The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(9)




 翌日、僕らはハイデラバードまで戻り、そこから百マイルほど離れた村のはずれにあるロッジに泊まった。その次の日には、近くの村の寺院の礼拝を見、午後には絨毯を作る工房を見学してから再びハイデラバードまで行き、さらにその翌日、そこからネパールのカトマンズへと向かう予定だった。
 僕たちは朝八時ごろ、車を頼んでその寺院まで行った。そこは代表的なヒンズー教の寺院ではなく、地域の密教の礼拝堂らしい。そこではちょうどその日その時間に礼拝が行われていて、その様子は非常に荘厳で、素晴らしいものだという話を聞いたので、『何でも見聞すること』が目的の今回の旅の趣旨に合うだろうと、フレイザーさんとローレンスさんが見学を手配していたのだ。僕らは信者ではなく、あくまで部外者なので、張り出したバルコニーの隅から見ていただけだが。それでもそこに入る前に、手足を冷たい水で清め、その水で顔も洗って、紙で出来た白い帽子のようなものを頭にかぶるように言われた。そして私語はかたく禁止、と。
 ホールには、多くの信者たちが輪を描くように取り巻き(二百人ほどはいたと思う)、ひときわ高い中央の祭壇に、長い白装束に身を包んだ祭司が立っていた。白く長い頭巾のような帽子をかぶり、片手に尺杖を持っている。バルコニーでは僕らを含め、十数人の人たちが見ていた。
 たしかに、それは荘厳な儀式だった。でも、一種異様な雰囲気を感じた。子供のころ一度だけ、従兄に連れられて参加したことがある、カトリックの音楽ミサにも通じる感じだが、異教であるせいだろうか、よけいに空気が奇異に感じられる。窓の多い(キリスト教系のステンドグラスではなく、透明なガラス張りの窓だ)、広いホール。祈る人々、中心に立つ祭司、唱和する声。それらがみんな一緒になって作り出される雰囲気によって、まるで催眠状態に陥りそうな感覚になるほどだった。
 正確な時間感覚はわからなくなっていたが、三十分くらいたった頃だろうか。エアリィがいきなり床に膝をついた。身体中の力が抜けたような、かくんとした動きで。頭がかなり深く垂れたので、かぶっていた白い紙の帽子がはらりと床に落ちる。と、跳ねるような動作で頭を再び起こし、彼は両手を広げた。目は閉じていた。たぶん最初の段階でもう閉じられていたのだろう。小さな声が、その口から洩れた。
「……聖なる母よ。お恵みを……」
 それはまるで、別人のトーンだった。それも完全に、女性のトーンだ。穏やかで気高く、崇高ですらある響き。
 彼は目を開けると、シャツの下にかけていた金のペンダントを引き出した。その先には直径一インチほどで厚さはその半分ほど、その丸い表面にはダイアモンドのようなカットを施された水晶がついている。以前からずっとかけていたものだ。その水晶が発光していた。ちかっ、ちかっと断続的に瞬きながら、白い光を放っている。光源を反射したものではなく、内部から発せられたような光だが、何かの細工でもしていなければ、なぜこれが光るのだろう。
 ペンダントを引き出した後の左手はゆっくりとした動作で動き、同時に右手も動いて、胸の前で握り合わさった。普通の組み方でなく、右手で左手を包むように重ねて、両方の親指を立てて合わせ、薬指だけを交差させる、奇妙な形だ。その眼は遠くを、あらざるものを見つめているかのように、見開かれていた。
「エアリィ、おい……どうしたんだよ」
 僕は小声で呼びかけたが、彼の耳には聞こえていないようだった。もう、ここの存在すら意識していないのかもしれない。相変わらず両手を奇妙な形に組み、ひざまずいた姿勢のまま、言葉を発している。最初の声のように、厳粛な、女性的なトーンで。でも、その言葉を聞き取ることは出来なかった。異郷の旅に出て、多くの外国語を聞いてきた僕の耳にさえ、それまで聞いてきたどの言語よりも意味をなさない、到底発音し得ないようなものすら混じった、音の連続にしか響かない。でも、それはたしかに言葉なのだ。僕の知らない──異言、そう呼ぶべきものかもしれない。
 なんだかわからないが、この状態は非常にまずいのでは。そんな狼狽とともに、強い畏怖の感情を覚えた。まさか最後の一押しが、こんなところで起きてしまったのか? この寺院の礼拝が引き金になってしまったのか? それとも、これはいわゆる神がかりという奴か。そう、まるでふいに何かに意識をのっとられたかのような変化ゆえに。
 うろたえながらも、僕はなんとか彼を呼び戻そうとした。肩に手をかけ、二、三度激しく揺さぶって、強く――しかし音量は上げないように、呼びかけた。
「エアリィ! おい! 目を覚ませ! 戻って来い! どうしたんだよ!!」
 何回か揺さぶると、その目に焦点と光が戻った。彼は二、三度ぱちぱちっと激しく瞬きをし、僕を見た。
「どうしたんだよ、いったい」僕は再びそう声をかけた。
「彼女が……目覚めた……」
 彼は詰まったような声で答えた。そして両手を頭に当て、言葉を継ぐ。
「だけど……僕は……怖い……」
 見開いた目に浮かんだ表情は、混乱と恐怖。それだけしかないようだ。そして息をのんだような声を発した後、身体が激しく震えはじめる。
「あ……あああ……ああ……あっー!!」
 もはや言葉にすらできないほどの激情に飲みこまれたように、彼は両手を頭に当てたまま、激しく絶叫した。コンサートのスクリーミング以上の、いや、そんな悠長な場合じゃない。小柄で細い身体のどこからあんな声が湧いて出るのだと思えるほど、彼の声量と声の通りは素晴らしいのだが、こういう場合は非常にまずい。まして今はそれを通り越して、尋常ではないほどの音量だ。その声が、礼拝堂中にこだましていく。
「しっかりしろよ、エアリィ、おい! やめないと、まずいぞ! 礼拝中なんだから」
 僕はあわてて両手を肩にかけ、強く揺さぶった。彼は僕を見、取りすがるように両手で僕の腕を握った。普段のエアリィからは思いもよらないほど強い力で、一瞬しびれるような痛みが走ったぐらいだ。
「ジャスティン……」明らかに恐慌状態を物語る目で僕を見ながら、彼は僕を呼んだ。そして何かを言った。でも唇が動いただけで、声にはなっていない。ふっと僕の腕をつかんでいた手の力が抜けた。そして崩れるように前に倒れかかる。僕は反射的に手をのべ、床に倒れる前に抱きかかえた。
 僕自身もかなり混乱していた。いったいどうしたんだ。何が起きたんだ。この寺院の空気が、エアリィにいったいどんな衝撃をもたらしたのだ。明らかなパニックに突き落とすほどの何が、彼の中に喚起されたのだろう──?
 ローレンスさんとフレイザーさんも、あっけに取られた表情で両側にひざまずき、でもなんと言っていいか、彼らも言葉がないようだ。僕らの周りにいた見学者たちも、ざわざわと何事か話しながら見ている。会場の警備役であろう、グレーの僧服に身を包んだ僧侶たちが二人、やって来た。ホールの礼拝も、ぴたりとやんでしまった。彼らは一斉にこっちを見上げ、白服の祭祀がゆっくりと動いて、バルコニーに来ようとしている。礼拝者たちも続いてやってくる。さっきの絶叫が、彼らをも驚かせたに違いない。
 面倒なことになったか……僕はフレイザーさんとローレンスさんとともに、当惑気味に顔を見合わせた。私語厳禁を思いっきり破っただけでなく、はからずも礼拝を妨害するような形になってしまって。とりあえず謝って切り抜けるしかないが。
「この娘は異言を話していた……」
 まわりの見学者たちが盛んに言っていることの意味を、通訳が伝えている。またもや彼女なのはおいておいて――髪も長いし、周りにはそう見えるのだろう。仕方がない。僕は髪が長くとも、間違われたことはないが。それはともかく――異言――さっきのやつか。明らかに現地の人にも、聞き覚えのない言葉だったのだ。
「決して音を立てないよう、話をしないように言ったはずです。いったい、どうしたのですか?」通訳が警備役の僧侶が言った言葉を、僕らに伝えた。
「いえ、ちょっと気分が悪くなったようなのです。本当に、お騒がせして申し訳ありませんでした」フレイザーさんがそう言い、通訳の人がそう伝えようとして時だった。
 エアリィは再び目を開いた。決して強くはない力で僕を押しやり、すっと立ち上がる。それは恐ろしく優美な動作だった。そして、周りに集まった人たちを見た。
 僕は息をのんだ。いったい、エアリィはどうなったんだ? これは彼じゃない。僕の知っているアーディス・レイン・ローゼンスタイナーじゃない。なんという眼差しで、僕らを見ているのだろう。彼の眼は、抜けるように高く明るい夏の空を連想させる。ヘヴンリーブルー。でも今、その色合いは変わらないが、底知れない深さをたたえた水の表面をも思わせ、同時にヘヴンという言葉が空と同時に天国という意味を想起させるような、すべてを超越したような輝きを放っていた。そこには恐怖も当惑も悲しみも一切をぬぐい去り、慈愛と澄み切った無垢の輝きのみが存在している。普段のアーディスにも浮世離れした雰囲気はあったけれど、今そこにすくっと立っているその姿は、完全に地上の人間とは思えないほど崇高な雰囲気(オーラと言ってもいいかもしれない)を放射しているように感じられた。
 彼は手を再び奇妙な形に組み、数秒、無言のまま見つめる。それから微かに苦笑に近いような笑みをこぼし、口を開いた。出てきた言葉は、さっきと同じようなトーンの異言、それを一文――たぶんそのくらいの長さを言い、また数秒沈黙した。そして再び口を開く。今度はヒンズー語だった。
「すみません。まだ慣れていないものですから。でも、ここの空気は嫌いではありません。真剣な祈りの場にお騒がせして、申し訳ありません。あなたがたの礼拝を続けてください」
 通訳がそう伝えたので僕にも意味がわかった。だがその一連の言葉より、その声のトーンに、打たれたような驚きを禁じえなかった。それはこの世のものとは思えない、まるで天上の声のような響きだ。
 僕は魅入られたように、その場に立ちすくんだ。その場に集まった全員が同じだったようだ。彼はそんな僕らを見つめ、ふわりと優雅に髪を振り、微笑した。おお、その微笑はなんと浮き世離れした、言葉に絶するほど穏やかで優しく、神々しくさえある笑みだったことか。見学者や礼拝者たちはおろか、集まってきた僧侶や祭祀までがひれ伏してしまったほどの、圧倒的な力だった。
 彼はもう一度、今度は英語で僕らに向かって言った。「ご迷惑をかけてすみません。でも、わたしのことは忘れてください、今は。そしていま少し、時間をください」
 瞼が下りてきて、その眼は再び閉じられた。同時に、またすべての力が抜けたように、崩れ落ちるように床に倒れていく。僕とローレンスさん、フレイザーさんが三人同時に手を出し、その腕の輪の中へエアリィは倒れこんできた。完全に意識をなくしている。傍までやってきた白服の祭祀が何事かを言い、拝むような仕草をした。回りの人たちも、いっせいにひれ伏した。通訳がその言葉を僕らに伝えた。
「神がかりだ。この娘に、神が降臨したのだ」と。

「いったい何が起こったのでしょうか、フレイザーさん?」
 宿舎に着いてから、ローレンスさんが何とも奇妙な顔でそうきいた。
「はっきりとはわからん、私にも……」
 フレイザー氏はお茶をすすりながら、首を振った。「そうなればいいと思っていたことが起きた、と言ってしまえばそうだが、まさかあんな風になるとは、私も思わなかった。私は激しい錯乱状態を予想していたんだ。感情失禁的なものを。殻を壊す時には、そういう反応が起きるだろうと。内なる超人と融合する際には、彼の人格が激しく抵抗するだろうから……そう思ったんだ。しかしあの反応はまるで、いきなりその超人に、人格ごとすべて乗っ取られてしまったかのようだな。それゆえの、『神がかり』なんだろう」
「……それで……戻るんですかね」ローレンスさんがお茶を飲みながら、そう呟く。
「わからん……戻ればいいとしか言えないな」フレイザーさんは難しい表情のまま、再び首を振った。「思ったより、モンスターが巨大すぎたようだ。あれが、あの子の中の超人だとしたら。あの時のアーディスは……完全に人間ではなかった」
「そうですね。僕も思わずぞくっとしました。あれがモンスターの覚醒ならば、あの子の内なるモンスターとは、いったいなにものなんでしょうね。僕は最初そこまでは考えていなかったのですが、あれを目の当たりに見て、思わず怖くなりましたよ」
「そうだ。あれはあまりにも、人間を超えすぎている。内なる超人、いや、神と言ってもいいほどだ。あまりにも巨大すぎる。危険だな。非常に危険なエッジに来てしまったようだ。正気か狂気か」フレイザー氏はカップを下に置くと、微かにため息をついていた。
「もしも正気に立ち返ることが出来たら、あの子の人格が再びそのモンスターの支配下から出て、その後うまく上手く折り合っていけるのなら、アーディスは私が期待し、目指したあの領域の中に入っていける、いや、それ以上のアーティストになるだろう。だが……あれだけ強大な相手に対して、それができるだろうか。あの子の自我は強いはずだ。それが一瞬で屈服してしまったわけだから。その結果、彼の自我が潰されてしまったら、アーディスは私たちが目指したものとは、まったく違う領域に行ってしまうかもしれない」
「それは……狂気の領域、ですか。そんなことにはなってほしくないものです。いくら紙一重だとは言っても」ローレンスさんは深くため息をつき、首を振った。「レイモンドやロブが知ったら、頭を抱えるでしょうね。それにバンドにとっても。一番大変なのは、アーディス君本人でしょうけれど」
「冗談じゃないよ!」僕は思わずテーブルを叩いて、話に割って入ってしまった。
「あっ、すみません……でも、やっぱり僕には納得できないです。こんなことって。このままエアリィが狂っちゃうかもしれないって言うんですか? でもそんなこと……僕には信じられません。せっかく力もアップして、結束も、うんと深まって……帰って、バンドとして新しいスタートを切り直すのを、あいつも僕もすごく楽しみにしていたんです。向うに残っている三人だって、それにロブだって……なのにどうして、どうしてよけいな危険を冒さなければならなかったのですか、フレイザーさん!」
 氏はしばらく黙って僕を見たあと、静かに答えた。
「私は夢の実現を見たかった。賭けに失敗すれば、たぐいまれな才能にあふれた、一人の若者が破綻する危険性がある。そしてバンド自体も。そのリスクも一応はわかっていたつもりだ。君に責められてもやむをえないのだが、そうはならないと私は信じていた。いや、今でもそう信じていたい」
「ええ、僕もそう信じています。でも僕たちは最初から、そんな大それた夢は持っていなかったんです。みんながお互いに心から信頼しあえて、楽しく音楽をやって行けたらそれで良いと思っていたし、今もそれは変わりません」
「楽しく仲良くやって行けたらいい、か。それでは、まるでアマチュアだな。君たちはそんな甘い精神で、これからもこの業界を渡っていこうとしているのかね?」
 僕は思わずぎくりとし、頬に血が上るのを感じた。
「君たちは何のために、今回の訓練を受けたのだ? 自らの能力を、そしてバンド全体の力を、より高いところへと引き上げるためではないか? より高みへ上ろうとするのが、芸術家魂ではないのか? それよりも安穏な馴れ合いを選ぶのだったら、今回の練習は全く無駄だったというわけだな」
「いえ……そんなつもりはないです。馴れ合いをしようなんて。ただ、全員の技術が向上できれば、バンドとしてより進歩できると思って……それ以上のことは……」
「まあまあ、フレイザーさん。ジャスティン君だって、わかっていますよ。ただ、今の状態に当惑しているだけなんです。無理もないですよ。せっかくこの二ヶ月苦労したことが、下手をしたら水泡に帰してしまうかもしれないんですから」ローレンスさんがそう仲裁してくれ、
「訓練が無駄になるということはあるまい。個人にとっては」フレイザー氏は腕組みをしながら、そう答えている。
 二人はその後、次の会話を思いつかないように、しばらく黙ってお茶をすすっていた。僕も同じように黙り、カップを持ち上げた。シナモンと、何かわからないもう一つの香料が入ったミルクティーだ。ロッジの中にお茶や飲み物を売りに来る人たちから、ポットごと買ったものだった。
 礼拝を見学中にエアリィが倒れてから、四時間ほどがたっていた。『神がかり』と騒がれた後、僧侶たちは彼を救護室へと運び、聖水をつけたりした後、『気がついて、なお神がかり状態でしたら、お知らせください。しかし普通の状態に戻られましたら、そのままお帰りください。我々の礼拝が終わるまで気がつかれないようでしたら、その時には、お車までお送りします』と僕らに告げた。それから一時間ほどで礼拝は終わったが、彼は意識を戻さず、『では、お送りします』と僧侶たちに車まで運ばれて、ここに帰ってきた次第だ。
 ここのベッドに寝かされてからも、エアリィは気がつくことなく、深く眠っているように見えた。お昼になって、僕らは午後見学に行くはずだった絨毯工房に断りの連絡を入れ、村で買ってきた、ナンで野菜と肉を巻いたものを食べた。その時も声をかけたが、起きる気配はない。
 そんな彼の状態を見守りながらお茶をすすり、僕は考え込んでいた。なにがどうなったのかわからない。でもエアリィはあの時、言った。『彼女が目覚めた』と。彼女とは誰だ? 『わたしのことは忘れてください』と言った人か? あの声の主は、明らかに女の人だったが。だからあの僧侶たちも、あの時『彼女に神が光臨した』と言ったのかもしれない。それは、彼に夢の中で呼びかけたという内なる声なのか。起きている状態ですら聞こえたという。『怖れないで』と。でもエアリィには明らかに、それは恐怖だったのだろう。彼は何度も口にした。『怖い』と。
 おそらく僕らの誰よりも多くの恐怖を味わって、それを乗り越えてきたはずのアーディスに、それだけの恐れを抱かせるものとは、なんなのだろう。その内なるモンスターとは、何者なのだろう。彼の内に眠っていた女性。内なる女性というのは、ユング的に言えばアニマか。いや、違うかもしれない。たぶんもっと巨大な、彼が二度目に意識を失う前に現れたあの超人格的な人が“彼女”であるなら、それより遥かに大きなものだ。その“彼女”の目覚めが、彼を恐慌状態に突き落としたことになる。未来世界へ飛んでしまった時ですら、僕らの誰よりも自分を保って過ごしていたエアリィなのに。彼は恐れや怒りで自分を失ったことは、僕が知っている限りでは今までなかった。近いところでは、未来でパストレル博士に、エスポワール号という宇宙船のことを、まるで衝かれたようにしゃべった直後くらいだろう。でもあの時も、それほどかからずに普通に戻っていた。
 それは、根源的な恐怖なのかもしれない――僕はふとそう思った。ハイスクール時代、父に読まされた心理分析の本に、そんな記述があった。原始的恐怖。コンプレックスやトラウマが、自我の中の傷――意識の塊であるならば、その自我の底にある原始の情動がスカンダ。そこを破られると、精神崩壊の危機にさらされる。フレイザーさんが言っていた自我の殻を破るというのは、まさにその行為で、そのために自我は『怖い』と思う。それは自分が壊されるという、根源的な恐怖。
 ぶるっと震えを感じた。『だけど、僕は怖い』――それが、エアリィが意識を失う前に言った最後の言葉――いや、違う。彼はその後、僕に何か言おうとした。その言葉は聞こえなかったが、それに僕は読唇術も使えないが、今、わかった。助けて、僕には出来ない。彼はそう言った。Help me, I can’t……彼が言ったのは、そこまでだ。何が出来ないのか、それを言う前に意識の帳が下りてしまったのだが。
 その時、その残りの言葉が、ふと天啓のように落ちてきた。
――I can’t bear it――僕には負いきれない――。
 僕は再び震えた。思わず両手をかたく組み合わせ、呟いた。
「どうしたらいいんだよ。僕に何が出来る? 言ってくれ。お願いだ……」

 まるでその言葉が聞こえたように、エアリィはその時、ふっと目を開いた。
「あっ」と、小さな叫びを上げ、そのまま天井を眺め、次いで視線を動かして僕を見る。目が合ったとたん、驚いたような不思議そうな表情になった。僕がなにか言おうとする前に、彼は言葉を発した。「だれ……君は?」と。
「なんだって?!」僕は目を見張り、絶句した。
 エアリィはベッドの上に身を起こし、部屋を眺めている。板張りの壁と天井、ラタンのたんす、風変わりな装飾品、吊り下げられたランプを見ているその表情は、戸惑っているようでもあり、好奇心を感じているようでもある。
「どこなんだろう、ここは」
 片方の手を頭に当て、さらに視線をめぐらせ、木枠の窓のところで止めた。更紗のカーテンがふわりと風になびくと、彼は驚いたようにびくっと震え、頭から手を離して起きあがった。飛びあがるように、窓へとかけて行く。
「信じられない。ここは陸地だ。なぜ……」
 彼は夢遊病者のような足取りで、ドアへと歩いていった。外へ二、三歩踏み出し、足元の草を見、風にそよぐ木々を見、頭の上の空を仰ぎ見ている。そして呆然としたように繰り返す。「ここは、どこだ? 僕はなぜ、こんなところに……?」と。
 僕に並んで、ローレンスさんとフレイザーさんも出てきた。二人は当惑げに顔を見合わせ、次いでフレイザーさんが一歩踏み出し、その肩に手をかけて、こう聞いていた。
「教えてくれないか。君の名前は? 年齢は、出身地は?」
 一瞬僕はあっけにとられたが、その奇妙な質問の意図は、すぐに理解できた。エアリィが何らかの精神的ショックを受けた結果、一時的に記憶喪失状態になっているのではないかと疑ったのだろう。それは僕も感じた疑問だった。決して彼は僕らをからかっているわけではない。本気の言動だ――はっきりそう感じられるだけに。
 彼は不思議そうな表情で僕らを見、躊躇した様子もなく、答えを返してきた。 「僕はアヴェレット・ロンダセレーン。アヴェレット・ラヴィスト・ロンダセレーン。エルファス・ロンダセレーンの息子だよ」と。
 記憶喪失じゃない。名前の響きは多少似ているかもしれないが、これは完全に別人だ。二人の講師はあっけにとられた表情で顔を見合わせ、ついで僕を見てきた。おそらく僕も同じような表情をしていただろう。
「出身地はリセフィールのコミュニティ。僕は第二世代だからね。他にありえないよ。あれ? でも、僕の年? 僕は第二三ピリオド四八年目の夏に生まれたんだ。夏の第一フェーズ、三二日。『第一世界の終わり』から三年目に。でも、今は何年? 僕は何才?なぜ、わからないんだろう……」
 心から不思議そうに首をかしげ、アヴェレットと名乗る彼は言う。でも僕は(おそらくローレンスさんとフレイザーさんも)それ以上にわけがわからなかった。
 相手はしばらく考え込んでいるような表情をしたあと、再び空を見上げ、周りを見まわし、もどかし気に頭を振った。
「なんだか頭がはっきりしない。わけがわからない。それに、あなたたちはいったい誰? 第一世代の人? 彼は若そうだから、第二かな? ねえ、僕も名乗ったんだから、あなたたちも教えて。名前は?」
 僕は名乗り、次いでローレンスさんとフレイザーさんも自分の名を告げる。それを聞くと相手は再び首をひねり、そして言った。「変な名前だな」と。
 おい、いきなりそれはないだろう。最初に僕が自己紹介した時には、『へえ、かっこいい名前だね!』なんて言ってくれたくせに。と思ったところで、そうだ、相手はエアリィじゃないんだ、と気づく。姿形は彼でも、中身はまったく別人だ。
 彼はなお不思議そうに僕らを見、一人ずつ指を指して(人差し指を突きつける無作法なやり方ではなく、中指だともっとひどいがそれでもなく、親指と小指を同時に立ててくるっと回すような、奇妙なやりかただ)、問いかける。フレイザーさんには、「あなたは低地人の第一世代?」、ローレンスさんには、「あなたは海洋人と高地人の混血さん?」、そして僕には、「ああ、君は生粋の高地人だね! フロウはないけれど」と。
「何を、わけのわからないことを言っているんだよ!」僕はたまりかねて、一歩踏み出した。「エアリィ! いや、違う。今はアヴェレットなんだな。アヴェレット、君の言うことはさっぱりわからないよ。君はいったい何者なんだ?」
「僕はエルファスの息子だよ。そう言ったじゃないか。知らないのかい? 父は僕が一歳の時に亡くなったけど」相手は少しいらだたしげな仕草で頭を振った。
「エルファス・ラヴィータ・ロンダセレーン。リセフィールのコミュニティじゃ、知らない人はいないはずなのに。でも、ここはどう見ても、リセフィールじゃなさそうだね。リセフィールは海の中にあるのに、ここは陸地だから。僕は陸にあがったのなんて、初めてだ」彼は言葉を止め、感慨深げにもう一度あたりを見まわして、しばらく黙った。そして再び話し出した。
「僕の父エルファスと母のリマレンディアは、二人とも混血なんだ。低地人と海洋人の。だから僕たち子供も、やっぱりハイブリットなんだろうな。僕には六才上の姉ヴィナリアと、双子の姉エスタルカがいる。上の姉は僕らが生まれる前に、五才で亡くなったけれど。僕は十八で結婚した。妻は海洋人で、三人の子供をもうけたけれど、三人目の子供、レリアヴィナのお産の時に死んでしまった。その二年後に、僕は三つの人種の血を引いた子、ナリヴェーネと結婚した。彼女は最初の妻フェリアラの三人の子にも、とてもいい母親になってくれ、彼女との間にも三人の子供が生まれた。一人は小さい頃に死んでしまったけれど。孫は全部で十六人いて、僕は四七歳まで生きて……あ、あれっ」
 彼はそこで、驚いたように目をしばたいた。
「変だな。なぜ僕は、自分の生涯を全部知っているんだろう」
 それはこっちがききたい。第一、海洋人だの低地人、高地人だのというのは、いったいなんだ? まるでファンタジー小説に出てきそうな名前の羅列も、夏の第一フェーズ、三二日生まれという表現も。
 風がまた吹いた。その拍子に髪がふぁっとなびくと、彼はなにか奇妙なことに気づいたようにその髪を一筋持ち上げ、陽にかざして見ている。
「僕の髪は、こんなに長くない」彼は怪訝そうにつぶやいた。
「それにこの色、この輝き……生粋の海洋人の髪だ。最初の妻フェリアラや、写真で見た僕のお祖母さんのような。僕の髪は、もっと色が濃いはずだ。濃い金色で、右側のひと房が青い。不思議だな。それに今気がついたけれど、この言葉はいったいなんだ? 僕はいったい、何処の言葉でしゃべっているんだ。なぜ……僕は今、どこにいるんだろう。見覚えのない人たちと、見覚えのない土地と。僕は今、いったい誰なんだろう」
 その答えは言うことが出来る。でも教えたところで、当の本人が戻ってくれるだろうか。このアヴェレット・ロンダセレーンと名乗る人は、まったくの異邦人だ。一応英語でしゃべってはいても、まるで異国の言葉のように、言わんとしていることはまったくわからない。きっと僕らの言葉も、彼にとって同じように聞こえてしまうのだろう。その彼に、君の名前はアーディス・レイン・ローゼンスタイナー、先月十六才になったばかりで僕の親友で、同じロックバンドのメンバーだ、と言ったところで、何の意味があるだろう。
 悔しさと憤りがこみ上げてきた。高原で語り合った夜、僕らは完全に理解しあえたと思った。それは、つい一昨日のことじゃないか。なのに、その相手がまったく見も知らぬ別の誰かに変貌し、その人はまったく異世界の人種で、理解も交流も不可能だなんて。
 彼はしばらく黙って立っていた。もはやその目は僕らを見ず、回りの景色も見てはいないようだ。自らの内部に没入しているか、さもなければ放心したような表情だ。
「ヴェリア……」アヴェレットは小さくつぶやいた。「そうだ。彼女が話してくれたんだ。エヴァーストが生まれた晩に。きっと、そうなんだ。とうとう来てしまったんだ。お父さんと同じステージに。今の僕は……いや、正確には僕じゃないけれど、遠い遠い未来の僕がここにいて、ここはきっと……」
 放心したような表情が変化した。恐怖と当惑と。彼はなお独白を続ける。
「そうだ。ああ、とうとう、その時が来たんだ。想像もつかないくらい遠い将来のことでも、その時が来るのは、やっぱり恐かった。でも今、直面するのが僕であって僕じゃないことに感謝しよう。 ありがとう。今ここに、一瞬でも浮かび上がってこられて。道の行く末を、僕は見られたんだね」彼は空を見上げ、両手を広げた。そして呟く。
「空が……きれいだ。青い空を……初めて見たよ。空が高い。風が吹いてる。ここは……美しい所だね」彼はふっと微笑むような表情になった。そして目を閉じると、身体の力が抜けたように、ゆっくりと地面に倒れこんでいく。
「エアリィ、おい、どうしたんだよ!」
 相手はアヴェレットだ、とわかってはいても、やっぱりとっさに口から出てきたのは、友への呼びかけだった。同時に僕は走り寄った。完全に意識をなくしているようだ。
「エアリィ! おい、エアリィ! アーディス! アーディス・レイン! アーディス・レイン・ローゼンスタイナー!」
 僕は揺さぶって、呼びかけつづけた。それで彼が戻ってきてくれることを願いながら。意識の消失はあの時と同じ。これであの不可解なアヴェレットが消えてくれたかもしれないと、そんな期待を感じてもいた。
 やがて彼は少し身じろぎをし、ゆっくりと目を開いた。その目が僕をとらえる。その不思議そうな表情は、また振り出しに戻ってしまったことを僕に悟らせた。彼は二、三度瞬きし、怪訝そうにじっと見たあと、ちょっと強めの動作で僕を押しやった。
「だれなのよ、あなた?」
 その口から飛び出してきた言葉に、僕は思わずあっけにとられ、呆けたように相手を見つめてしまった。元々美少女と言っても疑いなく通るほどの容姿で(この旅行中も、全員が間違えた)、しかも中性的な声だ。そんな口調でしゃべると、完全に女の子以外のなにものでもなくなってしまう。未来世界から帰還した日に、ボルチモアのスターバックスで会った時のように。『違う。あたしはアメリー・ステュアート』――そう言った彼は、女の子そのものだった。そして今も。僕はいっそう混乱してしまった。
「いったいどこなのかしら、ここは?」
 彼――いや、彼女は立ち上がり、あたりを見回している。アヴェレットがそうしたように。そしてしばらく空を見上げていたが、やがて小さく頭を振り、ため息をついた。
「わかった。そういうことね。ここは次のステージなんだわ。名前はなんていったかしらね。そう、地球。大地の星」小さく頭を振り、少し沈黙した後、彼女は言葉を継いだ。
「不思議なものね。今まで忘れていたのに。思い出したわ、何もかも。ディラスタと一緒にエマディスとヴァラシアの旅立ちを見送った時に得た知識を」
 その表情に、明らかな恐怖がよぎっていった。そして両腕を身体に回し、一瞬震えた。
「本当ね。あの子たちの言ったことは正しかったわ。想像もできないくらい遠い未来のことで、あたしには直接の関係はないんだって思っていたのに」
 二人の講師も目を丸くし、言葉もなく見守っていたようだったが、かろうじてフレイザーさんが歩み寄ると、同じ問いを繰り返した。「君の名前と年齢と、出身地を教えてくれ」と。
 彼女は、ぱちぱちっと瞬きをした。いくぶん気を取り直したように、かかってきた髪を手でふわっと後ろにやると、かすかに微笑して答える。
「ああ、初めまして。あたしはセディフィリア・サリューパヴィア・ロンダセレーン。セディフィって呼ばれているわ。年齢は意識次第だけれど、あたし的には二十代後半くらいね。実際はわからないけれど。あたしは六二ピリオドの九三年、黎明の第二フェーズ、十七日に生まれたの。出身地はエディルサールのバレスタロンド。って言っても、あなたたちにはわからないのよね。ここが次のステージなら」
 アヴェレットよりは周りの状況がわかっているのかな、という感じではあったが、相手の言うとおり、僕らには相変わらずまったく意味がわからない。
「女性……だね、君は」ローレンスさんが、おずおずとした口調で問いかけている。
「当たり前でしょ! 見てわからないかしら?」
 いや、見た目はたしかにそうだが、本当は違うはずだ――思わずそう思ってしまったところで、セディフィは僕を見た。凝視するように目を開いて、まじまじと。そして再びぱちぱちっと瞬きをすると、小さく頭を振り、しばらく沈黙してから、納得したように呟く。
「ああ……この子は、そうなのね。そういう認識。OK、わかったわ」
 彼女は考え込んでいるような様子で、ゆっくりと言葉を継いだ。
「じゃあ、それだと、ちょっと変に聞こえるかもしれないわね。あたしにも、はっきり事情を説明することは出来ないの。あたしにも、意外だったもの。ずっと眠っていたから。でも、きっと進化した彼女が……進化したあたし、とも言えるのだけれど、あたしをここに連れてきたのね。どうして? 知識のおさらい? それとも、とうとうここに来たのだって、あたしにも見せてくれたの? そうだったら感謝するわ」
 彼女はくすっと笑った。そして僕らではない空中に目をやりながら、再び口を開いた。
「そうね、自己とは対話、一応可能なのよね。でも、彼女とは無理だわ。ギャップがありすぎて。それに、自我同士で話が出来たら面白いのに。同時には咲かない花らしいから、無理なんだけど」
 彼女は再び、かすかな笑いを漏らした。その視線が再び僕たち三人の上にとまった。
「ああ、でも、あなた方には、まるで別世界の話に聞こえるでしょうね。そうなのよ。結局、すべては別世界の話なの。あなた方にまるっきりかかわりのない話というわけではないんだけれど、理解してっていうのは、絶対無理なのよ。特に、そちらのお二人には。でもね……」セディフィは僕を真正面から見た。濃いヘヴンリーブルーの澄みきったその瞳は、面白がっているような感じとともに、明らかに真剣な光をたたえている。僕は一瞬、妙にドキッとし、ついでそんな自分を蹴飛ばしたくなった。
「あなたにはきっと、いずれわかる話だと思うわ」
 セディフィはほとんど瞬きも忘れたように、ひたと僕を見つめてくる。
「まだまだ時期じゃないけれど、あなたがあたしとディラスタの段階まで進んできたら、理解できると思う。そうよ。あたし、わかるわ。あなたがディラスタの後継者なんだって。なんだか感じもよく似ている。起源子は後継の影と組むっていうのは、本当ね。あなたはディラスタのパレーヴィン時代と同じ時期なのね、言ってみれば。あたしは知識を得た時、ディラスタを少し羨んだこともあるのよ。そっちの方が楽で良いなって。まあ、彼は彼で大変なのには違いないけれど、裏方だし。でもあたし、裏方は性に会わないから、文句は言えないわね。それにあたしが起源子じゃないだけ、救われるわねって思っていたの。このコも大変だわね。あたしにもひとごとじゃないんだけど、でもあたしの意識じゃないしね。まだよかったわ」彼女はそこで小さなため息をつくと、僕の顔を見て微笑した。
「あなた、頼むからあたしに消えてほしいって思ってるわね。このコとは男同士として付き合ってきたから、女の子口調で話されるのは、いやなんでしょう。混乱するから」
 まさにその通りで、僕はもう半分以上、頭がくらくらしていた。友が別人格になるという衝撃はさっきのアヴェレットで体験済みだが、こともあろうに女の子に変貌してしまうという事態にいたって、僕は完全に打ちのめされてしまった。未来世界から戻ってきた時、目立つからということで、女の子の格好をさせられた彼を目にした時の違和感に似ているが、今回は中身も完全に女の子だ。外見的にも、別に女の子の格好をしなくても、たいして変わりはしない。男だと知らずに会った人は、ほぼ全員女の子と認識するのだから。僕だって初対面では、少女だと思ったくらいだ。(そして思わずドキッとして赤くなった自分を、あとでとんでもなく後悔した。『おまえがそんな紛らわしい姿しているからだ〜』と、本人に言いたくなったほどだ)
 そういえばエアリィがバンドに加入したあとの三月、出演したハイスクールでのライヴを、珍しくステラが友達と見に来てくれた時、『歌手を募集していたっていうことは知っていたわ。でもなぜよりによって、プラチナブロンドの、あんなとんでもない美少女なの! あなたは、女の子は入れないって言ったじゃないの! だから、安心していたのに』『たしかに、歌はすばらしく上手だと思うわ。でも……あの娘はきれいすぎるわよ! ねえ、あの娘とあなたが一緒にバンドにいると思うと、わたしとても気が休まらないから、あの娘をやめさせるか、あなたが抜けるかして。お願い!!』などと、あとで怒られ、懇願されたことまで思い出してしまった。しかも、いや、彼はああ見えて男の子なんだ、しょっちゅう間違われているけれどね、と言っても、なかなか信じてもらえず、苦労した。そんな見え透いた言い訳を、と。今もしステラがこの“セディフィ”と出会ったら、どんな反応をするだろう――そんな妙な思いまで頭をかすめる始末だ。
「わかったわ。あたしは元に返る。これ以上あなたたちを混乱させても仕方ないものね。あたしもついしゃべりすぎてしまったみたいだし。ああ、よくディラスタたちにもからかわれたものなのよ。おしゃべりセディフィって。これ以上よけいなことをしゃべらないうちに、また眠ることにするわ。次にこの子が起きた時には、あたしはもういないわよ」
 彼女は右手の肘から上を上げ、くるっと手のひらを回すようなジェスチャーをした。この動作の意味はよくわからない。でももしかしたら、肩をすくめる、に近い意味なのかも――ふとそんな気がした。セディフィは僕の顔を見て微かに笑うと、ロッジに向かって歩き出した。ドアを開けて中に入る前に立ち止まり、アヴェレットがそうしたように足元を見、周りの木々を見、空を仰ぎ見ている。
「本当に別世界なのね、ここは。空の色も植物も、空気の匂いも微妙に違うわ。それに空気が湿ってて、暑い。ちょっと苦手ね、こういう気候は」小さくそう呟いて、彼女はかすかに首を振った。「どうせならもう一度、バレスタロンドの街と海が見たかったわ。あそこの海はきれいなのよ、透明で。泳ぐのにもいい場所よ。でも、もう帰れないのね……」
 一瞬悲しげな表情を浮かべ、彼女はふっとため息をついた。
 家の中に入り、壁に掛かった鏡の前を通った時、彼女は足を止め、興味深そうな表情で、そこに映った姿をのぞき込んでいる。
「ふうん……これが今の……あたしなのね。正確には、あたしじゃないけど」
 彼女は髪を両手でつかみ、ぐるっとねじって頭頂部から二筋に流し、言葉を継いだ。
「ああ、こうしてみると、あたしにわりと似てる。同じような色の髪だし。長さはかなり足りないけれど。でもこの子の方が、あたしよりずっと光があるわね。さすがに、昇華寸前なだけあるわ。へえ、不思議ね。なんだかおもしろい……」  それは思い切り高く結わえたポニーテールを両サイドに垂らしたような、奇妙な髪型だった。彼女は僕を振り返り、にこっと笑って、髪から手を離した。光のような金髪が、頭のてっぺんから、再びきらきらと背中に流れていく。ちらっと僕を見やるその表情は、完全に女性そのものだ。勘弁してくれ、セディフィ。もう消えてくれ――そんな僕の声なき言葉が聞こえたように、彼女は小さく笑った。
「ごめんなさい。ついつい名残惜しくて。素敵よね。生きているって。あたしも七八年生きたけれど、まだまだ生きたかったわ。まあ、現に生きていることにはなるんだけれど、それはこの子の人生で、あたしじゃないし。ああ、このコなんて言ったら、失礼かしらね。この子は“彼女”なんだから」
 セディフィはベッドに横になると、布団を胸のあたりまで引き上げ、僕らを見上げた。
「おやすみなさい。さよならって言うべきかしら。あたしがあなたがたに会うことは、もうないでしょうから。そもそも戻ってくることは、二度とないと思っていたわ。夢は覚めるとそのうち消えるけれど、でも忘れられない夢っていうのもあるのかしら。あたしにしてもアヴェレットにしても、それにアルディーナもラフェーリアも、きっと忘れられない夢なのよね。本当に、みんなと話せたら面白そうなのに……」
 再びその目が閉じられ、まもなく彼女は眠りに落ちたようだった。




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