The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(4)




 歩いてアパートに行き、大慌てでざっと片付けて座る場所を作るまで、ステラに玄関ホールで待っていてもらった。それからあの時と同じように、僕はステラを部屋に招きいれ、お互いに少し距離を置いてリビングのソファに座った。同じように、僕は紅茶を二つ運んできた。その金色の飾りがついた赤い両手カップに目を止めると、「あら」と、ステラは小さな声を上げた。
「カップを変えたの?」
「ああ、前のもけっこう気に入っていたんだけれど、一つ割れちゃったんだ」
 本当は割れたわけじゃない。ただ使う気になれなくて食器棚の奥にしまい込み、新しいのを買っただけだ。でもステラは、何も疑問には思わないようだった。
「そう。前のもお上品で良かったけれど、これもかわいいわ」
 彼女は両手でカップを持ち上げ、少しだけ口をつけた。
「紅茶をいれる腕は、あまり上がっていないだろう?」僕は肩をすくめてみせた。
「そうね。今度は少し渋いわ。お砂糖とクリームを入れたほうがよさそうね」
 ステラはかすかに笑うと、角砂糖を二つとクリームをたっぷり入れた。僕もカップを取り上げて一口飲んだ。ああ、たしかに少し渋い。今度はティーバッグを長く入れすぎたか。僕もクリームを入れ、お互いにしばらく無言で紅茶を飲んだ。
 やがてステラはふっと床に目を落とし、口を開いた。
「あら……絨毯を敷いたのね」
「ああ。フローリングのままじゃ殺風景だって、君も言っていたしね」
「そう……すてきになったわ。でも……少し派手かも」
 ステラは床に目を落としたまま言った。大きな花柄が浮き出たオレンジの絨毯は、男の一人暮らしには、たしかにちょっと面映いかもしれない。
「その意見に反対はしないよ」
「誰の好みなの? あなたの趣味でも、なさそうな気がするけれど」
「新しい彼女の、と言いたいところだけれど、そうじゃないよ。妹の趣味さ」
「ジョイスさんね。言われてみれば、そういう感じね」ステラはかすかに笑みを浮かべた。
 僕たちは再びひとしきり黙って、お茶を飲んだ。
「去年の暮れに、君を見かけたよ」僕は思い切って話を切り出した。「二三、四歳くらいの、ブルネットのハンサムな男性と一緒だったね。あの人が君の新しい彼氏なのかい?」
 ステラは驚いたように僕を見、カップを下に置いた。
「そう……見ていたの」呟くように言うと、かすかに頷く。
「ええ。あの人がそうなの。あの時あなたに言った、わたしに交際を申し込んできた人。アーマンド・トラヴァースという名前で、二四歳で、大学院で法律の勉強をしている人なの。今年試験を受けて、弁護士さんになるらしいわ」
「そう。弁護士さんの卵か。なんとなくわかるな。真面目そうな人だったから」
「でも、ジャスティン……わたしは、たしかにあの人と半年くらい付き合ったけれど、今はなんでもないの」
「えっ? 別れたっていうことかい?」
「ええ」
「どうしてだい? 彼も、やっぱり仕事が忙しかったのかい?」
「そういうわけではないわ。彼はたびたび、わたしをデートに誘ってくれたし。お休みの日には、よく車で家まで迎えにきてくれて、有名なレストランでお食事をしたり、クラシックのコンサートやお芝居に連れていったりしてもらって、門限までには、ちゃんと家まで送ってくれたの。彼は、とても礼儀正しい人だったの。それにお父様が大きな司法事務所を開いていらしていて、彼も弁護士の資格を取ったら、お父様の事務所に入ることが決まっていたから、パパやママも喜んでいたのよ。とても良い人だって。もともとは、彼のお父様とパパがお仕事の関係でお付き合いがあったから、アーマンドのことも知っていて、ゆくゆくはわたしと一緒にさせたいと思っていたようなの、お互いに。一人息子なのが残念だがって、パパが言っていた覚えがあるわ。でも、子供の一人を養子にもらえばいいからって、そんなことも言っていて。だから、わたしのお勉強を見てもらうということで、うちに来てもらったらしいの」
「そう。じゃあ、パーレンバーク夫妻の肝いりなんだね、彼は。本当に理想的な、花婿候補だったんだね」
「ええ。彼は良い人だったわ。わたしにも優しくて、紳士で、頭も良くて、趣味も似ていて、家柄も良くて、経済的にも安定している。本当に、わたしなんかにはもったいない人だったわ。でもね……」ステラは小さなため息を漏らした。
「わたしは寂しかったの。あなたのお仕事が忙しすぎて、長いこと会えなくて。だから、会いたいと思ったときに会える人がいい、そう思ったのよ。あなたに他の人を好きになれって言われた時に。それなら、アーマンドなら……きっとわたしが会いたいと思ったときに会ってくれる、って。でも、アーマンドはあなたじゃない。わたしはあなたに会いたいと思う半分も、彼に会いたいとは思えなかったの。いえ、わたしがあの人に会いたいと思ったことなんて、いったい一度でもあったのかしらと感じるほど。ドレスアップをして、お食事をしたり、コンサートやお芝居を見たり、そんなデートが、わたしにはあまり楽しく思えなかったわ。きれいに着飾るのも、クラシックや演劇も好きなはずなのに。あなたと一緒に映画を見に行ったり、お食事をしたりお茶を飲んだりしていた時には、本当に楽しかったのに。それに、あなたにはもっと話をしてと、わたしは言ったけれど、彼は話しすぎるのよ。それも、自分のことばかり延々と。ああ、わたしのおしゃべりを一方的に聞かされたあなたの気持ち、少しはわかったわ。そう思えてしまうほどだったわ」
「そうか。じゃあ、彼も君の理想ではなかったんだね」
「ええ」
「それで、別れたのかい?」
「ええ。決定的に別れたのは、四日前なの。ホテルでお食事のあと、アーマンドはわたしにプロポーズをしたの。指輪も用意して。結婚を申し込まれる瞬間というのは、どんなにうっとりするかしらと思っていたのだけれど、実際は、ただ困っただけだったわ。わたしはこの人を愛していない。この人と結婚なんてできない。そうはっきりわかったの。だから、申し込みを断ったのよ。彼はわたしが承知してくれるものと疑わなかったらしくて、本気で断られたとわかったら、怒って、一人で帰ってしまったわ」
「君を一人残してかい? ひどい奴だな」
「だって仕方がないわ。悪いのはわたしですもの。それで一人で帰ろうとしたのだけれど、なんだか家にも帰りたくなくて、反対方向の地下鉄に乗って、まるで引き寄せられるように、あなたのアパートメントの前に立っていたわ。どれがあなたのお部屋だかわからなかったけれど、七階のどこか……そう思って、建物を見上げて、しばらく立っていたら、部屋に灯りがついて、あなたが窓辺に出てきたわ。窓を開けてわたしの方を見たから、わたしは驚いて逃げたの。それで近くの電話ボックスに飛び込んで、隠れていたのよ。あなたが建物の入り口から出てきて、もう一度中に入っていくまで、ずっと」
「そう。そうだったのか……」僕は言葉を切り、そして問いかけた。
「それで、そのアーマンドという彼からは、それきり音沙汰がないのかい?」
「いいえ。次の日に電話がかかってきたわ。時期早急なら待つから、もう一度良く考えてくれないかって」
「それで?」
「わたし……ごめんなさい、としか言えなかったわ。本当につらくて。もうわたしのことは忘れてください。お願いしますって……」
「そう。でもステラ、それで本当によかったのかい?」
 本当は『それは良かった』と言いたいところだったが、口をついて出てきた言葉は、気持ちとは裏腹なものだった。ステラは僕をチラッと見上げ、頷いた。
「本当に、これでよかったのよ。だって、愛してもいない人との結婚なんて、出来ないもの。彼には、本当に悪いことをしてしまったと思うわ。一方的にだまされたようなものですもの。わたしは結局、そもそも彼を愛していなかったのよ。一度だって。あなたに別れを切り出されてしまったから……他の人を好きになれっていうのは、そういうことでしょう? わたし、本当にどうしていいかわからなくて……それならパパとママも望んでいたことだし、アーマンドとおつきあいをしてみようかしらって、自棄になったような気持ちで、彼との交際をはじめたのですもの。好きだったとか、そんな思いは、最初からなかったわ。いいえ、好きではあったけれど、好意でしかなかった。でも、おつきあいをするからには、アーマンドを愛そうとしたわ。アーマンドとあなたとでは、何もかも違うから、慣れていないだけかもしれない。そのうちに、あの人を愛することができるに違いない。わたしが努力すればと、そう思っていたの。でもね、わかったわ。結局、誰かを努力して愛そうなんて、できはしないのよ。本当に愛する人なら、努力なんてしなくても、好きでたまらなくなるわ。わたし、あの時には、それがわかっていなかったの」
 ステラは弱々しく首を振ると、片頬に手を当てて、寂しげな笑みを浮かべた。
「わたしは結局、何もわかっていなかったの。ただ、自分のことしか考えていなかった。あなたにわがままばかり言って、結局一番大事なものをなくしてしまったのかもしれない。そんな気が、ずうっとしていたわ。あれから、あなたと別れてから。わたしが会いたいから、わたしが話したいから、わたしが楽しく過ごしたいから。そう、わたしはわたしの気持ちばかりで、あなたのことを、口では理解しようとしたと言いながら、本当はまったく考えていなかった。そう気づいた時には、遅すぎたのよ」
「ステラ……」僕は戸惑いながら手を伸ばし、その指を握った。
「僕は君を失いたくないと思っている。去年あんなことを言って、僕はその瞬間から後悔したんだ。でも、君のために音楽を捨てることは、どうしてもできない。だから君が会いたいと思うときに、そばにいることもできないんだ。僕は、やっぱり引くべきなんだろうか、ステラ。いつかは、君の理想の人がきっと現れるだろうから……」
「わたしの理想の人?」
「そう。社会的に立派な職業についていて、資産家で、いつも君のそばにいてくれる人。それが君の理想なんじゃないのかい、ステラ」
「立派な職業についていて資産家の人というのは、パパやママの希望だわ。わたしはそれほど重要には思っていないの。それに、いつもわたしのそばにいて欲しいとか、わたしが会いたい時にはいつでも会える人とか、それは、わたしのわがままなんだって、わかったから。そうでしょう? たとえば夜中にわたしが不意に会いたくなったとしても、それですぐに来てもらうわけにはいかないわ。相手にだって生活があるのですもの。わたしも少し学んだし、現実的にもなったつもりよ」
「そうだね」
「わたし……わかったの。たしかにお金には不自由しない方がいいし、会いたい時には、できるだけ会える人が良い。でも、それはあくまで二番目、三番目の理想に過ぎないわ。一番大切なことは、その人のことを、わたしが心から愛せるかどうかということだと思うのよ」
「そうだね。君が愛せる人、そして出来れば二番目、三番目の希望も叶えてくれる人が、いればいいんだけれど」
「いるのかしら。そんな人が」ステラは小さくため息をつき、首を振った。
「君は今、愛している人っているのかい?」僕は思い切って聞いてみた。
「ええ」ステラは頬を紅に染めながら頷き、うつむいている。
 その言葉に、僕は小さな痛みを覚えた。
「そうか……その人が、君の二番目三番目の理想も、叶えてくれたらいいね」
 ステラは僕を一瞬見上げた後、すぐに視線を落とし、相変わらず頬を紅に染めながら首を振った。早口に、小さな声で言う。「いいえ……その人は華やかだけれど不安定なお仕事についていて、会えない時には、本当に何ヶ月も会えないし、パパやママにも交際を反対されてしまうけれど、でも、その人はそのお仕事が好きだから、転職する気はないの。でもわたしはやっぱり、その人が好き。ずっと好きだったの。初めて会った時から……でもその人は、今はきっとわたしのことを好きではない……かもしれない。わたしが、わがままばかり言ってしまったから。だから一回、別れてしまった。でも、その人が今わたしを好きでなくても、わたしはやっぱり……愛する気持ちが止められないの」
「その人って……」僕は驚きのあまり、言葉が出なかった。それは――僕のことか? まさか彼女は今も、僕を愛してくれているのか? こんな僕を――? 僕は両手を伸ばし、彼女の小さな手を包み込んだ。
「ありがとう、ステラ……僕も君が、忘れられなかった。ずっと。でも君はもう新しい彼氏と幸せにしているのだと思って、あきらめなければならないって思っていたんだ。君の気持ちを知った今も……僕はまだ、迷っているんだ。もう一度付き合おうって言う権利が、僕にあるかどうか。僕は君の言った通り、今の仕事をやめる気はないから。休みの日には、出来るだけ君に会いたい。僕の世界だけでなく、君の世界にも出来るだけ興味を持ちたい。それだけしか、僕は変われない。だから、自信がないんだ。やっぱり君は僕がミュージシャンを辞めない限り、戻ってきてはくれないかい?」
 ステラはしばらく黙ったあと、静かに言った。
「職業とか、会いたい時にはそばにいて欲しいとか、それは、二番目三番目だって、さっきも言ったわ。一番大事なのは、その人を愛していること、それだけよ」
「……僕は、自惚れてもいいのかな」
「自惚れじゃないわ。本当のことよ」
「じゃあ、もう一度付き合ってくれるかい?」
「ええ、よろこんで……」頷いたステラの頬の色が、赤さを増していった。その瞳から、涙がひとしずく、糸を引いてこぼれ落ちた。
「よかった……わたし、あの夜、電話ボックスの中から、あなたの姿を見て……泣いてしまったの。わたしはなにを……していたのかしらって。わがままばかり言って……あなたを失ってしまった。わたしは……なんてバカだったのかしら。そう思ったら、涙が止まらなかったわ。でも……やり直せるなんて、夢のようよ。そんな夢を……何度も見たの。でも……これは、夢じゃないのよね、ジャスティン。わたし、もうわがままは言わないわ……寂しくても……我慢できるわ。あなたのお仕事を……理解できるように、するわ。絶対に……」途切れ途切れに言う彼女の肩は、小さく震えていた。
「ステラ、ありがとう。僕も君への思いやりが足りなかった。ごめんよ。でも、本当に嬉しいよ。君を取り戻すことが出来て」
 僕は衝動にかられ、彼女を強く抱きしめた。身体の震えとぬくもりが伝わってくる。その暖かさが、いとおしかった。失くしたものを取り戻すことが出来た。去年の暮れから今まで、僕は自分の一部分、大事な何かが欠けてしまった、そんな空虚感を心のどこかで持ち続けていた。それを今、取り戻すことが出来た。
 暖かい喜びの波が身体を駆け抜け、急激に心を満たして行くのを感じた。そして世界が再び鮮やかな色を帯びてきたことを。もう彼女を失いたくない、二度と。その思いの中、僕はステラにキスをした。

 翌日、あのアンティックドールをステラに贈った。果たせなかった去年のクリスマスプレゼントのかわりに。それから集中練習が始まるまでの五日間、毎日会った。でも、五日間というのが、いかにも短い。せっかく長いお休みがあったのだから、もう少し早く仲直りしたかったと切に思ったが、現実は無情だ。
 瞬く間に日々は過ぎていき、明日は再び仕事という日の夕方、僕たちはアパートメントの近所にあるレストランで、一緒に食事をしていた。小さな店だけれど、緑とベージュで統一された内装と観葉植物の緑が心地よく、料理も凝ってはいないが、上品でおいしい。最近お気に入りのレストランだ。
「また当分、会えなくなるのね……」
 ステラは食後のコーヒーを飲みながら、小さなため息とともにつぶやいた。
「そうだね。これから二ヵ月は集中練習があるし、そのあとは次のアルバムの作業があるから。たぶん十一月くらいまでは、二ヶ月に一週間くらい戻ってこられたら、いい方だと思うよ」
「本当に忙しいのね。なんだか、まるで船乗りさんを恋人にしたようだわ。でもわたし、もう覚悟を決めて待つことにしたの。寂しいは禁句にするわ。今は携帯電話もあるし」
 ステラは今年に入って、やっと携帯電話を買ってもらったらしい。発信は自宅のみの制限がかかっているらしいが、着信は拒否設定をしない限り、どこからでも可能だ。仲直りしたその日にステラは『わたし、強い味方を手に入れたのよ』と、二つ折りの白い携帯電話を見せてくれ、番号を教えてくれたのだった。
「そうだね。毎日電話するよ。着信拒否にしないでいてくれたら」
「するわけないでしょう! パパやママには、絶対触らせないから。パパやママも機械のことには詳しくないから、家政婦のトレリック夫人に頼んでやってもらっているのだけれど。家の電話もそうなのよ。わたしも機械操作は苦手だから、変えられたら戻せないわ。夫人はやってくれないと思うし。パパやママの命令は絶対なのよ。だからずっと持っていて、決して置きっぱなしにはしないようにしているの。充電している間は傍を離れないし、眠る時もパジャマのポケットに入れているし、シャワーの時もビニール袋に入れて、持ち込んでいるの」
「そうなんだ。大変だね。でも、ありがとう」
「わたしにとっても、必要ですもの。去年みたいに、何ヶ月も声を聞くことが出来ないって、本当に寂しいのよ。だからよけいにこらえきれなくなって、やっと会えた時に、わたしが一方的にしゃべってしまったり、あなたにわがままを言ったりしてしまったのだと思うわ。だから、離れていても、時々声を聞けるのが嬉しいの」
「僕もそうだよ。仕事の合間に君の声が聞けると思うと、疲れが吹き飛びそうな気がする」
「ありがとう」ステラは頬を染めて笑った。
「お仕事が一段落して、お部屋で一人になってわたしを思い出したら、電話をしてね、ジャスティン。電源はずっと切らないでおくから。一日のお仕事が終わるのは、何時ごろになるの。十一時くらい?」
「いや、十二時すぎるだろうね。一時二時もざらだし。ミュージシャンの生活って、夜が遅いんだよ」
「夜中の方が、むしろ都合がいいわ。パパやママにいろいろ言われなくてすむもの」
「君のご両親には、まだ僕とつき合っていることは内緒なのかい?」
「いいえ、昨日はっきり言ってしまったわ。わたし、もう一度ジャスティンとつきあい始めた。やっぱりわたしは、他の人を愛することはできないって。もう秘密にしておきたくなかったの。悪いことをしているわけでは、ないのですもの」
「ええ! それじゃ、さぞかし大変だったろうね!」
「ええ。二人とも、ものすごく怒ったわ。アーマンドのプロポーズを断ったと言った時にもかなり怒られたけれど、それ以上に。『トラヴァース君と交際してくれた時には、本当に嬉しかったのに、そのトラヴァース君を捨てて、よりによって、またあの男と付き合うだと?! そんなことは許さん!! 絶対許さんぞ!!』って、パパは卒倒しそうな勢いで、顔を真っ赤にして怒鳴っていたわ。『なぜあなたは、そんなになってしまったの? あなたをそんな風に育てた覚えはないわ!』って、ママは泣き出したし。おなじみの台詞ね。そんな風に育てた覚えはないって。二人とも、わたしの幸せを考えてくれているのでしょうけれど、ちょっと違うのよ。本当に、パパやママが、あれほどわからずやだとは思わなかったわ」彼女は少し眉をひそめてみせた。
「それからも、大変なの。あれからパパはわたしとろくに口をきかないし、ママはヒステリーを起こして寝込んでしまったくらい。わたしの携帯電話も、もう少しで取り上げられるところだったのよ。だから用心して、ずっと手放さないようにしているくらいなの。今日だってね、わたしが出かけるしたくをしていたら、玄関ホールのところで、パパは座り込みをはじめたのよ。パパはわたしを行かせないようにしているのね。だから、台所の裏口から、こっそり出てきてしまったの。誰もいない時を見計らって。それで少し遅れてしまって、ごめんなさいね」
「そんなことはないよ。そこまでして出てきてくれて、嬉しいな。でも君が裏口から出たことがわかったら、もっと見張りを強化されてしまうかな」
「そうね。でも、外へ出られるチャンスはあるわ。学校がお休みの日は難しいけれど」
「僕も助っ人に行こうか。よけい嫌われるかな?」
 僕は微笑がこみ上げてくるのを押さえきれなかった。「じゃあ、出ようか。もう八時半だ。送るよ。でも内緒で出てきたんじゃ、きっと怒られるだろうね」
「そうでしょうね。でも、大丈夫よ。それに……ねえ、もし家を追い出されたら、あなたのところへ行ってもいい? そうしたら、もう少しあなたと一緒に居られるわ」
「え?」
「あ……だって、わたし、もしそうなったら……他に行くところはないんですもの。モリーも、こんなに夜いきなりだと、迷惑だと思うし……」ステラは耳まで赤くなっていた。
「それに……たぶん大丈夫よ。パパやママは怒っても、わたしを追い出さないと思うわ」
「ステラ……」僕は衝動に駆られ、思わず手を伸ばして、彼女の手首を握った。
「ご両親に追い出されなくても……僕も君と一緒に、もっと過ごしたいよ。明日から二ヶ月も君に会えないんだからね。これから……僕の部屋に来ないか。家には帰らないで。今夜は一緒に過ごしたいんだ」
 ステラは驚いたように僕を見た。顔の紅潮は首まで広がり、一瞬小さく震えた。そしてしばらく沈黙したあと、消え入りそうな声で、微かに頷く。「ええ……」
 僕たちはその晩、初めて一緒に過ごした。彼女にとって、初めての外泊。その貴重な記憶を、無粋な言葉に置き換えるのは耐えられない。ただ、これだけは書いておきたい。次の日の朝、恋人に見送られて集中練習に出発した僕は、世界中で一番幸福な男だったと。

 集中練習が始まった。マネージメント会社のオフィスに再び集まり、トロントから北へ百マイルほど離れた合宿所へと、マイクロバスで向かっていく。緑の野原の中に農家が点在するこの地域は、一番近い人家までさえ二、三百メートルは離れている。その建物は野原を前景に、うっそうとした混合樹の林を背景に建っていた。
 その建物は、二年前までは簡易宿泊型ゲストハウスだったらしい。今は、スポーツなどの合宿用貸し別荘となっているようだ。特別練習と、その次のプリプロダクション作業のために、マネージメントはここを今から九月一杯まで四ヶ月半ほど、借りきってくれたという。一階には大きなホールがあり、その他に小さめの部屋が三つと、DVDデッキやテレビ、本などが置いてあるラウンジ、食堂、台所、バスルームと洗面所がある。二階にも洗面所とバスルーム、シャワールームがあり、廊下を挟んで個室が四つずつ並んでいる。そして、広い地下室と庭にある二五メートルプール。それがすべての施設だ。
 ここには、もう専門の職員はいないらしいが、利用前にクリーニングを依頼すれば、すぐに使えるようになっているらしい。建物の中はすでにきれいになっていて、プールも水が新しく張り直されているようだ。僕たちは一階のホールに機材をセットし、レンタルしたアスレチック関係の機材は、地下室に運び込んだ。滞在中の食事の支度や洗濯などの雑用は、ロブのお母さんが引き受けてくれていた。ロブと、奥さんで僕らのロードマネージャーでもあるレオナは、時々連絡のためにマネージメントのオフィスに帰り、あとは現地で訓練を見守ることになっているらしい。

 講師たちは、その日の夜にやってきた。みな、それぞれの分野で名前を知らない人はいないという顔ぶれだ。彼らがこんな不便なところに二ヶ月も、僕らのためにつきっきりでいてくれるなんて、信じられないほどだ。ことに僕は自分の講師に引き合わされた時、驚きのあまりのけぞりそうになった。この二ヵ月間僕を指導してくれるのは、長い間ずっと憧れていた人。スィフター唯一の生存メンバーで、ギタリストの、アーノルド・ローレンスさんだったのだから。彼が次回作のプロデューサーを引き受けてくれたことは知っていたが、僕の専属コーチまで引き受けてくれていたとは。
 スィフター自体、終わりになった時点で、すでに二十年以上のキャリアを持つベテランバンドだったから、彼ももう四十代半ば過ぎのはずだが、現役時代からかなり若く見える人だった。僕がコンサートで最後に見た時から、もう三年以上たっているが、あの頃とほとんど見た目は変わっていない。長身で均整の取れた身体も、肩にかかったストロベリー・ブロンドの髪も。でも薄緑色チェックの半袖シャツから出た腕と、前髪の間から見え隠れする額に走る白い線(やけど治療の植皮跡らしい)、それに歩く時に微かに引きずる左足が、三年前に彼らのバンド生命を断ち切った、その事実を伝えている。彼は事故の際、複数個所の骨折と体表十五パーセントに及ぶ火傷を負い、植皮と一年近いリハビリで、ここまで回復したのだという。少し青みがかった灰色の瞳も、写真やDVDで見る限り、もっと明るい表情だったようだ。でも、その笑みは穏やかだった。
「ジャスティン・ローリングス君だね。はじめまして、よろしく」
 その声は暖かく、低く柔らかな響きだった。「僕はプロデューサーとしても、引き続き君たちに関わっていく予定だけれど、君のコーチもやってくれないかと、レイモンドに頼まれたんだ。僕もそんなに理論をみっちりやったわけではないから、たいして君に教えられることはないかもしれないが、先輩として、出来るだけのことはやってみようと思うよ」
「はい。ありがとうございます。僕はずっとあなたのファンだったので、凄く光栄です。あなたの期待にそえるかどうかわかりませんが、できるだけがんばります。どうかよろしくお願いします」
 僕は緊張して少し声がうわずるのを意識しながら、その手をおずおずと取った。
 ローレンスさんは少し照れたような笑みを作り、僕の手を握った。
「そう言ってくれると、うれしいね。僕も、君たちには期待しているよ。君は天性の才能に恵まれている。それを完全に開花させる手伝いが、少しでも僕に出来たらいいと思うよ」
 僕自身、ある程度はギターがうまく弾けるという自負はある。でもずっと憧れていた人からそんなことを言われると、うれしいと同時に、むずむずしてきそうな、妙な気分だ。

 その夜、夕食をとりながら全員の顔合わせをし、そのあと簡単な能力検査があった。翌日からはそれぞれに割り当てられた部屋で、本格的な特別練習が始まった。みなで朝食を済ませた後、僕の練習部屋となった小さな個室で、改めて自分の講師と向かい合った時、僕は再び緊張に襲われた。思わず一ファンに戻って、『サインをください!』と言いたい衝動に駆られたほどだ。でも今、僕は彼の後輩であり生徒でもある、曲がりなりにもプロだ。不思議な気分だった。
 その部屋は小さなテーブルと、二客の背もたれのついた木の椅子が置いてあるだけだった。そこにギターとアンプを持ち込み、椅子に腰かける。ローレンスさんは僕がギターのチューニングをしている間、黙って見守っていた。終わるとそのギターを手に取り、弾いてみている。
「ああ。マシンや音叉を使わなくても、チューニングはきれいにあっている。やはり君も絶対音感の持ち主だね」彼は軽快に弦を弾きつづけ、言葉を継いだ。
「僕もね、まだギターは弾き続けているんだよ。手が駄目にならなかったことを、心から感謝しているんだ。もうバンドを組むことも、現役のギタリストとして誰かとセッションすることも、ないだろうけれどね。でも、僕は死ぬまでギターを弾き続けていくだろう。もう僕の一部なんだから、どうしてもやめられないんだよ」
 ローレンスさんはギターを僕に返しながら、穏やかな口調で尋ねた。
「君もギターが好きかい?」と。
「はい。大好きです」自信をもって言える返事だった。
「じゃあ、大丈夫だ。その愛情があれば、道はおのずと開けてくる。君は今十九才だっけ? まだ十代なんだね。本当に若いんだな。ギターを弾き初めて、どのくらいになるんだい?」
「十二才の誕生日からですから、七年とちょっとです」
「最初からエレクトリック? それともクラシックかフォークから始めたのかい?」
「最初はクラシックギターです。学校の演奏会でギターをやることになって、ケントのクラシックギターを買ってもらったんです。弾いているうちに面白くなって、親に頼んで、スクールで二年習いました。週一回、二時間くらいですが。エレクトリックギターを買ったのは、十四歳の時です」
「どのギターを使っていたんだい?」
「フェンダーのストラトキャスター、レッドです」
「ほう、いきなりストラトか。たいしたものだ」
「楽器店に行って、いろいろ弾いてみたんですが、これが一番しっくり来るかな、と思って。少し高かったですが、貯金をはたいて買いました」
「そのギターは、今でも使っているのかい?」
「いいえ、なくしてしまいました」
 このギターは未来に――二四世紀の博物館にあるはずだ。
「ああ、そうか……君たちの機材は最初のツアーで盗難にあったと、レイモンドが言っていたな。災難だったね」ローレンスさんは思い出したように、微かに首を振った。
「ええ。でも、仕方ないですから」
「その後は?」
「同じストラトの白を買いました」
「そうか。このギターだね。君はストラトが好きなんだね。僕も一時期フェンダーは使っていた。今でも持っているよ」
「スィフターの四枚目から六枚目のアルバムが、フェンダーですよね」
「良く知っているね、ありがとう」ローレンスさんは穏やかに笑う。
「それで、他のギターは試してみたかい?」
「ええ。まだそんなには持っていないんですが、今は四本あります。フェンダーが二本と、PRS、それにギブソンのレスポール。メインはこの、白のフェンダーストラトなんですが。今のところ他の三本は、ライヴの予備以外あまり使うことはないんですが、少しずつ音色が違うんで、今度のアルバムからは試してみたいと思います」
「そうか。でもストラト、PRS、レスポール……聞き覚えのあるラインナップだね」
「貴方が使っていたギターです。ローレンスさん」
 彼は再び照れたような笑みを浮かべた。そして微かに肩をすくめ、再び言った。「ありがとう」と。「まあ、ともかく、それでは今、ギター暦は七年。エレクトリックは五年か。それでもう、それだけ弾けるんだね。たいしたもんだ。僕も始めたのは十二歳の時だった。クラシックからスタートしたのも同じだ。僕はもう、三四年くらい前になるけれどね。君の手をちょっと見せてごらん」
 彼は僕の手を取り、引っ繰り返したりしながら、じっと見ていた。
「ふうん。もう多少ギタリストの手になっているね。それに指が細いし、手も大きい。ギターを弾くには有利だよ。僕はあまり指が長くなくてね。ほら、君の手より一回り小さい」
 ローレンスさんは僕の手に自分の手を重ねた。たしかに少し小さい。でも手のひらから伝わってくる感触は、かなり堅かった。しかるべき位置にできたタコが、堅く感じさせている。それは僕が生まれるはるか前から、毎日ギターを弾き続けてきた人の手だった。
「煙草を付けていいかい?」
 彼はそう聞いてから一本取り出して火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
「ところで君は、煙草は吸わない?」
「ええ。一応今年の誕生日から、吸っていい年にはなったんですが、吸いたいとは思わなかったので」
「そう。それはどうしてだい?」
「一つには、バンドに喫煙者がいないこともあるんでしょうね。ロビンは子供のころ喘息があって、そのせいか煙草の煙をまともに吸うと、少しだけ息が詰まる感じがすると言います。ミックも同じだし、ジョージもロブも吸わないから。エアリィも煙草の煙があまり好きではないようだし、僕も……まあ、嫌いじゃないんですが、あまり慣れていないんで。僕は実家が病院だから、その影響もあったのかも知れません。よく父が言っていたんです。煙草は麻薬と同じだ。百害あって一利なしだ、そんなものに手を出すなって」
「医者はよくそう言うよ。僕も主治医の先生には、いつも叱られていた。でも僕はヘビースモーカーで、どうしてもやめられないんだ。病院で一番つらかったのは、それだね。だから少し自分で移動できるようになったら、喫煙コーナーへ行って吸っていた。この機会に禁煙できたら、よかったんだけれどね。それじゃ……君たちの目の前では、できるだけ控えた方がいいかな」
「あっ、僕は全然かまわないです。すみません。失礼なことを言うつもりは……」
「気にしなくていいよ、ありがとう。たしかにその通りだからね」
 ローレンスさんは微かに笑うと、また聞いてきた。
「ところで、君は自分のバンドが好きかい?」と。
「ええ、大好きです」これも自信を持って言える答えだ。
「音楽的にも、人間的にも、両方の意味で、本心からそう言えるかな?」
「はい」
「そうだね。あのスティールローザからのオファーを断ったほどだ。君のバンドへの愛着は本物なんだね。とても幸運なことだよ。どんなに優れたプレイヤーだって、一人で音楽はできない。仲間が集まり、複数の個人がブレンドして、一つの音楽を生み出すんだ。バンドっていうのは、おもしろい共同体だよ。A+BがCにもなる。君が自分の属している共同体をしんから愛しているなら、君の音楽キャリアにとって、これ以上の味方はないよ。ずっとそれが維持できたら、最高だね。かつては信頼しあっていたバンドの仲間たちが、内部から崩壊していくのを見るほど、悲しいことはない。そういう例も、幾度も見てきた。みなが自分の基盤を見失うから、そうなってしまうんだ。君のバンドへの愛情が、これからもずっと続いていくことを願うよ」
 そして、長く煙を吐き出しながら、ローレンスさんはこう付け加えた。
「外側からの不幸によって引き裂かれることのないようにも、祈っているよ」と。
 彼のバンドは、文字どおり外からの不幸によって、崩壊してしまった――ローレンスさんの静かな口調は、かえって鋭い悲しみを感じさせ、ずきりとした痛みを覚えた。僕は言葉を探したが、励ましも同情も言えそうにない。
「僕も本当にそう思います……」ただそう言っただけだ。でもアーノルドさんは、微笑して頷いてくれた。軽く僕の手を叩きながら、話を続けている。
「君たちのバンドは、典型的なリードセクション先導型だね。二人ともまだ十代のコンビで、非常に若いだけに、将来は本当に未知数だ。レイモンドやロブが言っているように、君らはまだまだ発展途上なんだよ。アーディス・レイン君も君も、図抜けた才能の持ち主だ。だから目の鋭い音楽関係者も、見逃さなかったのだろうが……でも君たちの決断は正しい。たしかにアーディス君はソロでも十分成功できるだろうし、君もビッグネームのバンドに入っても、負けてはいないだろう。でも君たちは別々にやるより、今のバンドで一緒にやっていくほうが、はるかに輝けるよ。君たち二人のステージ・コンビネーションは、見ていて思わずぞくぞくと嬉しくなるほどだ。僕らはああいう美しさとは、あまり縁がなかっただけにね」
「そ、そんなもんですか……?」僕は思わず照れ笑いしながら、頭をかいた。
「でもエアリィはともかく、僕はあんまり自分の容姿が美しいなんて、思ったことはないんですが……」
「いやいや、彼とは比較出来ないが……あの子はデビュー当時から『世界で最も美しい少年』と言われていたくらいだからね、巷で。でも君だって、立派にハンサムだよ。それに、背も高いしスタイルもいい。そう謙遜しなくてもいいよ。それにあの子がブロンドで君がブルネットというのは、コントラストとしても理想的だしね。彼が光と風の精霊なら、君はさしずめ、大地と森の精といったところだね。君たちは本当に、絵になるフロントコンビだよ」
 僕が大地と森の精だって? そんなことを言われたのは、初めてだ。まあ、エアリィはたしかにそのニックネームの由来が“風の妖精”なのだし、淡いブロンドは光そのものだ。だから光と風の精霊というのはイメージとして当たっていると思うが、僕はいったいなぜ大地と森の精なんだろう? 茶色の髪が大地で、緑の目が植物だろうか? ステージではよく緑系の服を着ているからか。でも赤やクリーム色もよく着るが――。
 ローレンスさんは僕の表情を見てか、少し笑いながら話を続けている。
「ただね、サウンド的にもヴィジュアル的にも、君たち二人が主導し、突出している感があるから、他の三人が目立たないという点は否めないけどね。でも、バンドにはいろいろな型があるものさ。リズム主導型もあれば、リード主導型もある。エアレースというバンドには、今の型が一番あっていると思う。だからといって、あとの三人が劣るというわけでは、決してないからね。ストレイツ君もスタンフォード兄弟も、良いミュージシャンだ。派手ではないが安定感はあるし、君たちを支えていけるだけの音楽的資質を、十分備えている。リズム隊のグルーヴはとても安定していて、気持ちがいい。ストレイツ君の音楽センスも群を抜いている。バンド全員がそれだけの資質を持っているのは、意外と貴重な例なんだよ。だからリードする君たち二人がこのことをしっかり自覚し、彼らを軽視することがなければ、バンドは最高に幸福な共同体として、長らえていくことができるだろう」
「そうですか。そうできたら嬉しいです、本当に。僕はこのバンドが好きだし、みんなと一緒にがんばって成功したいんです。そうできたらですけれど」
「君は純真な子だね。それが君の良さでもあるんだ。それを失くさないようにね。さあ、これから練習だ。リズムセクションは安定感とタイトさをより重視し、キーボードはよりセンスをアップし、ヴォーカルとギターはより強力に。これが今回の重点事項なのさ」
「はあ……そうなんですか」
「生返事をしている場合ではないよ。君にはこれからキツーイ練習が待ってるんだからね。看板に磨きをかけるって言うのは、なかなか難しいことなんだよ」
 ローレンスさんは笑いを含んで言うと、灰皿にぎゅっとたばこの火を押しつけた。

 それが集中練習の始まりだった。部屋数がないので、練習時間はおろか部屋まで講師と一緒だけれど、部屋には文字通り寝に帰るだけだ。ラウンジにもほとんど用はなかった。来る日も来る日も、三度の食事以外、ずっと練習漬けだ。朝の七時に起床し、七時半から朝食、八時半から練習開始。十二時から一時間の昼食休憩を挟んで、午後の練習は六時半まで。そこでまた一時間ほどの夕食休憩があって、その後十時半までまた練習。シャワーを浴び、十一時過ぎに部屋に引き取ると、もうあとは寝るしか気力が残っていない。
 僕のメニューは毎朝二時間のジョギングと水泳から始まり、午後にまた二時間程、握力アップの為のハンド・グリップや指立て伏せ、ストレッチや整体などの運動プログラムが入る。残りの時間は、すべてギターの練習だった。
 最初はテンポを決めたスケール練習やコードカッティングが朝から晩まで延々と続き、二週間半ほどで完璧、とのお墨付きをもらった後は、課題演奏だ。ランダムにいろんな課題がでてきて、それについて感じるままにギターで表現する。課題は“犬”、“猫”、“電車”などの具体的なものから、少し抽象的になって“花”、“星”、“風”、“空”、“水”のたぐいになり、さらにはもっと抽象的に“希望”、“夢”、“愛”、“失望”、“悲しみ”というようなものになっていく。それをテーマにして、三分ほどの即興演奏をする。課題演奏が十日ほどで終わったあとは、一発コピー中心の練習になった。いろいろなタイプの曲の一部分を一回だけ聞き、ギターパートをコピーしていく。前に聞いたことのない曲だと、本当に文字どおり一発コピーだ。必死で覚えようとするとかえってわからなくなるので、ただ聞いて頭の中に映し取り、弾いてみるだけだ。コピーが終わると、今度は僕ならどう処理するかという課題になる。考える時間は一〜二分しか与えられなくて、ほとんど即興に近い。
 運動は一日トータル四時間で、十キロのジョギングや一キロの水泳はたしかに厳しいが、体力的な消耗は、それほど激しくはなかったと思う。でも一日中ずっとギターを弾いているので、弾きなれているはずの指も、四、五日ほどたつ頃には、水ぶくれができてきた。つぶれることはなかったが、それが再び硬い皮膚になるまでの一週間ほどは、ギターを弾くのが多少苦行に感じられた。ベース弦のように太くないだけ、まだましだが。それに最初のスケール練習は比較的単調なので、集中力を途切れさせないようにするのが、結構大変だ。しかし、それはずっと見ているローレンスさんの方が、もっと大変だっただろう。
 それぞれのパートに専属講師がつき、独自のスケジュールで進めているので、ほかのメンバーたちが、どういう練習をしているのかは、わからない。まともに顔を合わせるのは、食事の時くらいだ。リズムセクションという性格上、半分は合同練習だというロビンとジョージ以外、最初の一ヶ月あまりは、メンバーがそれぞれ一種の隔離状態にあったようなものだった。だから、みんなそれぞれに、体力や気力いっぱいの大変な練習をこなしていたのだろうということしか言えない。食堂で会う時、彼らはいつも張りつめた、もしくは疲れ切った表情をしていて、ほとんどお互いに話す気力もなかったから。




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