The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

二年目(1)




 慌ただしいだけの年が終わろうとしている。クリスマスでさえ、退屈に思われた。もう呼ぶべき誰かはいないという、空虚さのせいだろうか。
 去年の暮れからスタートしたロードも、単調な苦行にしか感じられない。バスに揺られて町から町へと移動し、ホテルの部屋で一人朝食をとり(このころにはもう、高級ではないが、普通のホテルの一人部屋に泊まれるようになっていた)、会場へ移動して、ヘッドライナーに遠慮しながらセッティングやサウンドチェックをし、ステージをこなす。しかも新アルバムのツアーなので、そこからの曲を七、八割は入れるようにというレーベルの要望で、あの不本意な曲たちを演奏しなければならない。楽屋で時々インタビュアーたちの質問に答え(みなが皆、こちらに好意的なわけではなく、僕は基本的に人見知りなので、かなりのストレスだ)、カメラの前で恥ずかしげもなく、ポーズを取る。僕はこんな生活にあこがれていたわけじゃない。これが夢見ていたミュージシャンの現実なら、両親の期待を裏切り、ステラとの愛を犠牲にする価値なんて、何もありはしない。
 音楽が喜びにならない。それなら僕をここまで導いてきたものは、安寧で平和な道からあえてはずれさせた情熱とは、いったいなんだったのだろう。僕は混乱し、落ちこんだ。ロードがクリスマス休暇でいったん中断し、実家へ帰ってからも、なかなか気力はもどらない。家族のお喋りを聞いているのもわずらわしく感じ、自室にこもることが多くなった。

 新年が明けて二日目のその夜も、僕は夕食がすむと、すぐ自室に引き揚げた。ベッドに寝転んでお気に入りのCDをかけ、その音楽に耳を傾ける。ああ、やっぱり彼らの世界に入っていくべきではなかったのだろうか。リスナーのまま、単なる趣味として音楽を続けていった方が、純粋な楽しみを失わずにすんだのではなかっただろうか。一時の情熱で突っ走った僕は、やはり母や兄が言ったように、甘かったのだろうか――。
 僕はベッドの上に起きあがった。いまさら迷うなんて、どうかしている。なんだか頭が少しぼうっとしているようだ。コーヒーでも飲もう。
 部屋を出て、台所へ降りていった。夜のこの時間帯には、欲しい時にいつでも飲めるようにと、ホプキンスさんがキッチンカウンターの上に、熱いコーヒーをサーバーにかけて置いてくれている。でも、あまり家族と顔を合わせたくはなかった。ホール正面の螺旋階段からでなく、ホプキンスさんがいつも使っている、台所の脇に通じる狭い階段を使って下り、様子をうかがった。母と兄、妹、ホプキンスさんがリビングにいるようだ。でもキッチンは暗く、スクリーンで仕切られてもいるので、気づかれてはいないようだった。
 そっとカウンターに進み、カップに手を伸ばしかけた時、母の言葉が聞こえてきた。
「いったいどうしてしまったのかしらね、ジャスティンは。あの子があんなに元気がないなんて、初めてだわ」
 僕は伸ばしかけた手を止め、その場に屈んだまま、思わず耳を傾けた。
「あたし、少しは原因を知っているわよ」ジョイスの声が言っている。
「ステラさんと別れてしまったのでしょう? それは知っているわ」
 母が小さなため息の音とともに言うのが聞こえた。「まあ、あちらのご両親には反対されていたし、ステラさんもお嬢さんだから、今の状態ではあまり続かないかもと、心配はしていたのよ」
「ヴォン・パーレンバークのお嬢さんも、お上品でかわいらしいお方のようですが、苦労知らずなせいか、少々わがままなようにもお見受けしますね」
 そう言っている声は、ホプキンスさんだ。
「あたしはあの人、嫌いよ。だからお兄ちゃんと別れてくれて、良かったと思っているわ」
 ジョイスの声は、まるで宣言しているかのように響いた。
「そういうことは、言うものではありませんよ、ジョイ」母がもの柔らかにたしなめている。「やはりジャスティンにも、悪いところはあったのでしょうから。忙しすぎて身体を壊すのではないかと思うほど、去年は大変だったようだし」
「そもそも坊ちゃんが、あんなお仕事につかれたのがいけないのですよ。ロックミュージシャンなどに」ホプキンスさんは、彼女独特のきっぱりとした口調で声を上げていた。
「わたしは返す返すも、残念でなりません。坊ちゃんが家を出られる前の晩、なぜわたしはお休みなどをいただいてしまって、その場にいなかったのだろうと。わたしの身に替えても、なんとしても思いとどまらせたでしょうに。……しかし、もう決まってしまったものは、いたし方ありませんね。ああ、それに、もちろん坊ちゃんに限って、堕落はされないでしょうけれど。奥様とわたしが大切にお育て申し上げたのですから。でも、業界が業界ですからね。多少はおかしくなっても無理はありませんよ」
「あの時のあの子を止めることなど、あなたでもできなかったでしょうよ、マーサ。わたしもこうなってしまった以上、あの子のために、うまく行ってくれることを願っていたのですけれどね」母はため息をついているようだった。
「でも今のところ、仕事の上で何かトラブルがあるというような話は聞いたことがないな」ジョセフが少し考えるような口調で言っている。「ただ、年末に出た新しいアルバムがちょっと期待はずれだ、という声は聞く。シンプルになりすぎた、安易になった、そんな批判を聞いたことがある。僕も聴いてみたが、そうだな……たしかにデビュー盤にあった良さが、半減したような感じだ。わかっていたとしたら、彼にも不本意だったのだろう。それを気に病んでいるんだろうか。私生活でもガールフレンドと別れてしまったことで、結構こたえているのかもしれないな」
「兄さんもエセルさんと別れた時には、しばらく変だったものね。落ち込んではいなかったけれど、妙に無理してはしゃいで、痛々しかったわ」
「もう昔のことだぞ。古傷には触れるな、ジョイス」兄は苦笑しているようだ。
「でも僕はその時、仕事を励みにがんばれた。ちょうど大きなプロジェクトを抱えていて。ジャスティンもたぶん仕事が本当に面白く順調なら、あれほど落ち込まないはずなんだ」
「あいつは結局、辛抱が足らんのだ」
 父の声がした。ホールの螺旋階段を降りてきたらしい足音とともに。いつも父の指定席になっている安楽椅子に腰をおろしたような音のあと、再び声が聞こえてきた。
「あれほど偉そうなことを言って、うちを飛び出していきおったのに、少々思うようにならんぐらいで、あのざまだ。あいつは今まで、思い通りに生きてこられた。挫折を知らん人間は、いざつまずくと弱いものだからな」
「ですが、旦那様、坊ちゃんがあの業界に嫌気がさしはじめたとしたら、良いことではないですか? この夏か来年にでも、大学を再受験なされては」
「いや、それはだめだ。私はあいつが家を飛び出した時に、もう望みは捨てた。今さら、あいつを医者にしようなどとは思わん。あいつは医師にならない、天職じゃないとはっきり言った。そういう意識で医者になど、なってもらいたくない。それに、一度志した道を簡単に投げ出すような奴など、仮に医者になれても、碌なものにはならん」
「そうだなあ。彼は医者に向いていると、僕は思っていたけれど。ジャスティンは真面目だから、もし医師になったとしたら、それなりに熱意を持ってやったとは思う。でも救えるはずの患者が死んでしまったとか、手術が失敗したとか、そういうトラブルに見まわれたら、すぐに落ち込みそうな気はするな。まあ、僕も人のことを偉そうには言えないが」
「それなりでは困るんだ。それでは、とてもこの病院を任せられん」
 父は咳払いを一つして、切り捨てた。「それに、ジョセフ。おまえは、自分の選んだ道で立派にやっておるし、おまえが選んだ道は堅実だ。ジャスティンのような浮ついた、不安定な仕事じゃない。まあ、しかし考えてみれば、おまえとて今までとんとん拍子に出世して、仕事が面白い、いわば挫折知らずだからな。もし仕事で思うようにならないことが起きてきたら、おまえも落ち込むかもしれないぞ。苦労知らずな点では、おまえたちは似たようなものだからな」
「うん、父さん。それはそうかもしれない。僕は今のところ幸いにも、順調にやっているからね。共同開発のメンバーにいらだったり、上司とちょっと言い合いになったりしたことはあるけれど、大きく躓いたことはないんだ。でもジャスティンだって――そう、父さんから見ると不愉快な話題かもしれないけれど、彼のバンドは、今のご時世にしては相当成功していると思うんだ。ポップでもラップでもなく、ボーイズバンドでもないのに、アメリカでゴールドディスクを獲得した。まあ、新作はどうなるかわからないけれど、カナダだけでなく、アメリカでも初週アルバムチャートでトップが取れたんだ」
「だが芸能界なんて、一枚や二枚ヒットを出したところで、すぐに飽きられて忘れられるのが関の山だ。得られた金も、いずれ底をつくだろう。それに、おまえがさっき言っていたのが聞こえたぞ。二枚目は批判も多い、良さが半減したように思う、と。そんなパターンは、昔腐るほどあった。それでどうなるか……おまえもわかるだろう、ジョセフ」
「ああ」兄は短く言い、少し沈黙した後、言葉を継いでいた。
「ジャスティン自身も、それはわかっているのかもしれない。僕はそう思うよ。それに、彼は慣れない世界にいきなり飛び込んで、去年一年ずっと忙しかった。それが彼女と別れてしまった原因なんだと思う。距離と……そして、心理状態とでね。それで余計に、精神的に堪えてしまっているんじゃないかな」
「お兄ちゃん、かわいそう」ジョイスがそう声を上げる。
「何がかわいそうなものか。あの業界ではそんなこと珍しくもないことくらい、百も承知していなければならなかったはずだ。芽が出なくてくすぶるより、むしろ生半可に成功する方が怖いんだ。たとえ成功が続いたとしても、自分の意思が通らぬことや、思うようにならないことなぞ、それこそたくさんあるということを、あいつはまったく考えずに、ただ甘い夢と情熱だけで、飛び込んでいってしまった。そう……あいつはたしかに、才能はあるのだろう。だが現実を知らなすぎる。だから、ちょっと思うようにいかなくなっただけで、落ち込むんだ。だが、こんなことで落ち込むようでは、弱すぎる。それだから女友達も、愛想をつかしたのだろう。自業自得だ。あいつはそれほど甘ちゃんだったのかと、我が息子ながら情けない」
「まあ……ジャスティンは、今まで順調すぎたから……今初めて試練にあって、つらいのでしょうね」母がため息をつくと、父がぴしゃりと切り返す。
「こんなものが試練のうちに入るか」と。

 僕はそっと階段にとってかえした。足音を忍ばせて二階へ。自分の部屋へ戻ると、気恥ずかしさに圧倒された。たしかに父さんの言うとおりだ。僕はベッドに腰をかけ、両方の膝をこぶしでドンと叩いた。
「だらしがないぞ、ジャスティン・クロード・ローリングス! こんなことで!」
 自分を鼓舞するように、声に出してそう言った。ギターを取り出し、アンプにつなぐと、ヘッドフォンもつけずに弾いた。浮かんでくるフレーズをめちゃくちゃに、手当たり次第弾きまくる。
「しっかりしろ!」再び声を上げ、ギターをベッドの上にぽんと置くと、僕は立ち上がった。本棚の上に伏せてあったステラの写真を、手にとって眺めてみる。白い小花模様の半袖ブラウス、紺色のサスペンダーつきスカート、肩にたらした金髪に白い花のついた青いカチューシャを付け、微笑んでいるステラ。これは、僕らが付き合い始めて四か月くらいたった、秋に撮ったものだ。それを僕は自宅の写真立てに飾って、眺めていた。まだ十六になったばかりで、少女の面影の残るステラ。あの時、僕たちは愛し合っていた。僕らの前に未来は永遠に広がり、その中で僕らはずっと一緒だと信じていた。夢見ていた。あれから二年と半年。でも今の僕らは──。
 去年の年末に、母から買い物を頼まれてマーケットに出かけた時、ステラを見かけた。交差点で信号待ちをしている僕の前を、彼女は横切っていった。間違いなくステラだった。いつも借りていた兄の車でなく、買ったばかりの自分の車だったので、僕に気づかなかったのだろう。別れた時と同じコートをはおり、金髪を肩にたらし、青い帽子をかぶって歩いていた。
 彼女の隣に、見知らぬ男性がいた。短い茶色の髪をぴったりとなでつけ、黒いコートを品よく着こなした、端正な顔立ちの青年は二十代の初めくらいで、ステラに向かって何かを熱心に話していた。ステラは相手の顔を見上げ、微笑んで頷いていた。男性は手を伸ばし、彼女の手を握った。ステラは少し恥ずかしそうに、うつむいていた。
 二人をずっと見ていたので信号が変わったのに気づかず、後ろからクラクションを鳴らされた。僕は車を発進させながら、深くため息をついた。ああ、彼女がその気になれば、新しい恋人はすぐ手が届くのだと、あの時言ったことは嘘ではなかった。僕は敗北を悟らざるをえなかった。僕らの恋は、本当に終わってしまったのだと。
 僕は頭を振り、机の引き出しを開け、その奥深くへとステラの写真をしまいこんだ。アパートメントの部屋に飾ってあったステラの写真(これとは別のものだが)も、同じように伏せて、引き出しの中にしまいこんである。携帯の待ち受けも、ヨーロッパツアーに行った時に撮った風景写真に変えていた。携帯電話の中の彼女の写真を消してしまう気にはなれなかったが、SDカードに移して、サムネイルからは目に触れないようにしてあった。プリントした写真もひとまとめにして、タンスの引き出しの奥へ入れた。これもしまっておこう。目にすることがない場所へ。
「ともかく、前に進むしかないんだ」
 引き出しを閉めながら、自分に言い聞かせるように、僕は我知らず声に出して言っていた。彼女を失ってしまったことは、僕のせいだ。でももう、どんなに悔やんでも遅すぎる。今さら彼女にもう一度やり直してくれなどと、言えるわけがない。『誰かほかの人を好きになれ』と言ったことを撤回し、ステラに跪いて詫びたとしても、もうすでに新しい愛を見つけてしまった彼女を困惑させるだけだろう。これ以上、ステラを苦しめてはいけない。僕にできることは、彼女の幸せを願うことだけだ。そしてできるかどうかはわからないけれど、僕にも新しい愛がきっと待っていると信じることだ。その時には、もう二度と同じ過ちはしないと、かたく決心しよう。

 ツアーが再開した。相変わらず単調な日々だ。ステラに去られた打撃を回復させてくれるような喜びを、今の音楽は与えてくれない。僕の気持ちはプレイに反映し、みんなにも伝染していくようで、バンド自体の活気も少しずつ失われていくのが、僕にも感じられた。なんとかしなくては。そう思っても、まるで足場の不確かな泥の中を進むような気分で、一向に気力は回復しない。みんなも僕の気持ちは理解してくれているだけに、逆に言いづらいのだろう。そんな夜が十日ほど続いた。が、その次の夜、ステージが終わって楽屋に引き上げてきたとたん、エアリィが僕に向き直って、強い口調で言った。「ジャスティン! ホント、もういい加減にして!」と。
「おまえの気持ちもわかるけど、だから言わないでいたんだし。けど、もう限界! 弾きたくないのはわかるけど、僕もそうだけど、あんな音出されたら、ホント完璧にやる気なくなる! おまえ、去年自分で言ったじゃないか。プロになったからには、多少気分的にのらなくっても最上を提供する義務があるってさ。そんなこと言っといて、今これって、矛盾しまくりじゃないか!」
 今まではたしかに遠慮してくれていたのかもしれないが、いざ口を開くと容赦がない。でも、僕もカっとなりはしなかった。自分でも、そのとおりだと思っていたから。
「だけどおまえ、その時反論しただろう。音楽は感情の反映だって。気分に正直になるのは仕方がないって、言ったじゃないか」僕はかろうじて、そう言い返した。
 ひとしきり沈黙。お互いに真っ向から相手を見ていた。やがてエアリィはふっとため息をついて頭を振った。
「なんかさ、落ち込んでんのわかるけど、上がるの遅すぎ。もう一か月以上たってんのに、まだ引きずってるなんて……ひょっとして、ジャスティン、人生初挫折?」
「……かも知れないな。でも、おまえだって、もし大事な誰かをなくして、おまけに仕事が不本意だったら、多少は落ち込まないか? まあ、おまえって、失恋したことはないだろうけれど」
「失恋はないなあ、僕の場合。恋に落ちたことって、ないから。けど、大事な誰かをなくしたってことなら、あるよ、何人か。ま、それはともかく、その年まで挫折なしにきてるってことが、相当恵まれてるってか、逆にやばいと思うんだ。おまえの今の不幸って、プロデューサーさんに嫌がらせされて、思いっきり不本意な作品作らされて、それをプロモートさせられて、って、でもこれは僕らみんな、同じだよね。二作目は捨てるって決めた時に、ある程度は覚悟したことじゃないのか? これから一年くらいは我慢の連続になるだろうって。まあ、おまえの場合彼女さんと別れたっていうのもあるんだろうけど、でも彼女は生きてるんだし、これが最初で最後の恋でもないだろうし、未来はそれこそ何があるかわからないから、また恋人に戻れる可能性だってゼロじゃないだろうし、もっと素敵な彼女ができるかもしれないんだし……それなのに世界で一番自分は不幸だ、ってな音をいつまでも出されるのは、すごくヤダ、っていうか、僕には理解できない。もういい加減、吹っ切ってくれない?」
「たしかにな。それにしても……おまえ、父さんと同じことを言っているな、エアリィ」僕は思わず苦笑した。「正月休みに、父さんがそんなことを言っていたんだ。この業界に入った時に、成功したとしても、思うようにならないことはいくらでも起きてくることくらい、覚悟して入るべきだった。僕は甘い。それでステラに去られても、自業自得だ。でもこんなのは、試練でも何でもないって……僕も、たしかにそうだって思った。それで、がんばろうとは思ったんだけれど……やっぱりあまり変わってないか、去年と?」
「うーん、たしかに去年より、少しはマシになってるかもしれないけど。失恋のダメージ? そっちのほうは。去年なんか、けっこう未練感じたもん。『なんで行っちゃったんだよ〜』みたいな。まあ、今年は多少吹っ切れてる。でも、だめなんだ、おおもとが。セカンドの曲の、おざなりに作った奴が特にやばい。『僕は、やる気がないよ〜』っていう波動が、目いっぱい出ちゃってる」
「そこまで読み取られてたら、僕はなにも言うことはないよ。おまえって、エスパーじゃないのか、エアリィ」
「ンなこと、エスパーじゃなくたって、おまえの音聞いてたらわかるって。でもさ、やなんだ、そういうネガティヴな音、そばで出されんの。僕もさ、覚悟はしてたけど、思ったより苦行だなって思ってるとこに、そんな音がかぶってくると、ほんとやめてくれ〜って言いたくなっちゃうんだ。一回覚悟決めたはずなのに、いつまで後悔してんだって、イライラするし。一回出したアルバムを作り直すことはできないんだから、我慢してやるしか……あっ、でも、もしかして……」彼は何か思いついたように言葉を止め、ぽんと両手を打ち合わせた。「そうだ。ひょっとしたら、これっていいかもしれない。ジャスティンの落ち込み病も、少しは治るかも」
「いったい何なんだよ、エアリィ?」
「気がついたんだけどさ、今はライヴなんだ。それなら、なにもスタジオヴァージョンどおりにプレイしなくたって、いいんじゃない? ちょっとくらい捻り入れたって。それにまあ、全部元に戻すってのは無理かもしれないけど。もう別物だから、プロモーションにならないし。でも少しだけなら、オルタネートヴァージョンとして、元のやってもいいかも、って思うんだ。タイトルトラックとか」
「ああ!」僕は思わず膝を叩いた。「そうだよ! 本当だ。なぜ気がつかなかったんだろう。ライヴではできるだけスタジオ盤どおりにって、そう思い込みすぎていた。CDヴァージョンが不本意なら、そこにこだわる必要はないんだな。少しくらいなら、新作の曲だって、変化させても良いんだ。プロデューサーの縛りにとらわれずに。それに元の曲だって、やったらいけないわけじゃない!」
「タイトルトラックは、もう完全に別物だけれどね。他にも結構、似ても似つかないものが多いし」ミックは思案顔で首を傾げている。「僕も心情的には大賛成なんだけれどね。でも、観客が違和感を抱かないかな」
「観客はまあ、違和感抱くかもね。CD聞いてくれた人なら。だから元ヴァージョンはせいぜい、一回のショウで一つしか、セトリにもぐりこませられないだろうけど。演奏する前に、これはオルタネートヴァージョンだからCDとは違うって、断らないといけないし。けど、やる価値はあると思う」エアリィはそう主張する。僕も大賛成だ。
「やってみよう! それと、あの曲だけは僕も我慢できないんだ。あれをやらないでくれたら、あとのセカンドの曲も、がんばって演奏するよ」
「あれね。ジャスティンは、きっと嫌いだと思った。僕もあれ、さすがにやりすぎだなって思うから、落としてくれたらありがたいな。なんか自分たちの曲歌ってる気が、全然しなくて。セットの中でも、浮きまくりだし」
 それは、セカンドアルバムからの最初のシングル。本当にファミレスの料理のような、個性のないハードポップだ。シンプルなビート、コードをなぞっただけのバッキング、ひねりのない構成、繰り返す歌詞、しかも内容たるや、『人生は一度きりなんだから、楽しく過ごそう!』と、軽くを通り越して、軽薄レベルだ。『やけになって思い切り軽くしすぎた』と、エアリィがぼやいていたように。結果的にはヒットしたが、ほぼ全員が嫌いな曲だ。バンドのカラーにも、まったく合わないと思えた。
「俺もあれは好きじゃないが、シングルヒットだからな。客は期待しているだろうな。でも、まあ、いいぜ。あれは俺たちの曲じゃない、と開き直るさ」ジョージは腕を組みながら、にやっと笑った。
「そうだね。やっぱり僕ら自身が納得できることの方が、大切だからね」
 ミックも最後には頷き、ロビンも熱心な口調で同意した。「僕もその方がいいと思うよ、絶対に」と。

 翌日から、セットリストにセカンドアルバムのオルタネートヴァージョン(プロデューサーの要望によって破壊される前の、元の姿)の曲が、一公演について一曲ずつ、披露されるようになった。あまりにもスタジオヴァージョンと違うので、もともとアルバムを聞いてくれていた観客たちは、やはり最初のうち戸惑いを隠せなかったようだし、最新のヒット曲を演奏しないというのも、不満に感じる人もいたようだ。でも、ステージに対する喜びと情熱を取り戻すこと、今はその方が大事だった。それに、僕らが身を入れて演奏できるようになったことで、観客たちへのアピールも強くなって行くらしい。最初心配していたような、強い否定的な反応はなかった。
 公演を見た観客たちが『オルタネートヴァージョンは、どこで手に入るのか。こっちの方が断然良い』と手紙やメールを書いてくることも多く、それは僕らにとって大きな力になった。次のステージではどのオルタネートを披露しようかと楽しみになり、退屈なセカンドアルバムの曲も、もっとも苦痛だった曲を外したことで、それほど苦行には感じなくなった。少し歌い回しや歌詞を変えたり、イントロやソロを長くしたり、少しひねりを入れたり、というアレンジを施したことも、助けになった。そうして一週間が過ぎる頃には、ステージがもはや苦痛でも退屈でもなくなった。興奮と喜びがよみがえってくるのを感じた。

 でも、災難というのは、いつ起こるかわからない。なんとか本来のプレイを取り戻すことができ、ツアーが楽しくなり始めてから一ヵ月あまりが過ぎ、全米ツアー日程が残りあと一ヵ月になった二月の終わりに、ロサンゼルスで、僕らは思わぬアクシデントに見舞われてしまったのだ。
 その晩、出番を終えて軽い夕食を取った後、エアリィと僕は取材が入っていたので、そのまま楽屋に残り、他の三人はロブの奥さんでロードマネージャーでもあるレオナとともに、先に車でホテルへ帰っていった。それから一時間あまりが過ぎ、取材を終えてホテルに帰ろうとした頃、エージェントの人が楽屋の入り口にきて呼んだ。
「ロバート・ビュフォードさん。警察から電話が入ってます」
「わかりました。どうも……」取材に付き添っていたロブは怪訝そうな顔をしながら部屋から出ていき、残った僕たちも顔を見合わせた。
「警察? なんで、そんなとこから電話?」
「わからないなあ。なんかまずいこと、してないよな」
「してないよ! たぶん。けどさ、じゃないなら……なんかあったとか?」
 エアリィは不安げな表情になり、一瞬ぶるっと震えた。「前にも、そんなことがあったんだ。やだな。事故とかじゃ、ないだろうなあ……」
「縁起でもないことを言うなよ!」僕は苦笑したが、同時にざわっと心が騒いだ。
 そこへロブが戻ってきた。真っ青な顔で、大慌てに慌てた様子で、手にはくしゃくしゃにした紙を握ったままだ。彼がもたらした情報は、まさに僕らが恐れていたものだった。
「エアリィ、ジャスティン、大変だぞ! みんなの車が事故だ!」
「ええ!!」僕はそう声を上げたきり、言葉を失った。心配と衝撃で体中の血が引き、一瞬激しい耳鳴りとともに、世界が凍りついたような気がした。ロブは話し続けている。どうやら先行した四人を乗せた車がホテルへ向かう途中、信号無視して突っ込んできた軽トラックと、衝突事故を起こしたらしいと。
「全員けがをして、病院に運ばれたらしい。運転手もだ」
「「どこの病院に運ばれたの? 僕らも行かなきゃ!」」僕らは同時に叫んだ。
「セント・ローレンス病院だ。これから行こう」ロブが手にした紙を見ながら促した。
「僕にも詳しいケガの状態はわからないんだ。病院に行けば、聞かせてもらえるだろう。みんなの無事を祈ろう。事情がはっきりしたら社長やプロモーターや、それから家族にも連絡を取って、これからのことを決めなければならないな」

 僕らが病院へ着いた時には、手当てはすべて終わり、精密検査をやっている最中だった。夜半になって、当直の医師が結果を説明してくれた。幸いみんな命に別状はなく、ジョージは左足のすねと肋骨の一本にひびが入り、ミックは頭部の裂傷と左側の鎖骨骨折。二人とも全治一ヶ月ほど。ロビンは右腕上腕部の骨折と、肋骨も一本折れている。彼は一番重傷で、全治七週間。ジョージとミックは十日ほどで退院して帰れるが、ロビンは少なくとも二週間半の入院が必要らしい。でも三人とも、単純骨折やひびだけで神経損傷はなく、きちんと治療をすれば、後遺症の心配はないという。同行していたレオナは幸いにも、肩の打撲だけで一番軽傷だった。運転手は軽いむち打ち症らしい。その結果を聞いて、言いようもない安堵を覚えた。
 アメリカツアーの残り日程は、元々僕らはアリーナクラスのバンドのサポートなので、途中降板という形になった。ヘッドライナーのバンドは『本当に残念だなあ』と言ってくれたが、彼らサイドもプロモーターも『事故ならどうしようもない』と、認めてくれた。保険に入っていたので違約金もなく、僕らの代わりもすぐに決まったようだ。春に控えた単独での日本公演とヨーロッパツアーも中止になった。ロブはビジネス上の事後処理をしなければならず、LAに長くは留まれない。入れ替わりに、去年の九月に結婚したばかりのミックの奥さんが看病のため現地入り、ジョージの奥さんには小さな子供がいるためか、スタンフォード夫人が二人の息子の面倒を見るためにやってきた。エアリィと僕は三日ほどお見舞いや打ち合わせのためにLAに残り、それから怪我の経過観察を終えたレオナと一緒に、トロントへと帰った。

 事故から十日あまりがたって、ジョージとミックが退院し、トロントに帰ってきた。二人ともギブスが取れるまで、自宅で静養だ。二人とも、それぞれ実家から家政婦さんと看護師さんがサポートとして派遣されてきたらしいので、家族ともども治療に専念ができるだろう。でも、ロビンはまだ退院許可が下りず、ロサンゼルスにいる。明日は、ちょうどロビンと僕の誕生日だ。母親ももうこっちに戻ってきているし、ひとりぼっちの誕生日では、めいってしまうに違いない。お見舞いに行って、一緒にお祝いしてやろう。そう思い立ち、翌日、僕は再びLAへ一人で飛んだ。空港からタクシーを使っていったんホテルへ行き、チェックインを済ませ、荷物を置いてから病院に行った。
 病室へ入ってみると、ロビンは眠っているようだった。ベッドテーブルには小さなノートパソコンが置いてあり、いくつかの本が積んである。やはりこの中に一人でいると、退屈なのだろう。僕はベッドの傍にある椅子に腰をおろし、ロビンが目を覚ますまで待っていようと、持ってきたペーパーバックスを読もうとした。でも、いくらも読まないうちに、僕は気づいた。少し様子がおかしい。普段いびきなどかかないロビンなのに。僕は本をしまい、改めて見た。なんだか顔色もおかしい。少し土気色を帯びているような気がする。
 屑籠のそばに薬袋が落ちているのが目に留まった。病院の薬局で処方している薬だろうが、捨てようとしてこぼれたのだろうか? 僕は拾い上げ、袋に書かれている字を読んだ。
【睡眠薬。就寝前、一錠服用】
 まさか――急いで屑篭の中を調べた。同じ錠剤を出したあとのからが、二十錠分捨ててある。ワンシート十錠を切り離さずに一つずつ飲んでいき、最後が終わったところで捨てた。一シートだけなら、それもあり得る。でも、二シートあるのは変だ。ロビンに付き添っていたスタンフォード夫人は、三日前に帰ったばかりだ。当然その時、屑篭の中味だって、処理していったに違いない。この薬のからは、三日分にしては多すぎる。ということは、もしかしたら――僕はナースコールを押した。
「大変だ!」自分でも無我夢中で叫んでいた。「早く来てください!」

「病院内で自殺を企てるなんて、なんということでしょう。いまどきの睡眠薬はそれほど毒性が強くないので、よほど運が悪くなければ、大丈夫だったでしょう。でも、発見が早いに越したことはありませんからね」
 手当てがすべて終わった後、医師がどことなくほっとしたような顔で告げた。
「夕方には意識が戻るでしょう。たぶん後遺症もないと思いますよ。目が覚めたら患者を興奮させないよう、出来るだけ穏やかに接してあげてください。患者は最初から強い不眠を訴えていたので、睡眠剤を処方していたのですが、それを飲まないで、ためこんで隠したらしいですね。飲んだ、とは言っていましたが、確認はしなかったので。まさか、そんなことをするとは思いませんでしたから。どうやら昼の回診後に、三週間分の薬をいっぺんに飲んだようです。しかしねえ、自殺未遂とは。本当にロックミュージシャンなのかと思うほど、おとなしい患者さんでしたが、こんなことをするとは予想外でした。たまたまあなたが来あわせて、異変に早く気づいてくれて、よかったですよ」
 医師は首を振り振り、病室から出ていった。
 僕は病室の椅子に腰をかけて、手を握り合わせた。ロビンはほとんど身じろぎもせずに眠っている。呼吸は安定し、顔色もいくぶん青ざめていたが、むくんでいるようではない。本当に大丈夫なのだろう。はっきりそう感じると、深い安堵のため息が漏れた。
 なぜ、こんなことをしたんだろう。ロビンのことなら、良くわかっているつもりだった。たしかに内気で心配性ではあるが芯は強く、決してこんな形で逃げるような奴ではないと思っていた。バンドは今、たしかに曲がり角にいる。でも、重大な危機に直面しているというほどではないし、まだまだ希望はある。故郷から遠く離れた病院で一人ぼっちという環境が、不安と孤独をあおったのだろうか? 未来への恐怖をも、強く感じてしまったのだろうか。




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