The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(11)





 すべてを話し終えると、僕はため息をついてカップを取り上げた。もう中身は、すっかりさめてしまっている。ロビンもジョージもミックもロブも、しばらくは何も言わなかった。後半はあまりに予想外の展開で、驚きのほうが強かったのだろう。
 長い沈黙の後、再びジョージが口火を切った。
「その状態って、やばくないか! 完全に狂ってないか、おい?!」
「そうだね。普通じゃないね、明らかに。三度まで別人格になっているわけだし。超人と、若い男性、そして女の子……それは、なんなのだろう。多重人格なのか……それとも、妄想なのか……そのへんの線引きは病理学でも、あいまいなんだろうけれど」ミックが首を振り、低い声で言う。
「で、おまけに行方不明かよ」ジョージは頭に手をやっていた。
「勘弁してくれよ。エアリィはそういうのに、一番縁がない奴だと思ってたぜ。ドがつくほどポジティヴで、屈託がなくて明るくて……俺、あいつの性格好きだったんだ」
「僕もだよ。彼はバンドの活力だったからね」ミックも頷く。
「ああ。なんだか本当に……やりきれない気がする」僕も頷き、ため息をついた。
「僕に昔の話をしてくれた次の日から、あいつはどことなく妙だった。ボーっとしていることもあって、僕が話しかけても、聞いていないことも何度かあった。『どうしたんだ?』って聞いたら、いろんなイメージや声が時々浮かんでくるって、ちょっと怯えたような表情で答えていた。寺院の礼拝を見に行こうとした時も、門の所で立ち止まって、『中に入りたくない。ここで待っててもいい?』って言っていたんだ。そんな状態で一人残せないから、一緒に来いって僕らは言って……それで、この結果だ。こんなことなら礼拝見学なんて止めて、さっさと帰ってくればよかった」
「本当にな……」ジョージが大きくため息をついて頷く。
「そもそも、おまえら二人で旅行とか聞いた時には、俺は最初『はぁ?』って思ったもんだ。何のために、ってな。おまえらが出かけたあとの夕飯の時、ロブが説明してくれたんだが。見聞を広めるってのはわかるが、なにもわざわざこの特訓中に行かなくてもいいだろうって思えた。フレイザーさんが強く主張した、ということだったが、こんな裏目的があったとは、知らなかったぜ」
「こんなリスクがあると最初からわかっていたら、僕は絶対に反対しただろうな。途中でコーチを降りてもらってもいいからと、それまでの謝礼を渡して、終わりにしていただろう。おそらく社長も同意見だと思う。このプロジェクトは本当に、マネージメント的には背水の陣なんだ。社長が仰ったように。その中でもフレイザー氏の招聘費用は、群を抜いて高額だったんだ。なのに……リスクなど、誰も求めていない。本当に……とんでもないことになったな」ロブもため息とともに、首を振りながら言う。苦渋に満ちた声だった。
 僕らは誰も何も言えず、しばらく黙った。
「それで……今のエアリィの状態は、わからないんだね」
 沈黙を破って、ミックが顔を上げ、聞いた。
「ああ。あいつが最後に起きた時には、僕は会っていないから。僕は寝ていたんだ。でも正気、というか元のあいつ自身に戻っていないことは、確実だろうと思う。もしそうなら、僕のメモを無視して、黙って出て行くはずはないし、もし途中で正気に戻ったのなら、僕たちに連絡をしてくるだろう。第四の人格が出たのか、それとも壊されてしまった彼自身の精神なのか、それはわからないけれど。そう……礼拝を見に行く前の日あたりから精神的に不安定になり出していたのは、さっきも言ったとおりだけれど、でも普通に話は通じたし、まだエアリィの精神性、というべきものは持っていたと思う。でも、礼拝見学の途中で、いきなり壊れた」僕は目を閉じ、思わず首を振った。
「たぶんエアリィの精神、今までのあいつが、という意味だけれど、それを持っているな、と感じた最後は、最初に気を失う寸前の数十秒……それだけなんだ」
「そして、その時に言った言葉が『僕は怖い』と、『助けて、僕には負いきれない』なんだね。相当な恐慌状態で……」ミックが真剣な顔で、首を振ってため息をつく。
「それは、本当に厳しいね……」
「まったく、なんだって、こんなことになっちまったんだ!」
 ジョージがいらだった口調で声を上げ、こぶしを握ってテーブルを叩いた。
「俺たちは何のためにこの二ヶ月、あれだけハードな練習に耐えてきたんだ? インストバンドに戻ってやっていくために、スキルアップが必要だからか?! 違うだろうが!」
「……僕があんなことを思ってしまった罰、なのかな……」ロビンがそこで、呟くように言った。「エアリィにジャスティンをとられてしまう、なんて思ってしまったことが……彼の才能や性格や容姿や、存在そのものに、ひどく嫉妬してしまったことが……こんな形で報いが来たのだとしたら。今回の旅行だって、ちょっと羨ましかったんだよ、本当は。僕は一緒に行けないから……寂しかった。やっぱり二人とは、レベルが違うんだなって。あの時、吹っ切ったはずだったんだけど」
「そんなことを思っていたのかよ、ロビン」
 ジョージは意外そうだったが、僕にはロサンゼルスの病院で聞いた告白だから、よくわかっている。そしてやっぱり今回も、その懸念が少しはあったのだな、と改めて思った。その因果応報論には、まったく納得できないが。
「それははっきりいって、今は関係ないだろ、ロビン」僕は首を振って制した。
「うん。関係はないんだと思う。でも病室で君と話して、彼とも本当に仲良くなりたいって思っていたのに……合同練習になって、プリプロダクションが始まったら……。でも、エアリィがいなくなっちゃったって知ったら、僕は改めて気づいたんだよ。僕も彼のことが好きだった。最初から。ジャスティンをはさんだ形になっちゃうと、嫉妬とか変な感情も出ちゃうけど、でも個人的には好きだったんだって。だから……正直、前は思ったこともあったよ。インストバンドでも良かったって。でも今は、そんなのはいやだ……」
「インストバンドに戻るのがいやなのは、おまえだけじゃないさ、ロビン。俺たちみんなそうだ。おまえがそういうぐだぐだした気持ちを乗り越えられたのなら、それでいいんじゃないか?」ジョージがコツコツとテーブルを叩いて言う。
「うん。でも本当に……これからどうなっちゃうんだろう。今までのエアリィを知っているから、それにジャスティンから話を聞いて、本当の彼を理解することも出来たから……僕は思っていたんだ。彼ほど恵まれている人はいないだろうって。でも、持って生まれたものは確かにそうでも、環境的には最悪に近かったんだなって知って……僕らには想像できないほどに……それが、バランスなのかもしれないけど……どんな気持ちだったんだろう。ひどく傷つけられたり、突き放されたり、放っておかれたり……彼がそんな境遇だったなんて、僕は夢にも思わなかった。今まで、人から善しか与えられて来たことがないんだろうって思ってた。彼には闇とか、暗さとか、まったく感じられなかったから。でも、実際はかなり深い闇に傷つけられてきたんだね。それを乗り越えてきたんだ……汚れても潰されても、戻るボールになろうとして。平気なはずはなかったのに、小さな頃から……。本当に強い子なんだ。それに比べたら……僕は風船だね。すぐにパチンって割れる」
「それは自虐だぞ、ロビン。そこまで薄くはないだろう。おまえの外側も。ピンポン玉くらいはあるんじゃないか」
 僕はつい、そんなことを言ってしまった。これだと、潰れたら戻らないな。しかも小さい。フォローになっていない。ロビンもそこまでやわじゃないだろう。
「ありがとう、ジャスティン」ロビンは少し悲しそうな笑みを浮かべ、首を振って言葉を継いだ。「でも……今、エアリィのボールって、割れてしまったのかな。そんなこと、考えたくない。少しだけ、きつく変形してしまったけど、いずれ戻る、そう思いたいよ。ローレンスさんが言っていたんだってね、ジャスティン。厳しい過去を乗り越えた末に、今の彼があるのだとしたら、このまま幸福にずっと行かせてあげたいって……話を聞いて、僕も本当にそう思ったんだ。僕に亡くなった友達の面影を重ねて見てくれていたことも……それに、僕たちに出会えて幸せだって、彼が言ってくれていたことも知って……本当にごめんねって、謝りたいんだ。エアリィが戻ってきてくれたら」
 ロビンは最後には、やや涙ぐんでいた。
「いや、おまえに謝られても、あいつはきょとんとするだけだと思うぞ。まあ……元のあいつならな。本人は知らないほうがいいことだから、戻ってきても黙っとけ。今までどおり接したらいいんだ」ジョージは苦笑し、首を振っている。
「戻ってきてくれたら……だけれど」
 僕は思わず深くため息をついた。そう――外側からの汚れや圧力なら、元に戻ることが出来るのだろう。今までの彼なら。でも内側からの圧力だと、どうなってしまうのだろう。そんな思いとともに、軽い震えを感じた。
「きっと元の彼に戻って、帰ってきてくれると信じよう。エアリィは基本的に強い子だから。僕らにはそれしか出来ないからね」ミックが小さく咳払いをした後、きっぱりした口調で言った。そしてため息をつき、首を振りながら言葉を継ぐ。
「僕らには、きっと何も出来ない。信じることしか。モンスターの覚醒なんて事態は、今までさすがに臨床例はないだろうし、そもそも本当にそうかということすら、わからない。フレイザーさんの話だけではね。普通に別の解釈だって、出来てしまうから。小さい頃からの逆境に負けないんだって、がんばりすぎた。明るくて気丈なペルソナを身につけることで、乗り切ってきたけれど、水面下でひずみが溜まり続け、トレーニングや異郷の環境が最後のストレスになって、崩壊した……そう、どんなに強い精神でも、ロビンが言ったように、平気なはずは絶対になかったと思うから。でも、そのダメージというかトラウマを封じ込めて、ことさらなんでもないようにとらえようとしていたけれど、限界点を超えて、そのペルソナが壊れてしまった。考えたくないけれど、そんな解釈もできてしまうから……いや、たぶん、こっちの解釈の方が合理的だと思う人の方が、多いだろうね」
「その場合だったら、元に戻るのは難しいだろうな。仮にできたとしても、かなり時間がかかるだろう……」ジョージが首を振り、深くため息をついた。
「最悪のシナリオにならないよう、祈るしかないな、俺たちには……ああ、せめて、居場所がわかればな。あいつはもうかなり有名人だし、そもそもいるだけで目立つ奴だから、ネットで検索でもかければ、目撃情報はあるかもしれないが……どうかな、あまりおおっぴらに捜索をかけるのは、あとあとまずいかな。でも打つ手なしだからといって、そう悠長に待ってばかりもいられないぜ。俺たちには、アルバムの製作期限もあるんだ」
「ああ……来年の一月だっけ、期限は」僕は思い出して頷いた。
「まだ半年あるけれど、このままエアリィが何ヶ月も戻ってこないなんていうことになったら……僕らだけでアルバムを仮に作れたとしても、絶対ノルマになんか届かない。インストだけじゃ……セカンドにだって、まったく届かない数字しか残せないだろうな」
「で、レーベルはクビになる、か。そもそも向こうに、『歌ものの五人バンドと契約したんで、インスト四人バンドじゃない』と、言われそうだしな。そうすると、マイナーレーベルだってきついぜ」ジョージがため息をついて、首を振った。
「まったく、ここまで来て、また振り出しになんぞ、戻りたくないぜ。結成当時のインストバンドになんてな。でも、あいつ以外のヴォーカルなんて、俺たちには意味がない。五人になるのに一年近くかかったんだ、あの時も……」
「いや、インストバンドには戻らないさ、絶対」僕は首を振った。
「あいつは絶対戻ってくる。僕はそう信じる。根拠はないかもしれないけれど、今はそう信じるしかないんだ」
「そうだね」「うん」と、ミックとロビンが同時に頷いた。
「とりあえず、今のところは待つしかないな。それしか出来ない。一ヶ月。それがリミットだ。あとのスケジュールを考えても。その間にマネージメントの方で出来るだけ探して、それでも手掛かりがなかったら、ネットででも公開して、一般情報を募ろう。その時には、警察に捜索願を出す必要もあるだろうな。そうなるとかなりおおごとになってくるし、あとあとのダメージになる恐れもあるが……だが、それしかない」ロブが僕らを見まわし、首を振りながら言った。
「ああ」僕らはいっせいに頷く。実際問題、それしかできないだろう。
 でも、あとのダメージ──どんなに紆余曲折しても、エアリィが最終的に復帰できれば、その影響も考えなければならないだろうが、彼が最悪バンドに戻ってこない場合は、エアレースというバンド自体がインストバンドとして、まったく違うものとなってしまうから、もはやあとのダメージがどうこうという場合ではない。それにインストバンドとしての再スタートなんか、考えたくもなかった。
「ジーノ・フレイザー氏のおせっかいを恨むぜ、俺は」
 ジョージの呟きに、僕もひそかに心の中で頷かざるをえなかった。ロブもはっきりそう言っていたし、おそらくこの場の全員が、同じ気持ちだっただろう。長年の夢の実現、その可能性にかけてみたいという、あの人の気持ちも、わからないではない。でも危険な賭けなんか、僕らは誰も望んではいなかった。あの夜、高原でエアリィが『今、一触即発状態になってる。あと一押し来たら、水があふれる』と言っていたのに、あのまま突き進んでしまった。帰らなかった時点で、遅かれ早かれこうなることは、決定づけられていたのか。でも実際問題、あの時点で帰ってくることは、可能だっただろうか――。
「おまえたちは、その間どうする?」ロブは僕らを見回し、ため息混じりにきいてきた。「予定では、五日後から一週間、ローレンスさんに監修してもらって、五人で合同練習をするはずだった。それから一週間ほど休みを取ってから、ここで次のアルバムのプリプロダクションにとりかかる予定だったんだ。どうする? 四人だけでも、これから合同練習するか?」
「インストバンドとしての技術に磨きをかける、という感じになりそうだね、それじゃ」
 ミックが首を振り、ほかの三人を見た。僕らはいっせいに肩をすくめ、ため息をつく。
「今はそんな気分になれないな……」僕も首を振った。
「そうか。わかった。それならこれで、強化練習は完全に終わりだ。しばらくはオフ、まあ、いつでも連絡が取れるような状態にしておいてだがな、それでもいいが。スケジュール的には、そのくらいの余裕はあるしな」
「そうだね……」僕らは顔を見合わせ、頷いた。
「では、ひと休みして、夕食が終わったら、ここから帰ろう。明日からは、とりあえずオフということだ。オフ中も何かあればこっちから連絡が取れるように、みんなどこかへ行く時には、携帯電話をちゃんと持っていてくれ。じゃあ、ひとまず解散だ。部屋に帰って、荷物をまとめてくれ」
 ロブに促され、僕たちは食堂を後にした。

「ねえ、ジャスティン。どうかしたの?」
 ステラの声で、僕はふと我にかえった。アパートメントの僕の部屋、そのリビングルームで、ステラと僕はソファに並んで座っていた。テーブルの上には紅茶のカップと、ステラが買ってきてくれたケーキがのっている。いつもは僕が用意するのだが、「たまにはわたしが買ってくるわ」と、彼女のお気に入りの店から持ってきてくれたのだ。
 合同練習が切り上げられ、練習場所だったあの家から戻って、十日が過ぎようとしていた。その間、マネージメント側ではエアリィの所在を知ろうと調査していたが、たいした収穫は得られていないようだった。ロブからの連絡では、モントリオールの空港から入国したのは確認されたが、そこからの足取りはつかめないという。トロントのアパート、実家、プロヴィデンスの友達、継兄をはじめとする親類縁者(といっても、ほとんど義理の関係だが)、彼の母親や祖父が育った教会、トロントの知り合い、どこにも立ち寄っていないし、連絡も行っていないらしい。たどれる記録も他にはいっさいなかった。携帯電話も電源が切れたまま。メールも通じない。そんな状態が続いているらしい。実際僕も何度か彼の携帯に電話をかけてみたり、メールを送ったりしてみた。しかしその電話がつながることはなく、メールの返信も来ることはなかった。
 でも待つしかないなら、気を紛らわそうと、僕は何度もステラに会った。彼女と会い、そのおしゃべりに耳を傾け、その仕草を愛らしく感じ、お互いの愛を確かめ合う、それは大いなる救いの時間だった。この日も午後から、彼女は僕の部屋に遊びに来てくれていた。なのに、ついにまたやってしまった。一度別れる前、ステラの話を上の空で聞いてひどく気分を害されてから、もう同じ轍は踏むまいとつとめてきたのに。でも十日に及ぶ気がかりな待ち状態は、ステラとのプライベートタイムをすら、侵食し始めている。
「ああ」僕は頬杖をついていた手を慌てて引っ込め、笑顔を作った。「ごめん。でも話は聞いているよ。君が二週間前にメアリさんと見た映画の話だろ。どんな映画?」
「それをさっき話していたのよ。聞いていなかったの?」
「あ……ああ、本当にごめんよ。ちょっと考えごとをしてしまったんだ。もうしないよ。もう一回話してくれないか?」
「どんなことを考えていたの?」ステラは小首をかしげ、聞いてきた。その口調は怒っているというより、いぶかしんでいるように聞こえた。
「……いや、なんでもない」僕は首を振ると、カップを取り上げ、中味を飲み干した。
「君の話を続けてくれよ、ステラ」
「ええ……でもジャスティン、お仕事で何かあったの?」
「えっ?」僕は思わずカップを落としそうになった。「なぜ、そう思うんだい?」
「わたしが『何か考えているの?』と聞いて、あなたが『なんでもない』と答える時には、いつもお仕事のことだと思えるの。だって、あなたがわたしのこと以外に考えることは、ほとんどバンドのことで、それをわたしが以前、嫌がったりもしたから。だから、なんでもないと言うのでしょう?」
「鋭いね、ステラ。図星だよ。今、バンドでちょっとトラブルが起こっていてね。それで少し気になって、ついつい考えてしまった。ごめんよ。気にしないで」
「そう言われても、気になるわ」ステラは口を尖らせ、小さく頭を振った。
「何か心配ごとがあるのかしらという気は、わたしもこのごろ感じていたのよ。急にお仕事がお休みになったりしたし。わたしは嬉しいけれど、でも、あなたにそんな顔をされると、気になるの」
「ごめんよ。君といる時には、もう絶対に持ちこまないようにするから……」
「そういうのではなくて……違うのよ、ジャスティン。わたしはもう、去年までのわがまま娘ではないつもりよ。あなたのお仕事が、順調だったら良いと思っているわ。あなたにとっては、それがとても幸せなことなのだと、思えるようになったから。だから、逆になにかがうまくいかないのかしらと思うと、やっぱり気になってしまうの」
「ああ、そうなんだ。ありがとう、ステラ。うれしいよ」
「そんなこと、普通のことだわ」ステラは少し頬を染めながら、かすかに笑った。
「ねえ、ジャスティン。あまりあなたのお仕事に、立ち入りたくはないのだけれど……そのトラブルって、あなたからはどうにも解決できないことなの?」
「心配してくれてありがとう、ステラ。でも……なんていうかな、僕からの解決は難しいんだ。今はただ、待つだけの状態で。とはいっても、マネージメントや周辺の問題じゃないし、誰と誰の間がどうとかいうのでもなく……君に説明しても、わかってもらえないかもしれない。バンド内のプライベートな問題だから。でも……」
 僕はしばらく考え、そして言った。「たとえばだよ、ステラ……君の親友メアリさんが、突然君に向かって『あなたは誰?』って言ったら、君はどう思う?」
「え?」ステラはぽかんとした様子で目を見張り、しばらく黙ったあと、答えた。
「そう……ね。モリーがわたしをからかっているのでないなら……おうちの人に話して、お医者さんに連れて行ってもらうように頼むわ。記憶喪失でしょう、それは?」
「そうだろうね、やっぱり。でもその原因が、彼女が以前の彼女とは、まったく違う人になってしまったからだとしたら……姿は同じで、中身が違うような」
「えっ、それって……いわゆる、二重人格のようなもの? ジキルとハイドのような?」
「まあ、そんなものかもしれない」
「ええ? それは、ちょっと考えられないわ。でもそれも、病気なんでしょう? やっぱりお医者さん、でしょうね。その場合も」
「そうなんだろうね。でも、それから突然、彼女自身がどこかへ行ってしまったら? 携帯の電源を切ったまま、突然いなくなってしまったら?」
「ええ?」ステラは驚いたように目を丸くし、ぱちぱちと二、三回瞬きをした。
「ねえ、ジャスティン。何がなんだか、さっぱりわからないわ。どういうこと? 本当はいったい、何が起きているの? わたしをからかっているの?」
「いや……違うよ。たとえを間違えただけさ」僕は慌てて手を振った。さすがにここまで来ると、逆に僕がおかしくなったと思われかねない。つい正直に言い過ぎた。
「最後の場面だけ、聞きたいんだけどね、ステラ。もし君の親友メアリさんが、家出をして、連絡がつかなくなってしまったら」
「それ……まさか実際に、どなたかがそうなっているの?」
「いや、違うよ。たとえばの話さ」僕は再び手を振って、打ち消した。
「そう。まあ、そうでしょうね」ステラは頷くと、首を傾げ、しばらく考えこむように黙った後、答えた。「そうね。そんなこと現実には、ないでしょうけれど……おうちの人は心配して、すごく探すでしょうし、わたしも手伝えるものなら、手伝いたいわ。本当に家出だったら、それはそれで心配だけれど、万が一事件に巻き込まれていたりしたら、本当に怖いし。それで、もし家出なら、何が原因なのか知りたいわ。突然いなくなったのには、何かわけがあるはずだから。でも彼女が無事に見つかっても、話してくれなければ、無理には聞けないけれど」
「原因はねぇ……僕も知りたいな」
「えっ?」
「いや、本当になんでもない。でも手伝うというのは、例えばどんなこと?」
「そうねえ。他のお友達に電話をしたり、学校の知り合いに聞いてみたり……ビラ配りはちょっと勇気がいるけれど、モリーのためなら、やってもいいわ。それと……彼女がよく行く場所とか、好きな場所に行ってみるかもしれないわ。他のお友達も協力してくれると思うし、みんなで」
「うーん。よく行く場所や、好きな場所か……知っていれば、行ってみてもいいかな」
「ねえ、ジャスティン。たとえにしては、なんだか深刻そうね。まさか本当に、それに近いことが起こっているの?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、あまり詳しい話は出来ないんだ、今は。君をこっちの世界に引きずり込みたくはないから。君
とはやっぱり、仕事を離れてつきあいたいから。気を悪くしないで欲しいんだけれど……」 「それなら……しかたがないわ。少し気にはなるけれど、わたしもあまり仕事の話ばかり持ってこられても、ちょっと困るというのも、本音ですもの。関心は持とうと思っているし、あなたのために順調ならいいと、願ってはいるけれど」
「ありがとう。じゃあ、僕も気持ちをすっぱり切り替えよう。さっきの話を聞かせてくれないか? 君がこの間見に行った映画は、そんなに面白かったのかい?」
「ええ、本当に感動的だったのよ」
 ステラは眼を輝かせて話し始め、僕も今は彼女の話だけを聞こうと、耳を傾けた。

「よく行く場所や、好きな場所に行ってみる、か……」
 ステラを送り届け、部屋に帰ってくると、彼女が言ったその言葉が再びよみがえってきた。僕もできるならば、ただ待っているだけでなく、自分から行動を起こしてみたい。でも、僕に何ができるだろう。すでにマネージメント側で、ほとんどのことをしているのに。
 マネージメント会社ではいつも使っているという探偵業者に依頼して、詳しい調査をしていた。その調査報告はロブを通じて、僕たちメンバーにも知らされている。エアリィがモントリオールに戻ってきたのが、十一日前。その入国記録を最後に、たどれる記録は途絶えているらしい。その後モントリオールから出発した飛行機の搭乗者リストに彼の名前はなく、他の国に入国した形跡もない。アーディスはまだクレジットカードが持てる年齢ではないので銀行のデビットカードだけだが、その使用記録も、ATMで銀行からお金を引き出した記録もない。でも彼は、どのくらい現金を持っていた? あの旅では、カードはいざという時のために持ってはいったけれど、使わない方針だったので、アメリカドルで現金を持っていき、そのつど現地通貨に換えていた。旅も残すところあと一週間になっていたあの時には、僕の残金は三〜四百ドルくらいになっていた。エアリィも似たようなものなら、それだけで十日以上暮らせるだろうか?
 調査をしている探偵事務所は、乗っていた飛行機の便名から、香港―LA便とLA−モントリオール便の客室乗務員さんにも話を聞いたらしい。担当した客室乗務員さんは、二人とも彼を鮮明に覚えていたという。LA−モントリオール便のスチュワーデスさんは、彼が誰かも知っていた。彼女の妹さんがファンだったらしい。二人の話だと、飛行機の中でのエアリィは必要最小限しか話をせず、機内ではずっと眠っていたという。『どこか具合が悪いのではないかと、気にかかっていました』――二人とも口をそろえて、そう言ったという。マネージメントの調査力には驚くが――そしてたぶんこの調査費用は、セカンドのプロデューサーへの支払い、特別訓練の費用に加えて、マネージメント側には本当に痛い出費だろう。これで結果が出なかったら、社長が言っていたように、本当に倒産してしまうかもしれないほどに。
 でも浮かび上がってくる事実は、楽観するには程遠いものだった。入国審査を終えてロビーへ出て行き、空港通路を歩いていった。それが最後の目撃情報だ。もちろんモントリオールの空港内にはすでにいないことも、調査済みだ。僕らも空港に着いた時に、構内を探していたし。このモントリオール空港での目撃情報は、ファンサイトの掲示板に、探偵さんはファンを装って【メンバーに実際会ったことはあるか。それはどんな経験だった?】というトピックを立ち上げ、それの書き込みに目を通した結果らしい。その中に、同じ便に乗り合わせたらしいファンの書き込みがあったいう。【到着ロビーに出る途中で、アーディスを見かけたけれど、あ、と思って声をかけようとしたら、ふっと脇の通路に入っていってしまった。あれ、この先は救護室と電話ボックスだよね、と思って追いかけたら、もういなかった。電話コーナーを見て、救護室にも仮病を装って入ってみたけれど、担当の人以外誰もいなかった。私は幻でも見たのかしら】――もしそれが本当なら、空港内から脇通路に入ったところで、消えてしまった? 物理的にはありえないのだが、そんな印象さえ抱いてしまう。そこから先の消息は、まったく伝わってこないだけに。
 ステラが言っていたこと――友達や知り合いに電話する。よく行く場所に行ってみる。これは、探偵さんがやっていたことだ。連絡だけでなく、実際それぞれの場所に足を運んだらしいから。ビラは論外だ。今のところは。好きな場所――これはよく行く場所と、ほぼイコールだと思う。でもエアリィの状態自体が今までと変わっているとしたら、それまでの嗜好とか記憶、思いは、どこまで同じなのだろう。今までに行きそうな場所には、どこにもいないというのは、その属性が変わってしまったからか? そんな状態の彼に、今僕ができることはなんなのだろう――。
 そんなことを思いながら眠ったその夜、妙に鮮やかな夢を見た。

 僕はどこかの教会の庭にいた。クリーム色のペンキがやや色あせた、木造の建物。モスグリーンの屋根。その上に、少し輝きのうせた金色の十字架がついている。ステンドグラスのはまった窓も見えた。僕自身はなぜかカトリック神父の長いガウンを身につけ、胸に銀色の十字架を下げていた。庭の芝生は手入れがされていて、花壇には夏の花が咲いている。僕はその庭をそぞろ歩き、裏庭へ出た。そこは墓地だ。神父である僕は、どうやら埋葬されたばかりらしい、新しい墓標を覗きこんでいた。灰色の真新しい墓石には、こう書いてある。
【ジョナサン・セオドア・ランカスターここに眠る。
 彼の失意の人生が救われ、再び家族と巡り会えますように】
 場面が転換した。教会ではなく、広い野原だ。地平線が見渡せるほどではないが、たっぷり百エーカーは広がっている草原。まるで未来世界で見たあの荒野を、規模を小さくしたような感じだが、この草原には道が通っている。人が二人並んでなんとか通れる程度の細さで、自動車は通れないことは間違いない。その小道が緑の中に一筋、白っぽい軌跡をつけていた。道の行く手には小さな町並みが見え、反対側は森へと通じている。野原の右と左の果ては、小高い丘になっていた。草原には、ただ一本だけしか木が生えていない。その木は三メートルくらいの高さで、幹は大人の腕より少し太いくらい。まだ若木のようだが、美しかった。丸い葉っぱはエメラルドグリーンに輝き、幹は金色にすら見える。
 僕は細い道を、町へ向かって歩いていた。空は曇りがち、というより、まだ夜が明けきっていないようだ。右側の丘から(たぶんこっちが東なのだろう)、太陽が昇ろうとするところだった。
 突然、地平線にほんの少し顔を出している太陽とは、明らかに異なる光が現れた。薄紫色の空を貫いて、一筋の銀色の光が落ちてくる。すうっと、まるで意思を持っているかのようにまっすぐ、ゆっくりと若木の梢へ、そしてその木を貫くように根元へと。
(ヤコブの梯子?)
 僕は一瞬思った。そのはずはないことを悟り、戦慄めいたものが背筋を駆け抜けた。同時に、僕の現在の意識が浮かび上がってきた。
(ここはどこだ? 今はいつだ?)と。
(この草原は? あそこに見える町は? わからない。初めて見る。でも以前、知っていたような気もする。いつだろう? それに僕は……なぜここにいるんだ?)
『あの町は、マインズデール。知っているでしょう、あなたも』
 突然、そんな声が降ってきた。いや、降ってきたというより、風景の向こうから柔らかく浸透してくるように、僕の頭の中に響いてくる。この声は、聞き覚えがある。どこかで聞いた。でも、どこだっただろう。それに、その言葉は──。

「マインズデール……ニューブランズウィック州の」
 そう反復したとたん、僕は目覚めた。締め切ったカーテンの、わずかな隙間から漏れてくる光が見える。僕は枕もとの時計をつかんだ。
「まだ七時前か」
 もう一度寝ようか。いや──僕は起きあがり、身支度をした。ニューブランズウィック州マインズデール。その地名には心当たりがある。エアリィの生まれ故郷だ。彼の母親の育ての親であるシスターがいる教会は、マインズデール・カトリック教会といって、エアリィの祖父である著名な映画俳優、アリステア・ローゼンスタイナーが育った場所でもある。そのシスターは元々、アリステアさんの母親代わりでもあった。ということは、もうかなり高齢だろう。インドの高原で話した時、エアリィも彼女のことを『もう八十すぎてるけど、まだ元気なんだ』と言っていたっけ。
 もちろんマネージメントからも、そこには連絡が行っていて、シスターの返答では、エアリィは来ていないし、連絡もないということだった。もし連絡が来たら必ず知らせて欲しいという要請に、快く『良いですよ』と返事したそうだから、それから何も音沙汰がないということは、彼はそこには現れていないし、連絡も来ていないという意味だ。
 それでも、今僕の夢にその地が出てきたことは、何かの啓示のように思われた。そこに行けば、何か手がかりが得られるのでは──強くそんな気がした。もちろん何の根拠もないけれど、ただじっと待っているのも、そろそろ限界に近い気分だ。何も収穫はないかもしれないが、少しでも自分で行動を起こしてみよう。

 ロブに連絡をし、マインズデールに行ってきたいと話した。彼はしばらく黙った後、短く「わかった」と答えた。
「他のみんなには、話したのか?」 「いや。ああ、だけどやっぱり話したほうが良いな」
 僕は頷き、ついで他の三人に連絡をした。みんなは反対しなかった。同じような気分を感じたらしく、一緒に行きたいとさえ言い、一時間ほどでロビンとジョージ、ミックが僕の部屋に集まってきた。
「夢で見たっていうのは、いかにも当てにはならないが……まあ、行ってみても、別に損はないな」と、ジョージは頷き、
「ああ、それはたしかだ。僕らも何か行動を起こしたいと、ずっと思っていたからね」
 ミックも同意していたが、さらに考え込むように黙った後、続けていた。「ただ、四人そろって行ったら、シスターもびっくりしてしまうかな。そこまで大変な事なのかと、心配をかけてしまうかもしれないしね」と。
「ああ、それはそうだね」僕は頷く。
「そうだなあ……じゃあ、おまえが言い出しっぺだから、おまえが行くか、ジャスティン」ジョージが言い、僕も「ああ、それはもちろんだよ」と頷いた時、ロビンが言いだした。「僕も行っていいかな、君と一緒に」と。
「ロビン、おまえ、そこまでジャスティンにくっつかなくたって」と、ジョージは半ば呆れ顔で苦笑していたが、ロビンは真剣な面持ちで、首を振っている。
「違う、そういうんじゃないよ。ただ、一緒に行って探したいだけなんだ」
「いいよ。僕も道連れがいたほうが助かる」僕は頷いた。




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