The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(6)




 その夜、テントとシュラフの寝心地の悪さに寝つかれなかった僕は、寝袋を抜け出して、外へ出ようと起きあがった。エアリィはもう寝てしまっていたが(彼は本当に、どういう環境でも眠れてしまうようだ)、ローレンスさんとフレイザーさんは、まだ寝に来ていないようだった。テントの入り口から、うっすらと明かりが漏れてくる。僕も仲間に入れてもらっていいかどうか、ちょっと様子を見てみよう。
 そっとのぞいてみると、二人の講師はたき火をしながら、両側に据えたパイプ椅子に座っていた。ローレンスさんが吸っているらしい、煙草のにおいも流れてくる。二人ともこちらに背を向けた姿勢で、低い声で話していた。
「それにしても、ずいぶん思い切った提案でしたね、フレイザーさん。僕もこれからどうしようかと思案はしていましたが、こんなに大胆な手までは、なかなか実行に移せませんでしたよ。あなたがあそこまで強固に、ロブに主張しなければね」
 ローレンスさんが、ちょっと感嘆したような口調で言っているのが、聞こえてきた。
「私としては、これしか思いつかなかったのでね」
 フレイザー氏は淡々とした口調で答えている。「もっと有効な手があれば、是非ともそうしていたところだが。果たしてこれで私の望む結果を引き出せるだろうか。今までのところ、あまり分は良くないようだ」
「そうですか? 僕は、やって良かったと思っていますけれど。ジャスティン君は非常に誠実で繊細な性格ですから、いろいろなことに感銘を受けて、吸収していますよ」 「君の方は、そうかもしれない。見聞を広め、感情の幅を広げるということは、君の生徒には有益だし、それだけの余地もあるわけだ。だがね、私の生徒については、一応ああは言ったものの、本当はさして重要課題ではないんだ」
「そうなんですか? それならなぜ……」
 フレイザー氏がそれに答えないので、ローレンスさんはしばらく間をおいて、別の問いを投げかけていた。
「ところであなたは、アーディス君の母親とは、お知り合いだったと聞きましたが」
「ああ、アグレイアか。よく知っているよ。彼女が出演していたミュージカルの監督を何本か、手がけていたからね。あくまでビジネス上の付き合いだったが……ああ、でも一、二度、彼女と関係を持ったことはあったな」
「え、そうなんですか!?」
「だが私は、アーディスの父親ではないよ。あの子が二歳くらいの頃だ。どうしてそういう成り行きになったのかは、よく覚えていないが、まあ、お互い納得済みだった」
 フレイザーさんは、苦笑しているようなトーンだった。「私たちは監督と女優の関係で、よく一緒に仕事をしていたからな。アグレイアは言ってみれば、恋多き女だった。美しかったし、性格も明るく、周りが放っておかなったからな。君は彼女を知っていたのかい?」
「いえ、僕は個人的に会ったことはないです。でも若いころの彼女を二度ほど、舞台で見たことはあります。僕らがツアーでニューヨークにいた時に。バンドメンバー全員が、映画や芝居、舞台を見るのが好きでしたから、機会があれば見に行っていたのです。最初に見たのは、もう十八年くらい前のことです。五番手くらいのクレジットでしたが、あのアリステア・ローゼンスタイナーの一人娘が出ていると注目していたので、覚えています。ハービィが……僕らのバンドのドラマーですが、『へぇ、やっぱり血筋かな。あの娘には華があるね。きっと大スターになれるよ』と言い、僕もそう思った記憶があります」
「そうだな……」フレイザー氏は少し沈黙したあと、懐かしむような口調で言葉を継いでいた。「アグレイアは美しかった。才能もあった。それに君の友人が言ったとおり、華もあった。父親の知名度があったため、スポンサーの受けも良く、配役にはたしかに恵まれたが、それだけではない。まともに精進していれば、きっと大スターになれただろう。それだけの素質は持っていたんだ。だが結局、彼女はそうならずに終わってしまった。当然、そうなるべきだったのに。彼女は不運だった。トラブルが多すぎたんだ。売り出し中の一番大事な時期に失踪する、結婚して引退する、そういった度重なる中断が彼女のキャリアの積み重ねや、それによって得られる芸の向上を阻害し、最後には、事故で舞台生命を奪われてしまった」
「ああ、そうでしたね。舞台照明が足の上に落ちたのでしたっけ、たしか」
「そう。だが、君も知っているかもしれないが、あれは上演中の事故ではなかった。開演前になぜか彼女は舞台に上がり、そこで照明が落ちたんだ。誰かに口実をつけて、ステージ上に呼び出されたのだな。その事件の真相を、私は知っている。彼女はレーサーのカーディナル・リードと結婚して、二年ほど舞台から遠ざかっていたが、復帰後すぐに、大舞台のとても重要な役に抜擢された。それを妬んだ連中がやったことなんだ。元々彼女は敵が多かった。父親の知名度のおかげもあって、度重なるキャリアの中断にもかかわらず、配役に恵まれたことが多かったからね。七光りなどと陰口を利くものもかなりいて、本人もそれを気にしていたが、そんなものは良い演技をすれば一蹴できると、私はよくアグレイアに言ったものだ。だがね、やはり面白く思わないものもいたのだろう。その首謀者が誰だったか、それも私は知っている。ただ、はっきりした証拠はなかったし、彼女の将来も考えてね……スキャンダルを嫌って、表沙汰にしなかったんだ」
「彼女……ということは、首謀者は女性だったんですか?」
「ああ。アグレイアの事故後も公演は続行したが、その女性が代役を務めたんだ。そこまで言ってしまうと、君もある程度はブロードウェイに興味を持っていたようだから、資料を調べれば、名前はわかってしまうだろうな」
「あえて調べようとは思いませんよ。もう時効でしょうしね」
 ローレンスさんは苦笑が混じったような声だった。「ブロードウェイも厳しい世界だとは聞いたことはありますが、本当にずいぶん複雑な事情があるんですね」
「ああ。こんなことは氷山の一角さ。だが音楽界も、似たようなものだろう。君も以前は現役ミュージシャンだったのだから、彼らの業界については、君の方が詳しいだろうな。どちらにしろ、あらゆる魔物が住んでいる世界だ」
「まあ、たしかにいろいろありますよ、音楽界にも。同業者、エージェント、マスコミ、そして同じバンド仲間さえ……僕らは幸い、そうではなかったですが、いろいろな敵がいますからね。人気という当てにならないものに頼って行くしかない世界で、有形無形の誘惑も多いとなれば、その中で自らの精神を犯されず、クリエイティヴな熱意も失わずに渡っていくのは、ほとんど不可能と言ってもいいくらいです」
「君たちはどうだった、ローレンス君? 君たちのバンドは、比較的そういう業界の悪徳に染まらずに来ていたのじゃないか、という評判だったが」
「そうですね。基本的に僕らはみな古くからの友人でしたし、気心は知れていましたから。ベースのエドウィンと僕は幼稚園の頃から、ドラムのハービィとヴォーカルのグレンは、小学校四、五年からの付き合いですから、みな幼馴染のようなものです。ハイスクールでバンドを組んで、それからずっと活動を続けてきたんです。僕らはオフでも良く一緒に飲みに行ったり、芝居や映画を見に行ったりしましたし、何でも言い合える仲でした。それゆえに意見が衝突することも多かったですが、それで決定的に険悪になることもない、安心感がありました。メンバー間での人気格差がそれほどなかったのも、幸いしたのかもしれません。飛び抜けたスターはいないけれど、みなそれぞれに存在感がありましたから。まあ、僕らも人間ですしね。プロのミュージシャンとしてやって行く上では、さまざまなストレスがありますし、ケンカはかなりしました。『やめてやる』という台詞も、僕も他のメンバーも、何度か言いました。でもそれは一時の表面上の波立ちに過ぎず、根本では、僕らはいつも固い絆でつながっていられた。最後まで親友でいられたし、一緒にプレイすることを楽しむこともできました。そういう点では、非常に幸福だったと思います……」
「君たちのバンドは、本当に理想的な関係を築いていたんだな。そうか……つい、君には酷な話をさせてしまったようだ。すまない……」
「いえ……もう大丈夫です。すみません」
 ローレンスさんは、ちょっと詰まったような声だった。涙ぐんでいるのかもしれない。僕も大きな塊が、咽喉をふさぐのを感じた。事故の知らせをニュースで見た朝に感じた、あの思いがよみがえってくる。ローレンスさんはしばらく沈黙の後、言葉を継いでいた。
「願わくば、彼らにもそうあって欲しいと、僕は思っています。絶対的に信頼できる基盤がバンドにあれば、業界の悪徳にひどく染まることなく、渡っていけると思うので」
「しかし不幸なことに、その絶対的に信頼できる基盤を持たない人間が、圧倒的に多いのが現実だな。君のバンドは、幸運な奇跡だったのだろう、ローレンス君。そして、我々の生徒たちのバンドについては、そうだな……九十パーセントくらいは確立できているように見受けられるが、まだ完全ではないとも思える。だがまあ、彼らとて、難しい業界だと覚悟はしていただろうし、それでもあえてその道を選んだ。これから彼らがこの世界を、どうやって渡っていくか、それは私たちの管轄外だ。君は今後も彼らのプロデューサーとして関わっていくと聞いたから、多少は関係するのだろうがね。だが今の我々の課題は、それぞれの生徒の才能を、できる限り引き出すことだ。私は個人的にアーディスの母親と知り合いだし、あの子自身も知っている。まだ一人でアパートにおいておけないほど小さかった頃、アグレイアがレッスン場に連れてきていたからね。あの子はレッスン場の隅でコットに寝かせられて、もう少し大きくなると、毛布の上でおもちゃをあてがわれて、練習が終わるまで遊んだり眠ったりしていたが、時おり何時間も飽きることなく、レッスン風景を眺めていたものだ。身体を揺らしてリズムをとってみたり、手を叩いたり、歌おうとしてみたり……あの子はまるで天使のようにかわいい赤ん坊で、それにとても人懐っこく、活気に満ちていたが感情は非常に安定していて、泣いたりぐずったりすることは、まったくなかった。それで現場のぴりぴりした空気を、ずいぶんなごませてくれたものだ」
「そうですか。なんとなくわかりますよ」
「だが、その可愛い天使のような赤ん坊を思い出す時、彼がその後に通らなければならなかった道を思うと、私は少々心が痛む。今のアーディスを見る限り、乗り越えられているようだが」
「それから……何が……?」
「あの子は、いくつかの暗黒時代を潜り抜けて、今に至っているんだ。並みの子供だったら、トラウマになりそうな悲惨な状況を。彼が男の子として比較的小さいのは、五、六歳のころの悪環境も影響しているのだろう。アグレイアも、悪気はなかったのだろうが……いろいろあったからな。彼は地獄も底辺も潜り抜けている。だから君の生徒のように、この世界の闇を見せる必要はなかった。もともと良く知っているのだから」
「そうなんですか。あの子はなんというか……屈託なく明るい子だから、僕は知らなかったです。再婚家庭で、母親を三年前になくしているということは、ジャスティン君から聞いて、知っていましたが」 「そう……アグレイアも三年前に亡くなったのだな、事故で。双子の娘を乗せて車を運転中に、雨でスリップして反対車線に突っ込んできたトラックと正面衝突し、ハンドルで胸を強打して、心臓破裂で即死らしい。娘の一人も、その時に死んでしまったという。初めて彼女に会った十九年前には、こんな結末になるとは思いもよらなかった。運命は、残酷だな」
 そう。これも後で知った知識だった。まだデビュー前、隣同士のワンルームに住んでいたころ、彼の部屋を訪れた時に。壁にかかったコルクボードに飾られた写真を何気なく眺めていて、その中に二、三歳くらいのエステルと思しき女の子を見つけた。だけど、その子は二人いた。まったく同じ顔で、同じ服で。二人を抱きかかえるようにして、若く美しい金髪の女性が微笑んでいた。訊ねた僕に、エアリィは説明してくれた。そこに写っているのは母親と妹たちと。エステルは見分けのつかないくらいそっくりな双子だったこと。二人はバレエ教室に通っていて、レッスンの送り迎えは母親がしていたこと。その帰り道、事故に会って、母親と双子の一人が死んでしまったことを。その時に僕は改めて、エステルの受けた衝撃の大きさを知った。思っていた以上に、はるかに厳しい局面を、あの子は潜り抜けてきたのだ。そのショックで兄べったりになるのも、余計に無理はなかったのだと、改めて納得できた。
 フレイザー氏はしばらく沈黙したあと、再び口を開いた。
「だが、誤解してもらっては困るが、私はあの子と個人的に知り合いだから、コーチを引き受けたわけではないよ。才能のないものには、いくら知り合いでも、いや、知り合いだからこそよけいに、手はかけたくないからね。アグレイアの息子が、あの時の赤ん坊が、果たして彼女や、その父親の才能を受け継いでいるか、たしかに興味はあった。それにあの子は二歳になるまで、そういう環境で育っている。ダンスのステップと音楽を子守歌にして。幼児教育の観点からは問題ありかもしれないが、あの子の天分を引き出すためには、これ以上ない初期環境だよ。私はダンスレッスンの時、あの子が一歳前後の頃にアグレイアが練習していた曲を、試しに聞かせてみた。彼はその曲を知っていると言った。私は思いつくままに踊ってみろと命じたのだが、あの子のダンスを見て心から仰天したね。あの時のアグレイアの踊りそのものだ。完璧な再現だった。さらに言えば、彼女より明らかにダンスの天分もある。アーディスはあとで言っていた。『これ僕が一歳のころ、母さんが練習してた曲ですよね。だからそのイメージで踊っちゃったんですけど、僕独自の奴にしたほうが、良かったですか?』と。そして、こうも言った。『フレイザー先生、あのころとあまり変わってない! 厳しい先生だなーって思ってたけど、僕には優しくしてくれてて。でも、実際生徒になると、やっぱ厳しいんだって』と」
「ほう……でも、その時の彼は一才前後だったのでしょう? そんな頃の記憶を……?」
「ああ、本人に言わせると、赤ん坊のころから覚えているらしい。それにしても、アーディスの天分には驚かされる。記憶力もそうだが、音楽に関する才能も、運動神経も知能も、天才という以上のものがある。そう。そして彼は、音楽理論はだいたい知っていた。他の四人に教えてもらったらしいな」
 音楽理論は僕らに教わったというより、未来世界でアイザック・ジョンソンとヘンリー・メイヤーに教えていたのを聞いていただけだな。間接的には、僕らが教えたことにはなるのだろうが。でも、はたして実践に生かされているのだろうか。あの時も、理論が変だの根拠がわからないだの、まぜっかえしてばかりだったし。
 フレイザーさんは話を続けている。
「アーディスは楽譜の読み方や、楽器の演奏はほとんど出来なかった。しかしためしに教えてみると、まるでスポンジに水がしみこむように、あっという間にマスターしてしまった。あの子は一度見たり聞いたりしたことは決して忘れないし、やり方さえ理解できれば、頭で意図したとおりに、身体を動かすことが出来るようだ。運動にしろダンスにしろ、そして楽器演奏にしても。反復練習など必要ないほどに。たとえばピアニストの演奏風景を頭上から撮った映像を一度見ただけで、その通り弾けるんだ。今までピアノを弾いたことがなくとも、写実的記憶と運動神経が連動して、再現できてしまう。実際に私は練習の息抜きにと、二度ほど試してみた。一つはピアノ、もう一つはヴァイオリン――どちらも、かなり難易度がある曲だ。それでも、二度とも完璧だった」
「……そうなんですか。あの子はIQも運動神経も並はずれていると、ロブが言っていたことがあったけれど……なんだか人間業とも思えないほどですね」
「そう。アーディスは私が予期していた以上の天分を持っていたよ。私が今まで手がけてきた中で、最大のものだ。だからこそ私は自分に貸せられた課題を、最大限実現させたい。それは、君と君の生徒に関しても、そう変わりはしないだろう、ローレンス君?」
「ええ、たしかにそうですね。そう……初めて僕があの子たちの音楽を聞いたのは、まだリハビリ中のことでした。バンドもなくなった。仲間たちもみな逝ってしまって、もういない……。その事実を受け入れるのに、かなりの時間を要しました。いえ、今でも乗り越えられたとは言えないかもしれないと思います。まるで世界が空っぽになってしまったようで、自分の半分以上がもぎ取られてなくなった。もう永遠に戻らないだろう……そんな気分でした。僕は運命を呪い、音楽への情熱も失いかけていました。妻だけが唯一の支えでした。レイモンドが――マネージメント会社の社長ですが、彼も僕らの昔からの友人なんですよ――コンテストで優勝した新しいバンドと契約して、すっかり夢中になっているという話を聞いた時も、僕は不愉快でした。僕たちがいなくなったら、すぐに後釜を見つけようとしているのかって。まあ、彼も会社を運営して、スタッフを養っていかなければならない身ですからね、当然なんですが、僕には仲間たちを軽んじられているように思えて、絶縁を考えたくらいです。その十月初め――事故からほぼ一年近くがたって、ようやく退院のめどが立ったころ、彼がニコニコしながら病室に来たんです。『ローリー、我が社期待の星のデビュー盤が完成したんだ。ぜひ聴いてみてくれ。まだ本当に若い新人だが、大きな将来性を感じるんだ。君たちを失った痛手を、埋め合わせてくれるかもしれない』と。僕は気が進みませんでしたが、聴くだけは聴いてみようと思い――実際、それほどレイモンドが入れ込むほどの器かどうか、試してやろうという気もあったんですね。そして聴いて、驚きました。うわっ、これは本当に、とてつもないポテンシャルを持ったバンドだな、と。僕たちと同じような精神性を底流に持っているけれど、僕たちより大きな才能と、さらにプラスアルファの魅力がある。若々しいエネルギーもある。それゆえ、この子たちは僕たちより、はるかに伸びる要素がある、と。聴いているうちに、僕は気力がよみがえってくるのを感じていました。仲間たちはみな、いなくなってしまったけれど、もう一度、音楽へ立ち戻ろうと。それが仲間たちへの供養にもなるはずだ。エドウィンやハービィやグレンの分まで。でも、一緒に音楽をやる仲間は彼ら以外いないと決めていたから、僕に出来る範囲のほかの方法で。そう思ったのです」
「そうなのか。君に情熱が戻って、良かったと思う」
「ありがとうございます。だからこそ、同じマネージメントの後輩でもある彼らに、僕に出来るだけの助力が出来たらと思って、今回の集中練習に参加したのです。これからも及ばずながらプロデューサーとして、彼らと関わっていこうとも思いました。それに僕は、ジャスティン・ローリングス君という僕の生徒の素材にも、惚れ込みました。まれな才能を持つギタリストとして。そのために僕たちも、はるばるこんな所まで来ているわけですし、少なくとも僕は自分の試みは、ある程度成功したと思っています。はっきりと目に見える進歩はなくとも、きっと今後、彼のプレイに何らかの形で反映されていくでしょう」 「まあ、それが君たちの目的なのだからね。はっきりした形には現れなくても、広い見聞を吸収できればよい。しかしね、それなら何もわざわざ世界旅行などしなくとも、これから彼らが生きていく間に出会う様々な出来事が、きっとそれ以上に何かを与えてくれると思うのだ。言ってみれば、どうしても今必要ということではない。スタジオで練習をしているよりは、少しは有意義だろうという程度だ」
「う……まあ、そうかもしれませんが……」
「私はそれが目的で来ているのではない。感情に深みを与えるのではなく、私は殻を打ち壊したいのだ。今なら、それができる時期なのかもしれないと思った。トレーニングで、私がアーディスを気力体力の限界以上にまで、あえて追いつめたのは、単に体力増強のためだけではない。体力的な極限を超えると、精神状態も普段と同じではいられなくなるからね。さらに今までいろいろな所で史跡や景観を見せてきたのは、精神に感動を与えて、高まったテンションをさらに引き上げさせる、それだけのためなのだ。あの子は非常に感受性の高い子だし、自然に対する憧憬も強いからね。そうして精神を強く揺さぶり、そのテンションを臨界まで上げてやれば、いつかその殻が壊れるだろうと期待していた。しかし、アーディスはなかなか手強いよ。セレンゲッティではその一歩手前まで行っていたが、破れはしなかった。あの子の精神の殻は、私が想像していたより遥かに強靱だ。あれだけの過去を乗り越えてきた人間なのだから、きっとそうだろうとは思っていたが、予想以上だ。なかなか壊れそうにないんで、困っているのだよ」
「壊すというのは、ちょっと物騒な表現ですね、フレイザーさん。それではまるで、あなたは彼をパニックに叩き落としたいように聞こえますよ」
「そうしたいと思っている。あの子に真の成長を望むなら」
「それは、どういう……?」
「アーディスは今でも、超一級のシンガーだよ。あの子の声は、他の誰にもまねのできないものだ。個性的な声は好き嫌いが分かれがちだが、彼の声質はたぶん嫌いと言う感情を持つ人は、ほとんどいないだろう。そして声量も、表現力も、デリバリーも素晴らしい上に、あのルックスだ。天は二物を与えずというが、あの子は完全な例外だ。デイヴィスが言ったように、あの子は一人でも、ロックアイコンになれるだろう。それは確かだ」
 デイヴィス氏というのは、あの人か。エアリィにソロとして独立するよう、引き抜きをかけてきた凄腕業界人。僕はあまり良く知らないが。
「そういえば、ドワイト・デイヴィス氏が引き抜きをかけてきたことは、僕もレイモンドから聞きました。断るのに勇気がいったが、引き下がってくれたので助かった、そんなことを言っていましたっけ。あの人も業界の実力者ですからね。でも、デイヴィス氏には言われたらしいですよ。では君のところで、私ができる以上にあの子を成功させられるのか? 五年以内にスタジアム・アーティストになれなかったら、君も覚悟をしておけよ、と」
「デイヴィスの父親は、君も知っているかもしれないが、アリステア・ローゼンスタイナーを最初に見初め、ずっと手がけてきた監督だからな。彼にとっても、特別な存在だったのだろう。その孫ということで、デイヴィスなりの思い入れがあるのだろうな」
 フレイザーさんは少し苦笑しているようなトーンで言い、そして続けた。
「だがそれは、彼なりの『では、責任をもって育ててくれ』というのと同義だろうから、そう心配はせずともいいと思う。アーディスには、充分な才能があるからな。それに今度の訓練で、課題だった耐久力も身につけた。連日公演が続いても、何時間歌い続けても、損なわれない声をね」
「そうですね。それがヴォーカル訓練においての最重要課題だったと、僕も聞きました」
「そうだ。そしてそれは達成できた。だから、それで十分といえばそれまでだが、しかしね、そこで満足するべきではない。あの子の真の天分は、こんなものではない。彼こそ、未踏の領域へ行けるアーティストかもしれない。それを発見した時の私の喜びが、君にわかるだろうか。長年私が夢に見、しかしそんなものはしょせん現実には存在しえないとあきらめていたものが、ついに現実になるかもしれないのだよ」
「それが、あなたの真の目的だったんですね。だから……あなたは、あれほどロブに主張して引かなかったのですね。この旅行を」
 ローレンスさんはしばらく黙り、比較的長い沈黙のあと、再び口を開いた。
「未踏の領域に行けるアーティスト……それは、たしかに見果てぬ夢ですね。僕たちには実現出来なかった。僕が知っている、どのミュージシャンも。それは、すべてのアーティストが目指す夢。だが決して実現しない夢なのだと思っていました。彼らにはたしかに、大きな可能性を感じることは認めます。アーディス君もジャスティン君も、紛れもない天才ですよ。でも彼らに、僕たちが夢見て実現できなかった領域にいつか行ける可能性が、あるでしょうか? やはり無理だと僕は思っています、正直に言って。領域の壁は、想像以上に厚いですから」
 ローレンスさんはまたしばらく黙ったあと、熱っぽい調子で言葉を継いだ。
「未踏の領域へ到達するためには、天才と言うだけじゃ、だめなんです。二十年以上音楽と関わってきて、それがどんなに実現困難なことかも、いやというほど思い知らされました。長いキャリアのうちには、真の天才と言える人も何人か見てきました。でも、彼らでもやはり、そこまでは到達できなかった。未踏の領域、すなわち人間の領域を突き抜けるためには、それ以上のものが必要なのです。何か人間を超えた、そう、モンスターのようなものが。でも人間である限り、人間を超えるものなどあり得ないというのが、現実です。実際この二ヶ月間、ジャスティン君の才能をじっくりと見極めてみました。彼は真の天才です。でも彼の中にモンスターを認めることは、幸か不幸か、僕は出来ませんでした。やはり彼も人間ですからね。フレイザーさん。僕はアーディス君については、この集中練習では直接の担当ではないので、じっくり面と向かってその才能と向き合ったことはありません。音源といくつかのライヴだけしか判断材料がなく、僕もヴォーカルについてはギターほど詳しいわけじゃない。彼が非凡な才能の持ち主だということは、僕にだってわかりますが。でも、あなたならわかるでしょう、フレイザーさん。どうですか? 正直、あの子の中に、モンスターを発見できたのでしょうか?」
「人間を超えるモンスターか。言い得て妙だな……」
 フレイザーさんはしばらく黙ったあと、そう返答した。
「まさにその通りだ、君の洞察は正しいよ、ローレンス君。さすがに君自身、卓越したミュージシャンだっただけのことはある。そう、夢を実現させられるとしたら、それは単なる天才ではない、人間を超えたモンスターが必要なのだ。そして人間である限り、それを超えるものが内在するなどあり得ない。そう、普通はね。芸能界に関わるようになって四十年近くの間、私もそう思っていたよ。だがアーディスに会って、その信念はぐらついた。あの子には、人間を超える何かがある。君もさっき言ったじゃないか、ローレンス君。なんだか人間業とも思えないほどだ、と。そう、彼の中には、まぎれもない人間以上のモンスターが存在する。私ははっきりとそう感じた。その力が完全に解放されれば、彼は万人の心に届く、究極のスーパーシンガーになれるだろうと。わかるかね? いや、君ならわかるだろう。それは、完全なコミュニケーションだ。聞く者すべてに作用し、感化させることの出来る力。すべての人に感銘を与え、情景と感情を伝えられる力。たとえ言葉が通じなくとも、メッセージははっきりと伝わり、相手を揺り動かせる。たとえ相手が心を閉ざしていても、こじ開けることが出来る。流行に乗るのではなく、自らが流行を作り出せる。いや、流行などという流れやすいものではなく、確固たる広い道を自ら作っていける。それが未踏の領域なのだ」
「ええ、ええ……そうですね……わかります」
「だが、彼のモンスター、そう言って悪ければ、内なる超人は、まだ眠っている状態なのだ。いや、起きているのかもしれないが、まだ外には出ていない。彼の心の奥深くに、隔離されているような状態だ。彼の精神の外殻、自我を形成している意識領域といってもいいが、それはいってみれば卵の殻、さもなければ蛹の繭のようなものかもしれない。それを破らないと、内なる超人は出てはこられない。メタモルフォーゼは起こらないんだ。だからこそ、壊してやる必要があるんだよ。そのために私は、この旅に出た」
 フレイザーさんは熱っぽい調子でそう言ったあと、少し黙った。そしてトーンを落として、言葉を継いだ。「君はさっき、幸か不幸か、君の生徒にはモンスターを発見できなかったと言ったね。そう、まさに私も同じ気持ちだ。幸か不幸か、私は自分の生徒の中に、それを発見してしまった。それを目覚めさせること、そっと眠りにつかせたままにしておくこと。どちらが彼にとって本当に幸せなのかはわからないと言うのが、正直な気持ちなのだ。アーディスとて、人間離れした能力の持ち主とはいえ、やはり人の子だ。自我の殻を破るのは、危険な行為だ。たとえ、どれほどの精神力の持ち主であれ。その時にどんな状態になるのか、私もよくわからない。その時の衝撃が精神の限界を越えてしまったら、元に戻らない可能性もある。その超人に精神を乗っ取られてしまうか、それに抵抗を試みて破綻する危険もある。確実にそれは彼の人格にとっての、大きな危機となるだろう。かりにそれを乗り越えられても、これからの人生を、自らの内なる超人、人間以上の何かと共存して生きていかなければならない。それは非常に不安定な、鋭い薄刃の上を歩くようなものかもしれないと思う」
「そうですね……それは非常に危険な賭けであることは、たしかでしょうね。でも、あなたは迷いながらも、本心は目覚めさせたいのですね」
「ああ。たしかに迷いはした。なにも今でなくとも良いのではないか。時期が早すぎるかもしれない、と。内なるモンスター、もしくは超人と折り合うには、まだ若すぎる。アーディスは、やっと十六になったばかりだ。よりによって一番多感なこの時期に、そんな危険を冒すこともないだろうと。でも、だからこそ今なのだという気もしているのだよ。大人になってからでは、遅いのかもしれない。私の長年の夢が実現されるのを見たいのなら、これが唯一のチャンスだ。私の職業魂がそう囁き、実現を渇望している。だからこそ、私は今ここにいるんだ」
「そうですか……」吐息と一緒に言った後、ローレンスさんはしばらく黙った。
「僕もにわかに興味が湧いてきましたよ。怖いもの見たさ、でしょうかね。そう……本当にそうなったら、怖いでしょうからね。それに、成功しても失敗しても、アーディス君本人にとっては、もはや今までの自分ではいられなくなるわけですから。あの子は十六になったばかりで、これからの人生はまだ長いんです。あなたが言われるように、過去の逆境を乗り越えて、今の彼があるのだとしたら、せっかくここまでの安定にたどり着いたのだから、そのまま行かせてやりたい、幸福に。僕はそう思います。あなたの気持ちもわかるのですが、申し訳ないけれど、賭けに外れることを僕は願いたいです。彼のためにバンドのために、そして音楽業界全体のためにも……未踏の領域とは、業界にとって一つの理想であって、なおかつ決して冒してはならないタブーなのですから。今のままでも、彼らは相当に成功できると思います。この時代でもミリオンを充分狙えるし、それ以上の人気アーティストに、きっとなると思います。精神破綻の危険を冒してまで、あえて業界のタブーを破らなくても、充分に……」
「そうだろうな。君の言うことは、おそらく正しい。マネージメント側の望みも、きっとそうなのだろう。限界の壁を突き破ってモンスターになることなど、望んではいないはずだ。ましておや、失敗のリスクを考えると……そうだな。確率の悪い危険な賭けには、負けた方がいいのかもしれない。だが……」
――これは、僕が話に入れる雰囲気じゃない。ついずっと聞いてしまったが、やっとそう気づいて、テントの奥に戻り、再び寝袋に潜り込んだ。二人の講師たちの話し声はまだかすかに聞こえてくるが、もう何を話しているかはわからなかった。僕は寝袋ごと窮屈な寝返りを打ち、今聞いたことを考えた。
 未踏の領域へ行けるアーティスト? それは、すべてのミュージシャンの夢? そんな大きなスケールでの成功なんて、まったく想像したことさえなかった。僕らがそんな可能性を秘めているなんて……いや、僕ではない。僕の中にモンスターはいないと、ローレンスさんもはっきり言っていたし、自分自身でもそんなものが隠れているとは、とても思えない。でも、エアリィにはそれがある……? わからない。エアリィはたしかに人間離れした能力の持ち主だし、そのポテンシャルの底は、なおうかがい知れない。彼はまだ音楽においては、ほんの一部分しか自分の持てる力を解放していない――それは僕もずっと感じていた。もし彼が力をフルに解放したなら、僕はとても太刀打ちできないのでは。勉強やスポーツやゲームではすでに次元が違いすぎて、とても敵わないのと同じように。
 彼が転入してきたハイスクール最後の一年間で、僕が彼の上を行けたことはない。僕はそれまでも学年主席ではなかったけれど、ベスト5、悪くても10位までには、ずっと入っていた。でもエアリィは転入してきてからずっと一位をキープし、卒業試験も主席だった。すべてフルマーク――満点で。スポーツテストも主だった分野で記録更新し、もちろん僕のスコアの遥か上。僕が彼に勝てたのは基礎体力や持久力系の、わずかな項目だけだった。テニスやボーリングや他のゲームにおいても、僕が彼に勝ったことは一度もない。ボーリングは記憶している限り、エアリィはストライク以外出したことがないし、テニスも完全に遊んでいる感じでいながら、ポイントを落としたことはない。他のスポーツでもそうだし、ゲームにおいても(トランプでもモノポリーのようなボードゲームでも、コンピュータ・ゲームでも)同様だった。とにかく、異次元の強さなのだ。それなのに音楽の分野まで、完全に水を開けられることになるとしたら――。
 今のままで、ずっと行けたらいいな――ふと、そう思った。今の快適なパワーバランスを崩したくない。エアリィと僕とは、多少彼の方が優性であるにしても、まだある程度は対等なフロントパートナーだ。お互いに力が接近している方が、刺激しあって高めあうことができる。こんどの集中練習のおかげで、みんなパワーアップできたし、このまま行っても、十分成功できるのではないか。ローレンスさんもそう言ってくれた。でも――それは僕のわがままだろうか? 対等でなくなるのが、置いて行かれるのがいやで、パートナーの発展を妨げることを願うのか? それは卑しいことではないか? いや、それだけではない。それ以上に、僕は漠然とした恐れを感じていた。エアリィの内なる超人とは、いったい何なのか? モンスターなどという物騒な表現でしか言い表せないほど、それはとんでもないものなのか。彼の中に眠る巨大な何かが発動すること、それは僕らにとっても、何か非常に怖いことなのではないかと。
 草のにおい。シュラフとマット越しに感じる、固い地面の感触。そういえば外で眠るというのは、生まれて初めてだ。やがて講師たちがテントに帰ってきた。その気配を感じてまもなく、僕は眠りに落ちていったらしい。




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