The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(12)





 その日の午後、ロブに空港まで送ってもらって、ロビンと僕は沿海州へ向けて発った。そして夕方七時ごろ、ニューブランズウィックの州都、フレデリクトンに着いた。そこからマインズデールまでは、車で約三時間弱かかるという。知らない夜道、しかも途中からは、かなり何もないという道を走る勇気はなかったので、僕らはトロントを発つ時に予約しておいたホテルに一泊した。翌日の朝九時に、レンタカーを借りて出発。お昼すぎに、僕らは目的地に着いた。
 マインズデールはニューブランズウィック州の中央部に位置する、人口二千人程度の小さな町だ。鉄道は通っていず、州を通る大きな道路から外れた枝道沿いのため、車だけが頼りだ。公共の交通手段は、モンクトンやフレデリクトンとの間を結ぶバスが一日に二、三便通るだけ。アリステア・ローゼンスタイナーの最盛期や死後十数年ほどは、彼の聖地として熱心なファンたちが、交通の不便さを押して大勢やってきたらしいが、今は訪れる人もそれほどは多くないと聞く。
 駐車場を探して車を停め、近くにあった小さな食堂で昼食を取ったあと、僕らはメインストリートを歩き出した。郵便局、銀行の出張所、会社の小事務所やいくつかの商店、スーパーマーケット、住宅。建物はクリーム色や明るいベージュに塗られ、バルコニーで栽培されている赤やピンクの花々が色取りを添える。メインストリートの両側には、ポプラの街路樹が十メートルくらいの間隔で植えられていて、その間は花壇になっていた。
 まるでお菓子箱のように、きれいで小さなこの町に来るのは、もちろん初めてだ。でも通りを歩いているうちに、僕は妙な郷愁におそわれた。ここに来たのは初めてではないような、そんな感じが強くする。それに僕は教会の所在地を、正確には知らない。現地へ行って携帯電話の地図を開いてみればなんとかなるだろうと、そんな気でいたのに、実際に町へ着いてみると、なんとなく道がわかるような気がした。メインストリートを町役場の方角に向かって歩き、マーケットの角にある交差点を左へ。それから五分ほど歩いて橋を渡り、四つ目の角を右へ。そこからまっすぐ行けば、やがて左手に見えてくるはず──。
 あまりに僕が迷いなく歩いていくので、ロビンは不思議に思ったのだろう。「ジャスティン、君はマインズデール教会を知っているの?」と、聞いてきた。
「いや……知らないと思う」僕は首を振った。「存在は知っていたけれどね。母さんがアリステアさんのファンだったから、僕もバイオを読んだことがあるんだ。マインズデール・カトリック教会は、アリステア・ローゼンスタイナーのファンなら、知っていて当然の場所だよ。でも、母さんは実際に行ったことはなかったんだ。僕も当然そうだよ」
「そう。エアリィから場所を教えてもらったこともないよね。地図を見ているわけでもないし。あらかじめ調べたわけでもないみたいなのに、君はまるで道を知っているみたいに、ずんずん行くんだもの。ちょっと驚いたよ」
「僕もびっくりしているよ。でもなんだか、すごくおぼろげに覚えているような気もするんだ。不思議だな。夢ででも、見たんだろうか。もう、そろそろ見えてくるはずだよ」

 やがて、木製の柵に囲まれた教会が視界に入ってきた。その外観を見たとたん、僕は思わず足を止めた。同じだ。壁は明るいグレーに塗りなおされ、十字架も新しく金色に塗られたようだが、そのたたずまい、モスグリーンの屋根、ステンドグラスのはまった窓、庭の雰囲気。夢で見た教会そのままだった。ただ夢で見たものより、かなり時を経ている、そう感じられるだけで。
 僕は気をとりなおし、中へ入っていった。礼拝堂には誰もいない。夢で見たと同じように手入れの行き届いた花壇に、同じ夏の花が咲いている。芝生を踏んで建物を回ると、裏庭は墓地だ。そこは夢の風景とは、いくぶん雰囲気が変わっていた。中央近くに鮮やかな赤いバラと白い百合が植えられた、ひときわ目立つ墓がある。僕たちはその前に行って、碑文を読んだ。
【アリステア・ジョン・ローゼンスタイナー ここに眠る。
 一九四八〜一九八五 三七才没 
【人生は一本の映画である】』
 その隣に、ピンクのトルコ桔梗が植えられている小さな墓があった。
【レナ・メイアリング・ローゼンスタイナー ここに眠る。
 一九四七〜一九七六 二九才没】
 こっちはアリステアさんの奥さんのお墓だ。この人は思春期になってから両親を亡くし、それ以降はこの教会を手伝いながら一緒に暮らしているうちに、アリステアさんと恋に落ちたという話だった。元々心臓が弱く、アグレイアさんを産んで一年足らずで世を去ったと、伝記本に書いてあった記憶がある。こちらには何も碑文は書いてなかった。
 僕たちはそれほど広くはない、手入れの行き届いた墓地を歩き回った。ある墓の前まで来た時、僕は再びぎくりとして足を止めた。崩れかけた灰色の石、その墓標はほとんど消えかけているが、それでも途切れ途切れにこう読める。
【ジョナサン・セオドア・ランカスター ここに眠る】と。その下の碑文は、人生と家族、そしてかろうじてその残った綴りから『失意』だと判別できる言葉しか読めない。でも、これは同じお墓だ。夢で見たものは真新しかったが、それからかなりの年数が経っているという違いがあるだけで。僕は何か得体の知れない戦慄を感じて、その場を離れた。
 さらに歩くうち、片隅に灰色の石でできた小さなお墓を見つけた。この教会の先代神父であるヨハン・ローゼンシュタイナー師(これが本来のドイツ語読みの姓だ)のものだ。英語読みではジョン・ローゼンスタイナーとなるこの人は、しかし自分からそう名乗ることはなく、ずっとドイツ語読みで通したため、村の人々からもヨハン神父と呼ばれるようになったらしい。
 アリステアさんの養父ということで、通のファンにはある程度そのプロフィールを知られているヨハン神父のことも、母の蔵書であるアリステアさんのバイオグラフィーに書いてあった。彼は世界大戦後、妹とともにカナダに渡り、カトリック修道会に入った後、ここで初代マインツ神父さんの跡を継いだ人らしい。ヨハン神父はアリステアさんが亡くなる九年前に、急病で世を去ったという。一緒に来た妹、アンネ・マリア・ローゼンシュタイナーは(この人も英語風にアン・マライアとは、決して名乗らなかったらしい)、神父さんの死後もシスターとして教会に留まり、司教はヨハン神父の親友だった人の甥が継いだらしい。
 ヨハン神父のお墓には、こんな碑文が刻まれていた。
【私はまた戻ってくる。すべてを見届けるために】
 この言葉にも聞き覚えがある。僕はずきっとした感覚を覚えた。まるで急に鋭い稲妻突き刺さったような。ちょうどその時、僕らの背後から聞こえた声のせいかも知れない。
「何かご用ですか?」
 微かにドイツアクセントが入った、低い、はっきりとした威厳のある声だった。
「あなたがたは、お墓参りに見えたのですか? それとも神父さんにご用ですか? でもあいにくと、キャラダイン神父は不在ですよ。近隣の村へ巡回出向中なのです。神父さんは明日の夕方、お帰りになる予定ですよ」
 振り返ると、グレーの法服に身を包んだ尼僧が立っていた。まるで気配を感じさせないで、僕らの背後まで来ていたのだ。ベールの下の顔には深いしわが刻まれ、相当な年配のようだけれど、顔立ちは上品に整っている。きっと若いころは、かなり美しかったのだろう。澄み切った灰色の瞳には、驚くほど若々しい力がこもっていた。その眼差しは慈愛に満ち、なおかつ衰えぬ鋭さを感じさせる。その顔に、僕は見覚えがあった。エアリィの部屋で見た写真に写っていたシスター。この人がきっとアーディスの母親の後見人、そして先代神父さんの妹である、シスター・アンネ・マリアに違いない。
「あなたがたは、この町の人ではありませんね」彼女は僕らに視線を据えたまま、言葉をついだ。「初めて見る顔ですもの。どちらからいらしたのですか?」
「はじめまして。突然うかがってすみません」
 僕は礼儀を思い出し、自分たちの名前と、トロントから来たことを告げた。
「ああ、そうですか。わかりました。あなたがたはアーディスのお友達ですね」
「ええ、そうです。それに、同じバンド仲間です」
「そうですか。先日、トロントのマネージメント会社の方から、お電話がありました。アーディスがどこかへ行ってしまったので、心当たりがあったら教えて欲しいと。それから二日後に、マネージメントの関係者とおっしゃる方も、お見えになりました。あなたがたも、あの子を探しに見えたのですか、こんなところまで?」
「ええ、そうです」
「でも、あの子はここには来ていませんよ。なにも連絡はありませんし。マネージメントの方々にもそう言いましたが、あなたがたは聞かれなかったのですか?」
「ええ、それはわかっています。でも、僕らはちょっとでも彼の手がかりを知りたいんです。ここはエアリィ、いや、アーディスが生まれたところだし、あなたは彼のお母さんの後見者だったとも聞きました。彼自身のことも、小さい頃から知っている方だと。だから僕らが知らないことでも、何かわからないかと思って、来てみたのです」
「……アーディスもいいお友達を持って、幸せですね」シスターはかすかに微笑した。
「ええ、私はあの子がごく赤ん坊の頃から知っていますし、母親が仕事で面倒を見られない時などに、時々何ヶ月間か預かっていたこともあります。正確に言えば、ここはあの子が生まれたところではありませんけれどね。実際あの子がどこで生まれたのかは、誰にもわからないのですよ。私はあの子の母親アグレイア、その父親アリステアと二代に渡って育ててきましたし、アリステアが亡くなった後は、アグレイアの後見人にもなりましたが。アーディスはステュアートさんが後見人になってくださっていますがね。ええ、あまりお役には立てないかと思いますけれど、あの子について私の知っていることを、あなたがたがお知りになりたいのなら、お話してもいいですよ。こちらへお入りになってください」
 彼女は教会に隣接した司祭館の横手にある小さなドアを開けて、僕らを招き入れた。
「ここは私用の居間なのです。その椅子におかけになってくださいな」

 二人がけのソファにはクリーム色の地にスミレの花を散らした、比較的新しそうなカバーがかけてあった。シスターは奥に(たぶん台所だろう)行くと、すぐに戻ってきて、自分も向かい側にある肘掛け椅子に腰を下ろした。テーブルの上には、作りかけのパッチワークの作業かごが置いてある。彼女はそれを取りのけ、窓際に置いた。
「今、お湯をかけて参りましたから、お茶はもうしばらく待ってくださいね」
「いえ、お構いなく。僕らはお客さんではないですから」僕はあわてて手を振った。
「どんなことが、お知りになりたいのですか?」シスターは灰色の目で僕らを見守りながら、きいてきた。「でもその前に、私からも一つ聞いていいですか? あなた方の所属している音楽事務所の方は、アーディスの所在がわからず、連絡も取れなくて困っているので、心当たりはないかとおっしゃったのですが、そのお電話があって、もう十日以上たちます。あなたがたがここへ探しにいらっしゃっているということは、あの子はまだ所在不明なのですね。私は、それがどうも腑に落ちないのですよ。あの子らしくないのでね。アーディスという子は、あまり深く考えないで行動することがあるのは認めますが、みなさんが心配して探しておられるというのに、十日以上も連絡しないということは考えられません。一日二日なら、そこまで気が回らなかったということもありますがね。忘れっぽいということではないのですが。実際、あの子は忘れませんしね、何事も。ただ、他のことに強く気が行っている時には、それ以外のことが、意識から抜けてしまいがちになるようです。でも、あの子は少なくとも無責任ではないですから、そこまで時間がたてば、いくらなんでも気がつくでしょう。ですから、何かよほど特別な事情があるのか、それが気がかりなのです。あの子は、どういうふうにいなくなったのですか?」
「それなんですけれど、実は……」
 僕は頷くと、これまでのいきさつをかいつまんで話した。
「まあ……」シスターは驚きの表情になり、ついでため息をついた。
「そうですか。まあまあ、そんなことが……でも、あの子にはたしかに、なにか不思議な雰囲気がありましたからね。そもそもあんな尋常でない生まれ方をした子だから、ちょっとくらい普通でない点も、あっても不思議ではないのかもしれませんけれど」
「尋常でない生まれ方……ですか?」
「ええ。本当に不思議な話なのです。そもそもあの子の父親はいまだにどこの誰かわからず、誕生日も正確かどうかわからないということは、知っていますか?」
「ええ。お父さんのことは、お母さんが記憶喪失になったから、わからないって……それは聞いています。でも、なぜそうなったか、という詳しい事情は聞かなかったですが」
「そうですか。話せばいろいろ長くなりますが……実は、あの子が生まれる一年前に、母親のアグレイアが、突然失踪してしまいましてね」
「ああ、そういえば、ミュージカル監督のジーノ・フレイザーさんが、言っておられました。アグレイアさんは売り出し中の、一番大事な時期に失踪したって。そのことですか?」
 僕はふとあの夜の講師たちの会話を思い出し、問い返した。
「ええ。そうなんです。その方も、私は知っていますよ。アグレイアが行方不明になった時、何度もここを訪れてこられて、お話もしたことがありますから。ええ。本当にあれは不可思議な失踪でした。そのこともあったので、今度アーディスがいなくなったと聞かされた時、私は内心では、あの子の母親のように消えたのかと、思ってしまったくらいでしたよ」シスターは遠くを見るような目で語り出した。
「あれは今から十何年か前の六月、そうですね……アーディスが十六なのだから、十七年前ですね。アグレイアは五月に二十歳になったばかりでした。その三、四日前からここに帰ってきて……あの娘の母親はあの娘が赤ん坊のころに亡くなったので、私がずっと母親代わりとして育てたのです。あの娘の父親同様に。アリステアは忙しい身ですし、ハリウッドはあまり子供向きの環境とは言えませんからね。アリステアが亡くなってからは、本当にここがあの娘の家になりました。アグレイアは十六の時、ミュージカルスクールに入るためにニューヨークへ出ていきましたが、それからもときおり帰ってまいりましてね。あの時もそうでした。七月からの舞台で大きな役をもらったと言って、喜びと期待にあふれていましたよ。それが、明日はニューヨークに帰るという日の午後――それは美しい日でした。お茶のあと、あの娘は陽気に誘われるように、ランカスター草原に散歩に行ったのです。この町のはずれにある、かなり大きな草原ですが、その季節は花盛りでしたからね。アグレイアは一人で出かけました。今も、はっきりと覚えていますよ。白い小花を散らしたローズ色プリントの半袖ワンピースに白いレースのショール、髪は服と共布のリボンで一つに束ね、素足に白いサンダルという軽装でした。近くへ散歩に行くのですから、もちろん何も持っていきはしませんでしたよ。お金も貴重品も着替えも、何一つ。『行って来ます。すぐ帰ってくるから。いっぱい花を摘んでくるわ。そうしたら、ダイニングのテーブルに飾りましょう』と明るい声で言って、前の道を草原に向かって歩いていきました。でも、それきりあの娘は、いなくなってしまったのです。夜になっても帰ってこないので、私もキャラダイン神父も心配して、探しに出かけました。草原に一本だけある木の下に、摘みかけの花束とあの娘が髪につけていたリボン、それにサンダルの片一方が落ちていました。他には何も変わったところはありません。あの娘が煙のように消えてしまった以外は。まるで、神隠しにでもあったようでした。もちろん私たちも、ブロードウェイの関係者の方たちも、方々手を尽くして探したのですが何の手がかりもなく、まったく行方はわかりませんでした。舞台は代役の方が演じることになり、その夏は終わりました。秋が過ぎ、冬が訪れても、あの娘は帰ってきませんでした。春になるころには、このまま帰ってくることはないのではないかと、私たちも半ばあきらめかけていたのです。昔もその向こうの森で神隠しのようなことがあって、ついに発見されなかった事件がありましたしね」
 シスターはそこで一息入れてしばらく黙り、また話し出した。
「それが忘れもしません。ちょうど一年後の夜でした。夜中に目が覚めて、ふと窓を閉め忘れたことに気づき、閉めようとしたら、急に空が光ったような気がしたのです。稲妻だろうか、でも雨は降っていないようなのに、と不思議に思ったとたん、わかりました。流れ星だったのです。空一面、まるで雨のように星が降ってきたのです。時計を見ると、三時二十分か三十分頃……あの季節は、もう少しで夜が明ける頃です。流星雨が観測されるだろうなどというニュースはまったく聞いていなかったので、本当に不思議な気がしましてね。私は不意に、これはきっと何かの前兆に違いないと感じ、我知らずひざまずいて祈っていました。それからベッドに入ってまた眠ったのですが、朝の五時くらいにまた目が覚めました。誰かが寝室の窓を叩いているのです。弱々しい音でしたが、私はそれに気づき、窓を開けました。窓の外に、アグレイアが立っているではありませんか。消えた時と同じ服装のままでしたが髪をたらし、サンダルが片一方脱げて裸足でした。おまけに腕の中に小さな赤ん坊を、しっかりと抱きかかえていたのです」
「じゃあ、その赤ちゃんが……?」
「ええ、そうです。アーディスです。ともかく、こんなに仰天したことはありませんでした。私はすぐに二人を中に入れました。赤ちゃんは、本当に小さな子でしたね。目方を量ったら千二百グラムくらいしかない、手のひらに乗るような赤ん坊でした。見たこともないくらい可愛いらしい子でしたね。アグレイアがどこかで、天から落ちてきた天使の赤ん坊を拾ってきたのではないかと、私は一瞬思ったくらいです。一インチほどの水晶のようなものを左手にしっかりと握っていて、それがちかちかと光っていたのを覚えています。金のチェーンがついたペンダントでした。なかなか離そうとしないので、私はそのまま握らせておきました。三日ほどでようやく手を離したので、私が一度預かり、あの子が十歳になってから、母親や小さな妹たちと一緒にここに来た時に、事情を説明して返したのです。それからずっとあの子は、そのペンダントをつけているようですが」
 ああ、あのペンダントか――あの時、光っていた。金色の鎖に、直径二、三センチくらいの透明な水晶がついているが、エアリィはいつもアンダーシャツの下にそれをつけているようだ。鎖が長いので、水晶が胸の中心部くらいに来るのだが、球体ではなく、厚みが一センチくらいしかないので、普段は緩みのある上衣に隠れて、まったくわからない。
「赤ん坊は裸のまま、アグレイアが失踪した時に羽織っていたレースのショールにくるまっていました。六月とはいえ、明け方は肌寒いので、身体がかなり冷えていました。たまたま手元に孤児院に寄付するオムツとベビー服があったので、大きすぎてブカブカでしたが、ないよりはましですから、それを着せて、赤ん坊用のミルクはなかったのですが、哺乳瓶はあったので、とりあえず砂糖湯を作って飲ませ、毛布にくるんで寝かせると、アグレイアに事情を聞いてみたのです。あの娘は部屋からカーディガンを取ってきてはおり、自分でココアを作って飲んでいましたが、私の質問に、ランカスター草原で花を摘み、ぽかぽかして眠くなったので、木の下で少しうたたねをしたようだと、答えていました。『ごめんなさい。こんなに遅くなっていたなんて気づかなかったわ。すっかり眠りこんでしまったのね』あの娘はそう言いました。昼間花をつみにいって、眠りこんで夜になった、まるでそんな感覚でした。こうも言いました。『左のサンダルはどこへ行ってしまったのかしら。探したけれど、なかったの。髪のリボンも。それはまあ、良いけれど……すっかり足が痛くなってしまったわ。赤ちゃんを抱いて、一マイル近くも片足跳びは出来ないから。赤ちゃんがいなくても無理よ』とも。そして自分で驚いたように、繰り返すのです。『赤ちゃん? そういえば、あの子はどこから来たの?』と」
 シスターはそこで一息おくと、両手を組み替えてから、再び話し出した。
「私は聞きました。『あなたはどうやって、なぜ、あの赤ん坊を連れて帰ってきたの? あの子は、いったいどこの子なの?』と。あの娘は不思議そうに考え込み、言いました。『わたしの子……なのかも知れない。そう思ったのよ。目が覚めて、わたしの腕の中に赤ちゃんがいた時に……夢の中で、わたしは子供を産んだような気がするの。誰かが(はい、この子はあなたの子ですよ)と言ったの。わたしもそうだと思ったの。だから、わたしは何も疑問に思わずに、自分の子だと思って、抱いて連れて帰ってきたのだけれど……あの子って、本物なの? でも……』あの娘は頬に手を当て、しんから戸惑ったような顔をしました。『今日は六月十四日でしょう? もう朝だから。今日わたしは、ニューヨークへ帰る予定なのよ。明後日からリハーサルが始まるから。でも、一日で赤ちゃんを産むことなんて、できないわ。わたしは妊娠なんかしていなかったもの。ましてや、臨月でなんかないし。ありえないじゃない』私は注意を促しました。『そう、今日は六月十四日よ。でもあのカレンダーをよく見てごらんなさい、アグレイア。日付だけではなくて、他を』と。アグレイアは壁にかかったカレンダーを、じいっと見つめました。違いに気づくと、小さな悲鳴を上げましたよ。『金曜日? え、火曜日の後だから、水曜じゃないの? ええ、なんですって、九六年?!』あの娘はしばらく呆然とし、それから激しく震え出しました。『いったい、これはなんの冗談なの! 来年ですって?! わたし、タイムトリップでもしたの?! ねえ、もしこれが本当なら、舞台はどうなってしまったの? 終わってしまっているわよね、もうとっくに! わたし、出られなかったの? 誰かがかわりに出たの? 冗談じゃないわ! わたし、今度の役にかけていたのに! もう七光りなんて言われないように、がんばって見返そうと思ってたのに! わたしの一年を返して! いったい、何がどうなっているの。さっぱりわからないわ!』と、本当に取り乱したさまで叫ぶように言うと、頭を振って、泣き崩れてしまいましたよ。これは完全な記憶喪失だと思い、私は次の日にアグレイアを連れてモンクトンに行き、お医者さまにかかったのです。診断の結果、本当に記憶喪失であることがわかりました。あの娘がその十三年後に事故にあって死ぬまで、空白の一年間の記憶は、ついに戻らずじまいでしたよ」
「なぜ、アグレイアさんは記憶喪失に……?」僕は思わずそう聞いた。
「それはわかりませんね。その時に見てもらった専門のお医者さまの話によると、記憶喪失というのは、頭部に外傷を受けた後か、非常に強い精神的な打撃にあった時に、起こりやすいらしいです。でも、アグレイアには頭部に外傷を受けたような痕跡はなかったし、検査をしても、脳にも何も異常は見つかりませんでした。精神的な問題ならば治療を受けているうちに糸口がつかめてくるらしいですが、それもまったくなかったようです。あの娘は二ヶ月ほど治療を受け、結局原因は不明ということで、あきらめてしまったのです。最後の診療の時、お医者さまはこんなことをおっしゃっていましたよ。『記憶をなくしているというより、元々記憶が存在していなかったような印象を受けるのです。赤ん坊を産んだ夢を見た。それは事実だったのかもしれませんが、その前後の記憶が夢という形ですら記憶に残っていない。不思議なことだとしか言いようがありません。これ以上、我々にはどうしようもありませんね。お気の毒ですが』と」
「アーディスのお母さんがいなくなったのが、ちょうど一年前なら、その間に……」僕は考え考え、そう口を挟んだ。
「そういう解釈が自然ですよね。お医者さまも、そうおっしゃっていましたし。十月十日と言いますが、一年もあれば、赤ん坊を身ごもって産むのには、十分すぎる期間でしょう。しかし実際にその間何があって、どこで何をしていたのか、それはアグレイア自身でさえまったく記憶がなく、当のあの娘も三年前に死んでしまった今となっては、真相は深い闇の中です。でも、私はいまだに不思議でたまらないのですよ。アグレイアはランカスター草原から失踪し、同じ場所に帰ってきた。失踪した時、警察は家出でなければ――何も持っていってないのだし、動機もまったくないから、それは考えにくいとおっしゃっていましたがね――誰かにさらわれた可能性が高いと言っていましたが、ランカスター草原の道は、車は通れないのです。良くて自転車かオートバイですが、森の中に入ってしまうと、それも通れません。あの森はこちらからは、数メートルほど中に入ったところの池のほとりで、道が終わっているのですよ。しかしマインズデールの町へ向かうなら、この教会の前も通りますし、あの娘を乗せた自転車やオートバイが通れば、誰かが見るでしょう。しかしそんな目撃者はおらず、道にも数日以内に軽車両が通った跡もない。誰かに声をかけられて森の中について行った可能性はありますが、あの森には他に道はなく、三、四キロに渡ってずっと木が茂っています。人が通れないほどではないですがね。もちろん警察は森や池の中も捜索しましたが、何も発見されませんでした」
「そうなんですか……」
「そう。あの娘はいったい、一年もの間どこへ行っていたのか、その間、どうやって生活していたのでしょう。銀行に自分の口座を持っていましたし、それに二十歳になったので父親の遺産を相続して、経済的には困っていなかったのですが。アリステアは亡くなった時、七千万ドルほど遺していましたから。今は三千万くらいに減っていますが。アグレイアもニューヨークで男に騙されたり、いろいろ浪費してしまったようで。あの娘が亡くなった後は、ステュアートさんがその半分を相続し、残りはアーディスとエステルがそれぞれ二十歳になった時に、半分ずつ相続することになっているんです。まあ……それはともかく、あの娘の預金には、その間まったく手がついていませんでした。一年間あの娘を見たという人は一人もいず、まるで世界から消えてしまったかのようでした。誰かの元に監禁されて過ごしていたなら、それもありうるのですが、そして、その間の記憶がもし辛いものなら、意識の防御として記憶が消えてしまう場合もある。モンクトンの精神科医の方も、そうはおっしゃっていました。しかしカウンセリングをして、その可能性を引き出す糸口になるようなキーワードや話をいくらしてみても、他の話題と同じような反応しか返さないので、それは考えにくいとも仰っていました。それに、もしそれほど長い間監禁されていたなら、あの娘にもそれなりの変化が出ても良いはずですが、それもありませんでした。着ていた洋服も同じですし。一年同じ服装のままなら、もっと服はボロボロになっていてもよいはずですが、私が一年前に見た時と、まったく同じような感じでした。仮にその服がすぐにどこかに保管され、たまたま逃げ出したか、解放された日に再びその服を着たのだとしても、サンダルが片方だけというのは変です。そして、まったく同じ場所で気がつくというのも」
『わたし、タイムトリップでもしたの?』
 教会に帰ってきたアグレイアさんは、いつのまにか世界が一年進んでいたことに気づいた時、そう言ったという。うたた寝している間に、一年もたつわけがない。だから彼女の感覚では、そうとしか言いようがなかったのだろう。もしかしたら、それは本当かもしれない。一度ならずその不可思議を経験した僕には、完全否定は出来ない。でもそうしたら、赤ん坊はいったいどこから湧いて出たことになる? 時の狭間から? 別のどこかの時間線が超時空間の中で交差して? いや、それはいくらなんでも不可能だ。
「私は超常現象など信じないほうですが、あの娘が口走ったような解釈も考えてみましたよ」シスターは僕の考えを見抜いたように、静かに言った。
「実際、たしかにそれに近い印象でしたよ、正直に言いましてね。記憶が存在していないのかもというお医者さまの言葉を聞いた時、なおさらそう思えました。おとぎ話ではあるまいし、現実にそんなことはあるはずがないうえ、アーディスの存在も説明できなくなりますけれどね。でも、そういう可能性も考えられた、昔のある事件をも思い出しました。それは、あとでお話ししますがね。ちょっと失礼しますよ。すっかり話に夢中になって、お湯を沸かしていたのを忘れてしまいました。お茶の分が残っていればいいですけれど」
 彼女は奥へと立っていき、しばらくのちに、湯気の立つ茶色のコーヒーカップを三つ運んできた。
「すみません。どうかおかまいなく」
 僕は恐縮しながら、カップを受け取った。ロビンも頭を下げ、手を伸ばして受け取っている。コーヒーには、すでにミルクが入っているようだった。僕は一口飲んだ。どうやらインスタントらしいが、熱くておいしい。砂糖は入っていなかった。入っているかと、懸念したのだが。シスターは「お砂糖はここにありますよ」と、テーブルにシュガーポットを置いた。ロビンは手を伸ばして、角砂糖を二つ入れていた。
 僕らはしばらく黙って、コーヒーを飲んだ。やがてシスターはカップをテーブルの上に置くと、ほっとため息をついて、口を開いた。
「このあたりは不思議なことが多すぎますね。ランカスター草原一帯は、ある種の強い気を感じると、兄が言っていたことがありますが」
 そう前置きしてから、シスターは再び話し始めた。
「アーディスは本当にアグレイアの実子なのか、私は一時疑ったこともあります。理論的に考えれば一年あったのですから、十分妊娠出産は可能ですし、あの娘にしてもおぼろげながら、赤ん坊を産んだ夢を見たと言ったのですが。あの娘が戻ってきた時、そう、殿方にこんなお話をするのは憚られるのですが、たしかに出血はしていたのです。あの娘が失踪した時も、月のものが来ている時でしたが……私も詳しくは見ませんでしたがね。でも、産後すぐの身体にしては、しっかりしすぎているような感じがしました。赤ちゃんの方はへその緒もまだ瑞々しく、しっかりとくっついていました。身体は濡れていず、汚れてもいませんでしたから、清められたあとだとは思いますが。あの状態ですと、普通は生まれてせいぜい数時間くらいだと思います。普通の生まれたての赤ちゃんのように赤くもなく、くしゃくしゃでもなかったですが、私はそう直感しました」
 シスターはそこで再びコーヒーを一口飲むと、話を続けた。
「でもアグレイアは、少し前に赤ん坊を産んだようには見えなかったのです。そもそも数時間前に赤ん坊を生んだ産婦が、しかも初産なのに、二十分かかる道をすたすた歩いてくるというのは、あまりないことですよね。母乳も結局、出ませんでしたし。ですから、ひょっとして、どこかの赤ん坊を自分の子だと思いこんで連れてきてしまったのではないかと、心配しましてね。もしそうだとすれば大変ですから、急いで方々調べてみましたが、それらしい赤ちゃんの失踪事件など、ありませんでした。捨て子なのか、さもなければ本当にアグレイアの生んだ子であったとしても、父親は誰なのか。赤ん坊が握っていたペンダントだけが唯一の手掛かりなのですが、それだけではまるで雲を掴むような話で、何もわかりませんでね。あのペンダントには留め金がなく、すっぽり頭からかぶるようにかけるもので、チェーン部分には何も刻まれていません。水晶のような本体を陽にかざすと、ルーン記号のような文字が浮かび上がるものでした。私は一度、モンクトンの宝石商にそのペンダントの鑑定をしてみてもらったのですが、その店の主人は言っていました。『チェーン部分は金だね。純金だ。でも刻印がない。金は必ず刻印されるものだが。それと、この結晶は水晶じゃない。でもダイアモンドでもない。いや、この大きさのダイヤだったら、えらいことだがね。なんだろう。ガラス玉でも無論ないし、ジルコニアでもない。不思議だね。炭素に少しケイ素が混じっているような、そんな屈折の仕方だ。下手な鑑定屋だったら、ダイヤというかもしれないな。それと、たぶんこの模様のように見えるものは、結晶の中の不純物だろう』と。『どこで売っているものだか、わかりますか?』と聞くと、『こっちが聞きたいな。こんなものは見たことがない。その結晶も、ダイアモンドに少し水晶が混じった、としか言えない代物だし、そんなものが天然であるとは思えない。もちろん人工でも開発されてはいないんだ。それに、この表面のカットだ。こんなカットの仕方は今までに見たことがない。たぶんトロントやモントリオールへ持って行ったって、いや、ニューヨークやロンドンに持って行って鑑定してもらっても、同じことしか言われないだろうよ』と。それでアグレイアも一度、ニューヨークであのペンダントの鑑定をしてもらいに行ったんです。アーディスが三歳くらいの時に。それでやはり、同じことを言われたようですね」
「そうなんですか……」
「ええ。少し話がそれたようですが、赤ん坊のことは、アグレイア本人も納得がいかなかったのでしょうね。『本当にわたしの子かどうか、鑑定してほしい』と、言いだしたのです。それで私はハリファックスの病院に、二人の親子鑑定を依頼しました。私も気になっていたので。当時はDNA鑑定もさほど精密ではありませんでしたけれど、その結果は非常に肯定的で、『DNAパターンの完全な一致が何箇所かあり、二人の間には親子関係があると推測される』という判定でした。『この赤ちゃんのDNAはひどく変わっている。こんなのは見たことがない。この子の父親という人が誰だか、興味がありますね』とも言われましたがね。ともかく鑑定で証明されたのだからと、私たちもアグレイアの子と認めて、赤ん坊の戸籍を作ったのですよ。アグレイアの記憶が戻らない以上、父親の欄は空白にするしかありませんでしたが。それで、アグレイアに赤ん坊の名前はどうするのか聞いたところ、最初はどうしようかしらと思案気でしたが、しばらくして、こう言いました。『いえ……ちょっと待って。わたし、聞いたことがあるかもしれない。この子の名前は、アル……アルティス……レイア……かも』と。そしてあの娘はじいっと考え込んでいるようでしたが、やがて『決めた。これがあの子の名前よ』と言って、紙に書いたのです。『Arthis Reine』と。これだと『アーディス』とも読めるけれど、と言うと、それでもいい。本来はアルティスとアーディスが一緒になったような響きだったと言うのですよ。本来の音とは何、と聞いても、よくわからないと答えるだけでしたが。そしてレインはこのスペル、フランス語のレーヌ、つまり女王を意味する、これでなければならないというのです。理由はわからないけれど、そんな気がするのだと。あの娘はその頃……いえ、正確には失踪する前ですが、フランス語を少し勉強していたので、それもあるのかとは思ったのですが、フランス語とはいえ、男の子に女王は奇妙じゃないかしらとは感じました。しかしアグレイアがそう言うからと、それに響きは悪くないと思ったので、赤ん坊にアーディス・レインと命名したのです」
 ああ――由来を聞かれても困る、とエアリィが言っていたな。名前を聞かれて、アーディス・レインと最初に名乗った時に。その名づけは母親アグレイアさんの、失踪中の一年間に失われた記憶の、ほんのかすかな名残だったのかもしれない。アルティスとアーディスが一緒になったような響き、そして女王――それが何なのかは、彼女にすらわからなかったのだろうが。
「誕生日については、いつ生まれたのか、アグレイアもまったく記憶にないというので、とりあえず帰ってきた日の、六月十四日にしました。本当はそれ以前なのかもしれないのですが、生まれて間もないという、その直感を信じることにしたのです。流れ星の雨の中、あの子は地上にやってきた。そんな印象が強かったせいもあるのでしょうね」
 六月半ばの夜明け前、流星雨に先導されてやってきた赤ん坊。光る水晶を握って。いや、水晶じゃないのか。宝石屋の鑑定結果では。そういえば、新世界で川を渡る時、エアリィはアンダーシャツを着たまま、泳いでいった。『寒いから』とその理由を言っていたが、彼がシャツを脱がなかったのは、ペンダントが流れていかないようにするためも、あったのかもしれない。おそらく大切なものなのだろう。ロードでモーテルの相部屋になった時にも、何回か見たことがある。『それって何がついてるんだ?』と問いかけた僕に、『水晶じゃない?』と答えていたから、ずっと水晶なんだと思っていた。そしてそれは、エアリィがインドの寺院でトランス状態に陥った時に、光を発していた。赤ん坊のころ、それを握っていた時もそうだったとシスターは言う。しかし、いつも光っているわけではない。それがアーディスの出生の謎の、唯一の手掛かり。誰が彼にそれを持たせたのだろう。父親なのか? そして母親の方は謎の失踪をして、記憶喪失。それでも二人の間には親子関係があるということが、鑑定で証明されている。
 たしかに深く考えると、疑問符だらけだ。でも理論的に考えれば、説明はつけられるのかもしれない。母親が何らかの突発事故か事件に遭って、記憶をなくしてしまった。その後しばらくして子供を受胎し、誰か他の人の(何にも持っていないのでは、自力は考えにくいだろう。もしかしたら子供の父親かも知れない)保護の下で一年暮らし、赤ん坊を生んだ。その後、何かの拍子に元の記憶が戻り、同時にその間の記憶をなくしてしまったのだとすれば。母体にはあまり変化がなく、さらに行方不明になった時の格好のまま、同じ場所で気がついたという点さえなければ、そういう解釈もできるだろう。




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