼むのは、もう少しことがはっきりしてからにしたい。えい、考えていてもしかたがない。今日は月曜日だし、病院も開いているだろう。
「うちの病院で診てもらえないかどうか、頼んでみるよ」僕は電話を手に取った。
「えっ?」ステラは口に手を当て、ぽかんと目を見開いている。
「待って。恥ずかしいわ。第一、あなたのお家の病院なんて……お父様やお母様にわかってしまわないこと?」
「話は行ってしまうだろうね。でも、しかたがないよ。僕が悪いんだし、僕の責任だ。様子を見ていても、君の心配は募るだけだろうし、僕も一週間足らずで、また仕事が始まってしまう。そうなのか違うのか、ともかく確かめてみなければ埒があかないし、君だって無駄に悩むだけだろう。大丈夫。絶対君を悲しませたりはしないよ」
 病院の番号は登録していないので、調べてかけた。交換台から、産婦人科へつないでもらう。
「はい。本日の外来の受付は終了いたしました。急患ですか? それとも、診療をご予約しますか?」
「ええ……あの、部長先生をお願いします」
「外来の予約は、こちらで承っていますが」受付嬢の声は、少々いぶかしんでいるようだ。
「普通の外来じゃ、困るんです。特別に診察してもらえないかと」
「失礼ですが、どちらさまですか? 当院では、特別診療などはいたしませんが」
 やっぱりそうきたか。ああ──もっとも、こんな不審な電話をすんなりと通すようでは、病院は成り立たないだろうが。
「ジャスティン・ローリングスです。ジャスティン・クロード・ローリングス」
 僕は一瞬ためらった後、思いきって名乗った。
「えっ……ああ!」受付係は僕のことを、どうやら知っているらしい。
「本当にご本人ですか? 院長先生のご次男の、あの……」
「ええ、本人です。かたりじゃないですよ」僕は苦笑をかみ殺した。
「診察をご希望なのですか? まさか、あなたご本人ではないですよね」
「違います。僕の女友達です」
「ああ……わかりました。少々お待ちください」
 妙に得心したような言い方がちょっと気に障ったが、受付嬢はとりあえず産婦人科部長に取り次いでくれた。
「どなた? ああ、あの院長先生の不肖の息子さん?」などという、なかなか愉快な前振りとともに、落ち着きのある男性の声が流れてきた。
「はい、もしもし。はじめまして。産婦人科部長のフランク・エヴァンスです」
「はじめまして。ジャスティン・ローリングスと申します」
「存じ上げておりますよ、お名前だけは。うちの病院では、知らない人はいないでしょうね。診察をご希望ですか?」
「ええ、出来ればまず判定をしていただきたいんです。もし陽性なら、詳しい診察も……」
「妊娠の可能性ですね」エヴァンス先生はすぐに了解したようだった。
「患者さんのお名前は? おいくつですか?」
「ステラ・マリア・ヴォン・パーレンバーク。十九才と三ヶ月です」
「わかりました」医師はしばらく沈黙した後、言葉をついだ。「午後四時から診察できますから、受付においでください」
「ありがとうございます。ご無理を言ってすみません。お願いします」
 僕は受話器を置いた。エヴァンス先生の物言いは非常に率直だが、事務的な冷たさも、さげすんだり揶揄したりするような響きも感じなかった。信頼できそうだ。

 テスターの判定は陽性だった。青いマークの浮き出た試験紙を見せながら、エヴァンズ医師は僕らに告げた。
「ごらんの通り、妊娠反応がでました。普段ホルモン薬などを使っていないのでしたら、まず間違いないと思いますよ。ただ、子宮外妊娠などの可能性がないかどうかを確認してみないといけませんから、内診と超音波検査を受けていただきます。大丈夫ですよ」
 先生はステラに向かって、穏やかに笑いかけた。エヴァンス医師は四十代の半ばほどで、太りすぎてもやせすぎてもいず、背の高さも標準的だ。茶色の髪にうっすらと口ひげを生やし、灰色の目は柔和に微笑んでいる。でも、やはり慣れない婦人科の診療に対する恐怖が、ステラにはあるようだった。
「大丈夫だよ。僕がついているから」僕はぎゅっと彼女の手を握り締めた。

 診察の後、エヴァンス医師は僕らに告げた。
「間違いなく、おめでたですね。小さな胎胞も確認できますし、その大きさと前回の生理日から算出して、六週目くらい、予定日は九月十日前後といったところです」
 先生は言葉を止め、一瞬の間をおいた後、聞いてきた。
「どうします? 産みますか?」
「えっ」僕らは一瞬びくっと身を震わせ、互いに顔を見合わせた。ステラは少し青ざめた顔でお腹に手を当て、かばうようなしぐさをしている。
「わたし……考えもしなかった。産まないなんて……」
「君は……産みたい?」
「当たり前だわ!」強くそう言った後、ステラは心配そうに僕を見た。
「あなたは、ジャスティン? いやなの……?」
「いやなもんか! 僕も考えてもみなかったよ、産むのをやめるなんて。出来たからには、産んであげないと。でも産むのは君だからね、僕じゃない。僕は替われない。だから、君が望むようにしたいと思うよ」
「では……産んでもいいかしら、この子?」
「もちろんさ! 僕からもお願いするよ」僕は強く頷き、ステラの手を握り締めた。
「まあ、そういうことなら、大変けっこうですね。もしそうでない場合は、何処かよその病院を紹介しなければならないところでした。うちでは、扱っていませんから」
 エヴァンス先生が小さく咳払いをし、かすかな笑いを浮かべた。
「継続診療を希望されるならば、三週間後に検診にいらっしゃい。受付に申し送りをしておきますから、来られる前に、一本電話を入れてください。それから、これを……」
 医師は傍らの小冊子を取り、裏表紙に何かを記入した後、ステラに手渡した。
「妊婦さんのためのガイドブックです。妊娠の経過と生活上の注意などが書いてありますから、よく読んでおくといいですよ。マタニティスクールも毎週火曜日と金曜日の三時から開いていますから、ご都合のいい時に来ると、きっと勉強になると思います。予約は必要ですけれどね。言ってくだされば、いつでも入れておきます」
「ええ……ありがとうございます」ステラはかすかに頬を染め、頷く。
「あなたも、やはり院長先生と奥様のお子さんですね、坊ちゃん」
 エヴァンス先生は僕を見、穏やかに微笑みながら、そんなことを言った。
「若いけれど、しっかりしていらっしゃいますね。それに、良くわかっておられるようだ。あなたも、あなたのガールフレンドさんも」
「ありがとうございました、エヴァンス先生。ご無理を言ってすみませんでした。これからもお世話になりますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。そういう礼儀正しさも、院長や奥様によく似てらっしゃいますね。お二方の躾の賜物でしょう。失礼ながら、あなたのことを噂に聞いた時には、もしかしたら、そうではないかもしれないと疑ったのですが、いえ、私の先入観でしたね。謝りますよ」
「とんでもない! そうおっしゃっていただいて光栄です」
 ちょっと決まり悪さを感じながら、僕は病院を後にした。
「じゃあ、ステラ。送っていくよ。疲れただろう? 今日は、もう休んだほうがいい。僕はこれから家に行って、話してくる。エヴァンス先生から話が行く前に、自分で親に言いたいからね。明日、学校が終わったら迎えに行くよ。これからのことを相談しなければならないから」
「ええ」ステラは頷いた。
 彼女を家に送り届けた後、僕は車を走らせ、実家に向かった。

「ちょっと話したいことがあるんだ、母さん」
 夕食をよばれた後、僕は思いきって切り出した。母は僕に目を向け、頷いた。
「いいわ。じゃあ、こちらにいらっしゃい」
 食堂の傍らにある母の居間に入ると、僕はソファに座って話を切り出した。ステラから生理が遅れていると告白されてから、エヴァンス先生の診察を受け、妊娠がわかり、その子を産むと決めたことを。すべて話し終わっても、母はさほど驚いた風でもない。
「母さん……エヴァンス先生から聞いたのかい?」
「ええ。『一応、奥様のお耳に入れておいたほうがいいと思いまして』と、およそのことは知らせてくださったわ」
「守秘義務はどうなっているんだ。まあ、覚悟はしていたけれどね」
「ほかならぬ、あなたのことだからよ。先生も心配なさったの。悪く思ってはだめよ。エヴァンス先生は本当に、信頼のおける良い方だから」
「わかっているよ。僕もそう思う。でも母さんは知っていても、何も聞かなかったね」
「あなたがうちへ来た時、ああ、話に来たのだわって思ったのよ。だから、あなたが自分で言い出すのを待っていたの。その点は立派だと思うわ、ジャスティン。でもね……」母はいくぶん厳しい顔になり、言葉を継いだ。「今は昔風の道徳は、あまり通用しない時代だから、結婚するまではきれいなおつきあいをしなさいと言うつもりはなかったし、あなたたちが真剣にお付き合いしていることも、わかっていたつもりよ。でも、こういう可能性を考えてみたことはなかったの? 学校でも習ったはずだし、あなたもお父さんに医学書を読まされていたのだから、当然知識もあったはずでしょう。出来るだけこういう事態を避けようは、思わなかったの?」
「そう……本当は、そうすべきだったと思うけど……あまりあからさまにそういうものを用意するのは、意識しているのが見え見えという感じで……なんだか打算的というか、それ目的に思われるのも嫌で……つい成り行きに任せてしまったんだ。前にも何回か彼女と……その、そういう関係はあったけれど……その……大丈夫だったし」
 どうも女親相手に、この手の話をするのは気まずい。顔が赤くなるのを感じながら、僕は頭を掻いた。
「以前大丈夫だったからと言って、ずっとそうだとは限らないのは、当たり前でしょう。避妊は必要な行為よ。それは男性側の義務なのよ。恥ずかしいとか決まりが悪いとか、そういう問題ではないの。間違いが起きた時、被害に遭わなければならないのは女性なのよ」
「うん。それはわかってる。僕も考えが足りなかったと思うよ」
「でもあなたがたは、赤ちゃんを生むと決めたのね」
「ああ」
「そう。それが自然なことでしょうね。せっかく授かった命を親の都合で消すなんて、よほど重大な事情がなければ、やってはいけないことだと、わたしは思うわ。でも子供を持つということは、あなたが思う以上に覚悟のいることよ。あなたは子供の父親、その子が一人前になるまで保護し、導き、養わなければならない。ステラさんのこともよ。あなたは彼女を未婚の母にする気なの?」
「えっ、いや……そんな気はないよ、もちろん」
「そうね。結婚するのが、けじめというものね。でも、あなたもステラさんもまだ若いわ。ステラさんは十九歳なのよ。まだまだ遊びたいし、おしゃれもしたいだろう若い女性を、あなたと子供に縛ることになってしまうのよ。あなたもまだそろそろ二十歳という若さで、家族という重責を負う。しかも、あなたは堅実な勤め人とは違うわ。将来は不安定なのよ。それでも家族に対しての責任を、あくまで負いつづける覚悟はあるの? 結婚して子供を持つということは、そういうことなのよ」
「できるだけの事はするよ。投げ出すようなことは、絶対しない。僕は僕なりに、精一杯やって、ステラと子供を幸せにしたい。ステラだって……彼女は確かに若いけれど、きっと良い母親になれると思う。僕も出来るだけ、手伝うつもりだしね。三人で幸せな家庭を築きたいんだ。月並みな言葉だけれど」
「そのことを、ちゃんと二人で話し合ってみた?」
「まだ……これからだよ」
「では、早く二人で、きちんと話し合わなくてはね」
「わかった。明日、話すよ」
「そう。なら明日の晩もここへいらっしゃい。ステラさんも連れてね」
 母は一転して、穏やかに微笑んだ。「ひょっとしたら、明日の晩は婚約パーティね」
「ああ……ありがとう、母さん!」
「あなたも思った以上に大人になったのね、ジャスティン」
 母の顔には、少しのあきらめと寂しさが浮かんでいるように感じた。 「父さんやみんなには、わたしから話しておくわ。明日は良い報告が聞けると良いわね」

 翌日の午後、僕は部屋でステラにプロポーズをした。どんなことを言うべきか、どういう風に求婚すれば、ロマンティックだと思ってくれるだろうか──そんなことをずいぶん考え、頭を悩ませたが、実際いざ彼女を目の前にして切り出してみると、結局口から出てきたのはありきたりの、「僕と結婚してくれ、ステラ」だけだった。
 ステラはぴくっと小さく身を振るわせ、頬をピンク色に染めて頷いた。
「ええ……」
「じゃあ、これを受け取ってくれるかな」
 僕は午前中に買ってきたばかりの婚約指輪を差し出した。ステラは頷き、そっと手を伸ばしてケースを受け取った。
「まあ、きれい」ふたを開き、目を輝かせて彼女はつぶやいた。「サファイアね、これ。サファイアとダイアモンド。ハート型で、台はプラチナね。きれい……」
「君の誕生石だろ? それに君の目の色にも似ているから。気に入ってくれたら、うれしいよ。サイズが合えば良いけれどね。もし合わなかったら、調整してもらわないと」
 ステラは指輪を取り上げ、左手の薬指にはめてみている。
「ぴったりよ。わたしのサイズ、わかってくれていたのね、ジャスティン」 「だいたいこのくらいかな、って、サイズ表を見て決めたんだよ。君の指はよく知っているつもりだから。合っていて、よかったよ」
 僕は一呼吸置いて、もう一度聞いた。「本当に僕と結婚してくれるんだね、ステラ」
「ええ、もちろんよ」ステラは頬を紅に染めながら、頷いてくれた。>
「本当にうれしいわ。あなたがそう言ってくれて」
「君をシングルマザーにはさせないよ。僕は男としての責任から逃げるつもりはないさ。君と子供のために、できるだけのことをしたいよ」
「そう言ってくれて、本当にうれしいけれど、ジャスティン……」ステラはふと心配そうな眼差しになった。「本当の事を聞かせて欲しいの。あなたは赤ちゃんが出来て、うれしい? それとも迷惑だけれど、責任があるから結婚してくれるの?」
「何を言うんだい。うれしいよ、もちろん。まだ、あまり実感は湧かないけれどね。それに思ってもみなかったことだから、びっくりもしたよ。でも、本当にうれしいさ。当然だろ! 迷惑なんてことがあるもんか」
「ああ、よかった。わたし、心配だったのよ。あなたがどう思うか。赤ちゃんが出来たから仕方なしに結婚するのでは、子供がかわいそうだから。あなたにうれしいと思って欲しかったのよ」
「仕方がなしに、なんてことがあるもんか。君こそ、子供の父親だから仕方なしに僕と結婚する、なんて言うんじゃないだろうね」
「そんなこと、あるはずがないわ」彼女は笑って首を振った。
「でもジャスティン、後悔しないでね。わたし、おうちのことは本当に何もできないの。これから一生懸命覚えるつもりだけれど。本当にこんなわたしを奥さんにしても、大丈夫だと思う?」
「ああ、僕も家のことは何もできないから、最初の頃はさぞかしひどいだろうなあ」
 僕は大げさに両手を広げてみせた。「でも、かまわないさ。たとえ君がどんなに家事音痴でも、僕は平気だよ。僕が欲しいのは君なんだ。家を整えてくれるメイドさんじゃない。君こそ、本当に僕なんかと結婚して、後悔しないかい? ミュージシャンっていう仕事は、かなり家庭の犠牲を強いることになる。ツアーやレコーディングの間は、何ヶ月も家に帰れない。それにまあ、僕らは最初にある程度成功できたから、すぐに生活に困ることはないだろうけれど、先はわからないよ、どうなるか。本当に、先の読めない世界なんだから。将来の保証はないも同然だ。僕はそんな男なんだ。君にはかなり煩わしいことや、つらいこともあるだろうし、寂しい思いもさせてしまうと思う。それでもいいのかい」
「ええ。絶対に後悔はしないわ」ステラは僕を見上げ、きっぱりとした口調で、そう言いきってくれた。「わたし、ミュージシャンの妻になれる自信はないけれど、でもね、ジャスティン・ローリングスという人の、妻になりたいの。あなたがなんであっても、わたしはかまわないのよ。だってわたし……」
 彼女は言葉を止め、目を伏せながら恥ずかしそうに言葉を継いだ。
「あなたを愛しているから……」
 その言葉は情熱の炎に油を注ぎ、僕は我を忘れて彼女を抱きしめた。
「僕もだよ、ステラ。愛しているよ。一生君を離さないから」
 彼女も小さな吐息とともに、僕の胸に身を預けてきた。その後しばらくして、ふと気づいたように頭を上げた。
「でも、ジャスティン。あなた、結婚しても大丈夫なの? あなたの人気に障らないかしら。マネージメントの方に、だめだと言われたりはしない?」
「そんなことは関係ないさ。大丈夫だよ。マネージメントは基本的に、僕らのプライベートは尊重してくれるはずさ。僕らはアイドルじゃないんだから、ファンに媚びる必要なんかないよ。僕が結婚したからって、なんだかんだ言うミーハーなのは、こっちからお断りさ。ミュージシャンは音楽が勝負なんだ。結婚しないでなんていうのは、もう昔の話だよ」
「そう……それなら、いいのだけれど」
「心配しなくて大丈夫さ。そうだ、式はいつにしようか」
「わたし、ジューンブライドにあこがれているの。でも、お仕事の都合があるのよね。六月はだめ?」
「六月か。いや、ツアー中だな、きっと。五月初めなら……これから始まるツア
ーが、四月末まで続くんだ。そのあと少し中休みが取れるから、その時なら大丈夫だよ」 「そうね。五月でも気候は良いし。考えてみれば、六月ではわたし、七ヶ月くらいになってしまうから、お腹が目立ってしまうと、少し恥ずかしいわね」
「じゃあ、五月でいいかい? 五月の初めくらいで」
「ええ」
「でも、旅行は行けないな、たぶん。十日か二週間くらいしか、日程に余裕がないから。新婚旅行から帰ってきてすぐツアーじゃ僕も厳しいし、君もあまり遠くへは行けないだろう。だから旅行は新しいアルバムのツアーが全部終わって、オフになってから、ゆっくり行きたいな。赤ちゃん連れで新婚旅行なんていうことに、なってしまいそうだけれど」
「残念だけれど、しかたがないわね」ステラは半ばあきらめ顔だった。
「ああ、それにしても余裕がないな、考えてみると。もうあと五日でリハーサルが始まってしまうし、それが終わったら、次の日の午後には出発だ。トロントへは三月に一度戻ってくる予定だけれど、それもツアーの一環だし、四月の終わりまでずっと身体があかない。僕が自由に動けるのは、今日も入れてあと五日しかないんだ。大変だな。結婚するとなると、決めなければならないことが、たくさんあるのに」
「そうね。結婚式の日を決めて、準備して、ああ、あなたのご両親にもご挨拶しなければならないし、わたしのパパとママにも……」
「ああ、そうだ、君のご両親にもお会いして、お話しないとね。明日の夕方にでも伺うよ。うちの方は、話がまとまったら今日にも君を連れてきてくれって、母さんに言われているんだ。夕方行こうと思うけれど、大丈夫かい?」
「ええ。大丈夫よ。明日はパパもママも、何も予定がないと思うわ。でもあなたが来ると言うと、わざと用事を作るかもしれないから、わたしが明日学校から帰ったら、伝えておくわね」
「そう。そのほうがいいかな。それじゃ、頼んだよ」僕は苦笑して頷いた。>
「でもご両親は、君がこうして僕と会っていることを、知っているのかい? また付き合い始めた頃は、お父さんに玄関で見張られたって言っていたけれど、あれからも君は僕と会っているって言っているの? それとも、女友達と会うとでも?」
「言っているわ、ジャスティンに会ってくるって。最初は大騒ぎだったし、去年の五月にあなたのところに泊まった時には、警察に捜索願が行ってしまったくらいだけれど」
「えっ、警察に捜索願? そんな騒ぎになったのかい、知らなかったな」 「ええ。うちへ帰ってみたら、玄関に警察の人が来ていて、パパとママが立っていて。あとで聞いてみたら、わたしが家出をしたのだと思ったらしいわ。わたしを待って、一晩中一睡もしなかったらしくて、二人とも眼が真っ赤になっていたの。それで朝になっても、わたしが帰ってこないから、警察に届けを出したのですって。わたし、一瞬どうしようかしらと、途方にくれたの。とても本当のことは言えなくなって、黙って出てきてしまったから帰りづらくて、一人でホテルに泊まったのだと、嘘をついてしまったのよ。それで、パパとママは納得してくれたの。あんなに怒って悪かった。もうわたしがどこへ行って誰と会おうと怒らないから、帰ってきてくれと泣かれてしまって。それ以来、二人とも何も言わなくなったわ。わたしの携帯電話を取り上げようともしなくなったし。九時までに帰らなければならないのだけれど、それさえ守っていればね。不機嫌な顔はするけれど、止めなくなったの。さすがにあなたのお家のクリスマスパーティに行くことは、だめだったけれど、それ以外は」
「そう。そういうことになっていたのか……」
 だからステラはあの時以外、僕の部屋に泊まることもなかったのか。あの時、もし彼女の両親が捜索願を出すのがもっと早かったら、警察が僕の部屋に来たりしたのだろうか? そう考えると、ちょっと冷や汗ものだ。それに二人でクリスマス会をした時、ステラは言っていたな。『あなたのお家のパーティに行けなくて、ごめんなさい。行きたいといったら、ママが泣くの』と。僕はその時には、はっきり僕の家のパーティに行きたい、と頼んだのではなく、どこか他へ出かけたいと言ったのかと漠然と思っていたのだが、直球でそう言ったとは。それでは、許可が下りなくて当然だ。
 結局、彼女の両親が僕に会うのを認めてくれたのは、娘を失うことへの恐怖から、渋々そうしているだけだろう。僕に対する気持ちが変化したわけでは、決してないはずだ。それなのに、こんな結果になってからパーレンバーク夫妻と会うのは、ずいぶん勇気と覚悟のいることに違いないと、僕はひそかに思った。彼らとの対決は避けて通れない問題だから、逃げようとは思わない。それでもやっぱり、もっとも気の重い仕事であることに変わりはなかった





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