The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(3)




 五月上旬のある日、実家に帰っていた僕の携帯電話に、ロブから連絡がきた。
「ジャスティン、悪いんだが、マネージメント事務所に来てくれないか。協議しなければならないことができたんだ」
「ああ、別に予定はないから、良いけれど。今からかい?」
「いや……明後日の昼過ぎくらいでいい。エアリィが一昨日からボストンのお継兄さんのところに行っていて、明日の夜帰ってくるらしいから。まあ、おまえたち別々に話をしてもいいと思ったんだが、ことはバンドの将来に関わるからね。おまえがその日でいいなら、ほかの三人にも連絡しておくよ。当事者だけでなく、やはり全体の問題だろうからね」
「どういうことだい、ロブ?」
 バンドの今後を協議するというにしては、なんだか変な言い方なのが気にかかる。
「詳しいことは、その時に話すよ」ロブはそれだけ言った。

 二日後、再び顔を会わせた僕らバンドの五人は、マネージメント会社の一室、会議室の椅子に座り、ロブと社長氏に向きあった。コールマン社長はテーブルの上に置いた書類に目を落としてから、僕らを見、口を開いた。
「君たちを召集したのは、ほかでもない。今後のことを協議したかったからだ」
「すみません、本当にご迷惑をおかけして。せっかくのプロモーションツアーを、三か月もしないうちに終わらせてしまった上、こんなにブランクを作ってしまって、申しわけありませんでした」ミックが僕らを代表して頭を下げ、謝った。
「まあ、それは君たちのせいではないんだ。しかたがあるまい。運が悪かったんだよ」
 社長氏の口調は穏やかだった。そのまなざしも。ついで少しだけ難しい顔をした。
「だが、たしかに痛手には違いない。プロモーションがろくにできなかったことも、影響しているのだろう。新作は初週こそ一位を取れたが、それは前作の貯金だ。そこからの伸びは、かなり弱い。デビュー作の半分くらいの売り上げで、終わりそうな感じなんだよ。まあこのご時勢に、三十万以上売り上げられたら成功とは言えるが。それに、シングルもヒットはしているが。だがデビュー作で成功した新人で、次回作が前作の売り上げより半減したバンドは、まず十中八九衰退していく。そういう点で、君たちは結構難しい局面にきてしまったんだ」
「ええ。わかります」僕らはみな、いっせいに頷いた。
「それに、あのアルバムは、少なくとも全米で五十万枚くらい売り上げなければ、我々にとって赤字になる。アドバンス以上に、あのプロデューサーへのギャラがかかってしまったからね。でも、今のままでは間違いなく赤字だ。それに、君たちはあのレーベルと契約した時のノルマ数字を覚えているかい?」
「全米で、三枚合わせて二百万。CD実売と、ダウンロード販売を含めて。だから、え、けっこうきつくない? って思ったんだけど、まあ、結果が出てから考えればいいやって思って」エアリィがちょっと肩をすくめ、答えた。
「そうだね。それで今のところアメリカ市場のみで、ファーストが七十万、セカンドが三十万。そうすると、残りは百万だ。それを次回で達成しなければならない」
「あと百万……ですか?」僕は改めて驚きを感じ、思わず呟いた。最初のノルマ数字はたしかに高いと思ったけれど、それほどまでに届かないとは思わなかった。でも現実には、恐ろしく高い壁だ。あの時には半ば浮かれていて、そこまで思う余裕がなかったのだが。
「そうだ。プラチナディスクだ。そのレベルの数字が必要なんだ。あそこは新人と契約する時には、A、B、Cと三つの条件を分けてオファーしてくる。君たちはAオファー、アドバンスも原盤率も、ノルマも最高レベルだ。つまり、それだけ相手も期待してくれたわけだ。そして、アルバム三枚分までは待ってくれる。私は君たちがそこを選んだ時、そのノルマの高さだけは警告しようかと思ったが、百パーセント無理だとも思わなかったのでね。君たちなら、あるいはやれるかもしれないと」
「もしそのノルマが達成されなかったら、僕らはレーベルをクビになるのですか?」ミックが心配げな口調で聞いている。
「そうだね。その次からは、新しいところを探さなければならなくなるだろうね。まあ、贅沢を言わなければ、引き受けるレーベルはあると思うが、数字にもよるだろう」
 社長氏は首を振り、デスクの上に目を落として、広げてある書類をチラッと見た。その後、再び目を上げて言葉を継いだ。「だがノルマ自体は、非常に厳しい数字だ。そしてだ、その間に移籍話が持ち上がってきた。引き抜きといっても良いが」
「引き抜き……?」僕らは当惑気味に、顔を見合わせた。
「そうだ。まずは君だ、ジャスティン・ローリングス君」社長は僕に目を向けた。
「君にスティールローザからオファーがきた。彼らとは去年の夏、一緒にロードしたから知っているだろう。十数年前『ダブル・イン・ミラー』のメガヒットを飛ばし、それ以後もコンスタントに作品をチャートの上位に送りこんでいる。そこのギタリストの一人が、最近脱退した。それで彼らは、君に白羽の矢を立てたらしいんだ。若く、テクニックとフィーリングがあって、ヴィジュアル面も悪くないギタリストが欲しい、とね。君のことはよく知っているから、オーディションはいらない、と言っている」
「ええ?」僕は思わず言葉を失った。普通のミュージシャンなら、それだけのビッグネームから誘われたら、夢のような話と躍り上がるかもしれない。しかもバンドは難しい局面に来ていることは、否定できないのだから。でも、僕は当惑しか感じなかった。
 彼らがそれだけ僕を評価してくれているのは、もちろんうれしい。それにスティールローザのメンバーたちは、二ヶ月半一緒にツアーをしていたから、知らないわけではない。ちょっとリーダーさんは気難しそうだが、ドラマーさんは気さくだったし、抜けた方でないギタリストさんはひょうきんな人だった。基本、わりと良い人たちだと思う。でもバンドを抜け、みんなと別れて彼らの一員になるなんて。そんなことは考えられない。僕らはエアレースとして、アイスキャッスルでコンサートをしなければならない。仮にその条件がなかったとしても、他のバンドへ移籍するなんて考えたくない。あの人たちは良い人たちではあるけれど、仲間とは言えない。僕はみんなと一緒の共同体で、ずっとやっていきたい。第一、彼らの音楽は、僕の好みとは言えない。志向する路線が違うから、乖離は目に見えている。彼らに対し、新参者の僕が、このバンドに対するように遠慮会釈のない意見を表明するわけにはいかないだろう。どう考えても、問題外だ。
「とりあえず良く考えて、返事を聞かせてくれ。そして、アーディス・レイン君」
 社長は、今度はエアリィに向かって告げる。「君へのオファーは、バンド移籍ではない。ソロへの誘いだ。かつて何人もスーパースターを輩出してきた敏腕業界人が、君を見初めた。君はバンドの中の一人ではもったいない。絶対にスタジアムを一人で埋められるような、スーパーソロシンガーになれる、育ててみせると、その人は言うんだ。だからバンドを抜けて、彼のマネージメントに移籍してきてくれないかと。今よりもはるかに好待遇で迎えることができる、と彼は言うんだ。君の望むものは、可能な限りすべて与える、と。一流のコーチとスタッフをつけて……」
「わあ、やだ!! なんか寒気がする!」エアリィは即座に声を上げ、首を振っていた。「すごくそれ、変なイメージしか思い浮かばないんだけど。ファッショナブルで、トレンドど真ん中ってやつ?! バックダンサーいっぱいつけて踊るような?! やだ、やだ!! 絶対、やりたくない!」
「すごい嫌がり方だな」僕は思わず苦笑した。
「だって、やだよ。なんか、ああいう人たちって、まあ、偏見はないつもりだけど……でも、すごく華やかだけど、僕にはマリオネットにしか見えなくて……」
 エアリィは再び首を振り、社長氏を見て、言葉を継いでいた。「僕はマリオネットにはなりたくない。バンドの中の一人、One of Themで良いです。だからその人には断ってください。僕はバンドを離れたくないから、抜けませんって」
 そうだ。僕もつい驚いてしまって返事を忘れていたが、ちゃんと意思表示をしなくては。答えは明白だと。
「僕も、みんなと離れたくありません。先方がそれだけ評価していただけることはありがたいんですが、僕はこのバンドが好きです。だから、断っていただけませんか」
 見ると、はっきりとした安堵の表情が、みんなの顔には浮かんでいた。
「そうか。本当にそれでいいんだね」社長氏はそう問い返す。
「ええ」
 僕らが同時に頷くと、コールマン氏は大きなため息とともに言った。
「よかった」と。
「エアリィ! ジャスティン! おまえたちは絶対そう言ってくれると信じていたぞ」
 ロブはテーブル越しに身を乗りだし、両手を伸ばして僕らの手をそれぞれつかんだ。
「ああ、本当に良かったぜ! おまえら二人に抜けられたら、バンドがぺしゃんこに潰れてしまうところだった」
 ジョージは立ち上がって僕らの肩に手をかけた。嘆息するような口調だった。
「本当にね。よかったよ」ミックも深くため息を吐きながら、何度も頷き、
 ロビンは一言、だが万感の思いを込めたような声で言った。「本当に、ありがとう……二人とも」と。
「実を言えば、最初に話が来た時、私はどちらも君たちには知らせないで、断ってしまおうと思った。君たちには社運をかけているからね、我々は。どちらか一方でも大ダメージだが、両方抜けられでもしたら、実質上終わりだ。とんでもない、とね。だが普通に考えれば、これは君たちにとって大きなチャンスだろう。だからその決定権は、君たちにゆだねたいと思っていたんだ。君たちが断ってくれて、本当に助かった。これで私たちも、今進めている計画に本腰を入れられる」コールマン社長は再び僕らを見回した。
「君たちの決断を後悔させないためにも、我々の夢を実現させるためにも、エアレースをこのまま失速させてはならないんだ。それで、どうすればいいか。道は二つあると私は思う。まずは今からでもツアーに出て、プロモーションをすることだ。だが今すぐには無理だろうな。けが人が回復して、いきなりツアーというのは、少し無茶だ。準備期間が最低でも、あと二週間は必要だろう」
「すみません、ご迷惑をおかけして」ミックが再び静かに謝った。
「いや、何度も言うようだが、君たちのせいではないさ。運が悪かったんだ。仕方あるまい。そしてツアーに関して言えば、六月からのオファーが一つ、二つ入ってきている。だが、次のアルバムの期限があるから――レーベルの要望は、来年一月末までに、ということだった。だから、せいぜいツアーは八月末か九月頭までしか出来ない。それ以上引っ張ると、また次の製作が慌しくなるからね。しかし六月から二、三ヶ月プロモーションツアーに回っても、たいして成果は期待できないだろう。もともと一回失速したアルバムの勢いを回復するのは、これまでの経験から見て、難しいんだ。特に作品そのものが、君らの本質とは少しかみ合っていないという印象を受けるのでね。あのプロデューサーとのマッチングは、明らかに失敗だった。君らにどこにでもあるようなバンドには、なってもらいたくないのだ。シングルがヒットしたことだけは、救いだがね。私の言っているのは、第二弾の『Take into the Flame』の方だよ、もちろん。あれはセカンドの曲の中では難しい方だが、あの曲には非常に君たちらしさがある。複雑だがあまりそれを感じさせず、タイトでグルーヴィー、そしてハートのあるインストルメンタル、一見聞きやすくキャッチーだが少しひねりのあるメロディラインの、透明でエモーショナルなヴォーカル。そう、この融合が君たちの真骨頂だと思うからね。そこに単純なラヴソングや軽薄さなど似合わない。それに十代の感性や苦悩、戸惑いなどをリアルタイムで訴えられることが、君らの最大の強みでもあるのだ。それが、デビューアルバムが成功した一因でもあるし、今度のアルバムでも、光っているのはそういう曲だ」
 社長はたばこを取り出し、一服つけると話を続けた。「だが、あまりに安直だと思えるものも、数曲ある。ことに最初のシングルなどは最悪だと、私は思うよ。いや、まあ楽曲としては悪くないが、君たちではない方がはまりそうだ。あの曲にはまったく、君たちらしさがない」
「ええ。僕ら自身もそう思います。あの曲はセカンドアルバムの中でも、僕らが一番嫌いな曲です。そもそもあのアルバム自体、僕ら全員にとって、不本意な出来だとしか、言いようがありませんし」ミックの言葉に、僕らはみな頷く。
「そうだろうね。今度のアルバムはプロデューサーに押し切られて、半ば捨てるつもりで作ったという話は、私もロブから聞いているよ。そんな作品なら、それ以上プッシュしても仕方がない。もう一回ツアーしたところで、赤字を免れることも出来ないだろう。だから思い切って今作は本当に切り捨て、次の作品に集中した方がいい」
「ということは、新作のレコーディングですか?」
 僕がそう問い返すと、社長は首を振った。
「いや。すぐにそれは考えていない。次のハードルは、とてつもなく高いんだ。ノルマはプラチナディスク。ひと昔前ならともかく、このご時勢には容易なことではない。ロック系では、今では年に一、二枚出れば良いくらいのありさまなのに。そして先方が指定してきたリリース期限は、来年一月だ。幸いセカンドと違い、四ヶ月で作れ、などという無茶は言ってこないだけましだが、なにぶんにもノルマが高い。だが、今はその数字を、そう意識しなくとも良い。数字をあまり意識してしまうと、どうやったら売れるか、ということが意識に先行してしまう。それは経験上、あまり良い結果を生まないことはわかっているからね」
 コールマン社長はタバコをもみ消すと、コーヒーを一口飲み、言葉をついだ。
「でも、良いかい。数字は意識しなくて良いが、今回は絶対に、捨て作は作らないで欲しい。売れる作品じゃない。君たちにとって心から満足でき、自信が持てるような、良い作品を作って欲しいんだ。今年はこれ以上ツアーをしなければ、ゆっくり作る時間はある。八月くらいから初めて、じっくり作って欲しい。ただ、今回は我々としても、あまりプロデューサーに割ける金の余裕はない。前回のような有名プロデューサーには、もう頼めないだろう」
「あの人とは、もう死んでも組みたくないです」僕たちはいっせいに声を上げた。
「まあ、結果的には私もそう思う。あれは失敗だった。金の無駄だ」
 社長は苦笑した。そして再びコーヒーを飲み、一息おいて、言葉を続けた。「それで、次回作のプロデューサーは、アーノルド・ローレンスにやってもらうことにしたんだ」と。
「えっ?!」
 その名前を聞いて、僕は(おそらくエアリィ以外、全員がそうだろう)固まった。
「君たちも知っていると思うが、彼は――私は昔からの友達でもあるので、ローリーと呼んでいるが、スィフターの元ギタリストだ。あの事故での、バンド唯一の生き残りだ」
「ええ、知ってます、知ってます!」僕は夢中で頷く。
「ローリーはあの事故で半年ほど寝たきりになっていたが、やっと一昨年の暮れに退院して、今は普通の生活を送っている。それで去年の夏くらいから、プロデューサー稼業を始めたんだ。まだ三作くらいしか実績がないが、それもほとんどカナダローカルのバンドばかりだが、なかなか良い仕事をしている。ミュージシャンとしての才能も非常に卓越していたから、音楽を見る目も鋭いんだ。その彼が君たちのセカンドアルバムを聴いて、言っていた。気の毒に。このプロデューサーは明らかに、彼らの美点がわかっていない。僕ならもっと全然違う風に出来た、彼らの魅力をもっと輝かせられるように出来たのに、と。『では、次を君にお願いできるかい? たいしてギャラは払えないが』と聞いたら、彼はにっと笑って答えた。『ええ、僕でよければ喜んで』と」
「わぉ!」僕は思わずその場で飛び上がり、叫んでしまった。ミックとロビンも頬が紅潮し、目がきらきらしている。
「でも、八月から製作と言うと、その間のスケジュールはどうなるのですか?」
 ミックが我に返ったように、そう問いかけていた。
「我々は今、ある計画を進めているんだ」ロブが社長に代わって、話を引き取った。
「休息とは違う、充電期間だ。おまえたちはバンドを結成してからここまで、駆け足できた。AirLaceはデビューしてからまだ一年半ちょっとで、結成してからデビューまでだって、一年半だ。しかもフルラインナップになってからデビューまで、たかだか十ヶ月ちょっとだなんてね。本当に異例の速さだ。おまけにミックとジョージ以外の三人は、これが最初のバンドだ。おまえたちは見事にはまりすぎたために、ろくに考える余裕もないまま、プロに押し出されたわけだな。おまえたちは、まだまだ若い。若すぎるくらいだ。みんなこれから伸びていく、いわば発展途上なんだ。だから、我々は考えたんだ。ミュージシャンとしての自分を見つめなおし、発展させる時間が必要なのではないだろうかと」
「それはどういうこと、ロブ?」
「君らはロックミュージシャンとしては、ほとんど独学でここまで来たのだから、そろそろこのへんで誰か信頼のおけるプロの講師について、基礎から音楽を学び直したまえということさ」コールマン社長が後を引き取って続けた。
「でも、誤解してもらっては困るがね。君たちの音楽がなっちゃいないと言っているわけではないんだよ。逆だ。君たちの音楽には、とても光るものがある。ただ、まだそれが前面に出切っていない。ここで基礎知識や技術をしっかり身につければ、表現能力の向上に役立ち、君たちの音楽が持つきらめきを、より輝かせることが出来るだろうということなんだ。君たちは若い。まだまだ才能的にも伸びしろがあるからね。だからアルバム製作に入る前に、君たちには二ヶ月ほど、集中練習をしてもらうことにした。一人一人専門の講師をつけて、ただ練習だけに専念するんだ。スポーツ合宿のように。場所も用意した。私たちにとっても、大英断だよ。講師たちの招聘費用も大変なものになった。今度のアルバムのアドバンスをつぎ込んでも、とても足りなかったから、その分はうちで持ち出しなんだ。セカンドのプロデューサー料のように。失敗したら、うちは潰れるかもしれない。まさに背水の陣だ。でも私たちは、君たちに賭けてみようと思った。君たちの将来性を信じてね」
「ありがとうございます! 願ってもないことです!」ミックが熱心な口調で声を上げ、身を乗り出していた。「実は僕も、同じことを考えていたのです。今の僕らに一番必要なことは、それではないかって」
「そうか。では、他のみんなもこの提案を受け入れてくれるかな?」
 僕たちはお互いに顔を見合わせた。意外な展開だったが、これこそは望むところだ。アーティストとしての本質に帰る、自分自身を見つめ直す。はっきりと口に出さなかったけれど、それはここ一年ほど、ずっと僕も心の中で抱き続けていた願いだった。みなもきっとそうなのだろう。
「はい、喜んで!」僕たちはいっせいに頷いた。
「よし、じゃあ講師のスケジュールの都合で、練習開始は二週間と少し先になる。五月の二二日朝九時に、ここに集合しよう。それまでもう一度休んで、英気を養え。かなりハードな練習になるそうだから、覚悟して、病み上がりの三人は、とくにちゃんと今から体力作りをしておけよ」
 ロブの言葉を最後に、ミーティングは終わった。

 この思いがけない休暇も、あと二週間あまりで終わる。その間、何をしよう。毎日ギターを弾いていようか、それとも――不意にどこかへ行きたくなった。どこか落ち着ける場所へ。好きな所、憧れる場所は――海外ならロンドン。でも、あそこはツアーで行った。ギリシャは? エーゲ海もいい。でもあそこはどちらかといえば、一人で行くところじゃない。新婚旅行か何かの方が。そう思った時、僕の心のどこかが、ずきっと痛んだ。新婚旅行という言葉に、それまで意識していなかった、夢の残像を感じた。いつか、いつかステラと二人で行けたらいいと。もう決して実現しないだろう、現実の痛み。ギリシャはやめだ。スイスやフランス、地中海リゾートか、さもなければバハマなどのカリブ海も行ってみたい場所だけれど、同様の理由で、やっぱり気が進まなかった。それに海外へ行くには、あまり時間の余裕もない。そうだ、あそこがいい! プリンスエドワード島だ。
 次の日、シャーロットタウンまで飛行機で行き、そこからレンタカーを借りて、キャベンディッシュ・ビーチにある実家の別荘へと向かった。
「本当にお久しぶりです、ジャスティン坊ちゃま。ようこそいらっしゃいました。お一人でこちらに?」
 別荘の管理人をしている昔馴染みの老夫婦が、穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。
「うん。ちょっと来たくなって、一人で来たんだ。五、六日くらい、ここにいようと思って。でも、坊っちゃまは、やめて欲しいな。僕も来年には二十歳なんだから」
 彼らもホプキンスさんと同じで、こっちが抗議しても、なかなか慣習が抜けないらしい。相変わらずにこやかな調子で返してくる。
「まあ、もうそんなになりますか。本当に大きくなられたんですね、ジャスティン坊っちゃま。ごゆっくりなさってください。ここ数年間はローリングスのお家の方々が、ちっともお見えにならないんで、とても淋しく思っておりました」と。>
 赤い砂浜に下りると、目の前に海が広がっている。季節は春のため、子供時代の記憶にあるような抜けるような青い色ではなく、いくぶんミルク色がかかったような、穏やかな色をたたえて。白い飛沫をあげて寄せては返す波。髪を吹き抜けていく潮風。
 幼い日の光景が脳裏に甦ってくる。はじめて見た海、その青さにその広さに、目を丸くして見入っていた僕。兄はさっそく泳ぎはじめ、姉は砂浜で貝を拾い、妹は母に手をひかれて波と戯れていた。裸足に感じる砂の熱さ、波の冷たさ。
「ジャスティン、こっちへいらっしゃい」
 母が手招きし、僕は駆け出していく。風が吹いて、かぶっていた麦藁帽子が砂浜に飛んでいく。三つか四つくらいのころの記憶だ。
 僕が小学校を卒業するころまで、夏になるとここに来て、数週間を過ごしていた。いつも忙しかった父は数日しか一緒にいられなかったが、母や兄妹たちと、時には母方のまた従兄たちや父方の従兄姉たちも合流してきて(母は一人娘だったので、母方の従兄姉はいなかった)、ここで多くの楽しい夏を過ごした。時が流れ、子供だった僕たちもだんだんと大人の領域を持つようになって、家族ぐるみの避暑の習慣は、いつしか消えてしまった。ここに最後に来てから、もう何年になるだろう。
 今も、海は相変わらず穏やかな雄大さと親しみをこめて、僕を迎えてくれた。子供のころよくお伽話をしてくれ、泳ぎや貝堀を教えてくれたり、はっかドロップやクッキーをくれたりした気のいい管理人、トムとルースのエバートン夫婦も、ほとんど変わっていない。
 僕は浜辺に座り、海を見ていた。子供のように、きれいな貝を拾い集めたり、カニを追いかけて捕まえたり、砂の城も造った。潮が満ち、大きな波に洗われると、城はすぐに崩れていく。日の光にさらされて、乾いてしまった時も。
 太陽の光を浴びながら砂浜に寝ている時、波の音を聞きながら潮風と磯の匂いを感じる時、自然のリズムを身体に感じた。キャベンディッシュにいた間、僕はただ感じ、考え、思いを巡らせていた。
(前に進むしかないんだ。どんなことがあっても。たとえすべてが砂の城のようにはかなくとも、この自然の広大なリズムの中で踊らされるのが人間だとしても、僕たちはその中で進んで行くしかない。勇気を失わず。希望を持って)
 今は考えまい。壊れた愛も、失敗するかもしれないという恐れも、あと十年で世界が滅亡するという悪夢も。未来には限りがあるかもしれないけれど、その中にも多くの希望と夢があるに違いない。

 僕は燃え立つ気分、高揚感を感じていた。迷いが晴れ、自分の周りのすべてのものが、水晶のように透明に、はっきりと感じられた。少なくとも帰りの飛行機に乗っている間までは。でもトロントへ帰りついたとたん、僕はもう一つの現実に直面したのだった。
 空港に降り立ったのは夜の八時前、そこから駐車場に停めた自分の車でアパートメントに帰りついた時には、九時半を回っていた。地下駐車場の契約スペースに車を停め、荷物を持って自分の部屋に戻り、床にバッグを置くと、灯りをつけた。それからカーテンを開け、窓を開けて外を見た。無数の灯火、多くのビル。特に何も意図があったわけでなく、また家に帰ってきたんだなという思いを、確認したかっただけだ。いつもツアーから帰ってくると、そうしていた。今回は一週間足らずの短い旅だったが。
 僕は何気なく、視線を下に落とした。アパートの前に、白っぽい洋服を着た女性が一人で佇んでいる。じっと建物を見上げていた。街灯に照らされて見えたその顔は、見まごうはずもない、忘れようとしても忘れられない面影だ。僕の心臓は一瞬飛び上がった。
「ステラ!」
 僕は思わず下を覗き込んだ。その瞬間、女性は身を翻して、小走りにその場を立ち去った。僕は再び窓を閉め、玄関のドアを開けた。廊下を走り、エレベータホールへ。しかし、エレベータがなかなか来ない。僕は階段を駆け下りた。
 外へ出た時には、もう彼女の姿は消えていた。僕は通りを見回し、その女性が走っていった方角へ、しばらく歩いていってみた。でも、それらしい人は見当たらない。僕は頭を振りながら、部屋へと戻った。
 なぜステラが今頃、しかもこんな夜遅くに、僕のアパートの前にいたのだろう。見間違いや幻想でなければ、たしかにあの女性はステラだった。でも冷静に考えれば、そんなはずはない。ステラの門限は、午後九時。僕らがつきあっている間、ずっとそうだった。彼女はそれをただ一度として、破ったことがなかった。もっと一緒にいたいと願っても、夜九時にはパーレンバーク家の玄関に着いていなければならない。それが絶対の掟だった。別れてから半年たった今でも、きっと変わってはいないだろう。
 僕は頭を振って、思いを断ち切ろうと努めた。でも振り切ろうと思っても、落ち着きのない気分が支配し続け、何度も自問自答を繰り返す。あの女性は、本当にステラだったのだろうか。もしそうだとしたら、なぜ彼女が僕のところへ来たのだろうと。そのたびに甘い期待を抱いている自分に気づき、自らを叱りつける。この間抜け、お天気野郎! ジャスティン・ローリングスよ、なぜおまえは、そう自己中心的なんだ。どうして自分に都合の良い解釈をする。おまえの元に戻ってきてくれるかもしれないなどと、惨めったらしい期待をするんじゃない。仮に万が一よりが戻ったとしても、また同じことの繰り返しになることが、わかっているのに。再び彼女は淋しくなり、離れていってしまうだろう。今度は永久に。ああ、第一元に戻ることなんて、もうできはしない。ステラにはどこから見ても申し分のない、新しい恋人がいる。おまえがそんなに未練たらしくしているから、見間違えただけに決まっている。僕の部屋は七階だから少し距離がある上に、あたりは暗い。僕は自分が見たいものを、無意識に似た女性に投影してしまっただけだろう。あの人がステラのはずはないじゃないか。
 僕は深いため息をついて、ベッドに寝転んだ。せっかく振り切ったはずなのに、未練が逆戻りする。早く集中練習が始まればいいのに。仕事をしていれば、まだ気を紛らわすことが出来る。でも自由な時間は、退屈でもどかしいだけだ。
(休みいっぱいいれば良かったかな。キャベンディッシュに)そんな思いすら感じた。

 それから三日間は、ステラの姿を見なかった。あの夜ステラを見かけたのは、やっぱり僕の見間違いだったのだろう。そう思い始めた頃、再び偶然が訪れた。いや、それは偶然ではなく、陳腐な言い方だが、運命だったのかもしれない。
 キャベンディッシュから帰って四日目のお昼過ぎ、少し新しい服を買おうと、歩いて近所に買い物に出かけた時だった。アンティックショップの前に、彼女は一人で佇んでいた。今度は見間違いじゃない――通りの向こう側を歩いていた僕は、日の光の下で、はっきりそう認めた。ステラだ。でも髪をアップに結い、白い小花を散らした紺のワンピースを着て、白いレースのカーディガンを羽織った彼女は、僕の知っていたステラより、少し大人っぽく見えた。新しい恋人の影響だろうか。心が微かに波だった。
 ステラはショーウィンドウを眺めているようだった。僕は道路を渡り、彼女に近づいた。気づかれないように、後ろの方から。何を見ているのかも、気になった。ウィンドウの正面に飾られていたのは、アンティックドールだった。柔らかい栗色の巻き毛に緑色の瞳、濃いローズピンクのドレスを着たその人形に、僕も見覚えがあった。去年の十一月に、二人でこの通りを歩いている時、ステラはその人形に目を止め、一目で気に入ったのだった。僕は、『じゃ、今度のクリスマスにプレゼントするよ』と言った。でも僕らはそれから十日もたたないうちに別れ、その約束は果たされなかった。
 声をかけていいものだろうか、決心がつかなかった。ステラは深いため息をついていた。僕には気づいていないようだ。だが僕が躊躇している間に、彼女は振り返り、僕らは目が合った。ステラの顔に、驚いたような表情が上ってきた。頬がみるみる赤くなり、何か言いかけているように、唇が動いた。しかし声にはなっていない。僕は微笑もうとした。こんな時、なんと言ったらいいのだろう。
「久しぶりだね、ステラ」
 できるだけ感情を押さえた言い方が、非情に響きはしなかっただろうか。でも僕は動揺し、その心の乱れを、彼女に気づかせたくなかった。ステラは目を見開いたまま、じっと見つめている。今にも逃げ出してしまいそうな様子で、でも立ち去るのもためらわれる、そんなふうに感じられた。胸の鼓動が、息苦しいほど早くなる。千年もの時間が経ったように思えるほど長い沈黙の後、ステラは弱々しく微笑んで、小さく呟いた。
「こんにちは、ジャスティン……」
 半年ぶりの再会は穏やかだ。でも今の僕たちの間に、昔のような親密さは望めない。僕は彼女に話しかけようとした。昔のように。でも、何も言葉は出てこない。ステラも何か言おうとしているようだった。でも彼女も、言葉が思いつかないようだ。僕らはしばらく無言でウィンドウに目をやっていた。やがてステラが、小さな声で言いかけた。
「この人形……」そして言葉を途中で止め、首を振った。「ううん、なんでもない……」
「約束を果たせなかったね」僕はそれだけ言って、頷いた。
「覚えていてくれたの、ジャスティン?」
「ああ」
 それからまたひとしきり沈黙。やがて、ステラがもじもじと居心地悪そうに身動きした。
「ジャスティン、わたし……」
 そしてまた、あとの言葉を飲みこんでいるように沈黙する。
「ああ、引きとめちゃったかな。ごめん」
 僕は微かに笑って、踵をかえそうとした。そう、ここは紳士然と立ち去るべきだ。
「待って」ステラは小さな声を上げた。
「えっ?」
「ううん。ごめんなさい。何でもないの」
「そう。じゃあ、元気で……」
 僕は言葉を飲みこんだ。ステラの瞳から涙が溢れ、頬にこぼれそうになっている。彼女は慌てたようにその涙を手でぬぐうと、ひくっと小さくしゃくりあげた。
「どうしたんだい、ステラ」
「なんでも……ないわ。ごめんなさい。泣くつもりはなかったのに……」
「ステラ……」僕は言葉を捜した。なんと言っていいかわからない。彼女がなぜ泣いているのかも、わからない。ただ、このまま別れてはいけない。そんな思いだけは、はっきりと感じた。僕は二、三歩近づき、手を伸ばして彼女の腕に触れた。触ったとたん、ステラは小さくぴくっと震えた。僕は手を離した。
「ステラ」僕はもう一度呼びかけた。
「君がいやなら、無理にとは言わないけれど、少し話をしないか。僕は……」
 一瞬ためらったあと、思い切って正直に続けた。「ずっと、君に会いたかったよ」
 ステラは一瞬、驚いたような顔をした。微かな笑い顔になり、こくっと頷く。
「ええ、わたしもよ。とっても……」
「じゃあ、どこかでお茶でも飲もうよ。君さえ良かったら」
「ええ……」ステラは頷き、少しためらうように黙ったあと、続けた。
「でも、喫茶店ではなくて……」
「ああ、そうだね。喫茶店より、もう少し落ち着ける場所がいいかな。今は暖かいから、公園でもいいけれど……」
 でも、完全に外からの干渉を排除したいのだったら──また去年のように、邪魔が入っても困る。僕はちょっとためらってから、思い切って提案した。「僕の部屋へ来るかい? ものすごく散らかっているけれどね。もちろん紳士でいるって、約束するよ」
「ええ……」ステラの表情に、かすかな苦い微笑がよぎった。去年の、決裂した話し合いを思い出したのだろう。





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