The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(14)





 僕はふとため息をつき、町に帰ろうと歩き出した。とにかく草の中は歩きにくい。道へ戻ろう。ロビンもそう思ったようで、同じように道に向かって歩いていく。
 その時、誰かが僕を呼んだ。
(ジャスティン・ローリングスさん)
「えっ!」僕は反射的に立ち止まった。その声は、ほんの耳元でしたようだ。でも、そんなはずは──シスターが言ったように、この草原に隠れる場所はない。光の木は完全に人を隠しおおせるほど大きくはないし、草も身を伏せるには丈が短すぎる。ここには今、ロビンと二人しかいないはずだ。ロビンは一メートルくらい左後ろにいる。たった今、その姿を見たばかりだ。それなら、いったい誰が僕を呼ぶのだろう──?
 振り返った僕は、驚きのあまり身体の力が抜け、草の中にぺたんと座り込んでしまった。僕のすぐ後ろに、人が立っている。なのに、その接近になにも気づかなかった。この人はいったいどこからやってきたのだろう。それに、その姿といったら──。
 その人は僕と同じくらいの背丈で、紫紺のガウンのような服をまとっていた。かすかに光るサテンのような素材でできたその服は丈が長く、裾は足元までたれている。全体のシルエットはゆったりとしていて、たっぷりとしたビショップ袖だった。裾と袖口には銀色のふち飾りが入り、右胸のところに銀色のマークが光っている。二つのルーン文字のような記号が交差するこのマークにどこかで見覚えがあったが、その時には思い出せなかった。服にはそれ以外の装飾はついていない。その人は左手に大きな銀色の輪のようなものを持ち、服に付属しているフードを、すっぽりとかぶっていた。フードの中から覗く顔は、まるで最高のギリシャ彫刻のようだ。
 目が合うと、その人はかすかに微笑んだ。ついと右手を上げてフードを後ろに押しやり、優美な動作で頭を振った。琥珀色と茶色の中間のような色合いの髪がまっすぐに流れ落ち、腰まで垂れ下がる。頭の両翼の髪は一房ずつ、違う色合いになっていた。目の色と同じ、エメラルドの緑。額の中ほどには、白銀の光を放つ輪がヘッドアクセサリーのようにつけられている。その輪の後ろに当たる部分には、銀色にも緑にも赤にも偏光する、翼のような揺れる装飾がほどこされていた。この人は男性だろうか、女性だろうか? 中性的な顔立ちだが、目や口元の感じが、かすかに男性らしい雰囲気を持っている。美しいのはもちろんだが、圧倒的な気品が神々しくさえある人だった。実際、僕の第一印象は、この人はイメージしているような純白の衣装も、背中の羽根も頭上の輪もないが、天から舞い降りてきた天使ではないか、というものだったほどだ。
(あなたがたがここに来たことは、決して間違いではありませんよ)
 僕は驚きのあまり声をあげ、頭を押さえた。頭の中に直接、声が響いてきたのだ。そういえば最初の声もごく耳元で言われたように感じたけれど、実際は今と同じ響きかただ。
(あなたをここに導いたのは、私なのですから)
 声はそう響きつづける。僕は衝撃のあまり、最初は言葉の意味より、その異様さに気をとられてしまっていた。唇を通した声でなく、声なき言葉が頭の中で語られる。その事実がただ、信じられなかった。
(すっかり驚かせてしまいましたね)
 再び、声なき声が聞こえてくる。空気を伝わる振動でなく、直接頭の中のシナプスを刺激して聞こえてくる声でも、そのトーンを感じることができる。柔らかい雨だれの響き。それは非常に清澄に、心地よく聞こえた。
「あっ……」僕は激しく瞬きし、固唾を飲んで相手を見つめた。立ち上がると、かろうじて言葉を搾り出した。「あ……あなたは、どなたですか?」
 相手はかすかな微笑を浮かべ、僕を見ている。相変わらず唇は動かないまま、音なき声が響いてくる。
(今は、はっきりとその問いに答えることはできません。でも、あなたが想像しているような天使ではありませんよ。神の使いという意味では、たしかにそうですが、あなたがたのイメージするものとは少し違います。私たちも、もとはあなたがたと同じ人間です。あなたがたよりも発生が早かったために、人間より少し進化したもの、と考えて結構です。私は神の使命をおびて、先導者の役目を果たすべく、ここにやってきました。地球の民たちが、光の子供たちの後継となれるように。私たちのたどった道を、あなたがたも行けるように。何の意味だかわからない、まるでちんぷんかんぷんだ。あなたはそう思っていますね。でも、今はそれで良いのです。私があなたの前にこうして姿を現し、お話をするのには、わけがあるのですよ。あなたは、神に選ばれた人。私の後継者としての道を歩むべく、定められた人だからです。それだけは覚えておいて下さい。あなたは約束されたことを見届けるために、今ここに生まれてきたのだということも)
「は……あ」
(覚えていますか、ジャスティン・ローリングスさん。私は以前、あなたの夢の中で会いました。声だけでしたので、会うというのは、正確な表現ではないかもしれませんが。今、ようやく姿を表すことができました)
「ああ!」思い出した。この声は、たしかに聞き覚えがある。そうだ……夢の中で聞く、“天の声”だ。ここへ来るきっかけになった夢の、最後の啓示も同じ響きを持っていた。ああ、だからこの人は初めに(あなたをここへ導いたのは私だ)と、言ったわけか。
(かつて私も、あなたと同じ立場にあったのです)
 その声はあいかわらず柔らかく穏やかに、頭の中に響いてくる。
(私もあなたも、従うもの、助けるものの運命のもとに生まれたのです。覚えていますか?)
「ああ、あの二元論がどうとか言う……」
(そう。あなたも私も、影の立場として生まれたのです。でも陰と陽という時、その字面の印象を鵜呑みにしないようにと、以前にも言いましたね。覚えていますか? 監督と俳優は、役割が違うだけだということを。あなたには、まだ私の言うことはわからないでしょう。でも、遠い未来にあなたと私が同じ現世で遭遇する時、あなたはすべてを知ることでしょう。その時には、お互いにまったく違う人格になっているでしょうが)
「……どういうことですか?」
(今は知らなくとも、いいことです。まだ誰も知りません。新たな世界は、光の子供たちのためにあるということを。あなたとあなたのパートナーが、新しい世代の人としては、真実を知る初めての人となるでしょう)
「僕のパートナー?」
(そうです。あなたが監督役だとすれば、俳優の役割を果たす人。適合子である、あなたの陽のパートナー。陽は光で、陰は影です。行動し、切り開くのは光の役目、見守り、助けるのが影の役目です。そう、私たちは、いうなれば裏方なのです。彼女が言ったように。あなたは私より、かなり表に出ることも多いかもしれませんが、基本的にはやはり裏方です。彼女もあなたに言いましたね。『あなたはディラスタのパレーヴィン時代だ』『ディラスタの方が楽だなって、ちょっと羨ましく思ったわ。でも、あたし裏方は性に会わないから、文句は言えないけれど』と。彼女の性格は相変わらずですが、懐かしかったです。影が表に立つ機会はそう多くないけれど、私たちは表裏一体のパートナーです。それゆえ、光は起源子となっても、完全に孤独というわけではない。影が常に存在し、見守っていますから。あなたの光はまだ現在は、この世にいませんが、これからきっと同じように育って行くはずです)
「今はいない……?」
(彼は今、生の狭間で休息しています。あと十一年ほどで、この世に再び生まれてくるはずです。パートナー同士生きる時期がずれることは、さほど珍しいことではありません。今回の生では、あなたと彼との交差期間は決して長くはないし、前回ほど緊密な関係にはならないでしょうが。今回の生においては、別のもの……起源子との関係が絡むからです。起源子は後継の影と組むことになる。それがルールです。私もそうでした。それゆえ、その生では起源子が強い光となるので、自分自身の光のパートナーとの関係は薄くなるのです。しかしそれでも、あなたは彼の後見役的な人となるでしょう。あなた方は、そう生まれついているのです。あなたが影でパートナーが光である以上、その役割分担は常について回ります。最後の時まで。長い長い年月にわたって生を繰り返すたびに、あなたがたはどこかで交差し続けるでしょう。光と影が絡み合うように。そして最後にパートナーと一対で、初めて完全なものとなれるのです。あなたがたの場合はまだほんの入り口で、そこまで到達するには、まだまだ長い時間がかかりますが。そして私たちは今、ゴールの一歩手前……)
 頭の中の声が急に混線したように乱れ、消えた。現実に聞こえる他の声が、盛んに僕に呼びかけている。
「ジャスティン、ジャスティン! どうしたの、ジャスティン。君まで変になっちゃったの? ジャスティン!」
「えっ……あっ!」
 僕は何かに無理やりぐいっと引き戻されるような衝撃を感じ、一瞬気が遠くなりかけた。目の前にロビンの顔がある。泣き出しそうな表情で僕を見上げ、両腕をつかんで、激しく揺さぶっている。僕は呆然と彼を見た。「ロビン……?」
「ああ、よかった……正気になってくれた……」ロビンは嘆息するような口調だった。
「どうしちゃったのかと思ったよ。君がいきなり座り込んだから、転んだのかと思ってそばに行ったら、何かに驚いたよう顔をして、立ち上がっても、空中を見つめたまま、時々わけのわからない独り言を言っているんだもの。まるで誰かに問いかけているように……僕はまさか君までエアリィと同じように、何かおかしくなってしまったんじゃないかって心配で、本当にどうしたらいいか、わからなかったよ」
「幻……なのか?」
 僕は激しく瞬きし、強く頭を振ったあと、あたりを見まわした。誰もいない。夕暮れの草原、暗い森、ぽつぽつと点きはじめたマインズデールの町の灯り。西の丘に太陽は没し、名残のオレンジ色の光が、空を染めている。気の早い星が、二つ三つまたたいている。どこを見ても、ここにはロビンと僕の他、誰もいない。
「どうしたの、ジャスティン、本当に?」ロビンが心配そうに、重ねて問いかけてきた。
「なんでもないよ」僕は深くため息をついた。ロビンは黙って僕を見た。でもその目は(何でもないはずはないのに、僕には話してくれないのかな)と、雄弁に語っている。僕はちょっと苦笑し、もう一度頭を振ると、小道を目指して歩き出した。
「わかったよ。本当のことを言うと、僕はきっと幻覚を見ていたんだ。不思議な人が僕の目の前に現れて、テレパシーみたいに直接頭の中に語りかけてきた。いろいろなことをね。僕はその人と話していた……」僕は再び苦笑して、相手の顔を見た。
「ほら、信じてないだろ? だから、なんでもないって言ったんだよ」
「本当……なの、ジャスティン?」ロビンは明らかな驚きを浮かべて、僕を見ていた。
「本当にそんなことを、君は体験したって……」
「そうだなあ……僕が立ったまま瞬間的に寝てしまったとか、幻覚が起きるような危ない薬でも飲んでいない限りは……さもなければ、頭がおかしくなりかけているんじゃなければ、本当だったのかもしれない。僕にはそうとしか言えないよ。でも、おまえには何も見えなかったんだろ?」
「うん。何も。君のほかには。君が見たという人は、どんな人で、何を言っていたの?」
「どんな人? とにかく、すごい人だったよ。あれは、きっと紫の天使さ。紫紺のフード付きガウンを着て、銀色のヘッドアクセサリーをつけていて、明るい茶色のまっすぐな髪が腰まで届いていて、頭の両側に一房ずつ緑の毛が混じっていた。そうだなあ、その髪と目の色だと、青みがかった紫の服って、どうなんだろうなって思うけれど……実際僕は着たことはないけれど、でも不思議と、あの人には似合っていた。オーラがさしそうなくらい神々しかったしね。でも言っていることは、さっぱりわからない。ちんぷんかんぷんだった。いや、たぶん英語でもわかるように言ってくれてはいるんだろうけれど、内容は何がなんだか、さっぱりさ」
「ジャスティン……」ロビンはしんから心配そうな表情になった。「本当に大丈夫? 君もずいぶん疲れているんじゃない? まさか中東かインドで、精神的な影響が来るような病気にかかったんじゃないよね、エアリィも君も」
「違うとは思うけれど、ひょっとして、そうかもしれないなあ。いや、でもそうしたら、フレイザーさんやローレンスさんだって、変になっているはずだし……十代限定というのでもないだろうから、やっぱり違うと思うよ」僕は再び首を振り、肩をすくめた。
 小道に復帰した僕らは南に──マインズデールの町に向かって歩き出した。
 それにしても、本当にあれは何だったのだろう。白昼夢? いや、夕方の幻覚だろうか? でも、一つだけは確信できる。あの声の響きには、はっきり聞き覚えがあると。マインズデールへ来る気にさせた夢の最後の言葉、さらには未来世界で夢の中から語りかけてきた声。そう、どちらも夢の中で聞いた。では、今も夢を見ただけなのだろうか? 立ったまま瞬間的に眠って? 僕はナルコレプシーではないし、てんかん持ちでもないはずだが。
 それにあの人は、何を言いたかったのだろう。最初の夢でも二元論がどうとか言っていたけれど、今回もそれに近いことを言っていた。光と影は役割が違うだけだと。そしてあの人は影の立場で、僕はその後継者で――ということは、僕も影か? 影は裏方だともいう。あまりもろ手を上げて喜べないのは、僕にはまだ、かの二元論が十分にわかっていないということなのだろうか? 光は行動し、切り開く。影は見守り、支える。そう、最初の夢でもそんなことを言っていたっけ。それはただ紙の裏表のように、役割が違うだけだとも。
 あの人はさらに、わけのわからないことを言っていた。(『あなたはディラスタのパレーヴィン時代』『ディラスタの方が楽だなって、ちょっと羨ましく思ったわ。でもあたし、裏方は性に会わないから、文句は言えないけれど』――そう彼女は言った)
 彼女とは誰だ? 誰がそう言っていたんだ? 僕は知っているような気がする。その言葉に聞き覚えがある。ディラスタという名前も。誰かが繰り返し、その名前を言った。それもつい最近――。
「あ!」思い出したとたん、小さな叫びが漏れた。そうだ。あの娘だ。セディフィ。彼女が言っていたのだった。まったく同じ言葉を。
『あたしは知識を得た時、ディラスタを少し羨んだわ。そっちの方が楽で良いなって』
 知識――何の知識なのだろう。それはエアリィが言っていた、『死んでも言えない』ことなのだろうか。アヴェレットとセディフィも、その知識を『とても怖い』と表現していた。エアリィも言っていた。知識が大きすぎて、まだ負いきれない、と。そのために、今の彼は内面的に混乱状態にある。それを乗り越えなければ、エアリィは元の彼に近い状態に戻ることが、できないのかもしれない。
 でもその知識の正体を、僕は知ることが出来ないだろう。今は――そんな認識もはっきりと感じた。知ることも共感することも、分かち合うことも語り合うことも出来ない。それは今の僕には踏み込めない領域なのだ、と。
 そしてセディフィとディラスタは、パートナー同士なのだろうか。でもセディフィとは、いったい何なのだろう。あの幻影がディラスタだとしたら。光と影? あの幻影が影なら、セディフィは光――髪のせいなのか、エアリィにも光のイメージはあるが、セディフィとは彼の内なる別人格ではなく、妄想の産物でもないなら――あの幻影が彼女を知っていて、その同じ言葉を繰り返したとすれば、彼女はかつて実在した人物になるのだろうか。あの幻影とともに。そうすると、あの時出現したもう一つの人格、アヴェレットもそうなのだろうか。アヴェレットやセディフィは、遠い昔に統合されている――エアリィはそう言っていた。遠い昔に統合された彼の一部? それは、いったい何を意味するのだろう。別の自我意識? そういえば自我同士で話が出来たら面白いなんて、セディフィは言っていたが、でも、同じ時期には咲かない花? どういう意味なんだろう。
 考えはとりとめもなく巡っていく。僕が長いこと無言で歩いているせいだろう。ロビンが僕を見上げ、重ねて問いかけてきた。「ジャスティン、本当に……大丈夫?」と。
「大丈夫だよ」僕は頷いた。そして強く頭を振り、考えを断ち切ろうとした。いくら考えても、答えは得られないことなのだ。少なくとも今は。
 強い風が吹いてきた。銀色の波が立ったように草原が揺れ、木の葉や小枝がぶつかり合って、無数の乾いた鐘のような音を立てる。闇が迫ってきていた。金色から薄い灰色に変わりつつある草原を後に、僕らは黙りこくって歩いていった。行く手に見える町の灯りを目指して。

 教会へ着くと、シスターが夕食を用意して、僕らを待ってくれていた。
「たいしたものもありませんが、どうぞ」
 シスターがすすめてくれたのは、温野菜と豆のサラダ、バターを添えた丸いパン、それにニシンの燻製とインゲン豆がたっぷり入ったシチューだ。比較的あっさりとした味付けで、素朴だが、おいしい。シチューにはケッパーがトッピングされ、チーズが隠し味に使われているようだった。僕は最初のひとさじをスプーンですくい、食べた時には、ただ、(ちょっと変わっているけれど、おいしい)と思った。でも半分くらい食べた時、(なんだかこの味に覚えがある)――そんな思いがよぎった。家ではこういう取り合わせのシチューは、食べたことがないけれど。
 食後のコーヒーを飲み終わると、シスターは僕らを寝室へ案内してくれた。シスター用の居間兼食堂を抜けて、奥まった廊下の右側にある小部屋がそうらしい。向かい側はシスターの寝室だという。
 廊下の壁には、一枚の大きな写真が飾ってあった。キャビネ版を大きく引き伸ばしたような感じの、古い白黒写真だ。廊下の電灯近くだったので、はっきりと見えた。背景に映っているのは、この教会。そこに三人の人物がいた。真中に映っているシスターは三十代半ばほどで、両側の神父の服を着ている二人の男性は、ともに四十にさしかかったくらいの年配にみえる。
 僕は思わず「あっ」と小さく声を上げた。右側の人にはまるで見覚えがなかったが、左側の司祭の顔には、はっきりと見覚えがある。未来世界の夢で、アリステアさんと語り合っていた人。そして僕が十五歳の時に見た不思議な夢──夢の中で臨終を迎えていた神父さん、その人だ。夢の記憶にあるよりも、写真の人は十歳近く若いが、はっきり同じ人だとわかる。そしてシスターも。彼女は死にゆく神父さんを見守っていた人、たぶん今目の前にいるシスター・アンネの、数十年前の姿なのだ。
「このお写真は、シスターと先代の神父さんですか?」
 僕は何気ない調子で、そう尋ねてみた。
「ええ、そうです。おわかりになりますか?」シスターは微笑して頷き、写真を指差した。
「もう四十年以上前の写真ですよ。左側が兄……この教会の先代であるヨハン・ローゼンシュタイナーです。真中が私で、右側の人はサミュエル・キャラダイン神父。モンクトンの教会の司祭で、兄の親友でもありました。今の神父さんは、この人の甥ごさんなのですよ。上のお兄さんの子供なのです」
「そうですか……」僕は不思議な衝撃に打たれ、写真を見上げた。ヨハン神父──この人はいったい、どういう人なのだろう。なぜ時々、僕の夢に現れるのだろう。母がファンだった映画俳優、アリステア・ローゼンスタイナーの養父。そういう認識でしか、僕は神父さんのことを知らない。僕の父方の祖母はドイツ系だけれど――僕の緑の目は、彼女譲りなのだそうだ。顔立ちも良く似ていると、ロサンゼルスで会ったメイヤー医師は言っていたが、祖母は僕が赤ん坊の頃亡くなったので、記憶にはない。でも祖母の旧姓はローゼンシュタイナーではなく、シュナイダーだ。似てはいるが、違う。祖母側の親戚にも、その苗字はいない。縁続きではないと思うが――。
「これは、私たちがここに赴任して、十二年目の春に撮ったものですよ。ちょうどキャラダイン神父が近くに巡回に見えて、ここまで訪ねてこられたのです」
 シスターは懐かしげな表情で写真を見上げた。「ドイツから移住して、十四年が経った頃ですね。兄と私は終戦から半年後に、カナダに来たのです。私たちの大叔母の一家が、それより十数年ほど前にカナダに渡っていたので、私たちも移住先にここを選んだのです。大叔母たちとは直接的な知り合いではないので、接触はないですけれど」
「ご兄弟が戦後ドイツからカナダに移住されたというのは、僕も存じ上げています。恥ずかしながら僕の母がアリステアさんの大ファンで、僕も伝記を読んだことがありますから」
「あら、それは偶然ですね。あなたのお母様は、まだお若いのではないですか?」
「そうでもないです。僕を生んだ時には、母はもう三十代でしたから」僕は少し間をおいてから、続けた。「シスターと神父様は、お二人でカナダに移住されたのですか? 他の家族の方は……?」
「ええ。二人だけです。あとはみな、死んでしまいましたので」シスターは答えた。
「本当に、ひどい戦争でした。ナチが台頭してきた時から、兄も私もイヤな予感がしていたのです。名字も紛らわしいですし。ローゼンとつく名前は、アシュケナジーが多いですからね。実際、起点は私たちもそうらしいです。七、八代くらいの間にドイツ系との婚礼が相次いで、ほとんどドイツ人の家系になっていましたが……それで、なんとかドイツ人と認識してもらったようで、兄は兵隊に行ったのですが、すぐに軽い肺病にかかって除隊され、故郷で暮らしていました。でも、私たちの町は前線に近いので、戦争が激しくなってくると、イヤでも戦いに巻き込まれてしまったのです。一番上の兄ヨーゼフは戦死してしまいましたし、私の幼なじみの恋人も海兵になり、船が撃沈されて死んでしまいました。兄には結婚を目前に控えた婚約者がいたのですが、その人は防空壕で、爆弾に直撃されて死んでしまったのです。母も一緒に。父はそれ以前に空襲で家が焼けた時、倒れてきた家具の下敷きになって、逃げられずに死んでしまいました。私たちは必死で父を救おうとしたのですが、このままでは私たちも死んでしまうと、父が強く言ったのです。自分を置いて、逃げろと」シスターは目を伏せ、一瞬言葉を止めた後、続けた。
「私たちは泣きながら逃げて、やっと防空壕に避難したのです。兄と婚約者、母と私、その四人で。でも、運悪くそこに爆弾が転がり込んできてしまって。兄と私が助かったのが、奇跡としか言いようがなかったですよ。先に逃げてきた人がかなり……そうですね、十五、六人ほどはいたので、私たちは入り口近くにいたのが、幸いしたようです。爆発で入り口付近の天井が崩れて、私たち二人は埋まって、それで……落ちてくる土と、母と兄の婚約者の体が盾になって……二人を少しでも中にいれようと思ったのが、かえって災いになってしまったようでした。そこに避難していた人たちは、私たち二人以外、誰も助かりませんでした。家族の弔いを全てすませた後、私たちは祖国を出る決心をしたのです。神が私たちを生かしておかれたのだ。これからは神に一生を捧げ、新しい国で人々の魂の救済を祈ろうと。それで戦後カナダに渡り、カトリック修道会に入ったのです」
「えっ……」衝撃で目がくらみそうな気がした。シスターが話してくれた情景は、インドの高原で見た、あの夢とそっくりだ。あの夢の中の妹も、たしかにシスターだった。見覚えがあったのもそのせいだ。そして婚約者は──。
「お兄さんの婚約者さんのお名前って……もしかすると、シルヴィアさんですか?」
「なんですって!?」シスターは驚いたように、激しく瞬きをした。
「ええ、そうですよ。シルヴィア・ヴィーターという名前です。でも、どうしてあなたが知っていらっしゃるんですか?」
「それは、僕もよくわからないのですが……その人はもしかすると、蜂蜜色の金髪で、目はブルーグレイで、色は白くて、鼻の所に薄いそばかすのある、全体にちょっと中心よりの、小作りな顔立ちじゃないですか。背はそれほど高くなく、ほっそりとしていて、髪は長く、お下げに編んで頭に巻いたヘアスタイルで、首の横に小さな赤い蝶のようなあざのある人では」
「ええ、ええ……そうです。本当にその通りですよ!」
 シスターはますます驚きの表情で頷き、繰り返し問いかける。
「でも、どうしてあなたが彼女のことを、知っていらっしゃるのですか?」と。
「よくわからないんです」僕もそう繰り返すしかない。
「でも、二、三回ほど、ヨハン神父さんとその婚約者さんの夢を……たぶんそうなんでしょうけれど、見たことがあるんです。なぜかは、よくわかりませんが……だって僕は、神父さんのことは、何も知らないですから。アリステア・ローゼンスタイナーさんの養親、ということで、お名前は知っていましたが。さっきも言いましたが、母がアリステアさんのファンで、僕も伝記を読んだことがありますから。でも……特に半月ほど前にインドの高原に行った時、そこのキャンプ場で見た夢は、ものすごく生々しい印象でした。戦争中で、兄と妹の婚約者が戦死し、父は崩れた家の下敷きになって助けられず、僕自身も除隊された、そんな状況の中、四人で……母と妹と婚約者と僕で、防空壕のようなところに避難するんですが、やっぱりそこには十何人かの人がいて、僕らは入り口近くにしかいられなくて、少しでも僕は女性たちを中に入れようとしたけれど、妹は出てきて……そこに爆弾が転がり込んで爆発して、でも妹と僕は入り口に近いところにいて、天井が崩れて土の中にすっぽり埋まったおかげで助かった。そんなストーリーでした。夢で土の中から外へ出た時、僕は気づくんです。右手は、ずっと恋人の手を握り締めたままになっているって。だけど、本当に手だけなんです。腕の途中で切れていて……。母と恋人の安否は、その時にはわからなかったのですが、恐ろしい予感がして、夢の中で叫んでいたんです。シルヴィアって。でもそんな名前の女性に、知り合いはいないんです。だから不思議に思って。さっきあなたがおっしゃっていたお話と、ほとんど同じような状況だったから、ひょっとして同じ人なのかと……」
「おお……あなたは、やはり……」
 シスターは、まじまじと僕を見つめた。その視線は僕の頭のてっぺんからつま先までゆっくりと動き、最後に再び僕の目を凝視する。そして目頭に手を当て、うつむいていた。
「やはり、そうだと思っていました。あなたは、兄さんと同じ目をしているから……その目を見て、兄さんを思い出していたんです。まるで若い頃の兄さんと話しているような気がして……懐かしかったのも、無理はないですね。本当に、すぐにやってきてくれて……」
 シスターの目は涙で潤んでいた。僕の両肘のあたりに手をかけ、懐かしげに見つめてくる。僕も彼女の言わんとしている意味がわかった。だがわかっても、戸惑うばかりだ。本当か? 冗談だろう。僕が神父さんの生まれ変わりだというのか――? 輪廻転生なんて、本当にあるかどうかも、わからないのに。
 シスターも僕の当惑がわかったらしい。微笑を浮かべて手をはずした。
「そうでしょうね。そんなことを言われても、あなたにとっては、戸惑いを覚えるだけでしょう。忘れて下さい。でも私はあなたに会えて、本当に良かったと思っています。約束通りだったのですね」
「約束?」
「ええ、兄が最後に言ったのです。私はすぐに戻ってくる。すべてを見届けるためにって」
 僕は言葉を探したが、上手く見つからなかった。
「ああ、そんなことを言っても、あなたを困らせるだけですね。本当に忘れて下さい」シスターは笑顔で、そう繰り返した。 「ええ、そうします……」僕は頷いた。笑顔を作ろうとしたが、少しぎこちないものになったと思う。
「では、おやすみなさい。狭い部屋ですが、勘弁してくださいね」
「いえ、とんでもない。本当にありがとうございます。おやすみなさい」
「それと、洗面所と手洗いは廊下の突きあたりですから」
「わかりました。ありがとうございます」
 僕らは寝室に引き取った。たしかにあまり広くない部屋だけれど、きちんと整えられている。窓にかかった水色更紗のカーテン、同じ素材のベッドカバー、木製の書物机と椅子。机の上の灰色の小さな一輪挿しに、ひまわりの花がいけてある。きっとシスターが飾っておいてくれたのだろう。ベッドは一台しかなかったので、臨時用ベッドとして、窓際のソファの上に、オレンジストライプのカバーがかかった枕と、花柄の毛布が二枚置いてあった。どっちがベッドを使い、どっちがソファを使うかでしばらくロビンと譲り合った末、公平を記してくじ引きで決め、結局僕がベッドを使うことになった。
 たぶんこの部屋で、アリステアさんやアグレイアさんは育ったのだろう。エアリィもマインズデールに来る時には、ここを使っているに違いない。この部屋の机には、さまざまな年代を重ねたような、たくさんの落書きがしてあった。三代でこの部屋と机を使っていた、その年輪なのだろう。ただ、部屋の様相はその持ち主によって変わっていたに違いない。この水色系のインテリアは、エアリィの好みだろうか。アグレイアさんの時代には、ピンクの花柄だったのかもしれない。アリステアさんは……何色が好きだったのだろう。あの人が昔使った部屋に今僕がいると母が知ったら、感激するだろうな……。そんなたわいもないことを思いながらベッドにもぐりこむと、どっと眠さを感じた。いろいろと、不思議なことがありすぎた一日だった。深く考えると、混乱して僕まで正気をなくしそうな気がする。もう考えるのはよそう。僕らにとって一番重大な問題は、アーディス・レイン・ローゼンスタイナーが元の彼に――完全に戻ることは不可能だと彼は言ったが、それに近い状態に戻り、バンドに復帰してくれるかどうかだ。エアリィは時間をくれと言った。そして――そうだ。インドの寺院で出現した彼の中の超人格も、最後に同じようなことを言っていた気がする。『時間をください』と。僕らに出来ることは、信頼して待つことだけなのだ。

 僕は夢も見ずに眠り、目がさめた時には、朝の八時を過ぎていた。シスターは教会の庭を掃除していて、居間のテーブルの上にゆで卵とサラダ、パンの籠が、布巾をかけて置いてあった。コーヒーはウォーマーに入っている。僕らは朝食を取り、お世話になったお礼に掃除や庭の草むしりを少し手伝ってから、教会を後にした。宿代と食事代としていくらか置いてこようと思ったが、シスターはどうしても受け取ろうとしない。それでも僕らは寄付という名目で、いくらか渡すことには成功した。キャラダイン神父はその夕方に帰ってくるらしく、僕らの滞在中、ずっとシスターひとりだけだった。
「私も年ですから一人で大丈夫かと、神父さんは心配していたのですよ。あなたがたが来て下さって、かえって助かりました」シスターは別れ際に、笑顔で言った。そしてつと僕の手を握り、再びまじまじと見つめながら言葉を継ぐ。
「また、ぜひいらしてください。でも、たぶんちゃんとお会いできるのは、これで最後のような、そんな気がしますが……私はあなたにお会いできて、本当によかったと思っています、ジャスティン・ローリングスさん」
「あ……ええ、僕もです。本当にありがとうございました。また機会がありましたら、ぜひお邪魔させてください」
 さすような熱っぽい視線に、いくぶんくすぐったさを感じながらも、奇妙な郷愁と切なさを覚えて、僕も強く、といっても相手が痛くない程度にその手を握り、微笑を浮かべた。
「ではお気をつけて、あなたもお連れの方も」
 シスターも微笑し、僕らに向かって手を振った。

 僕らは教会をあとにし、もと来た道をたどり始めた。
「シスター・アンネは、ずいぶん君のことを気に入っていたみたいだね、ジャスティン」
 メインストリートを歩いている時、ロビンがそう切り出してきた。
「前世では、僕らは兄妹だったらしいからね」僕は肩をすくめ、半分冗談のように言おうとした。さらに冗談めかして、言葉を続けた。「まさかシスターに嫉妬したとか、自分が省みられないから落ち込んだとか、そんなことを言うんじゃないだろうなあ、ロビン」
「まさか! 違うよ。やめてよ、ジャスティン!」彼は笑って抗議する。
「はは、冗談だよ。本当に、おまえも成長したな、ロビン。ロスの病院で落ち込んでいた頃に比べてさ」僕は相手の背中をぽんと叩いた。
「うん。僕はもうあの頃の、うじうじした僕じゃないつもりだよ。あの時君の言葉でかなり吹っ切れたし、それにそれからも、いろいろあったしね」
「そうだな。昨日草原でエアリィにいきなりハグしにいった時には、本当にびっくりしたよ。おまえは僕にだって、めったにあんな行動はしないからな」
「うん。自分でも、あとでびっくりしたよ」ロビンは少し恥ずかしそうに笑った。
「でもあの時には、思わず身体が動いたんだ。あんな彼は見たくないって思った。本当に別人みたいで、放っておいたら、どこか手の届かないところへ行っちゃいそうで……理想であり続けて欲しい、っていうのは僕の勝手な期待だけど、でも以前のエアリィに戻って欲しいって、本当に思ったんだ。昔のように僕ら五人でいたい、ずっと……って」
「おまえはあの時、一番適切な行動をしてくれたんだと思うよ。エアリィをこっちへ引き戻すために。僕はおまえと一緒に来られて、よかったと思う」
「うん……そうなら、本当に良かったけど」ロビンは少し照れたような笑みを浮かべ、僕を見上げた。「ジャスティン、君はもちろん一番の大親友だけど……でも、やっと完全にわかった気がするよ。ロスの病院で、君が言っていたこと」
「本当に、良かったよ」僕は頷いた。

 駐車場へ行く前に、僕らは町の食堂でホットドックとコーヒーの軽食を取ってから車に乗り、フレデリクトンへ向かった。その道中で、ロビンは口を開いた。
「マインズデールの町って、きれいなところだったね。感じがスイスの小さな村みたいだ」
「ああ、それはあるかもな。僕はスイスの方は、実際に行ったことはないけれど。去年のヨーロッパツアーは、イギリスとドイツとオランダと、北欧だけだったしな」
「そうだね。ヘッドライナーのバンドの地盤が、そのあたりだったんだろうね。僕は小学生の頃、一度スイスへ行ったことがあるよ。家族で。いつもは母さんの実家の農場へ行っていたんだけれど、その年には行けなくなって、その代わりにって」
「ああ、そういえば一度、夏にヨーロッパ旅行へ行っていたな、おまえのうちは。小学校……四年の終わりの夏休みだっけな。僕は五年だったけれど」
「うん。君が飛び級してしまって、僕がクラスで一人ぼっちになってしまった、あの頃だよ。あの時には、僕は旅行には行きたくなかったんだ。一ヶ月もなんて。君のうちも避暑には行くけれど、二、三週間で帰ってくるし、学校では行き帰り以外会えないから、せめて休みの日には、君に会いたかったんだけれど」
「でも、楽しいだろ、家族の旅行も。しかもヨーロッパだなんて、豪勢だな。さすがに大会社の社長一家だけあって」
「まあ……少しは楽しいこともあったけれどね」
 ロビンは微かに肩をすくめる。そしてしばらく黙った後、小さく言った。「でも、あのあたりは沈んでしまうんだよね、未来では……」
「えっ?」僕は再び忘れようとしていた未来の記憶を呼び戻され、問い返した。
「ヨーロッパがか? 残っていた気がするが」
「ううん、マインズデールだよ。沿海州は半分くらい、沈んでしまうんだ。海の中へ」
「そうだったか……」僕は未来世界で見た二つの地図を思い出そうとした。
「でもおまえ、良く覚えているな。その辺の細かい違いを」
「いや、僕はエアリィじゃないから、見た瞬間に地図を記憶しているわけじゃないよ。図書館の文献で、読んだだけなんだ。新世界で。歴史は見てないけれど、地図と解説を見ていたら。沿海州の海沿いの方は、かなり沈んでしまった。マインズデールも。でも、ランカスター草原の場所が、直径八百メートルほどだけ、あの木を中心に隆起して、海の中から出ている。島になって。そう書いてあったんだ。そしてその木は、新世界の象徴として祭られているらしいんだ。そこで、あ、これももしかしたら歴史に触っちゃうかもしれないって気づいて、やめたんだけれどね」
「そうなのか。そんなにピンポイントで残ったのか」
 僕はある種の感嘆を覚えた。新世界にもあの木が残っているなら、もう樹齢四百年を越える大木になっているだろう。でも、なぜこの木が、新世界の象徴になるのだろうか? 周りが沈んだ中に唯一残ったものだから、なのだろうか。
「でもね、それはともかく、僕はまだ、いろいろよくわからないんだ」
 ロビンはしばらく黙った後、再び口を開いた。「結局、何がどうなったのか、エアリィがなぜ、ああなってしまったのか。モンスターの覚醒っていうのは、わかる気はするんだけれど、それが具体的になんなのか、どうなるのか……僕はそういうことには縁のない凡人だから、見当もつかないんだよ。おまけにシスターは不思議な話ばかりするし、君まで妙な幻想を見たって言うし……ああ、本当に僕はその不思議の領域には、縁のない人間かなって思えるよ。エアリィや君には、ある種共鳴する、その不思議領域がある、たぶんね。でも、僕にはない。昔の僕だったら、いじけたかもしれないね。でも今はただ、僕にも知ることができたらよかった、残念だな、と思うだけになったよ。ちょっと悲しいけれどね」
「いや、僕だって、よくわからないさ。そういう点、おまえとそう変わりはないよ」
 僕は軽く肩をすくめ、首を振った。「それにわからないことなら、深く考えたくはない。そう思うよ。今回のことも、出来るだけ理性的に考えた方がいいように思うんだ。たぶん僕も慣れない土地を旅行してきたために、ハイテンションになった、それだけのことだと思う。エアリィにしたって……まあ、フレイザーさんがおっしゃることは、僕も理解は出来るけれど、おまえと同じで、それがなんなのか、どうなるのかは、わからないよ。僕にも縁のない領域だろうから。でも、どっちかといえば、エアリィはミックが言ったみたいに、今までの環境を乗り越えようと無理しすぎて、心理的なひずみが溜まったところに、トレーニングと異国の環境がストレスになって……あいつのトレーニングは本当に限界ぎりぎり、いや、それ以上だったらしいから、それで精神バランスを崩した。そう思った方が、無難な気がするんだ。だけど幸いにも、それは一時的な錯乱で、時がたてば回復するものなんだろうと。シスターの話だって冷静に考えれば、きっと理論的な謎解きができるんだろうし、真相は案外単純なものなのかもしれない。それに生まれ変わりの話なんて、確かめようがないしね。単なる偶然が重なっただけっていうことだって、あり得るんだ。だからおまえも、あまり深く考えない方がいいかもしれないな、ロビン」
「うん。いろいろ納得はできないけれど……そう思ったほうが、いいのかもね」
 ロビンは微かに首を振り、小さくため息をついた。「君の言うことは、わかるよ。ああ、ジョージ兄さんだったら、絶対そう考えるに違いないしね、ジャスティン。現実的に考えたほうがいいって……」
「そうさ。おまえがSFやオカルト好きなのはわかるけれど、そういうことを現実に持ち込みすぎることは、ある意味危険だと思うんだ。極力、理論的に考えて、あとは気にしないことだな」
「うん……」ロビンは頷き、しばらくのち、再び首を振った。
「そうだね。考えたって、僕にはわからないことだから」
「そう。僕もそうだよ。だからもう、僕は考えないことにしたんだ」
「うん。本当に……僕も、できるだけもう、考えないようにするよ」
 ロビンは再び頷く。そして僕らはしばらく黙った。
 カーステレオはロック局にチューンしてある。ラジオなんて、僕の好みとは程遠い。そう思い、デビューするまではほとんど聞いたことがなかった。でもロードでの移動の時間が増えていくにつれて、お気に入りのCDをかけていることもあるが、BGM的に音楽が欲しい場合に、聞くようになった。時々自分たちの曲もかかるし、何も音がないと、少し寂しく感じることもあるからだ。
 次々とかかる曲を、僕はほとんど聞き流していた。今の音楽シーンには、特にメインストリームと呼ばれる、メディアでよくかかるような音楽には、ほとんど刺激や魅力を感じてはいない。だからこそ、自分たちが聞きたいと思う音楽を目指してバンドを作ったのだ。
 曲が変化した。同時に僕らは「あっ!」と小さな叫びを上げた。カーステレオから流れてきたのは、僕らの曲『Take into the Flame』──セカンドの中では一番気に入っていて、スマッシュヒットもしたチューンだ。軽い震えを感じながら、僕は聞き入っていた。

 君を縛るもの/君を傷つけるもの/君を悩ませるもの
 それは終わりのないゲームになっていく
 君を閉じ込める檻/君を捕らえる怒り
 それが君を阻む障壁
 炎の中に投じてしまえ

 妬み、欲望、怒り、フラストレーション
 侮辱、悪意、虚無感、そして絶望
 無知、皮肉、暴力、そして孤立
 怠惰、裏切り、苛め、そして疎外感

 君を落ち込ませるものは多すぎて
 同じ状態に君を縛り付けてしまう
 でもそれは意味のない棘に過ぎない
 炎の中に投じてしまおう

 そういえば、この曲の歌詞は青臭いと、あのプロデューサーには言われたのだったな。それに対しエアリィが『僕も年齢的にはミドルスクールですから』と肩をすくめ、『そう、君は十五なんだな。本当に若いな』とプロデューサー氏は、少し残念そうなトーンで言っていた。その裏の意味を考えると、悪い意味で鳥肌が立つが。
 これは無事な三曲のうちの一つ――イントロを短くし、少し構成を単純化して、リフレインを多めにしたが、それほど妥協はせずに通せた曲だ。これと『Round and Round』、そして『Silent Cry』この三曲だけは。
 ロビンもじっと聞き入っているようだったが、曲の間奏に入ったところで、かすかに笑みを浮かべた。「この曲、いいよね。セカンドの中で、一番好きだ。それに僕、エアリィの歌は好きなんだよ、最初から。気持ちが浄化されるような声だよね。響きがきれいで、優しくて、でも力強い」
「ああ」僕は頷いた。
「昔、言ってたよね、ジャスティン。まだ僕らが四人だったころに。前線のパートナーが欲しい。言葉とメロディを持った声の方が、遥かにリスナーに届くからって。僕も本当に、それは正しかったと思うよ。それに、僕はやっとわかった。彼の言葉は経験に裏打ちされた、本心からの思いなんだって。だから、聞き手の心に届くんだ」
「ああ……そうだな」僕は深く頷いた。そして続けた。「だから、もうインストバンドには戻らない。戻る気はない。ミックが言っていたっけ。僕がエアリィに出会った前の日の練習で。インスト四人じゃ、不完全だっていう気がする。最後のピースがはまれば、このバンドは完全なものになるって。本当に、その通りだったと思う」
「そうだね、本当に……」ロビンも頷いていた。
 曲は後半のリフレインに入り、ロビンは小さな声で一緒に歌いだした。

 僕を縛るもの/僕を傷つけるもの/僕を悩ませるもの
 そんな終わりのないゲームはもうやめよう
 僕を閉じ込める檻/僕を捕らえる怒り
 それが僕を阻む障壁
 炎の中に投じてしまえ
 炎の中に投げ込め
   そして、すべて焼き尽くすんだ……

 ん? 歌詞はyouだが――エアリィもそう歌っているが、ロビンはmeになっている。ああ、そうか――僕は運転を続けながら、二人のデュエットを聞いていた。ラジオから流れる声と、隣から聞こえる声。フルコーラスで流してくれた、ラジオ局に感謝しよう。
 曲の終わりにかぶさって、DJが言った。
「ハイ、ハリファックスに住むアリス・ミラーさん、十六歳からのリクエストでした。こんなメッセージを頂いています。『セカンドはちょっと中途半端かな、普通のバンドっぽくなってしまったな、と思ったけれど、好きな曲もたくさんあります。運の悪いアクシデントでツアーがあっという間に終わり、それ以来目立ったニュースを聞きませんが、でもきっとこんなことではめげないで、次のアルバムで復活してくれると信じています。セカンドでは、この曲が一番好きでした』そうだねえ、AirLace、がんばって欲しいねえ、ぜひ。カナダロック界の、期待の星だからね。僕もデビュー盤のほうが好きだったけれど、まあ、若いということは、いろいろ試行錯誤もあるからね。次は、いつ頃出るのかな。アリスだけでなく、気にしているファンはかなり多いと思うよ」
 一瞬の間の後、番組は別のアーティストの曲へと移った。僕は手を伸ばし、カーステレオを切った。我知らず、呟きが漏れた。
「僕らはまだ、これからなんだな。がんばらなきゃ、本当に……」
「うん。絶対このままでなんか、終われないね」ロビンが強い口調で同調した。
「ああ、絶対次は納得の行く、いいものを作ってやる。全力で」
 僕はハンドルをぎゅっと握り締め、頷いた。




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