The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(13)





「完全につじつまを合わせるのは難しいけれど、理論的には一応説明可能ですね」
 またもやシスターが僕の心の中を読んだようなことを言い、僕は思わずどきっとした。彼女は穏やかな微笑を目に浮かべながら問いかける。
「そこから先のあの子の生い立ちは、あなたがたは知っていますか?」
「ええ、彼からだいたい聞きました。いろいろ大変だったということも」
「そうですか。でしたら、私が繰り返す必要もありませんね。ただ、これだけは誤解してほしくないんですけれど、そんな経緯で生まれたとはいえ、アグレイアは決して冷淡な母親ではなかったと思います。まだ二十歳で――いえ、本当は二一ですが、あの娘にとっての一年間はなかったも同じなのですから、感覚は二十歳だったでしょう――いきなりなんの前触れもなく、気持ちの準備もなく母親になってしまったので、とまどいは大きかったことと思いますが、幸いアーディスは手のかからない赤ん坊でしたしね。よく眠るし、あまり泣きもせずに。時々眠りから覚めた時に泣くらしかったですが、すぐに泣き止んで、アグレイアにもニコニコと笑いかけたりするので、あの娘もすぐに『可愛い』と言うようになりました。実際、本当に可愛い赤ん坊でしたしね。ミュージカルの活動に出来るだけ支障をきたさないよう、私もあの娘の公演期間中は、ここで預かっていました。あの子は普通よりもはるかに発達が早く、一歳の誕生日には、もう駆け回っていましたし、二語文、時には三語文も話していました。オムツも八ヶ月程度で取れてしまいましたし。もしかしたら誕生日が間違っていたのかしらと思うくらいでしたが、身体の大きさは年齢相応、いえ、少し小さいくらいでしたね。最初は新生児の状態だったことは、間違いないと思いますし、発達がかなり早い子だったのでしょう。二、三歳のころから階段の手すりを滑り降りたり、二階の窓から木の枝に跳んで庭に下りたり、そういうことも良くやっていました。アグレイアはもちろん、アリステアも子供のころ、そんなことはしませんでしたけれど。まあ、行儀が良いとは言えませんが、男の子ですから、怪我さえしなければ、そのくらい元気でも良いだろうと、私もあまりうるさくは言いませんでした。それにあの子は聞き分けの良い子で、私にも懐いてくれましたし、よくお手伝いもしてくれて、教会に来られる方たちの間でも、ずいぶん可愛がられましたね。あの子が募金箱を持って回ると、いつもより多く寄付が入っていたものです。とても人懐っこくて、良く笑って、そこにいるだけで回りの気分を明るくしてくれるような、そんな子でした。リードさんと一緒にいた時も、周りのクルーさんたちからマスコット扱いをされていたようですし、まあ、あの子の天分なのでしょうね」
「わかります、なんとなく」僕もちょっと笑って頷いた。
「ただリードさんが亡くなってからの何ヶ月間は、アグレイアも今でいう、ネグレクトをしてしまったらしいですが。悲しみや心を乱されることが多すぎたのだと思います。あの娘は、リードさんとの子供を早産してしまったのは、お葬式の時、向こうの親戚に何か、陣痛促進剤のようなものを飲まされたせいだと疑っていました。子供が生まれてしまえば、その子に財産を持っていかれるから、と。その人たちへの恨みや、愛する人とその子供を亡くしてしまった悲しみで、心がいっぱいだったのでしょう。次の年の三月に、アグレイアは取り乱したような声で、電話してきました。『シスター、どうしましょう。アーディスがぐったりしていて、動かないの』と。私は驚いて事情を聞いたら、あの子を一人残して、アパートを二週間ほど留守にしてしまった、と。食べ物もなにもない状態で。なぜそんなことをしたのかと聞くと、『忘れていたの』と答えるのです。『あの子がいることを、忘れてしまっていたの。今の自分を思い出したくなくて……だから、あの子のことも忘れてしまっていたのね。ああ、わたしは本当にひどい母親だわ。どうしたらいいかしら』と。まだ息があるのなら、病院に連れて行きなさいと言ったら、そんなことをしたらネグレクトで捕まってしまうと、泣くのです。私は言いました。『落ち着きなさい、アグレイア。あなたはそれだけのことをしてしまったのよ。とりあえずアーディスに少しでも意識があって、ものが飲み込める状態だったら、薄い砂糖水から始めて、ジュースやフルーツ、プリンなどを段階的にあげなさい。それも出来ないようなら、捕まるなんて言っていないで、病院に連れて行かなければダメよ』と。『わかったわ』とあの娘は言い、それから数時間後に、また電話をしてきました。『大丈夫だったみたい、シスター。なんとか砂糖水とジュースを飲んでくれて、ゼリーも食べて、今は寝ているわ』と。私は本当に安堵しました。どうやら水のボトルが二本だけあったのが、幸いしたようです。それを飲んで、かろうじて命をつないでいたようですね。私はあの娘に言いました。アーディスに体力がついて、ここまで来られるようになったら、連れてきなさい。しばらく預かるから。ここで私が責任を持って、元通り元気な子にしてあげるから、あなたはその間に、自分を取り戻しなさい、と。リードさんのことは美しい思い出にして、もう取り返しのつかない、確かめようもない疑惑で人を恨むのも止めにして、あなたはこれからも生きていかなければならないのだから、と。アグレイアは泣いているようでした。『そうね……』とあの娘は言い、それから五日後にアーディスをここにつれてくると、アグレイアは一人でニューヨークに戻っていきました。もう一度、自分自身の人生を立て直そうと。そして、それから三ヵ月半がたった七月半ばに、再びここに帰ってきて、言ったのです。大丈夫、ミュージカルに戻ることができた。新しい恋人もできた、これからその人とアーディスと三人で、新しい生活を築くと。それで子供をつれ、ニューヨークへ帰って行ったのですが……そこからの顛末は、あなた方もご存知でしたでしょうか」
「ええ……」インドの高原で聞いた話を思い出し、僕は固唾を呑んで頷いた。
「そうですか。それなら、私もあえて繰り返しはしません。その男に私は会ったことがありませんが、きっと悪魔の心を持っていたのでしょう。でも、アグレイアにとっては子供とのつながりを再認識させてくれたという点において、一つだけは良いことをしてくれたのだと思います。本当に、それ一つだけですがね。あの娘がニューヨークへ戻って五ヶ月ほど過ぎた十二月に、アグレイアはここに来て、『ありがとう、シスター。体調が悪いのに、アーディスのお世話を頼んでしまって。もう大丈夫だから、あの子を迎えに来たわ』と言ったのです。事故のことは聞いていましたが、手紙を出しても返事がなく、あの娘が私に出した手紙も届いていなかったようで、その間のことは何も知らなかったので、驚いて、私は別に体調は悪くはない、事情を問い合わせても何も返事がなく、気になっていたところだ。アーディスはここには来ていないと告げたら、アグレイアは真っ青になりましてね。『ええ! どこへ行ったの! まさか……』と。友達にガード役を頼んで、あの男の所に行ったら、アパートには誰もおらず、その男は倒れて入院したと聞かされ、子供は行方不明で……無事再会できた後、あの娘は私に言ったのです。『やっとわたしは、アーディスの本当の母親になれたような気がするわ。六年と半年たって。今までも可愛いとか愛しいとか思っていたけれど、それでも心の底で、わたしは思っていたのかもしれない。あなたはどこから来たの。あなたは本当にわたしの子なの、と。鑑定で証明されているから、自分の子には間違いないって、わかってはいるのだけれど、なんといっても記憶がないから。でもロサンゼルスであの子をうっかり死なせてしまいそうになった時、わたしはとても後悔したのよ。だからあの人に、あの子を預けたくなかったのに。病院で会ったとき、わたしは胸がいっぱいになってしまったわ。本当に小さくて、頼りなくて、細くなってしまって、傷だらけで……ああ、この子はわたしの、かけがえのない子なんだ。もう二度とひどい目にはあわせたくないって、心からそう思ったわ。だから、あの子に言ったのよ。ごめんね。うっかりあの男の言うことを信じてしまった、わたしを許して。これからは百パーセント、あなたのママになるわ。あなたはわたしの大事な子よ。これからはどこへ行くのも一緒よ、と』」
 病室での感動の再会。その話はエアリィもしていたな、と僕は思い出した。そしてそれから半年後、二人は新しい家庭に入っていった。その六年後に、アグレイアさんは事故で、三四歳で亡くなった。  アリステア・ローゼンスタイナーの一人娘、アグレイアさんを、僕は直接的には知らない。ジョージが持っていた雑誌や、エアリィの部屋の写真でしか見たことはないが、長い金髪の巻き毛、まつげの長い青い眼、ふっくらとしたピンクの頬に、小さな赤い口元。非常にかわいらしさのある、はっきりとした顔立ちの、美しい人だった。ただ、エアリィと容貌の相似はあるかな、というと微妙かもしれない。同じ金髪碧眼ではあるが、彼は別次元の美だ。浮世離れした雰囲気に加え、髪の色も母親よりかなり薄いし、ウェーブもゆるいし、目の色も明るい。まつげや瞳孔のような、黒の部分が青くなる、ブルーブラッドという特殊体質、因子も含めて、それは決してわかることはないだろう、父親の血なのだろうか。でも彼の特殊因子比率は、たしか八五パーセント――科学検査結果表にそう書いてあったし、未来世界のタッカー大統領も言っていた。それなら父方単独で、そこまで行くだろうか? 普通は五十だ。そして、『妹は母さんそっくり』と、エアリィが以前言っていたが、たしかにエステルに、その母の面影は色濃いように思える。事故で死んでしまった彼女の双子の姉妹も、同じだったろう。
 アグレイアさんの生涯は――恋多き女だったとフレイザーさんは言っていたが、幾多の挫折や悲しみ、失意を乗り越えて、最後は大学教授の妻として、先妻の子であるアランさんも含めて四人の子供に囲まれ、穏やかな幸福の中にいたのだろうと思う。彼女の理想ではなかったのかもしれないが。そして今は、彼女が最も愛した人、カーディナル・リードさんと失くした赤ちゃん、そして双子のもう一人の娘とともに、天国で幸せにしているのかもしれない。そんな思いを感じた。
「アグレイアもアーディスも、リードさんが亡くなってからの一年あまりの間は、非常に辛い思いをすることになってしまったのですが、ステュアートさんにめぐり合えて、本当に良かったと思います。しかしあの娘も若くして死んでしまったことは、非常に不運でした。そう……偶然なのでしょうが、みな、短命なのが気にかかります。アグレイアの母親レナは、二八で亡くなってしまいましたし、アリステアもアグレイアも、三十代で亡くなってしまっているのです。メイベルはたった五歳でした。アーディスとエステルには、せめて長生きをしてもらいたいものですが……」
 シスターは遠くを見るような眼で、そう言った。しかしその口調には、(悲しいことに、私にはそういう予感はしない)という含みが感じられ、僕は一瞬背中に冷たいものが走るのを感じた。たしかに……あの未来が本当ならば、エアリィもエステルも天寿を全うするまで、生きていられるだろうか。僕も、ロビンも、他のみんなも……。
 シスターは小さなため息をつき、コーヒーを一口飲むと、再び話を続けている。
「そう……最初は、アリステアなのでしょうね。アグレイアもアーディスも、アリステアの子孫なのですから。兄がアリステアを保護したのは、私たちがここへ来て、まもなくのことでした。そのいきさつにも、少し不思議な話があるのです」
「不思議な話ですか?」これ以上あるのかと、僕は思わず反復した。
「ええ。遡ればことの始まりは、もう百年も前のことです。まだ先代のマインツ神父の頃でしたが、、私たちがこの町に赴任してきた時、町の長や信者の方々が話してくれたのです」
 シスターはテーブルに両手を組み、再び語りはじめた。
「今から百年前に、この町に夏の間だけ来ていた、ボストンの富豪がいたのです。その人の母親の故郷がここで、古いお屋敷もあったものですから。その名前を、ジョナサン・ランカスターと言いました。その人は三十歳を過ぎて、この町で十歳以上も年の離れた、若く美しい娘と巡り会い――彼女はここに住んでいる伯母を手伝いに、その夏滞在していたので――翌年の春、二人は結婚しました。結婚してからも、夫婦で夏を過ごしに来ていました。二年後の冬には、かわいい男の赤ちゃんも生まれ、夫婦は幸せの絶頂にあったそうです。翌年の夏にも、夫妻は赤ちゃんを連れてここに来ていましたが、ある日奥さんは赤ちゃんをベビーカーに乗せて草原へ散歩に行ったまま、夜になっても帰りませんでした。富豪は二人をなにものにもかえがたい宝だと思っていましたので、草原やその向こうの森を探した結果、森の中にある池のほとりで、変わり果てた奥さんの姿を発見したのです。その岸辺には水の境界がわかりにくい場所があったので、危険だからあまり近くへは行かないようにと、いつも言っていたそうですがね。森までは赤ちゃんを連れてだと遠いから行かないと、奥さんも言っていたらしいのですが、その日は暑かったので、日陰を求めて、森に行ったようでした。まだ草原には木もないころでしたので。森への道が終わるところにベビーカーが置いてあり、赤ちゃんの帽子が、池のほとりにある木の枝に引っかかっていました。たぶん赤ちゃんの帽子が飛ばされたので、それを拾おうとして奥さんは池に落ちたのではないかと、人々は推測しました。全身水に濡れていたそうですから。でも池に浮いていたり、沈んでいるのではなく、なぜ岸に仰向けに寝ていたのか。這い上がってきてから、こときれたのか。それとも誰かの手で引き上げられたのか、だとしたらそれは何者か、この事故と何か関わりのある第三者がいるのか、その人が赤ちゃんを連れ去ったのか。人々は不思議がり、様々な憶測をしたといいます。そう、赤ちゃんの方は忽然といなくなってしまいましたからね。岸辺に、はいずったようなあとがあるのですが、まだ水際まで少し間があるところで、ふつりと消えていたそうです。まるで誰かに抱きかかえられて、連れ去られたようだと。でも他に足跡は何もなかったようなのですが。池に落ちたり、誰かに投げ込まれたりした可能性もやはり否定できないというので、池中をさらって、さらに森の中をくまなく探したのですが、どうしても赤ちゃんは見つからなかったそうです。それで、赤ん坊はきっと誰かに連れ去られたに違いない、さらに赤ちゃんを連れ去った者が、奥さんをも殺したのだ――そんな推測を、その人はすっかり信じ込んだようでした。最愛の妻を殺し、息子を拐かした犯人を必ず見つけだすと、その人は仕事も財産もなげうって、必死に行方を探しました。しかし何の手がかりもなく、二十年、三十年とむなしく時は過ぎ、すべてを失ったその人は、すっかり隠者のような老人となって、その森の池のほとりに小さな掘っ建て小屋をたてて、住みつくようになっていたそうです。そして一日中、奥さんを奪った池を眺めていたと。その中へ飛び込まなかっただけ、幸いだったのでしょうが……やがて病を発して、失意のうちに亡くなったのです。もう六十年以上も前のことですがね。それゆえにあの森は、町の人から『失意の森』と呼ばれているのです。臨終には、兄が立ち会いました。その二か月ほど前に、ここに着任していたので。兄が行くのを待っていたように、その人はなくなったそうです。あの世に行けば妻に再び会える、息子の行方もわかると言い残して」
「気の毒な話ですね……」
「ええ、本当に気の毒な人でした。そしてその老人の臨終に立ち合った帰りに、兄はランカスター草原の木の下で、生後半年くらいの赤ん坊を拾ったのですよ。白い上等のカバーオールを着て、草の上で泣いていたそうです。服の内側に、名前が刺繍してありました。アリステア・Lと。そこで兄は、その子をアリステアと名付けたのです。誰かが困って捨てたのだろうか、それにしては身なりが立派なので、ひょっとしてどこかから連れてこられたのかもしれないと思い、かなり広範囲に問い合わせたのですが、子供の身寄りの心当たりはありませんでした。この近くにある、教会と提携している孤児院に預けるか、いい縁組があったら養子にとも考えたのですが、その考えにはどちらも、不思議と気が進みませんでした。そこで私たちはその子を兄の養子とし、ここで育てることにしました。この子を育てるのは、神が私たちに課した義務なのだ。そんな気が強くしたのです」
 シスターは再び、追憶するような視線を窓の外に投げた。
「アリステアが教会に来てから二年がたったころ、あの老人の妹が兄のお墓参りに教会に訪ねてきまして、庭で遊んでいるあの子を見、驚いたように言いました。この子はアリステア・ランカスターにそっくりだと。四十数年前に、森で行方不明になった赤ん坊です。たしかに当時生後六ヵ月くらいでしたし、髪も同じ金色の巻き毛で、拾われた時に着ていた服も、赤ん坊が失踪した時と同じ白いカバーオールでしたがね。しっかりとした上質のコットンでできていて、本物の高価なレースがついたりっぱな服でしたが、その服に付いていた名前、アリステア・Lというのは、アリステア・ランカスターとぴったり符合します。その服には、乾いた泥を落としたような汚れがかなりありましたし。でも四十年以上前に行方不明になった赤ん坊が、そのまま時を飛び越えて現れるなど、考えただけでも不可能です。ですが、その老夫人が言うには、顔がそっくりだ。いなくなった時には赤ん坊だったけれど、二歳になったらこんな顔になるのだろうとわかるくらいに。と言って、写真を見せたのです。ランカスター家はもともと裕福でしたから、記念写真もいくつかとっていたのでしょうね。それを彼女は兄の墓にそなえるつもりで、持ってきたらしいです。古い白黒写真でしたが、たしかにそこに写っていた赤ん坊は、拾われたころのアリステアと瓜二つでした。それに。その人は重ねて言ったのです。兄夫婦の赤ん坊は不思議な瞳を持っていた。もとは灰色なのですが、光のかげんや気分で青にも緑にも紫にも変わり、夫妻はたいそう不思議がって、また自慢もしていので、よく覚えていると。アリステアも、まったく同じような目をしていました。私たちは少し不思議に思ったものです。兄はアリステアを拾った時、この子の誕生日をいつにしようと考え、ちょうど生後六ヶ月くらいなら、と思いついた日が、ちょうどアリステア・ランカスターの誕生日でもありましたが。しかし赤ん坊が時間を飛び越えるなど、現実には考えられません。そんなことはありえないと、その方もおっしゃっていましたけれどね」
「不思議なことですね……」僕は言いながらも、同時に(でも、完全にあり得ない話ではないかも)と、心の中で付け足さずにはいられなかった。信じられないことだが、僕らは現に経験している。一度起こったことなら、完全に不可能とは言えないかもしれない。だからといって、そうだと確信するだけの根拠は、もちろん何もない。そうそう超常現象が起きるとは考えにくいから、単なる偶然の一致としてすませた方が、よほど理論的には頷ける。さもなければ、行方不明になった赤ちゃんが、どこかで無事に成長していて、映画俳優になったアリステアさんは、その子供か孫かもしれない。そういう可能性もゼロではない。かなり低いだろうが。
「まあ、すみません。つい、あなたがたには関係のない昔話ばかりしてしまいましたね」
 シスターはふと我に返ったように、少し恥ずかしげに笑った。
「いいえ、そんなことはないです。とても興味深いお話でした。あんまり不思議なことが多いので、びっくりしてはいますけれど……」
「世の中には科学や常識でははかれない、不思議な力があるのかも知れませんね」
「ええ……」僕はロビンと顔を見合わせ、心から頷いた。不思議な力は、僕らも経験している。もう二年近く前に……。
「この世界も、そう遠くない将来に終わるのかもしれませんね」シスターは静かな口調でそう続けた。
 僕は思わずどきっとして、飛び上がりそうになった。ロビンもそうだったようで、お互いに顔を見合わせたあと、彼女の穏やかな瞳を見返した。
「兄が急死する三日前でした。アリステアがハリウッドから突然戻ってきて、二人でそんな話をしていたのを覚えています。起源の子供が来て四半世紀で、私たちの文明は終焉になると。不思議な声が、夢の中でそう言っていたと。それ以上は、聞きませんでしたが。私が聞くべきではない、聞いてはいけないと思いましたので」
 不意に頭の中に昔の夢の断片がよみがえってきた。未来世界で最初の夜にみた、神父さんとアリステアさんの夢を。シスターの言うのは、このことだろうか――?
「本当に、よけいなおしゃべりばかりして、すみませんね」
 シスターの声で、僕は再び我に返った。
「でも、ジャスティン・ローリングスさん……でしたっけ」
 彼女は真っすぐ僕を見据え、にこやかに言葉を継いだ。「あなたにお会いするのは初めてですが、なぜだか初めて会ったという気がしないのです。不思議ですね。でも、とても懐かしい気がします。ですからついうれしくなって、いろいろと長話をしてしまいましたよ」
「え?」
「お忘れください、年寄りの戯言ですから」
 シスター・アンネは微笑み、僕らにコーヒーのおかわりをすすめた。さらに籠の中からビスケットの箱を出し、中身を菓子盆にのせてテーブルに置いた。
「どこにでもあるビスケットですが、いかがですか?」
「ありがとうございます」僕らは恐縮して受けた。
 シスターもコーヒーのおかわりを飲み、ビスケットを一つつまんだ。
「こんなお話ばかりで、あなたがたのお役に立ったとは思えませんが」
「いえ、とんでもない! 本当に感謝しています」
 そう言った僕を、シスターは再びにこにこと見つめ、聞いてきた。
「ところで、あなたがたはランカスター草原へは、行かれましたか?」
「いいえ。ランカスター草原というのは、赤ん坊のアリステアさんを見つけたり、アグレイアさんが失踪したり、うんと昔には赤ちゃんがいなくなったという草原ですか?」
「ええ、そうです。ただアリステア・ランカスターがいなくなった場所は草原でなく、森ですがね」シスターは頷いた。
「ランカスター草原は隠れるところなど、ほとんどなさそうな場所なのに、不思議ですよね。木が一本あるきりで、あとはずっと野原なのですから。その一本だけある木は、あの最初の失踪事件があった後に生えてきたらしいですが、その木の下で六二年前アリステアは保護され、十七年前にアグレイアが行方不明になったのですよ。なんでもいつか町にやってきた植物学者さんの話では、図鑑にも載っていない、珍しい木なのだそうです。ランカスター草原は、アーディスのお気に入りの場所でもあります。あの子はごく小さな頃から、草原とその木に特別な愛着を感じているようでした。あの子はその木を『光の木』と呼んでいましたが、幹が金色なので、ふさわしい名前でしょうね。ここで預かっていた時も、教会の庭で近所の孤児院の子供たちと遊んでいたと思うと、ふっと気がつくと庭からいなくなっていて、そこへ行っていることがよくありました。子供の足では遠いでしょうにね。大きくなってからも、ここに帰ってくる時には必ず行っていました。というより、あそこへ行きたくて、ここにはついでに寄るという感じですね、最近の二、三年は。あの子はとくにあの木が大好きで、『ここへ来ると、なんだか落ちつくんだ。故郷へ帰ってきたんだなあって気がして』と、言っていたことがあります。あの木の実も好きですね。他には誰もあの木の実など、食べようとは思いませんけれど。苦いというわけではないのですが、しびれるんですよ。毒があるわけではないようなのですが。きれいな実なのですがね、金色に光って。あの木は実がなるのが遅く、いつも十一月に入ってからなんですが。そして六月には、青いきれいな花が咲くのです。アグレイアがいなくなった時も、その青い花がたくさん咲いていました。今は、どちらの時期でもないですけれど」
「行ってみます。どう行けばいいんですか?」
 僕は思わず椅子から立ち上がった。エアリィがそれほどまでに愛着を感じている場所が存在しているならば、たとえ教会までは来なくとも、そこには立ち寄っているかもしれない。仮に今はまだ来ていなくとも、いずれ来るかもしれない。元の彼の人格や性向が、少しでも残っていればだが――それを信じて、可能性にかけてみよう。もし見つけられなくても、二、三日この町に滞在して、何度か足を運んでみればいい。
「この教会の裏の細い方の道を、町の中心部とは反対の方向にずっと行けば、出られますよ。私は足が弱ってしまったので、お供することは出来ませんが、一本道ですから、わかりやすいと思います。さっきお話したように、草原の道は車が通れないので、歩かなければなりませんが。あなたがたならば、二十分もかからないかもしれませんね」
「わかりました。ありがとうございます」
 僕らは礼を述べ、教会を後にした。出かける時、シスターはにこやかに言ってくれた。
「あなたがたは、もう今日のお宿は決めたのですか? 町には二件小さい宿屋がありますけれど、もしまだ決めていないなら、今夜はここに泊まるといいですよ。今からランカスター草原まで行って帰ってくると、日が暮れてしまうかもしれませんし」
「いいんですか?」 「ええ。ぜひそうしてください。たいしたお構いは出来ませんけれど」
 強くそう勧められ、僕は頷いた。
「助かります。そうさせてください」
「お世話になります……」ロビンも遠慮がちに、小さく言い足している。

 教えられた道を歩いていくにつれ、建物がまばらになっていった。畑や果樹園、牧草地が広がる一帯を抜けると、一面の野原が僕らの前に広がっていた。ランカスター草原。たぶんこの名は、百年前に失踪事件を起こした、あの一家にちなんでつけられたものだろう。そこはまるで緑の海のようだった。八月の陽光の下、草は瑞々しい青さで広がり、風が吹き抜けていくと、葉っぱの裏の銀色を見せて、波のようにうねっていく。行く手には、気の毒な老人が妻子を失った暗い森があり、右側と左側の果てには、なだらかな丘陵地帯が広がっていた。
 この光景──僕ははっきりと思い出し、息をのんだ。夢に出てきた草原は、ここだったのか。同じ風景だ。夢の中より、真中に立っている木が大きいというだけで。その樹は大木というほど大きくはないが、シスターの話では最初の失踪事件の後に生えてきたらしいので、樹齢は百年くらいたっているのだろう。
 その木に目をやった僕は、再び息をのんだ。まさか──こんなにうまく行くはずがない。僕は夢を見ているのだろうか? この十二日間、何回となく夢に見た。『なんだ。おまえ、こんなところにいたのか。人をさんざん心配させて!』そう言ったところで目がさめる。でも、純然たる夢にありがちな非現実感は、今はない。木の下に、彼が立っている。幹に手をかけて、見上げていた。まるで彫像のようにじっと動かず、髪の毛だけが微かな風に揺れ、日の光を反射して輝いている。
 ロビンも気づいたようで、はっとしたような表情で足を止めた。
「エアリィ……? 本当に……?」
「ああ、まさかこんなにタイミング良く見つけられるとは、思わなかった」僕はささやき返した。「でも……あいつは今、どういう状態なんだろうか。話してみないと、中身が本人か別人かも、わからない。僕らにも、気づいていないようだし」
「うん。そうだね。とにかく、行ってみようよ」
「そうだな」
 僕らは道を外れ、草の中へ踏み出した。この距離では話も出来ない。しかし、相手も僕らの存在に気づいたようだ。少し驚いたように目を見張り、ぱっと踵を返そうとする。でも走られたら、僕らはたぶん追いつけない。また見失いたくはない。僕は思わず、反射的に叫んだ。「エアリィ、待て!! 逃げるなー!!」
 彼はびくっとしたように動作を止めた。木の幹に片手をかけたまま、僕らのほうを向く。呼びかけで反応したのだから、中身も本人の可能性が高いのだろうか。裾に青と緑の幾何学模様が入った、五分袖の白いチュニックと(旅行中に市場で買ったものだ)、ブルージーンズ。インドでいなくなった時と同じ姿だ。でも、十日以上も着の身着のまま放浪したような汚れもやつれも、まったく感じられない。半月前一緒にインドの寺院の門をくぐった時から、時が流れていないかのように。でも、寝起きの状態でものを見るように、どこかぼんやりとした視線で僕らを見ていた。
 ロビンと僕は小走りに駆け寄った。が、五、六メートルほどの距離に近づいた時、その表情が動いた。目を見開き、頬にかすかに赤みがさすと同時に、鋭く叫ぶ。
「来るな!!」
 その激しい拒絶のトーンに、僕らは足を止めた。ロビンと当惑げに顔を見合わせてから、僕は問いかけた。「どうしたんだよ、エアリィ。どうしちゃったんだよ? おまえはまだ、戻ってないのか? 誰か別人なのか?」
「別人……?」彼はぱちぱちっと瞬きをし、僕らを見た。
「ある意味、今の僕は……別人かもしれない。少なくとも、みんなの知ってる僕じゃない。でも、アヴェレットやセディフィじゃないよ。あの人たちは、遠い昔に統合されてしまってるから……」
「どういうことだよ」僕は問い返す。
 しかしエアリィは、何も答えは返さなかった。ただ黙って、僕らを見ているだけだ。
「なあ……何か言ってくれないか?」僕は思わず一歩踏み出した。
「教えてくれよ。どうして、こんな行動に出た? なぜ僕のメモに従わないで、どこかへ行ってしまったんだ? どうして何も連絡をよこさない!? 今も、最初に僕らを見たとき、おまえは逃げようとしただろ。どうしてなんだよ!? いったいおまえに、なにが起きたんだ?」
「今は、まだ僕は……こっちの世界に戻れる、自信がないんだ」
「はっ? どういうことだ?」
 しかし彼は再び沈黙し、力のない瞳で僕らを見ているだけだった。その眼は普段のきらめく夏空ではなく、果てしない深さの、透明な、しかし動かない水のようだった。僕は思わず一歩踏み出し、頭を振って声を上げた。
「なあ、エアリィ、黙るのは止めてくれ。こっちの状況を、おまえはわかっているか? 自分がやったことを、わかっているのか? インドから黙っていなくなって、十日以上も行方不明で。僕らみんな、どれだけ心配したと思っているんだよ!」
「ごめん……」その言葉は、どことなく機械的な響きがした。反省している感じではない。でも、今は責めるべき時じゃない。
「どうやってモントリオールの空港から、ここへ来たんだ?」
 僕は別の切り口からいってみようと、少しトーンを落として聞いた。
 エアリィはしばらく黙ったあと、足元の草に視線を落としながら答えた。
「彼が、ここへ連れてきてくれた……」と。
「彼? 誰だよ」
 その質問には、答えは得られなかった。
「今まで、どこにいたんだ?」
「……どこでもない場所……」
「えっ?」
 黙りはしなかったものの、それではまったく答えになっていない。それに普段のエアリィとは違う、力のない、抑揚もほとんどない話し方だ。まるで感情が欠如してしまったような、いや、その下に渦巻く激しい感情を抑圧しているかのような……。
「ここへは、まだ来るんじゃなかった……」
 エアリィは木を見上げ、独り言のように言った。同じように抑揚のない話し方だ。
「でも、光の木が見たくなったんだ……」
 視線を移し、僕らを見た。相変わらずその目に、光は戻ってこない。焦点が合っていないというより、ぼんやりと遠くを見ているような感じだ。
「エアリィ……本当にいったい、何があったんだ」
 僕は再びそう聞かずにはいられなかった。しかし彼はまた黙ってしまう。ただ僕らを見返すだけだ。僕は再度、懇願せずにはいられなかった。「答えてくれよ!」と。
「……わかったんだ。すべてが……」
 彼はしばらくの沈黙の後、遠くを見るような眼で、そう答えた。「彼女が……僕が、ここにいるわけも。でもそれが……すごく、重い。僕にはまだ……負いきれない……」
「何をなんだ? おまえはインドでも、僕にそう言ったよな。僕には負いきれない、と。なにが、負いきれないんだ」
「それは……今は言えない」
「どうしてだ? それに彼女って、誰なんだ?」
「僕は……変形した彼女だ。今はそれだけしか、言えない。言いたくない。死んでも言えない……」
「どうしてだ? 話してくれなければ、僕らにもわからない。おまえを助けたくても、力になりたくても、何も出来ないじゃないか。教えてくれよ。おまえ、あの時僕に言っただろう、助けてって……だから、助けたいんだ」
「それは……忘れて。誰も……僕を救うことは、出来ないから」
 彼は空を仰いで、ゆっくりと眼を閉じた。長い間、再び沈黙したあと、目を開け、僕らを見る。いつもの彼ではない、光のない瞳で。「みんなを救うことも……できないんだ。ごめん……なんて、定めなんだろう……不運だよね……みんなも、僕も……」
 今までの彼は、いなくなってしまった――ローレンスさんの言葉を、僕は再び思い出した。本当にエアリィは別人になってしまったようだった。明るく率直で前向きで、無邪気で感情を素直に口にし、表現する。よく笑い、そして決して悲惨な過去にも押しつぶされない強い精神を持っていた、以前のアーディス・レイン・ローゼンスタイナーは、インドの寺院で失われてしまったのだろうか。『ある意味、今の僕は別人かもしれない。少なくとも、みんなの知っている僕じゃない』――本人も、そう言っていたように。今目の前にいる彼は、ガラスのピースの集まり。そんな印象を受けた。ちょっと乱暴に触れたら、粉々に崩壊しそうな危うさをもった、非常に脆いガラスの彫像。
『何が起きたんだ』と問うた僕に対して、彼の返答は、『すべてがわかった』だった。『彼女が……僕がここにいるわけも』彼女と僕、ではない。”彼女”と“僕”は同格――その彼女はセディフィ? いや、違うと思う。もしそれが彼の中に眠るモンスターだとしたら、それがインドの寺院で出現したあの超人格なら――そう、あの人はたしかに、女の人のように思えた――彼の自我は今、その内なる超人と折り合いをつけようとしているところなのか。『その超人に精神を乗っ取られてしまうか、それに抵抗を試みて破綻する可能性もある』そうフレイザーさんが言っていたように、今のエアリィはまだ、非常に危ういバランスの上にいるのだろう。
「やっぱり、出てくるべきじゃ、なかった。このタイミングで、ジャスティンやロビンに会うなんて……」エアリィはふっとため息をつき、再び天を仰いだ。
「なんで今、光の木が見たくなったんだろう。まだ安全な繭の中に、いるべきだったのに。光の木……むしろ、なかったほうが良かったのに。切なくならずにすんだ……いや、どっちみち忘れられないから、あってくれてよかった……けど、ここは違う。おまえも僕と同じだな。本来の場所でないところで、一人育ってる……寂しくないか?」
 そして深いため息をつき、幹に寄りかかり、目を閉じる。
「本当に……なんて、定めなんだろう……」
 再び長い沈黙が落ちた。やがて彼は身体を起こし、木の幹を慈しむように撫でると、まるで木に語りかけているように言う。
「また来るよ……でも、今は帰らないと……どこでもない場所に」
 今のエアリィはもしかしたら、こっちより向こう側に近いところにいるのかもしれない。そんな思いに、僕はすくんだ。正気と狂気のエッジで、軽く一押しされたら向こう側に転落してしまいそうな、本当に危うい状態。そんな時、僕は何をすればいいのだろう。うっかり何か言って、何かをして、最後の一押しになってしまったら――。
 ロビンが前に飛び出した。そのまま突進し、エアリィにぶつかっていった。木の幹にちょっとぶつけるような形になったあと、両手でぎゅっと抱いた。
「エアリィ! 元の君に戻って!」そして半泣きになりながら、言葉を継ぐ。「そんなのは、僕の知ってる君じゃないよ! 君は明るくて、元気で、笑ってて、とってもしっかりしてて、なんでも出来て、いつも前向きにものを考えられて……僕は君みたいになれたらって、何回思ったか知れない。ねえ、お願いだから、元の君に戻って!!」
 僕もあっけにとられたが、エアリィも同様だったらしい。まさかロビンがハグしてくるとは思わなかっただろうし、あからさまにここまで感情をぶつけてきたことに、驚いてもいるようだった。その目に、いくぶん正気が戻ったように見えた。そっとロビンを後ろに押しやると、かすかに首を振り、言う。「ありがと、ロビン……」
 彼は僕ら二人を見、しばらく沈黙した後、言葉を継いだ。
「戻れたらいいな。僕もそう思う……」
「そうだ。戻ってこい、エアリィ! 以前のおまえになって! 僕らみんな、待っているんだ! 向こう側へは行かないでくれ! お願いだ」
 僕も声を上げた。強い願いを込めて。そうだ。怖れている場合じゃない。僕が出来ることは、彼をこちら側に引き戻そうと試みることだ。ロビンがやったように。
「昔の僕には……たぶん、もう戻れない」エアリィは静かに言った。そして小さく髪を振りやると、いくぶん静穏な表情で僕らを見て、言葉を継ぐ。
「ジャスティン……ロビン。僕は今……ばらばらに壊れたものを、もう一回組み立ててる、途中なんだ。でも……そう……僕は、みんなが心配してるみたいに、気が狂ったわけじゃない。わかってる……これから僕がしなければならないことは。でも今は……まだ自分の存在が、怖いんだ。すべてを負っていけるほど……知識を受け止められない……」
 彼は木を見上げる。その緑と木漏れ日に見入っているように。そして長い沈黙のあと、エアリィは再び僕らを見た。
「ジャスティン……ロビン……今は、僕を一人にして。時間が欲しいんだ。いつか僕は、以前の僕に近い状態に、戻るから……そうしたら、みんなのところへ、帰るから」
「わかった。どのくらい待てばいいんだ?」安堵のため息をつきながら、僕は頷いた。
「わからない。でも……そんなに長くはかからないと思う」
「そうか……わかった。待つよ」
「ありがと」エアリィは短く言うと、次の瞬間には身体を反転させ、木の下を離れた。ロケットスタートのような速さで、草原を走り出す。
「あっ、おい……」
 僕は意表をつかれ、追いかけようと足を踏み出した。しかし、最初に予想したとおり、追いつくことは不可能だった。ただでさえ歩きにくい、足を取られる草原なのに、まるでトラックを走る短距離選手のような──いや、それ以上のスピードだ。度肝を抜くほど速い。本気で走ると、こんなスピードが出るのか。自転車でも追いつけないかもしれない。僕はあとを追うことはあきらめ、叫んだ。
「エアリィ! あの合宿所で、僕らが集中練習した同じ場所で待っているぞ! 僕らは先に作業を始めているから! だから絶対、戻ってこいよ! 負けるなよ!!」
 聞こえただろうか? もう姿は見えない。向こうの森の中に入っていってしまったようだった。
 夕方になりかけていた。西の丘に太陽は傾き、草原に金色の光を投げている。風がさあっと吹きすぎ、草の原に金と銀の波が立った。木は夕日を浴びて、黄金色に輝いている。十数メートル離れた場所に、草原を通る小道が見えていた。この道は森に入ると、数メートルのところで終わっていると、シスターが言っていた。そこから先には気の毒な老人が妻子をなくした池があり、数キロメートルに渡って、路のない樹林が広がっているという。エアリィはその中を、どこへ行こうとしているのだろうか。『どこでもない場所』とは、いったいどこなのだろうか――?
 僕はぼんやりと森を見つめ、ついで木へと目を移した。彼はここに戻ってきたのだ。光の木──最も安らげる場所へ。僕らは邪魔をしただけなのだろうか? 彼が救いと安息を求めてやってきた場所を、追い立ててしまっただけだろうか? でもまたいずれ、ここに戻ってくるのだろう。そんな気もした。そして最初に懸念したように、何も確認できないまま見失うより、少なくとも話が出来て、『いつか、みんなのところへ帰る』という言葉が聞けただけ、良かった――。




BACK    NEXT    Index    Novel Top