The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(8)




「でもあの時代のことは、本当に思い出したくないな。部屋に閉じ込められて、外も見ることができなくて、自分の生殺与奪をとんでもない奴が握っててって、もう最低最悪な状況でさ。トイレもいけないんだよ。部屋にバケツが置いてあるだけで。で、着る服もあいつが寄越す奴しか着られない。ろくに食べ物もくれない。でも、こんなことはまだ……ああ、もういい! これ以上はやめる」
「無理しなくていいぞ……」僕はそれしか言えなかった。僕が六歳の頃は、本当に幸せな子供だった。両親と兄弟と友達とホプキンスさんと。愛情に満ちた家庭で育ち、物理的にも何不自由なかった。たくさんのおもちゃと、上等な洋服と、満ち溢れた食べ物と。母の膝で甘え、兄弟たちや友達と遊び、楽しみもたくさんあった。自分はとても恵まれすぎていたのだなと、この時改めて思えた。申し訳ないような気分がした。
「でも一つだけ、ものすごく印象に残ってることがあるんだ。もう結構寒くなってた頃に……ふっと目が覚めたら、いつものように床の上で……熱も出てるみたいで、ベッドにも上がれなくて、毛布も取りにいけない。肉体的にはもう最悪って感じで。それで、天井を見ながら思ってたんだ。リード父さんと旅行に行った時、ベッドから天井を見上げて泣いた時が、ある意味物理的幸福の絶頂だったとしたら、今はどん底だなって。あれから一年ちょっとしかたってないのに……でも、ああ、今ってどん底だけど、たぶん上がる時も、きっといつか来るに違いないって、そう思えたんだ。幸い、そっちの予感も当たってくれたけど。それから四日後に母さんが退院したから。そのまま、病院からどっかへ行っちゃったけど」
「えっ?」
「手紙だけ来たんだ。別れの手紙。母さんも病院で、いろいろ考えて、あいつの本性に気がついたんだろうね。で、あいつはその手紙見てキレてさ、ものすごく暴れた。テーブルひっくり返して、椅子で家具を叩き壊して。で、そのあげく、泡吹いて倒れて。興奮しすぎたんだと思う。僕はしばらく見てるだけしかできなかったけど、全然動かないし、起き上がる気配もないから、こわごわ近づいていって……生きてるけど、気は失ってるってわかったら、今なら外へ出れる! って思ったんだ。でも、母さんが帰ってくるかもしれないし、手紙になんて書いてあるか見てみようって読んだら、昨日一日早く退院した。あなたの元へはもう戻らない。その部屋のわたしの荷物は、始末してくれて良い。貴重品は手切れ金代わりに上げる。さようならって、それだけ書いてあったんだ」
「おまえ、その頃から字は読めんたんだな……」
「うん。二歳くらいから読めたよ。だから留守番してる時、本読んでたりしてたし」
 どれだけ天才児なんだよ、おまえは……僕はそう言おうとして、言葉を飲み込んだ。どうも話が重すぎて、逆に余計な枝葉が気になってしまう。
「でも僕は母さんに見捨てられたって、その時にはそう思って、ショックだったな」
 エアリィは髪を振りやり、少し黙ってから続けた。「でも後から母さん、話してくれたんだけど、僕はマインズデールにいるって思ってたらしいんだ。入院中教会に預けてくれって、母さんはあの男に頼んだらしくて」
「そうなのか……でもそいつは、そうはしてくれなかったんだな」
「まあ、めんどくさかったのかもしれないし、教会が嫌いだったのかもしれないけど……でも母さんには、そうしたって言ったらしい。母さんはマインズデールまでの旅費とかいろいろ、あいつに渡したらしいんだけど、遊ぶ金にしちゃったみたいだ。教会へ出してくれって頼んだ手紙も出さなかったみたいだし、教会からの手紙も渡さなかったみたい。それで母さんもシスターも、状況がわからなかったんだって。母さんはあいつには、結構いろいろ援助もしてたんだよ。入院する一ヶ月前にも、母さんはあいつの個展を開くのに、かなり出資して……ほとんど作品は売れなくて、大失敗だったらしいけど」
「才能がなかったんだろうな、そいつ。でも、本当にひどい奴だな……」
「ああ。まあでも、その時の僕は、母さんが帰ってこないって、それだけで頭がいっぱいだった。ずっとあいつと二人で残される! そんなのは絶対嫌だ、逃げようって。その時は僕もリビングに出られてたし。あいつも母さんの退院日を知ってたから、母さんが帰ってきた時に、僕が普通に出てる状態じゃないと、まずいって思ったんだと思う。それでその日、『今日がアグレイアの退院予定だから、迎えに行ってくるぞ』ってあいつが言って、僕の部屋の鍵も取り外してたんだ。『ママが帰ってくるんだから、出るなよ』って。でもあいつが出かけようとした時に、ポストに手紙が来てるのに気がついて――だから今なら玄関まで行けるし、ドアの取っ手にも、なんとか届く。外へ出る唯一のチャンスだ、そう思ったんだ。何にもなしじゃあとで困るけど、もたもたしててあいつが気づいたら大変だし、って、辺りを見回したら、テレビ台の上に十ドル札が二枚とコインが八枚あったからそれをとって、それから玄関にかけてあったあいつのコートを持って外へ出たんだ。あいつのコートなんて着たくなかったけど……大嫌いな匂いだしね。でも、自分のを探してる暇はなかったから。それで大急ぎで救急車を呼んだんだ」
「ええ? そんな男のためにか?」
「ああ、まあ、たぶん心臓か頭か、どっちかの発作なんだろうなって思って……そのままほっとかない方がいいのかなって思えたんだ、なんとなく。びくびくしながら、あいつがもし気づいたらすっ飛んで逃げられるように、玄関までの通路を確保して、電話して……人が倒れてます、って住所を言ってから、ダッシュで飛び出したんだ」
「そうなのか。それで、どうなったんだ、おまえは?」>
「まあ、普通に……ストリートチャイルドになったよ。でも最初に外へ出て、驚いたんだ。寒! もう十二月なんだ、って。前に外へ出たのは九月で、まだ夏の日差しが残ってたけど、アパートの玄関を出たら、雪が降ってた。あいつのコートでも、持ってきて良かったかなって思って、それをはおって歩いてたんだけど……大きすぎて、下引きずってたけどね。街はクリスマスが近くて、すごく華やかで、でも僕はここからどこへ行ったら良いんだろうな、母さんを見つけることが出来るかなって、そればっかり考えてた。そしたらダンっていう、まあ、そのあたりを取り仕切ってるストリートチャイルドの大将がいて……十二歳だって言ってたけど、親はプエルトリコからの移民だったらしい。五人ぐらい下に弟妹がいて、親は日雇いとかやって暮らしてたけど、その一年位前に夜逃げしちゃったらしいんだ。子供全部置いて。で、ダンは小さければ誰かが拾ってくれるかもしれないって思って、下の四人はスーパーの中においてきて、店員さんに保護されてたけど、その後はどうなったか知らないって。それでしばらく上の妹と二人で暮らしてたけど、その妹は、半年前に突然いなくなってしまった。たぶん、さらわれたんだろうって、そう言ってた。だからかな、その子に声かけられたんだ。『おい、おまえ。こんなとこ一人でうろうろ歩いてたら、悪い奴にさらわれるぞ』って。彼は僕を女の子だと思ったらしいんだ。髪も三、四ヶ月切ってなかったから、かなり伸びてたし」
「そうか。それならなおさら、間違えるだろうな」僕は思わず苦笑した。
「で、話してるうちに、どうも誤解してるみたいだって気づいて、男だって言ったら、本気で驚かれて、『いや、間違ってさらわれるぞ、絶対。そうしたらやばいことになるから、ここにいろ』って言ってくれた。僕もその時には、右腕も折れてたし、あざもまだところどころ残ってたから、事情は察したみたいで。でも盗みはいやで、できなかったな。『しかたねえんだよ、生きてくためには。人の情けなんて、当てにはできねえぜ』って彼は言ってたけど、僕には無理強いしなかった。デリやレストラン、スーパーのゴミ箱あさりはしたけど……賞味期限切れの食べ物とか食べ残しとか、もったいないね、あれ。ストリートの人たちには、助かるものだけど。コートは他の子にあげちゃったから、ダンがゴミ箱に捨ててあったセーター持ってきてくれて。赤いチルデンセーターで、思いっきり右袖が半分ちぎれてたけど……だから捨てられてたんだろうな。裾もほつれてたし。僕にはちょっと大きかったけど、『よけい女の子っぽいけど、まあ仕方ねえな。ないよりましだから、それ着てろ』って。でも、結局一週間くらいで、彼らとはぐれちゃったんだ。本当にさらわれそうになって、走って逃げてるうちに、かなり遠くへ行ってしまったみたいで」
「おまえ、その頃から足速かったんだろうなぁ……」僕は思わず、そんな間の抜けた相槌を打ってしまった。
「うん、まあ……振り切ろうとして、必死だったから。で、戻ろうとしたんだけど、寒くて動けなくなった。走った反動と……ダンがくれたセーターも途中で他の子にあげて、その時は着てなかったから。雪が吹雪いてきて、凍え死にそうになった。マッチ売りの少女じゃないけど、最後に幻覚を見るっていうのは本当だなぁ。あの時、いろんな幻を見たけど、気がついたら、ベッドに寝てたんだ。二十代半ばくらいの、コールガールのお姉さんの部屋で」
「へえ……じゃあ、その人に助けてもらったわけか?」
「そう。その人、野ばらさんって通称で、買い物の帰りに、雪の中に半分埋もれた僕を見つけて、連れて帰ってくれたらしいんだ。彼女の家のすぐ近くだったらしくて。『あなた、男の子だったのねぇ』なんて、また驚いたように言われたけど。それで彼女に事情を聞かれて話したら、『それならお母さんが見つかるまで、ここにいてもいいわよ。あなたがちゃんと元気になったら、警察に行って事情を話してくるから』って、彼女の部屋に置いてくれたんだ。『生きていればちょうどあなたくらいの子が、わたしにもいた』って言ってた。男の子で、生まれてすぐに死んじゃったらしいけど。未熟児だったから、病院の手当てが必要だったんだけど、お金がなくて病院に行けなかったって。彼女がコールガールになった経緯っていうのも話してくれて。二歳の時に両親が離婚して、それからお父さんの元で育てられてたんだけど、お父さんは彼女が十二の時に死んでしまって、お母さんに引き取られて。お母さんは別の男の人と再婚していて、小さな子が二、三人いて、ベビーシッター代わりにされて、それに彼女はその義理のお父さんに何度も暴行されたらしいんだけど、お母さんは助けてくれなかったって。それで十六の時に家出して、いろいろな職を転々として、最後に身体を売るようになった。そんなこと言ってた。子供はその仕事をする前に付き合ってた恋人の子だったんだけど、相手は子供が出来たって知ったら、逃げてしまったっんだって」
「悲惨なんだな……ストリートチャイルドの大将も、そのコールガールさんも」
 頷きながら、イスタンブールの市場でエアリィが言っていたことの意味が、わかった気がした。ストリートに出るのには、それぞれのわけがある。一人ひとりの物語は興味深い、と。それは彼自身の体験でもあったのだ。その時の僕には思いもよらなかったが。ただ傍を通って、お金をあげたりするだけではわからない、ストリートの真実。
「うん。それでもみんな、一生懸命前向きに生きてる、そんな感じだったな。野バラさんもダンも。それにとても親切で、いい人だった。野バラさんは怪我の手当てもしてくれて、『間違われると、いろいろ危ないわよ』って、髪も切ってくれて。少しでも短くして、男の子っぽくした方がいいって、耳が隠れるくらいの長さになったんだけど、それでも女の子に見える、なんて言われて、青いセーター買ってくれたり、お客さんに『この子、こう見えて男の子なのよ』なんて、いちいち言ってくれたり……そんなに僕って、見た目女の子なんだろうか、髪かなり短くなったのにって、その時初めて思ったけどさ」
「遅いな、その自覚」話のへヴィーさにもかかわらず、僕は思わず笑ってしまった。
「そう? まあでも、それ以前から女の子みたい、とはよく言われてたけど、自分じゃ、あまりピンと来なかったんだ。でもまあともかく、それから彼女のアパートに一週間くらいいたんだ。でもそこって彼女の仕事場だから……お仕事中とかって、僕がいると邪魔だし、教育上も良くないから、隣の部屋で待ってて言われて、でもそこって荷物でごった返してて、場所確保が大変。その部屋で、小さなラジオ貸してもらって、そこから流れる音楽を聴いて待ってたんだ、お仕事中は」
「はぁ……そうなのか」
「そこで一週間がたったころ、二人組みの客が来たんだ。片方の人は、三日前にも来たなって思った。その時には、僕はお客さんが来たんで隣の部屋に行こうとしたら、『あんたの子?』ってその男は聞いてて、野バラさんは『違う。親戚の子よ』って答えてた。それでその人にも、『この子、こう見えて男の子よ』って言ってたけど……その人がまた、今度は別の人を連れてやってきたんだ。特別料金を払うから、とか言って。それで僕はいつものように隣に行こうと思ったら、その別の人が僕の肩に手をかけて、『ここにいていいよ、坊や』って。えっ、て見上げたら、いきなり大きな白い布を頭からすっぽり被せられた。薬品がしみこませてあったみたいで、すごく気持ち悪くなって……『何をするの?! やめて! その子は本当に男の子なんだから!』って、野バラさんの悲鳴が聞こえて、それから意識がなくなった。それで気がついたら、暗い部屋にいたんだ。窓はあったけど、ブラインドが下りてた。他にも五人の子供たちがいて、何人かは泣いてて、他は泣き疲れて寝てた感じだった。下は五歳くらいで、上は十歳前後って感じ。男の子が一人、女の子が四人。みんな犬の首輪がつけられてて、ベッドにつながれてた。僕も首輪が付いてて、他のみんなと同じように、下着一枚の上に薄手のぼろい毛布着せられてた。首のとこに穴が開いてて、すぽっとかぶってる感じで、腰のところで紐で縛ってあって。しばらくしたら、その部屋に男たちが入ってきたんだ。三人くらい。それで『トイレに行きたい奴はいないか』って言って、一人ずつ首輪に紐つけた状態で連れてって。三時間ごとにやってきて、同じこと繰り返してた。僕たちの目の前には、何本かのハンガーポールみたいなのがあって、そこにパンとかストローをさしたジュースのボトルが取り付けてあって、トイレ巡回の時に時々そいつらが補充してくんだけど、手は縛られてて使えないから、みんな、一番近くにあるパンとジュースにかぶりついてた。それが食事。そこにだいたい二日くらい、そんな感じで閉じ込められてたんだ。その間にもまた二人、新しい子が連れられてきて」
「そこって、いったいなんだったんだ? まさか……」
「うん。ビンゴ。子供をさらって売るところ、闇マーケットの幼児売買って……ダンが言ってた『悪い奴ら』ってこいつらか、あの時にはせっかく振り切ったと思ったのに、結局捕まっちゃったなって、納得したけど、遅いよね」
「おい、本当にさらわれたのか! よく、無事だったな!」
「なんとか逃げたからね。あいつらが話してるのを聞いて。金持ちの奴隷として売るか臓器を取る、とか。殺されるのもやだけど、奴隷って聞いて、あいつのこと思い出した。『俺がご主人様だぞ』とか、よく言ってたから。それで、ホントにもうぞっとして。次の日に、『競売』があって、そこで買い手がついたら、その人に売られて、そうでなければ闇ルートで臓器売買されて、殺されるってわかったから。このままだったら、また闇と一緒の生活に戻されるか、殺されるか。他の子たちもそうなっちゃう。そんなの、本当に嫌だったから。あいつらは三時間おきに来るから、一度来たらしばらく来ない。その間に逃げられないかなって。犬の首輪ならどっかに留め具があるはずだって、なんとか手を上げて、かちゃかちゃやってたら、運よく外れて……それで、窓から脱出したんだ。外に人が歩いているの、見えたから。それでその人に助けを求めたら、それが偶然今の継父さんだったんだ。ニューヨークに仕事で来てて、考え事して、裏道に迷い込んだらしいよ。それで継父さんが通報してくれて、他の子たちも助かったんだ」
「ええ? そうなのか。それは偶然だな……」
「ほんとに、とんでもない偶然だったけど、継父さんがいい人で、本当に良かった。それで僕は逃げる時怪我したから、しばらく入院してたんだけど、病院で気がついたら、母さんが枕元にいたんだ。僕は夢を見てるのかな、って一瞬固まったくらい、びっくりした。母さんは僕を探してくれたらしい。『アーディス! ああ、無事でよかったわ!』って泣いてくれて、僕も本気で泣いた。あの時には。継父さんは僕を助けたあともしばらく病室にいてくれて、そこで二人は会ったみたい。で、継父さんが母さんに一目ぼれして、それでまあ、いろいろあって、結婚することになったんだ」
「はぁ……おまえが時の神か……しかしなぁ……」
 それ以上、言葉が続かなかった。彼はただ事実の羅列のように、なんでもない調子で話しているが、それがどれだけの重さを持っているのかは理解できる。そういったすべての暗黒を飲みこんで、現在のアーディス・レインがあるのだとしたら、その強さに僕は驚嘆するだけだ。そんな彼には、たしかに僕が前半したような旅はまったく不必要だろうし、今年初めの僕の落ち込みに対して、『おまえの今の不幸って、僕にはそこまで落ち込むものなのかって、理解できない。免疫不足だ』と言うだけの理由も、権利もあるだろう。

「それで、お母さんは今のお継父さんと再婚して、プロヴィデンスに行ったんだよな」
 ひとしきり黙った後、僕はそう切り出した。これ以上、波瀾の物語が続かなければ良いな、と願いながら。
「ああ。それから半年くらい経ってからだけどね、二人が結婚したのは。七月だったから。まあ、戸籍的には母さんは初婚なんだけど。でも僕は父さんの継子で、養子にはならなかったんだ。前にも言ったけど、ローゼンスタイナーって姓を残すためにって、母さん言ってた。お祖父さんから引き継いだ姓を消したくないって。まあ、元はヨハン神父さんとシスター兄妹のなんだけど、二人は聖職者で独身だから、子孫いないし。母さんが死んだ時、継父さんは僕の後見人になってくれたけどね。結婚式が終わって、継父さんは今まで住んでたアパートから、ファミリー用の一軒家を借りて、そこで継父さんと母さんとアラン継兄さんと四人で暮らし始めたんだ。でも最初のころは、継兄さん、やばかったよ。すっごい意地悪で。『寄るな、話しかけるな。おまえなんか赤の他人だ!』って、いつも言われたし。『わたしたちに、まだ慣れていないだけよ。ゆっくり家族になれば良いわ』って母さんが言っていたから、たぶんそうなんだろうなって僕も思って、出来るだけ気にしないようにはしたけどね」
「そうなのか……すべてがうまくいったわけじゃないんだな」
「まあでも、継兄さんのことだけだから。それも、今までと比べたら、ホントにかわいいもんだったし。いつか仲良くなれたらいいな、とは思ったけど。それで僕は、一応前の年の九月に学校へ上がったんだけど、そんな事情で最初の十日しか通えてなかったから、そのまま進級させるか一年遅れになるか、テスト受けることになったんだ。そしたら、五年に編入になって。でも、クラスの子たちは僕を受け入れてくれたし、友達も出来たから、プロヴィデンスでの生活は、普通に楽しかったよ。楽しい記憶のアルバム、って言えるかもね。悲しい終わり方したけど。ただ……」
「ただ……? 何だ……?」
「うん……ひとつだけ、すごく大きな後悔があるんだ。んー、プロヴィデンス時代の後悔は、厳密にはもう一つ二つあるけど、その中でも一番大きなことが。ただ……これって詳しい経緯を聞かれると、ちょっと言いにくいんだけど……」
「そう言われると、気になるな。どういう種類のものかはわからないが」
「うん、まあ、いいか……言っても。みんなは僕のせいじゃないって言ってくれたけど、やりようによっては防げたかもしれないっていうのが、引っかかってるんだ。間接的に友達を殺しちゃったみたいで……」
「え、どういうことだよ」予想外の言葉に、僕は思わず問い返した。
「僕たちはプロヴィデンスで、少年野球のチームを作ってたんだ。そこにコーチとして入ってきた奴がいた。わりと面白い人だったし、面倒見も良かった。僕はもうじき九歳の頃で、ジョンは……その友達だけど、十二だった。メンバーは僕が一番小さくて、あとはだいたい十二か十三で。もともとみんな、ジュニアハイの一年か二年目くらいだったから。そのコーチは三十前くらいだった」
「ああ……それで……?」
「その五月に、ジョンは事故で死んだんだ。トラックにはねられて。彼はそのコーチに……いわゆる性的暴行を受けたんだ。っていっても、未遂らしいけど。特別コーチをしてあげるって、夜のグラウンドに呼び出されて……そのコーチは……うーん、なんていうのかな、少年好きの性癖を持ってたらしい。そういえばロビン見てると、ちょっとジョンと似てるなって思う、見た目が。彼もああいう感じの子だったんだ。まっすぐな栗色の髪で、ちょっと童顔で可愛い感じ。性格はかなりお茶目な奴だったけど、ジョンは」
「そうか……」
 僕は言葉が出なかった。話には聞いていたが、身近で聞くと、ただ身震いするばかりだ。
「その男は捕まったんだよ。ちょうどその時グラウンドに地元の高校チームの人たちが何人か、試合が近いから練習しようって来て。夜っていっても、八時くらいだったから。それで彼らに発見されて、取り押さえられたんだ。だから未遂ですんだし、その人たちが通報してくれて、現行犯逮捕になったんだ。でもジョンはパニックになってて、解放されたとたん道に飛び出して……ここから逃げ出したいって思いだけだったんだろうね。それで、運悪くちょうど来たトラックにはねられて……」
 なんという、ひどく運の悪い偶然だったのだろう。その子が飛び出した時、そこにトラックが(きっとかなりのスピードが出ていたのだろう)通りかかったというのは。僕は再びぞっと身震いしながら、聞いた。
「それは……おまえもショックだったろうな。でもそれがどうして、おまえが間接的にその子を殺したということになってしまうんだ?」
「うん……まあ、すごく言いにくいんだけど、ジョンは最初の被害者じゃないんだ。発端は僕で……」
「えっ……!」僕は一瞬、言葉を失って固まった。ロビンから『君が好きだ』と唐突に言われた時以上の衝撃だ。いや、違う。それとこれとを、同じに考えてはならない。理不尽な大人の、一方的な暴力だ。六歳の頃のアーディスを見舞った闇と同じように。最初にそいつの話を聞いたとき、ピンとこなかった僕も鈍すぎる。今のエアリィからも容易に察せられるはずだ。子供の頃も、どれほど人目を引く美と魅力を持っていたかを。
「僕はなんとなく、そのコーチのことがあまり好きじゃなかったんだ。もともと。たしかに面白い人だったけど、なんかやだな、って。そう……なんて言うのかな、ニューヨーク時代のあいつに通じるものを感じてて。でも、五月の土曜日の午後、うちに電話がかかってきて、呼び出されたんだ。僕ももうちょっと警戒しとけばよかったんだけど、やだなとは思ったけど、一応コーチだしって。あー、でもそっから先は省略していい?」
「いいよ。言わなくていい」僕は急いでかぶりを振った。
「でも、それで終わりじゃなくてさ、あいつがまた家にやってきて、手首を握ってきて、『おいで』って言う。『週末、うちで過ごそう。お母さんには言っておくから』って、ものすごい猫なで声で。なんかもう、ぞっとしたなんてもんじゃなかったけど、でも一瞬足がすくんで、動けなくなっちゃったんだ。そしたらそこへ、アラン継兄さんが家に帰ってきた。買い物に行った帰りらしくて、片手にスーパーの袋を下げてた。それで最初はチラッと見て、家に入ろうとしていたけど、二、三歩歩きかけて、振り向いて言ってくれたんだ。『おい、弟に何をするんだ?』って。今まですごく意地悪だったのに。真っ向からそいつに言い返してくれたから、僕はその隙に手を振りほどいて継兄さんのところへ行ったら、後ろにかばってくれた。そしたらあいつは舌打ちをして、去り際に言ったんだ。そうか。それなら他を探さなきゃならないなって。ジョンが死んだのは、その夜だった。だから、あいつの本性を早くみんなに言えてたら、それとも僕が、あの場で逃げてしまったから……だからジョンは代わりに? って、すごく後悔したんだ」
「なっ……」ショックの中からも、僕は激しい憤りを感じて、思わず立ち上がった。
「で、それでおまえが、間接的に友達を殺したって言うのか! それは根本的におかしいだろう、エアリィ! 根本的に間違ってる! 間接的とかじゃなく、おまえは友達の死に引け目を感じる必要なんか、全然ない。おまえが犠牲になる必要はまったくないし、人には言えなかったっていうのは、当然の感情だ。おまえは被害者だ。それ以外の何者でもない。それにおまえはその時、九歳にもならない子供だったんだろ? 誰のせいかって言ったら、そのけだものに決まってるじゃないか!! それに逆に言えば、結果的にそいつが捕まってよかったんじゃないか? その友達は本当に運が悪くて、気の毒としか言いようがないが、でも現行犯逮捕されなければ、そいつはまだのさばっていたかもしれないし、新たな犠牲者が出たかもしれないじゃないか! だからおまえが気にする必要は、全然ない! 責められるべきは、そいつだけだ!!」
「ジャスティン……」
 エアリィは僕をしばらくじっと見、それからいきなりぷっと吹きだしていた。
「ジャスティンってホントに、熱血なんだなぁ! あの時のトニーやエリックたちより熱い! そんなに真剣に怒ってくれるなんて、思わなかった」
「なんだよ。笑うことはないだろ……」
 僕は興奮したのがいささか気恥ずかしくなり、もう一度座り込んだ。
「ごめん……でも、ありがと。なんか少し気が楽になった……」
 エアリィはしばらく黙ったあと、ため息とともに言った。
「でもジャスティンの言うとおり、そいつ、そこで捕まって幸いだったのは、たしかだったみたいだ。そいつが名乗っていた名前は偽名で、警察が指紋照合したら、ペンシルバニアで指名手配になってた奴だったんだ。そこで三件の性的虐待容疑と、それにその被害者の一人、十一歳の男の子を殺してたらしい。それでロードアイランドへ逃げてきたってことがわかって……だからずっと刑務所だろうな。五十年とか食らってから」
「……とんでもない奴だったんだな、本当に」僕は思わず寒気を感じて、絶句した。
「僕も殺されなかっただけ、ましなんだろうけど……でも、その代わりジョンが死んじゃった。まだ十二になったばかりだったのに、闇の住人の犠牲になって……」
 彼は一度言葉を止め、しばらく黙ってから続けた。「ジョンのお母さんには、あとから全部話したんだ。そうしないと、気がすまなかったから。彼女は許してくれた。ていうか、僕のせいじゃないから、気にするなって言ってくれた。悪いのはあの男だ。それにジョンが亡くなったのは、不幸な事故だ。あなたも不幸な犠牲者だ。だから、忘れなさいって。あいにく僕は忘れることは出来ないんだけど、意識には乗せないようにって。でもさ、ジョンのお母さん、九五パーセントは本心だったんだろうけど、五パーセントは割り切れない思いを持ってるなって、そう感じたんだ。だから、話さなければ良かったって思ったよ。こういうとこ、考えなしって言われるんだろうなあ。それで思ったんだ。過去は取り返せないから、僕に出来ることって、なんだろって。結局、ジョンのために祈ることと、お墓に行くことくらいしかできないなって。彼に謝って、話をして……安らかに眠ってもらいたい。それしか僕には出来ないから」
「そうか……でも、おまえは強いな、本当に。そんな壮絶な体験をくぐってきたなんて、普段のおまえからは想像もつかなかった」
 僕は思わず感嘆を込めて、そう言わずにはいられなかった。
「強いって言うかさ……思ってたんだ、小さい頃から。ここは闇が多い。闇が多くて、僕は無力だって。でも闇が襲ってきたら、流されないで、抗わなきゃいけない。もし闇の住人に攻撃されたら、それは闇の試練だから、乗り越えていかなくちゃいけない。今の僕は、力で対抗することは出来ない。子供のころはなおさら……だから、物理的にはどうしようもないこともある。でも、精神まで屈しちゃいけない。闇の攻撃で身体を傷つけられても、それはそのうちに治る。心の傷は、ものによってはすごく治りが悪いけど……だから、しばらくは後遺症引きずっちゃうけど。実際、僕もおとなしくて怯えてた時期も、少しはあったから……でも、いつまでもそれに支配されちゃダメだって、思えるようになったんだ。過去の嫌な記憶っていうのは、ファントムなんだ。もう過ぎたことで、実体はないんだから、それに今を侵食されたくない。それに、例えば僕自身がボールみたいなものだったとしたら、外からついた傷は汚れに過ぎない。洗えば落ちる。中まで残るような傷にはしない。それに潰されても、また元に戻る。そう思ってる。僕は僕だから。外からの干渉で、自分自身を失いたくない。それだけなんだ」
「でも、それが出来たんだから……やっぱりおまえは強いよ。僕らなんか、本当に及びもつかないほどに。たいていの奴は、ボールにはなれないんだ。潰れたら、壊れる……」
「でもさ、それって空気が抜けてるだけで、空気入れたら、また膨らむんじゃない?」
「いや、穴が開いたら、空気を入れてもダメだろう」
「うん。まあ、どのくらい外側が厚いか、ってのはあるかもね」
「おまえなんかは、芯までつまってそうだな、エアリィ」
「なんかそれって、喜んでいいのか良くないのか、わからないな」
 彼は微かに笑い、少し黙ってから、言葉を継いだ。「まあ、それはともかく……暗い時代だったっていっても、やなことばかりじゃなかったのが、救いだったと思う。継父さんと母さんを出会わせたり、アラン継兄さんと仲良くなれたりってことができたんだし。それに悪い時代も、いつまでもは続かなかったから。いつかトンネルを抜けられる日が来るって、それが確信できた。それに良い時代も、同じように永遠には続かないから、その日々を大事にしたいって、そういう教訓にはなったよ」
「そうだな、たしかに……」
「リード父さんと一緒の頃は、まだその認識が足りなかったから、ちょっと残念だけど、でもあの時代は幸せだったと思うし、プロヴィデンスの六年間も、あの事件以外は、幸せな時代だったと思う。まあ、クラスメートが校舎から飛び降りて自殺しちゃったりとか、友達の一人がDVで親が離婚して引っ越したりとか、そういうことはあったから……そう、この辺もちょっと心残りなんだ。僕には何も出来なかったのが。だから、ずっと平穏ってわけにはいかなかったけど。あの事件でもさ、僕はすごくみんなに合わせる顔がないって思って、ジョンのお葬式の後、しばらく家に閉じこもってたら、家にみんなが来てくれたんだ。『アーディ、いったいどうしたんだ?』って。それで僕は泣きながら本当のことを全部話したら……そう、それで彼らを失くすことになったら辛いけど、それが僕の償いだって思ったんだ。みんなは知らない話だった。ジョンのお母さんは話さないでいてくれたから。あなたのためにもそのほうがいいって言って。だから、みんなびっくりしてたけど、さっきのジャスティンと同じようなこと言ってくれた。おまえはなにも悪くないって。被害者なんだからって。戻って来い。なんかあったら、守ってやるからとも言ってくれて……なんかホント、泣いてばっかだったな、あの時には。子供だったし。今は悲しいとか悔しいとかでは泣きたくないって思うけど、嬉しいと泣けるのは、やっぱり防げないと思う。トニー、エリック、パティ、メアリ、ジョーダン、フィル……みんな、僕がトロントへ行く時も、見送りにきてくれたんだ。『アーディ、またきっと遊びに来てくれよ! 何年かかってもいいから。“ローディー・ギャング”は、永遠だぜ!』って。あ、それがチームの名前なんだ。元野球チームで、遊び仲間の。あの事件からしばらくして、チームは解散しちゃったけど、遊び仲間として残ったんだ。ジョンは死んでしまって、ディクシーは西部に行っちゃったけど、それでもみんな、ずっと一緒だって思ってる。プロヴィデンスへ行って、みんなに会うと、いつもそのころに戻ったみたいな気がする。故郷、とはちょっと違うけど。みんなとても良い連中で、一緒にいると、あったかい気持ちになれるんだ」
「そうか。持つべきものは友達だな、やっぱり」
「うん。それにさ、トロントへ来てからも……今も幸せな時代だなって思えるしね。みんなと友達になれて、一緒にバンドでやっていけて、毎日がすごく楽しいんだ。ロードアイランドから離れた時、もうこんな仲間には会えないのかなって思って寂しかったけど、トロントでも出会えた、ここへ来れて本当に良かったって……やっばい! 超恥ずかしいこと、自分で言っちゃってるし! この空気のせいだなぁ、きっと!」
 エアリィは照れたように笑い、両手を広げて草の中に寝ころんでしまった。
 僕は言葉が捜せず、ただその手をぽんぽんと軽く叩いた。僕もおまえと友達になれて、一緒にバンドが組めてよかったと思う――そう言いたかったが、絶対に笑われるだろうという確信があった。でも言葉には出さずとも、それは伝わったと思う。そして僕はこの時、アーディス・レイン・ローゼンスタイナーという人間をより深く、心から理解することが出来たことに、深い感激と共感を抱いていた。育ってきた環境は、天と地ほども違う。性格も違う。それでも、僕たちは理解しあえるし、心からの完全な友になれたのだと。
 僕はその言葉を口に出そうとして、再び止めた。彼はどうも、大きな、そして真剣な言葉には、照れを感じてしまうのかもしれない。僕も面と向かっては、いくらあたりは暗いとはいえ、少し面映い。だから、これだけ言った、「話してくれて、ありがとう、エアリィ。ごめんな。でも、僕はおまえとここに来られて、良かったと思うよ」
「うん。僕もさ……」エアリィはただそう答えただけだったが、僕はその中に、同じ思いを聞いた気がした。彼は再び起き上がり、立ち上がると、身体についた草を払い落とし、地面に置いた携帯用ランタンを取り上げて点けた。柔らかい金色の小さな光が、再び僕たちを包んだ。その灯を胸の前に掲げながら、彼は小さく頭を振った。
「今、何時だろ? 帰って、もう一回寝た方がいいかな」
「そうだな……寝よう。明日も早いし」僕もついで立ち上がった。
 風が強く吹いてきた。月は沈み、真の闇が高原を包んでいる。テントへ向かって歩き出した僕らの頭の上を、一筋糸を引いて、星が流れていった。
「流れ星だ……」僕らは同時に、小さく声を上げた。
 少しの沈黙のあと、僕はなにげなく問いかけた。「もし星に願い事をするとしたら、おまえなら何を叶えてもらいたい?」と。
「流れ星は、願い事は叶えてくれないと思う、現実には」エアリィは首を振ったあと、少し沈黙してから、続けた。「でも、そう……この旅が、無事に終わることかな。本当に願いが叶うなら」そしてさらに少しの沈黙を置いて、再び言う。少し戸惑ったように。
「自分でも今、この状態はなんかとってもまずいかな、って気がしてるんだ。一触即発状態になってるって……気分的に。水面下で、ものすごくざわめき立ってる感じ。だからへんな夢ばかり見るんだろうし、今までのこともやたら意識に上がってきて、それをジャスティンに事細かにしゃべっちゃったり……今まで、みんなに言う気はなかったことなのに。トロントへ来るまでの話とか、みんなにはどうでもいいことだろうって思ったし、僕もそれで良いって思ってたから。でも今は、知ってくれて良かったんだって思ってる」
 エアリィは強く頭を振り、大きく手を広げながら、声を上げた。ランタンの光が、その動きとともに弧を描いて揺れた。
「あー、なんかもう! やばい! 今、いつも以上に、すっごく感情的になってるみたいだ。どうしちゃったんだろう。もう一押し来たら、あふれそうな気がする、水が」
「おい、落ち着け!」僕はその背中をぽんと叩きながら、同時に戦慄を感じていた。危険水域に来ているのだろうか、本当に――フレイザーさんが目論んでいたように。
「うん。ごめん。ちょっと落ち着く」
 彼は立ち止まり、左手に持ったランタンに目を向けた。
「これが電池式で良かった。ろうそくだったら、今ので消えてたね」
「振り回すなよな、ランタン。持ってやるよ」僕は苦笑し、手を差し出した。
 エアリィは「うん。じゃ、よろしく」と、僕に灯りを手渡した。そして再び空を見上げて、大きく息をつき、まるでため息を吐くように言葉を続けた。
「あと一週間か……無事に行けるかな、ホントに。明日にでもトロントへ帰りたいくらいだけど。でも……別の気分もあるんだ。思い出したい、って。僕は思い出せないってことは、少なくとも生まれてから今まで、なかったと思うんだけど、なにか障壁があって、意識に上がってこないものがある。それを思い出したい。圧倒的に怖いことだけど、その根源的な何かを思い出さないと、僕は本当の自分自身になれないって。今までの僕は……んー、なんだろ、何かが眠ったままになってる、不完全な自分なんだって、そんな気がするんだ。あの声が、僕の眠った部分なのかもしれないって。それがなんなのかは、わからないけど。少なくとも、一つだけは知りたいって思う。僕の本当の父親は、誰かってことを」
「おまえの……本当の父親?」
「告白ついでにもう一つ言っちゃうなら、僕は私生児なんだ。みんなも薄々察しはついてたかもしれないけど。それも、どこの誰が父親なのか、まったくわからないんだ。母さんだって知らないんだよ。記憶喪失になっちゃってたんだから。僕ができたことも、生まれたことも、全部覚えてないらしいんだ。それで確かめるために、親子鑑定したって言ってたくらいだから。うーん……自分の子供って感覚、最初はちょっと薄かった……ぽいのかな。実感わかなかっただろうと思うし、たしかに。それでもね……僕は母さんと本当の親子になれたんだって思ってる。母さんも、そう言ってた。だからそれはすごくうれしいし、ありがたいことなんだけど、僕の遺伝子上の父親って、母さんはとうとう何も思い出さずに死んじゃったから、もうずっとわからないままなんだろうな。でも、やっぱり自分自身のこととしてね……知りたいなって気はするんだ。僕は誰の子なのか、正確にはいつ、どんなふうに生まれたのか。時々、不安にもなるんだ。もしかしたら僕には、本当の意味での親なんて、いないんじゃないかって」
 その口調は静かで、決して感情的ではなかったが、それゆえにその事実の持つ重さが、よけいに僕の胸にも響いた。自分の根源的な部分がわからない不安──僕には想像しか出来ないが。
 僕が言葉を捜しているうちに、エアリィは僕を見、小さく頭を振って言葉を継いだ。 「でもさ、知らないでいたほうが幸いだ……圧倒的に、そんな気がしてる。なんかさ……怖いんだ。無意識の領域を覗こうとすると、怖くなるってよく言われるけど、あれと同じかもしれないな。考えるだけで、怖くなる」
 彼は一瞬言葉を止め、ぎゅっと自分自身を抱くような仕草をした。そして一瞬、震えたように見えた。「僕はもう、たぶん……そうなっちゃったら、戻れない。今までの僕には。何もかもが、変わってしまうかもしれない。このまま進んだら……怖い。すごく怖いことになりそうな予感がする。みんなも、きっと遠くなってしまう。いやだ、そんなのは。本当にもう、これ以上進みたくない。なのに、進まなきゃならないって気もしてしまうんだ。そう……さっきこの旅を無事に終わりたいって言ったら、また声が湧きあがってきた。夢の中で聞いた声が。『それは無理。でも怖れないで』って」
 内面の声が湧いてくる状態というのは、どういうのだろう。幻聴――だと、かなり精神的に危ないが。いや、病気ではないのだろうが、表面的には普通に見えても、かなり精神的に危ういバランスにいるのかもしれない。テンションを臨界まであげていけば、いつか破れると、フレイザーさんが言っていたように。そしてもしかしたら、彼の内側から湧いてくる声の主は、彼の中のモンスターなのかもしれない、今は眠った状態の。フレイザーさんたちが寝る前に話していたこと、そしてエアリィが今望み、同時にひどく恐れていることは、彼の中に眠るモンスターが目覚めることなのかもしれない。本人も確実に自覚しているのなら――その覚醒は、近いのかもしれない。孵化寸前の卵のように。
 漠然とした畏怖を感じた。僕自身も同じ思いだ。これ以上、進んで欲しくない。臨界は超えて欲しくない。モンスターの目覚め──もしそれが本当に起こるとしたら、ミュージシャンとしての興味や恐いもの見たさよりも、僕らにとって、そして彼にとっても、圧倒的に恐れと不安のほうが強いのだろうから。
「僕もこのまま無事に帰れることを願いたいな」テントに入りながら、僕はつぶやいた。




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