The Sacred Mother Part2 - the 11 Years’ Sprint

一年目(3)




 セカンドアルバムはクリスマス明けにリリース予定で、先行して十二月半ばからツアーが組まれている。今度もアリーナクラスの大物ミュージシャンのサポートだ。
 出発を明後日に控えた午後、僕は部屋で荷造りをしていた。ファーストアルバムが成功し、ツアーも順調にきていたので、金銭的に余裕が出来た僕らは、夏のロードが終わると同時に、今までのワンルームアパートメントを出て、それぞれ気に入ったところを借りて暮らしていた。僕は実家とマネージメント事務所の、どちらからもあまり遠くない場所にあるアパートメントの、七階の部屋を借りた。リビングダイニングとキッチン、バスルームのほかには寝室が一つあるだけだが、一人で住むには十分な広さだ。
 リビングルームの床にトランクを広げ、僕は作業を始めた。一年近いロードであっという間にぼろぼろになってしまったトランク、荷物が増えてきたために、もうひとつ買い足した新しいトランク。二つのケースに着替えや旅行用品を詰めながら、気持ちが沈んでいくのを感じる。
 八月に、やっとツアーから解放された。なのにそれから四ヶ月もしないうちに、また始まってしまう。やっぱり年内にアルバム発売なんて、ペースが速すぎた。エアリィがあの時懸念していたように、突貫工事――短い期限の中で、急いで作り上げなければならなくなった。おまけに、あのプロデューサーだ。運が悪いとしか言いようがない。
 仮定にしか過ぎないけれど、もし九月からの予定が流れずに、そのまま超大物のスタジアムツアーに同行できていれば、今ごろあと一週間くらいで、ツアーが終わるはずだった。ロブが言ったように、その間にファーストアルバムのセールスも加速し、きっとプラチナディスクに届いていただろう。そうすれば次を急いで作る必要はなくなり、僕らは一、二ヶ月ほどゆっくり休養できる。セカンドアルバムも、じっくり作れたはずだ。あのプロデューサーがまたしゃしゃり出てくる危険性はあるけれど、春からはいつもコンビを組んでいるアーティストの新作製作があると言っていたから、別の人に当たる公算の方が大きい。そうすれば、すべてが違っていた。
 でも、仮定は仮定でしかない。八月でツアーが終わった時、喜ぶべきではなかった。あれがケチのつき始めだ、と思ったところで、今さらどうしようもない。現実は、恐ろしく不本意なアルバムを作らされた。僕らのプライドも、ズタズタに踏みにじられた。そしてこの作品は、僕らには明らかにマイナスだろう。『僕らのキャリア的には失敗すると思う』と、エアリィが予言したように。僕らの本質と、明らかにかけ離れたものだから、仮に市場の気まぐれで万一成功したとしても、それはバンドを消耗させ、だめにするだろう。昔、予期せぬバラードヒットによって、または本質と外れたポップなヒットアルバムによって狂わされたバンドが、いくつか消えていったように。それは成功の仮面をかぶった失敗だ。
 僕はため息をついた。またこれから新譜のツアーが始まるのか。プロモーションしなければならないアルバムがあの出来では、前回のツアー以上に辛いだろう。デビュー作は少なくとも、自分のものだと言えた。演奏して感じる喜びもあった。でもこれは……。実際、一昨日、昨日とスタジオを借りて、リハーサルをした。前作の曲はもう百回以上やっているので、すぐに感覚は戻ってくるが、新作はやはり多少は合わせて演奏しないと、ぶっつけ本番というわけにはいかないからだ。しかし、比較的無事だった三曲を除いて、あとは数回やっただけで『もういいや』という感じに、全員がなってしまったようだ。それでも一応昨日はランスルーをしたものの、実質二時間もしないうちに終わりにしてしまった。これを、これからずっとやって行くのだと思うと、言いようのない憂鬱さを感じた。

 荷造り作業は、なかなかはかどらなかった。そこへ、携帯電話の呼び出し音が鳴った。僕は片手を伸ばし、電話を取り上げると、画面を確認した。ステラからだ。
 休みの間にしか、ステラと会う機会はない。最後に会ったのは三日前だった。ショッピングにつきあい、カフェテリアでお茶を飲み、恋愛映画を見て、ちょっと洒落たレストランで夕食。彼女の自宅近くまで送り、ステラが玄関に入っていくのを見届けて帰った。また今日も同じ誘いだろうか。
「会いたいの。出て来られない?」
 僕は一瞬考えた。ステラと一緒に過ごした方が、まだ気はまぎれるだろうか? もちろん彼女のことは好きだが、三日前のデートを思い起こすと、あまり強烈に会いたいという気分は起こらなかった。女友達のうわさ話も、恋愛映画も。
「今、ちょっと忙しいんだ。あさってからロードだからね。準備がいろいろあって。君から、こっちに来られないかい?」
「あら、だめよ。結婚前に男の人の部屋なんかに絶対行ってはいけないって、前から言われているんですもの。出発はあさってなのでしょう。わたしに会う時間もないほど、そんなに準備がかかるの?」
 その声には、いくぶんかの苛立ちと非難がこめられてるようだった。
「わかったよ。どこで待ち合わせる?」
「このあいだ行ったカフェは、どうかしら?」
「あそこかい? 僕はいやだよ。女の子だらけで、恥ずかしい。他にはないのかい?」
「それなら、あなたが決めて。どこでもいいから」
「そうだなあ……」僕はしばらく考えたあと、行きつけのカフェの名を挙げた。ちょうどおいしいコーヒーが飲みたいと思っていたところだ。
「わたし、そこはあまり好きではないの、雰囲気が。だから、いやだわ」
「じゃあ、クイーンズパークの正面ゲートは?」
「こんな寒い日に公園に行くの? 風邪をひいてしまうわ」
 僕はステラに聞こえないように、小さくため息をついた。
「じゃあ、良いよ。君の好きなところで」
「そう。それなら、あのカフェで三時ね。この間見た映画がとても良かったから、もう一度見たいの。五時十分からの回でいい? それまでお茶を飲んで話して、映画の後は、そのまま送ってもらえばいいわ。夕食は、今日はお家なのよ。だからそれまでに帰りたいの」
「ああ……わかった。じゃ、またあとで」
 僕は携帯電話を床に置くと、再び気の乗らない作業に取り掛かった。

 僕は約束の時間より、十分ほど早く店に着いた。でも、ここに男一人で入るのは勇気がいる。店のドアはレースのついた花模様のカフェカーテンで飾られ、中は女の子で一杯だ。花模様のテーブルクロスと壁紙、フリルのついたピンクの花柄カーテン、ごてごて飾りのついた食器、甘ったるいケーキとパイ、薄いコーヒー。店に流れるポップ音楽。僕はどうも、ここは好きになれない。内装からしても女の子に人気の店らしく、たまに男がいると思ったら、僕のように彼女に引っ張られて入らされた人ばかりのようだ。そこに一人で入って、もしステラがまだ来ていなかったら、彼女が来るまでの間、ひどく居心地の悪い思いをしそうだ。
 外からは中の様子は見られないけれど、まだステラは来ていない公算が大きい。彼女はたいてい、待ち合わせ時間ちょうどか、少し遅れてくる。僕は通りの反対側に行き、店のドアが見えるところに立って待っていた。案の定、待ち合わせ時間を少し過ぎた頃、ステラがやってきた。いつものようにパーレンバーク家の車で、その店の前まで送ってもらったようだ。車が走り去ってから、僕は足早に近づいてステラに声をかけ、一緒に店に入って行った。
 ステラは白いブラウスの上に紺色のモヘアセーターとグレーツイードのロングスカート、髪の毛を肩にたらし、片方だけを少し結んでリボンをつけたスタイルだった。まず小さなバッグを、それからコートをきっちりたたんで足元の荷物かごに入れると、やってきたウェイトレスに、「レモンパイと紅茶ね」と言う。僕は少し小腹がすいていたので、何か食べたかったが、ここは甘いケーキしかない。仕方がないから、コーヒーとチーズケーキを注文した。
 ステラは熱心な様子でしゃべり始めた。学校生活のこと、仲良しの友達とその彼氏のこと。話の合間にレモンパイを上品に食べ、紅茶を飲みながら。そして時おり思い出したように「またしばらく会えなくなるのね。寂しいわ。早く帰ってきてね」と、ため息をつく。
「ああ……」僕はチーズケーキをつつきながら、頷いていた。彼女の話の合間に、「へえ」とか、「そうだね」と適当に相槌を入れていたが、ちゃんと聞いていたかどうかは怪しい。会話の内容をわりと正確に記憶できるのが自慢の僕でも、ステラがどんな風にしゃべったのか、具体的にはどういう話題だったのか、ほとんど覚えていないのだから。  一時間もたたないうちに、ステラも僕があまり身を入れて聞いていないのを、感じはじめたのだろう。話の間に長めの沈黙を入れ、僕の反応をうかがうように、じっと見てくるようになってきた。もっと何か言わなきゃな──その視線を感じるたびに、僕もそう思うのだけれど、何を言っていいか、気のきいた会話は思い浮かばない。そんな状態がしばらく続いたあと、ステラはついに言葉に出して言ってきた。
「ねえ、ジャスティン。わたしの話をちゃんと聞いている?」
「えっ、聞いているよ、もちろん」僕は頬杖をつくのをやめ、微笑してみせた。
「それなら、わたしの話は、つまらないの?」
「そんなことはないよ」
「わたしといても、楽しくないの?」
「そんなこと、あるはずないじゃないか。楽しいよ、すごく」
「楽しそうには見えないわ」ステラは首を振り、とがめるような視線を投げた。
「それに、あなたからは何も話してくれないのね」
「だって、仕事の話は君がいやがるだろう?」
「仕事の他に、あなたの話はないの? 趣味とかお友達とか」
「でも、僕は仕事と趣味が同じだし、友達もバンド仲間だからね」
「あなたって、友達が少ないのね、ジャスティン」
 その皮肉に僕は肩をすくめ、微笑しながら返した。
「そうだね、僕はたくさんの人と付き合うより、数は少なくとも本当に気の合う友達が欲しいほうだから。君だって、そうじゃないのかい、ステラ。君の親友はメアリ・デュバリエさん以外、いないようだしね。サンディ・ニコルスさんや、カレン・パーマーさんは友達ではあるけれど、君自身はあまり彼女たちを好きじゃないような感じを受けるんだ」
「そんな言い方はひどいわ、ジャスティン。わたしはそんなつもりはないわよ。サンディやカレンだって、大事なお友達だわ」
「それなら悪かった。僕の思い違いだね。でも親友が一人だって、恥ずかしいことじゃないと思うんだ。むしろ、それだけ親密なんだろうと思う。僕は、たぶん中間は取らない方なんだ。親友か、知り合いか。だから相対的に、友達の数は少なくなってしまう」
「どうしてあなたは、普通の、ただのお友達という考え方が出来ないの?」
「うーん。どうしてなんだろう。ただの友達は、僕にとっては、ただの知り合いにしか思えないんだ。その辺の線引きって、人によって違うんじゃないかな。それで僕は、バンド仲間しか親友がいない。だから彼らの話をしようと思うと、君は仕事関連だと受け取ってしまうだろう? だからできない。それだけのことさ」
 ステラは何か言いたげに口を開きかけたが、すぐにつぐみ、少しいらだたしげなしぐさで首を振った。すっかり冷め切っているだろう紅茶を口に運び、カップを置くと、再び問いかけてきた。「それなら……スポーツは好き?」
「野球やホッケーやバスケットボールは、人並み程度には好きだよ。テレビでブルージェイズやメイプルリーフスの試合をやっていれば、気が向けば見るし、ラプターズは三年前、バスケットサークル全員で試合を見に行ったこともある。でも、君はスポーツに興味はないんだろう?」
「ええ」
「だったら……」
 言いかけた僕をさえぎって、ステラは首を振った。
「いいえ、それはどうでもいいの。わたしはただ、あなたにお話をしてほしいのよ。さもなければ、わたしの話をちゃんと聞いて。わたしは、もっと楽しくお話がしたいのよ」
「ああ。わかっているよ。ごめん」
 思わずもれそうになったため息をかみ殺し、僕もカップを取り上げた。二杯目のコーヒーだが、もうほとんど中身がない。僕はカップを下に置き、そこに残ったコーヒーの残骸を見つめた。不規則な模様になった茶色の液体に、小さな粉がたくさん浮かんでいる。このコーヒーの残り模様で運勢を見る占いがあると、ロード中にミックが言っていたな。いや、それは、今は関係ない。ステラにその話をして、仮に興味を持ってくれたとしても、詳しい内容を尋ねられたら僕は答えられないから、話はそこで終わってしまうだろう。きっと、『知らないのなら、言わないで』と、怒られるだけだ。
 なんと言ったら良いのだろう。以前はこんな風でなく、会話は尽きることなくあったのに。いや、良く考えてみたら前から、もっぱら話していたのはステラだが、僕ももっと熱心に彼女の話を聞き、自分の意見や体験なども話していたような気がする。何か言わなければ。気のきいた会話はないものか――そう切望する時に限って、何も浮かんでこない。そもそも話が弾んでいる時には、そんなことを思うはずもないのだから。
 沈黙が気まずいものになりかけた時、不意に僕らの頭上で声がした。
「あの……すみません。お話中」
 少し驚いて見上げると、十代半ばとおぼしき三人の少女たちが、間仕切りになっているプランターの上から僕らを見ている。その中の一人が、いくぶんおずおずとした口調で言ってきた。
「あの……失礼ですけど、エアレースの、ジャスティン・ローリングスさんですよね」
「あ……ああ、そうだけれど」
「わあ、やっぱりそうだわ!」彼女たちは急にはしゃいだ声を出した。
「そうじゃないかなって。プライベートなのに、失礼だとは思ったんですが……あの、わたしたち、大ファンなんです。サインもらえませんか?」
「ああ……いいよ」
 僕はいくぶん当惑しながらも、差し出されたペンを受けとり、ノートやTシャツにサインをした。どの曲が好きだとか、コンサートを見に行ったとか、新しいアルバムに期待しているとかの話に、「ああ」とか、「ありがとう」と相槌を打ち、名前を入れてくれというリクエストにも答え、握手もした。ロード中や外に出ると、たまにこういうこともあるから、それほど抵抗は感じなかった。途中、「やっぱりそうなのね!」とやってきた別の一団にも同じ事をし、一通りの儀式が済むと、彼女たちは自分の席へ帰っていく。
 と同時に突然、がたんと激しく椅子を引く音とともに、ステラが立ち上がった。
「わたし、もう帰るわ!」
 彼女の頬は紅潮し、目は今にも涙がこぼれそうに潤んでいた。手がかすかに震えている。
「どうしたんだい?」
 僕は驚きながら、反射的にコートと伝票をつかんだ。とりあえず、出たほうがいい。ステラは明らかに怒っている。ここで引き止めて言い争いにでもなったら、とんだ見世物だ。
 ステラはコートを羽織ると、バッグを取り上げ、すたすたと出口に向かって歩いていった。僕も急いで会計を済ませ、後を追った。通りの途中で、やっと追いついた。
「どうしたんだい、ステラ。なぜ急に怒ったりするんだい?」
「あなたには、わからないの?!」ステラは僕を見ないまま、詰まったような声で言う。
「ああ、ファンの子たちに、声をかけられたことかい?」
「そうよ!」
 彼女は僕の方に向き直った。頬の紅潮が顔全体に広がり、まつげの先に涙が光っている。
「わたしとデートをしているのに、どうして他の女の子に愛嬌を振りまく必要があるの? あの子たちもあの子たちよ! 邪魔だっていうことぐらい、わからないの? あなたはちゃんと断ってくれると思っていたわ。今はプライベートなのだから、邪魔をしないでって。なのにサインや握手なんかして。わたしの話はろくに聞いてくれもしないくせに、あの子たちにはニコニコして、『ああ、ありがとう』なんて言うのですもの。あんまりだわ!」
 だんだん声のトーンが甲高くなっていった。道を歩く人たちが、チラチラと見ていく。
「ともかく落ち着いて。少し歩こう」
 僕はステラの肩に手を回し、歩かせた。彼女は最初振り払うようなそぶりを見せたが、それほど強くはなく、しばらく無言で歩きつづける。どこかで落ち着いて話をする必要があるな。あまり人に聞かれないところで――そう思いながら、僕は歩いていた。
「わたし……もう、家へ帰るわ」
 ヤング通りとの交差点まで来た時、ステラは僕の手から身を翻して、抜け出した。
「じゃあ、送るよ。もう少し先の駐車場に車を停めたから」
「わたし、地下鉄で帰るわ。駅がそこにあるもの。わたしだって、一人で地下鉄に乗れるのよ。バカにしないで。あなたに送ってもらわなくてもいいわよ。どうせ家までは来られないのでしょうし」
 その言葉には、はっきりとした棘があった。僕は少しむっとした。
「君がそうしていいなら、家の前まで堂々と送っていくよ」
「それは困るわ。だから、送ってもらわなくてもいいわよ。向こうの駅についたら家に電話して、車で迎えに来てもらうわ。どうせ、あなたは忙しいのでしょうし。お邪魔して、ごめんなさい!」
 皮肉たっぷりな口調で言うと、彼女はどんどん地下鉄駅の階段目指して歩き始める。僕は二、三歩追いかけて、立ち止まった。
「勝手にしろ!」思わずそんな言葉が漏れた。僕は小さく地面をけりつけ、駐車場に向かった。

 でも、やっぱり彼女を一人で帰したのは、まずかったかもしれない――怒りがさめると、そんな思いがわいてきた。あれじゃ、ケンカ別れだ。ステラと付き合い始めて二年半で、初めてのケンカだ。上品なお嬢さんだと思っていた彼女が、あれほど怒りをあらわにするなんて、意外だった。でも、怒らせたのは僕だ。ああ、夏まで続いたロードの精神的な疲れを、まだ引きずっているのだろうか。それとも、ストレスだらけだったセカンドアルバム製作の影響か。その不本意すぎるアルバムのプロモーションツアーを、これからしなければならないという気の重さか、いや、たぶんその全部のせいで、僕も少し精神的に疲弊し、余裕がなくなっていたのかもしれない。ステラの話に身をいれて聞けなかった、僕が悪い。会えない間に、僕に話したいことがたくさんあったのだろう。このあいだのデートでも、しゃべりきれないことが。それなのに生返事ばかりされては、ステラが怒るのも無理はない。
 アパートメントの部屋に帰った頃には、そう冷静に分析できた。ステラに謝ろう。彼女の機嫌を直さない限り、僕の言い分を理解してもらうことも難しいだろう。とはいえ、彼女からかけてきてくれなければ、僕から連絡は出来ない。パーレンバーク家の電話は相変わらず、僕の番号からの発信をシャットアウトしたままだ。ロードに出るまでに、ステラから連絡してきてくれればいいが。僕はため息をつき、再び旅の準備に取り掛かった。

 翌日のお昼頃、再び電話がかかってきた。画面を見て、ほっと安どのため息が漏れる。ステラだ。
「ジャスティン、わたしよ」いつものトーンでなく、かといって怒っているふうでもなく、感情を押さえたようなしゃべり方だ。
「ああ、ステラ! 良かったよ。かけてきてくれて。あのままロードに行ったんじゃ、僕も後味が悪いからね。君に謝りたいと思って。昨日はごめんよ。君の話をちゃんと聞かないで。それに、一人で帰してしまって」
 ステラは、しばらく何も言わなかった。あまりに沈黙が長いので、『どうしたんだい? まだ怒っているのかい?』――そう聞こうとした瞬間、彼女は言った。
「今から、そこへ行ってもいいかしら?」
「えっ!」僕は思わず携帯電話を落としそうになった。
「そこって、ここへ? 僕の部屋へ、かい?」
「ええ」
「だって、男の人の部屋なんかに絶対行ってはだめだって、言われているんだろう?」
「ええ。そうよ」
「だったら……」
「迷惑なの? わたしが行っては」
「そんなことはないよ! ただ、ちょっと意外だったんだ。君はご両親から言われたことは守ると思っていたから……」
「そうよ。だから、誤解しないで、ジャスティン!」ステラは厳しい口調で遮る。
「わたしはただ、人の目を気にせずに話せるところが、ほしいだけなのよ。誰かに邪魔をされたりせずに、お話できる場所が。それ以上の意味なんかないわ。あなたのことも、紳士だと思っているわ。たとえ、ロックミュージシャンでもね」
「僕だって、妙な下心なんてないさ。君は誤解しているよ。ロックミュージシャンが全員自堕落なわけじゃない。どんな職業についたって、僕自身が変わるわけじゃないしね。君が紳士でいてくれっていうなら、少なくとも狼にはならないって約束するよ。君のいう紳士には、なれるかどうかわからないけれどね」
 まずい。つられて喧嘩腰になりかけている。僕は一呼吸おき、冷静になろうとつとめた。
「来てくれるのは大歓迎だよ。でも、場所はわかるかい?」
「地下鉄の駅までなら。ウェルズリーよね」
「そうだよ。そこから近いんだ。駅まで迎えに行くよ。今から出るのかい?」
「ええ。もう少ししたら。家の車でこっちの駅までは送ってもらうわ」
「そう。じゃあ、一時間はかからないね」
「電車がすぐにくれば、そうね。四五分くらいだと思うわ」
「わかった。その頃に駅へ行っているよ」
「忙しいのに、ごめんなさいね」
 通話は切れた。でも最後の言葉は詫びというより、皮肉に聞こえた。僕の思い過ごしだろうか。ちょっと肩をすくめて電話をポケットに入れると、立ち上がった。この部屋は、あまりに雑然としすぎている。荷造りはもう終わったものの、たんすから取り出したけれどトランクには入れなかった服が、ソファの上に山積みになっているし、お昼に頼んだピザとコーラの残骸が、テーブルに置きっぱなしだ。家具にはほこりが積もっている。男の一人暮らしなんて、だいたいこんなものだろうが、ステラはきっとあきれてしまうだろう。リビングだけでも見苦しくなく片付けるのに、四十分で間に合うだろうか。
 簡単にほこりを払い、ゴミはまとめて袋に詰めて台所へ、他の荷物はみんな寝室に放りこんだ。こっちを使うことは、まずないだろう。彼女が望まないなら、妙な気を起こさないためにも、ちょうど良い。

 地下鉄の駅に着いた時には、連絡が来てから五十分近く過ぎていた。急いで駆けつけたけれど、まだステラは来ていない。少なくとも待たせたと文句を言われることはないわけだ。僕はいくらかほっとし、ステラが来るのを待った。
 十分近く改札前で待っているうちに、またもや声をかけられた。
「あの……もしかして、エアレースのジャスティン・ローリングスさんですか」
 十代後半と思しきカップルだ。女の子のほうが、嬉しそうな表情で僕を見ている。僕は肩をすくめたいのを我慢し、軽く微笑して答えた。
「ああ、そうだけれど……」
 それから後は、お決まりのコース。でも間の悪い時には、こんなものだろうか。握手している時、ステラが改札から出てきた。彼女はすぐ僕に気づいたようだが、こっちへ来ようとはせず、少し離れたところからじっと見ている。
 僕はファンの二人と別れてから、ステラを迎えに行った。
「遅かったね」考える間もなく、そんな言葉が飛び出してきた。
「すぐには出られなかったのよ。電車もすぐに来なかったし」
 ステラはちらっと僕の背後に眼をやりながら、小さく首を振った。
「あなただって、ファンサービスが出来て、良かったではないの」
 その口調には、明らかに皮肉が混じっているようだ。
「君が遅れなきゃ、僕だって仕事はなかったんだよ」
 思わず皮肉で返してしまった。まったく、これでは仲直りなんて至難の業だ。
「ともかく行こう。落ち着いて話し合いたいんだ」
「ええ」ステラは、かすかにため息をついたようだった。

 僕のアパートは、この駅から近い。歩いて五分ほどだ。その間、ステラはほとんど何も言わなかった。ただ無言で、やや下を見つめて歩いている。エレベータを上がり、部屋のドアを開けて中に招き入れると、少しおずおずとした足取りで入ってきた。コートを脱いで、玄関にあるクロゼットにかけると、居間へ向かう通路で立ち止まる。僕は軽く彼女の背を押し、部屋の中へ入れた。
「そこへ座って」と促すと、彼女はソファの隅っこに浅く腰掛けた。コートの下は薄いグレーのセーターと紺系タータンチェックのジャンパースカート、黒のウールタイツという、普段着に近いようなスタイルだ。髪もそのまま肩に垂らしている。ステラは落ちつかなげに、部屋の中を見まわしていた。
「何か飲むかい?」自分も座る前に、僕はきいた。
「ええ……もし、できたら。でも、何があるの?」
「ジンジャエールとコーラしかないな。コーヒーか紅茶がいいなら、いれるけれど。でも僕は、あまりいれ方はうまくないんだ」
「冷たい物は飲みたくないわ。外は寒いのですもの。紅茶で良いわ」
「わかった」
 台所へ行くと、ティーバッグで紅茶をいれて持ってきた。それから少し距離を置いて、僕もソファに座った。ステラはカップを取り上げ、一口飲んだあと、すぐ下に置いた。
「ちょっと薄いわね、この紅茶」
「ごめん。どうも僕は、いれ方の加減がわからなくてね」
 僕は苦笑しながら、一口飲んでみた。たしかに少々薄い。ティーバッグを取り出すのが早すぎたか。
 しばらく沈黙した後、ステラが再び口を開いた。
「思っていたより広いわね、あなたのアパート。でも、少し殺風景だわ。絨毯も敷いていないし、絵や置物や花も飾っていないのね。男の人の部屋って、みんな、こんなものなのかしら」
「そうなんじゃないかな」僕はちょっと肩をすくめた。
 それからしばらく、また沈黙。今度は僕が話し始めた。
「昨日はごめん」
「ええ……」ステラはうつむき、あいまいに頷く。
「まだ怒っているのかい?」
「駅に着いた時には、正直言って、ちょっと不愉快だったわ。ああ、またわたしの知らないジャスティンがいるわって思えて」
「君の知らない僕?」
「ええ。エアレースのジャスティン・ローリングスさんがね」
「えっ?」
「そのあなたも、あなたには違いないのよね。でもわたしには、ミュージシャンとしてのあなたは、とても遠いわ」
「どうして、そんなことを言い出すんだい?」
「いえ……前から、そう感じていたの。あなたがお仕事を始めてから」
「君は賛成してくれただろう? 僕がミュージシャンになるのを」
「賛成したわけではないわ。ただ、あなたが夢中になっていることだから、その夢を追いかけたいという気持ちも、わかるというだけよ。あなたがあまりに熱心だったから、反対してはかわいそうと思えただけなの。でも正直に言えば、わたしはあなたに大学へ行ってもらって、お医者さまになって欲しかったわ。そうすればパパやママに、こんなにあなたとのお付き合いを反対されることもなかったでしょうに」
 いきなりそう言われても困る。と同時にショックだった。ステラはわかってくれていると思っていたのに。
「そう。だったら、その時に言ってくれれば良かったのに」
「反対って言ったら、あなた、思いとどまってくれた?」
「いや……」一瞬考え、僕は首を振った。「悲しくはあっただろうけれど、やめはしないと思う。決心は固かったからね」
 ステラは小さくため息をついた。再びカップを取り上げ、口はつけずに、また下に置く。
「そうでしょう。あなた、あの時にも、そう言ったわよね。わたしが反対しても気持ちは変わらないけれど、できれば賛成してもらいたいって。それなのに、わたしに何が言えて? いやって言ったら、あなたを失いそうで怖かったのよ。それにわたし、その頃にはミュージシャンの現実を、良くわかっていなかったの。去年の夏から、すべてが変わってしまったわ。仕事が始まってしまうと、何ヶ月もずっと会えない。パパやママには、あなたと付き合うのを禁じられてしまったし、離れている間は声も聞けない、手紙ももらえない。今年の卒業式にも、卒業パーティにも、あなたは来てくれなかったわ。わたしの卒業式なのに。お友達はみんな、ボーイフレンドが来てくれていたのに、あなたはお仕事で、ヨーロッパへ行っていたのですものね。それに、やっとお休みが取れて会えても、あなたはだんだん以前とは変わっていってしまったような気がして……」
「ああ……悪かったよ。仕事のストレスを持ち込んで」
「忙しいから、疲れているのよね。そうわかろうとはしたわ、頭では。でも、心までは納得できないの。なぜなの。あなたは、まだ十八才でしょう。普通の大学生さんだったら、こんなことはないはず。なぜミュージシャンなんてややこしいものになっているのかしらって、イライラしてしまうのよ」
 僕の選んだ道だから。そう言おうとしたが、やめた。その後に、どう続けたら良い? そんなことを言われても困る。それが正直な気持ちだけれど、平行線になるだけだ。
「それに、わたし以外にあなたのことを好きな人がいるのは、あまり良い気分ではないわ。昨日、あなたがファンの女の子たちと接しているのを見て、本当にショックだったのよ。なぜあの娘たちがジャスティンの事を知っていて、あんなに親しげに話しかけてくるの? なぜ握手なんかして、笑いかけられたりする権利があるの? あなたはお仕事で、ああいった女の子たちに、たくさん会っているの? その子たちと話したりサインをしたり、握手をしたり一緒に写真を撮ったり……いいえ、もしかしたら、もっと汚らわしいことも……そう思ったら、めまいがしそうだったわ。あなた、ミュージシャンになる時に、約束してくれたわよね。ほかの女の子たちと、べたべたしたりしないって。でも昨日のあなたを見ていて、信用できなくなったわ。それに、ロックミュージシャンなんか信用してはいけないって、パパはいつも言っているの。あの人たちはろくでもない人種だ。浴びるようにお酒を飲んで、悪い薬を使って、毎晩のように違う女の子と……」
「冗談じゃない! そんなことはしてないさ!」僕は思わずソファから立ち上がった。「そんな偏見を真に受けないでくれ、ステラ。君のお父さんの言うロックミュージシャン像は、たしかに典型的なイメージかもしれない。でも、全員がそうだなんて思って欲しくないな。まじめなミュージシャンだっているよ。僕らだってそうさ。そりゃ、サインや握手や一緒に写真を撮ったりはするよ。それはファンサービスで、言ってみれば仕事の一種だからね。でもそれ以上のことは、絶対にないさ。身体だけの関係なんて、僕は大嫌いだ。君が信じようと信じまいと、それは本当だよ」
 ステラは黙って僕を見ていた。その顔は安堵でも苛立ちでもない、奇妙な無表情だ。
 僕はもう一度ソファに腰かけ、身を乗り出して続けた。
「それに、君は根本的に誤解しているよ、ステラ。ファンの女の子たちが僕を好きだと言ったとしても、それは現実の恋愛とは、何も関係がないことさ。彼女たちだって、きっと身近に本当に好きな男の子がいるだろうし、僕はそういう対象じゃないはずさ。君は芸能人にあこがれたことはないのかい、ステラ。もし経験があるなら、君にもわかるだろうに」
「わたしは、芸能人にあこがれたことはないから」
「スポーツ選手とか、偉人とか、なんでもいいよ。そういうことって、経験ないかい?」
 ステラは黙って首を振る。そしてカップを取り上げ、一口だけ飲んで、また置いた。
「でも、わたし……ギターを弾いているあなたのことを、すてきだと思ったわ。わたしたちが初めて会った、あのハイスクールのダンスで。だから、あなたに声をかけられた時には、恥ずかしかったけれど、うれしかったのよ。あなたのファンの子たちも、ちょうどそんな心理ではないのかしら。もしあなたがあの時のように、ちょっと笑ってあの子たちに声をかけたら、本物の恋に落ちたりしないのかしら」 「だから、そんなことはしないよ。僕には君っていう、ちゃんとしたガールフレンドがいるんだから。よその女の子に声をかけたり、誘ったりなんてするものか」
「でも……あの子たちは、わたしを軽蔑の目で見たのよ」ステラは突然、高ぶってきた感情を押し殺そうとしているような声を上げた。
「『あら、この人がジャスティン・ローリングスのガールフレンドなの? たいしたことないわね』って、はっきりそう言っている目だったわ。いえ、口に出してそう言われるのも聞いたわ。あなたは聞いていなかったの? わたしのことを『あのチビのぶりっこ女』『たいして可愛くもないくせに』とさえ言ったのよ。あんまりではなくて!」
「そんなことを言ったのかい? 気がつかなかったな」
 僕は憤りを感じたが、同時に本当に彼女たちがそう言ったのだろうか、ステラの思い過ごしか聞き違いでは、という思いも抜けなかった。高ぶった神経には、ちょっとした言葉も悪意あるものに聞こえてしまうことがよくある。それに、僕自身そんな言葉を聞かなかったのは確かだ。もし耳にしていたら、その場で抗議しただろう。
「でも君は僕にとって、もっともチャーミングな女性だよ。君の魅力のわからない奴が、なんと言おうとね。それに、君のことをかわいいと思う男は、僕だけじゃないはずさ」
 これは嘘じゃない。お世辞でもない。僕の本心だ。
 ステラはかすかな安堵の表情で、僕を見上げた。
「信じていいの、ジャスティン?」
「あたりまえだろ」
「わたしを今でも愛している?」
「当たり前じゃないか。どうして今でも、なんて言うんだい? 今も昔も同じだよ」
「同じではないわ」
「どうして?」
「あなたは、付き合い始めた頃のジャスティンではないの。ミュージシャンよ。それも、かなり人気のある人で。あなたは忙しくて、手を伸ばしさえすればなびく女の子たちが、周りにたくさんいて。パパやママがあなたのことを嫌いになったのも、あなたがロックミュージシャンだからだわ。もし医学部の学生さんだったら、今までどおり、あなたのことを好きでいてくれたと思うのに……」
 最後の言葉は、僕の胸に不愉快な針を刺した。思わず言葉が口から出てきた。
「好きになってもらわなくたって、けっこうだよ。僕という人間じゃなく、肩書きだけでしか人を判断できないような人たちにはね」
 ステラは一瞬驚いたように、激しく瞬きをした。みるみる頬が紅潮する。
「ひどいわ! パパやママをそんな風に言うなんて!」
「結局君は、パパとママが一番大事なんだね、ステラ」
 昂ぶる気持ちを沈めようと、出来るだけ冷静に言ったつもりだった。でもその言葉は、自分でも驚くほど冷酷に響いた。ステラはびくっと身体を震わせた。青い瞳が潤んで、涙がこぼれ落ちていく。彼女はかすれた声で口を開いた。
「なぜ、そんなことを言うの。ひどすぎるわ、ジャスティン」
 自分でも言い過ぎたとは思う。でも、同時にひどくうんざりしていた。結局ステラは僕に、どうして欲しいのか? 両親との密着ぶりは前から知っていたが、やきもち焼きだということまでは知らなかった。ちょっとファンの子にサービスしただけで、いちいち気分を害するのなら、僕が医師になったとしても、看護師の女の人や患者さんとちょっと親しげに口をきいただけで、にらまれるかもしれない。
「君はいったい、僕にどうして欲しいんだい、ステラ」
 強い口調ではないが、怒りと投げやりな気分が入り混じった響きが、彼女をさらにひるませたらしい。ステラは口を開きかけ、言葉を飲みこむようにすぐにつぐんだ。目を伏せ、しばらく黙ったあと、床に視線を落としたまま、早口に言う。
「わたしは……あなたにミュージシャンを辞めてもらって、もう一度大学の医学部に入って欲しいの。でもそれは無理なのでしょう?」
「ああ、無理だよ。そんなことは、絶対にできないさ」
「どうしても……?」ステラは目にいっぱい涙をため、訴えるように僕を見た。
「どうしてもだめなの? あなたが抜けたら、たしかに困る人はいると思うわ。それに、みなさん、あなたのお友達なのだから。でも……あなたがいなくても、バンドは続いていけると思うわ。メンバーチェンジなんて、普通にあることだもの。あなたの代わりの人は、きっといるわ。でもわたしには、あなたの代わりはいないのよ! それに大学できっと、新しいお友達も出来るわ」
「そう……つまり僕は、その程度の存在だと言うのかい、君は。いくらでも代わりはいると」
「そういう意味じゃ……そういう意味じゃないのよ」
「同じことさ。友達にしたってそうだ。いくらでも取り換えはきく、と。僕にとっての友達は、そんなに薄っぺらいものなのかい、君にとっては。君は僕に、僕の夢や希望、それに友達を捨てろって言うんだね。あっさりと。それが僕にとってどれだけの重みをもっているのかなんて、わかろうともしないで」
僕は怒りを押さえ、冷静になろうとはしていた。でもその抑制されたトーンが、よけい非情に響いたらしい。ステラは再び震えた。
「そういう意味じゃ……ないのよ」
「じゃあ、どういう意味なんだい? 君が言っていることは、そうとしか取れない。君は自分のことばかりで、僕のことなんてまったく考えてくれていないんだ」
 ああ、言ってしまった。この言葉だけは言いたくなかったのに――でも、思わず口から出てきてしまった。ステラは大きく目を見開き、しばらく僕を見つめていたが、もう一度大きく震えると、堰を切ったように声を上げた。
「わたしだって、同じことを言いたいわ! あなたにとってわたしは、その程度のものなの? わたしはあなたのバンドやお友達より、あなたにとって大事ではないのね! あなたも自分のことばかりで、わたしの気持ちなんて、まったく考えてくれないのよ! わたしだって……できれば、あなたの夢を応援したかったわ。こんなに長いこと会えなくて、パパやママにお付き合いを反対されるのでなければ……このままではいやなの! どうすればいいの!? どうすればわたしたち、元通りになれるの!? 去年の春までのわたしたちに……どうすれば!!」
 最後は振り絞るような叫びになり、彼女は激しく泣きじゃくり始めた。僕はただ見つめていた。目の前にいるステラが、手の届かない遠くに行ってしまったように感じられる。いつまで泣きつづけていられるのだろう。けっこうパワーがいるだろうに。漠然と、そんなことさえ考えている。
 激しい泣き声はしばらくのち、すすり泣きに変わった。僕は手を伸ばし、ステラの背中に触れた。
「どうしたらいいか、僕にもわからない。もう去年の春までの僕たちには戻れないんだ。僕は君の要求には、こたえられないから。君が望む時にはそばにいて、話を聞いてもいい。そうできるなら。でも、そのために音楽を捨てることは出来ないんだ。僕は君に、もっと理解してもらいたい。信じて待っていてもらいたい。でもそれは君にとって、とても飲めない要求なのかい、ステラ?」
「理解しようとしたわ……信じようとも……わかっているの。わかってはいるけれど……でも、何か月も離れていて、声も聞けないと、本当に寂しくて……あなたと今でも付き合っていることを、パパとママに内緒にしているのもつらくて……それに、あなたも前とは、少し変わってしまったような気がして……わたしとは、違う世界の人になってしまったようで……」
 返す言葉は何も見つけられなかった。僕は無言でステラの手を握り締めた。
 もうだめかもしれない。僕らはお互いに歩み寄ることが出来ない。僕はステラの望みを叶えてやれない。彼女も今の僕を受け入れることが難しいと言う。ステラを愛している、それはたしかだ。でも今のままでは、彼女を苦しめるだけだ。
 息詰まるような胸苦しさを覚えた。ステラも同じ思いを感じたのだろうか。目を伏せたまましばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「ジャスティン、わたし、どうしたら良いのかしら。わたしはあなたが好き。でも、あなたを好きになればなるほど、苦しくなるの。悲しくて、寂しくて……」
 僕はしばらく黙り、彼女の手をよりきつく握った。
「誰か他の人を、好きになると良いよ。いつも君のそばにいてくれて、君に優しくしてくれて、君の両親にも受けの良い男を」
「ジャスティン……本気で、そんなことを言うの?」
「ああ。それが一番、君のためになるんじゃないかと思うんだ」
 僕は床に眼をやった。ステラの顔を見る勇気はなかった。長い沈黙が落ちた。耐えがたいほど、長い間。やがてステラが静かに口を開いた。
「そうね……それがいいのかもしれないわ。わたし……別の男の人から、交際を申しこまれていたのよ。いい人なの。パパの知り合いの人で、時々わたしの勉強も見てくれている、大学院生さんよ。今年の卒業パーティにも、一緒に行ってくれたの。あなたと付き合っていることは、その人にも内緒にしていたから、エスコートしてくれる人がいないと言ったら、僕でよければと。でも交際するのは断っていたのよ。今までは」
「その人は、君のご両親にも認められているのかい」
「ええ。もともとパパとお仕事の関係で来られる方の息子さんだから。わたしにふさわしい人だ。その人と付き合えばいいのにと、いつも言われていたのよ」
「そう……」僕は言葉を見つけることはできず、ただ頷いた。ステラの手を握ったまま、目を上げた。彼女もうつむいていたようだったが、顔を上げる。僕たちはしばらく、無言で見つめあった。ステラの青い瞳から涙が一筋、頬を伝っていく。
「ごめんよ……本当に」僕は声が震えるのを意識しながら、それだけ言った。
「ええ……」ステラは頷いた。涙がもう一筋、糸を引いて流れ落ちていった。
「さようなら、ジャスティン……」
「ああ」僕は握っていた手を離した。
 ステラは無言で静かに立ち上がり、ドアへ向かった。
「家まで送るよ」
「いいわ、ここで」ステラは首を振り、玄関でコートを羽織った。紺色の上質なカシミアで出来たそのコートには、白い毛皮飾りがついている。フードを引き上げて頭からかぶると、彼女は出ていった。僕は後を追った。
「待ってくれ、ステラ。君を一人で帰すわけにはいかないよ」
「大丈夫よ。駅まで近いから。一本道ですもの。それに送ってもらったら、つらくなるだけだわ」
 彼女は首を振った。その声は震えながらも、精いっぱい気丈にふるまおうとしているかのように響いた。ステラはそのまま廊下を歩いていった。僕は少し距離を置いて、あとをついていった。ステラは一度も振り返らなかった。エレベータホールで立ち止まり、やってきたエレベータに乗り込む。ドアが閉まり、彼女の姿は見えなくなった。
 僕はしばらくホールにたたずみ、彼女が消えたドアを見つめていた。
 何を期待していたのだろう。
「わたしが悪かったわ!」と、ステラが言ってくることを?
「あなたのお仕事を理解できるように、がんばるわ。文句は言わないから」
 そう言ってくれることを? ステラは戻って来なかった。
「わかったわ。わたしは別の人を選ぶ」そう言って、行ってしまった。
 僕は深くため息をつき、部屋へ戻った。テーブルの上には、紅茶のカップが残っていた。中身がまだ半分以上入っている、赤と金のラインが入った白いティーカップ。そのふちに、うっすらとローズピンクの口紅の跡がついている。ステラが座っていたソファに、かすかにコロンの残り香がした。クッションの上についた、一筋の金髪──。
「ステラ」我知らず、僕は彼女の名を呼んでいた。なぜ行ってしまった。いや、他の人を好きになれ、なんて言ったのは僕だ。彼女の幸せのため、などとえらそうなことを言って。本当は別れたくなかった。そういえばステラは逆に僕に歩み寄ってくれるのでは。そんな甘い期待が心の底にあった。あきれるくらい、おめでたい奴だ。
 僕はキャビネットをあけ、ウィスキーを取り出した。一週間ほど前に実家へ行った時、兄ジョセフが旅行の土産として、「いい酒が手に入ったんだ。少し早いが、来年十九歳の誕生日まで、飾っておけ」と、贈ってくれたものだ。僕も誕生日が来たら飲もうと思い、そのまま飾ってあった。その壜を掴み、封を引き剥がすと、そのままがぶっと飲んだ。
 三ヶ月ほど早く初めて飲んだ酒は、この上なく苦い味がした。




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