The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(7)




 ここは……薄暗い洞穴のようなところだ。足元はごつごつした固い感触で、無数の小石が転がっている。そこに身を伏せながら、僕は外をうかがっている。湿った土の匂いがする。わずかに開いた隙間から、上空を何機も飛行機が飛んでいくのが見える。みな戦闘機らしく、時折爆弾を落とし、それが建物や地面にぶつかっては、激しく火柱をあげる。  どうやらここは防空壕らしい。中には二十人ほどの人たちが、肩を寄せ合って避難しているようだ。僕のそばには、三人の女性がいた。母と妹、それにもうすぐ結婚するはずの、僕の婚約者らしい。母と妹は、僕自身の母親やジョイスとははっきり別人だ。小柄で黒髪に半分白いものが混じり、口元や目じりにくっきりと皺がきざまれた母親は、まったく見覚えのない女性だ。黒い髪を後ろで一つに束ね、大きな灰色の瞳に、美しく整った顔立ちの妹の方は、どこかで見たという覚えがかすかにある。でも、どこでだったかは思い出せない。夢の中では、彼女たちは僕の肉親だと確信していた。
 恋人の顔には、はっきりと見覚えがあった。未来世界で見た夢に出てきた女性、ステラではないがステラだと感じた、金髪のあの女性だ。怯えた小鹿を思わせるような、見開いたブルーグレイの瞳。長い髪を編んで頭に巻きつけ、茶色更紗のワンピースを着ている。白い首筋に、小さな赤い蝶のようなあざが見える。
 僕たちは最後にここに避難してきたから、入り口付近にいた。少しでも女性たちを奥に入れようと、僕は一番入り口に近い場所に位置を占めた。妹も青ざめた顔ながら、気丈に僕の横に出てきて、壕の入り口をふさぐような形で背を向けて座り込むと、一歩奥に入ったところにいる母の手を握っていた。僕も同じように、母と並んで座っている恋人の手をしっかりと握った。
 でも、ここはどこの国の、どこの地方なのだろう。戦争をやっているようだが、いつの戦いだろう。わからない。わかっているのは、そこに避難している全員が、ひどく怯えているような感じだったことと、僕は絶望と怒りが交錯したような感情を味わっていることだ。その僕は、ここに避難するまでのことを思い返していた。家は焼けてしまった。年老いた父はそこで倒れた家具の下敷きになり、逃げられずに死んだ。一番上の兄は、前線で戦死した。妹の若い恋人も、出征した一年後に乗っていた船が撃沈され、やはり戦死してしまった。僕も一度は戦いに出た。でもすぐに病気にかかり、除隊されたのだ。上官から『まったく情けないことだぞ』と、軽蔑を込めて言われた。でも、そのことを僕自身は憤っていただろうか、恥じていただろうか。いや、むしろほっとして、喜んでいた。僕は戦いたくない。たとえ見知らぬ敵とはいえ、他の人間を殺すのはぞっとするほどいやだった。  爆撃がだんだん近くなってきた。激しい衝撃音、振動と熱が伝わってくる。恋人が怯えたようにすり寄ってくる。僕は両腕を回して抱きしめ、それから再び彼女をもとの位置に座らせると、その両手を握った。
「大丈夫だよ、僕がついている」
 でも、声がかすかに震えるのを止められない。つないだ手が震えている。外からの光――爆撃の炎に微かに照らされて見えるその顔は、赤みがかかったその光の下でさえ、青ざめて見える。僕は握りしめる手に力を込めた。この人を守らなければ。傍らで、妹と母が抱き合って祈っている。僕も我知らず祈る。
 すぐ近くで、何かが破裂したような衝撃音が響いた。次の瞬間、僕と妹の間を通って、こぶしよりふた周りほど大きい石のようなものが、壕の中にころころと転がるように入ってきた。石? いや、あの形は違う! 不発弾だ! そう認識したとたん、突然それは爆発した。あたりに赤い閃光が飛び散った。世界がジグソーパズルのピースのようにバラバラにはじけ飛び、僕たちの上に落ちかかってきた。世界が真っ白になり、意識が途切れた。

 気がついたら、すっぽりと土の中に身体が埋まっている。爆発の衝撃で、天井が崩れてきたらしい。うつ伏せになった状態で、顔の下にはわずかな空間があった。でもこのままでは、窒息するのは時間の問題だ。出なければ――誰かが僕の服をつかむのを感じた。他にも誰か生存者がいるのだ。僕にはその手を取ることはできないが、離さないでくれ――そう念じながら息を止め、身体を動かそうとしてみた。土が動いた。思ったより軽いのかもしれない。それほど深くは埋まっていないのかも――僕は身体をよじり、四方にぶつけた。左側なら動ける――左手で土をかき分け、身をよじるように、その方向に進んだ。そして転がるように身体をぶつけると、周りの重さがなくなり、空気を感じた。
 僕は目を開けた。夜空が見えた。飛び去っていく何機もの戦闘機が見えた。僕は大きく息をついた。ずっと僕の服をつかんで一緒についてきていたらしい誰かも、その後から転がり出て来た。妹だった。顔も洋服も体中土で汚れ、地面に両手をついてせき込んでいたが、生きていてくれた――彼女は顔を上げて僕を見た。その目に喜びの色が上り、なにかを言いかけたが、口に入った土に、またむせたようにせき込んでいる。僕は無意識に左手を伸ばし、妹の背中を軽く叩いた。
 見ると、壕の入り口は土砂で埋まっていた。でも僕たち二人が転がり出た分、軽くなっているはずだ。掘り出せれば、助けられるかもしれない。母と、そして婚約者を――そう、彼女はどうしたのだろう。埋まってから僕は左手だけを使って土をかき分けていたのは、左側に進んでいたからと同時に、右手に婚約者の手を握りしめていたから。その感触をずっと感じていた。だから彼女も僕と一緒に来てくれているはず――混乱した心の中で、僕は漠然とそんな思いを抱いていたのだろう。改めて僕は周りを見回してみた。彼女はいない。どこへ行ったのだろう。まだ、この中なのか――でもそれなら僕はどうして、彼女の手の感触をまだ感じているのだろう。
 僕は改めて、自分の右手を見つめた。そう、まだ僕は恋人の手を握りしめていた。彼女の細い指も、僕の手をきつく握っている。小さなサファイアの婚約指輪が、その薬指に輝いている。でも、手首から先はなかった。僕は彼女の名を、狂ったように絶叫した。 「シルヴィアー!!」

 衝撃で飛び起きた。実際、本当に飛び上がったのだろう。寝袋ごと上体を起こした姿勢で、僕は目が覚めた。身体中が汗でびっしょり濡れている。夢だ。戦争なんて遠い世界の物語で、自分には直接関係のないことだと思っていたのに、なんてリアルな怖い夢を見たのだろう。テントの床が堅かったせいだろうか。それに、また同じ名前を呼んでしまった。未来世界の夢で見たステラに呼びかけた名前、シルヴィア。その女性はいったい誰なのだろう。
 まだ真夜中だ。もう一度眠ろうと思ったが、なんだか妙に目がさえて、僕は寝袋を抜け出し、再び起きあがった。吊り下げられたランタンのかぼそい光が、テントの中をぼおっと照らしている。その光で周りを見回すと、講師たちは眠っていたが、隣で眠っているはずのエアリィの寝袋は空だった。
 僕も外に出ていった。日中は暑かったが、夜の風はかなり涼しい。空には一面の星、あと少しで満月になる月が、西の空に、かろうじてかすかな光を投げている。足には、柔らかい草の感触。ふと思い出した。新世界に飛んだ時の、最初の印象を。どこまでも続く草原と一面の星のほかは何もなく、ただ静寂のみがあったあの場所を。  思いに耽りながら歩いているうち、僕はふいに何かにつまずいて倒れた。同時に、下から声がした。
「痛っ!!」
 僕はあわてて起きあがった。すぐ隣で、誰かがむくっと起き上がったような感じがしたが、月明かりだけで、まだ暗闇に目が慣れていない僕は、何が何だかわからない。が、ぽっと明かりがついた。エアリィだった。彼は携帯用ランタンを持って外へ出て行ったようだが、途中で消したのだろう。彼はそれを掲げ、僕を見た。
「なんだ、ジャスティンか。びっくりしたぁ!」
「ごめん。でも、こっちも驚いたよ。つまずいたのは悪かったけど、おまえもこんな所に寝てるんじゃないよ。暗いから、見えなかったんだ」
 僕は草の中に座りながら苦笑した。
「だって寝ながら見ると、空が高く見えるから。それに、こんなとこに人が歩いてくるなんて思わなかったし」
 彼は空を見上げた後、携帯用ランタンをつけたまま地面に置き、僕を振り返った。
「ジャスティンは、なんで起きてきたのさ。テントじゃ、よく眠れない? それともトイレ? でもここのトイレ、反対側だよ。すごく遠いし。灯りも持たないで出たら、迷子になるんじゃない?」
「ああ、忘れてたよ。それに、違う、トイレじゃないんだ。眠りが浅いのはたしかだけどさ。すごく怖い夢を見たんだ。戦争の夢で、防空壕の中に爆弾が転がり込んで、爆発するんだ。僕は家族と恋人らしき人と避難していたんだけれど、爆弾が爆発して、生き埋めになって。それで僕は、恋人の手だけを握っていたんだ」
 僕は詳しい夢の内容を話した。
「手だけって……本当に手だけってこと? 他のパーツは? なんか怖いな」
「そうなんだよ。それで飛び起きてしまったんだ。なんだか寝つかれなくなって、まわりを見たらおまえがいなかったから、僕もちょっと外へ出てみたんだ。おまえはどうして、ここへ出てきたんだ? やっぱり目がさえたのか?」
「うん、僕も夢見て。ジャスティンの夢ほど衝撃的でも怖くもないけど、たぶん……頭の上には星空が広がっていて、何もない空間に立っているんだけど、いつの間にか足元も抜けてて、宇宙空間の中に一人で立ってるような視点だった。それで、内側から湧きあがってくるように、声が聞こえるんだ。女の人の声が。そう、いつか未来世界で、帰る二日前の明け方に見た夢と同じ声だった。その人が言ってたんだ。『時は満ちてきています。思い出して。あなたはわたしで、わたしはあなたなのだということを』って」
「それは……どういう意味だ?」
「よくわかんない。わかんないけど、内側からわーっと怖さの感情がわきあがってきた。それで目が覚めたんだ。そんなにショッキングな夢ってわけじゃないのに、起きたらすごくどきどきして。それで寝れなくなって、外へ出てみたんだ。星が見たくなって。ほら、よけいな光がこのあたりはないから。きれいだよね、ほんとに。都会じゃ、光に邪魔されて、こんなに見えないよ。もう、これも消していいかな」
 彼は手を伸ばし、ランタンの光を消した。再び闇があたりを包んだ。そして頭の上の、降るような銀のスクリーンと。僕も空を見上げ、感嘆の気持ちを覚えた。
「そうだな。本当に降るような星空だ、って、ちょっと陳腐な表現だな」
「うん。使い古されたフレーズだけど、なんかわかる。雨になって降ってくるとか、黒いキャンバスに、いっぱい光のかけらを撒いたみたいだとか」
「歌詞に使うか? 『星空の歌』とか」
「いや、それはさすがに、ちょっとクサイ気がする」
「それは否定できないな」僕も笑って肩をすくめ、きいた。「でもおまえ、星を眺めるのが好きなのか? 新世界でも、そんなことを言っていただろ。彗星でも発見する気か?」
「彗星じゃないよ。けど、探してるのは確かなんだ。僕の星を」
「えっ! 本当か?! おまえ、やっぱり結構センチメンタルなんだな。僕の星を探すなんて、まるでティーンズノベルの世界だぞ」
「えー、なんか誤解してない、ジャスティン? ほら、あの星が僕らの希望の星だ! とか、あれを二人の誓いの星にしよう、なんて状況を想像してない? そう言うんじゃなくてさ。それに、具体的な何座の何星っていうような、目に見える星じゃないんだ。この空のどこかにあるはずの、見えない星を探してるんだ」
「見えない星?」
「そう。見えなきゃ探せないはずなんだけど、小さい頃から夜空を見るたびに思ってたんだ。見えないけど、どこかに僕の星があるって。自分でもはっきりわかんないんだけど、なぜかいつも、そんな気がしてたんだ」
「見えざる星を探す意味がわからなくて、それでも探しているって? それじゃ、本当に見つからないぞ」
「見つけることは期待してないよ、僕も。でもさ、見つけられなくても、星空を見てると、なんとなく落ち着くんだ。ちょっと切ない気分にもなるけどね」
「僕は北極星が好きだな」空を見上げながら、僕は言った。
「変わらないからさ。いつも、どんな時も、変わらず、道しるべになってくれるから」
「ジャスティンらしいなぁ。けど、宇宙に変わらないものなんて、何もないんだよ。北極星だって、いつまでもこの天の中心ってわけじゃないじゃない。あと何万年かすれば、別の星が新しい北極星になるんだから」
「それはそうだろうけどなあ。何万年先だろうが。まぜっかえすなよ、エアリィ」
 僕は肩をすくめた。それからしばらくの間、お互いに黙って草の上に座り、夜空を見上げていた。西の地平線上に月は沈んでいき、風がときおり吹いてくる。草の鳴る音がかすかに聞こえる。あちこちで虫の鳴き声がする。あとは静寂。空は広く、大地も広い。改めてそう感じた。自然の中で僕たちは、なんて小さな存在だろうと。西部平原あたりでもやはり感じられるだろうが、この異郷の地での思いは、また別種のものだ。
 言葉が思わず、湧いてくるように漏れた。
「なんだかこんな中にいると、細かいことで悩むのは、ばからしくなるな」
「うん。それもまあ、使い古された言葉だけど、真実かもね。自然の中じゃ、僕ら一人一人の存在なんか、すっごく小さいかも。何十億の中の、一つの命。この瞬間にも、この世界の中で、誰かが死んで、誰かが生まれて、誰かが嘆いていて、誰かが喜んでる。でもそれは、何十億分の一でしかない。そしてこの地球も、宇宙に存在する一千億の銀河のうちの一つ、しかも、その中にある一千億の星の一つに過ぎないわけだし」
 エアリィは空に目を向けたままの姿勢で言った。僕も暗闇に目が慣れてきたので、星明りの下、薄いシルエットのようにその姿が見える。その髪はかすかな夜の光の下で、銀色がかった輝きを放っていた。
「天文学者が日常生活に興味なくなるのと同じ原理だな、それは。でも、それを言っちゃうと、おしまいだぜ」僕は肩をすくめた。
「まあね。でもさ、何千兆何千京、いやたぶんもっとたくさんある星の中でも、地球は『生命の星』だから、たとえその『生命の星』が他にいっぱいあっても、それぞれにユニークで、貴重なんだと思う。それに地球にはたしかに数十億の人間がいるけど、数が多いから一人ひとりは軽い、とは思えないんだ。どういう風に生きたかは、その人にとって、きっと価値を持つはずだって。まあ、運命って時々結構残酷なこともするけど、でも嵐の中を生き抜くことが出来れば、その魂は大きく成長できるって。これはマインズデールのシスターの受け売りだけどね。知ってる? お祖父さんの育ての親だった、マインズデール・カトリック教会のシスター。部屋の写真でも見たことあると思うけど、その人が母さんの後見人でもあるんだ。母さんは実のお母さんをまだ小さいころになくして、それからずっとシスターに育てられたから。十六歳でニューヨークにいくまで。僕も六歳くらいまで時々、二ヶ月とか三ヶ月とかだけど、母さんに仕事がある時、お世話になってたんだ。今はもう八十すぎのおばあちゃんなんだけど、まだ元気なんだよ。で、彼女が言ってたんだ。試練は神に試されているのだと思って、がんばりなさいっって。リード父さんが死んで何ヶ月かあとに、しばらく教会に預けられてた時に。僕もたしかにそうだなぁって、妙に納得してた部分もあったんだ」
「ああ、カーディナル・リードさんか。おまえのお母さんの、最初の結婚相手だっけな」
 僕はモータースポーツのことはあまり詳しくないが、ジョージは好きで、よく知っている。カーディナル・リードという人は、九十年代後半に活躍していたインディのレーサーで、何処までも速く走ることに喜びを感じるという、純粋なレーサータイプの選手であり、カリスマ性もあったため、かなり人気だったと言う。だが二一世紀に入った最初の年、シリーズチャンピオンを決めた次のレースで、クラッシュして死亡。彼はチャンピオンが決まった後もアグレッシブな走りを貫き、その結果命を落とした、それがかなり伝説的なステータスをもたらした、と、ジョージが話していたことを思い出した。そのカーディナル・リードさんはエアリィのお母さん、アグレイア・ローゼンスタイナーさんと結婚して、一年半の幸福な結婚生活を送っていたらしい。
「母さんとリード父さんは、ニューヨークで、二千年の二月に、ニューヨークで、スポンサーのパーティで会ったらしいんだ。それで、僕がもうじき四歳になるころ、二千年の六月五日だけど、僕はその三週間前から、マインズデールの教会に預けられていたんだ。母さんの舞台があったから。その日に迎えに来ることになってて、その時リード父さんと二人で来て、シスターに結婚の報告をしてた。知り合って四か月足らずの電撃結婚だったんで、シスターもびっくりしてた。でも、リード父さん、にこっと笑って、言ってくれたんだ。『やあ、僕が君のお父さんになることになったよ、よろしく』って」
 エアリィは草原に視線を移したように姿勢を変え、しばらく沈黙した後、再び言った。
「リード父さんのことは、今でも大好きだよ。死ぬまでレーサーを貫いたとか、生まれながらのレーサーだとか、よく言われるけど、あの人はたしかに、そうだったと思う。とにかく、スピードにとりつかれた人だった。普段はいろんな意味で良い人だったし、僕にも良いお父さんでいてくれたけど、ハンドル握ると人格変わるタイプ。で、僕が『お父さんはいつも限界ぎりぎりを走ってるけど、どうして?』って聞いたら、言ってたんだ。『そうだな。スピードの限界を極めてみたいんだ。それは光だ。光の向こう側にあるものを見てみたい。それが僕の見果てぬ夢なんだ。いつかおまえが大人になって、もしレーサーになったら、この気持ちがわかるかもしれないな』って。まあ僕はレーサーにはならなかったし、まだ免許とってないから、スピードぎりぎりも試してないけど……」
「おまえはレーサーじゃないんだから、やるなよ。免許とっても。危ないからな。でも、光の向こう側を見てみたい、か。かっこいいな」
「でも、それで死んじゃったわけだし、それってホント、危ないエッジじゃないかなって思うんだ。だって、光速超えたら異次元だよ。現実にはありえないって点じゃ、あの世と変わらないと思う」
「ああ、まあ、それはそうだな……」
 光の領域の先は、あの世か。ある意味、的を射たメタファーかもしれない。
「でも、おまえは……」僕はいったんそこでためらった。「おまえは、スタンドで見てたんだろう、リードさんの最後のレースを。おまえはその時五歳で、お母さんと一緒に応援していたって……『妻子の目の前での事故だった』って、そんな記事を読んだ覚えがあるって、ジョージが言ってたけど……ショックじゃなかったか?」
「ショックって以上に、人生最初の衝撃だった、あれは」
 エアリィは僕の方を見、微かに頭を振って答えた。「あれはシーズン最後のレースで、来年はF1入りが決まってて……シーズンが終わったら、三人でカリブ海にクルーズに行こうって、レース前に言っていたんだよ。笑って。それが、あと三周ってところで車がスピンアウトして、壁に激突して、火を噴いて。何が起こったのか、最初は思考ストップ状態になって、次に思ったことは、これは悪い夢なのかなって。母さんの悲鳴が、今でも聞こえてくるみたいだ。リード父さんは、もういなくなってしまったんだってことが、信じられなかった。あっという間に……」
「そうか……」僕はあとの言葉が続かなかった。
「なんか命って、終わる時にはあっけなさ過ぎて怖い。その時、初めてそう思ったけど、後になって、また思い出させられたな。母さんとメイベルが死んだ時」
「メイベルちゃんっていうのは……もう一人の妹だったな。エステルちゃんの双子の」
「うん。そう言えば、母さんが亡くなった時、リード父さんが母さんを呼んだ、って言っていた人もいるらしいけど……でもたぶん、父さんはそんなことしないよ。本当に偶然が重なったっていうか、二人の宿命なのかな。もともと縁の深かった二人だったんじゃないかなって思う。リード父さんと一緒の時が、母さんは一番幸せそうだったって思えるから」
 エアリィは言葉を切り、風で乱れた両サイドの髪を、両手で押さえるように後ろにやっていた。かなり風が出てきたようだ。僕も前髪がばさっと目にかぶさってきたので、手でどけた。彼は再び話し出した。
「あれは、僕の十三の誕生日から五日後の、六月十九日だね。あの日も、普通の朝だったんだ。いつもと変わりなかった。『いってらっしゃい、気をつけてね』って。それで、『学校から帰ったら、お父さんのお食事を温めてあげてね』って。継父さん、時々研究で徹夜してるから、朝寝て午後遅くに起きるって、わりと普通だったんだ。講義のない日は。その日は、妹たちのバレエ教室がある日で。玄関から振り返った時、手を振ってくれたのが最後だった。メイベルもエステルと二人で手を振って、『来月発表会なの。お兄ちゃん、絶対来てぇ!』って。そういうのって、ホント心の準備も何もないから、きついよ。僕は学校から帰って、継父さんに遅めのお昼を届けてから、友達の家に遊びに行ったんだ。その時まで晴れてたんだけど、途中で急に雨が降ってきて、帰るとき傘貸してもらって、帰ってきた時は六時近かったけど、まだ母さんたちは戻ってなかった。バレエのレッスンは五時に終わるはずだけど、買い物してるのかなって思って……それから三十分くらいたって、電話が来たんだ。警察から。それでも、エステルが助かったのは、救いだった。偶然、窓から外へ飛び出したらしいんだ。それで路肩の草の上に落ちて。チャイルドシートにちゃんと座ってなかったのが、かえって幸いするってのもあれだけど、おかげでたいした怪我はなかったんだ。医者が奇跡だって言ってたよ。心の傷の方は、部分的に記憶が飛んじゃうぐらい、大きかったんだけど」
「そうだろうなあ。エステルちゃんも五歳だったんだろ、その時」
 僕は同情を込めて頷いた。そして、アグレイアさんの死亡記事を、新聞で読んだことを思い出した。その時にはただ、母が言っていたように『アリステア・ローゼンスタイナーの一人娘が事故で死んでしまった』という認識でしかなかったが。母はその時、やはり『前の旦那様に呼ばれたのかしら』というようなことを言っていた。その二ヵ月半のちに出会った新しい友の母であったことなど、その時には思いもしなかった。
「ああ、なんかこれって、身の上話になっちゃってるなぁ!」
 エアリィは話の方向性に気づいたのか、少し照れたようなトーンで声を上げ、首を振った。「身の上話とか、一番話したくない話題なのに。でも、なんかすごく鮮明に……昔のことが上がってくる。意識に。なんでだろうな」
「思い出しついでに、聞かせてくれるとありがたいな、エアリィ。おまえ、トロントへ来るまでのこと、ほとんど何も話さないからさ。お母さんと妹さんの一人が亡くなったことは、おまえが話してくれたから知っていたけど、カーディナル・リードさんのことだって、『おまえのお母さんがあのアリステア・ローゼンスタイナーの娘さんなら、その人って、カーディーの奥さんじゃなかったか?! おまえはあの人に会ったのか? ってか、小さなアールって、おまえのことか?』って、ジョージが目を白黒させて言っていたくらいだからな。リードさんのファンだったから、彼のプライベートも知っていて……それで僕らも、わかったくらいだ。それに、そもそもアリステアさんの孫だっていうことも、おまえ自分からは言わなかっただろう」
「『Little Arele(小さなアール)』か……リード父さんやクルーの人たちが、そう呼んでたっけ」幸せな、過ぎ去って取り戻せない時代を、懐かしんでいるような口調だった。
 デビュー前、ファーストアルバムを作っていたころに、ジョージが古いモーター雑誌を持ってきたのを、僕も思い出した。その雑誌に写真が載っていた。長身で、均整の取れた身体を青いレーシングスーツに包み、少し長めに伸ばした茶色の髪と整った顔立ちのカーディナル・リードさん、その隣に立って笑みを浮かべた金髪の美しい女性、そして二人に手をつながれてにっこり笑っている、四歳くらいの子供。男の子か女の子かはわかりづらいが、この子の髪の毛に光が当たって、まるでそれ全体が輝いているように見える。陳腐な表現だが、まるで天使のような子だった。
『こうしてみると、たしかに面影あるな、おまえ』
 ジョージがその写真をエアリィの横にかざして見比べながら、言っていた。
『あー、懐かしい! 2001年初戦のピット前で撮った奴だ!』
 エアリィはその雑誌を見て声を上げたが、一瞬微妙な表情になったことを覚えている。微かな悲しみのような、寂しさのような。そこに写っているリードさんも母親も、二人とももうこの世にいないのだから、当然なのだろう。本当にその表情は一瞬だけだったが、僕ははっとしたような感じを受けたのだった。
『大切な人を失くしたことならあるよ、何人か』
 彼は今年の初めに、そう言っていた。僕が『でも、おまえだって、もし大事な誰かをなくして、おまけに仕事が不本意だったら、多少は落ち込まないか?』と聞いた時に。
 わかっていても良かったはずだ。少なくともアーディスは、大事な人を三人なくしている。母親と妹と、リードさんと。それはわかっていたのに、どうして僕は暗に(おまえにはわからないだろう)的な問いかけをしてしまったのか。僕の精神状態が悪かったとはいえ。エアリィがロビンたちの事故の時、警察からの電話と聞いて、一瞬動揺した理由もわかった。母親と妹が死んだ時のことを思い出したのだろう。
「おまえって普段明るいから、つい僕も無神経なことを言ってしまったこともあると思うんだ。いろいろと……」相変わらずあたりは暗いので、その細かい表情までは見えないが、目を合わせるように見て、僕は言葉を続けた。
「だから、これ以上僕が失敗しないように、知りたいんだ。無理にとは言わないが。でもおまえって、すごく……なんて言うのかな、最初は気楽に見えたんだ。外向きにポジティヴな人間って、何も苦労がなさそうだな、って。本当に苦労知らずの僕には、言われたくないだろうけれどな。でもだんだん深くつきあっていくうちに、家庭環境は複雑そうだし、いろいろ深そうな部分もあるんじゃないかな、って思えた。おまえが書く歌詞を見たりしてもな。だから、なんていうのかな……わかりたいと思ったんだ、もっと」
「いや、ジャスティンに言われたことで、そんなにぐさっときたことはないよ」
 エアリィは小さく肩をすくめていた。「それに、僕は無駄にポジティヴって時々言われるけど、たぶんそれは元々だと思う。無理してるわけじゃないし。でも僕が環境に潰されずにすんだのも、そのせいかも知れない。悪いことも、いつか終わりがあるはずだって。逆にいいことも終わりが来るっていうのが、ありがたくないけど。でも永遠に続くものなんて、ないんだよね」
「そうなのかもな。おまえがかなりの楽観主義者だっていうのはわかるが。初ステージの時とか、本当にそう思ったよ」僕は思い出して苦笑し、しばらく黙った後、再び口を開いた。「でも、フレイザーさんがローレンスさんに言っていた話だと、おまえは子供のころに、いくつかの暗黒期を潜り抜けてきているって。環境に潰されなかったっていうのは、その辺のことか?」
「うん。まあ、フレイザーさんは知ってると思うけど。これもトレーニングのうちだから、今までの自分の歴史を振り返って、話してみろって言われたから。話してると、どうしてもそのころの記憶とか結構よみがえってきちゃうから、あんまり気は進まないけど」
 エアリィは頭を振り、再び僕の方を見た。「それに、なんていうのかな……僕はみんなとは違う世界で育ってきてる。それは感じてるんだ。人と同じっていうのが、僕には元々縁がなかったけど。でも、そういう違いって……んー、話しちゃって受け入れてもらえるのかどうかって、よくわからないし」
「いや、違いはあってこそ面白いんじゃないか? 自分と違う世界でも、少なくともわかろうとすることは出来ると思う。それで引いたり偏見を持ったりとかは、絶対しないつもりさ」僕は即座に宣言した。
「じゃあ……ここまで来ちゃって止めるのも半端だから、話すよ」
 彼は再び草原を見ているような姿勢で、語りはじめた。
「僕は、記憶はかなり昔からあるんだけど、小さい頃は、そんなに大きなアップダウンはなかったな。二歳になるまでは、練習期間は母さんがレッスン場に連れて行ってくれて、そこで見てたし、公演期間中はマインズデールの教会に預けられてて、二歳になったら、練習中はアパートで留守番になったんだ。テレビがつけっぱなしになってて、サンドイッチがラップしてお皿にのってて、それにジュースと水が入ったコップ、ストローカップってやつ、それが二つテーブルにおいてあって、ボールや積み木や絵本があって。その中で、朝の九時くらいから夕方六時か七時くらいまで、ずっと部屋に一人でいたんだ。僕は練習場に連れてってほしかったけど、みんなにも気を使わせるからって。リモコンでテレビのチャンネル変えて、うるさくなったら消して、眠くなったらソファの上に毛布がおいてあったから、そこに這い上がって、毛布に包まって寝てた。たまに母さんの帰りが遅くなることもあって、気がついたら朝で、ってこともあったけど。練習期間の一ヶ月か一ヵ月半くらいは、そんな感じだったな」
「二歳でそれって……厳しくないか? 普通、二歳の子にそんなに長いこと、一人で留守番させないだろう。危ないし。寂しくはなかったか?」
「うーん、寂しいって感情は、よくわからなかった、そのころは。たぶん感じてたんだろうけど、でも僕はいつも心の底に違和感持ってて、ずっと頼りなさみたいなのを感じてたから、それが増幅された感じかな。まあ、妹たちの二歳の頃って、たしかに頼りなかったけど、ある程度僕は、そのころもう自分のことは自分で出来たから、危なくはなかったと思う。誰か来ても出ることが出来ないのが、ちょっと困ったけど。ドアの取っ手に届かないし、出たらダメって言われてたし。でも練習期間ってそう長くないし、公演が始まったら、その間はまた教会に預けられてたんだ。そこでは普通に楽しかったよ。シスターも気にかけてくれたし、規則正しい生活を送れてた。起きる時間と寝る時間、それに食事の時間がきっちり決まってて。教会に来る人たちに話しかけてもらったり、キャンディもらったり……孤児院の子たちとも、よく遊んだな。で、公演期間が終わると母さんが迎えに来てくれて、次の仕事までは普通に親子二人で暮らして、で、次のリハが始まったらまた留守番、その繰り返しだった。四歳まで。それから母さんはリード父さんと結婚して、シーズン中はレースについてって、いろんな場所を回って、オフの時には大きなお屋敷に住んでたんだ。部屋がたくさんあって、庭が広くて、家政婦さんや庭師さんやシッターさんや、執事さんまでいて、庭に噴水があってさ。プールやテニスコートもあって。なんていうか、その時だけはセレブな暮らしだったな」
「そうか。成功した人気レーサーなら、そうなのかもしれないな。僕はそこまでリッチな生活はしてないな。家に執事はいないし、噴水もないし。ロビンやジョージの実家は、そんな感じだけど。執事が二人もいるし。ミックのところもそうかな」
「うん。大財閥社長とかなら、わかる。そういう人たちとも、スポンサーとかの関係で付き合いあったみたいだから。そういう人たちとパーティも時々してたし、出かけてたし。セレブ仲間なんだろうな。でも僕は、すごいなー、とは思ったけど、戸惑いも結構あった。自分とは異質なものみたいな感じがして。旅行とか行って、ふかふかのベッドで寝て、すごいご馳走が目の前に出てきたり、船貸し切ったり。五歳の夏、レースの合間にハワイのリゾートホテルに行った時、ホテルのスイートルームのベッドに一人で寝てて。母さんとリード父さん、付き合いやプライベートで、二人で出かけることが多かったから、そのころでも留守番することは、結構あったんだ。シッターさんはいたけど、僕が寝てたから、本読んでたみたい。それで目がさめて、天井を見てたら、不意に涙が出てきた。わけのわからない気分で……幸せなんだろうって思う。リード父さんはいい人で、僕にも優しくて、母さんも楽しそうで幸せそうで、物理的もものすごく恵まれた暮らしを送れてるって思ったけど、同時に悲しさの感情も湧いてきてしまって。こんな暮らしって、ずっとは続かないのかな。一時的なものなのかなって、そう思えたんだ。あまりに恵まれすぎてて、違和感も結構あって」
「そうなのか。おまえにとっては、かなり落差を感じたんだろうな。急にその境遇になったから、ちょっと不安定になったのかもしれないな」
「そう……たぶん。リード父さんと一緒に暮らしてた一年半は、僕にとっての最高地点だったと思うけど、高すぎてきらびやか過ぎて、落ち着かない、そんな感じもあったんだ。高いだけに、落ちる時は結構クラッシュしそうだって、そんな恐れみたいなのもあって。それから本当にクラッシュが起きて、僕らの運命もクラッシュした感じで、世界が百八十度変わったみたいになった、あの時から。母さん、その時赤ちゃんがおなかにいたんだ。でもリード父さんのお葬式が終わってすぐ、早産になっちゃって。まだ五ヶ月半ばだったから、助からなかった。早産っていうより流産なのかな、それって。でも生まれた時には、生きてたらしいんだ。すぐに死んじゃったけど。僕の幻の弟だね。母さんはカーライルって名前、つけてた」
「カーディナル・リードさんの忘れ形見か。知らなかったな。そんなことになってたなんて。ジョージもファンだったけど、それは知らなかったんじゃないか」
「たぶんね。マスコミには子供が生まれること、シーズン後に発表するつもりだったらしいから。母さんもまだ、そんなにお腹が目立つ時期でもなかったし。無事に生まれてたら、良かったんだけど。そしたら今、十歳半くらいなんだな。エステルにも、もうちょっと年の近いお兄ちゃんがいたってことになったけど」エアリィは首を振り、再び草原に目をやっているようだった。そしてしばらく黙った後、再び話し出した。
「それから母さんは一時期すごく自暴自棄になってしまって、誰も寄せ付けなくなった。僕も近寄れなくて、あっち行ってって言われて。部屋にずっと閉じこもっていたり、出かけて長いこと帰らないこともあったし、すごい酔って帰ってきたこともあったっけ。そのまま台所で寝てたりね。リード父さんの遺産相続争いにも巻き込まれたし。母さん、結婚したっていっても、まだ事実婚だったらしいんだ。子供も生まれるから、シーズン後に籍を入れようってことになってたらしいけど、その前にリード父さんは死んでしまって、子供もダメになってしまったから。だから向こうの家族にお屋敷から追い出された。リード父さんのお姉さんとお母さんが、結構きつい人だったみたいで、その二人に反対されたから最初から籍を入れられなかったって、言ってたし。それで仕方がないから、ニューヨークで住んでたような規模のアパートの、2ベッドルームの部屋に移ったんだ。そこでそんな状態になって、母さんは僕のことまで回らなかったから、お腹がすいたら食べるもの探して。自分で買い物行けたらよかったんだけど、お財布は手の届かないとこにしまってあったし、僕が勝手に持ってっていいものでもないしね。食べ物がない時は、台所にあったキャンディボックスの中身を、少しずつ食べてたんだ。それが終わったら、もう我慢するしかなかったけど。時々自分でシャワー浴びて、眠くなったらベッドに戻って寝てた。その間ずっと」
「それは……簡単に言うけど、ネグレクトなんじゃないか? 育児放棄だろ。大丈夫だったのか、おまえは? 五歳だったんだろ、その時」
「うーん、まあ、それはそうなんだけど……でも母さんは、もっと大きなことで心が一杯になってたんだと思う。リード父さんと赤ちゃんをなくした悲しみと、向こうの親族に対する憤りと……なんか僕も、そのあたりの記憶は、あまり掘り起こしたくないな。全体に黒に近い灰色の重たい霧がかかってる中で、時間だけが過ぎて行く、そんな感じの印象だった。でも、なんとかその時期を過ぎて、母さんはニューヨークでもう一度やりなおそうとして……あ、リード父さんと結婚している間は、ロスで暮らしてたんだ。それで生活を立て直す間、僕はマインズデールの教会に預けられたんだ。三ヶ月と三週間。それから母さんが迎えに来て、その頃母さんは別の男の人と暮らしてて、で、まだ結婚はしていないけれど、この人が新しいお父さんとか言って。売れない芸術家だったよ。よくわからない彫刻の。見た目はかなり……ハンサムだった。背が高くて、黒髪に黒い目で、最初は愛想もよかったし、母さんにも優しくしてた。それで三人で暮らし始めて、母さんはミュージカルに復帰して、すぐに良い役が来て、またがんばれそうだって喜んでいたんだ。でも、それから二ヶ月くらいたった頃、母さんが舞台で怪我して、それで三ヶ月くらい母さんは入院することになったんだ」
「ああ、あの事故か」
「知ってるんだ、ジャスティンも?」
「ああ、フレイザーさんがローレンスさんに話していたのを、偶然聞いたんだ。お母さん、それで再起不能になったって……」
「そう。照明が足の上に落ちたんだ。逃げようとして転んで、その上に。まだ足でよかったのかもしれないけど、右足複雑骨折で、なんとか手術とリハビリで歩けるようになったけど、右足一本で二秒以上立つことが、もう出来なくなってた。足の力も弱くなってしまって、舞台で踊ることは、もう無理になって」
「そうか……」それ以上なんと言ったらいいかわからず、僕は聞いてみた。
「それで、おまえはその間、どうしてたんだ?」
「ニューヨークのアパートにいた、ずっと。あいつと二人で。たぶん僕にとってロサンゼルスのアパートでの三ヶ月以上に、最低の時期だったと思うよ。母さんと一緒の時には、最初の一、二ヶ月はまともな人に見えたけど、僕はなんとなくなじめなかった。なんでリード父さんの後に、こんな奴好きになったのかなって、よく思ったけど、きっと母さんも精神状態、まともじゃなかったんだろうね、あの時には。それであいつのうわべに騙されたんだ。でも、だんだん少しずつやな奴になってって、二人になったら、もう本当にとんでもなくなった。僕はわけがわからなかったし、怖かった。なんか僕が悪いことしたのかな、この人を好きになれなかったのがいけなかったのかなって、最初のころは思ったけど、そのうちに……漠然とだけど、わかった。この人は闇なんだって」
 エアリィは僕に向き直り、言葉を継いだ。「ジャスティン、おまえ未来世界で僕の検査表見て、人体図見たって言ってたから、ある程度は察しつくかもしれないけど……あれが、あの時期の名残なんだ。外からは、まったくわかんなくなってるけど」
「……ああ、そうなのか」頷き、僕は言葉を飲みこんだ。やっと納得がいった。未来世界での身体計測で、彼の身体図に記されていたこと。六歳ごろに受傷したと思われる、二百箇所以上の打撲再生痕。ちょっとぶつけたくらいでは認識されない、僕の場合だとかなりひどくぶつけて、一週間くらいあざになったレベルで記録されるそれが二百箇所以上、さらに十箇所以上の骨折再生痕や内臓損傷の修復痕。並外れた再生力がなければ、その間に命を落としていたかもしれないほどのひどい損傷は、どれほどの暴力を受けたことを意味するのか。そしてその頃、極端に栄養状態が悪かったことも記されていた。




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